眠くない

最近、妻が血圧計を買ってわたしに測定を強要します。わたしが10年来抗高血圧薬を飲んでいるにもかかわらず血圧測定をしようとしないからです。実は最近、職場のフィットネスジムでこっそり測定すると、150-160/90-100mmHgあたりのコントロール不良の値を示すことが多いのであまり測りたくないのです。ところが、妻が買ってきた血圧計で朝晩測定すると、これが意外な値を示します。120-130/70-90mmHg・・・手首型は低く出がちであることを考慮しても、この値はうれしい。まあ活動すると上がる、特に仕事のストレスがわたしを蝕んでいるということは云えそうです。

そんなわたしですが、最近気づいたことがあります。仕事中にまったく眠くなりません。1年前のfacebookの記事を見ると時折体調の悪さを書いてあるのだけれど、最近それがない。1年前までの自分を思い起こすと午前の読影中とか昼下がりの説明中とかに無性に眠くなって、机上につっぷして意識を失うことが茶飯事でした。それがまったくないのです。たしかに今年のわたしの行動目標に「23時までには床に就く」というのを掲げていますから意識して早く寝るようには心掛けていますが、それでも最近は午前零時を超えるのが常。よほど一年前の方が早く寝ていた気がします。

「あなたは他人には厳しいけど、自分には甘いよね」と妻にいつも皮肉られるわたしですが、アラカンになって、意外に自己管理が上手くいき始めているんじゃないの?と自己満足気味です。まあ、単純に、晩酌の酒があまり量をいけなくなったためだけだったりするのかもしれませんが、それはそれで良いこと・・・理屈ではなく、カラダ自体が欲する行動に間違いはありますまい。もっとも、この変調が何か大きな病気の前触れということも有り得ますけど。

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重症化予防(後)

(つづき)

健診や人間ドックで自分の今のカラダの状態を具体的に数値で知った方が断然やる気が起きていい!というヒトもいます。でも逆に、数値を知ってしまったがために泥沼にはまり込むヒトが少なくありません。知らなかったらもしかしたら寿命が10年短かったかもしれないけれど、その代わりにやりたいことだけに目を向けられる人生だったかもしれない。「このまま放っておくと将来心筋梗塞や脳梗塞になる危険性が高いから、悪化しないように今から生活を見直しましょう」と云われて数値の虜になってしまうとしたら、それは充実した楽しい人生なのか? もともと乱れた人生を送っているならともかく、今まで普通に健康的に生きてきたヒトでも、数値は必ずしも基準内にはなりません。急におそるおそるの生活を強いられることが『重症化予防』の生き方だとしたら、それはわたしの求めてきたモノとは別物です。

もともと国がこの施策を云い始めた目的は、健康増進などではなく、『医療費削減』です。「病気を未然に防いで健康的な人生を送りましょう。そのためには、未病状態から”良い生活習慣”を身に付けるようにがんばりましょう」と、現場担当者はまことしやかに云いますが、国にとっては”健康”なんて二の次のはず。そういう云い方をすれば国民も納得して動いてくれるはずだから無理やり理由付けした詭弁です。もし何もしなくても医療費が上がらない(国民が病気になっても治療など受けない)なら、病気でもないものに予算をつぎ込んだりしないはず。それは、禁煙対策が遅々として進まないのを考えれば一目瞭然です。

まあ、たとえ詭弁であっても、今までは「病気でないモノ」に予算など一円も付けなかったわけだし、医療介入すらさせなかったわけだから、それは格段の進歩なのだと思います。だから、わたしも講演の依頼を拒否せず受けるのであります。わたしのキライな『重症化予防』という概念さえ無視すればいいのですから。

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重症化予防(前)

『重症化予防』

わたしは、このコトバが大キライです。なのに、わたしに講演を依頼する団体は必ず云うのです。「生活習慣病の重症化予防のために必要な知識と方法を講演してください」と。自治体はこの『重症化予防』というコトバが好きです。重症化予防こそが予防の根幹だと思い込んでいるようなのですね。

わたしが臨床現場から予防医療の世界に入ってきたとき、わたしもそう思っていました。わたしが健診医の道を選んだのは、修繕屋の仕事に限界を感じたからです。詰まってしまった動脈硬化のなれの果てを治療して「通った!」と喜んだところで、もうすでに全身は蝕まれている。もっと前から何かを始めなければ、それが何かということに気づかなければずっと後手後手の人生になる。そうならないようにアドバイスをする仕事をしたい・・・そういう想いでした。そしてまた、健診現場に来てみたら、臨床医時代に思っていた以上に予防の概念は重要だと云うことも思い知らされました。

そんなわたしが、『予防』は重症化予防とは違うと思い始めたのはいつのころからでしょう。『重症化予防』はつまり、わたしが主張している『後ろ向きの予防』の最たるものです。取り組みの前提に『病気』ありきで、アウトカムとして設定しているのは”病気で寝たきりになったり病院通いをしない人生”であって、”病気など気にしないでゴキゲンな人生を送る”という『前向きの予防』ではないところが、どうも気に入らないのです。

(つづく)

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「ある程度」って

CareNet配信の『冠動脈疾患の運命を左右するのはDNAより生活習慣』というタイトルに目が行って読んでみたのですが、

健康的な生活習慣で遺伝的冠動脈リスクはある程度打ち消せる

が本当のタイトル。「ある程度」とか「リスクの一部」とか、微妙にモチベーションをあげさせない表現なところが、気にはなります。

「遺伝的リスクが高く、かつ望ましくない生活習慣である場合、本研究における心臓発作の10年リスクは約11%であった」「遺伝的リスクが高くても、望ましい生活習慣である場合には、10年リスクはわずか5%であり、このことは、健康的な生活習慣の順守によって遺伝的リスクを50%以上も相殺しうることを示唆している」というから、やって損はないという感じですかね。でも、「(心臓発作の)強力な家族歴を有する多くの患者は、コントロール不能な問題を有する運命にあると感じている。われわれのデータは、家族性リスクが高い場合であっても、自身の健康状態はコントロールできるのだと患者に安心感を与えるものであると私は考える」という研究者(ハーバード大学医学部マサチューセッツ総合病院Sekar Kathiresan氏)というところまで読んで、ちと興味は失せました。

そうじゃない。心筋梗塞の家族歴があるとか、動脈硬化の原因になる疾患(糖尿病や高血圧)の家族歴があるというヒトはそうでないヒトより明らかに虚血性心疾患を起こす確率が高い。だからこそ、それは生まれたときから分かっているのだから、若いうちから他のヒトよりしっかりと生活習慣を意識する必要がある。というか、そうすることで、他のヒトより積極的に健康的な人生を送ることができるし、子どものときからの習慣なので苦痛を伴わない。選ばれし幸せモノである。

ということだ、とわたしは結果説明のときにお話しています。

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睡眠

わたしたち夫婦の共通の友人Y子さん。先日我が家に遊びに来たときに云いました。

「こないだのテレビ見た? Mちゃん(わたしの妻)のやり方は大正解だったね。Mちゃんみたいに眠くなってから床に就くのが良いんだってよ」

確かに妻は夜中の一時二時まで起きている宵っ張りです。でも、その事より前に、「眠くなってから床に就くべし」というのは現代社会では常識中の常識(以前は、「眠くなくても横になれば少なくともカラダは休まる」と思われていましたが、それは間違いだそうです)。何を今さら、と二人の会話を聞きながら鼻で笑っていましたが、話にはもう少し続きがありました。

「あら、Y子さんは眠くなくても床に就くの?」
「うん。翌朝のことを考えると、『そろそろ寝とかなきゃ』って思うから」
「へえ」
「でもまあ、布団に入ったら、途端に眠ってしまうけどね(笑)」

どっちかというとそっちの方が健康なんじゃないのかしら? 睡眠学はどんどん進化してマスコミがどんどん情報を流すから、世間の皆さんみんなが学者さんのように理屈を並べるけれど、睡眠は理屈じゃない。「カラダが欲するに従うべし」というだけのはなし・・・更年期オバサン二人の会話を聞きながら、そんなことを思った次第です。

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若年者の禁煙治療指針

Medical Tribuneに日本禁煙学会が発表した『若年者の禁煙治療指針』についての記事が出ていました。

※『若年者(35歳未満)と未成年(20歳未満)の禁煙治療指針を作成しました』(日本禁煙学会)

2016年4月の診療報酬改定で「ブリンクマン指数200以上(1日喫煙本数×喫煙年数)」の縛りが消えたため、今までは基準を満たせなかった35歳未満の喫煙者や未成年の喫煙者の禁煙指導に保険診療が使えるようになったのを受けて、一歩踏み込んだ治療指針を発表したそうです。

禁煙指導はできたら若いヒト達にやっていきたいというのは当然のこと。歳とった連中が「おれは死んでもせん禁煙なんか!」と叫んでいるのは放っておけばいい。どうせ吸っても吸わなくても人生への影響は知れている(せいぜい呼吸苦で苦しめられるかどうか)のだから。でも、若年者は違います。今の高齢者が若かったころよりタバコ以外の酸化ストレスの量が尋常でないので、血管壁や各臓器への破壊力が年を重ねるごとに効いてくるからです。わたしですらこの齢で冠動脈が石灰化だらけなのは喫煙の影響だと確信しています。今の若い子たちに至っては何をか云わんやです。

”20歳以上35歳未満の若年者では若年者の特徴や注意点を念頭に置いた対応が望ましい””未成年者では心理的治療(カウンセリング)が基本であり、薬物療法は離脱症状の強い者に対しては考慮してもよい”・・・ま、なかなか大変だと思いますが、若いヒト達の方が実は素直です。どれだけカッコつけていても、人生経験自体が少ないので内心は心配性な子ばかり。しかも吸い始めてからの時間が短いので改心はしやすい。なにしろ今は、吸わない方がカッコいい時代ですから。

飲食店内の完全禁煙を進めたい厚労省の発表に、当の飲食店主より先に猛反発したのが国会議員さんたちだから、まあ日本の禁煙政策はそう簡単には進みません。草の根作戦で、若い子たちからカッコいい人生に導くようにがんばりましょう。

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クレームは云ったもの勝ちなのだけれど(後)

(つづき)

ところがどうも最近ちと傾向が違う。愚行の証拠写真や動画をわざわざ自分で撮影して投稿する時代。見てもらえれば有名になるだけでなくて金になるかららしい。何か、人間が人間たる所以である唯一の拠り所の『理性』と、欲望の抑制のために神様が創り給うた『羞恥』が、若い人から順に、熱転写式プリンタで印刷した文字のようにどんどん消えて行きます。そんな光景をただただ眺めているしか術がないのだろうか。これからこの世はどうなっていくのかしら? テロも日に日に無作為になるし、テロ行為に正義を主張し始めて来ているし・・・。

消えて行くといえば、高齢者の脳細胞もどんどん消えて行きます。わたしもあまり他人事ではない年頃になって来ました。最近妙に交通事故が多いですが、これが必ずしも認知機能低下の高齢者だけではなく、無謀な若者でもなく、生活習慣病の太っちょお兄さんとも限らない・・・何が起きているのでしょう。あまり考えない方がいいのでしょうか。まあ、どれだけ静かに注意深く運転していても、突然相手がこっちに向かって飛びかかって来ますから、これはもう、運命として受け入れるしかないのでしょう。神様の間引き対象として選んでいただいたことを名誉なこととすべきなのかもしれません。あー寂しい。

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クレームは云ったもの勝ちなのだけれど(前)

昨年から一気に吹き出した、想像だにしなかった内容のクレーム。除夜の鐘だったり、盆踊りだったり、ナマハゲや豆まきの鬼だったり。どれもが「うるさいから止めろ」「子どもが怖がるからやめろ」というクレームなのですが、そんなクレームが出たことよりも、そう云われたからという理由で本当にやめてしまう時代であることに驚いています。こういう場合、「続けてほしい」という多数派の発言は必ず二の次になります。クレームに対処しないとうるさいからでしょう。「イヤなら後からコミュニティに入って来た方が引っ越せば良いことじゃないか」と単純に思うのだけれど、もともとコミュニティに入る意思のない人たちがクレームを出すのだから、「それで体調が悪くなったら責任を取るのか?」とか云われると、面倒くさくなりますわね。

しかも、それに対していらん発言すると確実にバッシングの嵐になる時代。こっちにはこっちで文句をいうのが生き甲斐の連中がおりまして、どんなに理にかなった内容を云っているとしてもそんなことは御構いなし。内容云々ではなくて単に文句を云いたいだけなのだから。実質、完全なる匿名の隠れ蓑で語っているのだから。

こんなことをブログに書いたら、これも誰かに見つけられて、バッシングされるかしら?  (つづく)

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牛乳摂取と認知障害

牛乳摂取と認知障害は関連するのか~メタ解析

先日のCareNetで配信された記事。『牛乳摂取量と認知障害の関連についてメタ解析を行ったところ、これらに有意な逆相関を認めた』というものです(Nutrients誌2016年12月号)。まだ関連性をきちんと立証できるまでにはならなかったとのことですが、要するに、(特にアジア人では)毎日きちんと牛乳を飲んでいるヒトの方が認知障害を起こしにくいということを確認した、という研究発表です。とりわけ虚血性脳卒中患者ではその傾向が顕著だということだから、脳梗塞患者さんは積極的に牛乳を飲みましょう、ということのエビデンスを提示しています。

牛乳なんて毒だから飲むな!飲むなら最低限の量にしておけ!牛乳ばかり飲んでいる欧米人の方が骨粗鬆症は多いんだぞ! あんなヒトよりはるかに図体の大きい動物の異種タンパクの、それも当の牛たちは子牛のころしか口にしないモノが、ヒトのカラダにいいはずがない・・・という持論を疑う気のないわたしですが、そんなわたしでも、「牛乳が認知症予防に有効である」というのなら、やむを得ないから少量だけなら飲んでもいいかな、と思う。ま、毎日飲んでいるR-1(明治)というヨーグルトを牛乳の類として同じ効果があると認めてくれるのであれば何も問題はないのですが・・・。

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渋滞

いつもの朝の通勤の道。やっといつもの混み具合になって来ました。相変わらず、朝の通勤の車の中は、わたしの哲学の時間。

いつものように家を出たつもりだったけれど、別に事故渋滞でもないのに今日は妙に混んでいて、このままだと始業時刻ギリギリになりそうだ。経験上、遅刻にはならないことは分かっているから、別に焦りはしないのだけれど、後悔はする。

「いつもよりちょっと早めに出たら良かったな」

一方で、「いつもと同じなのに今日はなんでこんな目に会うの?」とも思う自分。自分は何も悪くないのに・・・というオーラを誰に対してでもなく出してみる。

どちらも自分。断然前者の自分の方が好きだから、後者の気持ちをもみ消してみる。

スッキリ スッキリ。何事もなかったような顔で診察室に入る。

よし、よし。

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「他人と過去は変えられない」

「他人と過去は変えられない」

ある人が、賢人の格言を引用してよくこのコトバを使います。わたしもとても気に入っているコトバです。いろいろなヒトのいろいろなことにイラッときたりしたら、このコトバを思い出しましょう。なぜだかスッとわだかまりが消えます。グチは何の得にも徳にもならないし、グチから得られるものは何もない。そして、グチを吐いても何もすっきりしない。それは偽らざる真実。存在価値のない行動の一つです。

「時間厳守で!」と念を押して云うので指定された時刻にきちんと来てみたが、上司は一向に現れないようだ。 もうこういう仕打ちは若い頃からずっとだから慣れっこになってしまった。それでも、自分はきちんと時間は守るよ。自分まで時間を守らなくなったらそれは自分に負けることになるから。

この格言の続きは、「自分と未来は変えられる」です。自分の行動に対するグチだけは相変わらず多いわたしだから、これからは自分にもグチは云わないようにしよう。

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諸刃の刃

毎日少量のアルコールで脳卒中リスクを低減か

「少量または適量の飲酒は虚血性脳卒中リスクを低減する可能性があるが、大量飲酒は虚血性脳卒中と出血性脳卒中の両方のリスクを高める」との報告(BMC Medicineオンライン版)なんですけれど、これはまあ要するに「適量のお酒はカラダにいいが飲み過ぎると逆効果」ってことだから、目新しい結果でもないです。 これはスエーデンからの報告ですから、”大量飲酒” なんて本当に連日浴びるほどに飲む連中のことなのだろうと思いきや、「1日2杯までの飲酒では虚血性脳卒中リスクが低減したが、出血性脳卒中リスクには影響しないようであった。多量~大量の飲酒(1日2~4杯超)は両方の脳卒中のリスク上昇と関連していた」とあります。2杯って、何が?とかも思いますが、あえて原著を読みたいとは思いません。

この手の報告は、使えそうで意外に使いにくい。タバコは少量でも猛毒だと云うのと違って、お酒が適量なら”百薬の長”で、過ぎたら”毒”に化けるのは分かっているのですが、酒好きにとっては”適量”はまさしく生殺しの量で、酒を飲めない人間にとってはたとえそれがリスクを下げてくれるとしても少量でも責め苦になります。こんなデータが出たからと云って実際の生活変容につながるとは思えず、むしろ酒を飲むことの正当性を主張する免罪符に使われる気がしないでもない。それが、酒飲み代表としてのわたしの実感です。

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相乗効果

相変わらず、テレビでは健康番組ばかりが全盛で、食べ物は何が良いとか悪いとか、栄養学の専門家や臨床医たちが色々云っているのだけれど、わたし的には結局は食べ合わせと食べ方次第だと思っています。

人体が単なる細胞の集合体ではないのと同じで、動脈硬化に効く栄養素が何で、それが多く含まれる食材は何と何があるとか云ったところで、その食材をそれだけ食べるわけではないのだから結局は食べ合わせです。「からだにいいもの」だけ集めたら単なる偏食になるだけだし、化学反応のように食べ合わせ次第ではお互いの効果を相殺し合うことすら考えられます。そして、結果として食べ過ぎてしまっては本末転倒になる。

何といっても、栄養素の効果を最大限に引き出すのは唾液です。消化酵素で消化して細胞内に取り込まれてナンボ。唾液をたくさん引き出せるかどうかは、つまり「おいしい」と思えるかどうかですし、それを「食べたい」と思うかどうかです。どんなに身体にいい食材であっても、「おいしい」「食べたい」と思わないなら効果は半減します。

「年寄りは肉を食わないといかん」と云われて、食いたくもないのに無理して肉と格闘しているお年寄りが最近たくさんいます。若いときに肉なんか食いもしなかったのに、それが身体に良いからという理由だけで無理をする。こんな人の大部分は必ず身体をダメにします。お腹を壊したり採血データが狂ったり。

人間、「食べたいと思うものを食べたい量だけ食う」が理想だということ、最近どんどん確信するようになって来ました。

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水分補給

最近、たしかに水を飲まなくなりました。夏場ではないから当たり前なのかもしれないけれど、わたしは子どもの頃から尋常でないほど水分を摂るのが習慣で、それに見合うほど大汗をかくのも常でした。つい最近まで大量にペットボトルのお茶を飲んでいましたが、年末に風邪で喉が痛くなって以降急に飲まなくなりました。昼間に2リットルの水分を取るようにしていたのに、今は水筒の水(300cc)プラスアルファ。お酒も極端に減っています。

「あなたが熱いお茶を飲むなんて、どうしたの?」と妻に云われました。私にとって、ペットボトルのお茶と急須で入れたお茶は全然別の存在。前者は水分補給であり後者は飲み物=「お茶」。喉が痛くて熱いお茶やコーヒーを積極的に飲んだのがきっかけですが、その後ペットボトルのお茶(水分補給)の復活のタイミングを逸した感じです。夜中のおしっこ起きの回数が少し減ったのはいいことでしょうが、昼間に小便に行く回数が極端に減っています。この歳になるとあまり水分を取らないのも考えものだから、そろそろ元に戻したいと考えてはいます。でも、どうもカラダが欲しなくなってしまって、それはそれで心配。

ちょっと無理してでも飲んだ方がいいのかしら。

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正直言って面倒くさい?

糖尿病患者の10人に6人が眼科検診を受診しない―米調査

米国の研究で、「糖尿病患者の約3分の2は、年1回の眼科検診を受けていない」という。糖尿病網膜症患者にまでなると受診率は上がるそうですが、症状もない軽度の糖尿病患者ではさらに低くなるとのことです。

まあ、しょうがないのかなと感じています。日本でも糖尿病患者はかなり増えていますが、症状もないのに眼科の定期受診しているヒトはかなり低いと推測されます。年一回人間ドックで眼底検査を受けている方の中には、すでに糖尿病網膜症らしき出血が散在していために毎年精査指示を出すのに受診しないヒトがかなりいます。内科で糖尿病治療を受ける際に主治医が眼科受診を勧めないせいなのか、それとも一度は受診しことはあるが「経過観察」と云われたからもう問題ないと自己判断しているのか、あるいは受診すると「定期的に来い」と云われたり点眼剤を処方されたりして鬱陶しいと思うのか、たしかに通院継続がむずかしそうだと感じています。糖尿病網膜症になったら後戻りできないし、高い確率で失明につながるのだと説明はしますが、どこか楽観的にとらえている気がします。

それは緑内障も同じです。精査指示を出して眼科を受診して、「緑内障:要治療」とか「3ヶ月後再検」とかいう返信を貰うのに、1年後のドック受診時の問診には、昨年眼科受診したことすら書かないヒト(もちろん継続受診などしていません)だらけ。治療しても変化がないから面倒なので行くのを止めた、という。こういうのはやはり、眼科医の説明不足だと思います。

眼科と歯科は、どうしても定期受診を中断しがち・・・予防的な検診の意義が実感として理解しにくいのかしら・・・かくいうわたしも、歯科にはもう何年受診していないだろうか。

 

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マスクの恩恵

風邪なんか引いてないのに、あるいはアレルギーでもないのに、いつもマスクをしている人がいます。意外に若いお嬢さんに多い印象があります。マスク小僧の弊害について何度もここに書きましたし、広報誌コラムでも題材にした経験があります。

ただ、今回長引く風邪のおかげでわたしも年がら年中マスクをする羽目になりまして、その時に感じたことがあります。マスクをしているだけで、妙に自信が湧いて落ち着いてくる、ということ。シャイなわたしは、特に若いお嬢さんとかと話すときに面と向かって長時間話すことができません。最初は目を見てますが、話しているうちに徐々に目線をそらしてしまいます。ところがマスクをしているだけで、いつまでも相手を見つめていることが出来るのです。不思議です。

目は口ほどにはものを云いませんから、目だけ出している限り自分の表情を隠せますし、口元を見つめられることがないので話しぶりを意識する必要もありません。よほど自分の表情に自信があるなら別ですが、「相手に良く見られたい」という気持ちが強ければ強いほどマスクは強い味方になってくれます。世間の若いお嬢さん方にマスク小僧が多いのはそういう理由なのかもしれません。

居心地は悪くはないのだけれど、それでもやはりマスクは鬱陶しい。早くマスク放免の生活に戻りたいものです。

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ココロが弱くなった

毎年恒例の病院職員用生活習慣改善プログラムに参加するのも今年で3回めになります。1回めも2回めもそれなりにストイックな生活をして10キロ以上の減量に成功(減りすぎてちょっとみすぼらしくなったから『成功』とは呼べないかも)しましたが、今年は反応が今ひとつで、1ヶ月経過しても1キロ程度の減量にとどまっています。

まあ、その結果自体はあまり悲観していないのですが、気になっているのは歩数計データ。例によって連日一万歩以上をクリアできるように頑張っていますが、時折5000歩止まりになることがあります。この屈辱の5000歩を「まあ、いいや」と受け入れてしまうようになり下がった自分が何か情けないのです。このトライアル3回めにして初めての感情に戸惑っています。もちろん、遅くまで会議だったり大雨だったりして歩数稼ぎが無理な日は以前にもありましたが、今回のはそうではない。ちょっと帰りが遅くなって小雨だからワンの散歩に行けない場合、去年までなら迷うことなく一人で小一時間散歩をして歩数稼ぎをしていました。「そんな形だけの歩数なんて意味ないじゃん」とからかわれても、めげることなく歩数を一万歩にさせるためだけに頑張っていました。そのプライドというか意地が今年すっかりなくなっているのは何故なのか。

「1日くらい良いんじゃないの? 風邪も引いてることだし」・・・なんて云い訳、絶対に云わなかったんだけどなあ。あーいやだいやだ。

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心が弱くなった

最近、身体も弱くなったけれど心が弱くなった実感があります。昨年11月末にひいた風邪が約1ヶ月治りませんでした。一旦治りましたが、正月になって再び違うタイプの風邪にやられています。

ほんの1、2年前には「風邪なんて根性があれば治る」と云い張っていましたし、実際1週間も引っ張ることはありませんでした。ところが今回はそうもいかず、てこずっていまず。風邪が治りにくくなったこと自体はさほど気にはしていません。たまたまだろうと思っています。ただ、急に自分に自信がなくなってきました。1ヶ月、少林拳の練習を休みました。以前なら、「インフルならともかく、ただの風邪ごときで休むヤツの気が知れん」と小馬鹿にしていたわたしです。ところが今は、この体調なのに寒い道場で2時間も汗流したら悪化するに違いないという恐怖感に苛(さいな)まれるわけです。この程度のこと全く気にせずあちこち飛び回っていたのに、ワンの散歩以外は完全自粛。なんか、どんどん萎(しお)れていく自分を認めざるを得ません。

「すぐに戻るさ」とタカをくくっていたのに、最近は「このまま老化するのでは?」という不安に襲われています。「そんなの気持ちの問題だ!」とは思うのですが、何しろアラカンの世代は未知の世界なので、なんか怖い。今までのカラダとは違うものに気づいたとき人間は年寄りになるんだから、絶対に気づかないふりをすべきだ!と思っていましたし、人にもそう助言してきたのですが、いざ自分がその歳になると、そうもいかない。「『勇気』と『無謀』は別物だぞ」とか思ってしまうのであります。

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異様な沈黙に思う。

狭い道。自転車を元気に立ち漕ぎする女子高生の横をスレスレで徐行して通り過ぎる無音の白いハイブリッドカー。女子高生は車の気配に全く気づく気配もない。よく見ると女子高生は耳にイヤホン。音楽でも聞きながら脇目も振らずに目的地を目指しているようです。その光景を側で見ていると、この無音同士の危なっかしい関係にドキドキします。

最近は何しろ騒音にうるさくて、除夜の鐘に苦情が出るといって鐘をつくのを中止したり、イヤホンで曲を聞きながら踊る無音の盆踊りのニュースも見ました。あまりに異様な時代になったものです。ヒトの感覚は千差万別だから、他人に邪魔されたくないし、するなら自分に影響のないようにしてほしい、他人に迷惑を掛けないように工夫すべきというのは分からないでもないですが、でも異様です。

音刺激というのは、爽快であれ不快であれ脳に刺激を与えます。「音のないところにずっといたらボケるよ」と、よく妻に云われます。わたしはひとりで居るときにはテレビもラジオも音楽も掛けない沈黙の中で思索したり文章を書いたりすることが多いからです。その点、イヤホンを使って自分だけの世界に入り込むことは、わたしの無音思索の時間とは違うのかもしれません。

ただ、「何も話さなかったらボケるよ」というのも事実。現代社会は老若男女を問わずしゃべらない。インプットは充実しているけれどアウトプットが無い。意見はSNSの書き込みやLINEで伝えるし、目の前の人への伝言も口で話さずメールで伝える時代です。意見をアウトプットするのにコトバとして口で発する作業が極端に無くなっています。今に口は食事をするための臓器になり下がるのではないか、今に世の中から音が消えていくのではないか、そんな懸念すら湧いてくる今日この頃です。

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たのまれごと、たのみごと

「申し訳ないのだけれど、ちょっとこれを運んでもらっていいですか?」「これを修理してもらっていいですか?」などと深々と頭を下げて事務スタッフにお願いしたら、「あ、いいですよ。後でやっておきます」と即答してくれたのに、結局やってくれていないこと、実はたくさんあります。その後に何度出会っても、一度も話題にしてくれないからきっとすっかり忘れているんだろうなと合点。でもこんな時、「例のアレ、やってくれた?」と聞くと明らかに嫌味に聞こえるから聞ききらんシャイなわたしです。

昔だったら烈火のごとく叱っていたかもしれません。「できないなら安請け合いするな!」とか「優先順を自分の尺度で決めるな!」とかそんな激しい批判をここでも書いたことがあります。それが社会人の常識だろう!と。でも、今はそんなことは思いません。わたし自身も時々忘れることがあるし、完全に忘れていることは明白だけど相手に悪気はないのだし、もともと大したことではないのに頼んだのはわたしだから、処理できるものは自分でこっそり処理しますし、処理できないものはそのままです。過去3回、3人の人に同じお願いをして、各々に快諾をいただいたけど結局今もそのまま放置されている事例もありますが、こういうのはきっと、自分で思っているほど大したことじゃないのでしょう。残念ながらわたしには処理できないので、今でもそれはそのままの状態で何とか使っています。

人間、こうやって丸くなっていくんだな、と自覚してしまう今日この頃です。

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もうこの手のデータは無駄

少量の長期喫煙で死亡リスク上昇

「たとえ1日1本未満という少量の喫煙でも長期間継続することで全死亡リスクが1.64倍に高まり、肺がんリスクは9.12倍になる」という米国の大規模前向きコホート研究(JAMA Internal Medicine(2016年12月5日オンライン版)。

日本のデータも同様ですが、「もう良いよ。こんなデータがどれだけ出ても喫煙者の禁煙へのモチベーションにはならないよ」と思います。存在する限り健康被害の問題を解決させることはできないのが”たばこ”であることは、誰もが分かっています。 麻薬を自分の意志で止めさせようとしても無理。でも無くならないのです。というか無くならせる気がないのです。

「たばこ規制」がもたらす喫煙者に寛容的な社会

結局、税収である”たばこ”は必要悪であり、これを製造禁止にしたり値段を上げ過ぎて購入者が減るようでは困る。これはもはや健康に良いか悪いかとかいう問題ではない。その観点から論議しても何も解決しないから、喫煙者は放っておいてくれ。たばこを吸いたくない人には確かに迷惑だから、こっちは守っておかないと世論が危うくなる。ということで生まれたのが『受動喫煙防止法』です。誰が考えてもこの法律は変です。どうしてこんな回りくどい云い回しが必要なのか。となりに居る人が健康被害を受けるのなら吸っている人はもっと危険なはずですが、そこには言及しない。あくまでも、「”たばこ”がキライな人が迷惑だからそういう人がいるところでは吸わないでくれ」という法律であって、「”たばこ”は健康に悪いから」というものではない。そんなことを前面に出すと、「そんな悪いものを製造するな」となってしまうからでしょう。

ま、この問題は、いくら議論しても埒はあきますまい。ただ、「存在させる理由は税収や関係者の生活の保護のみ」ということをもっと全面的に主張してほしいものだ、と個人的には思いますけど。

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おみくじ2017

例年、おみくじは阿蘇神社で引くことにしていましたが大地震の影響で今年は行けそうにないので、自宅近くの健軍神社で引きました。

『小吉』~なんか、妙にしっくりとくるものがあるので、とても満足しています。

”晴れ渡る 月の光に うれしくも 行手の道の さやかなりけり”

”闇(くら)くて見えない道も月がさし初め 
明るくなる如く幸福(しあわせ)次第に加わる運ですから
あせらずさわがず静かに身を守って
進むべき時に進んで何事も成就すべし”

   願事:あせらず騒がずゆるゆる進めばよし
   待人:おそいが来る
   失物:出る 高い所の間
   商売:売り買いともに利益あり
   学問:自己の弱さに負けず勉学せよ
   争事:我意を張れば損あり
   病気:平癒す信心が大切

願事と学問と病気がココロに響く。今年もゆるゆるっとがんばりましょう。

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それはそれでいいけれど

早期死亡リスクが最も低い人の特徴

BMI値範囲が18.5~22.4で、代替健康食指数(AHEI)が高く、身体活動度が高値で、飲酒は適度、たばこは吸わない人が、最も早期死亡リスクが低いことが、米国・ワシントン大学のNicola Veronese氏らによる、医療従事者追跡調査(Health Professionals Follow-up Study)と看護師健康調査(Nurses’ Health Study)の男女2つの大規模な前向きコホート研究の結果、明らかにされたそうです。

それはそれで極めて当たり前のことだからいいのですけれど、「だからどうしろ」というのだろう? その元気で長生きだったヒトの生活習慣はきっと昔からそうなのだろうし、乱れていた生活を修正したらこれだけ寿命が伸びた!というデータではない(実際それを算出するのはむずかしいでしょう)のは明白。「こんな生活をしたら元気で長生きできるからそうなりたかったら今から修正しましょう!」という提言だとしたら建設的ではない。そうなるかどうか分かってはいないのだから、ただ単にそうではない人生を送っているヒトのココロを凹ませるだけの話。そんな人生を送っているヒトには気分が良いけれど、無理矢理生活習慣を変えさせるモチベーションにはなれそうでなれない感じがします。

トップアスリートがみんなこんな生活をしているという紹介があったとして、自分も真似をしてみよう!と考える市民が何人いるか? わたしは、「さすが。やっぱり、トップアスリートになるヒトは違うなあ。自分には無理だな」と思って、せいぜいファンになるくらいでしょう。

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特別な元旦

子どものころはマジメに「一年の計は元旦にあり」と信じ、節目としての元旦を厳粛な気持ちで迎えるようにしていましたが、いつのころからか、「元旦は大晦日の翌日」「正月休みの中日」というのがわたしの中の位置づけになっていました。

でも、やはり今年だけは違う。おそらく、そうありたいと願うココロの表れだと思いますが、わたしとしては珍しく、家の近くの飛越橋からご来光など拝みながら合掌して、あの地面に何度も這いつくばって逃げ惑った大地震も自宅の壁中から水があふれ出て号泣した大雨も、そのすべてを過去の遺物にしたいと願うわけです。

『一年前とは全く違う風景の中での生活にもすっかり馴れました。熊本の風景はこれからどう変わっていくのか分りませんが、生き永らえさせていただいた幸運に感謝しながら、五十代最後の年をどう生きてやろうかと思案中です。』というのが、今年のわたしの年賀状の文面。

そうでした。赤いちゃんちゃんこを着る前に、何かやらかしておかなければならないのではあるまいか?などと殊勝なことを考える2017年の元旦なのであります。

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全否定

植物由来製品による健康被害(疑い)について

厚生労働省から日本心臓病学会宛に送られてきた通達です。青黛(せいたい)を摂取した潰瘍性大腸炎患者において、肺動脈性肺高血圧症が発現した事例が数件あることが判明したというものです。

青黛(せいたい)とは、リュウキュウアイ、ホソバタイセイ等の植物から生成され、中国では生薬、日本では染料(藍)や健康食品などに使われています。「近年、潰瘍性大腸炎に対する有効性が期待され、臨床研究が実施されているほか、潰瘍性大腸炎患者が個人の判断で摂取する事例が認められ」ているとのことで、警鐘が鳴らされたわけです。薬剤=毒物、自然界のモノ=安全というイメージを持つヒトは多いですが、実はどっちもどっちです。健康食品の効果が口コミで広がって自己判断で使うことによるトラブルは以前から後を絶ちません。

ただ、わたしが懸念するのは、「だから健康食品なんて怪しいモノを口にするのは一切止めなさい」と全否定する医師たちがとても多いことです。自分で調べてみて、信じられそうかどうかの知識を得ようとする努力はしてもらいたい。藁をもすがる思いの患者さんは当然自分の病気について可能な限りの情報を集めますし可能性があれば使ってみようとする。どうせ主治医に聞いたら「止めろ」「オレを信用できないのか」と頭ごなしに叱られるから、主治医に相談することなく使ってみているという患者さんはたくさんいます。主治医が一旦受け止めてくれるかどうかは、思いの外重要な要素です。医師は、日頃からこの手の話題に高いアンテナを張り巡らして自分なりの評価をきちんとしておいてほしいと思います。

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上品とは(後)

(つづき)

「お百姓さんが汗水たらして作ってくれたお米なのだから、一粒たりとも粗末にするな」と子どものころから祖母や両親から口やかましく云われて育ったわたしは、お弁当はまず蓋についたごはん粒から食べます。そんなわたしに対して、新婚のころ、「お弁当の蓋にくっ付いたごはん粒なんか食べないでちょうだい、下品でみっともないから!」と都会育ちの妻は頭ごなしにイヤな顔をしました。でもそんな妻も、今ではわたしと同じようにきちんと蓋のごはん粒を食べるようになりました。バブル当時の見栄やプライドの時代と違い、現代社会ではこれを勿体ないと感じられることの方がむしろ当たり前だと分かってもらえたのかなと思っています。

「上品」とはどういうことか? 「下品」とは? あまり考えることはありませんでした。どうでもいいことだと思うからです。一般的に、「上品」「下品」というコトバは周りからみた自分への評価を表すコトバだと捉えられています。だから、「他人からよく見られたい」という想いでつい見栄やプライドにこだわるのかもしれません。もちろんわたしもそれを否定するほど強い人間ではありません。ただ、ちょっとだけ自分の定義と違うのです。陳腐でありふれた(いい加減な発想の)提案をしたり、思いついたことを相手の気持ちも考えずに口にしたり、本当は思ってもいないお世辞を云ったりする行動を「下品」というのであり、自分に正直にマジメに取り組む姿、社会道徳に反しない生き方を普通にできることを「上品」という。「上品」は自然ににじみ出てくるモノだから、日々マジメに一生懸命生きていれば自ずと「上品」になる・・・あえて云えばそんな感じかしら。

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上品とは(前)

いろいろな場で名刺交換をしますが、最近仕事先でいただく名詞はどれもとても文字が大きくてカラフルでかわいいと感じていました。先日お会いした隣町の病院の保健師さんの名刺もそんな名刺。それに引き換え、私の名刺は・・・地味。シンプルで落ち着いているのですが、正直云って文字が細くて小さいので老眼のわたしは自分の名刺なのに文字(メールアドレスやHPのURLなど)をほとんど読解できません。

今回役職が変わったのでやむを得ず名刺を作り直しましたが、うちの施設の名刺はフォーマットの基本が決められていてあまり大胆な変更を認めてもらえません。「名刺はインパクトが大事だからもっと派手にしてよ!」とお願いしたことがありますが、「下品だから」という理由で却下された記憶があります。ハイクオリティ・ハイセンスが施設を作ったときのコンセプトだから「それにそぐわないものはちょっと」ということのようでした。同じ理由で施設内の掲示物もインパクトより品の良さを重んじ、多くのヒトの目に入るような場所でのポップで”下品”な掲示物は禁止なのであります。

名刺は名前と連絡先を確認するときのための覚え書きなのだから、実用的ですぐに探し出せて読めるものであるのがベストだと思っているわたしとは、センスの点で相容れないものがあります。そんな想いを、先日の名刺交換でふと思い出した次第です。見た目がどんなにキレイでも読めなかったら意味がない。わたしの名刺を読むヒトの大半はわたしと同世代かわたしよりむしろ上の年齢なのだから、わたしよりさらに老眼がひどいヒトばかりなのだよ!と云いたいところです。 (つづく)

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納豆の効果

某人気番組でねつ造事件が起きたために、もてはやされた挙げ句に突然全否定された感のある『納豆』。今でも、「納豆がカラダに良い」という話をすると、「それはウソだったんでしょ」と答えるヒトが意外に多いのには驚かされます。 そんな中、岐阜大学発信の『高山スタディ』というコホート研究の成果がThe American journal of clinical nutrition誌オンライン版に発表されました。

納豆が心血管疾患死の低下に関連~高山スタディ

35歳以上の男性1万3,355人と女性1万5,724人についての追跡調査で、「納豆・大豆タンパク質・大豆イソフラボンの摂取量と心血管疾患死亡率との関連を調べたところ、納豆の摂取が心血管疾患死亡率の低減に寄与しうることが示唆された」というものです。

理屈はどうでもいいのかもしれませんが、少なくとも納豆が心血管疾患予防に有効であることが証明されて良かったと思います。私自身は納豆が好きでも嫌いでもないので、毎日食べようとは思いませんが・・・常習的に食べ続けて損はない食材です。ただし、くれぐれも食べ過ぎにはご注意ください。これ、意外に太りますよ。

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誕生日

2007年12月27日が、このブログの誕生日です。書きたいことが溜まって、満を持して立ち上げました。

最初の記事は2008年1月3日の『地デジ対応』でした。久しぶりに読んでみました。

そうだよね。初心に戻るって大事。少しずつ、少しずつ。そんなことを、満9歳の誕生日に思ったのであります。

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再開準備

それなりにココロの準備は整ってきて、新しい思いつきメモが複数枚になってきました。

昨日も帰ってから何か書こうかなと思ったのだけれど、「そんな時間があるんだったら、今、他にすべきことがあるんじゃないの? 年賀状は書いたの? 講演のスライドは作り始めなくていいの?」という声がアタマの中に響くのです。「そらそうだな、そっちが先だな」・・・そう思って素直に断念したわたしです。

これまでと条件は何ら変わりないのに、よくもまあこれまで何年も何年も毎日書き続けてこれたものだなあ、と自分に感心する次第。

断念したからと云って、その時間で年賀状を作るわけでもなく、結局フェイスブックやいくつかのSNSに逃避して時間を費やしただけなのでありますが・・・ま、いいか。

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