寝ない子は太る(アメリカ編)

アメリカ(ボルティモア)から、「短い睡眠時間が小児の過体重または肥満のリスクを高める」という論文が報告されました(Obesity 2008;16:265)。さらにその報告によると「1時間睡眠時間が増えるごとに肥満リスクが9%低下する」そうです。

以前、富山スタディの話題を書きました(「寝ない子は太る」(2008.1.6) http://satoritorinita.cocolog-nifty.com/satoritorinita/2008/01/post_5d0d.html )。人種が違っても日本のそれと同じような結果が出たことにとても興味があります。子どもが寝ない(寝させない)のは、現代の万国共通の問題点なのだということも分かりました。たしかに良く眠るだけで小児の過体重や肥満が予防できるならこんな安上がりな方法はありませんから有り難いことです。ちなみに、わたしが子どもの頃、夜9時以降の世界を知りませんでした(土曜日以外はTVも9時以降に見させてもらえませんでした)が、わたしは超肥満児(昔は健康優良児扱いでしたが)でした。最近旬のデブタレの皆さんが、「売れてきて忙しくなると太る」と口を揃えて同じ事をいうのが面白いと思います。家に居て暇だと、することがないから寝てばかりいるけど、起きて活動しているとずっと何か食っている、というのです。

子どもの場合は、「成長する(育つ)」と「肥満体になる(太る)」の区別をきちんとつけないと取り返しがつかなくなる危険性がありますので、ご注意ください。

今のところ、睡眠時間の研究ばかりのようですが、睡眠の質はどうなのでしょう。子ども達も大人と同じように睡眠の質が落ちて病んでいるのだとしたら、その方がはるかに問題かもしれません。

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作りすぎは主人の晩酌

「食事療法の基本は、作りすぎないこと!運動療法の基本は、ムダを作ること!」

今日も今日とてわたしの持論を展開して生活指導をしています。運動療法については一応皆さん理解はしてくれます(実行するかどうかは別にして)が、食事療法の方はそう簡単ではありません。

●夫の晩酌の肴を作らなければならない。●若いもんがいやがる。●育ち盛りの子どもたちがいるからむずかしい。・・・これが抵抗の三大理由です。

毎晩若者に毒を盛りながら、自ら自分の大事な子どもや孫の寿命を縮めていることに気付かない愚か者め!と云う熱い話は、現場ではよくしますが必ず苦虫を噛み潰したような嫌な顔をされます。わたしの云うとおりにしたら家族に嫌われるだけですから。

ところで、「晩酌の肴が必要だから作りすぎる」という話を聞くたびに、わたしは毎晩晩酌を欠かさなかった父のことを思い出します。彼の肴はいつも「いりこなす」でした。いりこをちょっとだけ炙って焼き茄子に和えただけの料理です。母はあまり料理が得意ではなかったので、いつも父が自ら作っていました。それを肴にチビチビ熱燗を呑むのが習慣でした。それを子供の頃から見ていたせいか、酒の肴にから揚げや大量の油炒めが必要だという概念をどうしても理解できません。でも、たしかに居酒屋に行ったらそんなメニューしかありませんね。夕飯のおかずといえばレストラン料理、酒の肴といえば居酒屋料理、可哀相ですが、現代社会ではそれしか浮かばないのもやむを得ないかもしれません。今となっては、質素で田舎者だったわたしの親に感謝です。

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様子をみるために仕事を休めるか

健診の結果、「経過観察」や「再検査」という指示を受けたら、あなたはどうしますか?

このレベルの指示は、する側もされる側も一番厄介です。うちの施設の場合、「経過観察」には6ヶ月後と12ヶ月後があります。「再検査」には3ヶ月後と1ヶ月後があります。今すぐ精密検査をした方が良いというほど切羽詰まってはいませんが、何かあってからでは遅すぎる、ほったらかして大丈夫と言い切る根拠もない所見です。得られた異常所見が基準からどの程度離れているかとか、問題ないかもしれないがもし問題があったら(たとえばガンなど)手遅れになるかもしれない、などの所見に対して大ざっぱなピリオドを刻みます。「経過観察12ヶ月後」というのは1年後の健診を受診すればいいのですが、それ以外の期間指定の場合は、再検査のために医療機関を受診することを求められているのです。

健診は見落としができません。「基準通りではない」ものの大部分は取り越し苦労だと思いますが、だからといって「きっと大丈夫よ」などといういい加減な評価はできません。「大丈夫だと思うけど、念のために○ヶ月後に再検査を受けてみてください」と医者や保健師は簡単に云いますが、そのためには(休暇を取って)仕事を休まなければならないのです。自分が指示された立場だったらどうだろう?そうまでして受診するかなあ・・・。取り越し苦労だと思って検査してみたら重大な病気が隠れていた、という事例はたくさん知っています。そんな私ですらつい二の足を踏むのですから、一般の方が放置していても不思議ではないような気がします。でも・・・。結局、「自己責任」という逃げ道に追い込んでいるのでしょうか。

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心房細動

「心房細動」をご存知でしょうか?皆さん、自分には関係ない病気だと思っているようですが、健診で初めて心房細動が発見されることはそう珍しくありません。でも、あまり自覚症状がないこともあり、大部分の場合なかなか自分がむずかしい病気だということを信じてくれません。あるいは、「昔から不整脈があるけど大して心配は要らないと云われている」と云って、相手にしてくれないこともあります。

「心房細動」は普通の不整脈とは違います。電気信号が心房のあちこちから300~600回/分以上の割合で出てきますが、1分間に300~600回/分も脈を打つことはできませんから、何の秩序もなくバラバラの脈を作ります(ちなみに普通の場合は洞結節という決められた場所から50~90回/分くらい出てきて全てがきちんとつながっています)。心房細動には一時的に陥る「発作性心房細動」と、戻ることのない「慢性心房細動」がありますが、いずれの場合も問題になるのは血栓塞栓症と心不全です。特に前者は前触れなく突然起こってしまいます。長島監督が脳梗塞になった原因だという話をすると皆さん理解してくれますが、それでもやはり現実味がない様子です。

現在は、心機能や危険因子の有無によって治療についてのガイドラインがきちんと決まっています。心房細動の治療は基本的には「抗凝固療法(血をさらさらさせる)」ですが、とにかく前触れなく脳梗塞になることが前提ですので、治療が必要な場合は躊躇できません。どうもないからといってクスリを途中で止めることはできない病気です。どうか、健診で専門医受診を勧められたら早めに行ってください!お願いします。

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医療不信?

一方で、最近は手遅れになるまで病院に行かずにほったらかしている人が多くなってきたのも気になります。

テレ朝系の「最終警告!本当は怖い家庭の医学」は夫婦で良くみる番組です。こんな重箱の隅をつつくような病気を良く探し出してくるよなあ、と思うときもありますが、むしろ「『ま、いいか』と病院受診を先延ばしにした○○さん。実はこれが最終警告だったのです!」というお決まりのクダリをいつも理解できません。「いやいや、さすがにそこまでなる前に病院に行くでしょ?」というレベルでもほったらかしているからです。でも、たしかにわたしが「どうしたらいいでしょう」と個人的な相談を受ける場合も、最近はさっさと病院に行かないとマズイよ!というレベルまでそのままにしていたり市販薬で対処していたりする人が多いような気もします。わたしが医療人だから常識と思っているだけで、一般的には常識ではないのかもしれません。

病院に行かない理由が、「まだそれほどではないだろう」という判断間違い(これは周りに人生経験者がいないのも大きな弊害かもしれません)や忙しくて時間がとれないというのであればまだマシですが、「信用できる病院を知らないから」という末期的な理由が少なくないのがとても気になります。あなたは「家庭医」というものを持っていますか?子供の頃から自分のことを知っている医者がいる人、あるいは日ごろ気になることがあったときに相談する医者が近くにいる人には、全く関係のない杞憂です。医者を選ぶコツは、名医ではなく自分とフィーリングが合うこと。何かの機会に早く家庭医を作っておくことをお薦めします。

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治療不要!?

健診受診者の方が記入した既往歴の項目を読んでいると「治療不要と云われた」という答えを多く見かけます。どうも気に入りません。

たとえば、「胆嚢ポリープがあるが治療は要らない」とか「胸部レントゲンに影があるが昔の炎症のあとだから治療は要らない」というのは良く分かります。その通り、治療は要りませんし、せいぜい定期的な健診を受けておく以外に特に何かをしなければならないこともないでしょう。

でも「血圧が高いけど、まだ治療は要らない」とか「脂肪肝だけど治療は要らない」とか、そんなことを医療者が云うはずはないのです。「まずは食事に注意し運動にも心がけましょう。」と云われたはずです。さらに「タバコは早く止めてください。睡眠も十分とり、ストレスを溜めないことも大切です。」などと云ってくれる先生がいたらきっと名医です。「この1年間よく頑張って糖尿病の治療をしてきていますね。とても良いコントロールです。」と説明すると「私は糖尿病の治療なんかしていません!」ともの凄く強い口調で否定されます。講演会などでも機会があるごとに話してきましたが、「治療=くすり」という勘違いの概念を植えつけたのは誰なのでしょう?世間がそんな概念に浸っているから、「メタボ健診は病人を作る」ということになってしまうのではないかと思います。

日本人は、昔から「医療は施してもらうもの」という感覚にあるように思います。医者を「先生様」とあがめ、医者の処方薬を飲んで云うことを聞くのが病気の治療だと教育されてきた気がします。病を治す(克服する)のは自分自身だ、という自立心も持ってほしいと思います。くどいようですが、生活療法は最も基本にして最大の治療法です。

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CKD

以前、食後高血糖がいかに危険かという話を書きました(あなたは糖尿病です!後編:2008.2.16)。どうもない時からいかに早期に病状の進行をくい止められるかが自分の人生を左右し医療費に関わってくるのだという話を書きました。4月に始まった「メタボ健診」も同様です。

そんな中で、食後高血糖と同じレベルで危惧されているのがCKD、つまり慢性腎臓病です。昨年5月に日本腎臓学会が「CKD診療ガイド」を発表しましたが、一般医療者でもその存在を知らない人は少なくないと思います。

「健診でいつも正常と云われているから腎臓は心配ない」とお考えの皆様、とてもショッキングなデータですが、現在CKDの定義に当てはまる人は全人口の18.7%(1926万人)以上いると云われています。つまり5、6人に1人の割合です。実は、健診で「異常なし」と云われている人の中に初期のCKDの人たちが多く含まれているのです。

CKDは進行すると重症腎不全で透析をしなければならなくなるという問題だけではなく、心臓血管系の病気発症、死亡数、入院数のいずれについても独立して危険因子になるようです。もちろん程度に比例してそれらは増加しますが、自覚症状が出てくるはるか前から、危険だということが予測できる因子だということです。それでは、それに当てはまる人はどうしたらいいのか?結局は高血圧・糖尿病・脂質異常症・肥満のある人はしっかり是正に励み(基準値は普通よりかなり厳しく設定されています)、死にものぐるいで禁煙をし、タンパク質をとりすぎない人生を送るなど、やることは決まっています。

厳しい世の中です。

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あいさつする病院

職場の広報誌の最新号が発行されました(2008.4月号)。コラムをそのまま紹介します。

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外来が始まるよりはるか前、まだ夜が明けきらない早朝から、病院のフロアは活動しています。救急患者に対応してほとんど寝られなかったであろう守衛さんや事務スタッフが、疲れた顔で「おはようございます」とあいさつをしてくれます。眠そうな顔で早朝出勤してきた病棟スタッフ、フロアの清掃スタッフの皆さん、外回りの環境整備の人たち、あるいはこの早朝にフロアにいる一般の方の多くもまた、顔見知りでなくても自然に朝のあいさつを交わします。そこには昼間の殺風景な光景とはちょっと違うホッとする空気があります。そんな中で、私が密かに楽しみにしているのは、あるフロア掃除担当の青年スタッフのあいさつです。決して元気いっぱいの大声ではありませんが、その優しい眼差しから出てくる静かで澄んだ「おはようございます」には、彼の人柄がうかがわれ、本当に朝から心が癒されます。

禅問答で、相手の悟りの深浅を計ることを「一挨一拶(いちあいいっさつ)」というそうです。「あいさつ(挨拶)」ということばは、それに由来します。「挨」も「拶」も「押す」という意味で、「何度も押し合う」という意味が始まりだそうです。ですから、「あいさつ」は単なる儀礼的な合言葉ではなく、交わすときの言い方や顔の表情の中に相手の心の中を見て取ることができるといってよいでしょう。

廊下ですれ違いざまに「おつかれさま」と声をかけたにもかかわらず相手に無視されたことはありませんか?仕事や年齢の上下関係に関わりなく、何度声をかけても返答してくれない人もいます。そんな相手をみて、あなたはどう思いますか?「何様のつもりだ!もう二度とあいさつなんかするものか!」と腹を立てますか?「あれ?なんで無視されたの?わたしがあの人に何かした?」と自問自答して自信喪失に陥りますか?それとも「きっと聞こえなかったのだ。考え事していたのかしら」とか「返答してくれたけどきっと私が聞き取れなかったのだ」とか勝手に解釈して深く気にしませんか?相手にもよりますが、おそらくどのパターンも経験したことがあるでしょう。私は基本的には自信喪失パターンです。自分と相手との関わりだけでなく、関係ない自分の仕事ぶりや言動にまで思いを及ばせて自分の非を探します。若い頃はいつも怒り心頭パターンでした。それだけ自分に自信があったのでしょう。そして最近は自分がきちんとあいさつできたからそれでいいかな、と思ってあまり気にしなくなりました。そう考えると、返答を待つという行為を通して、「あいさつ」は自分の心の中の状態をも見事に映してくれているといえます。

病院のように複雑な人間関係の大組織の場合、その価値は医者や看護師が優秀かどうかということよりも、むしろいつも明るいあいさつがある病院であるかどうか、そんなスタッフがたくさんいるかどうかということではないかと昔から思っています。毎朝、早朝の外来フロアの風景をみながら、うちの病院にもあいさつが溢れていることを誇らしく思います。

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携帯電話

携帯電話から発せられる高周波がガンを誘発するという話は以前から云われており、それだから携帯電話は使わないとかピッチに代えたとかいう人を何人も知っています。あまり信用できる証明がなされていないとか、旧型の携帯電話の話であって新型機種ではきちんと対応してあるから心配要らないとかいう企業側の反論も耳にします。

そんな中、この度イスラエルのテルアビブ大学のSadetzki博士が、携帯電話と唾液腺(耳下腺)腫瘍の関連について、アメリカの疫学の学会誌に投稿し採用されました(つまり科学論文として認められました)。携帯電話を顔の横に当てて使用する多用者は携帯電話を使用しない人に比べて、主唾液腺(耳下腺)に腫瘍が発生するリスクが約50%増加したという報告です。また地方に住む人ほど増加していました。イスラエルはかなり昔から携帯電話を多用している人が多い国民であり、また地方ほど高周波の出力が強くなっていることが特徴です。対抗策は、ハンズフリーの状態で遠くに本体を持って通話し、通話時間や回数を極力短くすることだ、とまとめあげているこの論文は、この携帯文化の中でどの程度日の目をみるでしょうか。

日本人が使う機種は彼らの使うモノよりもしかしたら新しいのかもしれませんが、今や子どものときから携帯をもつ時代ですから、若い世代の生涯暴露量は私たちの世代のそれの比ではありません。DocomoもauもSoftBankもこぞって家族間通話を無料にして子どもと親のコミュニケーションに携帯電話を!とキャンペーンしている最中です。この論文のような事実が一部の健康オタクの戯言ではなさそうだということは知っておいて損はないと思います。かく云うわたしは、電話をかける勇気があまりなく、極力メールで使用する派ですが、携帯そのものは肌身離さず持って歩いていないと安心できない人種のひとりです。

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かっこいい

鎌田實先生の「あきらめない」紹介シリーズも今回までにしましょう。

最後に、まだ紹介していない文章の抜書きから、「いいなあ」と思った文章を書きます。

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どこかの大陸を走っているとき、80歳ぐらいの老ライダーと路上ですれ違った。美しく輝いていた。かっこよかった。「まるで少年のようだ」と、彼が声をかけた。老ライダーは答えた。「少年になるまでに80年もかかってしまった」  (戸井十月・作家・ライダー)

・・・・・うーん、声が出ない。・・・・・オシャレだなあと思った。

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「奇跡がおきた。・・・・・まさかと思っていた。しかし、すごいことがおきた。」(「希望の中で生きる」より)という文を読んだときに思い出したのは、「心臓の暗号」(2008.3.26)http://satoritorinita.cocolog-nifty.com/satoritorinita/2008/03/post_dc31.htmlで紹介した、「『自然の法則を越えるような奇跡は存在しない。奇跡とは、自然の法則に関する我々の知識を超えて起こるものを指しているだけだ』(聖アウグスティヌス)」ということばでした。

ことばって、使い方しだいで本当に人生に大きな力を与えてくれる。今さらながら、凄いなあ!と思います。

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円形脱毛症

数年前、旋毛(つむじ)を中心にちょっと大きめの100円ハゲ(円形脱毛症)ができたことがあります。皮膚科に行ったら、半年くらい前に何か大きなストレスがありませんでしたかと聞かれました。私には確かに心当たりがありました。上司からある宣告を受けたあと、1日に1~2時間しか眠れないような睡眠障害に数ヶ月悩まされました。組織の中での自分の存在意義を自問自答し、このまま今の仕事をしていていいのか?と悩み抜いた時期でした。

ちょうどその頃、ある企業で一人の若い女性の相談を聞くことになりました。産業医としてメンタルケアの助言を求められたのです。自分がこの世に存在する意味はないんじゃないかという悩みを切々と語る彼女の話を聞きながら、「今のわたしはこの子と同じだ!」と感じました。これが「うつ」なのかと思いました。彼女の姿を見ながら客観的に自分をみつめることができました。だからあまり大きな深みに入る前にうつの螺旋階段から脱出できたのかもしれません。自分の力で達観したからこそ見え始めたことはあります。自分はどんな医者になりたいと思って医学部に入ったのか、忘れていた初心を思い出すことができました。やりたいようにやらせてもらえる機会は有効に使いたいし、もっと他にしなければならないことがきっとあると、今は信じています。

新年度に人事異動がありました。うちの部署にも見ててちょっと危なっかしいかなと感じる人たちがでてきました。今、まっただ中の彼ら、彼女ら。どうか自らの力で踏み越えてほしい。決して存在意義の否定などありえないのだから。今回も、鎌田實著『あきらめない』から好きな文章を抜粋してきました。

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「がんばろう」と言っている間は一本の道しか見えない。その道から逸れてはいけない、落ちこぼれてはいけないという意識が働きつづける。たくさんのストレスを背負う。心が疲れる。ところが、「がんばらない」と、「ない」という積極的な強い口調の二文字をつけて言った瞬間、道は一本ではなく、三つも四つもあることがわかる。

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いちご農家の憂鬱

知り合いの内科医が語ってくれた実話です。

昔、ある地方の病院で当直をしていたとき、夜中に大慌ての急患が来たそうです。その町はいちご栽培で有名な町で、急患はいちご農家のオヤジさんでした。彼曰く、

「大変です!さっき、間違えて出荷用のいちごを食べてしまいました!大丈夫でしょうか?」

いちごの美味しいこの季節ですから、この農家のオヤジさんの云っている意味がわからない方は、ある意味幸せかもしれません。

昔、うちの義母が知り合いのぶどう農家に行ったとき、おみやげにぶどうを分けていただけることになりました。「出荷用のぶどうと自宅用のぶどうがあるけどどっちにします?出荷用の場合はそのまま食べないように注意してくださいね。」と云われたので怖くなって自宅用を希望したら、まったく離れた別の畑に連れていってくれたそうです。

わたし的にはかなり前からいろいろな人に教えてもらっていた常識なので別に驚きませんが、農薬の恐怖は中国にだけあるものではありません。社会がそれを求める以上、日本の農家の皆さんも、良心の呵責に耐えながら、やむを得ず農薬をギリギリで使って出荷用作物を作っているのでしょうが、自分たちはどうしても恐くて口にできないのは当然だと思います。見た目がキレイじゃなくても虫が食っていても大丈夫(食っている方が安全)だから、自宅用の畑は別に作っています。おまえは人に毒物を売って平気なのか!と怒る人も居ますが、日本の消費者はムシが食っていたりしたら買ってくれないからやむを得ません。ムシさえも食えないような消毒まみれの農作物を求めるようになってそれを平気で食うようになった現代社会は本当に危なすぎます。せめてしっかりと洗って覚悟してお食べください。

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食物連鎖

学生時代に「食物連鎖」という自然界の常識を教わりました。「生産者」とか「消費者」とか「分解者」とかいう用語はもう忘れましたが、植物や木の実を虫や小動物が食べ、それを鳥や肉食動物が食べ、それをさらに大きな動物や人間が食べ、その排泄物を微生物が分解して植物の養分になり、そうやってサイクルが出来ることで自然はできあがっているのだという「常識」です。でも、今の世の中、この食物連鎖が成立していないことが「常識」になりました。鎖を切ったのはもちろん人間です。排泄物を自然界に帰すのを「不潔」といい、さらに自然のものを食べなくても代替品(まがい物)が同じものだと云う。食べさせていただいているという心もなくなりました。連鎖がなくなったときに自然界の法則が崩れ去っていくといういとも簡単な常識に皆が気付くのは、どの程度地球が傾いたときなんでしょうか。私はもうそんなに長生きしませんからいいですけど・・・。

鎌田實「あきらめない」シリーズをもう少し続けます。

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「ミジンコと暮らすと、生命のことが透けて見えてくる」「人間が生きていけるのは、他の生きものたちのおかげ。人間は他の命を食べて生きている。最近、この仕組みが見えなくなりだしている。だから、死んでくれる命に心が痛まないのです」。(「命が透けて見える」から坂田明(サックス奏者)のコメント)

アイヌの人々は鮭を神の魚(カムイ・チェップ)と呼んでいた。(中略)海の栄養を運んでくれる不思議な魚だ。人間を潤すだけでなく、森を潤していた。一頭の熊が七百匹の鮭を森に運び、その食べ残しがリスや鹿の餌になり、そのカスが森の樹々の栄養になっていた。(「余命三ヶ月を生きる・神の魚」から転載)

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選択肢

以前紹介した柘植あづみ先生の連載コラム「あなたは病人ですか?」(2008.2.26)http://satoritorinita.cocolog-nifty.com/satoritorinita/2008/02/post_df62.html )の続編「あなたは健康ですか-病気・健康・元気」(MMJ 2008.4)を読みました。自分は「元気」である、だから「健康」である、と考えているガン患者さんが少なくないという現実は、前向きな考え方をしている人が思いのほか多いことを示しており、とても心強い気がしました。読みながら、「悪くないな」と思わずつぶやいてしまいました。

そのコラムの中に、柘植先生の叔母さんが膀胱がんになってその告知を受けたときの話が出てきます。主治医から、尿路変更手術と人工膀胱の使用、腫瘍の切除手術、放射線照射、化学療法などの選択肢と余命の予測が説明されたそうです。このとき、彼女が主治医に対して質問したことば、

「死ぬまで元気でいられるのはどれですか?」

・・・これはとても深いことばだと思います。一番長く生きられる方法ではなく、最期まで元気でいられる方法を選びたいと考えてそれを素直に表現した、彼女の人生哲学に脱帽しました。人生哲学が乗っかったことばには大きな力があります。コラムはこれで終わっていますが、この問いに、主治医はどう答えたのでしょうか。医療人であるわたしはむしろそっちに興味があります。

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区切りのある恐怖、区切りのない不安

今でも、がん告知は大きな問題です。昔に比べれば積極的告知の風潮は強くなった(うちの病院は原則として全員告知の方針です)のでしょうが、自分の運命を自分自身で整理することの不得意な日本人には、なかなか受け入れにくいものがあります。うちの妻は「がんと分かっても知らせないでほしいし、お母さんががんになっても教えてほしくない」と云い続けています。

進行がんが初めて発見されたら「余命3ヶ月、長くて6ヶ月」などという区切られた運命を予言されます。きっとさほど細かい計算の元で発せられた人生リミットの数値ではないでしょう。でも、区切りをつけられたときから恐怖感や絶望感の波は何度も何度も吹き出してくるのです。自分の人生に後悔を残さないように自らやりたい整理をしてもらいたいから告知があるのだと思いますが、人生はいつか必ず終わりを迎える、それがちょっと早くなるだけさ、とうそぶいてみても、リミットの日が徐々に近づいてくる恐怖感に自分だったら堪えられるだろうか、と考えることがあります。

では、告知をうけなければどうか。徐々に病状が悪化する中で、自分の病気は悪いものではないか?と疑心暗鬼になり、一体いつまでこんな苦しみを味わわなければならないのかという不安感は大きくなるばかりです。身体の辛さ以上に周りのだれもが信じられない心の辛さに自分は耐えられるだろうか?

いつかはやってくるピリオドの瞬間が、いつなのか分かってしまう恐怖と、いつまで続くか分からない不安と、自分はどっちがいいだろうか?

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ターミナル駅

ガンの治療や重症心不全患者などの人生の最期を「看取る」行為をひっくるめて「ターミナル・ケア」と云います。日本語では「終末期医療」と云うようです。このうち、末期ガンのケアを専門に行う施設をホスピスと云います。やっと日本でも市民権を得た感があります。ホスピスの語源は、聖地巡礼者を泊めるような小さな教会hospiceからの転用だと聞いています。昔は、「がんセンターに行け」と云われたら死の宣告を受けたと思い、「ホスピスへ行け」と云われたら医療から見放されたと悲観したものですが、素晴らしい人生だったと思えるものにするために人生の終末期を過ごす桃源郷にしたいという思いが、宗教観の乏しい日本人にも受け入れられるようになったのは素晴らしいことだと思います。

わたしは、「後期高齢者医療制度」という用語が顰蹙を買ったと同じように、「ターミナル(終末期)」ということばが嫌いでした。「もう最期だから、最期くらい苦しまずに逝かせてやりたい」という諦観に似たお節介がどうしても好きになれなかったのです。

鎌田實著『あきらめない』の中に、そんなつまらないこだわりをもったわたしの心に、ズシンと響いた素晴らしい教えがありました。肝臓がんのある高名な患者さんの言葉です。

「人生のターミナル駅に近づいているの、わかるんだ。終着駅ってもの悲しいよね。でも、おもしろいことに気がついたんだ。終着駅ってたくさんの列車が各地から到着するんだけど、集まった列車は、またそれぞれの土地へ向かって必ず出発するんだよね・・・・・。」<五年生きた。いよいよ逝きます」より転載>

終着駅は始発駅。当事者になってここまで達観できるのは難しいですが、医療者としてはその思いをどこかに持っていたいと思います。

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せっかく・・・

同じ病気で、同じ専門チームの検査と治療を受けたとしても、その人の運命が同じとは限りません。クリニカルパスという流れ作業にきちんと乗って順調に退院できても、必ずしも退院後の生活が同じとは限りません。どんな治療を受けたかということよりも、治療を受けた後にどんな生活ができたかの方がはるかに重要なのに、クリニカルパスは個別のその部分にはほとんど関与していないのだということを忘れてはいけません。若い女医さんが「これでは意味がない」と云った主治医の存在意義は、本当は一番大きいのだと思います。退院の時点で、各々のユニークな生活環境に入り込んでどこまで助言と注意を与えてあげられるか、それは主治医にしかできない最大の見せ所なのに、とても軽視されている気がします。スキルの優秀な「名医」という治療屋さんは多いかもしれないけれど、○○さんの人生が自分の助言にかかっているのだという自負をもっている医者が少なくなっている気がしてなりません。

昔、ある町立病院に勤務しました。とても坂の多い町でした。患者さんの中には、うちの病院で専門の医療を受け、「急死に一生を得た」患者さんがたくさんいます。大きな手術を受け、せっかく元気になって退院してきたというのに、家に帰ってもじっとして動かない人ばかりいました。「せっかく治療したのだから、もっと動きましょうよ。」と云っても「怖くて動けない」と云います。家の前にある30mほどの坂道を上がってもいいのか、家の狭い階段は登ってもいいのか、車の運転ができないが街のスーパーまで食品を買いにいってもいいのか、セックスは普通にしていいのか、細かい注意点はきちんと教わっていませんでした。こんな人生を送るのなら最先端医療を受けた意味はないじゃないか!と愕然としました。彼らに、「私が責任取るから次はここまでやってきてごらん」と宿題を出しながら無理やり動いてもらった経験を思い出します。

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流れ作業に対する謀反

うちの病院に研修にきていたある女医さんが、謀反を起こしました。「わたしがやりたい医療はこんなんじゃない!」と、突然アパートに籠もって出勤しなくなったのです。

わたしたちの病院では、患者さんに出来る限り同じレベルの医療を提供するため、チーム医療を推し進めてきました。たまたま主治医になった医者次第で受ける医療水準が違っていたのでは不公平だという観点から、同じ病気で入院したなら、専門の心エコーチームがエコー検査をし、シンチチームがシンチをし、カテーテルチームがカテーテル検査をします。それぞれに専門の医師が診断を下し、トータルでどう治療すべきかを全員の医者の揃ったカンファレンスで決定していくのです。クリニカルパスの原型ともいえます。

これでは、主治医は何のために居るのか?彼女の悩みはとても良く理解できました。結局彼女は数日後に上司に説得されて出勤するようになりましたが早い時期に出身大学に帰る事になりました。彼女の医者としてのキャリアを考えると、こんな医療のカタチもあるということをきちんと経験しておいても損はなかったんじゃないかとも思いました。

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「現代医療は病気だけを診て、私という患者を診てないんですね。私のなかにおけるがんを診ていて、私という人間を診ていない・・・」(高木仁三郎)
「大腸がんが見つかったときは、大腸の専門家が診てくれ、肝臓の転移が始まったときは、肝臓の専門家も加わって診てくれました。いつでも、それぞれの専門家がよく診てくれました。でもね、丸ごとのぼくを診てくれる人はいないんだなあ。」<鎌田實『あきらめない』:「丸ごとのぼくをみて-現代医療批判」より転載>

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「あきらめない」

以前紹介した(「わたしがこどもだったころ」(2008.1.14)、わたしが尊敬する鎌田實先生(諏訪中央病院)の「あきらめない」(集英社)を一気に読みあげました。私の心に響くものばかりで腹一杯になりました。気に入ったフレーズをここに書き出して紹介しようと、読みながらページの隅に折り目を入れていたら、あまりに多すぎて厚さが倍くらいになってしまいました。

鎌田先生が主張したい医療のあり方ははっきりしています。「人間を人間としてみる」という医療従事者としてはごく当たり前のことです。「人間として生きる」ことの尊厳を最も重要視し、そのための応援歌をいつも力強く歌っている人だと思います。

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「日本の医療は、臓器とか細胞から病気にアプローチするというかたちが主流になっているなかで、できたら「一人の丸ごとの人間」としてみてあげられないだろうか、といつも思ってたんです。」
「特に、今の医療というのは、人を相手にしているというよりも病気を相手にしている、あるいは臓器の不全と闘っている、極端な場合には、病気は治ったけど、その人の生活が死んだという、変なことすら起こりうるような状況というのが、明らかにあるわけですから、それでこの「面倒をみる」という言葉にすぐ惹かれたんですね。」
「ぼくが『面倒をみる』というとき、一人の人間を丸ごとみるだけでなく、家族のことや地域のことも考えたいと思ってきました。(中略)医師のほうは、もうこれで自分の仕事は終わり、「やった、やった、治したぞ」と思っていて、その患者が足を引きずりながら杖をついて帰って行く先が、どういう地域で、どういう家族とどういう生活をしていくかということを、今の医学は考えてくれないですね」<「面倒をみる」鷲田清一(阪大教授)との対談から>

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わたしもそんな医療にずっと憧れてきました(「カルテメモ」(2008.1.27)が、ほとんど何もできないままに臨床医を卒業しました。

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田舎の憂鬱、都会の憂鬱

初めて東京に住んだとき、都会の人はすごいと思いました。公共交通機関の機能を存分に駆使していました。同じ地下鉄の乗り換えでも目的地の最寄り駅より2駅遠くまで乗った方が乗り換えホームの移動距離が少なくて済むとか、一旦遠回りのような駅経由で違う線に乗り換えた方が最後に駅を出てからの歩く距離が少なくて済むとか。たしかに一区画が大きい都会では隣りのビルまででも遠いですから、いかに少ない労力で効率よく目的地に行くか!彼らにとっては常識中の常識なのでしょうが、田舎から東京に出ていった私には感動モノでした。

メタボ対策の基本として、「いかに無駄に動くか」を求められている昨今でも、やはり東京の人たちは当時のままなのでしょうか?まさか通勤は極力消費エネルギーを減らし、その分アフター5でスポーツジムに通うとか?「一つ前の駅で電車を降りて会社まで歩きましょう」「歩いていく昼食のお店をたまにはちょっと遠くにしましょう」など、メタボ対策のパンフレットには必ず書かれていますが、田舎の人間にはあまり関係がありません。早朝から通勤に使える電車は限られるし、一駅前は隣町だったりするわけですから。だから田舎では車を使うのはしょうがないんだと主張することになります。ところがそんな田舎に都会から引っ越してきた人の中に2つのパターンがあることに気づきました。交通の便が悪すぎる!と嘆いてほとんど動かない人と、どこまででも歩いたりチャリに乗ったりして動きまわる人です。都会に住んでいたときの動く習慣がどうだったのかにかかっているんでしょうね。結局、車の必然を主張する田舎者の言い訳は前者の元都会人のグチと同じレベルだということに気付かされます。わたしも正式に通勤用チャリの購入計画を立てようと思います。

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病気博士

医者の不養生などと云われますが、私は意外に小さな病気をちょこちょこ患ってきました。私の人生の中で日常茶飯事になってしまったのは尿管結石です。19歳の時が始まりですから歴史はとても長いですが今でも年2~3回は排石します。今回の発作は約半年間私を悩ませました。私はいろいろな発作パターンを知っています。最初の頃は半ショック状態で救急外来を受診したこともありますが、最近は何となく発作に慣れてきました。尿管結石の発作は必ずしも七転八倒の疝痛発作とは限りません。ちょっと腰が重いとか尿が濃いとか、典型的でない症状の中に結石の可能性があったりします。こういうことは、経験した人にしか分からないもので、教科書の知識だけでは、患者さんの相談には乗ってあげられません。

5年ほど前に小脳梗塞になりました。夏場の炎天下に毎週ゴルフをして脱水になったのが原因だと思いますが、何となくだるい・ちょっと目眩がする程度の、いわゆる夏バテ症状しか自覚しませんでした。採血検査をしたら肝酵素が上昇していましたが、同僚は「脂肪肝」と診断し、運動と食事で痩せるように指導してくれました。たまたま新しいCT装置のデモのボランティアとして被検者になってみたら大きな影が小脳にみつかりました。当時は人工産物だろう?とか云われましたが、昨年脳ドックでMRI検査を受けたらすでに立派な梗塞になっていました。小脳梗塞なんて、こんなもんなのか、と思いました。

腰椎椎間板ヘルニアも画像上は神経がほとんど繋がっていないように見えますし、実際左足はいつも痺れています。普通なら手術のことを考えたりするらしいですが日頃から普通に運動をしています。「慣れる」って凄いことだと思いながらも、100%の病気知らずのみが健康なのではないことを意外に簡単に理解できています。

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自信に満ちていた頃

何をするにも自信に満ちあふれている若者たちがいます。ちょっと冷たい目線ですが効率よくテキパキと事を片づける姿は、おじさんの目には別世界の宇宙人かスーパーマンにみえたりします。でも、きっとわたしにもそんな時がありました。わたしの宇宙人時代は、大学生から研修医時代でしょうか。あの頃のわたしは何にでも尖っていて、まさしく恐いモノ知らずでした。自分が正義でした。理に適わないことは部長にでも指導医にでも食ってかかっていました。自分に厳しく、だから他人にも厳しく、それが正義だと信じていました。震える声で「ふざけてるんじゃねえぞ、この野郎!」とモノを投げてその場を去ったことも数えられないほどにありました。

あるとき、自信のある人間ほど実は自分にも他人にもとても優しいのだということに気づきました。「恩師の遺言」http://satoritorinita.cocolog-nifty.com/satoritorinita/2008/02/post_46ca.html のはるか後になってからのことです。自分の歩んできた生き方がとても未熟な若造のそれに見えました。そして、自分の人生の糧にしていた「自信」がどんどん崩れていくことに愕然とした時期でもありました。

「・・・ぼくの心は丸くて角がなく、ころころしている。青年時代の一時、ぼくの心はささくれ立っていた。そのささくれが、ぼくの心のころがりを止めた。そのとき初めて、心がころころ動いていることの大切さを知った。心がアソビの動きをやめて、これしか生きる道はないと思ったとき、むしろ危険なんだと知った。人生をどう生きようかと、ころころと心が動いているときは、「安心、安心」とぼくは思うようにしている。」・・・鎌田實先生の『あきらめない』の中の一節です(「音楽の癒し力:無言館」より)。この文章を、とても良い言葉だなあと実感として理解できるようになった自分に満足。

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捨てられる人

特定健診(メタボ健診)が始まりました。まだ多くの人には実感がないと思いますが・・・。

先日、私の知り合いの男性(55歳)が健診を受けました。動脈硬化危険因子がかなり蓄積していることは昨年から指摘を受けておりとても気にしていました。個人情報ですが、下記が今回の健診結果です。

身長162.4cm、体重64.3kg (BMI24.4)、腹囲81.0cm、血圧130/68、HDLコレステロール28mg/dl、中性脂肪186mg/dl、空腹時血糖103mg/dl、HbA1c 5.8%(糖負荷試験:境界型糖尿病パターン)、喫煙30本/日

どうでしょう? 血圧、脂質(HDLコレステロール、中性脂肪とも)、血糖はいずれも異常です(特定健診の保健指導判定値を超えています)。タバコも吸っていますので追加リスクは4項目すべてひっかかります。動脈硬化の重積リスクはかなり高いといえます。ところが、大前提である腹部肥満(腹囲85cm以上)も過体重(BMI25以上)もかろうじてひっかかりません。つまりこの方は、特定健診としては「無罪放免」に値する「情報提供」レベルと判定されることになります。

世間のメタボ健診に対する批判は、条件が厳しすぎて、問題ない人たちに濡れ衣を着せて無意味に病気を作っていくのではないか、ということが主体です。でも私の懸念は全く逆です。濡れ衣を着せられた人たちは援助を受けて自分の生活を見直す機会を与えてもらえるのだからむしろラッキーですが、問題は、この人のように、明らかなメタボ系異常の人がバッサリ切り捨てられることです。コンピュータによるデジタル化されたシステムの中で、こんなデータの人たちが私たちの目に止まる前に見事にザルからこぼれ落ちます。従事する方々はその点をしっかり意識しておかないと危険だと思います。

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「いつデブ」

昨日の分だけで終わる予定でしたが、早速、くだんの本「いつまでもデブと思うなよ」と「このメモ帳でやせる」 を買って読んでみましたら、もうちょっと書きたくなりました。

「いつデブ」を読みながら、ほとんどすんなり理解できる自分をうれしく思いました。私は講演ネタでやってみただけで、実際には体重くらいしかレコーディングはしませんでしたが、当時の心境はまさしく岡田先生の感性と同じでしたので驚きました。

キーワードは「面白い」「プロセスを楽しむ」だと、読み解きました。もちろん、「食べたものは水以外全て記録することにした」とか「1日1500Kcalをきちんと守ることにした」とか、自分の決めたことは概ね守らずにはおれない私の様な性格の人は、わりあい実行のプロセスを楽しめるだろうなと思いました(「軋む非常階段」http://satoritorinita.cocolog-nifty.com/satoritorinita/2008/02/post_1764.html)。ただし「要らなかったらさっさと捨てる」はいまだに私にはできません。

「このメモ帳でやせる」のインタビュー記事の中にも、さすがは経験者の弁だなと共感できたことばがありました。

「ダイエットを始める前の人は『どうやったらダイエットを続けられるのか』を聞くべきなのに必ず『どうやったらやせられるか』を聞いてしまう」 とか、「『飲み会、パーティは1時間おくれて行け』が基本。なぜなら、1時間おくれるとカロリーの高いものはもう終わっているから」とか、頷きながらちょっと拍手。

「いつデブ」携帯サイトでいつでも「いつデブ」が読めるというのでアクセスしてみました( http://itsudebu.com )ら、2008.4.21 10:00からオープンだそうでした。

 

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太るのをやめればいい。

「レコーディング・ダイエット法」で1年に50kgの減量をした経験をもとに書いた「いつまでもデブと思うなよ」(新潮新書)がベストセラーになった岡田斗司夫さんのインタビュー記事が、先日届いたMedical ASAHI (April 2008)に載っていたので興味深く読ませてもらいました。とても共感できることがたくさん書かれていました。

「ダイエット失敗の一番の原因は、本人が痩せようとすることだと思います。(中略)痩せようと試みず、太るのをやめればいいのです。」ということばに、その通り!と思いました。その他の気に入った語録を並べてみます(許可なく勝手に転載しても良いのかな?)

「太る原因は全員違うので、自分が自分の専門家になることです。」「僕のダイエット法の基本は、無駄なカロリーを摂らず、欲しいものしか食べないことです。」「ダイエットも後半になって、栄養のバランスを取ったほうが、実はお腹がすきにくいということを発見しました。(中略)最初からバランスの良い食事を心掛けましょうと言われていたら、挫折していたと思います。」「何かを延ばしたら何かが失われると思います。(中略)寿命を延ばせば延ばすだけ、寿命に合わせて生活を設計しなければならなくなるので不便です。」「痩せるスピードが速ければ速いほど、金利の高いサラ金で体重を借金しているみたいなもので、無理がきます。」「この人(スナック菓子で太っている人)はスナック菓子とどう付き合うかがテーマなのです。スナック菓子をやめてしまってはだめです。(中略)いかにおいしくスナック菓子を食べてもらうかがテーマなんですよ。」

興味のある方はご購入あれ!

●「いつまでもデブと思うなよ」(新潮新書227:2007/8/16)●このメモ帳でやせる 「いつまでもデブと思うなよ」実践ガイド 2008年 04月号

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清潔病

コンビニでサンドイッチを買うと決まってウエットティッシュが入ってきます。今やどの店でも必要の有無を聞くこともなく普通に入れてくれます。

私は気づいたときにはできるだけ返しています。どうせ使わないからです。最近の一般の方の清潔病はちょっと目に余る気がします。子供達がわざわざ薬用石鹸で手を洗わされることにすら閉口しています。医療現場では、抵抗力の落ちた患者さんを相手にしますし、最大のバリアである皮膚の向こう側に触れる(手術や注射など)のでかなり強い消毒方法を使いますが、それと同じ消毒方法を一般社会の人がする意味などほとんどないと思います。なぜなら皮膚があるからです。皮膚についたバイ菌を皮膚から落とせば良いだけですから、普通の石鹸で十分ですし、流水で洗うだけでもOKかもしれません。

ウエットティッシュの袋には、[成分:水、塩化ベンザルコニウム、塩化セトリモニウム、メチルパラベン]と表記してありました。それなりに立派な消毒剤です。どうして、手に付いた(付いてない可能性の方が高い)バイ菌を殺すほどの強いクスリを皮膚に掛ける必要があるのでしょう。その殺菌剤は分子量が小さければ下手をすると簡単に皮膚を通して体内にも滑り込みます。菌を殺せるのだから人間の組織にもダメージを与えます。皮膚のバリアさえ抜ければ無防備です。菌やウイルスにも無防備ですが毒物(クスリ)にも無防備です。

人間の体は外敵から自分を守るために免疫力・抵抗力を発達させました。ところが、異常なまでの殺菌習慣の徹底でその機能を使うことがなくなり、免疫細胞が暴動を起こした結果が、アトピー性皮膚炎や花粉症の増加、がんの増加なのだと、安保徹先生はとても懸念しています<免疫学問答(安保徹・無能唱元)河出書房新社http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309408170>。

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生きがいの創造

先日、本屋で久々に「生きがいの創造」を見かけました(飯田史彦、PHP文庫)。「決定版」と冠がついて妙に分厚い本に変わって棚に並んでいましたhttp://www.bk1.jp/product/02712415 。

私がこの本の初版に出会ったのはもう10年以上前になります。その後生きがい3部作などとも呼ばれる続編が発行され、著者である飯田先生は後になるほど完成品だと主張していました。「決定版」もかなり手を加えたようで、できたら最初に出した本は全部回収したいくらいだとも。でも、私は、その最初に書かれた本が一番気に入っています(後半1/3くらいは諄くてたまりませんでしたが)。その後に書かれたものはどうしても心を動かしてくれませんでした http://www.nnet.ne.jp/~edison/mylife/Lifeindex.html 。

簡単に云うと、「自分の人生で直面するすべての試練は、自分が生まれる前に、人生の中の登場人物たちと共同して自分でプログラムしたもので、実際にそれを乗り越えられるか、この世で試してみているのだ」という説です。

この手の話を、科学的でないとか、うさんくさいとか、世を惑わすとか批判を浴びせる人はたくさんいますが、私はそんなことはどうでも良いと思います。気に入らない人は無視しておけばいいことで、いちいち捨てぜりふを残していく意味がないように思います。私は、たまたま(必然かな)この本に出会った直後に恩師の死と同僚の死を続けて経験しました。彼らと一緒に計画した試練ならやってみようか、そう思えたから何とか乗り越えられたもので、まさしく1年ずれていたら立ち直れなかったかもしれません。私には恩人のような本です。

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疲れたときは、からだを動かす!

「疲れたときは、からだを動かす!」(山本利春著・岩波書店)という本を1年ほど前に読みました http://trainer1985.kir.jp/books/tsukaretatoki.html 。

運動直後のクーリングダウンの重要性は以前から云われており、プロスポーツ選手が試合の後にジョギングやストレッチ運動を必ず行っているのを見たことがあるでしょう。運動中に筋肉から発生した疲労物質である乳酸を再び再利用させて筋肉疲労を早く取り除くために行っているそうです。そして、トップアスリートの中で最近の常識になってきたのがこの「アクティブレスト」(積極的休養)。私が応援しているJリーグの某チームでも、試合の翌日には選手を休ませずに必ず軽い運動やミニゲームを行っています。休ませて安静にするよりも軽い有酸素運動をした方がはるかに疲労回復速度が早いことがわかってきたからです。そのメカニズムについては是非この本を読んでみてください。

さて、アスリートではない一般の皆さんの憂鬱はまた別物です。運動不足は分かっている。とは云え、忙しい毎日の仕事で夜遅くにヘトヘトに疲れて帰ってきて、運動どころじゃないよ!と嘆くお父さん方。でも、「疲れているのは頭であって身体ではない」・・・これもまた昔からの常識です。頭と身体は同じように疲れないとバランスを壊します。いつまでも疲れは取れませんし、睡眠障害にもなります。こんなときにも基本的には「アクティブレスト」です。疲れた頭を回復させるためにこそ軽い有酸素運動やストレッチ運動をすると、そのまま帰ってバタンキューよりはるかに翌日の爽快感が違うはずです。何とか時間を捻出できないでしょうか。ちょっとだけ身体にむち打ってみても損はないと思います。

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私が医者になった理由

母方の叔父が若くして精神を患い、ほとんど定職につくことができませんでした。いわゆる神経症の類だったと思います。かなりの気むずかし屋だったと云われていますが、何故か小さな頃から私をかわいがってくれました。心の内をうち明けるのは、親戚の中でも母か私くらいしかいなかったと後で聞きました。時々叔父の部屋に遊びに行きました。たぶん、本人の調子が悪くなったときに私の母に話を聞いてもらいたくて呼んだのに私がくっついていったのだと思います。納屋の二階を改造した叔父の書斎は本の山で雑然としていましたが、それなりに落ち着いた空間でしたので特に何を話すでもないのに部屋に行くのは好きでした。そんな叔父が、通院中の病院で小さな投薬ミスのトラブルに遭い、人間不信になったことがありました。神経症の症状を大きく悪化させてしまい、しばらく入院することにもなりました。

もうあまり良く覚えていませんが、私が医学部を受ける決心をしたのは、そんな叔父の影響だったと記憶しています。普通の考え方と普通の(というよりむしろちょっと高い)インテリジェンシーを持ったとても良い人なのに、ちょっとした人間関係のズレで周りとうまくコミュニケーションを取れず社会から孤立した人たち、そんな人たちの確固たる橋渡しになりたくなったというわけです。医学の医の字も知らなかった私は、短絡的に「精神科医になりたい!」と思いました。

もともと私自体が、話し下手の優柔不断で、すぐに尻込みするタイプ(いまだに変わりません)でしたので、その決心は自分なりに驚きました。高校時代の担任は、私のことを「コツコツと研究室に籠もって研究に没頭するのが向いているタイプ」と評してくれていましたので。

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体重計

「体重は健康状態を見るバロメーターになりますので、毎日体重計に乗ってください。減らなくても良いけど増えませんように!」

私が、健診結果説明の最初に話しているフレーズです。体重測定は自己管理のためにとても有効な方法です。毎日体重測定して記録するだけで体重が健康的に減っていく人も少なくありません。これは「セルフモニタリング法」といわれる手法のひとつです。うちの家にも小数点以下まで表示される体重計があります。3~4年前、ダイエットしていた当時は毎日何度も体重計に乗りました。でも最近は乗らなくなってしまいました。太ったと分かっているのにわざわざ乗る気にはなれません。モチベーションなんて本当にもろいものです。

「腹が出たし、きっと太っただろうな」と思いながら体重計に乗ってみると、これが意外に変化してなかったりします。これは曲者ですのでご注意ください。値というものは、減るときも増えるときも最初は簡単には動きません。「あれ?まだ大丈夫なん?」なんて油断をしているとある日突然ポンと跳ね上がります。そこで大急ぎで生活修正しても今度はそう簡単には戻りません。自分の体感はウソは云いませんので、客観的な数字よりも実感を信じて監視してください。

よく、フィットネス運動の直後に体重が減った!と喜んでいる人がいますが、これも勘違いですのでご注意ください。ほとんど全てが熱エネルギーや汗になった水分です。必ず運動前後の体重差の分だけきちんと水分補給してください。

昔、ダイエットをするための「三種の神器」は、万歩計と体重計と姿見だと教わりました。客観的な全身像をみれるカガミの前に立って体重計に乗る。。。考えただけでも恐ろしい気がします。

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心のカガミ

前を走っている車が妙にモタモタしています。

「何やってんだよ!」「おいおいおいおい、大丈夫かよ!」「制限時速40キロの道を40キロで走ってどうすんだよ!」「赤信号で停車中の先頭車によそ見する権利なんかあるか!」「トロのくせして信号無視は平気でするんか!」「おまえみたいな運転者がいるから事故が起きるんだよ!」・・・。

運転しながら一人で悪態をついて叫んでいたことがあります。「血液型A型の人間は、人を乗せると安全運転するけど一人になった途端に人が変わる」らしいですが、まさしく、よくそんな姿になりました。かなりかっかして運転していたこともありました。別に煽っているつもりはないのに妙に前の車をつついてしまったときもありました。

最近、前の車が同じようにモタモタしていても、全く気にならないことが増えたことに気づきました。それは歳をとってしまったからかもしれませんし、昨年接触事故を起こしたので安全運転を心がけているせいかもしれません。でもそれ以上に、この歳になって初めて自分の心に余裕が出てきたのではないかとも思うようになりました。「何やってんだよ!」と思うときは、相手が悪いのではなくて自分自身が単に焦っているときやイライラしているときでしかありません。最近あまり気にならないのは、そんな心境ではないからなのだと思います。なかなか悟りの域には達しませんが、私も少しずつ召されの世界に近づこうとしているのかもしれません。その時には、みなさん、ごきげんよう♪

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運が悪い?

朝、車で通勤している途中にいつになく何度も信号にひっかかる日があります。「なんで今日はこんなに運が悪いんだろう?」とぼやきたくなる日があります。そんな日に限って、自分の前の車が妙にトロい気がします。もっと早く行ってくれたら信号を通過できたのに、おまえのせいでまた引っかかった・・・とか。やっとその車が別の道に入ったと思ったら、待っていたかのようなタイミングで入れ替わりに別の道から割り込んだ車がまたまたトロい。信号無視や運転中の携帯電話やウインカーなしの車線変更などがいつになく気になって、そんな無法状態に対して怒り心頭になったりします。イライラしたまま職場について、そんな日は不愉快を昼前まで引っ張ったりして、これまた損をした気になったりします。いつになく引っかからずにスイスイいけたラッキーな日もありますが、何故か、そんなときはそういつまでも上機嫌ではありません。

先日、信号の数を数えてみました。家を出て職場に着くまでに24個の信号機があります。そのうち5つはよほど運が良くない限り止められます。残り19個のうち、6、7個止められると「運が悪い」と感じるように思います。逆に、それが3、4個だとラッキー!と感じることもわかりました。ということは、高々2~3個の赤信号の差で一喜一憂していることになります。ラッキーでも運が悪くても、その差は5分あるかないか。

それに気付いてからは、「今日は運がよい日」「今日は運が悪い日」「今日はどっちでもない日」と分けてみることにしました。すると「どっちでもない日」が一番面白くなく、「運がよい日」も「運が悪い日」も、何となくいつもと違う「面白い朝」になりました。

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発達障がい

「のび太・ジャイアン症候群」や注意欠陥・多動性障害(ADHD)、あるいはアスペルガー症候群など、単なる自閉症や学習障害(LD)で括られない、新しい概念が生まれています。

そんな中で、「障がい」という表記が急に増えたことに気づきませんか?つい1年前(2007年春頃)から、「害がある人」という意味に受け取られるのは好ましくないという理由で、「害」という漢字を使わず「障がい者」と表記する動きになっているのだそうです。ことばというものは本当に難しいものです。当事者ではないから軽率には書けませんが、最近はちょっと行き過ぎではないかとも思います。もともとの「障碍」の「障」は差し障り、「碍」は妨げ。その「碍」が当用漢字外なので「害」を当てはめたのだと辞書には書かれています。もともと「害」にも障りや妨げという意味があるのに、あえて、害虫の「害」の意味に受け取られかねないからと配慮するのは、何か本末転倒のような気がします。そもそも「障害」を「障がい」に変えたら気が済むものなのでしょうか。「障害者」ということば自体が不愉快だという気持ちは理解できます。せめて「障害をもつ人」にするのが思いやりでしょう。

4月1日から「後期高齢者医療制度」が始まりましたが、「後期というのは『もう死ぬ前』という意味か?」「はっきりと『姥捨て山制度』と云え!」とか、該当者からの批判が溢れたために、その日のうちに「長寿医療制度(通称)と云いましょう」と首相や厚労大臣が慌てて発表しました。ずっと前から分かっていたことなのに、そんなことを云われるとは思っていなかったんでしょうか。たしかに、政治家さん自身はことばにもうちょっと神経質になった方がいいのかもですね。

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ER最前線(後編)

急性心筋梗塞は、心臓の筋肉(心筋)を栄養する血管(冠動脈)が詰まってしまって血液(酸素)が心筋に運ばれなくなった状態で、今まさに心筋が溶けてドロドロになっていっている最中です。ちょっとした圧力が加わるだけで心臓が破裂してしまいますし、溶けて不安定なっている心筋から重い不整脈を起こさせたり、心臓が動かなくなったりすることもあり、命に関わる重篤な病気です。集中治療室で厳重管理されていても突然死する危険すらあります。

医療者としては、そんな生死の境界線にあるような病気だからこそ、最善を尽くさねばと躍起になります。でも、突然思いもかけない病気を宣告された患者さんにとっては、緊急入院してからの1時間は、まさしく通りがかりの山賊グループに略奪・陵辱されたような錯覚に囚われるのではないかと思います。集中治療室では、特に緊急入院した瞬間には、「それどころではない」という空気が優先されて、ややもすると人権が無視される傾向にあります。医療者は、決して人間としての尊厳を無視しているわけではありませんが、なかなかそこまで慮る時間的余裕がないのも事実です。

集中治療室では、テキパキと無駄のない処置を進め、医者の処置にも阿吽の呼吸でついてこれる優秀なオペ室ナースのような看護師さんでないと務まらないと云われています。でも私は、そんな人よりも、そっと必要ないところのシーツを身体に掛けてあげたり、ベッドサイドの仕切りカーテンや治療室の開け放たれたドアをそっと閉めてくれる心配りのできる看護師さんの方が、はるかに好きです。

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ER最前線(前編)

あなたは、夜中に何となく胸が苦しくなって目を覚ましました。朝まで待てるかなとも思うけれど、何か尋常じゃない感じがするので意を決して救急病院を受診しました。受付を済ませるとそう長く待たずに救急外来の診察室に呼び入れられ心電図をとられました。その直後から急に周りが慌ただしくなりました。青い術衣に長白衣を羽織った若い医者や看護師らしい女性がバタバタとやってきて、おもむろに聴診器を当ててきました。まだ胸は痛いですか?10分のいくつくらいの痛さですか?などと聞かれているうちに、最初に診てくれた医者はどこかにいなくなっていました。

「急性心筋梗塞の可能性があります。とても重症なので、いますぐ集中治療室に入院が必要です。しばらくは絶対安静になります。ご家族に連絡を取りますから電話番号を教えてください。場合によっては緊急手術も必要かもしれません・・・。」矢継ぎ早に早口な説明があったかと思ったら、いつのまにか集中治療室に運び上げられました。「え、入院?でも準備なんか何もしてないし、そんなに我慢できないほどでもないし、この若い医者は一体何を云ってるの?」混乱する頭の中で、ふと気づくと目の前には何人もの有象無象の顔が集まってこっちを見ています。次の瞬間、多くの手があちこちから伸びてきて、まるで追い剥ぎに遭ったかのように、服を剥ぎ取られ下着を奪われ、一瞬にして丸裸にされました。「何?何?何?」考える余裕はありません。また違う手があちこちから伸びてきます。左手も右手も下手をすると足からも首からも、とにかくあちこちで断りもなく(一応、断っているかな)針が刺され始め、さらに恥ずかしいところに何か太い管が入れられました。

とんでもないところに来たぞ!これからどうなるの?血の気が引いていくのがわかります。

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「もったいないおばけ」

職場の広報誌コラムからの抜粋です。今回は、2005年10月号です。長いです。

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「もったいないおばけ」

ノーベル平和賞を受賞したケニア副環境相のワンガリ・マータイ氏が、日本には限られた資源を有効活用するという意味の「もったいない」という言葉があると聞いて深く感銘を受けたそうで、それをきっかけに「MOTTAINAI」運動というエコロジー活動が全国に広がっているのをご存じですか。「もったいない」…たしかに日本人には馴染みの言葉です。食べ残したら「もったいない」、まだ使えるのに「もったいない」、そんな物を買うのは「もったいない」…。「もったいない」の「もったい(勿体)」とは、もともとは「物体」=物の形・物の本来あるべき姿、それから転じて、重要な部分・本質的なものという意味なのだそうです。つまり、「勿体ない」は、「本来あるべきものがない」が語源です。

「そんなことしていると、『もったいないおばけ』が出るよ!」ばあちゃん子の私は、もちろん子供の頃からそう教わりました。お百姓さんが汗水たらしてせっせとこしらえたお米だから一粒でも粗末にできないと、今でも弁当箱の蓋についたご飯粒を残さずに食べる方はたくさんいるはずです。それが日本人の常識であり美徳です。ところがこんな日本人の誇るべき常識が、こと現代社会の生活習慣病では見事にアダになっています。「食べ過ぎなので腹八分目にしなさい」と言われても、残すことへの罪悪感がそれを邪魔します。私たちは残す教育を受けてきていないのです。多くの日本人の心の中に、子供の頃から「もったいないおばけ」がしっかり棲んでいます。中流家庭にあこがれていたうちの父は、注文した料理を残す贅沢こそがスティタスだと主張しましたが、祖母はそんなことを許してはくれませんでした。私の中の「もったいないおばけ」は超一流で、出された物を残すなど一度もしたことがありません。私の豊富な脂肪細胞は、こうやって長い歴史をもって作られてきました。実は、「もったいないおばけ」は心の中だけにいるのではありません。人体を作る細胞の一つ一つの中にDNAとして入り込んでいます。これがいわゆる「倹約遺伝子」です。日本人のような農耕民族は常に飢餓と戦ってきました。少ないエネルギーでもちゃんと生きていけるように無駄なく有効活用できる機能を細胞の隅々までに施しています。食べられなくても生きていける、そんなたくましい遺伝子は、もったいないから少しでも余ったら貯めておく、疎ましいばかりの貧乏性な遺伝子でもあります。この倹約遺伝子を持つ人が、日本人は欧米人よりはるかに多いのだそうです。

私たちは、心とからだの両方に「もったいないおばけ」を棲ませています。自然・社会・先祖への畏敬の思いを培い、生命維持のための奥深い智慧を持つ守り神です。どうもこれと戦っても勝ち目はありません。「残すのがもったいないからつい食べてしまう」という言い訳に似た奢りを、「残すのがもったいないから少ししか作らない」と改めるしかないのだと悟らねばなりますまい。きっとそれこそが人間の本来の有り様=勿体なのでしょうから。ただ、これが、なかなかむずかしい…。

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プライド

やりたいことがあって自ら救急現場を離れて6年になります。部長から、救急当番を年1,2回くらいできないだろうか?と相談を受けました。救急病院の救急外来というのは本当に修羅場の大変さです。若い医者の救急離れや新しい臨床研修医制度による医者不足の影響で、徐々に老齢化だけしてきた救急病院の医者たちが疲弊していくのは、当院でも例外ではありません。

今、現場への復帰に二の足を踏んでいる理由ははっきりしています。6年前まで救急の最前線にいた医者として、もはや当時のような医療水準を提供できる自信がないのです。急性心筋梗塞を疑う患者さんが到着したとして、さてまず何をする?当時は勝手に動いた身体と頭が、ほとんど完全に停止状態です。「そんなことはすぐに慣れるよ」と云われますが、この歳になるとそうはいかないことを自覚しています。患者さんは、どこでも誰でも良いのではなく、○○病院の専門医師のブランドを買うために受診してきているようなものです。ただの人数合わせのために医師免許を持っている者をかき集めただけでは、その期待を裏切ることになる気がします。

「救急は応急処置をするところだから、翌朝までもつ判断だけすればいい。あまり深刻に考えない方がよい。」と云ってくれる医者もいますが、私にはその割り切り方ができません。それが、昔、第一線の医療を提供してきたというプライドなのかもしれません。男の美学として、半身不随になるくらいなら手術は受けない、と云った脳腫瘍の部長を必死で説得したときをふと思い出しました。単なる奢りかもしれません。端から見ると「そんなことで?」と思うことかもしれませんが、意外に大きいこだわりなのです。

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三角食べ

「三角食べ」が常識だと思って生きてきた私にとって、最近の若い人たちに多い「ばっかり食べ」をする意味がわかりません。

私が教わった「三角食べ」は、ごはん→おかず→みそ汁→ごはん・・・という順がはっきり決まっているいるものではなく、とにかくいろいろなものを少しずつ口に入れて口内で調味させる食べ方で、おかずについてもいろいろなおかずを少しずつつまみながら、最後に全部がなくなる食べ方です。私は、三角食べが上手いのが自慢でした。今でも最後にご飯の一口分とおかずの一口分がきちんと残るように食べるのが醍醐味ですので、時々食べている途中にメニューを追加されて妻と喧嘩したこともあります。

「ばっかり食べ」は一品ずつ食べ終わってから次に進む食べ方で、丼ものでも最初に上の具を食べ終わってからご飯を食べるらしいです。普通の食事も結局最後にご飯だけ残るから食べなかったりそれだけふりかけかけて食べたりするらしいです。三角食べは味が混ざって本来の料理の味付けが壊れるとかで外人さんにはできない文化らしいのですが、だから外人さんには「米飯」の存在意義が理解できないのだなと分かりました。

ところで、「日本人は当然三角食べが理想だろう!」と信じていた私にとって一番ショックだったことは、三角食べを学校で指導しなくなったと聞いたことです。三角食べの強要で給食嫌いが増えたとか、あまり噛まないで流し込んだりするからとかで三角食べは教育的でないとは、あまりに短絡的でしょう。どうしてこうも教育というのは形にばかりこだわろうとするのでしょうか。

濃い料理とあっさり料理を口内調味するからこそ理想的な減塩の食事が成立するのですが、「ばっかり食べ」したらどっちも美味しくない料理ってことになります。困りました。

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新人さん

先日、ある歴史の古いゴルフ場に行きました。私たちの組に、4ヶ月前からキャディ研修を始めた女性が先輩キャディさんと一緒につきました。そう若くない女性の方で、キャディマナーの徹底からグリーンの読み方までかなりの量と内容に及びますので大変です。「カップ1個分スライスだと思います!」すると横から「・・・たぶんそんなに曲がりません。ちょっとだけフックです。」と先輩キャディさんのアドバイス。スライスとフックじゃ全く逆です。まだまだ前途多難のようです。「パー3のショートコースです。ピン位置が奥10ヤードですからピンまで140ヤードみてください!」「・・・たぶん風が強いフォローですから125ヤードで良いと思います。」先輩キャディーさんは凄いです。そのアドバイスで番手を一つ下げたらベタピンになりまして私は嬉しいバーディを取れました。

持って生まれたセンスは確かにありますが、結局は経験です。多くの経験をきちんと覚えているかどうか、そしてそれをうまく応用できるかどうかがセンスだと思います。キャディを始めた経緯は聞きませんでしたが、ゴルフ研修生の若いお嬢さんとは違うでしょう。がんばれ、そう若くない新人さん! 

遠い昔、研修医になって初めて患者さんに点滴をしたときを思い出しました。汗だくになりながら、「すみません、すみません」と謝って眺めた、傷だらけの患者さんの腕。「がんばれ研修医くん!みんな通る道だから気にしなくていいよ。」と慰めながら自分の腕を差し出してコツを伝授してくれた大学病院の入院患者さんたち。ある患者さんがふぅっとため息をついて呟きました。「また、新人さんたちがたくさんやってくるね。私たちも忙しくなるよ。」・・・そんな春が今年もやってきました。

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女性らしさ

女性に対して「スタイルが良い!」というのは、「足が長い」「腹が引っ込んでいる」「胸の形がいい」とかではなく、「細くて皮下脂肪がほとんどない」ことを表すようになってしまった気がします。世の女性が理想と思っている体型を男性は細すぎると思っている、というデータがあります。女性達が「脂肪」を敵だと考えるようになったのはいつの頃からなのでしょうか。戦前の日本では「マルポチャ・下ぶくれ顔が理想」と考えられてたので、やはり欧米の美意識の浸透なのでしょうか。

女性ホルモンは男性ホルモンとは比較にならないほどにとても繊細に女性のからだの微調節をしています。そして女性のからだが大きく変化する時期、脂肪細胞の変化が女性らしさを作り上げていきます。これを女性ホルモンがコントロールしているわけです。女性のトップアスリート、例えばマラソン選手や水泳選手などの多くは競技を続けている間ずっと生理不順などに悩まされていることをご存じでしょうか。これもまた削り落とされた脂肪細胞の影響が大きいと聞いています。最近の若いお嬢さんは、痩せすぎか太りすぎかの両極端の人が多く、いずれも女性ホルモンにとっては厄介な仕事をさせられます。

トレンディドラマの女優さんやトップモデルのお嬢さん方で、第一線をずっと維持できている人は職業人としての鍛え方をしていますから、サプリと野菜とお菓子だけ食って痩せている、隠れ肥満で骨密度低下のお嬢さん方とは質が違います。見た目だけに囚われすぎるのはお年頃の乙女心としてよく理解できますが、このままでは、女性ホルモンが対応できずに破綻をきたす、まさしく危機的状況になってきています。とても心配です。

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肥満と乳がん

太ると乳がんになりやすい。これは、メタボリックシンドロームや脂肪肝などの弊害に比べるとあまり世間で知られていないことかもしれません。特に閉経後の肥満女性は脂肪