雑草

先日の学会が開かれた東京国際フォーラムの地階に相田みつを美術館が常設されていることに初めて気づきました。学会参加証を提示すると無料閲覧できるというので、学会の空き時間を使って入館させてもらいました。

さすがは書家。彼の力強い筆さばきからみなぎるエネルギーがすごくて、小一時間かけて一回りしたらへとへとになりました。

彼が好んで使う文字。『土』『根』『雑草』・・・縁の下の力持ち、目立たないところで人生を支えて頑張るものに思い入れが強いのだろうと感じながら、でも、何かが違う気がして、じっと考えながら回っていきました。彼の根底にあるのは『雑草魂』なのでしょうが、それは名もない雑草が皆に踏みつけられながらもじっと我慢して歯を食いしばって頑張っている姿、あるいはその間にしっかりと地下に根を張り巡らしているしたたかさを思い描いている様に感じました。

でも、最近わたしは庭の草取りなどで地面に這いつくばって雑草と対峙しているとき、雑草に全く違う印象を持っています。「雑草は自由でいいな」・・・意味のない名前をつけられることもない(もちろん正式名称はあるのだろうけれど誰も気にしていない)から、それによるシガラミもなく、決められた場所に決められた様に咲かなければならない縛りもなく、生えたいところに気ままに蔓延ることができる。抜かれても切られてもしたたかに子孫を残し、根絶やししたがる人間どもの必死さをあざ笑うかの様にたくましく自由気ままに生き延びている。「うらやましいなあ」と心から思う今日この頃なのであります。まあわたしは社会的にも割と雑草的な自由さを頂いてる方だとは思いますが、雑草みたいな生き方ができたら幸せだろうなとか思うておるわけであります。

 

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覚えようとする力

「あー! この日は宴会の誘いに『行けます』って返事したけど、他の宴会があったの忘れてたよ!」

最近スケジュール帳をつけ始めた妻が、そのスケジュール帳見ながら叫びました。ダブルブッキングしたようです。もともとスケジュールを覚えるのが苦手ですぐに忘れてしまうからつけ始めたようだけれど、そのスケジュール帳を確認しないまま返事したのでは意味がないじゃない。彼女はよくわたしのスケジュールも聞き流してあとで大騒動になることが何度もありました。だからスケジュール帳に何でも書き込む様になったわけですが・・・。

わたしはスマホのスケジュール帳を使ってスケジュール管理をしています。何もかもを書き込んでいるわけではありません。仕事上の行事などで、そこに書き込んでいないものは実は少なくありません。それを全部覚えているわけではないのですが、それでも、臨時会議の打診をされたときなどに、「あれ、その日は、何かがあった気がする」と感じるときには必ず何かの行事が隠れています。大した根拠があるわけではないのですが、これはやはり日頃の訓練の賜物でしょう。わたしの特技なのかもしれません。

要するに、覚えようとする気持ちがないとすぐに忘れてしまうのが常。日ごろから覚える習慣がない人は尚のこと、記録をするとそのときに覚えそうに見えて、逆に記録を取るようになってかえって記憶する力が衰えるものであることを、妻が証明している気がしました。

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疑心暗鬼(後)

(つづき)

被害者意識の塊になっている今日この頃だけど、実は先日反対の立場になったかもしれない経験をしました。街中の研修会でたまたま久しぶりに会った元同僚ドクター。軽く挨拶を交わしましたが、「久しぶりです。お元気ですか?」くらいの時候の挨拶しか話すこともなく、机も離れたところに座って講義を受けました。帰るときにもまた階段で出会って挨拶。でもそのままわたしは何を話すでもなく市電の乗り場に足早に去って行ってしまいました。別に彼を避けているわけでも何でもない。昔ちょっと心のすれ違いで向こうがわたしを避けていた時期もあったようだけど、今はそんな関係ではなくなっていると思っています(少なくともわたしの方は)。ただ、帰りの電車の時間が気になって急いでいただけ。でも、「また会いましたね」という相手の差し出した言葉にきちんと返答していなかった気がして、電車に乗ってから妙に気になり始めました。別に何の他意もないのに、冷たくあしらった様に思われなかっただろうか。「 ちっ、なんだ、あいつ」とか思われなかっただろうか。

ヒトの心はとても複雑で、そしてとても脆いもの。本当はとても単純なのに、すぐに自信をなくして疑心暗鬼になる。そのままメンタル不調になるのに時間はかかりませんし、これに歳は関係ない様です。もっと図々しい性格になりたいものだなあと思いつつ、ここにこうやって公言することで、少し気分が晴れた気がしています。

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疑心暗鬼(前)

最近、若いスタッフのわたしに対する目がおかしい。何? わたし、何か気の障るようなことをした? 何か心無いことを口走った?  どうも、一人ではないようだ。何人か、わたしに対する言葉遣いや態度の端々に、意図的に避けているような、侮蔑しているような感じがするのだ。何か、気持ち悪い。気になるとついいろいろ考えてしまう。

きっと、世間のメンタル不調の多くがこんな感じの疎外感から始まっているのではないかしら。昨日まで普通に話していたのに、何か急に態度が変わった気がする。すると、その隣の人も自分をじっとみて眉をひそめているように見える。皆が、影でヒソヒソとわたしのことを話しているのではないか? 仕事や学校に行くのに気が重い。何がいけないのか 、誰かわたしにちゃんと話してよ! なんて、云ったら一層そっぽ向かれるかもしれない。そうか、もしかしたらこれはわたしの考えすぎなのかも。そのうち元に戻って行くんじゃないかしら。でも、戻らなかったら、どんどん酷くなっていったらどうしよう。

「ねえ、最近あの子変じゃない? わたし達をみて勝手に目線をそらしたり、暗い顔したり。何か感じ悪いよね。わたし達、あの子に何もしてないよね。何を勝手に拗ねてるのかしら。いいや、放っておこう」・・・もしかしたら、こんな感じなのかもしれない。疑心暗鬼になってお互いに誤解しているだけとか。でも、こういうことは他人事だから云えるのであって、当事者はそうはいかない。自分の取り越し苦労だと放ったらかしていたら、ちっともわかってない!ともっと多くの人に総スカンを食わせられるかもしれないじゃない。  (つづく)

 

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「適量」の在り方

CareNetにたまたま並べられた2つの報告の共通するキーワードは『適量』。

飲酒は適量でも認知症のリスク要因/BMJ

日本人の脳卒中予防に最適な身体活動量~JPHC研究

前者は、オックスフォード大学のAnya Topiwala氏らが、30年にわたるWhitehall II研究のデータを用いた縦断研究の結果、「アルコール摂取は、たとえ適量であっても海馬の萎縮など脳に悪影響がある」と報告したもの。後者は、日本人の多目的コホート研究であるJPHC研究(Japan Public Health Center-based Prospective Study)を評価したところ、「日本人では過度の激しい活動は出血性脳卒中の予防に有益ではなく、脳卒中予防には中等度の身体活動量が最適であろう」というもの。

書いてあることはさほど新しい知見でもない気がするのであまりインパクトはありません(前者はこれまで「適量はむしろ何も飲まない人より良い」と云われてきていたから酒飲みには気になります)。ただ、『適量』というコトバが一律な定義になってしまうのが、やむを得ないことではありますが、ちょっと気に入りません。各人各様の『適量』があまりに主観的で(アルコールでは「ほろ酔い気分になる一歩手前」が『適量』だと教わりました)、どうしてもこういう統計学的研究では限界があります。自分に正直に分析したとき、自分にとっての『適量』はやはりあくまでも主観的であるべきで、主観と客観に差があるときに客観的指標に振り回されすぎていると、自分の人生を踏みにじられた気分になります。そんなわたしって、おかしいですか?

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プライドと適応(後)

(つづき)

研修医のころ、うちの病院で一緒に研修を受けた同級生は、「この世界(救急医療)は自分の求める医療の世界とは違う」と感じて、内科から精神神経科教室に入り直しをしました。方や、精神科の研修医になって入院患者とのキャッチボールをしながら、「俺のいる場所はここではない」と感じて、救急医療の門を叩いたわたしの元ボスの生き方もあります。ノーベル賞をもらうような優秀な学者さんは総じて不器用で、テキパキなんて程遠い仕事ぶりです。

それでいいのではないか・・・自分が今の仕事の質に合わないと感jじたならば、辞めてもっと自分に合うものを探しても間に合うのではないか。メンタル不調で復帰できない皆さんをみていると、そんな思いにかられます。

ところが、「そんな簡単な問題ではないのだ」と担当者から教えてもらいました。そこには、自分が自分の実力を発揮できない不甲斐なさの感覚を許容できないという自分の問題ももちろんあるのですが、それ以上に『世間の目』が大きいのだと。家族の期待、周囲の羨望の目が大きいのです。難関を突破して日本でも有名な大企業に就職できたとか、有名な一流病院の職員に採用されたというので 、家族や親戚のみならず近所の人たちにまで祝福されて意気揚々と就職した手前、辞めると挫折したと思われるから平然と辞めることはできないのだと。これは、とても大きな壁かもしれません。「自分はここには合わないと判断した」と息巻いたところで、世間では「あそこで通用しなかった」「ついていけなかった」と評価される・・・全くもって理不尽な越えられない高い壁が立ちはだかる。困ったものです。何から始めたら、この壁を越えられるのでしょうか?

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プライドと適応(前)

職場の衛生委員会でメンタル不調の職員の話になりました。わたしは産業医として他の企業の従業員のメンタル不調の対応もしているので、意見を求められました。

わたしの正直な感想は、『身体を壊してまで今の仕事にしがみついていても何の得もないので、若ければ若いほど、早く辞めればいいのに』です。もちろん、不調の誘因は千差万別です。仕事に慣れないまま自分の力はもっとあるのに十分発揮できていないと感じている人。同じ職場の上司にいじめられたり叱られたりするのでだんだんイヤな気持ちになった人。大きな失敗をして自信をなくしてしまった人。などなど。

医療の現場では、救急医療をそつなくこなせる人間の方が優秀で格が上だという評価を受ける風潮が昔からあります。特にうち職場のような世間的にも認められた高いレベルの病院では、「それができて一人前」という機運が昔からあり、皆がその水準に達しようと努力を惜しまない空気があります。でも・・・合うか合わないかという点では、きっとそれは間違いだと思っています。もう30年弱、ここでずっと働いてきたわたしだから堂々と云えるのかもしれません。もっと落ち着いた場所で、じっくりと取り組んだ方が実力を発揮できる学者型の人。瞬時の判断でテキパキと救急をこなすよりも、一人の患者さんにしっかりと寄り添ってあげられる人間性の高い人。そんな優秀な人材なのに救急現場で適応できずに挫折するのは、そんな世間の風潮が邪魔しているのではないかと思います。「救急をテキパキこなせられる人は、そんなことくらいその気になれば簡単にこなせるはずだ」と世間は勘違いしています。全然違う道なのです。 (つづく)

 

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ドライブレコーダー

昨日、愛車にドライブレコーダーを装着しました。さすがに昨今のニュースを見ると、自分が運転中にトラブルに巻き込まれない確率は決して高くないと感じたからです。

装着したレコーダーは『KENWOOD スタンダードドライブレコーダーDRV-610』・・・それなりにしっかりしたレコーダーです。高画質はもちろんのこと、盗難やイタズラにも対応しています。地震の補修の出費もある中ではバカにならない値段ですが、なんとか節約して頑張りましょう。

さて、ドライブレコーダーを装着して素直に感じることは、「誤魔化しが効かないぞ」ということ。信号に対する交差点の突入の仕方にしろ、車線変更にしろ、加速の状況にしろ、その時の時速にしろ、何もかもが記録されているのです。それは、何かあった時に自分を守るための記録なのだけれど、自分を守れるか守れないかは、自分がちゃんとした運転をしているかどうかということが前提にある。5、6年前にバイクと接触事故を起こしたわたしはその後異常なほどの安全運転をしていたのだけれど、最近少し緩くなっていた気がしていました。

それでも自分なりに安全運転している自負がありましたが、レコーダーが装着されたら、途端に不安になりました。改めて確認してみたら、いつも時速50キロで走っていた江津湖畔の道の制限時速は30キロでした。いつもなら黄色で突っこんでいた交差点も早々に止まるようになり、前の車にくっつくことも意図的に避け・・・必要以上に安全運転な自分。

リトルミイのコトバじゃないけれど、『みてるわよ、あなたがしていること。あのね、神様じゃないわよ。もうひとりのあなたがよ。もうひとりのあなたがあなたをみているのよ。見放されないようにね。嫌われないようにね』って、あれですね。もうひとりの私以上に、きちんとこのカメラも見ています。ありがたいことです。

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同窓会

人生の区切りの年齢が近づいてきて、同窓会を画策する諸氏の動きもちょっと目立ち始めてきました。わたしの場合は、小、中、高、大学の中で、中学の付き合いがダントツに濃いのですが、最近になって地元大分だけでなく、福岡や東京での集まりも目立って多くなってきていて、今月の初めにもお江戸でプチ同窓会がありました。

さて、そもそも『同窓会』という存在は、そういうものなのでしょう。こういう会に可能な限り顔を出す連中がいる(わたしもその中のひとりですが)一方で、「同窓会なんて無意味」「過去に関わっていても進歩はない」と云って若い頃から絶対に参加しない同級生もいます。

確かに、この歳になっても彼らと会うと瞬時に中学生に戻るのですが、私たちは昔の思い出に浸りたいために盃を何度もかわすのでしょうか。現実のしがらみの色々を忘れるために集まるのでしょうか。それとも、みんなでお互いの悩み事を慰め合うためでしょうか。そういうものと何か違うような気もしますが、それでも、そういう席で昔話になった時に、よくぞそこまでという位に事細かに覚えている人間と全く何も思い出せない人とがいまして、後者が前者によって記憶の蘇り(賦活)効果をもたらしてもらっていることは間違いありません。もしかしたら、それが一番の意義なのかも。わたしもどちらかというと後者の群に属するので、少なくともわたしにとっては認知症予防に重要な役割を果たしているように思われます(笑)

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乳製品のこと

抗加齢医学会総会の話題も今回までにします。

国際医療福祉大学の太田博明先生のお話『健康寿命延伸のためのロコモ・メタボ予防に対する乳類とMBPの効果』をランチョンで選んだのは、典型的なアンチ牛乳派のわたしを論破してくれるような内容が聞けるかと思ったから。でも、残念ながら途中でついうたた寝などしてしまいました。牛乳を完全否定する気はありませんが、牛乳の風評被害が風評被害であることを証明するデータを並べているのを聞きながら、それはきっと正しいのだろうけれど、それが牛乳でなければならない根拠が分からないという部分が理解できなかったのが残念でした。

そういうわけで、その内容に言及はしませんが、実はその翌日の実地医科スキルアップセミナーで京都大学名誉教授の和田洋巳先生が云われたことの方が印象に残りました。和田先生はもともと消化器外科医でしたが食事でがんを治す治療に目覚めて実践している先生。その先生に「当然、ヨーグルトとか牛乳は大事ですよね」と質問した人がいて、そのときに即答されたのです。「あまり意味がないと思います。乳製品はカラダがアルカリ性の環境にならないと骨に吸収されず大部分が大動脈壁に付着します。乳製品はそれ自体が酸性になる環境が多いので、乳製品だけで骨密度を高めるのはほとんど期待できません」と。

その真偽は存じませんが、とても理論的に話される和田先生のコトバにはとても説得力がありました。『和田屋のごはん』を買って、読んでみようかしら。

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なぜ、内臓脂肪か?

引き続き、先日の第17回日本抗加齢医学会総会の話題から。メタボリックシンドロームの第一人者、慶應大学の伊藤裕先生の講演『メタボエイジングとイムノエイジング結ぶもの』をランチョンセミナーで拝聴しました。

食べすぎと老化やメタボの関係はずっと云われてきましたが、善玉脂肪が悪玉化するのに黒幕になっているのが炎症反応で、その中心になるのが腸管であり腸内細菌であるという、新しい概念がにわかに割り込んできました。なぜにメタボは皮下脂肪ではなくて内臓脂肪が関わるのか? 内臓脂肪というのは腸の周りにある腸間膜に付いた脂肪のことですから、腸と隣接しています。実は、高脂肪食を食べるとごく早期から腸管に炎症が起き、マクロファージが呼び寄せられて炎症反応が活発化することによって腸管粘膜を障害してバリア機能を破綻させるのだそうです。動物実験では、高脂肪食を大量に取らせると炎症によって腸の長さが短くなることが示されました。1ヶ月で大腸の炎症を起こし、それが隣接する肝臓の炎症を誘発し そこから内臓脂肪に炎症が及ぶという理屈でメタボが発症するのではないかと、伊藤先生は説明されました。高脂肪食でなくても何かを食べると腸管で炎症が起き、食べないと炎症が落ち着くのだという。つまり、腸管で起きる炎症は太っていなくても起き、逆に 腸管に炎症さえ起きなければ太っていてもメタボにはならないことを強調されました。

さて、ヒトが食べたものをエネルギーに変えるか炎症反応をもたらすかは、腸内細菌が決めるということがわかっています。例えば、腸内細菌が産生する短鎖脂肪酸は腸内バリア機能を低下させ、腸管免疫担当細胞群の機能を低下させます。また腎臓の働きと腸の働きはいつも連動していて、腎不全の人の腸管には萎縮が見られます。腎臓が悪くなると腸も悪くなり、腎臓が良くなると腸も良くなる、あるいは腸が良くなると腎臓も良くなるということから、その何れもが腸内細菌の仕業だということがわかってきたそうです。

なかなか興味深いはなしですが、奥底に一層難しい関係が隠れていそうで、わたしの理解力ではここまでが限界でした。ま、要するに『メタボでは、筋肉を鍛えるよりも腸を鍛えろ、ということですね』と総括した座長先生のことばが全てかもしれません。

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笑いの抗加齢効果

先日参加した第17回日本抗加齢医学会総会の教育講演で、福島県立医大の大平哲也先生がレクチャーしてくれた『笑いの抗加齢効果』は、とても楽しかった。笑うことのココロとカラダに及ぼす影響の科学的根拠を披露していただきました。

●人は歳とともに笑わなくなる。男性80歳以上のうち、毎日笑う人は1/4だけで全く笑わない人が1/3もいる。
●笑わない人ほど認知機能が低下する。笑わない人ほど外出しないので身体機能も低下している。
●声を出して笑うことが『笑う』である。歳とともに『は』の間隔がゆっくりになる。若い人は「ははははは」と笑うが、年寄りは「はっはっは」と笑う。
●笑うことによって、アレルギーが改善し、EDも改善する。笑う人は脳卒中や心筋梗塞になりにくく、糖尿病の血糖コントロールがうまくいく。笑っていない人ほど糖尿病になりやすい。
●笑いの運動効果~15分笑うと40カロリー消費できる。100回笑うと15分のエアロバイクの運動量に匹敵する。笑っていると消費エネルギー量が2倍に増える。「笑いすぎるとお腹が痛くなる」は腹式呼吸の証である。だから、『笑いながら歩く』のがよい。結婚するときは笑いのツボが同じ人を選ぶべきである。 笑いのリラックス効果によって、脳卒中予防や認知症予防の成果が報告されている。
●笑いは、家族や友人と話しているときに最も多いし、人と人のつながりが多いほど増える。
●笑いは増やそうと思えば意識するだけで増やせる。
●面白くなくても、ただ笑うだけでも十分な効果があることが、インドの『笑いヨガ』によるストレスホルモンの減少効果で確認されている。

おもしろい。みなさん、思う存分実行されたし。

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脂肪肝のもたらすもの

ここに来て日経メディカルが脂肪肝の記事をまとめて出しています。

「たかが脂肪肝」じゃないんです

糖尿病第4の合併症「脂肪肝由来の肝硬変」

要するに、ウイルス肝炎でもなく、アルコール性でもない脂肪肝(非アルコール性脂肪性肝疾患)に将来肝硬変や肝臓がんを誘発するものがあって近年一気に増加してきているというのに、当の本人だけでなく一般臨床現場の医師も甘く見すぎているという警鐘です。メタボや糖尿病では必須のアイテム『脂肪肝』は、本当は危険なのにすぐに慣れてしまう特徴があります。ウイルス性肝障害やアルコール性肝障害はターゲットがはっきりしているのでまだやる気を起こさせられますが、主犯が食べすぎ・飲み過ぎ・運動不足の非アルコール性脂肪性肝疾患は数多の共犯者だらけなのですぐに逃げ腰になりますし、糖尿病などがあれば完全なる言い訳になります。痛くも痒くもないからちゃっかり共存してしまう存在。ところが、非アルコール性脂肪肝の1割が10年後には肝硬変になり、その中から肝臓がんが生じるということは数年前にはすでに医療現場の常識なっていたはずです。脂肪肝はかなり進行しないと肝酵素の値が上昇しませんし、重篤な肝硬変などになるとかえって酵素の値は低下してしまったりします。

幸い、人間ドックでは必ず腹部超音波検査がありますから、脂肪肝の有無は簡単にみつけられます。腎臓の色と比べて差がないのが本来の肝臓の姿ですが、脂肪肝になると余ったエネルギーを脂肪細胞にして肝細胞内に詰め込んだ”フォアグラ"状態を作るので白く変化します。ぜひ、自分の検査結果を確認してください。なにしろこれは、腹を空かした挙句にさらに食えなかったときにやむを得ず使う最後の砦の貯蔵庫ですから、自分をいじめてやらない限り絶対に出ていきません。ちょっとくらい痩せても減りません。

これからも、結果説明をするときにとことん嫌味を云って、その気にさせるように頑張ろうと誓いました。

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がんになった彼

同級生ががんの手術を受けました。どうも妙齢になってきて、あちこちでがん罹患のはなしを聞くようになりました。彼の場合は、開腹手術ではありましたが早期発見だったので部分切除術で済んだと聞いています。術後経過も順調で、おそらく転移などの可能性も低いだろうと思われます。

そんな彼が、先日の宴席で「ボクは、酒とか飲んでいても大丈夫なのかな?」と不安気に相談に来ました。日頃から不摂生していたわけでもないのに、どうして自分はがんになったのかと悩み、これから何をしたらいいのだろうかと不安になっている様子が窺えます。

悪いことをしていなくてもがんにはなるのです。今や2人に1人はがんに罹る確率なのだからがんになったことは大した問題ではない。最近の芸能人のがん宣言の頻度が急に多くなっているのは、皆が人間ドックなどを受けるようになって早期診断が付くようになってきたからではないかと推測します。重複がんを何度も患った末に亡くなった同級生もおりましたが、彼のような特異体質でない限り、早期がんなら大部分は後腐れなく治ります。むしろわたしの身体のように全身が動脈硬化のカタマリでいつ頓死するか分からない人生を送る方がはるかにココロが重い。早期がんはそこだけ取り除いてしまって、あとは活き活きとした人生を送れば過去の思い出でしかありませんが、わたしの動脈硬化は一生の足枷で、治ることのない不治の病・・・絶対にこっちの方が大変だと思います。

「あんたは心配しなくても大丈夫だよ」と一緒に酒を酌み交わして、一笑に付しました。

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紫の光と近視の関係

第17回日本抗加齢医学会総会の理事長提言で慶応大学の坪田一男先生が話された『光環境とアンチエイジング医学』の中で、やはり一番ショッキングだったのは『バイオレットライトと近視』の話でした。『ブルーライトとサーカディアンリズム障害・生活習慣病の悪化』についてはもはやわたしの中では常識中の常識なのですが、「光の中から紫色が消えると近視になる」ということも「窓を閉めた瞬間、紫色がカットされる」ということも初耳でした。

近視になるのは眼球の長径が長くなって焦点を網膜上に合わせられなくなるためですが、紫色の光がその眼球が長くなるを抑制する効果があるのだそうです。だからバイオレットライトを目に浴びると近視になりにくい、近視を進行させにくいというわけです。ところがこの紫色の光、窓ガラスでカットされてしまう。窓を開ければ室内でも存在しているのに、窓を閉めた瞬間に消えてしまうのです。

今、世界的に近視が急速に増えています。それはなぜか。子どもたちが外で遊ばなくなったから。窓を閉め切って家の中で遊ぶから。「一日に2時間外で遊べば、近視にはならないのです。あるいは窓を開ければいいのです」と坪田先生が強調されました。でも、大気は汚れまくり、外で遊ぶと変な輩に連れ去られる危険性もあり、今や子どもを一人で外に出すこと自体がナンセンスだと云われる時代です。子どもが外で遊べない環境にあるのです。むかし、わたしたちが子どもだったころ、目が良いのは勉強もせずに本も読まずにバカみたいに遊んでばかりいるからだ、と親に叱られたものですが、理由はそうではなかった。

さらに、バイオレットライトは窓ガラスだけではなくて、めがねのレンズ越しでもカットされてしまう。コンタクト・レンズも一部を除いてカットされてしまうそうです。だから、『めがねをかけると近視が進む』なんてナンセンスな俗説だと患者さんの訴えを一笑に付していましたが、実は大正解だったようなのです。・・・そうか、そうだったのか。

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何らかの制限をかけるのがアンチエイジング(後)

(つづき)

「少なくとも、規則正しく食べている人がカロリー制限をしてもメリットはなく、むしろ骨密度や筋力の低下をもたらすことになるので、特に若い女性のカロリー制限はかえって危険である」と山田先生は強調しておりました。フレイルに関連するマーカーについて、カロリー制限やタンパク質制限では有害ともいえるデータが並べられ、一方で糖質制限ではそれがないそうです。

糖質制限が生活習慣病やメタボ関連の病気に有効であることはそれなりにわたしも理解をしてきています(やせるかやせないかという次元の論争ではありません)。ただ、穀物が主食である日本人にとって、ごはん大好き人間の多い日本人にとって、厳格な糖質制限や治療レベルのケトン体食をいつまでも継続するのは実質不可能(できても続かない)です。『緩めの糖質制限』というやり方は大して食事ストレスがないだけでなく、データも良くなるので続けるためのモチベーション維持にも有効であることを理解しました。

ただそれでも、わたしの持論は「現代人は糖質を減らすならタンパク質や脂質も一緒に減らしてもそう困らない(制限ではなく単に「食い過ぎない」というだけのこと)はずだ。カラダが欲するときに欲する量だけ食ってそこで止めてしまえばそれでいい」というものですので、世間の学者さんが主張する「糖質制限をするなら高脂肪食は避けて通れない」という理屈はいまだにどうしても理解できません。

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何らかの制限をかけるのがアンチエイジング(前)

「先生の質問の根本には、『食事制限は”がまんすること”』という前提があるように思われますが、この方法は”がまん”はないので、『いつまでするか?』とか『どれくらい改善したら制限を緩めてもいいか?』などという概念がもともとありません。続けたいだけ続ければいいことです」

今年の日本抗加齢医学会総会(第17回)は1週間前に東京でありました。わたしが一番楽しみにしていた北里大学の山田悟先生の講演<緩やかな糖質制限食、ロカボが拓く明るい未来>の講演後に出された座長からの質問に対する先生の答えが、まさしくロカボの真髄だと思いました。

何らかの制限をかけるのがアンチエイジングではあるが、それならメタボや生活習慣病に対する食事制限は何がベストなのか・・・カロリー制限か糖質制限かタンパク質制限か・・・いまだに論争が絶えません。実際、このセミナーでも糖質制限推進派の山田先生の3題後にはタンパク質制限推進派の古家大祐先生(金沢医大)の講演がありました。山田先生のやり方は”緩い糖質制限”です。「カロリー制限もタンパク質制限も年齢に関連した疾患(代謝性疾患やがんなど)には有効であることは間違いないけれど、問題は低栄養に伴う弊害である。たとえば、若年者に食事介入すると食べない人の方がかえって寿命が短くなるというデータがあり、カロリー制限による低栄養の問題が無視できません。年齢が上がるとフレイルとかサルコペニアとかの問題にも繋がっていきます」と云われていました。 (つづく)

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検査をしてもらったら?(後)

(つづき)

病気の相談を受けたときにこっちが咄嗟に医療的な頭の巡らせ方をしたそのままを口にしているのがいけないのだと思いますが、病院は薬屋さんやデパートではありません。その症状で何の検査をするかは受診先の医者が考えて決めることです。検査を受けるために受診するわけではないのに、いつの間にか受診者が検査を指定しようとしますし、想定していた検査をしてくれないと不安になり、不満を持つ。そして結局、自分の思った検査を受けたくて人間ドックを申し込んだりする、本末転倒の流れになる・・・これは、相談を受けたときのわたしたちのコトバの選択が悪いのだと思います。「脳梗塞かもしれないから一度脳神経の専門家を受診してみたら?」「膵臓がんや胆のうがんが気になるから念のために専門医を受診して相談してみたら?」と云えば良いこと。常日頃から注意しておかねば、と思いました。

この風潮は、きっといつの間にか世に溢れるようになったテレビの健康番組にも責任があると思います。名医と称する医者が出てきて「こういう症状のときはこういう検査を受けると分かります」みたいなことを気軽に口にするから、当事者は自分で受けるつもりの検査を勝手に決めてしまう。保険診療の世界の中で、問診をきちんととることなく、診察をすることなく、希望する検査をほいほいする医者はヤブ医者か営利目的のニセ医者。その検査が本当に必要かどうかは、名医なら問診と診察でだいたいわかるものです。

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検査をしてもらったら?(前)

「あれだけパットの名手だった〇〇さんのパットが最近どうもおかしいんだよね。あんなパットミスなんか絶対しないヒトだったのに」
「たしかにおかしいですよね。もしかしたら脳に小さなラクーナ梗塞とか起こしているかもしれないから、一度MRI検査とかしてもらった方が良いんじゃないですかね」

「友人の●●さんが、特に何もしていないのに2週間で4キロも体重が減った、と心配しています。あれだけ好きだった酒を全然飲みたくなくなったそうだけど、食欲は普通にあるし吐き気や体調の不具合もないそうなんですよ」
「すい臓がんや胆のうがんが心配だから、念のためにお腹の超音波検査やCT検査をしてもらったらどうですか?」

知人からの病気の相談などあるとこんな返事を普通にしています。だれも違和感を感じませんけれど、こういう答え方は本当はあまりよろしくないのではないか、と思うようになりました。

(つづく)

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曖昧な公文書

研究会の日時の変更の件でお知らせしております。

(中略)

大変申し訳ございませんが、ご出席の有無を何卒宜しくお願い致します。

***********

ある組織から、こんな連絡が来ました。これを書いたヒト個人に何の不満もありませんが、何か最近こういう乱れた文章表現をする人が増えている気がします。この何となく行間を読ませようとする文章に違和感を感じることはできましたか。何を求めているのか、分かるようで分からない文章。日本人なら皆まで書かなくても雰囲気で分かるだろう的な表現ですが、「ご出席されるかどうかを再確認しておりますのでお知らせください」「ご出席の有無について改めてお知らせください」・・・この程度の文章表現をしても決して下品ではありますまい。

最近、お役人たち(というか公務員関係の人たち)が、公の文章に曖昧模糊なちょっと日本語としては質の悪い表現の発信をしているのによく遭遇するのですが、これは、チェックできる上司がいなくなったから(大体わかりゃいんだよ的な感性)なのでしょうか。そんなことを思うとき、わたしももっとスタッフの公文書の日本語チェックには目を光らせておかなければならないのではないか、と感じた次第です。

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デジタルの割り切り方

検査をした時の心拍数が49bpmでも51bpmでも何ら違いはなく、どっちにしても「脈が遅い」であり、洞性徐脈(きちんと電気信号が出てきてきちんとつながっているけれど、そもそも電気信号の大元がゆっくりしている)の傾向であることに変わりはありません。でも、前者は異常であり後者は正常です。早い方も同様で、99bpmは正常だけど100bpmは洞性頻脈です。この境目に何の差もありません。1か2違うだけで何も変わらないのだからそう目くじらは立てるな、とわたしも思います。でも、それじゃ102はどうなのか、103は? ここにアナログの弱点である優柔不断さが顔を出します。101がいいのならば102もいい? それなら103も似たようなもの? 区切りができませぬ。

終業時刻16:30に対して16:29に打刻したら確かにそりゃ給料泥棒でしょうが、始業時間8:00に対して、7:59はセーフだけど8:01のタイムカードは遅刻になるのはどうか? 一緒に出勤したのに単なるタッチの差で前科者になるって、納得いかない? まあ、始業時間なんだから、まちっと早よ来んかい!とは思いますが。

意味があろうとなかろうと、世の中の決めごとには連続するものでも線引きがあって、その境目には場合によっては天と地ほどの違いができてしまいます。連続しているものなのにそれは何となく理不尽だなあと思っていたのですが、最近、それもしょうがないかなと思うようになってきました。どこかで区切らないと物事は整理ができませぬ。はい、あんたは合格、あんたは不合格! 試験だって日常生活だって、白黒つけるにはデジタル的な割り切り方をしなければ。温情は禁物。心を鬼にいたしましょう。

実際、そんな境目の判定は、切り捨てられた方が良かったりします。ギリギリで合格するとあとあと大変です。落とされた人の方が心を入れ替えて頑張るかもしれない。どっちが落ちこぼれになりやすいか、は想像に難くありません。あれ、何の話を書いてましたっけ?

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どうでもいい所見

心電図検査で見られる基準より一、二拍少ないだけの洞性徐脈とか、胸写のいつからあるのか分からないような肺尖部胸膜肥厚所見とか、眼底の年齢相応だと思われる動脈壁反射亢進所見とか、きっと読影担当の医師の価値観や性格だけで有りにしたりしなかったりするような『どうでもいい所見』が、健診現場には沢山あります。大勢に何の影響もなく、臨床的に何の問題もないこのような所見でも、受診者にとってはとても気になるらしい。「前回はあったのに今回なくなったのは何故か?」「この所見があったりなかったりするのは何故か?」「今回初めて指摘されたのは何が原因か?」と妙に食い下がられます。「これは読影者によって読んだり読まなかったりするけれど、ほとんど問題のない所見ですから心配は要りません」と説明はするけれど、その怪訝そうな表情を見る限り、納得はいってないようです。

同じ人間の同じ検査なのに、どうして見る医者によって診断が違うのか? ずっと同じ施設で受けているのに前と比べていないのか? もしやこれは見落としではないのか? とそんな疑念が顔一杯に書かれています。1つ疑えば全てが信用できなくなるもの。他の検査結果もそんないい加減な対処なのではないか?と疑われる可能性もあります。そんなものその日の撮影条件だけでも違うんだから、見えてもいない所見を、前回は読んだからといって書くわけにもいかず、そう話すと今度は、「そんないい加減な機械を使っているのか? 安物を使うからだ」と叱られて、「今まで行っていた◯◯センターでは毎回きちんと指摘されていたのに・・・」とか嫌味を云う人もいます。

「どうでもいい」とかいう表現を使うから気分を害するのかもしれないけれど、だってホントに、どうでもいいんだもの。

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夜を取り戻す

2編めはこんな感じ。かなり前にここで書いたものの書き直し。

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『夜を取り戻す』

(前略)

灯りは、白熱灯から蛍光灯を経て今やどこもかしこもLED。夜中でも真っ昼間のような明るさに煌々と照らされ続けていたら、体内時計なんてすぐに壊れます。そのうち、スズメが真夜中の空に悠然と飛び交う姿が珍しくなくなるかもしれません。これが”進化“だとしたら、ちょっとゾッとします。

最近は、生活習慣病を『睡眠』で語る時代です。生き物は眠っている間に自らの細胞を修復し、混線寸前の脳内の記憶の整理をします。睡眠の質の確保が健全な人生を送る上で必要不可欠であり、質を上げるためには寝る直前にモノを食わない方がいいし、眠くなってから床に就くのがベスト。そもそもいい睡眠を得るためには、まずきちんと朝日を浴び、朝の空気に満たされなければならない。「夜遅くまで仕事しているから絶対にムリ」と頭から否定していては、生きていけない時代です。床に就いて意識がオフになった瞬間からカラダの中では数多の細胞が昼間とは別の顔をして私たちのために必死に修復工事をしてくれます。だから、きちんと眠る生活を数日試したら、目覚めの質が全く変わったことに気づくはずですし、生活習慣病の多くがそれだけで改善するのに驚かされるでしょう。

私も何度も試したので分かっています。分かっていますが、つい誘惑に負けてしまう。夜はワクワクするほどの誘惑にあふれ、明るい青い魅惑の光が目を通して覚醒の世界に引きずり込むのですもの。魔物の造り賜うたこの煩悩の世界は、食事のそれに似て一筋縄ではいきません。それでもすべての欲望をかなぐり捨てて床に就いてみたら、きっと世界が変わります。私もこの機会に今一度トライしてみることにします。

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繋がっていること

連載コラムの〆切りを前にどうしてもしっくりくる文章が出来上がらなくて、とりあえず3つの文章を書きました。職場のスタッフに見せて好評だった1編を提出したので、残り2つはボツになります。何か勿体ないので、一部をここに書いておきます。

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『繋がっていること』

(前略)

「切れたモノを繋ぐのはものすごく難しい。でもほんの少しでも繋がっていたら次に進める。そんな想いでこのイベントを企画しました」・・・先日、ある復興イベントを開催した実行委員の学生さんがそんな気持ちを語っているのをラジオで聴きました。そうなんです。完全に切断されてしまった神経をつなぎ合わせるのは神の手を持つスーパードクターでも容易ではありませんが、少しでも繋がっていればそこから生き返る可能性がある。切り倒された樹木は枯れるだけだけれど、深い傷を負った木はむしろ前より逞しく生い茂る。ラジオから流れる熱い想いを聴きながら、そんなことを考えた次第です。関わり合いが消えてしまったら終わり・・・昨年、避難所巡回をしていた時に『声をかけること』が如何に大きな力になるかを実感した私ではありますが、その後その想いが徐々に萎えていっていることを否めません。被災した直後は、今まであいさつすらしたことのない近所の若者や老夫婦と身内の様に肩を寄せて励まし合いました。あの時の“お節介と図々しさ”は、変わりゆく私たちの街と人間関係の中で、人として、今一度呼び戻さなければならない重要なことだと感じます。

そよ吹く風。まったくの無風ではその存在すら気づかれないのに、初夏の蒸し暑い日差しの中でほんの僅かでもそよいでくれるならば、その圧倒的な存在に皆が感謝するでしょう。

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長生きホルモン

アディポネクチンは脂肪細胞から分泌される善玉ホルモンの親玉で、『超善玉』と呼ばれているホルモン。まさしく脂肪細胞の存在価値のほとんどは、これを分泌させることです。昨年の4月からうちの施設の人間ドックメニューの中に組み込まれていますが、正常値が4μg/mlなのに対して、2~3μg/mlの人もいれば50~60μg/mlの人もいます。このホルモンは動脈壁をパトロールして適宜修復をすることで心筋梗塞になるのを予防したり、インスリンコントロールをして糖尿病にならないようにしたりしています。もちろん多いほど良いわけですが、これは不節制すると減っていく特徴がありまして、飲み食いの他にも、イライラすると減るとか、睡眠不足で減る、運動不足で減る、タバコで減る・・・まあ、とても道徳的な働きであります。

このホルモン、奇しくも最近のテレビの健康番組で説明があったようで、受診者の皆さんの方が詳しく知っていました。『長生きホルモン』とか『長寿ホルモン』とか云うらしい。そこで、ずっと『超善玉ホルモン』と云ってきたのをやめて皆さんの知っている『長寿ホルモン』という言葉に替えて説明しました。「アディポネクチンがとても多いですね。これはいわゆる長寿ホルモンというやつで、これが多いほど良いということになります」と。そしたら、「別にわたしは長生きなんかしたくないのに」と全否定されることが立て続けに起こりまして・・・。褒めているのに拒絶されるなんて・・・言葉というのは本当に難しいものです。

結局また、『超善玉ホルモン』に戻して説明しています。ちなみにわたしの今年の職員健診での値は7.8μg/ml。良くもなく、悪くもなくの極めて凡人でありました。

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起立性調節障害

朝起きられない…病気かも

思春期の子どもたちに多い起立性調節障害(OD)。”起立性低血圧”もこの中のひとつでしょうか? 立ったときに重力で血液が下半身にたまり血圧が下がるのを防ぐために、普通は自律神経を働かせて血管収縮でコントロールします。しかし、自律神経の機能が乱れているために血圧の調節がうまくできずに血圧低下や脳や全身への血流低下を来たし、立ちくらみや動悸を起こすというもの。とかく、”なまけ病”と捉えられがちなこの病気のチェックリストが載っていましたので、心当たりのあるお子さんをお持ちの方は確認してみてください。

・立ちくらみやめまいを起こしやすい
・立っていると気持ちが悪くなり、倒れることもある
・階段をのぼったり、走ったりすると、動悸や息切れがする
・朝、なかなか起きられず、午前中は調子が出ない
・風呂に入っていたり、嫌なことを見聞きしたりすると、気持ちが悪くなる
・おなか、特にへその周りが痛くなる
・顔色がさえず、青白い
・食欲が出ない
・だるくて疲れやすい
・頭が痛くなる
・乗り物に酔いやすい

これを書き写しながら思いましたけれど、こんな症状は思春期にはよくある症状で全くODに特異的な症状がありません。なまけ病だと決めつけるのもいけませんが、これはODだと決めつけてごろごろしていたのでは意味がありません。子どもの頃の診断は大人になってからの人生に影響を与えますから、確実に小児科受診をしてアドバイスをもらってほしいと思います。

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認知症が減っていく?

「これから認知症は減っていく」は本当か

「2025年の認知症者数は推定で675万人となり、65歳以上の5人に1人の割合まで増える」(九州大学、二宮利治)という久山町研究の予想報告に異論を唱える人はいないでしょうし、だからわたしみたいにモロにその世代に突入する者は戦々恐々としています。そこへこの「欧米では認知症有病率が減っている」という報告の紹介・・・ちょっと浮き足立った気分で読ませていただきました。米国、英国、オランダ、ドイツ、スウェーデン・・・分析の仕方に問題のあるものもありましょうが、これだけ多くの国が減少報告をしているわけだから、「認知症は減少する」で間違いないように思います(思いたい)。

「これまで日本では認知症患者が増加する推計ばかりが大きく取り上げられ、生活習慣病や食事、運動、精神面に対する介入により、発症時期を遅らせられるかもしれないという視点は持たれていなかった。認知症の発症予防や進行を遅らせる方法を模索するためにも、過去のデータを読み解く必要がある」(国立長寿医療研究センター、遠藤英俊)・・・つまり研究する上での前提にバイアスがかかっているという指摘は重要なポイントかも知れません。そして、「認知症の発症を抑えるために特に有用とされているのが社会活動と運動、そして食事だ」(筑波大学、玉岡晃)というきわめてありふれた常識的な結論が出されるとなると、これは本当に現実味をもって、今の生活習慣病改善のための取り組みが福音になる可能性が高い、と云えるではないかと感じました。

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背筋(せすじ)

最近、インスタにハマって何でもスマホで撮るようになった妻に、散歩中に横からのわたしの写真を撮ってもらいました。

1週間ほど前に遠目に撮ってくれた散歩している自分の姿がとても猫背で、見るからに”年寄りじいさん”姿だったのがショックだったのです。だから、あれ以降、ことあるごとに背筋を伸ばすように意識してきました。その成果を確認したかったのです。

「『もうこれ以上できません』って感じに、思いっきり胸を張ってみて!」と妻に云われて撮った写真・・・「ふーん、目いっぱい頑張ってこんなもんなの?」と鼻で笑われた写真は完全に猫背。ショックでした。

「ほら、もっと肩甲骨を折り曲げるようにして」
「もっと肩を後ろに反らして」
「そんなに胸出したらわざとらしいよ。ジャイアント馬場みたいだよ、『うっぽー!』」
「顎を引いてもわざとらしいから、引いたらダメ」
「あ、そうそう、それ。そんな感じ」

口うるさい臨時コーチに指示されたとおりにやって撮った写真は、たしかに背筋真っ直ぐ・・・「こんなにふんぞり返って偉そうにしてる格好をしてやっと真っ直ぐなんだ?」・・・かなりな違和感だけど、姿勢を正すって、こんなに大変なんだなと実感しました。

頑張るぞ!

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点数とモチベーション

先日、国民的アイドルのようなフィギアスケーターが引退しました。惜しむ声もありましたが、概ね「おつかれさま」「ごくろうさま」という慰労の声ばかりが聞かれ、最後は皆が「ありがとう」と云って締めくくる。本当に国民全員が実の娘のように応援してきた子の引退でした。

やっと他人から点数をつけられて極限で生きる世界から解放される安堵感が本人にも観ている私たちにも漂っています。彼女には天性の魅せる力が備わっているので、競技スケートよりもプロスケーターとして生きていく方がきっと光ると思ってはいるのですが、もしかしたら点数で評価されるからこそギリギリまで自分を追いつめて、自分を磨き上げようと努力し、競い合うことで昇華できていたのではないか?とも思います。 どうせネームバリューだけで観客は皆が満足してくれるはずだから、点数のつかない人生の中で自分をより高められるものなのか? ちょっと心配ではあります。

競技スポーツの世界と対極にあるのが舞台に立つ役者や歌手なのかもしれません。彼らのパフォーマンスの原動力は何か? 「お客様に感動を与える」という目的は同じでも、それは競技スポーツのような競い合いではありません。基本的には自己満足の仕事であり、自分を自分の価値観でどこまで高められるかの問題ではありながら、入場数だったり興行成績だったりで評価されて何らかのランクづけをされてしまうと、結局ヒトは高い評価を求めてしまって、自己達成感とのギャップに悩むことになります。それがアマチュアとプロの違いなのかもしれません。

勝ち負けの存在、他人からの評価の存在は、ヒトを強くするのか弱くするのか。彼女の引退について考えながら、そんなことを思ったところです。

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病院の空気

お昼休み。職場である病院の廊下を運動のために歩き回ってみることがあります。二階から階下の外来フロアを眺めると、今日もたくさんの患者さんやその家族、あるいは付き添ったり説明したりの病院スタッフが行き交っています。でもやはりそこに流れる空気は一種独特で、同じような賑わいだとはいえ休日のショッピングモールのような華やかさはありません。それは、当たり前といえば当たり前。このフロアで大きな笑い声や明るい笑顔があちこちで見られる方が違和感がある。具合が悪い人だけがここに集まってきているのだから。

「ここの病院は、玄関を入っただけで空気が暗いなあ」とか感じることがよくあります。もちろん逆のことも。病院は、体調が悪い人が集まってくるところだからこそできるだけ明るくありたいと、スタッフは色々工夫します。華やかな花をかざったり、電灯の明るさを明るくしたり。ナースの制服の色を明るいピンクやブルーにしたりするのも、それが目的だと思います。

でも・・・昼下がりの廊下を歩きながら思うのです。病院に明るさや華やかさを求めようとするのはどんなもんだろう?と。「病は気から」とは申しますが、場違いな華やかさはかえって煩わしく、もっと静かで厳粛であっても問題はないのではないかと。静かなクラッシックやジャズなどのバックグラウンドミュージックがそっと流れるくらいがいいかもしれない。

傍から眺めていると、そこにはそれぞれの人生が見えてきます。だからこそ一種独特な空気が漂っている病院という空間。可能ならば、経験しないまま人生を終われるのが良いな、と思いながら通り過ぎました。

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