思惑の違い

先日、紙巻きたばこをグローに替えたという人が人間ドックを受診されました。最近は、電子たばこや加熱式たばこがコマーシャルに乗っかって急速に普及しており、乗り換えした愛煙家も多いようです。「私は数ヶ月前からたばこはやめました」と胸を張って云う御仁。「今はもっぱらアイコスです」とか「グローにしました」とか悪びれずに云い足すのは、それが「たばこではない」(紙巻きたばこよりはるかに健康的で、周囲の人にも迷惑をかけていない)と信じているからでしょう。

医療者は、その理屈がほぼ否定されていることを知っています。日本禁煙学会などから論破データが続々と紹介され来ているからです。くだんの受診者にそれを知らせてあげようと思って、結果説明の前にインターネットで『グロー』で検索してみました。ところが、驚いたことに、否定的な記事が1つもヒットしません。いかに害が少ないか、試してみたけど問題なさそうだ…そんな記事だけが出てきます。いやそれはおかしい、世界的にも医学的に完全に論破されていることはわかっているのだから、普通に検索したら、せめて肯定的な記事と同数の否定的な記事があって当然である。

明らかに作為を感じました。検索の一覧の順番はどれだけ記事を読んでいるか、ヒット回数の順だから、何度も読みに行くと上の方に上がって行くと云うことは知ってはいましたが、ここまで極端だとちょっと怖い。最近は、何でもかんでもネット検索、医療情報を医療者自身もネット検索して確認している現代。しっかりしておかないと、医療者でもウソ情報を信じてしまいかねません。因みに、検索ワードに『グロー』だけでなく『日本禁煙学会』と付け足すと、今度は否定的な記事ばかり。これはこれで、なんか怖いです。

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水を飲まない

この1週間、一人の生活をしてみて分かったことがあります。私、独りでいると意外に水分を取らないんだなということ。毎日あれだけ頻回に起きていた夜間のおしっこがほとんどない。午後の仕事中にも何度も小便で抜けていたのにほとんど行かない。小便の色が異常に濃くて、血尿じゃないかと思うくらい。そんなに生活が変わった感じはしない。火を使いたくないからおかずはスーパーで惣菜を買ったけどご飯は自分で炊いたし冷奴や納豆がメインなのも前とは変わらない。独りだからといって酒の量が増えるでもなく減るでもなく、夜更かしするでもなく(テレビも見ないからする事がなくて、むしろいつもより早めに就寝)。でも、確かに毎日一本は消費していた2リットルのペットボトルが1週間もったから、水分を取ってないのは事実なのだと思います。

頑固な咳が続いて長いこと散歩ができず、雨が降って出られない日もあり、久々に出たらあまりの暑さに愛犬の方がへばって自ら近道を選択したりしたから、たしかに活動量が極端に落ちました。職場で無駄に歩き回っていたのも、風邪をひいた上に愛犬の下痢や妻の緊急入院などが重なるうちにどうでもよくなって動かなくなった。それは事実。だから喉が乾かなかったというのはわかるけど、その分汗のかき方も全然違うから、おしっこの回数の変化にはあまり関係がなさそう。

なんか、歳とって、独りの生活になったらこんな感じで気づいたら脱水症や腎不全に陥ったりするんじゃないかしら。世のお年寄りたちが救急車で連れて来られるたびに、「こんなになるまで喉が乾かなかったのかしら?」「 無駄にガマン強いからな」とか思っていたけれど、そんなんじゃないのですね。よほど意図的に飲まない限り、そこに水があっても喉が乾かないから飲もうとは思わな。実感。そんなことに気づいた感動よりも、自分がそんな年寄りになってしまったことのショックの方が大きいのであります。

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対岸の火事

「やっぱり、『対岸の火事』なんだよね。大地震のときもそれを強く感じたけれど、今回の病気の宣告を受けたときも、同じ事を感じたよ」と妻がしみじみ云いました。

東日本大震災のとき、心から痛ましいと思い節電にいそしんだけれど、結局は他人事だったことは、自分たちが二度の未曾有の大地震を経験してよくわかった。まさか自分たちにこんな災難が押し寄せるなんて考えもしなかったから、自分が生きるか死ぬかの思いで逃げ惑ったときに初めて東日本大震災の被災者の方々の気持ちがわかった、と。それと同じように、「質の悪くないがんだから大丈夫だよ」「手術なんて大したことないよ」などと客観的な目で友人や知人にアドバイスしていた自分が、いざその当事者になると、全然違う風景になって見えてくる。今からいろんなことを体験しなければならない。麻酔をかけられて手術を受けて、100%うまくいくとはだれも保証してくれていないし何が起きるかわからない。大きな傷ができてしかも一生ホルモン剤を飲み続けなければならなくなった、なんてことが自分に降ってかかるなんて、今でも信じられない。「あ、あれはなにかの間違いでした」って頭を下げられるのではないか?とかいまだに思ったりする。

そんなことを云っておりました。先日、職場のスタッフに話したら、「●●病院はすごく成績が良いらしいですよ」「大丈夫ですよ、あの組織型は大部分が静かだから」と冷静に、いとも簡単に受け流されました。そう、その程度の病気なんだよな、そんなことはわたしも知っている。でも、そんなことを云いながら去って行ったくだんのスタッフさんが、いざ当事者になったら、同じ事をさらっと云って軽い思いで手術を待つことができるのだろうかな、なんてなことを考えました。

本当は今日から入院して明日が手術の予定でしたが、妻は思いがけない違う病気で緊急入院してしまいましたから、手術は延期になりました。まだまだ何が起きるか分かりません。

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自律神経のこと

妻が甲状腺を患って、今度手術を受けることになりました。自覚症状は何もなくて、まったくもって青天の霹靂。激しい頭痛発作を起こして脳神経外科を受診してCTに何も問題がないことを確認し、その足で整形外科を受診して頸椎でもないことを確認したものの、「念のために一度は脳のMRI検査を受けておいた方がいい」と勧められたから家族健診のときに脳ドックを申し込んで、そのときの頸部血管エコー検査でたまたま甲状腺腫瘤が大きくなってきていることを指摘され、念のために専門医受診を勧められ、5年ぶりに受診した専門医で念のために行った針生検で悪性所見が発見されたわけです。

「最近、妙に蕁麻疹が出るのよね。これって、この病気と関係あるのかしら?」と先日、一緒にワンの散歩をしていたときに妻に云われました。もともとアレルギー体質ではありますが、最近はイヌの散歩ひもを強く握ったとかバッグのひもを握ったとか、そんなことで赤く腫れ上がるようになってきて、ちょっと尋常じゃないのだと。

もちろん、ホルモンの異常があるわけでもないし全然因果関係のありそうな話ではない、と専門家は思うのかもしれませんが、わたしはふと以前読んだ『心臓の暗号』(ポール・ピアソール著、角川書店)を思い出していました。身体中をパトロールしている自律神経がどこかでうごめいている体内の異常を見つけ出し、それを違う形で表現するというもの。悪性腫瘍がまだ細胞レベルで増殖していることを知らしめすために「心臓が泣いてる」と感じるいろいろなことが起きるとか。こういうことを考えると、妻の突然の頭痛や突然の尋常ではない蕁麻疹は、たしかに自分の体内から自分に発する警告灯だったのかもしれません。

「今度手術して、アレルギー症状が軽減するようなら、シグナルだったのかもしれないね」と答えました 。

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散髪屋で血圧管理

先日Medical TribuneのDoctor's Eyeで慶応大学の香坂俊先生が紹介していた<床屋で血圧は下がるのか?>はとても示唆に富んでいて面白かったです。アメリカからの報告で、52の理髪店に参加してもらい、高血圧を有する理髪店の常連客319人に対して血圧測定をし、理髪店で店主が紹介する薬剤師によって血圧管理をしてもらった場合、単に店主が生活習慣改善の指導や医師の診察予約をすることを促した場合よりも3倍も降圧効果が得られたというものです(N Engl J Med 2018; 378: 1291-1301)。参加した常連客は低所得者が多く、肥満や喫煙などの人も多くて普通の比較試験の対象に選ばれない様な人が多かったのも特徴だそうです。

このように、医者などその場に直接介在しなくても、信頼できる人(理髪師)の勧めがあって、その人のいる場所に専門家(薬剤師)が常駐して、直接管理してくれるならば、患者さんはきちんと治療を受けるのだということ。毎月必ず顔を出す理髪店が医療機関の出張所扱いになれればいいだけのことです。当たり前かもしれないけれど、「病気だから病院に行く」が事の始まりだと定義する限り病人は絶対に減らないのです。おそらくAIを駆使して自分でさせようとしてもうまくいかないと思います。もっとも、そんな出過ぎたお節介をする輩は絶対に法律が許してくれない。「何かあったら誰が責任を取る?」の答がないことに誰もが尻込みをするからです。

たしかに、地域の人間との信頼関係というのは、いろいろな理由を付けて病院に行きたがらない人たちの心を開かせてくれる大きな力を持っていますね。こういう人間関係がなくなってきて、利害関係と責任問題だけが表に出る社会をだれも望んではいないでしょうに・・・。お金を安く上げるために大量の店員が流れ作業でカットしてくれる店や評判のカリスマ美容師のいる店では、この研究は成立しないでしょう。医療は自然科学!と意地を張らず、”人情”が大事なアイテムだということを今一度再認識させてほしいなと思うばかりです。

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むっちゃ体力が落ちた

今夜、医師会の産業医研修会に行って路面電車で帰ってきました。最寄りの電停で電車を降りて自宅まで、いつもなら10分から15分のウオーキングコース。もうこの地に自宅を建ててから20年以上、街に出かける時にはいつも使っている電停までの行程です。

どうということもなかったこの道を、昨夜初めて「この道、遠いなあ」と思いました。別に、息切れするわけでもないし、所要時間がいつもより長くかかったわけでもないんですが、何か、歩いても歩いても前に進まない感じを実感しました。

10日ほど前に風邪をひいてそのまま頑固な咽頭炎、夜間咳嗽の激しさで眠ることもできず話すこともできずという状態から、抗菌剤や咳止めを処方していただいて昨日くらいからやっとこさ落ち着き始めたわけですが、それでなくても腱板断裂を起こしてからの2ヶ月間激しい運動をする気になれず、ゴルフの回数も激減し、続けていた筋トレや体幹トレーニングも取りやめにしているのに加えて、必ず毎日続けていた職場内のウォーキングもここ数日は全くやっていません(毎日早退していますし)。ワンの散歩すら、続く梅雨でまともにできていないのに・・・。

人間には”運動欲”という欲は存在しないから、できない理由を並べる限り絶対に運動はしなくなるし、それによって歳を取れば取るほどに筋肉は簡単に無くなっていく・・・あちこちの講演で云い散らしてきたわたしですが、いつの間にかその渦中の人間に自分自身がなってしまった、というおはなしです。

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睡眠薬と認知症

認知症リスクが高い睡眠時間は?~久山町研究

困った・・・「日本人高齢者において、『睡眠時間5時間未満もしくは10時間以上』『睡眠薬の使用』が、認知症や死亡の危険因子であることが示唆された。九州大学の小原 知之氏らが久山町研究での調査結果をJournal of the American Geriatrics Society誌オンライン版2018年6月6日号に報告」という記事がCareNetから配信されてきたんですけど。

睡眠時間のU字カーブは以前から分かっていたことなので別にいいんですけどね。「睡眠薬の使用が認知症や死亡リスクに及ぼす影響を調べたところ、睡眠薬を使用している参加者は、睡眠薬を使用しない1日睡眠時間5.0~6.9時間の参加者に比べ、認知症リスクが1.66倍、死亡リスクは1.83倍であった」というところ・・・。「最近の睡眠薬は依存性が生じにくいから積極的に服用して質の良い睡眠を取るように心がける方がむしろ健康的な生き方なんですよ」って説明してきたのに、それがウソだということになってしまう。「寝酒パターンになるくらいなら睡眠薬飲んだ方がいい」と云ってきたのに・・・眠る目的で寝酒する輩が増えてしまったら、本末転倒だよ~。

”睡眠薬を必要とする”という時点でバイアスがかかっているのだから、比較するなら”睡眠薬がないと良い睡眠を得られないけれど、がまんして睡眠薬を飲まないでいる”人としてほしい気がします。あるいは、”眠れないから睡眠薬を使わずに酒を飲んで寝る”という人との認知症や死亡リスクの比較を・・・かえって難しいのかしら。

でも、これが久山町研究だからこそ、データが一人歩きしそうで、ちょっとこわい。

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息を吸ってください。

外来の診察ではなく、住民健診でもなく、人間ドックの診察。

聴診器を当てて「息を吸ってください。吐いてください。息を止めてください」と云いながら呼吸音や心音を聴き取ります。

この時に、「息を吸ってください、吐いてください」というところを、「息を吸って」「吐いて」「止めて」と命令口調になることが時々あります。だって、まどろっこしいし、話していると音が十分聞こえないので自分の発する言葉は最低限にしたいから。

でも、その都度、気になるんです。なんかこの命令口調は上から目線の極みでしょ。病気で病院を受診しているわけでもないし、わざわざ高い金払って来てるお客さんにそんな偉そうな態度を取っても良いモノだろうか?と。そんなことを思うと、せめて何回に一回か(特に最後)は、「~してください」を盛り込むように心がけているわたしです。

謙虚でしょ。どっかの総理大臣や某大臣みたいに、何を云っても上から目線のしゃべり方になっても気にしていない(というか気付いてもいない)人は、何云ってるかすら分からないだろうなあ。

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なめられる?

医療系の投稿ページに、「機嫌のよい人は結局損をする」という項目がありました。たしかに仕事を頼むときは、機嫌よさそうな人や頼んだらすぐに引き受けてくれる人に声をかけてしまうのが当たり前だなと思います。うちの職場でも、アテンダントさんが急な仕事のお願いをするときに、「今忙しいんだよ!」「担当が決まっているでしょ!」と叱られる先生には声をかけづらく、結局声をかけやすい先生=頼んだらいつも引き受けてくれる先生に声をかけてしまうから、優しく引き受ける人ほど損をする、ということが問題になりました。そのために時間割を作って、どんなに忙しくても、その割り当て時間には断らずに頼まれ仕事を優先する担当、というのを作ったことがあります。今でもそれは続いているのでしょう。

頼まれやすい人は、断らない人、優しい人。決してなめられているわけではないけれど、いつも苦虫をかみつぶしたような顔をしているわたしよりも、いつもにこにこ温和な顔をしている先生の方が絶対に頼まれやすい(頼みやすい)。「それって、損だ!」から、頼まれないように不機嫌な顔をしておく方が得策・・・そんなことを思っていた時期もありますが、この歳になると、考え方は完全に逆になってきました。周りの人にどんな時でも声をかけられる、相談される、頼まれ事が多い、そんな人は、”なめられている”のではなく、”信頼されている”のであります。怖れられて声を掛けづらい人は、そのまま敬遠されてしまう。「ふん、それで良いんだもん。それの方が楽だもん!」とか強がってみてもそれはそれは寂しいモノ。日頃から上機嫌で鼻歌交じりの脇のあまい態度を取っておきたいものです。まあ、今までぶっきらぼうだったものが急ににこにこされても、ちょっと気持ち悪いけど・・・。

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ミルクチョコレート vs.ダークチョコレート

世の中、いろいろな研究テーマを見つけ出すものですね。

ミルクチョコレート vs.ダークチョコレート、視力に良いのは?

アメリカ、University of the Incarnate Word Rosenberg School of Optometry(Jeff C. Rabinら)の研究報告の紹介です(JAMA Ophthalmology誌オンライン版2018年4月26日号)が、短期間の血流改善や気分および認知機能を改善させるとされるダークチョコが視力ならびに大きい文字と小さい文字のコントラスト感度に対する短期効果もあるのかどうかを調べたそうで、若いボランティア男女に、ダークチョコレートとミルクチョコレートを別個に食べてもらい、1.75時間後に視力とコントラスト感度を測定して比較したそうです。

まあ、ダークチョコレートの方が有意に良くなったという結果には何の文句もありませんけど、ミルクチョコと比較されてもなあ。しかもその差は有意とは云え微々たるものの様で、結局、どんなチョコでも食べないより食べた方が良いということではないのかしら? 免許証更新の視力検査の時には直前にチョコを食っていくと良いのかもね(笑)

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京都の御仁はお茶がよろしい。

緑茶は口腔関連QOLに好影響~亀岡スタディ

口の中の健康に関連する生活の質について京都亀岡スタディ(亀岡市在住高齢者を対象としたコホート研究)を使って国立研究開発法人医薬基盤・健康・栄養研究所(南里 妃名子ら)が調べた結果によると、65歳以上のご高齢日本人の場合は、緑茶をたくさん飲むほど口の中が健康に保たれるのだそうです(European Journal of Clinical Nutrition誌オンライン版2018年5月23日号)。

コーヒーでは有意な相関は見られなかったのだそうですが、この自己申告調査って、コーヒーがブラックかミルク入りか砂糖入りかとか細かく分けてみたのだろうか? ま、わたしはコーヒーより緑茶の方が好きだから、問題ないんだけれど・・・。

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要するに病気やからね

『スポーツ心臓』って、要するに病気やからね。

本来の心臓機能では乗り越えられない負荷がかかってやむを得ず変化したものなのだから・・・プロスポーツ選手ならそれは”職業病”(チェーンソーを使う林業の方の『レイノー病』みたいなもの)だし、「今は止めたけど昔はバリバリのスポーツ選手やった」という人ならそれは単なる”後遺症”やん。

自分が運動をあまりしたことがない医者ほど、『スポーツ心臓』の単語を並べてもてはやして、「これはスポーツ心臓だから、健診の心電図検査で異常があると云われても気にするな」とか平気で云うけどね、スポーツ選手や元スポーツ選手は突然死することが多いのだから、少なくとも『スポーツ心臓』は自慢することでもないし、むしろ「心臓が普通の人より悪い」と思っていてほしい、というのがわたしの本心。

ま、凡人のわたしにとっては、所詮他人事ですけどね。

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経験値

AIを駆使した商品開発や自治体・企業とのコラボした取り組みが一気に加速度を増した感がありますが、どこか割り切りが要るのでしょうね。お店に入ってテーブルにスマホを置いただけで注文ができて、スマホで支払いも済ますから、店員と話をすることなく料理が食えるという飲食店の取り組み。人件費節約にもなるし店も客も便利だというけれど、スマホをテーブルに置いた時点でデータ全部抜き取られるんじゃないの?と心配する私。何よりもどんどん他人と話さない、関わらない社会に拍車がかかり、AIは人間としてのコミュニケーション能力を全て吸い取って行こうとしているのではないかと懸念する昭和なわたし。

トイレの空き状況がスマホでわかるから効率的で仕事に無駄がないというけれど、社内のみんなが使うのだから、空いたトイレに向かっているうちに近くの人が先に到達して無駄骨になり、結局最寄りのトイレで待っていた方が早かったりしないのだろうか。心配性の小市民のわたしなら、いつも気になってかえって仕事に集中できないかもしれないな。

そんな中、仕事で心電図読影などしていて思うのですが、AIはアナログな経験値という因子に本当に勝てるのだろうか。まあ、「そんな不確実な因子はそもそも要らないのだ、誰がやっても同じ結果でなければならないのが医療というものだ」という考えがAI理論の基本であることはわかる。そこにこれまでの積み重ねられたデータや読影者の読みグセまで学習すれば、AIは少なくとも診断という点では人間の医者に完全に勝利できる、という人はたくさんいるのだけれど…。本当はどうなのかしら。循環器疾患なんて、年齢や他の病気の有無や薬剤内服歴などだけでなく、本人のキャラクターや生活の仕方や今までの外来受診で何を云われたか、どんなことを云われてトラブルを起こしたことがあるのかとか、そんなことまで加味して診断するのだけど、そういうことを誰がAIに教えこむのかしらね。「医者の経験値」というのは、単にデータの蓄積や失敗経験の積み重ねだけじゃないと信じているんだけどね。ま、少なくともわたしが医者として働く間は関係ないから良いけれど、ちと老婆心ながら気がかりではあります。

 

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引き水

やらなきゃなと思うことは今もたくさん山積みなのに、相変わらず動けないでいます。毎日同じ書類を持って帰ってそのまま持って出勤する。30年もの間ずっと同じことを繰り返して来たのだけれど、おそらく最近の方がひどい。あまり以前ほど義務感に駆られていないからかもしれない。どこか、エキストラの仕事人生だからと思っているところがある。

結局、最初の第一歩が踏み出せない(とっかかれない)からいかんのだけれど。で、一旦終了宣言をしたこのブログだけれど、最近ヒマに任せて時々こうやって書いてみたりなんかする。毎日の義務じゃないのでとても楽。で、先日ちょこと気になっていたことをiPadにしたためていたら、なんかそれが引き水になって他の仕事も一気にできたりしました。

わたしの愛犬セイラは気分が乗らないと1日全くフードを食わなかったりするのだけれど、彼女になんかのキッカケを与えると一気に完食する。あれと同じかな。

だったらまたブログを始めたらいいんじゃない?という人もおりましょうが、そうはいかない。そんなことしてたら、またそればかり考えて毎日文章に追われる日々になってしまって、かえって他の仕事どころじゃなくなってしまうことぐらい、百も承知さ(笑)

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叱咤激励

昨年12月から携行している『まめ太郎2017』を3月初めに返さずに3ヶ月間のレンタル延期をしてもらったのですが、その期限が来ました。半年間の付き合いになりましたが、やっぱり愛人との蜜月は3ヶ月がいい。6ヶ月も寄り添っているとそこに居て当たり前の存在になるからワクワクしなくなる。

そして、なんかメリハリがないのは、単なる慣れだけではないみたい。保健師さんが週一回応援メールをくれていたのがなくなったことも大きく関係していることが実感できます。別に叱咤激励なんて要らないし、「それが仕事なんだから自分のことは自己分析してちゃんと対処できるさ」と思ってはいるのです。それはそうなのだけれど、叱咤も激励も要らないけれど、やはり“見てもらっている”ことが重要なのだとわかりました。自分で歩数を眺めて「今日は20000歩も歩いたぞ、すごいぞ!」とニンマリしたり、職場の更衣室に鎮座する体重計に載って「ヤバい!」とこっそり呟いて”もうひと頑張りする”という行動は楽しいのだけれど、それだけではやはり続かない。続けられるけれどどこか虚しくなる時があるのです。たしか、昔自分の腕にJawboneを巻いてやっていたころはそれでも良かったんだけど…これが歳というものかしら。

自己満足だけじゃない何かが欲しい。評価してくれなくていいから、あるいはとても陳腐な心のこもってないコメントでも良いから、「いつも見てますよ」的な眼差しが他にあるだけで(これはやはり身内ではない人がいい)値に対するモチベーションが変わってくるものなんだ、とわかりました。国の施策である特定保健指導(特保)の意義はここにあるのでしょうね。だから軽いメタボだからほとんど放置プレーになる“動機づけ支援”より、危険だから保健師さんがべったり寄り添ってくれる“積極駅支援”の方が行動変容するのは当たり前だ。

職場では先頭に立って掃除や整理をしてスタッフに一目置かれているらしい妻が家の掃除をほとんどしないのは、「しても褒めてもらえないから」「私は褒められて伸びるタイプなんだからね」と自ら云っていたのを思い出しました。

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ビッグマック

2018年5月14日放送のNHKニュース おはよう日本『世界のメディアザッピング』で、人生3万個目のビッグマックを食ったアメリカ人男性のニュースを取り上げていました。

「64歳のゴルスケさんは人生で3万個目のビッグマックを食べた。1972年に初めて食べてからほぼ毎日2個食べた計算だそうで、ビッグマックの箱もコレクションしている。ゴルスケさんはコレステロール値・血圧も正常で、2万個を達成したときより体重は減っているそうだ。」

というもの。これに対して、MCの和久田さんが「どういう生活を送ったらこれをこれだけ食べても健康でいられるのか、その秘訣を聞いてみたいですね」とコメントしていたのを見ながら思ったのですが、毎日ビッグマック2個だけを食って他にまともに食わなけりゃ、太ることもないだろうし、たんぱく質や野菜やミネラルもバランスよく入っているのだから、『さもありなん』じゃないのかしら。ビッグマックを貪り食う輩がビッグなカラダになってコテコテの生活習慣病になるのは、ビッグマックを食うのを引き金にしてさらにそれ以外の大量のファストフードやお菓子を食い続けるからに他なりますまい。

そして、何よりも、これがアメリカ人だということです。和久田さん、日本人がこんな食い方したら、こうはいかなかったかもしれませんよ。日本人なら、毎日大きなおにぎり2個と味噌汁を45年間食べ続けたら・・・というのと同じかしら。これなら想像つくと思います・・・これで太るはずがない。2年前の大地震の後にわたしが炭水化物(おにぎり)とスープばかり食っていたら短期間で10キロくらい平気で痩せたことでもお分りでしょう。

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踵(かかと)と階段

「若さを保とうと思ったら、平地のウォーキングを長々とするよりも坂道や階段を歩くのがいい」というのは、最近テレビでも云ってくれるのでだいぶ世間に浸透してきました。走るのが一番効果的なのだけど、歳を取ってくると簡単に膝を痛めてしまうし、走りすぎれば活性酸素が発生して返って歳を取るらしいし・・・と、15年前にバスケットボールで膝を痛めてまともに走れなくなっているわたしは、ちょっといい訳なんぞしたりする(笑)

「高齢者の筋肉は、前腕や大腿後部は十分保たれているのに対して、大腿前部(大腿四頭筋)や腸腰筋、大臀筋などが有意に減少しているのが特徴だ」ということを主張しているのはスロージョギングで有名な田中宏暁先生。この筋肉は走ったり坂を上ったりするための筋肉で、平地を歩くだけでは絶対に使われない筋肉群なのだそうです。だから自ずとこの筋肉を使う運動は限られていることになります。

で、もう一つ、骨粗鬆症対策。良いサプリを飲んで牛乳を大量に飲んで日光浴してても骨は若返りはしません。骨を軋ませる必要があるのです。特に踵の骨に刺激を与えないと骨の密度は減少する一方。ということで、踵から接地する運動として、先日のテレビ番組ではジョギングや大股歩きや階段昇降が勧められていました。ただ、毎日仕事中に何度も階段を使って移動するわたしの経験からすると、どうも階段を上るときには踵なんて使いませんね。病院の階段の板の幅からして、つま先から接地したとき踵は中空です。踵で地面を蹴る余地はありません。踵から接地してたら後ろに倒れてしまって危険。だから階段で踵に刺激を与えることができるのは下りる時だけだなと感じた次第。こっちもつま先から接地するけど意識すればその後踵を付けることはできる。

こういうことは理屈じゃありません。日頃から、地団駄を踏んで踵を踏み固める意識を持ちましょう。

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かかりつけ医(後)

(つづき)

インターネットやテレビ番組で、「それは大したことないから様子をみても大丈夫です」と云ってくれることは絶対にありません。同じ症状ならその中で一番重症な病気をまず鑑別診断として並べるからです。「それではないことを”専門医に診てもらって”確認してもらってください」といいます。もともとネットに医療記事を書いている医者もテレビ番組で解説する医者も必ずその筋の専門医であって、ここに普通の名もない町医者先生はまず呼ばれません。「最初に特殊な病気ありき」から論理が始まっていきますから、「いろいろ調べた挙げ句にこいつは特殊な病気ではなさそうだから、しばらくは私が見守ってあげましょう」と云ってくれる人を、この流れの中で見つけ出すのはまず不可能なのであります。

「どうもないのに医者とつきあうのはまっぴらごめんだ!」といわず、何かの病気をきっかけに受診したウマの合いそうな町のクリニックの先生をひとり、『かかりつけ医(ホームドクター)』として確保しておくことを、密かにお勧めします。

こんなことを書いているわたしにもそんな『かかりつけ医(ホームドクター)』がいません。眼科や耳鼻咽喉科や整形外科など、目的のはっきりしている病気の時はツテをを辿って受診しますが、内科的な病気は自分で判断して自分でどこを受診すべきか考えなければなりません。同業者に受診しても「あんた、自分でわかるやろ。自分で処方したらいいんじゃないの?」的な態度をとられるのが関の山・・・カラダに自信がなくなってきている昨今、早くわたしも家の近くに『かかりつけ医(ホームドクター)』を見つけ出さねば・・・。

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かかりつけ医(前)

久しぶりに書いてみました。殴り書きなのでちと文章はおかしいけれど・・・コラムの締め切り間近になると、相変わらずこうやって逃避する(笑)

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先日、人間ドック利用者の男性から相談を受けました。最近、胸痛発作がよく起きるようになり、運転中にガマンできないほどの痛みがあってたまらず救急外来を受診したそうです。後日改めて循環器外来で検査と診察を受けたけれど「特に異常はない」と云われ、自分は逆流性食道炎ではないかと思うが胃カメラは異常はなかった。その後も2、3分続く胸痛発作が頻回にあるので、どうしたものかと困っているというのです。

最近、よく思うのですが、こういう相談をする相手がいなくて”診療難民”になっている人が少なくありません。患者さん(病院受診しないと「患者」ではありませんが)は、自分の症状について自分でインターネットで調べたりテレビの健康番組でみた知識を元に、自分の病気を自分で想定して何科を受診すべきか目星を立てるようです。どうせ受診するなら優秀な、評判の良い専門医に診てもらいたいとばかりに大きな病院を受診しますが、専門医は自分の領域の病気でないことを確認すると、「他をあたってくれ」と追い返すだけ。それでは次にどこに行くべきか、また自分で調べて行ってみる。そして「うちの領域の病気ではなさそうだ」とだけ告げられて追い返される。その繰り返しの中で、途方にくれるわけです・・・いつの頃からか、患者さんもお医者さんも、みんながこんな感じの付き合い方になってしまいました。

むかしは、必ず子どもの頃から診てもらっている町のお医者さんがいて、とりあえず具合が悪いとその先生に相談に行って、それならどこどこの専門に診てもらいなさいと紹介状を書いてくれたり、それが問題なかったらじゃあ次はあっちの医者へ紹介しようとか、しばらくは自分が診てあげようとかして、患者さんの悩みが解決できるまでいろいろ思案してくれる医者がいたものです。それが『かかりつけ医(ホームドクター)』。核家族化して、専門医信仰が蔓延る中で町医者の地位が下がり、「どこにかかるかは病気に合わせて自分が決める」「分からなければネットで調べる」・・・そんな風潮が当たり前になってくるうちに孤独な難民患者が増えているのが現状。(つづく)

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健康長寿代謝制御研究センター

熊本大学の情報だったので、つい読んでしまった。

健康長寿の研究始動 熊本大医学部に拠点

「糖尿病やがん、認知症など関連分野に取り組む約20人の教授らが横断的な研究を進め、老化関連の病気の予防と治療を目指す」のだそうです。

健康長寿代謝制御研究センター

「健康長寿代謝制御研究センターでは代謝に着目した老化・健康長寿研究を推進することで老化メカニズムの解明や老化関連疾患の新たな予防法・治療法の開発を行い、健康長寿社会の実現に貢献します」

どうか、これが研究のための研究センターにならないことを切に期待します。予防法と治療法は全然次元の違う話だと云うことを、先生方がいつも意識してもらえると良いな、と思ってやみません。

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「空腹を楽しむ」

往生際が悪い!と云わないでください。先月発行された連載コラムの転載を忘れていましたので、最後にコピーしました。基本骨子は2016.8.10の記事です。

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「空腹を楽しむ」

人間ドックや健診の受診者さんは絶飲食で臨みますから、中にはイライラしたり覇気がなかったりする人がいます。以前は昼前になると「オレは朝飯食ってないんだぞ!早くしろ!」と怒鳴る人もおりました。でも、私は日頃から意図的に朝食を摂らない習慣なので、腹が減ってもイライラすることがありません。むしろ空腹の感覚を楽しんで生きている“変人”です。

朝食はきちんと摂るべきである。朝食を抜くと動脈硬化が起こりやすい、認知症になりやすい、感染症になりやすい、事故を起こしやすいなど、朝食抜きがいかに身体に悪いかについては昔も今もたくさんのデータが示されていますが、それを承知の上で自分のやり方を変えないのは、単なる偏屈爺なだけではなく、“空腹”な自分を楽しんでいるからです。マジメな私は、食べるべき時に食べないと身体に悪いと信じ、無理してでも食べていました。でもある書物を読んで、食べないことは決して悪いことではないのだと知った後、試してみたら恐れていたことなど何も起こらず、むしろ体調が良くなる一方だったのでそのまま続けている次第。別にこの行為を他の人に薦める気はありませんが、止める気もありません。

そもそも、ニンゲンとペット以外で、「定刻に食べる」という行動を取る動物はいません。腹が減ったら獲物を探し、やっとの思いでありついた餌でも腹一杯になったらもう食わない。“勿体ない”はニンゲンだけが持つ感情です。決まった時刻に規則的にきちんと食事を摂るのが身体に良く、偏食なく腹八分目に食べるのが寿命を延ばし、食事を抜いて空腹時間を作ると次の食事で吸収率が上がるから良くない、などと食事を理屈で唱え始めて以降、規則的にものを食うのが健康的だと信じられるようになり、一部の貧困層を除いて、芯から“空腹”を感じる機会がほとんどなくなりました。“空腹”は不健康であり、みっともないと思っている人すらいます。でも、“空腹”の感覚はとても重要です。朝食を摂らないと朝9時半頃から無性に腹が減り始めますが、その時に初めて自分の身体の真ん中に“胃”が存在することを意識できます。「お~今日もしっかり腹が減ってきたなあ」と感じられる時こそ健康である自分を実感でき、“胃”の存在に意識を持っていくと食べる時にその有り難味がしみじみ分かります。そして、何が本当の満腹感かを実感できるようになる。この感覚、真の“空腹”を知らない人には分からないだろうなあ~。

“空腹”を感じて悦に入るのは贅沢な道楽みたいなものですが、こんな楽しみ方を自分だけのものとして隠しておくのは勿体ないのでご紹介しました。保健師さんが怖いので朝食抜きは薦めませんが、一日一回は完璧なる“空腹”を体験して自分の身体と対話してみてください。皆さんも意外にクセになるかもしれません。

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番外:還暦祝いの挨拶(7/7)

(つづき)

わたしの考える予防医療はもちろん病気の早期発見ではありませんが、病気にならないように努力するのが予防医療だとも思いません。病気なんかに右往左往しないですむ生き方をしてもらいたい。病気と共存してもいいから、毎日の基本的な生活、特に食べることと動くことと寝ることが、努力しなくても一番の楽しみのまま一生を終えられるように導くのが予防医療だと思っています。

だから、保健師さんにも不満があります。みなさん、健診結果表を眺めるときに、良くなったところではなくて悪い所ばかり探しています。良くなっていても判定が同じ区分ならまだ不十分だと云い、もっと努力が必要だと云い始めます。皆さんは若いから分からないかもしれませんが、私たちの世代になると「ちゃんとがんばれば必ず正常値になる」ということはありません。生活を変えること自体がとても大変なことです。受診者の皆さんは口では「何もしていない」と云いながら、必ずこっそり努力している。だから結果を密かに期待しているんです。「何も変わってない」と落胆する受診者に「いや、あなたが努力している結果がここに出ていますよ」と、良くなったところを探し出してしてあげてほしい。「今はまだ変わってないけれど、このままやっていれば今から結果が出てきます」とか「こないだ受診した人は、こんなことを足してみたらうまくいったと云ってましたよ」とか、そんな経験値から繰り出すアドバイスこそが保健師さんの特権だと思うのですが・・・。

ま、いいです。そんな自分の考え方を組織に押しつけたいとは思いません。「そんなことお前の自己満足なだけだろ」「それが良い成果を導き出すという証明はあるのか?」などという人たちと議論をしたいとも思いません。ただ、私の求める予防医療がそうである以上、私は私に関わった人たちにだけには、これからもそんな寄り添い方を続けていきます。そんな偏屈爺があと5年間、居座ることをご了承ください。

本当に今日は、こんな場を設けていただいて、ありがとうございました。 (完)

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番外:還暦祝いの挨拶(6/7)

(つづき)

最後に、あと5年間(クビにならずに元気でいたとき限定ですが)を働かせてもらう上で、どうしても云っておきたいことがあります。

この17年間、予防医療の考え方もここの施設の中も大きく様変わりしましたが、ただとても残念なこと(というか不本意なこと)があります。ここの組織への不満というよりも、今の予防医療界全体に対する不満です。それは、皆さんが、「受診者さんが病気になるのを待っている」ということです。これは私の求めている予防医療とは全く違います。ご存じのように、私は判定5(要精密検査)とか判定6(要治療)とかにまったく興味がありません。「精検受診率」にも興味がありません。しなければいけないからやっているだけです。なぜ紹介状が出るかを説明したら、もう後は本人の人生なのだから、好きにしたらいいと思います。大の大人なんだから、自分で考えろ!と。判定3(要経過観察)や判定4(要再検)も同じことで、要するに「あなたは病気ですよ」と云っている。「さっさと治療を受けなさい」ということです。血圧140/90なんて、今すぐ治療しろという値です。こんなものを予備群だとか云っている方がナンセンスです。でもちょっと面倒なのは、このレベルではくすりをもらえない。くすりをもらえないくらい軽いのではなく、くすりをもらえないのにこの時期に一気に動脈硬化の進展が加速度を増すから、自分の力で努力しないといけない。一番大変な時期なのだということは教えないといけません。そんなことをしてくれるいい先生を紹介する必要はあります。でも、それは私の仕事ではありません。

私がいつも大事にしているのは、判定1(異常なし)や判定2(軽度異常)です。特に判定1は「正常」と判定しておきながら、ちっとも正常でない人がたくさんいる。血糖なんて、たぶん数年のうちに境界型になって10年もしないうちに絶対に糖尿病になる、と分かっている人が「正常」の判定の中にいる。こんな人たちこそが予防医療の最大の対象者。だけど、「正常」だから・・・もっと悪くなってから相手してあげるよ、と皆さんは云っている。それがもどかしくてたまりません。

もちろん、この時期に何かを始めてもどうせ糖尿病になりますし、最終的にはくすりがいるかもしれません。「それなら、糖尿病になってから食事療法をするのと同じじゃないか」という人がいますが、全然違うのです。今、自分の体質を知って、丁寧に好きなものを美味しく食べることを習慣づければ、食べることが「楽しいこと」のままになるし、「糖尿病」の診断が付けられてもそれはただの通過点に過ぎないことになる。食事が”制限食”ではなくなるんです。一生つきあうことになる病気のために大好きな食事を犠牲にしない生き方ができるんです。 (つづく)

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番外:還暦祝いの挨拶(5/7)

(つづき)

そんなわけで、とりあえず健診センターに異動して頃合いを見て地方の病院に就職するのがいいかなと目論んだのですが、なんやかやとありまして、結局そこから17年間、しがらみの中で働くことになってしまいました。この間に、父親の急死や家庭内別居やうつ病に苛まれる時期を経験することになりました。

人生初めての”うつ”はかなり辛かった記憶があります。1、2時間しか眠れない日が1、2ヶ月続きました。円形脱毛症になり噴門部に大きな胃潰瘍ができ、いろいろな人の言葉がリフレインしてきて、「自分はこの組織に必要な人間なのだろうか?」と悩みながら、悶々として眠れないまま朝を迎える日々。この職場を辞めようと何度も思いました。でもこのとき、わたしの心の中に大きな波が襲ってきたのです。「自分は、何のために医者になった?」という初心の確認。組織がどうだとか、自分が組織にどう見られているとか、誰が自分を誤解しているとか、そんなことはどうでもいいのじゃないか。自分が医者になった理由・・・目の前にいる患者さんに寄り添って、良い人生になれるように手助けをしたい、という強く純粋な想い。それをいつの間にか忘れてしまっていなかったか。今の自分は、自分自身をその原点に立ち戻らせるべき時だと神様が教えてくれているのではないのか・・・そんな想いが一気に押し寄せてきて、気付いたら辺りに立ちこめた霧がウソのように晴れていました。

私の医者としての転機。医学部を卒業して地元に帰ったこと、大学を辞めて今の病院に就職したこと、最も信頼していたボスが志半ばにして逝かれたこと、予防医療の世界に移ったこと、そして、うつ病になったこと・・・幸いなことに、どれも私を前に前にと押し出してくれることばかりでした。今思えば、すべてが必然。優秀な科学者になることもなく、何か大きな功績を残すこともなく、誰かに自慢できる技術もないけれど、それでもここまで大きな力で導かれた結果のような気がしています。 (つづく)

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番外:還暦祝いの挨拶(4/7)

(つづき)

東京の病院で内地留学をした後、熊本に帰ってきて数年後に、病院が今の地に移転しましたが、その直後にボスが脳腫瘍になりました。入院して3日目、ボスは闘病を始める前にひとりひとりを病室に呼び出して想いを託しました。その時私がボスに云われたのは、「相手に逃げ道を作ってやってほしい」ということでした。キミは何もかもきちんとやることができるし、キミの云うことはいつも正論だから反論のしようがない。でも、周りの人たちは皆がキミのようにきちんとできるとは限らない。むしろできない人の方が多い。その時、できない人は反論ができないから逃げ道を失ってしまうのだ。キミのやっていることは全て正解で正義だけれど、これから上の立場になって部下を持つようになると、それでは反感をもたれたり煙たがられたりするようになる。それが心配だ。だから、いつもそっと逃げ道を作ってあげる努力をしてほしい。キミにはできるはずだ」・・・それまで、尖がりまくっていた私は、ミスをした担当者を呼び出して大声で怒鳴ったり、カテ室でカテを投げ捨てたり、上司でも約束を守らなかったら「バカにしているのか」と叫んだりしていました。それが少しずつ変わってきたのは、そんなボスとの約束があったからです。最初は不本意でしたが、やってみたら目の前の世界がバーッと広がっていくのが分かりました。これは私の人生の大きなターニングポイントになりました。

そんな私に次の転機が訪れたのは、何度目かの地方の病院への単身赴任中でした。平成12年冬。亡くなったボスの後を引き継いだ部長からの電話が、アパートの部屋でくつろいでいたときにかかってきました。「健診センターに循環器の枠が1つできそうなのだけれど、キミ行く?」と。その頃、病気になるもっと前から動脈硬化を予防することが大事だということに私が興味をもっていたことをどこかで聞きつけたのでしょう。私は、予防医療の世界への興味とは別に、うちで先進的治療を受けた人がおそるおそるの人生を送っているのを見守りながら、そんな患者さんにもっと人間らしい生活を送ってもらうリハビリの仕事を地方の病院でしてみたいという想いも膨らんでいました。どっちにしようかな、と悩んでいた時にかかってきた電話だったのです。「わかりました。考えておきます」と答えたら、彼が云うのです。「あした返事をしないといけないから、今決めて!」  (つづく)

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番外:還暦祝いの挨拶(3/7)

(つづき)

半年後、研修を終えて地元に帰る前日、当時のボスにご自宅に招いていただいて一泊しました。「循環器はとてもダイナミックでドラマティックな世界だったろ? 心臓が止まって真っ黒なカラダになって担ぎ込まれた患者さんが、元気に笑いながら歩いて退院していくんだよ。しかも心臓には癌がないから一生の付き合いになる。患者さんが亡くなるまでずっと寄り添ってあげられるんだ」「どうだい、あと1年、うちで働いてみないか?」静かに夢を語っていたボスが、急にこっちを見つめてそう云いました。彼も精神科医出身です。研修医時代に患者さんとキャッチボールをしながら、「オレの人生これでいいのかな?」と自問自答した挙句に、突然思い立って東京女子医大の循環器内科の門を叩いた人です。

その旨をそのまま大学に帰って医局長や教授に話しましたが、OKは出ませんでした。当時は研修の2年が過ぎたら『お礼奉公』と称する医局の関連病院での1年間以上の勤務が習わしでしたが、今の病院を「関連病院にするつもりはない」と云われました。私だけやりたいところで1年を過ごすという前例を作るのは、今後の研修医に示しがつかないから、もし行くのなら大学を止めて行ってくれ、と云われました。だから、私は大学を辞めて今の病院に就職しました。当時から私は、どっちにするか悩んだ時は後から悩み始めた道を選択することにしていたからです。きっとそれの方が後になって後悔しないという考えでした。  (つづく)

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番外:還暦祝いの挨拶(2/7)

(つづき)

私が医学部を受ける決心をしたのは、というか私が医者になろうと思った理由は、精神科医になりたかったからです。私の母方の親戚には統合失調症のいとこや神経症で日本中を流浪した叔父などがいます。彼らが社会のいろいろな人との関わり合いの中で傷つき疲弊する姿を見ながら、彼らと社会の橋渡し役になりたいと思ったからです。

でも、医学部に入ったら、精神科は医学界から仲間はずれにされていて、精神科の先生方が「精神科は科学だ」ということを示そうと躍起になっていた時代でした。教授が「精神分裂病(=統合失調症)は分子レベルで解明できる時代が来た」と興奮した顔で講義しているのを眺めながら、「ここは自分の求めている世界と違うな」と思った次第。あの時そのまま初心を貫いて精神科の門を叩いていたら、今では超売れっ子精神科医になっていたかもしれません(笑)

ちょうど私が医学部に入学した年に私の生まれ故郷にも医大が新設され、私が卒業する年に医大の一期生が卒業しました。地元に帰るつもりでしたから大学卒業後にその大学の研修医を申し込み、入局しました。精神科医を諦めた私は、一旦は神経内科医を目指そうと思いましたが、研修していると神経内科の病気は画期的な治療法がなく、診断がついたところですべてが終了する感じだったのでココロが付いていけず、次に呼吸器内科医になろうと思いました。その頃、「内科医になるなら循環器救急ができないといかん! 第一戦病院でそれを習得したい!」と同僚が云い出しまして、彼が医局長に働きかけてそれが実現しました。その病院が、今働いているこの病院です。もう三十数年前のお話。で、私がその研修医第一号なのですが、私のくじの順番は3番目だったので本当は研修を受ける権利がなかったのです。いろんなご縁と運がありまして半年間の研修をさせていただくことになりました。 あの時、神様がイタズラしなければ、私はどう間違っても今ここにはおりませんし循環器内科医にもなっていません。もちろん、今の妻とも結婚しておりません。 (つづく)

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番外:還暦祝いの挨拶(1/7)

先日の職場の還暦祝いの会で、もっとしっかりと話そうと思ったのに、想像しない所で感極まったりしてグダグダだったので、話したかったことをここにしたためてみました。番外編と云うことで・・・。

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本日は、お忙しい時期にわたしの還暦祝いのために多数ご参集いただきまして、ありがとうございました。

私はこれまであまり自分のことは話さないできました。10年半毎日書いたブログの中ではカミングアウトしたことは何度もありますが、あまりこういう場で話すことはいたしませんでした。あまり意味のあることだとは思えないからです。でも今日は節目の日ですので、少々長く話させていただきます。本当は定年退職したときに、と思っていたのですが、あと5年も生きて居るか分かりませんので、本日話すことにいたしました。

満60歳の節目を迎えるにあたって、実はあまり大した感動は湧いてきておりません。先に節目を迎えられた先生方がおっしゃっていたような沈むような気分になることもありません。おそらく、その感情は55歳頃にすでに通り過ぎてしまっています。2度の流産を経て、私ども夫婦は残念ながら子どもを授かれませんでした。妻は一人っ子、私も先日大腸がんの手術を受けた姉が一人いるだけです。ですからこれからがとても不安です。事故か大震災にでも見舞われない限り必ずどちらか一方が残されることになります。私たち夫婦はどっちも社交的でないし自分から積極的に自分を晒す性格ではないため、残った後、独居老人の行く末としてどうやって終活したものかと悩みました。それが55歳頃。最近は知人や友人たちが還暦を迎えて定年退職し、これからの生活や年金のことや保険のことや細々と算段している話を聞くにつけ、「うちは大丈夫なの?」と妻に云われ、何も考えていない自分におののくのでありますが、なんかそういう時期も通り過ぎ、ちょっと”ケセラセラ”な気分です。とりあえずクビにさえならなければあと5年は先延ばしできる悩みだからです。  (つづく)

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お礼

本日、晴れて満60歳の誕生日を迎えることができました。

先日、お書きした通り、今日をもってこのブログ『やせればいいってもんじゃない! ~屁理屈医師の元気人生応援ブログ』は連載を終わりにさせていただきます。10年と4ヶ月の間、ほとんど毎日続けてこられた自分を褒めてあげながら、長らくお付き合いいただいた読者の皆さまにもお礼を申し上げます。さすがに第1回目からの読者の方はほとんどおられないでしょうが、まあこんなウソともホントとも分からぬ怪しい屁理屈にお付き合いいただいて感謝、そのご縁にも感謝でございます。

もともと、連載コラムのネタ帳として発したブログですので、今後もメモ程度の覚え書きやコラム発行時の転載くらいはするかもしれませんが、このまま何も更新されないかもしれません。閉じることはありません(やり方を知りませんから)ので、時々覗いてみていただけると幸いです。

ホントに、長い間、ありがとうございました。

なお、同時進行で続けている日記帳代わりのブログ『なかなか悟りをひらけません!』はそのまま続けます。日記ですから医者とは全然関係ない徒然ですけど・・・とりあえず生存の証として(笑)。

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有終の美?

さて、実質的に今日がブログ連載の最後になるのだけれど、何を書こうか?

区切りというのはなかなか悩むもので、一応、ネタ帳を見ると、
●運転手の心理~「正義」の後ろ盾、瞋恚(しんい)
●デジタルヘルス
●「諦める力」~勝てないのは努力が足りないからじゃない(為末大氏の著書の感想)

などの題名が並んでいます。もっと他にも考えていた気もしますし、やっぱり10年も続けたブログの集大成だから何かかっこいいので締めた方が良いのかしら、とも思ったけど・・・やめました。大学時代に演劇部だったわたしは、これでもか!と云うくらいに大見得切って大感動の中お涙ちょうだいで終わる脚本よりは、フェードアウトして何気なくスーっと終わってしまうやつ(「え、もう終わったの?」みたいな)の方が好きだったから、このブログもそんな感じで終わりましょう。どうせ、また時々書くのだから(上のお題が日の目を見ることはたぶんないでしょうけれど)。

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