それはできん。

先日、ある女性に健診結果の説明をしました。彼女はわたしと同い年です。

「コレステロール、特にLDL(悪玉)コレステロールが高くなったので食事に注意しているのだけれどなかなか下がらない。あとはどんなものを食べたら良いのか?」というのが彼女の悩みでした。

「『トランス脂肪酸が悪い』というのでマーガリンも全部バターに換えたんです。」と云うので、「LDLコレステロールのことをターゲットにするのなら、この際バターも止めてみたらいかがですか?」とアドバイスしました。そしたら、「それは無理です。わたしは毎朝パンを食べますから。」とスッパリ切られました。「別にバターにこだわらなくてもいいんじゃないですか?わたしなんか、食パンはいつも焼くだけで何も付けませんけど、おいしいですよ。」と答えたら、途端に顔を顰(しか)められました。「そんな味のないもの食べられません!」だそうです。

彼女の場合、LDLコレステロールの値はさほど高すぎるというわけではなく、他の危険因子も特にないので、おそらくコレステロールの値をあまり気にしなくても大丈夫だと思います。ただ、こういう話をするとき、相手の思い込みと聞く耳を持たない頑(かたく)なさに閉口することが少なくありません。彼女は、健康に注意している、できることは何でもしている、と断言していますが、「パンにはバターがなければ食べられない」という考えを変える気はなさそうです。わたしは、焼いたパンとスープだけ(またはサラダだけ)でとても美味しいと思うんですけど・・・ちょっと試してみることで、今までの濃すぎる味覚を変えられるいいきっかけになるかもしれないのにもったいないなあ、と思いました。

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キャロット・ジュース

某老舗デパートのお中元商戦で、限定商品を扱っていた番組を観ました。

なんたらキャロットという(まあ外国の「ニンジン」だろうかな)野菜のジュースをお中元用に売っているのです。試飲会を催したり、店員さんがPRしたりなどで、目標の100セットを大きく上回った売り上げを見せていました。

「大嫌いなニンジンなのに、これは飲める。」「こんなに濃くて甘いのに糖がまったく入ってないのはすごいね。」などと、試飲をしたオバ様方がこぞって買っておられました。メーカーのスタッフも、「一度飲みさえすれば、必ず買ってもらえる自信がある」と豪語していましたが、まさにそれを実証した売り上げ数だったのでしょう。

でもどうなんだろう。健康ブームではあるけれど、思いの外美味しいのかもしれないけれど、それを飲み続けるものなのでしょうか。「ニンジンが苦手だけど、これは入っているのに全然気付かないからわたしにも飲める(食べられる)」というようなものがあったとして、それをわざわざ自分で買って何度も飲みたいと思うものなのでしょうか?

「これは食べられる」を、「だから毎日食べる」と勘違いしてはなりません。数ある中からあえてそれを選ばなくても何も困らないのですから。わたしが「バナナの天ぷらは苦手だ」と云っていたら、数年前、ある居酒屋でバナナの天ぷらを食べさせてもらいました。それは思いの外とても美味しくて驚きました。でも、その後あえてバナナの天ぷらなんか注文していません。そんなものでしょう。「とても良い娘」であっても必ずしも結婚を申し込むとは限りません。数ある中からあえてそれ1つを選ぶ、というのは、考えてみるととても奇跡的なことなのだと思います。

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やっつけ仕事

ある病院とテレビ局の共同企画で、渡辺淳一氏の講演会がありました。

急性胃腸炎で食欲がない、体調が悪いという彼は、15分か20分くらい話したあたりから時計を気にし始めて、半分過ぎたところで、「まだいっぱいあるなあ」とぼやき、それでもツギハギの「鈍感力」の話をきちっと1時間話して、終わりました。「仕事をキャンセルしようと思った」というだけのことはあります。まさしく「やっつけ仕事」だと思いました。私の方が上手く話せる気もしました。でも、そんな力の抜けた世間話のような1時間を、ちゃんと聴衆を笑わせながら、そっと医学的なエキスを交えながら、きちんとこなすあたりがプロなのかもしれません。

私だったら、与えられた1時間を有効に使おうをするあまり、あれもこれもと話題を詰め込み、早口で畳み掛けるような話をしてしまいます。それでは聴衆はかえって消化できずに不満足になる気がします。別に教訓を伝えたいわけではないし、勉強になることを教えたいわけでもありません。それなら、笑ってるうちに「何か」が残る、だけでも十分です。渡辺さんは決して話が上手いと云えませんでしたが、「やっつけ仕事」でもこれだけ聴衆の心を捕らえられるから偉いなあと思って帰路に着きました。

そんな「やっつけ仕事」の中で、覚えている文を書いておきます。詳細はご想像を!キーワードはもちろん「鈍感力」。

●長生きで元気のいい爺さんたちに共通の特徴は、「人の云うことをほとんど聞いていない」こと。

●「鈍感力」のある子どもになるには、おおらかなお母さんに育てられること。

●世のお父さんは、朝起きてきたお母さんに、「おはよう。今朝は一段ときれいだね」と云いましょう。ウソでもいいから。顔を背けながらでもいいから。

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甥のうつ

甥が会社を辞めました。

今年4月に新卒で就職したばかりでしたが、新人研修を受けているうちに、朝になっても職場にいけなくなってしまいました。

彼は次男坊です。長男はどちらかというと融通が利かない頑固な性格ですが、次男は子どものころから考え方に余裕がありストレスに強い人間だと思われてきました。あまり大酒は飲みませんが友人も多く、明朗快活な男だと思っていましたし、物静かで人格もよく、人望も厚いし、温厚な性格・・・申し分のない若者だと、本人も両親も自信を持ってそう思ってきただろうと思います。

ですから、今回のエピソードは、思いもよらない大事件だったに違いありません。自分でも自分の身体の変化を予想できずに面食らったでしょう。「○に限ってそんなことはないだろう」とわたしも思っていたくらいですから、母親のショックは大きかっただろうと想像できます。

まだ始まったばかりだったのだからもう少しガマンしても良かったのではないかという意見もありますが、自分に合わないと思った仕事なら早いうちに修正できてよかったのかもしれません。ただ、自分に自信があった(息子に自信があった)だけに、どんな仕事に就くにしても次の仕事を始めるときには、うまくいくだろうか、また同じことが起きるのではないだろうかという大きな不安に苛まれることでしょう。

まだまだ若い彼に、幸あれ!

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俯瞰図

きのしたさんに戴いたコメント(2009.7.6「叱咤激励といじめ」)を読みながら、きのしたさんへの返事が長くなりそうになったので、本文にも追加しました。

俯瞰図のお話、私には良く理解できます。一般には地図で教わる「鳥瞰図」と同じ感じですのでそっちの方が分かり良いかもしれませんね。私はできる限りそういう目で人生を考えてみようと思ってきました。医療の現場だけでなく、日常の生活でも、いつも俯瞰の位置から全体を眺めて冷静で中立な立場で物事を判断するように心がけてきました。

ですが、逆にそれはそれでまったく面白くない人生です。ご存知の方はご存知のように、わたしが贔屓にしているプロサッカーチームの試合(大苦戦中)を応援する場合、わたしはいつもバックスタンドのやや上の方から観ています。いわゆる俯瞰の位置で、そこからは全体が見えて楽しいのです。解説者になった気分です。そこからは、テレビでは見せてくれないグラウンドの片隅の選手の動きや、ボールを持つ選手に対して遠くで手を上げる選手の動きなど、手に取るようにわかります。何が悪かったか、何が良かったかを分析するのに最適な位置です。

でも、実はゴール裏や最前列にいる方がもっとワクワクできることも知っています。全体の流れは分からないかもしれませんが、贔屓の選手が自分たちに向かって走ってくる光景に興奮したり、ピッチに立つ選手と同じ様な目線で、重なり合った選手たちの臨場感たっぷりの動きを見ることができます。同じ試合を、俯瞰の位置とゴール裏の位置と同時に経験できたらいいなと思っている人は多いことでしょうが、それは絶対できません。それに対して、人生ではその「同時」ができます。俯瞰の位置からの客観的で冷静な目と、当事者の目で見る主観的で素直な感情とを同時に分析対象にすることができるのは、当たり前のことではありますがとても素晴らしい特権だと思います。

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叱咤激励といじめ

アドバイスの送り手は「叱咤激励だ」「愛のムチだ」と云い、受ける方は「いじめだ」「嫌がらせだ」と感じる。そこから軋轢が生じ、うつが生まれます。

「叱咤激励」と「いじめ」は、一体どこが違うのでしょうか。わたしは、それは「愛情」なのだと思っています。大学の運動部や相撲部屋に伝統的にあった後輩への「愛のムチ」には「愛情」はありません。いたぶることを楽しんでいます。戦時中の軍隊時代からの伝統なのかもしれません。ただこれらは、未熟者が未熟者を指導する図なのですから、お遊びでしかありません。

社会に出て間もない若者に「最初にガツンと云って聞かせておかないと付け上がる」と思いながら教える云い方と、「最初は失敗も当たり前。分からないだろうからできるだけわかり易く」と思って話すことばは、同じことを伝えるとしても全く違うことになるのは、火を見るより明らかです。受ける方も、相手を苦手だなと思って聞くか、信頼感を持って好意を抱いて聞くかでは、まるで違う印象になってしまうものです。自分がイライラしていて、その気はなかったのについ辛く当たってしまうこともあるでしょう。そのときに、「悪いことをしたな」と若い部下に素直に詫びる心を持てるような上司なら、受ける方は決してひねくれたココロには陥りません。お互いがお互いを尊重できる関係になるには「愛情」が必要不可欠なのです。

●受け手への愛情はあるか。●送り手の心に余裕はあるか。●それによって具体的にどうなってほしいのか。

○受け手に心の準備はできているか。○送り手を信頼しているか。○それによって具体的にどうなりたいのか。

・・・結局は、気持ちの相互関係の問題なのだと整理できます。

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体育会系の職場

日本の企業は、大なり小なり体育会系のノリで大きくなってきたと云っても過言ではありません。根性とやる気をバネにして、先輩に理不尽な怒られ方をすることがあっても、「愛のムチ」でしごかれ続けても、それでもそれに耐えて、自分を犠牲にして頑張ってきたからこそ成り立ってきたのだと思います。

むかしながらの定形型「うつ病」は、真面目で几帳面な性格の人がかかりやすいのが特徴です。また新しい形の非定形型「うつ病」が若者の間で増えていますが、寂しがり屋で自己愛が強く、他人への不信感が強い特徴があります。どちらのタイプであっても、この「体育会系の職場」ではかなり辛いところがあります。

なぜなら、「体育会系の職場」では、●みんなそうやってきたんだ。●甘ったれているんだ。●気合があれば乗り切れるはずだ。●最近の子は怒られ慣れていないから壊れる。●付いていけないヤツは辞めればいい。・・・おそらく、現場の管理者の多くがそう思っていますし、自らがその環境の中で育ち成長してきたという誇りと自負があるのです。これを変えようとするのは、よほどの事件が起きるか鶴の一声があるかしかないと思います。

「うつ病」で復職した彼のはなしを聞きながら、救急現場で常に命を相手に厳しい戦いをしているうちの病院でも十分ありえる内容だと思いました。うちの病院にも同じ様なケースがあっていることを知っていますが、管理者たちが時々こぼすグチを聞く限り、おそらく彼らもまた「最近の子は困ったものだ」としか思っていないように感じます。うちは日本でも有数の先進的な職場だと誇りに思っていましたが、相変わらずの旧態依然とした風土なんだなと思うと、ちょっと寂しい気持ちになりました。

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ゆるせない(後編)

この「怒り」の感情は、うつの状態から回復していく過程で、どうしても生じてくる感情です。少し余裕が出てきた証拠であるとも云えるでしょう。今でも治療を続けなければならない自分や家族への迷惑を考えるとき、「のほほんと平気な顔をして生きている加害者」だけでなく、何の対策も講じることなくそんな「加害者」を野放しに許している職場自体にも、ガマンできないような苛立ちを感じるのでしょう。わたしにも経験があるので、その気持ちは手に取るようにわかります。そのことを思い始めると動悸がし、吐き気がし、床についても興奮して眠れなくなってしまいます。

でも、じゃあ、どうしたらいいのだろう?と、彼に質問してみたいところです。その上司を降格させたり辞めさせたりしたらいいのでしょうか?その上司が彼が思っている程度の人間なら、彼のことを逆恨みしてもっと嫌がらせするかもしれません。彼はかえって働きにくくなるかもしれません。彼はそんな仕打ちに耐えられるのでしょうか。その上司が罰せられても、あるいは指導者から退いても、きっと彼の心はそれだけでは満たされることはなく、何ら解決しないことでしょう。

結局、彼自身がその上司を許してやれる心の状態になるときまで、彼の今の苦しみは続くことになります。でも、今の彼には信じられないかもしれませんが、その日はそう遠くない将来にやってきます。自分がこだわっていたことが大したことではないことに気づき、他人を気にしていたこと自体がくだらなかったと思えるときが、今回の「うつ病」から卒業できるときなのだろうと思います。「時が解決する」というのは真理です。それを得るために焦らずゆっくりとした時間を費やしてもらいたいと思います。

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ゆるせない(前編)

わたしが産業医をしている企業のある若者がうつ病になりました。就職後、上司の厳しい指導についていこうとするうちに体調がおかしくなり、動悸がひどくなって仕事に行けなくなりました。とうとう彼は病院を受診し、「うつ病」の診断書とともに休職しました。そんな彼が数ヶ月前に復職しました。それなりに順調に回復し、現場復帰できています。

産業医として関わっているわたしは、先日彼とゆっくり話をしました。一通り彼の思いや近況を話してもらったあと、「もう言い残したことはないの?」と聞いたら、しばらく口ごもったあと、やっと重い口を開けました。

「自分がこんな形で復職できたことはとても幸せで有り難いことです。でも、たとえどんなに反省してもらったとしても、やはり、自分をこんな身体にし人生をボロボロにさせた上司が、何のペナルティも受けないことに納得がいかない自分があります。彼のやったことは「いじめ」であり、同じことが行われて自分と同じような目に遭う若者がこれからも出るとしたらそれは「犯罪」ではないかと思うと、どうしても彼を許せないのです。」・・・ずっと静かに穏やかだった彼の顔色が蒼白になり急に涙をボロボロ流し始めました。

明らかな感情失禁状態なので、その話はそこで終わることにしました。

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徹底的に?

「わたしの身体を徹底的に調べてみました。ありとあらゆる検査をしてみました。」というオジさんが時々います。「徹底的に」とか「ありとあらゆる」とかいうことばは、まあ本人の心意気を示しているだけなのだろうなとは思うのですが、でもやっぱり何か違和感があります。

ニンゲンの身体を「徹底的に」調べる、ってどういうものだと思っているのでしょうか?健診や人間ドックは、もちろん何も徹底的ではありません。むしろ何もないことを念頭に置いて、グローバルな項目をさらっと表面的に流しているにすぎませんから、よっぽどの異常でもない限りひっかかりません。病院では、何か訴えられている症状に対して想像される病気があるかどうかを調べますので、ターゲットはかなり絞られているでしょう。「身体中を徹底的に」などありえません。神秘な世界の集合体である「身体」をバカにしているのか、医療の検査器具を過信しているのか、あるいは「権威ある」医者の云っていることばを鵜呑みにしているのか。

わたしはとても意地悪なので(というより、とても性格が悪いので)、そんなオヤジが誇らしげにしていると、ついつい苛めてみたくなります。このプライドを弄ってみたらどうなるのだろう?と思ってしまいます。「それは大した検査ではありませんよ」とか「それじゃあ、ほとんど何も分かりませんね」とか、平気で云ってみたり・・・きっと、いけ好かない、態度の悪い医者に見えていることでしょう。

だれが最初にこんなことばを云い始めたのでしょう。きっとどっかの有名な文化人か芸能人か政治家なのに違いがありません。ニンゲンの身体を調べるために、隅から隅までありとあらゆる検査をするなら、体力的なことも考えると(非人道的ですけれど)、3ヶ月くらいかけたらそれなりのレベルはできるものなのでしょうか?

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「右」と「左」

「右」と「左」の書き順も面白い対比です。「右」は「ノ」から書いて横棒が長い、「左」は「一」から書いて「ノ」が長い。子どもたちを悩ませるこの2つの文字の違いもまた子どものころに面倒くさがらずにきちんと教えてあげてほしいものです。

由来は象形文字から来ていますから、知ってみるとそれなりに面白いし、書き順が決まった理由も理解しやすいと思います。

一方で、「覚え方」を検索してみるとこれまた面白い。「ノ」「一」と続けると右回りで、「一」「ノ」と続けると左回りだ(これは子どものころ聞いたことがあるかもしれません)とか、「ノ」は右側から書き始めるけど「一」は左側から書き始める、とか・・・。なるほどねえ、と思わず唸ってしまいました。じゃあなぜ「さゆう(左右)」と「みぎひだり(右左)」の言い方の違いがあるのか?・・・書き順をきちんと覚えましょう!ということを書きたくてちょっとネットを検索していたら、そんないろんな世界に入り込んでしまいました。何事も深く入っていくと面白いものです。

ところで今、「漢字の書き順」はあまり問われなくなってきているそうです。「~でなければならない」という根拠がないから、他の説もあるから、などの理由だと聞いています。そういえばテレビのクイズ番組でインテリ芸能人と称する高学歴のお嬢さん方の漢字の書き順をみると、あまりにユニークで目が飛び出そうになります。きっと彼らは文字を絵(画像)として記憶させるのでしょう。パソコン・携帯世代だからなのでしょうか。まさしく右脳の働きですね。

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「シ」と「ツ」

阿蘇路を運転中、「超安値、ラキー!」という手書きの文字を見かけました。

「ツ」を「シ」と書いてしまう人をみると、心からもったいないと思います。その人に最初に「シ」と「ツ」を教えた人がいけないのだと思います。もしや、教えた人自体が何も分かっていないのかもしれません。彼らは、「シ」と「ツ」の違いは最後の「ノ」を上から下ろすか下から上げるかの差だけだと勘違いしています。だから件(くだん)の「ラキー!」も、単に字が下手なだけだと思っているのではないでしょうか。でも、「シ」と「ツ」は決定的に別物です。この二つにはとても簡単な決め事があります。それができていなければ、「」は「ッ」にはなれない。至極当たり前のことです。

「シ」と「ツ」の違いは、ひらがなを思い浮かべれば理解できます(多くの場合、ひらがなはカタカナの後にできました)。「シ」は「し」なのですから、長短三本の棒を縦に並べ(左端揃え)て初めて「シ」なのであり、「し」を書くのと同じ様に最後に右上に跳ね上げます。「し」を書くときにアタマに点をうつことがありますが、それが「シ」の第一画の点と同じです。同じように「ツ」は「つ」なのですから、三本を横に並べ(上端揃え)て初めて「ツ」であって、「つ」を書くように最後に右上から下に跳ねるのです。

覚えてしまえば簡単なことで、そんなことでこんなくどい文章を書くのもどうかとは思いますが、大したことではないけれど、大したことではないからこそ、大人はこどもたちにきちんとした日本語を教えてあげてほしいと思いました。

そんなことを考えながら運転しているうちに、ふと気づくとすでに県境を越えていました。

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消えていくことばとキー入力

最近、ボキャブラリーの減少に拍車がかかった気がします。思いの外、わたしの脳細胞の消えゆく速度は速いようです。何かを話そうとするとき、あるいはこのブログを書こうとするとき、もっとしゃれた表現をしたいのに出てきません。きっと1年前にはもっとたくさんのことばがボロボロと浮かんでいました。分かり易い云い方を探しているのに、なんかこの辺(アタマの片隅)にあるモヤモヤしたものがはっきりしません。メガネかコンタクトをはめたらスパッと見えそうな、まるで白内障の目のような、そんなモヤモヤで一杯になります。結局、「まあ良いか」と諦めてしまうからいけないのかもしれません。

明らかにここ数ヶ月、パソコンキーの打ち間違いが多くなりました。さほど小さくもない職場のデスクトップのキーボードでも、もちろん携帯電話の小さなキーでも、何度も間違っては打ち直すことをくり返します。同じ間違いを二度も三度もくり返す場合も少なくありません。「手の感覚がおかしくなるのは老化の表れなんだよ」と云われました。微妙な位置がずれてしまうのでしょう。はいはい、老化現象です。分かっています。

もっと本や活字を読むといいのでしょうか?昔やったDSの脳トレをもう一度始めてみましょうか?漢字検定の勉強をしていたころは漢字を毎日書くだけでもアタマがスッキリしました。そんな、いろいろな賦活方法をまた始めておかないとアタマからこぼれ落ちていく脳細胞は歯止めがつかないのでしょう。・・・でも、わかってるのに面倒くさくてできなくなったのは、そのこと自体がもはや末期症状かも・・・。

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モー娘。

わたしの仕事は、心臓ドックや生活習慣病の指導など、特殊な検査結果を説明したり、個別の生活指導をしたりすることです。みっちり説明をしたあとに、話した内容をすべて報告書に記入します。他に仕事はたくさんあるのだから、記入はそのあとにしてほしい、という空気が流れている中で、わたしは、それを説明のすぐあとにします。

なぜなら、すぐに忘れるからです。一人が終わって次の一人に話をしているうちに、一人目の人に何を話したかすっかり忘れています。簡単なメモをとってみたこともありますが、結局書こうとした時点ではそのメモを見ても今ひとつ思い出せません。だから、たとえどんなに顰蹙(ひんしゅく)を買っても、その場で書き上げることにしています。

他の部門を担当している若いスタッフは皆さんあとでまとめて書きます。数日前のコメントをメモを頼りにさらさらと書けている若い人たちは、凄い!と思います。まあわたしにもたしかにそんなときがありましたから、歳をとっただけなのでしょう。

ほんの十数年前、わたしは大好きな「モー娘。」のメンバーを初代から全員ソラで云えました。なのに今はまったく区別が付きません。ゴマキが入ったあと、わたしの識別能力は、石川・吉澤・辻・加護が加わったときまでです。今も似たようなかわいらしいお嬢さんがたくさん並んでいますがどれがどれか良く分かりません・・・お前らに特徴がないんだ!と思うことにしていますが、きっと10年前のわたしだったら簡単に区別できたに違いないのです。

名前を覚えられないだけで、何かものすごく損をしているような気がしてなりません。

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夢と云えば。

大学時代に一緒に演劇をしていた連中が、今も東京で芝居を続けています。昨年、新しい集団にリニューアルして頑張っています。

最近まで、そんな彼らの芝居本番の舞台に自分が立っている夢をときどき見ていました。まったく台詞を覚えた記憶なんかありません。練習した記憶すらありません。でも、たぶん、もうすぐ自分の台詞の順が来るはずです。かなり長い台詞だったような気がします。・・・場面はいつもそんな同じシチュエーションです。でも、わたしは全然焦っていません。台詞覚えした記憶もなければ話の筋もよく分からないのだけれど、友人である演出家が自分を使ってくれたことが嬉しいのか、あるいは仲間と一緒に舞台に立っているのが嬉しいのか、なんかワクワクしています。きっと、その番が来たら勝手に口が動いて勝手に台詞が出る、という確信があるのです。そういえば役者をやっていたころは何かそんな自信に溢れていました。

今から試験を始めます。という夢もときどき見ます。わたしは大学生のようです。演劇ばかりしていて授業をよくさぼったので、この教科の授業に出た記憶なんかありません。もちろん教科書を開いた記憶もありません。試験用紙が配られてきました。もうすぐ試験が始まります。参ったな、何にもしてないのに・・・と思いながら、まるで開き直っているかのように落ち着いています。きっと、何とかなるさと思っています。今までもそうやってきたような気がします。

小心者で神経質なわたしですが、こんな夢を見るところをみると、意外に強気で脳天気なのかもしれません。でも、ここ1年くらい、こういう夢を見なくなりました。

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大雨

年に数回、洪水の夢を見ます。

大雨の中、いつもの道を自家用車で走っています。辺りの田圃はもはや池のように水で溢れそうです。進んでいくうちに徐々に道は水に沈んでいきます。ふと前方をみると、もはや道は田圃との区別ができないほどに冠水しており、車を止めてしばし途方に暮れて立ちつくすことになります。「どうしよう。今ならまだ無理したら何とか向こうまで行きつけるかもしれない。でもどんどんカサが増えてきているみたいだから、もしかしたら流されるかもしれない。かといって小さな農免道路の一本道だからUターンすらできないし・・・。」不安でアタマが一杯になりながら、何気なく後ろを見回してみました。何と!!わたしの後ろは断崖絶壁に変わりその向こうは大荒れの海になっています。いつの間にか、自分だけが取り残されているのです。

夢判断の知識が何もありませんが、どうも良い夢ではなさそうだということは分かります。何者かに追われる夢もよく見ます。拳銃を持っているので捕まったら殺されそうで、住宅街の路地裏や家の中を走って逃げまどうのです。わたしの子どものころの実家の辺りや中学校の通学路辺りがよく舞台になっています。

かなり追いつめられているねえ、とそれを聞きながらある人が云いました。ストレスの表れであることは明らか・・・病んでるねえ、と。そうなのかもしれないな、とそれなりに納得します。そうだとすると、何となく解決できているからそれはそれで良いのかもしれません。洪水に車ごと巻き込まれてしまったことはありませんし、追われて捕まって殺されたことはまだありませんから(あ、一回だけ殺されました。完全に血の気が引きました。死ぬってこんな感じだったんだと思いました・・・あれは、別の意味で怖かった)。

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ひと違い

先日、ある中年の女性が宿泊ドックを受診しました。検査の判読をしているときにたまたまその女性の名前をみつけました。私の知人である開業医の奥さんの名前です。数年前から毎年ご夫婦で受診してくれていました。「あれ、今日奥さんだけ受診するという連絡はなかったんだけど・・・」と思いながらも、住んでいる小さな町の名前も年齢からしてもまず間違いなさそうでした。

ふと目に入った検査情報をみて驚きました。大きな腫瘍がみつかっています。おそらく早々に手術が必要になりそうなものです。今まで何も異常はなかったのに・・・とても心配になりました。ですから担当の専門医に詳しい話を聞きに行きました。あまり良くない所見のようです。・・・何と説明してあげたらいいのだろうかと思案しながら、翌朝、結果説明のために彼女を診察室に呼びました。静かに入ってきた女性は、わたしが想像していた人とはまったく別人でした。同姓同名で、住んでいる町も同じでしたが、まったく違う人でした。「えっ?」と一瞬絶句しましたが、何食わぬ顔をして淡々と結果の説明を済ませました。

後日、話を聞きに行った担当ドクターにひと違いだったことを告げに行ったら、彼はすでに紹介状にドクターの奥さんだと書いて渡してしまったと云います。大慌てで病院に訂正の連絡をとったり・・・大変恐縮いたしました。今回は大事に至りませんでしたが、反省しきりです。わたしは、当人を確認することなく自分の知り合いだと思い込み、事を大きくしてしまいました。たとえすぐに訂正したとしても、誤った情報はこうやって誤りと誤解のままにまことしやかにあちこちに伝わって、とんでもないことになってしまうのでしょう。以後気をつけましょう。

でも、当事者には申し訳ありませんが、全くの別人でホッとしたのも事実です。

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クレアチニンと筋肉

「血中クレアチニン」といえば腎機能を表す物質として有名です。腎臓で濾過されておしっこに出て行くものなので、血液中にクレアチンが多く残っているほど腎機能は低下していることになるのです。ところで、もともと筋肉中の「クレアチン」が代謝して「クレアチニン」になるので、当然筋肉量に比例してクレアチニンは増加します。若いマッチョの方が高いですし、男性の方が女性より高くなるのが普通です。

先日の第52回日本糖尿病学会で「血清クレアチニン低値は2型糖尿病の発症リスクである」という発表がありました(The Kansai Healthcare Study: 大阪市立大針田伸子先生)。40~55歳の糖尿病でない男性のうち、登録時にクレアチニン値2.0mg/dl未満だった人を4年間追跡した研究です。その結果、クレアチニン値が低ければ低いほど糖尿病になる率が有意に上昇したというものです。つまり、筋肉が少ない人ほどクレアチニン値が低くなるのであり、それは基礎代謝量の低下や運動不足の表れだから糖尿病悪化の誘因になる、という考察でした。

至極当然のように書いてきましたが、実は正直なところ、まったく想像だにしていなかった話題なので驚きました。クレアチニンは高値なほど危険なのであり、糖尿病が悪化すれば腎機能が悪くなるのであるからクレアチニン値は上昇するもの。クレアチニン値が低い、などということは臨床上には何ら病的意義はないものだと思ってきました。またひとつ勉強になりました。

「歳をとると腎機能が低下するかわりに筋肉量も低下するから、クレアチニン値は相殺されて年齢が上がっても変わらない」という理論を読みながら、「なるほど」と簡単に納得してしまいましたが、それって、本当に正しいのかしら?

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うるさい

庭の草刈りをしていましたら、隣りの家から子犬の鳴き声が聞こえていました。ずっと鳴きやみません。すると、ご主人の声がします。「うるさい!」・・・それでも鳴きやみません。さらにもっと大きく鳴いています。「うるさいでしょ!!」・・・もっと大きな奥さんの苛立った声が聞こえてきました。

聞きながら、ほとんどうちの家と同じ光景だなと思いました。いつもは静かなのに散歩の準備を始めるとまったく聞く耳を持たずに大騒ぎで吠え続ける11歳のワンと、朝早くから起きろ起きろと鳴きながら大騒ぎする生後半年のワンとに、夫婦で何度も「うるさい!」と大声を出すのが日常でした。

わたしは、そんな光景が急に滑稽でみっともないと感じ始めて、意識して「うるさい」ということばをつかわないようにしました。「うるさい」は、自分の苛立ちをただ犬にぶつけているだけです。そしてそれに応じてくれないことにさらに腹を立てているだけです。大声を上げて怒っている姿が傍に聞こえるのは、そんな自分の苛立ちを皆に見せているだけのような気がしました。「怒ってもしょうがないから」と、吠えても無視することにしました。ワンたちは大騒ぎで吠え続けます。「うるさいでしょ!」妻の大声が聞こえます。そんな喧騒の中、ぐっとガマンを続けていたわたしですが、突然プチンと切れました。スリッパを投げつけ、首根っこを掴んでガンをつけます。一瞬静かになりました。が、またさっきより激しい大騒ぎが始まりました。・・・自己嫌悪です。

今どきのおかあさんが、あるいは若いおとうさんが、小さな我が子をなぐりつけ虐待する姿、あるいはノイローゼになるおかあさん。思うようにいかずに突然「切れる」大人たちの感覚がまさしくこんな感じなんだろう、とそう思いました。

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歯磨きで菌血症

感染性心内膜炎という病気があります。細菌が心内膜に感染して、命に関わることのある病気です。細菌が心臓の弁膜について増殖してしまったら、いぼ状の塊になって(疣贅=ゆうぜい)急性心不全になることもあり、あるいは菌の塊が脳などの臓器に飛んで詰まってしまったり(塞栓症)、もはや手術などの治療でしか解決しないことにもなりかねません。

と、書いてみたところで、おそらくこれを読んでいる大部分の人が他人事だと思っていると思います。でも、循環器の病院にいますとさほど稀なものでもありません。必ずしも心臓に病気を持っている人だけがかかるとは限らないのです。虫歯や歯槽膿漏を放置しているとずっと菌が体内を回っています。菌血症といいます。これが弁膜に付着して心不全になって入院するというパターンは2年に一人くらいは経験しました。だから、うちの病院の心臓外科医は自分の虫歯治療を最優先で済ますように指導されていました。

菌血症というのは、わりと簡単に起きます。物理的なキズが粘膜につけば菌は簡単に入ります。虫歯治療自体でももちろん菌血症を作ります。だから抗生剤を処方されたりするのです。普通は抵抗力が強いから病気に発症しないだけのことだと思った方が良いでしょう。さて、今回の題名の意味がお分かりでしょうか?そうです。毎日する歯磨きでも菌血症は起こるのであり、感染性心内膜炎のリスクになりうるのです。1回の歯磨きで菌血症になる危険性は低いかもしれないけれど、年に1、2回するかしないかの歯科治療より、むしろ毎日2回も3回もこまめにする歯磨きの方が菌血症になるリスクは高くなってもおかしくはない、ということになります。

だからといって、歯磨きをさぼりませんように。一過性の菌血症を恐れていてもしょうがありません。むしろしっかりと健全な生活をして菌に勝てる体力を保つことが大切だといえるでしょう。

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かがやく

もうひとつだけ「風花病棟」(帚木蓬生・新潮社)から。

「宮田さんが言っとりましたよ。わしは最後によか主治医に会うたと」・・・(中略)・・・大学での一年目の指導医の教えを忠実に守ったに過ぎない。面接で話題がなくなったら、本人が一番輝いていた時期のことを聞く。そうすれば、治療は決して悪い方にはいかない-。~精神科医としてアルコール病棟の医師となり、病棟の主のような患者(宮田さん)とのこころの交流を描いた作品=「かがやく」の一節です。

とかく医者は自分に必要なこと、あるいは自分に興味のあることしか聴こうとしません。時間がないということもあります。精神科の場合は十分な時間をとって患者さんと面接をするのが常ですが、それでも話題を振ろうとするときにはどうしても診療に直接関係ある情報を得ようとするものです。そんな中で、「本人が一番輝いていた時期のことを聞く」というのはとても素晴らしい考え方だと思いました。

わたしが「医者」だったころ、わたしも良く診療と関係ないことを聞いていました(カルテメモ)が、あれは相手が話したことをメモしたにすぎません。病院に来たら病気のことを聞いてほしいのだと意気込んでくる患者さんも多いですが、それでも診療にあまり関係ない釣りの話や孫の話をしているときの方がはるかに良い顔をしていました。わたしは精神科医ではありませんが、あの気の毒そうに(待っている患者さんが多いことを知っているので)そっと話す患者さんのこころからの笑顔を引き出せたことはいいことだったと自負しています。

帚木蓬生の「風花病棟」は、1年に1編だけ小説新潮に掲載されてきた、医師を主人公にした短編小説集です。舞台が九州であるものがほとんどだということも親近感を覚え、一気に読み終えました。

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泣ける医者でありたい

「医者になって十年、なんとか患者の気持を汲み取れる治療者になろうとして努力してきたが、二つはなかなかひとつにならなかった。所詮医師は建物の中にいて、雨に濡れる患者を眺める存在だった。たまに雨の中に出て来ても、目だけしかあいていないようなレインコートで重装備し、雨に濡れないようになっていた。」・・・自らが乳がんになり不安の中で治療を続ける女医を描いた小説「雨に濡れて」(帚木蓬生「風花病棟」・新潮社)の最後に書かれた一節です。

「その通りだな」と思いました。

わたしもまた泣き虫医者でした。受け持ちの患者さんが亡くなって、心臓マッサージで震える手で死亡診断書を書きながら何度嗚咽したかわかりません。一緒に戦って、一緒に一喜一憂してきた戦友が居なくなった悔しさと、彼らを侵した病気と運命への憤りでした。医者としての知識や技術を大して持ち合わせていないわたしは、患者さんの気持ちになれる医者、患者さんのココロを代弁できる医者でありたいと思ってきました。同じ状態をみるとき、患者さんの目と医療者の目ではまったく違うところに焦点があり、まったく違う価値観にあることを知っています。手を握って座って話をするとか、服の着替えを手伝うとか、「そんなことは医者のすることではないからやめなさい」「もっとプライドを持ちなさい」と云われ、「くだらない」と吐き捨てたことがあります。自分は医療者である前に人間として患者さんと向かい合いたいのだと主張していましたが、でも詰まるところ自分の自己満足でしかないのだと思います。患者さんの友人であり身内であるのと同じような意識で患者さんを思おうとしていても、所詮は他人であり、所詮は「先生にはわからないよ」ということなのだと思います。

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お葬式に出る

「主治医が葬式や通夜に顔を出すと、何かやましいことがあるのではと勘ぐられる。だからよしたほうがいいと、たいていの医者は思っている。とんでもない誤解だ。家族からは感謝され、こちらの気持にもふんぎりがつく」

帚木蓬生(ははきぎほうせい)の「風花病棟」(新潮社)という短編小説集を読んでいます。その中にある「藤籠」という小説の中の一節です。少なくともわたしが働いてきた環境の中には、葬儀への参列をタブー視する風潮はありませんでした。ただ、受け持ち患者が亡くなったとしても、その居なくなったベッドにはすぐに次の重症患者さんが入り、次の患者さんと死闘を繰り広げることになるのです。平日に礼服を着て葬儀に参列する時間がもらえることは稀でした。

心停止を起こして救急車で担ぎ込まれるたびに生き返っていたIさんは、うちの自宅のすぐ近くに住んでいました。そのIさんが他の病院で亡くなりました。救急で近くの病院に担ぎ込まれて、うちの病院への転院を希望したいと奥さんから電話で相談を受けましたが、移送できるような状態ではありませんでした。仕事から帰ってから通夜に行きました。もう10年近く前のことです。奥さんは今も元気で一人暮らしをしています。

新聞のおくやみ欄を見ていて、外来で受け持っている患者さんの突然の死を知ることもあります。驚きます。Mさんはちょうど日曜だったので、大急ぎで斎場に行きました。奥さんをうちの病院で殺されたと云い、医者も看護師も信用できんと云いながら、なぜかわたしとはウマがあった爺ちゃんでした。いつも車椅子を押してくれていた付き添い婦の女性がわたしを見つけるなり駆け寄ってきて号泣しました。もうちょっと早く見つけたら助かったかもしれない、と自分を責めました。わたしは静かに合掌させていただきました。わたしもまた、わたし自身の区切りをつけるための参列だったかもしれません。

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突然の死

妻の中学校時代の友人の母が昨日の未明に亡くなりました。肺がんでした。

ほんの2週間前まで、元気にガーデニングをしていたという70代半ばの女性でした。その友人の父親は長い闘病の末に正月に亡くなったばかりで、母子2人暮らしなって半年後のことでした。

数日前、妻にメールが届きました。母親が入院したこと。ちょっと腰が痛いと云って病院を受診したらそのまま入院になり、肺がんであることを告げられたこと。すでに全身に転移していたこと。組織型を確認するために気管支鏡検査をする予定だったが急速に悪化して結局検査もできないままになったこと。何がなんだかわからないこと。

医療関係者ではない彼女にとって、この2週間の出来事は何一つ理解できることではなかっただろうと思います。最愛の人がある日突然入院して、何を考える時間もないままに意識がなくなり、みるみる危篤状態になって、何も話せないままに何の心の整理もできないままに逝ってしまったことを、きちんと受け入れるのは大変だろうと思います。それでも、ほんの数日間だけでも時間があったことは、何はともあれ彼女には大切な時間だったことでしょう。そういえば、7年前に亡くなったわたしの父は、わたしの知らない間に(というより誰も知らない間に)一人で逝ってしまっていました。わたしが何も知らずに普通に生活していた同じときに、父は一人この世を去っていったのだと思うと、たとえ受け入れがたい突然の別れであっても、きっと彼女の方があるいは彼女の母親の方がきちんと区切りができただろうと思います。

通夜、葬儀から法要まで一人でやりくりすることになるであろう彼女が、ゆっくりとご両親と改めて対話できる日は、かなり先になることでしょう。ご冥福を祈ります。合掌。

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飽きてきた

どうもいけません。

あなたのやりたいことはないの?と聞かれても、今、浮かべることができません。きっと数年前だったらあったのかもしれません。おぼろげながら夢を語ることができたような気がします。でも、ここ1、2年で一気に失せてしまいました。仕事も人生も、なんかどうでもいいや、という気分になることがあります。それは若いときからときどきありましたが、最近ちょっと多くなってきているような気がして気がかりです。

「たばこをやめましょう」キャンペーンの講話を頼まれました。「メタボリックシンドローム予防」の講師も頼まれました。毎年のことです。ただ、今年はなんかあまり気乗りがしません。なぜかあまり興味が湧きません。飽きちゃったといってもいいのかもしれません。自分が興味が湧かないことについて話をするのは、それなりに辛いことだと思います。学校の先生や講演行脚をする皆さんは、たしかにそれが飯の種だからと云っても、やっぱり偉いなあと思います。まったく気乗りがしないときも体調が今ひとつのときも同じことを同じように話して回らなければなりません。自慢ではありませんが、わたしは、同じテーマの話を3回続けるなら3回とも内容を変えないと続けられません。話している自分が飽きてしまうからです。本物の話のプロは、まったく同じ内容と同じことばを3回も5回も10回も続けられるようでなければならないのだと聞いたことがあります。それでなければ、相手に感動を与えることはできないのだ、と。相手に感動を与え続けることは、わたしには到底できない芸当だなあと最近痛感します。

さ、グチはこれくらいにして、そろそろ講演の準備を始めなければ・・・。

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ヨーヨーダイエット

抗加齢医学会の学会誌にアメリカの専門医テリー・グロスマン先生(コロラド州立医科大学)の「減量最前線」という記事が載っています(Vol.5No.1 069)。

一定の体重を減らすまで「ダイエット」を行った後それ以前の食習慣に戻ることでリバウンドし、それをくり返すのは「ヨーヨー」のようなサイクルだということで「ヨーヨーダイエット」というのだそうです。世のダイエットを試みる多くの皆さんが陥るヨーヨーダイエットからどう脱却するか?

グロスマン先生は「永続的に減量を行うための唯一の方法は、長い間続けることが可能な食習慣をみにつけることだ」といい、ガイドラインを示しております。1.減量を達成したかのように食べる。2.腹八分まで食べる。3.健康的な一人前の分量を決める。4.規則的な時間・回数で食事をする。5.カロリーの種類。6.減量のために炭水化物を削減する。

もっともなことが書かれていてあまり興味がなかったのですが、そのうち「すでに減量を達成したかのような食べ方をする」はちょっと面白いと思いました。つまり、すでに自分の目標の体重に到達した場合に必要と思われるカロリーを初めから摂取する、というのです。90kgの体重を70kgまで減量したいと考えたとき、普通は、20kgを○ヶ月で減らすためには最低何カロリーの食事制限と何カロリー消費する運動を・・・と考えて頑張ります。これは、そうではなくて、今現在70kgの人がそれを維持するために摂っているカロリー量を今から摂る食習慣にするのです。今はあまり運動をしていないけれど将来それなりに運動すると決めたなら、それを考慮してそういう生活をしている70kgの人の食べ方を今からするのです。それって、できそうな気がします。もちろんすぐに成果は出ないかもしれませんが、ずっとするつもりの生活を今から習慣付けるだけですのであまり無理がないように思います。これからの指導に取り入れてみようかと思います。

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何か食べられないものはありますか?

先日、友人に誘われて夫婦で焼き肉を食べに行きました。注文をし終わった後で、店のお嬢さんが「何か食べられないものはありますか?」と聞きました。「それはアレルギーのことですか?」さすがに焼き肉屋でそんな質問を受けたことがなかったので妻はそう質問しました。「それでしたら、エビ、イカ、カニ、タコは食べられません」・・・そう答えられて、メモしていたお嬢さんもちょっと緊張気味でした。

最近、食物アレルギーに対する考慮をしてくれる店が増えてきました。ただ、「アレルギーのある方は店員に伝えてください」と店内に表示した上で客から申し出るのと、わざわざ店の方から個別に「アレルギーはありますか?」と聞いてくるのとでは、責任が違ってくるように思います。もちろん、聞いたからと云って、「アレルギーを考慮して食材を変えます」とは云ってないわけですが、うちの妻のようにエキスやだし汁が入っていただけでのアレルギーが起きるニンゲンは世にたくさんいますので、聞かれないで食べたら自己責任ですが、聞いておいてアレルギーが起きたら、それは店の責任になるのではないかと気になりました。

うちの施設にもレストランがあります。健診受診者のみなさんに問診で「食べ物のアレルギーはないですか」とこちらから聞くかどうかで揉めています。相手から「アレルギーがあるのだが考慮できますか」と聞かれたらできる範囲で対処する、というくらいで良いのではないか、という話に落ち着きそうです。こういう情報は知ってしまったら何もしないわけにはいかないからです。できるなら、できるだけ知らない方がいい。知らないで居たいのです。

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初心に戻る。

「初心に戻る。」・・・「云うは易し、されどするは難し」の典型のようなことばです。

健診センターで健康増進に関わるようになって、他人に云うことだからまず自分で試してみようと思ってやってみたことはたくさんあります。

昼休みに運動をする。食卓に並べる夕食のおかずを半分にする。晩酌の酒をコップ一杯にする。月水金禁酒(宴会を除く)にする。宅配の夕食材料サービスを使う。職場にエレベーターは存在しないと考える(階段だけを使う)。自転車通勤する。朝食を食べない。スーパーやコンビニに車で行かない。仕事帰りにコンビニに寄らない。酒やお菓子の買いだめをしない。禁煙する。1時間半以内で時間があるなら歩いて帰る・・・などなど。そのまま続けてやれていることと、とっくに止めたことなど、いろいろあります。

おかげで見事に体重が10kg減り、筋力と心肺機能がアップし、バスケットボールができるカラダになり、中性脂肪が正常化し、HDL(善玉)コレステロールが跳ね上がり、内臓脂肪が減少し、そして脂肪肝がすっかりなくなりました。

最近、そんな栄光のカラダとは何か違う物体がわたしを包んでいます。自分で試したのだから、やったことをもう一度頑張ればそれなりの効果はあるに違いありません。でもそのためには、常に自分を律し、「決めたことだから頑張る」という信念を維持しなければなりません。当時は面白かったのでやれました。でも、一度達成できると、ニンゲンは弱くなる動物なのだということを悟っています。同じことをするのはちっとも面白くないのです。かなりのモチベーションがないと、同じことをもう一度するなんて考えられません。なぜなら、成功しても当たり前で、上手くいかないと自分がダメだから、とそう感じるに決まっているからです。

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さだまさし

わたしの尊敬する鎌田実先生のブログ「なげださない」の6月6日の記事にあった、さだまさしのシングルCD「私は犬になりたい490円」を買いました。本当に490円でした。

大学生のころ、さだまさしの歌が大好きでした。「現実味がなくて、女々しくて、ことば遊びばかりして歌を弄(もてあそ)んでいるようなやつなんか大嫌いだ!」と、吉田拓郎に傾倒していたクラブの先輩から云い放たれました。直線的な吉田拓郎や長渕剛も好きでしたが、さだまさしの、その女々しいくらいの繊細な表現力がもっと好きでした。今のように、CDやMDやipodやなどというものの時代ではなく、レコードプレーヤーも持たなかったので、カセットテープに録音したり音楽テープを買ったりしてアルバム全曲を聞いていました。失恋したときには、聞いていると涙がこぼれてくるので全部捨てようかと思いましたが、さだまさしとわたしの失恋は関係がないので、もったいないと思い、下宿の押入の隅に仕舞い込みました。

おとなになって、いつの間にかさだまさしを卒業しましたが、アルバムの中の数曲をいまだに口ずさむことがあります。あの繊細な詩からは想像できないくらいの彼の大雑把さと、わたしにないケセラセラの感じが、妙にわたしの興味をくすぐります。

「私は犬になりたい」を早速聴いてみたら、聴いたことのある曲でした。ソフトバンクのホワイト学割のCMソングとしてテレビで流れているからです。簡単にダウンロードできるのにわざわざCD買ったんですか?と云われました。買いましたよ。それが、何か?

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塩のこと(後編)

減塩に対して必ず言い訳されることば、あるいは数人の知識人が口にすることば、「塩分がないと力が入らないから減らせない(減らすべきでない)」というのは、少なくとも高血圧患者にとってはウソだと思います。アタマがそう発しているのですが、実際には減らしても力は入ります。慣れてしまえばどうということはありません。ただ、糖尿病の人がカロリー不足だと云いたげにカラダをワナワナさせて危険そうな主張をするのと同じように、高血圧のカラダは塩分をできるだけ多く体内に入れさせようとします。

高血圧ではない人にとっては減塩は危険かもしれませんが、高血圧の人は元々塩分が少なくても生き延びてきた遺伝子なのですから、大丈夫です。でも、不安だから、きっと限界まで減らすことはできません。それが遺伝子です。「減塩1g/日で血圧1mmHgが減少し、国民全体が2mmHg低下したら循環器疾患で死亡する人数が年間で2万人減るのです。」と三浦先生は減塩の必要性を語りますが、みんながみんな減塩して平均点を下げてもしょうがないと思います。高血圧の人、あるいは高血圧の家族歴の人だけが減塩すればいいのですが、その人たちこそが減塩できないのです。高血圧症のわたしは自分をみていればすぐにわかります。デザートのケーキに何も興味が湧きませんが、漬け物を食卓に並べておけばなくなるまでボリボリ食ってしまいます。

6g/日未満に塩分制限すると有意に降圧できるという欧米のガイドラインに準じて日本でも高血圧患者の食塩摂取目標値を6g/日未満に定めました。白人さんは元々塩辛いのが苦手です。昔から摂っている塩分量がとても多い日本人に同じ基準で減塩を指示しても実現はむずかしいに決まっています。これもまた、高血圧でない人にはわかりますまい。

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塩のこと(前編)

日経メディカル特別号(2009.6)に「日本人の減塩はむずかしい」という内容の解説がありました(滋賀医科大学三浦克之先生)。日本人の平均食塩摂取量が2007年も2003年も1988年も大差ないというのです。日本人の脳卒中が著しく低下した理由は、厳格な高血圧管理がなされるようになったからだと云われています。これだけ高血圧と塩分の関連が取り沙汰され、日本中で減塩指導が厳しくされはじめて久しい中、高血圧管理がしっかりしてきた理由が減塩によるものだと思っていたら、単にさっさと内服をするようになっただけだということなのでしょうか。

わたしの実感では、もうちょっと減塩が進んでいると思っていました。たしかにメタボ騒動で、減量や糖分や脂肪分のことばかりが取り沙汰されて、減塩だけが置き去りにされる傾向はありますが、それでも減塩対策の食品やナトリウムを吐き出す食品がたくさんCMされていますから。

現代の日本人の減塩が進まない理由には、日本人の食事が外食と加工食品にまみれているからだと三浦先生は指摘していました。外食や加工食品に塩分が多いのは明らかです。塩分量を増やすと水分吸着量が増えて文字通り「水増し」されること、塩気はクセになるので塩辛くした方が多く売れること、さらに喉が渇けば飲料水も多く売れることなど、商売する上では減塩食なんか売っちゃまずいのです。最近、外で食事を摂ると、「うえっ、塩っ辛え!」と思うことが多くなりました。歳のせいだと思っていましたが、実際塩分が多くなっているのかもしれません。一方で塩分だらけの食べ物を食べ、一方でいくつものサプリメントを口にする、日本人は不思議な国民になってきました。

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やせるために運動!は考えない方がいいと思う。

「毎日イヌの散歩を1時間以上して、さらに仕事場に自転車通勤しているのに、どうしてやせないの?」・・・うちの妻がぼそっと云いました。「食べてるからでしょ?」と無造作に答えたら不機嫌になりました。やせないのだったら運動なんかしたくないのでしょうが、わたしにそんなグチを云われても・・・。とくに女性は女性ホルモンで支配されていますから、運動だけでやせるつもりならアスリートのような日々を送らなければむずかしいし、ずっと続けない限り必ずリバウンドします。さらに、うちの妻の家系は生粋の糖尿病家系です。この世代のこんな家系の女性にとって、体重が「増えない」ということが即ち「勝ち」だと思うのですが、そんなことでは本人が納得しません。

どうせ、運動だけをしたってやせはしませんが、彼女は数年前、フィットネスジムに通うと同時に食事に注意して、カッコいいやせ方をしました。それまではまったく歩けなかったし運動してもまったく汗を出せなかったのですが、今では近くに行くときには必ず歩くか自転車を選びますし、運動でちゃんと汗が出るようになりました。運動を始めたおかげだと思います。ただ、それを経験したために過去の栄光に浸りすぎ、またあのときのような運動を再開すればまたあのときのようにやせられると思っています。

リバウンドするくらいなら初めから太ったままの方が長生きする、というアメリカのデータはかなり説得力があります。つい油断してやせてしまった。カラダにとっては一生の不覚です。もう二度とやせさせないようにしよう!とカラダは誓うのです。せっかく運動の楽しさを経験したのだから、そして「運動欲がない」動物でありながら今でも運動することを続けているのですから、やせるとかやせないとかそんなことにこだわらなくても良いのではないかとひそかに思います。

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やっぱり朝食は要らない

健康のために朝食を摂らないようになって久しいのですが、何とかしてちゃんと朝を食べさせようとする妻が、弁当のおかずの残りで朝食の体裁を整えて「食べない?」と食卓に並べることがあります。一週間ほど前、何となくお腹が空いていたので、それを食べて出勤しました。そうしたら翌日から毎日朝食が出るようになりました。時々職場に着いてからサンドイッチを買うこともあるのだから、まあ良いかなと思って、それに甘んじることにしてみました。

ところが、数日続けてみましたが、どうも体調がよろしくありません。以前は朝9時頃から湧いてきていた空腹感がまったくなく、そのまま昼食の時間になっても腹が減らず、それでも持ってきた小さなお弁当を食べないわけにいかないので完食。昼下がりに無性に眠くなり、夕方になっても何かが腹に溜まっている感じ・・・そして夕食。

朝、ちょっと食べただけで、ここまで「空腹感」がなくなってしまうとは思いませんでした。そのせいか、何か一日中からだが重く、かえっていつも満たされない感じになります。慣れていないだけだろうかとも思いましたが、よく考えたら、朝食を摂らなければ解決することですからそれを止めればいいわけです。わたしのからだを心配してせっかく料理を作ってくれる妻には申し訳ないが、また朝食を摂らない生活に戻ることにしました。

「空腹感」を感じられないとこんなに辛い、ということを体感できたのは、収穫でした。「心地よい空腹感」は、ニンゲンがニンゲンとして生きていく上でとても大切なことだということが良く分かりました。

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卒業アルバム

先日、高校時代の友人に、同級生のことで質問を受けました。

「竹中のKくんの頭はチリチリだったっけ?」「Tくんという名前の人は高校時代の同級生に居たっけ?」・・・お互いに何とも心許ない記憶を辿り合ってみましたが、おぼろげなモヤは一向に晴れる気配がありません。わたしは自宅の書棚の一番下隅に仕舞っておいた高校時代の卒業アルバムを取り出してみました。「Kくんの頭はチリチリではなくてウエーブのかかったロングヘア」「Tくんはたしかに同じクラスの同級生として卒業している」・・・疑問の確認はできました。

そのまま、ん~十年の長い時の流れを遡(さかのぼ)り、当時はまだ白黒写真だった卒業アルバムをしばらくパラパラとめくっておりました。写真をみるとどれもほとんど見覚えがあります。なつかしい顔ぶれです。でも、写真の下に書かれた名前にまったく見覚えがない、そんな御仁が何人もおりました。「こいつそんな名前だったっけ?」という感じです。記憶のキャパが年齢とともに小さくなって、新しい記憶が入るたびに古い不要な記憶がポロンと転げ落ちるのだなと納得しましたが、結局最後まで数人の名前には記憶のかけらも残っていませんでした。ま、どうせ会うことはないからそれでもいいかなと思ってページをめくりました。

それにしても、みんな若い。何といっても、このシャープなあごの線とつるつるの肌。美人さんは私の記憶以上にさらに美人に、そうでない方も思いの外それなりに、古い白黒写真でも18歳の若い肌が手に取るように分かります。地デジに対応できるのはこんな肌だけだわ、としみじみ思いました。

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下手な説明

先日、職場で会議がありました。

「この件については委員の一人である○○さんに簡単に説明してもらいましょう。」

司会者がある若者を指名しました。その若者の説明にしっかり耳を傾けて聴いていたのですが、最初から最後まで、まったく理解できませんでした。・・・「さっぱり、意味分かんねえよ!」とこころの中で舌打ちして、そのまま聞き流すことにしました。

すると、ある男性が手を上げました。「ちょっと話をまとめてみていいですか?つまり、今の話は、こうこうこういうことで、こうすることになったと、そういう意味でいいのですか?」・・・彼は自分のことばで見事にまとめてくれました。それを聞きながら、「なるほど、そういう意味か!」とわたしのこころを晴れやかにしてくれました。話したことを簡単に要約するのは、本来は司会者の仕事です。でも司会者は前もって内容をわかっていますので、みんなが理解したと思ったのでしょう。彼は話を次に進めようとしていましたから。

こんなことは、きっと大したことではありません。でも、どうでもいいからこんなやつの話なんか聞き流そうと思った私は、きちんと話を整理してその場のみんなの意識を一つにさせた一人の男性の姿勢に感謝しました。わたしだったら、「おまえの言い方じゃ分かんねえんだよ!」と云ったでしょう。彼がそんなことを云わずにそっとサポートしたことで、発表した若者は傷つきませんでした。会議において、一人の人間が分かり良い説明をするかしないかということはどうでも良いことです。でも、みんなの意識が同じ見識で一致できるかどうかが全てですから、こういう心配りがさらっとできる人が組織に居るかどうかということが、とても大きなことだと思います。

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意味が分からん!

先日、あるお詫びの文書をうちの施設で発行しました。本来もっと早期に送らなければならない書類の発送が遅れたことについてのお詫びです。発送書類に添付して受診者の皆さんに送るのだそうです。それを読ませていただいたのですが、正直云って今ひとつよく分かりません。書いてあることに間違いはないし、日本語としても問題ないのですが・・・結局、正式文書としてやむを得ないのかもしれませんが、内容を分かっているわたしたちだから分かるけれど、普通の方がこの文書を読んでも何のことか分からない人が少なくないと思いました。お詫びの文書を添付したという事実があれば良いのかもしれませんが、何か腑に落ちないものがあります。もう少し平易な表現ができるのではないかしら。

一方、数日前、クレジットカード会社から「カードご利用可能枠変更のご案内」という封書が届きました。キャッシングはしないのでいい加減に読んでいたら、何か希望コースを決めて署名をした上で送り返せ、と書いてあるようです。よく分からないので書類を隅から隅まで読んでみました。でも結局よく分かりません。そこには6月17日までに送り返さなかったら規定通りに変えます、と書いてある(ような感じ)。でも理解できていないのにこんな財産に関することを気軽に処理できなくて、今ちょっと閉口しています。実は数ヶ月前に、生命保険会社から「年金受取方法ご指定のお願い」という封書も届いておりまして、これもまた隅々まで読んでもよく理解できないので、そのままです。

日頃から慣れている人たちにはどうと云うことのない簡単なことなのでしょうが、素人からしてみると異次元の内容です。なのに相手は、早々に意思表示をして、それに責任を持つという意味の署名をして送り返せと云います。よく考えたら、とても怖ろしいことだなあと思います。で、世間知らずのわたしは、何もできずに放置しているのであります。

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学位謝礼金

大学の博士号を取得した後に、教授にお礼を渡していたことが複数の大学で発覚しました。指導してくれた教授に対するお礼金だと思ったら、論文審査をしてくれた教授たちへの謝礼金のことのようで、そりゃたしかに一般常識から外れた習慣だと思います。

わたしは、東京で働いていたときに、ある有名私立医大の研究生になって論文を提出して博士号をいただきました。「乙種」の学位(大学院で研究して学位をいただくのが「甲種」)、別名「論文博士」というやつです。学位審査では、提出した論文の要旨を自分でプレゼンし、その後主査・副査の先生方から質問を受けるのですが、もうすでに熊本に帰っていたわたしは、そのためにわざわざ上京しました。待機室で待っていると、大学院生らしい若い数人が話していました。「教授への謝礼はいくらくらいにしたらいいの?」「去年学位を取った○○先輩の話では・・・。」

「げえ!そんなに渡すんか!?」・・・聞き耳を立てていたわたしは驚いて飛び上がりそうになりました。受けるための申請費用だけでもかなり高いのに、さらにそんなに払わないといけないのか!と、田舎者で世間知らずのわたしは正直驚き、不安になりました。わたしはどうしよう?わからないので、勤務していた病院の部長に相談しました。「別に要らないんじゃない。だって、特に指導してもらったわけじゃないんだし。」とっても淡白な返事が返ってきました。「え、ホントにまったく何もしなくていいんですか?」と驚いていると、「お菓子でも持って行って『大変お世話になりました』ってきちんとお礼すれば、それで大丈夫だと思いますよ。」と静かに助言していただきました。

そこの大学は研究生としての学費もとても安く、おかげさまで、日本で一番安い費用で由緒正しい論文博士の一員にさせていただきました。いまだにそれを持っていることで何の得もありませんが。

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糖の細胞記憶

最近、糖尿病に関して面白い結果報告が出ています。イギリスの歴史ある糖尿病大規模試験UKPDSの追跡調査もそのひとつです。

UKPDSは、「糖尿病の初期段階に専門家がきちんと介入して薬も使ってしっかり血糖管理をした人たちは普通の食事療法しかしなかった人たちより合併症が少なかった」という、当たり前といえば当たり前の結果ですが、実はその後を追跡調査してみていたのです。すると、血糖コントロール自体は介入を受けていなかった人たちと同じレベルになったにもかかわらず、心筋梗塞や死亡リスクはその後も有意差を持って低かったというのです。「Legacy effect」とか「glucose memory」とか称されるこの現象は、つまり診断をつけられたらできるだけ早期にしっかりとした積極的治療を始めて、きちんと良好な血糖コントロールを維持させておくことが大切で、そうなれば細胞は高血糖のときの記憶をきちんと次の細胞に引き継いでいく可能性があるということです。

平たく云えば、「血糖管理は、とりあえず最初にしっかり頑張ることが大切だ!」ということになります。これもまた真理であり、だからこそ病気になって早期、あるいはその前段階のレベルで本人に出会うわたしたちのような健診医師が、その重要性を本人にしっかり伝えなければならないのであります。

「強気すぎて受診者の不安を煽る」と陰で非難されているかもしれない(被害妄想であればいいですが)わたしを後押ししてくれる、とてもありがたい結果報告です。

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血糖の正常高値は正常にあらず。

「空腹時血糖が正常高値の人は健常者よりも糖尿病が約6倍も発症しやすい」・・・大阪で行われていた第52回日本糖尿病学会のシンポジウムで札幌医大の大西浩文先生が発表したこの内容は、なかなかセンセーショナルなものでした。

北海道には、九州の久山町研究に匹敵する、30年以上続いている疫学研究(端野・壮瞥町研究)があります。この研究に登録されている受診者を最大16年追跡してみると、最初に受診した時の血糖値が90mg/dl未満だった人が糖尿病になる危険性を1としたとき、なんと90~99mg/dlで2.2倍、100~109mg/dlで6.42倍、110~125mg/dlで14.78倍になるというのです。それもかなり早い時期(例えば100~109mg/dlの場合、5年後ですでに6.76倍の危険性)に。つまり「血糖値は低ければ低いほど糖尿病になりにくい」という結論です。医療関係者の方はご存知でしょうが、これまでの健診では、126mg/dl以上が糖尿病型であり、110mg/dl未満は「正常」でした。昨年変更されて100mg/dl以上を「正常高値」として分けて、注意を促すようになったのです。

「この『正常高値』は厳しすぎる」と医療現場では不評でした。そんな値で引っかけたら異常者ばかりになる!とか、肥満者(メタボ)じゃなかったら心配いらない!とか勝手な手心を加えて説明している医者も少なくないでしょう。先日、ある受診者からクレームがありました。「結果説明が厳しすぎてショックを受けたから来年から受けたくない」というものです。部長は「大した異常じゃなかったのに大げさに説明しすぎたせいだ」とスタッフに説明していました。たぶんその説明をしたのはわたしです。「バカいってんじゃねえよ。あんな異常値を大したことないとか云ってるからみんな病気になるんだろうが!」と内心で思いながら聞き流していました。そんな異端児のようなわたしだから、正式な学会でこんな発表があると自分のやっていることが間違っていないことが確認できて嬉しくなります。

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素人みたいな酒の話

つい最近まで、焼酎の方が日本酒やワインよりカロリーが低いと思っていました。患者さんや健診受診者さんには「数呑みゃどっちも一緒ですよ!」と云ってのけていますが、本当は蒸留酒である焼酎が一番カロリーが少ないと思い込んでいました。

ところが先日、「焼酎とワインと日本酒、同じ量ならどれが一番カロリーが多いのですか?」という質問に管理栄養士さんが答えたのを傍で聞いていて、仰天しました。

アルコール1%当たりのカロリーはもちろん焼酎が一番低いのだけれど、日本の焼酎は日本酒やビールよりはるかに度数が高いので、同じ量(ml)なら結局焼酎が一番カロリー高!そりゃ、考えてみれば当たり前の話です(http://www24.big.or.jp/~nakatomo/alc_karori_hayamihyou.html)。

その代わり、酒由来のカロリーは代謝が早くてさっさと抜けるけれど、糖質由来のカロリーは糖として体内に残り易いわけで、蒸留酒である焼酎の方が日本酒や甘口ワインより体内に残るカロリーは少ない、というのはやや説得力あり。でも、甲種焼酎と乙種焼酎ではどうか?という問いには、(納得いかないけれど)甲種の方がカロリーは多いと書いてあるものが多いようです。

まあそんな蘊蓄(うんちく)をどんなに語ったところで、結局どれも大した差はありません。なぜなら、一緒に食べる酒の肴のカロリーが酒よりはるかに多いのですから。

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ことばの行き違い

「検査は全部終わりました。四階の受付へこのボードをお出しください。」・・・アテンダントの女性が受診者に話しているのを何となく聞いていました。

すると受診者が「ここは何階な?」とすぐに聞き返しました。「ここは四階です。あ、わたしがご案内しましょう。どうぞ。」・・・彼女はそう答えるなり、受診者を連れて歩き始めました。

そんな経緯を傍から眺めながら、きっと彼女には受診者の聞いたことの真意が伝わってないな、と思いました。「あちこちのフロアを上がったり下がったりしてこられたから、今がどこだか分からないんだろう。迷うといけないのでわたしが連れて行ってあげよう!」と考えて行動した彼女のアテンダントとしての行動は素晴らしいと思います。でも、もしわたしがその受診者だったとしても、きっと同じことを聞くでしょう。「ここが四階だと思っていたけど、ここは四階じゃなかったの?」と悩んだから聞いたのだと思うのです。四階に居て、「四階の受付へ」などと云われるとは思わないからです。でも、彼女にしてみると各階に受付があるから他に行かないようにわざと「四階の」と云ったのだと思います。「このフロアの受付へ」と云われれば何も悩まなかったでしょうけれど。

ことばの行き違いというのは、日常茶飯事で起きています。受診者が「あ、彼女は意味を間違えてる」と思いながらも「まあいいか」と思って付いていき、そのまま何も起きなければそれはそれで終わります。ところが、「何云ってるんだこいつ?」とちょっと苛立ってしまって、さらに受付でちょっとしたトラブルがあれば一気に一触即発の空気になるかもしれません。むずかしいものですね。

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「莨」

今年も「世界禁煙デー」になりました。

先日テレビのクイズ番組で、「くさかんむり」に「良」と書いて「たばこ」と読むのだ、ということを知りました。「人」を「良くする」で「食」:その番組の直後に流れたある健康食品のCMのキャッチコピーですが、こっちはわたしも理解できます。でも、なんで「草」に「良い」で「莨(たばこ)」なんや?書くなら「悪」か「毒」やろ!とひとり突っ込みをしてみました。

もちろん今は漢字変換しようとしても絶対この字に行き着きませんから、むかしの意識の名残なのだと思います。この「良」の部分は「富」が変化したという説や穀物を精製したことを表すという説がある、とインターネットには書かれていましたが、どっちにしろむかしの常識です。むかし、たばこには明確な市民権がありましたし、世が世なら、手柄を立てた者が殿様や天皇様から賜った「褒美」の最高級品の中にたばこがありました。ここまで罪人扱い、超毒物扱いをされるとは思ってもいなかったことでしょう。

上方落語に「莨の火」というのがあるようで、この機会にちょっとあらすじを読んでみました。あるいは「莨盆(たばこぼん)」。これもこの字を使うのだそうです。粋といえば粋ですが、まあとにかく、現代社会では、莨の火のごとくに早く存在を消させてしまいたいものであることも事実なのであります。今年も禁煙の啓発講演をしなければなりません。今年のわたしはたばこそのものに興味がなくなったので、どうも講演の準備をすること事態に気分が乗りません。どなたか代わりにやってくれないかしら。

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やっこさん

急に「やっこさん」を折ってみたくなりました。「やっこさんだよ~っ」などという「やっこ」て何?「冷や奴」とはどんな関係?などと子供心に思ったものです。「やっこさん」を折るのは、折鶴などと違ってとても簡単です。とはいうものの、折ろうと思って手が止まりました。どうだったっけか?自転車の運転と同じで折り始めたら勝手に手が動くと思ったらそうでもなかったです。ま、とりあえずインターネットを使ってすっかり思い出しました。

さて、ただ黙々と四隅を折り曲げ続けていくうちに「やっこさん」ができました。わたしが「やっこさん」を好きなのは、実はこの後です。「やっこさん」のアタマの部分も四角く折り曲げたあと、これが「だまし船」や「かざぐるま」に化ける瞬間、まるで魔法のようなことが起きます。折り紙の中でこれほどダイナミックなイリュージョンはないように思うのです。 子供心に初めてそれを見たときの感動を今も忘れません。小さく折り畳んでいたものを一瞬全部広げます。せっかくここまで折ったのに、です。でも、次の瞬間、もう一度折り戻したら「やっこさん」は「だまし船」に替わっているのです。一生懸命作り込んだものを一度リセットさせる。そして元に戻すとまったく違うものに生まれ変わっている。人生においても、つい精魂込めすぎて凝り固まったものを一度壊して見直すと、そこから大きな別世界が広がることは少なくありません。もちろん、それができるのは折り目があるからであって、シワもない白紙に戻っても勝手に何かに替わることはありません。それが、「経験値」だと思います。

今「やっこさん」を思い出したのは、いろいろなことで行き詰まっている今のわたし自身を、一度きちんと見直す時期になったということかな、と思ったりしました。

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マニュアル

贔屓のサッカーチームの応援のために毎月泊まるホテルに、最近は2週間毎に行きました。このホテルの立体駐車場の係のおっちゃんたちが最近解雇されました。車で到着してインターホンを押すとフロントから受付職員が駆けつけて対応するのです。

「少々お待ちください。アンテナを外しますので。」・・・わたしの車の後方に付いているアンテナに手を伸ばそうするのを、「大丈夫です。毎回大丈夫なのだから大丈夫です!」と拒みます。「そうですか?前にお停めになったことがあるのですね?」不本意そうな顔をしながらもアンテナから離れてくれましたが、次に「ドアミラーを倒してお進みください」というので、「大丈夫です。いつもこのまま進んでいます!」・・・だんだんわたしの声が不機嫌になります。あなたにとってマニュアル書通りかもしれないし、覚えていないかもしれないけれど、わたしはあなたと2週間前にまったく同じ会話をして同じようにイライラしたのですよ!・・・翌朝、車を出そうとするとまた同じ人が出てきました。「お荷物をトランクに入れられますか?入れられるようでしたら・・・」「入れません!」・・・2週間前にもそう云ったじゃねえか!オレはお前よりこの駐車場は詳しいんじゃ!

たしかにむずかしいところです。今回うっかりトランクを開けるかもしれません。鉄の枠に当たって車に傷が付いたら「お前が云わなかったからだ!」と一悶着になるのは必至です。でも・・・少なくとも3月までここに居たおっちゃんたちは一度もそんなことは云いませんでした。その代わり、自らがドライバーと一緒に車の横まで付いてきてそっとサポートしてくれました。きっとトランクを開けそうなときは制してくれるのだろうと思いました。操作盤の前から声だけかけるマニュアル職員には想像すらできないであろう心配りを、おっちゃんたちはいつもきちんとしてくれていました。現場のプロたちというのはそういうものです。「信用」という、単なるコスト以上のモノを彼らは体現してくれていたのですが、きっと経営者にはわからないことでしょう。

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モスキート音

夜中の公園に屯(たむろ)す若者たちを撃退するために、東京都足立区で若者にだけ聞こえるモスキート音なる高周波音を流し始めました。諸外国ではそれなりの効果があっているのだとか。マスコミがこぞって話題にするものだから、わざわざそれを聞きに来る若者たちがいるのも、まあ想定の範囲内なのでしょう。

まるで、蒔いたばかりの種を啄(ついば)む鳥たちを畑から追い払うかのような方法ですが、少なくともわたし的には近づきたくない場所です。なぜなら、きっとわたしには聞こえないだろうから。周りは不快な顔をしているのに自分だけ涼しい顔で何も感じないなんて・・・わざわざ老いの寂しさを感じるために行くなんて考えられません。昔、若者と非若者でまったく違うことばに聞こえる音というのをテレビでやってましたが、何度くり返して聞かされてもわたしには同じようにしか聞こえませんでした(もちろん若者のそれではありません)。

屯(たむろ)す若者たち撃退にどの程度の効果があるのかわかりませんが、興味深く「遠くから」見守っておきましょう。ただ、もうひとつだけ気になることがあります。高周波音を夜の間中ずっと流して空気を振動させ続けることになりますが、それって自然界に本当に何も影響がないのでしょうか?何も感じない老人のカラダはもちろん、ニンゲンを含むすべての自然界の動物、植物、微生物、あるいは航空機や家の壁や大気中のホコリや土の組成に至るまで、本来あるべきでない振動をずっと発生させることが地球全体の存亡にかかわるような大事に本当にならないのでしょうか?杞憂かもしれないけれど、やはり老いたおじさんにはとても心配なことのひとつです。

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片噛み

ある日、鏡を覗いてみたら、顔が歪んでいました。左半分の顔面が麻痺してしまう「顔面神経麻痺」ではないかと心配しましたが、筋肉の動きや力が右側より弱いということもなさそうです(自分で試してみただけですが)し、水を含んでも左から漏れたりしません。なのでちょっと安心しました。

どうも左頬が腫れている感じです。「おたふくかぜなんじゃないの?」と云われましたが、熱も痛みもないし何よりリンパ節自体が腫れていません。自己診断で、歯か歯肉の炎症からきていると決めました(歯科には行ってませんからあくまでも憶測)。いつも左の奥歯近くが気になって、食後はいつも歯間ブラシや爪楊枝でゴシゴシ。ときどき血が付いたりしていたのです。片噛みをすると顔が曲がってきて、頭痛や肩凝りの元になる、ひいてはカラダ全体の骨格が歪んできたり免疫力が落ちてきたりすると云われます。わたしの顔は基本的に子どものころから傾いていまして、耳の高さがそもそも左右で大きく違うのでメガネやマスクをすると妙竹林なバランスの顔になります。それだからというわけでもありませんが、むかしから片噛みしないように意識してきたつもりでした。でも食事中にふと気づくと必ず左で噛んでいました。腫れた左側を使わないように、食事のときは右で噛むようにしよう!と思って食卓に付きますが、意識しない限りいつの間にか左に戻っているのです。

先日から、「ながら」をしないで右で噛むようにしてみました(何かに意識が向かっているとすぐ左に戻るのです)。今まで慣れっこでいい加減だった噛み方が本当に一噛み一噛み意識されます。久しぶりに良く噛みます。こりゃ大変だけど、なかなかおもしろいわと思いました。いつの間にか、歪んだ顔が少しまともになってきたように感じました。

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肥満の遍歴

子どものころの健康優良児(あるいは肥満児)は小学校高学年でスラッと上向きに伸び、ジャイアント馬場のような胸板だと云われました。中学の部活動を止めてから横に成長し始めた結果、高校を卒業するときには体重90kgウエスト95cmに成長しました。当時は今と違って、穿けるズボンはオヤジ柄の地味なデカパンだけでした。それが、博多の予備校に通い始めて半年で20kgやせました。食べなければ簡単にやせることを悟りました。

医者になって1年でまたまた15kg増えました。自称「ストレス太り」だと云い続けました。もちろん食べれば太ることを密かに悟りました。そんな体重が最初に減ったのは、東京から帰ってきてから山中の病院に1年勤務したときでした。宿舎から病院まで歩いて10分。昼休みは家に帰って食事。これだけで1日2往復するようになりました。体重の10kg減など大したことではありませんでした。その数年後、公私ともに荒んだ時期に「生きても死んでもどうでもいいや」と自暴自棄になって、これまた簡単に10kg増えました。その後、希望して健診の仕事をするようになって、「できないできないと云うが本当にできないのか?」と、人に指導する生活療法を実践してみたら、どうということなく10kg減。

まあ、わたしの体重人生もかなり忙しいものでした。最近ずっと横ばいでしたがどうもここ数ヶ月そっと右肩上がりの様子です。でも、何かしっかりしたモチベーションを持たないと動かないもの。良い口実はないものでしょうか?

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CR

先日、カロリー制限とアンチエイジングの関連についての報告の話題を書きました。「太っていない人がカロリー制限をしても無駄かむしろ危険かもしれない」というものです(「太ったマウス(2009.5.6)」)。

カロリー制限をすると寿命(健康寿命)が長くなり、若返り、カラダの機能低下が進みにくくなるという考え方が、カロリックリストリクション(Caloric Restriction:CR)です。動物実験はすでに70年前から始まっており、実践している人もたくさんいるようです。CRの目的はメタボ対策ではなくてあくまでも「不老(老化の遅延)」で、ガンを抑えたり、うつ病になりにくくなるなどの効果もあるのだとか。わたしが入会している日本抗加齢医学会の学会誌に取り上げられているのを発見し、上記の論文のことがあり、また数年前から朝絶食の食事習慣を続けているわたしとしては、今ちょっとマイブームです。ちなみに、24時間以上絶食+24時間自由食をくり返す「間歇的断食(IF)」というのがあって、すでに抗加齢効果が実証されているということは今回初めて知りました。たしかにプチ断食が如何にカラダに良いかをネット上で説いておられた麻酔科医が数年前におられました。彼もまたそれを実践していたようでした。周りは変人扱いしていたかもしれませんが、わたしはそれを読みながら割合簡単に納得できたことを覚えています。

「高齢者のカロリー制限が寿命を縮める」という意見が上記の論文には書かれていましたが、一方で「CRは高齢者の記憶力を改善させる」というドイツの研究結果が論文として発表されました(Proc Natl Acad Sci USA 106,2009)。

こういう賛否両論の意見がアカデミックに出てくる理論というのは、何か好きです。

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医食同源

健康ブームに乗っかる形で、「医食同源」ということばが有名になりました。広辞苑によれば「病気をなおすのも食事をするのも、生命を養い健康を保つためで、その本質は同じだということ」とあります。37年前にNHKの「きょうの料理」で新居裕久先生という医者が作ったことばなのだとか。

そんなことばの検索をしている途中で、興味ある文章をみつけたので勝手に転記します。「医学統合研究会」なるページの一項目<医食同源の本当の意味>の一部です。

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中国最古の医学書である黄帝内経素問の異法方宜論には次のような記載が見られます。「へん石(外科手術)は東方より来たり、毒薬(薬草療法)は西方より来たり、灸は北方より来たり、九鍼(鍼治療)は南方より来たり、導引按摩は中央より出ずるなり」

つまり、「海岸地帯である東方はいうまでもなく魚介類を中心とした食生活であり、塩分過多になりやすいため、偏勝の気によって“腫れ物”を患い易い。それを治療するためにこの地方では外科手術が発達した。山岳地帯である西方は、この地域で育った動植物が食事の中心になり、人々は鉱物毒を体内に取り入れ易いため、内臓の病気になる人が多い。その毒を下すために薬草を用いた漢方治療の原型が発達した。この地域は元来、豊富な薬草が見られる地域であった。北方は寒冷地帯であり、野菜が育ちにくいため、いやおうなしに動物性の食事(乳、肉等)になる。すると内臓が冷え、お腹の張る病気になりやすい。それを治療するために灸治療が発達した。寒い地方であり、熱刺激を好んだのだ。南方は高温多湿で、土地も肥沃であるため、穀物も良く実り、動物の内臓もよく食す。このような食事を続けると血行障害による病気が多くなるため、経絡を刺激する鍼治療が発達した。中央の都市部では交易が盛んで、どこからでも食糧が入り、都市部ということもあり、食べすぎ、運動不足が多くなる。それらの問題に対処するためマッサージが発達した。」という意味です。

各地方ではその風土に合わせた偏食を強いられますから、土地の人々の病気にも、その食生活の傾向に由来した疾病が現れてきます。それを治療するためにそれぞれの治療が発達したというのが「医食同源」の本来の意味です。

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こういう知識を、思いがけないところから得られる時代、おもしろいものだと思います。

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「医と食」(後編)

冒頭にある「県談 栄養療法にのぞむ」の中で、医療界の重鎮たちが語っている予防医学や健康長寿の考え方は、まさしくわたしの思いと同じでとてもこころ強い気分になりました。メタボ対策に言及した折茂肇先生(健康科学大)の「・・・がんや動脈硬化性疾患を減らすには禁煙、節酒が最も重要で、太りすぎは困るけれども、ほかは関係ないというデータを津金先生たちが出しています。・・・とくに、糖尿病は別として、高齢者は痩せるとかえって悪い場合があります。免疫力が落ちてくるとか・・・ね。ある程度は太っているほうがいいのにそのへんのことを考慮せずにただ、痩せろ痩せろというのはおかしいですよ。・・・」ということば、あるいは渡邊昌先生(国立健康・栄養研究所)の「・・・英先生という方が食介護研究会の講演で緩和食という概念をお話しされました。在宅では食べられなくなっている人が大半だが、多少脱水気味で栄養不足になっていく人の方が安らかに鬼籍に入るというのです。・・・」ということばなど、ついつい仕事中であることを忘れて読み耽(ふけ)ってしまいました。

もうひとつ興味があるのは、この創刊号から「医療と哲学」という連載が始まることです。昭和大学藤が丘病院客員教授の出浦照国先生という方が執筆するそうです。これもまたわたしのこころをくすぐります。「医療の実践の現場において、十分な医学知識と緻密な科学的考察と熟練した技術と、この3条件がそろえばそれで十分なのであろうか?私は躊躇せず否と断言する。」このキッパリとした信念が好きです。医療に関わるどんな研究会や学会に行っても、「哲学」と名の付く内容が入り始めただけで途端に煙たい顔をする若い先生方、医学教育を司る大学病院の先生方や最先端医療に関わる大病院の先生方に、ぜひとも考えていただきたい内容だろうと推測しています。

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「医と食」(前編)

若いころ、「効果的な栄養補給の方法を並べろ」と云われたら、

1.中心静脈栄養(心臓に近いところの太い静脈にチューブを入れて点滴する)、2.末梢点滴(ふつうの栄養点滴)、3.経管チューブ(鼻から胃までチューブを入れて栄養する)、4.胃瘻(当時はまだ先端医療)、と答えたでしょう。

ニンゲンは「噛む」ことが重要で、それができなければ流動食でも良いから何とか口からモノを食べさせなさい。少なくとも胃を通して栄養を!という指導を受け、理屈では良く分かっているつもりでしたが、それでも十分計算された中心静脈栄養を点滴すれば、「元気になれる」と思っていました。

この歳になって、「食べる」ことの重要性がやっと実感として分かるようになりました。ニンゲンは「食べる」ことができなくなったら遅かれ早かれ死を迎えるのであり、最新の栄養学理論に従った完璧なる点滴がなされたとしても臓器は滅びの方向にしか向かわない。何よりも「気力」は生じない!ということを、臨床で頑張る若い先生方には強く伝えたいと感じています。

先日、「医と食」という雑誌(生命科学振興会)の創刊号が送られてきました。今、医者が「食べる」ことにきちんと目を向け、栄養スタッフに丸投げせずに自ら勉強し考えていく時代が来たことを感じて、嬉しく読ませてもらいました。

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「心地よい空腹感」

久しぶりに職場の広報誌が発行されました。今回もこのブログの中から写しとりました。それでもいいか、と思うようになりました。

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「ごはんは楽しみですか?」・・・あるダイエット本を読んでいたとき、このことばが目に止まりました。あなたはごはんの時間が楽しみですか。健康のために朝食は摂らねばならないというから眠気まなこで食卓に着いてはみるものの、頭も胃もまだ起ききれていないあなたの身体は、ちゃんと朝食の味を楽しめているのでしょうか。疲れて帰ってきて夕食の食卓に着いたけれど、そこに並んだ「健康食」と称する味気ない料理を見て思わずため息をついていませんか。あるいは逆に、毎晩のように作ってくれる完璧な栄養理論に裏打ちされた豪華レストランメニューもどきを前に、ちょっとうんざりしてきたりしていませんか。

「ごはんが楽しみ!」と思えるようになるために最低限必要なものは「空腹感」です。それも「心地よい空腹感」。それがあるからごはんの時間が待ち遠しい。ダイエットのことなど気にしないで早く食卓に着きたい衝動に駆られる。そんな期待に満ちた空腹感をみなさんは日々感じていますか。それはイライラした空腹(飢餓感)とは全く違うものです。わたしたちが子どものころはいつもお腹が空いていました。「お母さんお腹空いた。何かない?」と一日中言っていたような気がします。まったくもって料理下手だったわたしの母の手料理ですら心からおいしいと思いました。今は、子どもたちに限らず、本当の意味での空腹の時間帯なんてほとんどないだろうと思います。食事が単なるエネルギー補給やストレス解消の道具でしかないのかと思うとちょっと寂しくなります。冒頭のダイエット本に「満腹感と満足感は全く違うものです」と書かれていました。「食べること」を考えるとき、今の社会に一番足りない、そして一番大事なことはそんな満足感なのではないでしょうか。

わたしたち健診スタッフも反省しなければならない点があります。「このまま放っておくととんでもないことになるぞ!今、何かを始めないと手遅れになるぞ!」と背中から鞭打って、嫌々立ち上がろうとするのを抱え上げて牢獄にたたき込む、それを「ダイエット指導」と称し、「おまえのためだよ」「あなたのためよ」とどこかのCMのような呟きを耳元でずっと囁いています。それでいて「ごはんは楽しいか?」もないものだと、とつくづく思うのです。うちの家に11歳になったばかりのワンコがいます。いつも若い子のように跳ね回って元気いっぱいです。彼女は、ごはんの皿を前に、よだれを床にタラタラこぼしながらキラキラした目をして「待て」をします。こんなワクワク感、うらやましいです。 

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海女と山男(ウミオンナとヤマオトコ)

妻は海が好きです。青い海をみるとこころが騒ぎ、年に一度は石垣島や沖縄の海中に深く潜ってこころもカラダもリフレッシュさせるのが習慣でした。前世は海人だったに違いないと思います。一方わたしは、青い海をみていると胸が騒ぎますが、それはどちらかというと「胸騒ぎ」。なぜか必ず虚しく悲しくなってきます。それは小学校に上がる前からの感覚です。前世で沈没した船の底にいたのではないか、と思ったりしています。

そんなわたしは山が好きです。森林や高原の緑の中に立っているとすーっとこころが安まってきて、ずっとここにいてもいいかなと思います。実際、以前山の中の病院で勤務したときに、このままここに残ろうかな、と真剣に考えたことがあります。

夫婦でよく、「こころの洗濯のために屋久島に行ってみたいよね」という話になります。でも目的地が全く違います。妻は、屋久の紺碧の海をみていると幸せな気持ちになれるから、一日中蒼い海の中で潜り三昧したいと思っています。私は、厳しい山の中に入っていって、屋久杉(縄文杉)のオーラを感じてきたい、天からの恵みの雨に濡れてきたいと願っています。きっと夫婦で屋久島に旅行に行ったら、島に着いた途端から帰るときまでずっと別行動、ということになるのでしょう。

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あいさつの年齢

道を歩いていたら、近くの中学生が「こんにちは」と大きな声であいさつをして通り過ぎました。思いがけない声に、「こ、こんちわ」・・・いい歳をしてわたしはアタフタとしてしまいました。

朝、職場について更衣室に行くまでにいろいろな人とすれ違います。患者さんや家族の人たちに「おはようございます」とあいさつすると、ある年齢以上の人ならほぼ全員が返事をしてくれます。朝からとても良い気分になります。でも、制服に着替えた職員とすれ違うときに同じことをしても約半数は返事が返ってきません。医者たちの返事が返ってこないのはもう慣れました。彼らは、特に医者になってから大学病院や公立の大きな病院でしか働いたことのない医者には、知らない人(といっても同じ職場の職員なのですが)にあいさつをする、という概念がありません。可哀想に、と思います。

そんな彼らでも、おそらく小さな子どものころや小学校低学年のときには、きちんとあいさつができていたはずです。そう学校や家庭で教育していたからです(そのときからできない子は高い確率で親もまともにできません)。ところが、中学後半から高校、大学生になったころからできなくなります。「恥ずかしい」というか、「かっこわるい」と感じるお年頃です。近くの知らないオジサン・オバサンに意味もなくあいさつするなんて、まるで「子どものすること」という感覚、わたしもそうだったので良くわかります。

それがまたあいさつするようになるきっかけは何なのでしょう。社会人として他人と対応する必要ができたとき、あるいはお父さんやお母さんになったときでしょうか。それでも仕事でもないときにはしないという人は頑なにしません。「あいさつ」から出てくる、辺りを穏やかでポジティブな空気にさせる力をもっと感じてほしいなと思って、たとえ返事が返ってこなくても無差別にあいさつをしているわたしは、ちょっと変人かも。

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30代の自殺過去最多

30代の自殺過去最多 若い世代増加 08年警察庁統計」という記事が朝日新聞に出ました(2009.5.14)。2008年に自殺した3万2249人の年齢や原因の統計を公表した警察庁の報告をまとめたものです。

毎年一番自殺者が多いのは50代ですが、2003年をピークに年々減少傾向を示して、とうとう7000人を切りました(6363人)し、それ以上の年齢でも微増かやや減少を示しています。それに対して30代は2年続けて過去最多の4850人で40代とほぼ同数になり、10代も20代も増加しています。つまり、自殺をする人の年代が明らかに若年に移ってきているということです。自殺者総数がやや減少したことを考えると、この傾向はとても深刻であることを示しています。

自殺の原因を特定できた人の統計では、健康問題が半数以上を占め、経済・生活問題、家庭問題、勤務問題と続くのだそうです。もちろん健康問題の中ではその40%は「うつ病」だと報告されています。ただ、統計に出ている数以上に「うつ病」が原因の自殺は多いと容易に推測されます。経済・生活問題にしろ家庭問題にしろ、あるいは勤務問題にしろ、その基本にうつ病が隠れている例は多いでしょうし、もしそれがなければたとえ深く悩んだとしても死を選ばなかったのではないか、と思うことは多々あります。・・・それにしても、最近の若い人は、いとも簡単に死を選ぶなあと思います。たとえ仕事がなくなって家も家族もなくし、何も食えなくなって餓死することがあるとしても、あるいは職場でいじめや村八分にあい体調を壊したり存在の意味がないと思ったりしたとしても、幸か不幸か、わたしには自ら命を絶つ勇気はないのではないかと思います。

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のんのんさんへ

コメント<動脈の石灰化?2008.9.29>ありがとうございました。

のんのんさんがおいくつの方か存じませんが、ニンゲンは、カラダの中のあちこちで石灰化を起します。組織の老化現象のひとつだからです。動脈も例外ではありません。動脈だけが10歳の時のままでいるわけにはいきません。老化が人より進みやすい人と進みにくい人はいます。現代社会の環境に合っている人も合っていない人もいます。

胸部レントゲン写真で石灰化が見えるのは普通は大動脈弓部といわれるところです。心臓から出て上に向かった動脈がくるっと背中側に回ってUターンするところです。ここはちょうど動脈が輪切りに見えるので石灰化が見えやすいのです。ある程度の年齢になるとこの部位の石灰化が見られる人はたくさんいます。だから、読影する(専門医がレントゲンの所見を読む)ときに所見として読まない先生も少なくありません。かなり強い石灰化でないかぎり、それにはあまり意味がないからです。

動脈硬化の危険因子(喫煙・高血圧・糖代謝異常・脂質異常症・肥満・心筋梗塞や脳梗塞の家族歴・脂肪肝・痛風(高尿酸血症)・仕事や生活のストレス・暴飲暴食・A型行動パターン・睡眠不足など)がもし少しでもあるのならば、どうぞこの機会に修正してください。「心身ともに紳士淑女たれ!」です。ただ、現在そういうものに心当たりがないなら、人生の大きな目標や夢をみつけて、それに向かってとことん頑張ってみてください。間違っても、やりたいことを自粛したり安静にしていてはいけません。ゴロゴロすると悪化します。いつも楽しく活動してください。可能な限り笑っていなければなりません。笑いたくないときでも最低限口角を上げて「いー」という顔をしてください。これが一番簡単にできるアンチエイジングのやり方だと思います。ご検討ください。

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新システム

4月から職場のコンピュータシステムが換わりました。新しい業者の新しいシステムに移行しましたがまだあまり機能できていません。それでも担当業者は今月一杯でリリース完了の動きです。そのため、現場の不満が徐々に吹き出ようとしています。「最初に話し合いをしたときに『こんなことをしたい』『こんな機能をつけてほしい』という夢を語り、『可能です』と答えたのに何も実現していないじゃないか!」という不満です。

でも、おそらく相手にすると「云われた機能はほとんど完成している」と思っているのだろうと思います。つまり初めからアタマの中で描いていた風景がまったく違うのです。コンピュータ業界の常識からしてこの程度できれば上出来でしょう、という線があります。利用者はそんな線引きは初めからしていません。

3月まで使っていたシステムを7年前に導入するときにも一悶着ありました。当時の業者がリリース完了を宣言しようとしたとき、ときの部長が怒りました。「おまえら最初に売り込みに来た時に云ったのと全然違うじゃないか?大金使わせておいてこんな使い物にならないもの置いて逃げていこうと思ってるんじゃないだろうな!」と。そのときのレベルとたぶん今は同じくらいだという印象を持っています。当時の業者は、それから大量のプログラマーを動員してわたしたちのアタマの中に描いていた機能を可能な限り実現できるように骨を折ってくれました。男気の世界でしかなかったと思います。そのため複雑怪奇な誰も修正できない代物ながら曲がりなりにも痒いところに手が届くシステムが生まれたのです。

おそらく、今回はそんなことはしないでしょう。不満を抱きながら「いままでは良かった!」と良き時代に思いを馳せて夢を追うより、不便な新しいものに「こんなものさ」と慣れていく方が現実的かもしれません。わたしはすでにすっかりあきらめていますので、割と気は楽です。

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割り込み

阿蘇路を運転している途中、何度か片道二車線が一車線になるところがあります。小心者のわたしはかなり前の時点から本線の方に入り込みますが、追い越し車線側を行き止まるまですっ飛ばして割り込むドライバーは昔からたくさんおります。

追い越し車線をすっ飛ばすドライバーの大半が確信犯です。バックミラーに勢いよく近づいてくる車を見つけると身構えてしまいます。「あいつはオレの前に割り込む気でいるから絶対に入れさせないぞ」と、意図的にエンジンを噴かして前を走る車との車間距離を詰めるのです。

その一台が自分の前に入ったところで、わたしの行く末に大した影響はありません。自分の車線が渋滞するのは自分よりはるか前で割り込み車が多いからであって、わたしがどんなグチをこぼしても無駄であることくらい分かっています。わたしの前に入れさせなくても、前の車の前に入るなら同じことのはずです。なのにこうカリカリするのは自分のこころの中の問題です。ただ単に、要領よくいけしゃあしゃあと生きている人間が許せないというだけのことです。

おもしろいもので、余裕(「時間の余裕」は絶対あるのでこの場合は「こころの余裕」です)があれば、入ってこれずにじっと待っている車に「はいどうぞ、お入りください」とパッシングしたりします。まあ、いうなれば割り込みを許すかどうかは、わたし自身のこころの鏡の反映です。

わかってるんですけど、今日も今日とて、なかなか悟れません。

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肌荒れ

先日、ある老健施設の職員健診に行きました。診察をしていると手荒れのひどい人が妙に多いことに気づきました。水仕事が多いからだろうか?大変だな?とか思いながら診察を続けていましたが、それにしても多すぎる。それも若い世代や男女を問わずに見られます。最近はアトピー体質の若い人が増えていますが、それを考慮しても他の施設に比べてやはりちょっと多すぎる印象でした・・・なぜだろう?一番懸念することは、消毒液の質が悪い可能性です。新型インフルの影響もあって、医療従事者の手洗いはさらに厳しく頻回になっていると思います。頻回に手洗いする職場であればあるほど、現場のスタッフの肌を守ることに重点をおいてあげなければなりません。収益を考えたときに最初に削られるものであってはなりません。若いがために犠牲にされているのであればとても可哀想だなと思いました。

実は診察をしながら、もっと気になったことは、多くの職員さんが実際の年齢よりはるかに歳に見えたことです。さすがに二十歳前後のお嬢さんの肌はキレイです(職歴が浅いからでしょうか)が、診察をしながら、「この人は40歳くらいかな」と思って受診票をみたらまだ二十代後半だったという人が何人もいました。窓から差し込む日の光がちょうど肌荒れを際だたせたのかもしれませんが、総じてこの職場で働いている人は揃って実際より歳を取っているという印象でした。1年前にこの職場に来たときにはこんな印象は受けなかったのですが・・・。職場全体はとても明るいのに職員のカラダが疲弊してきている気がしてちょっと心配です。

産業医ではないので、あまり口出しはできませんが・・・。

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うぐいす

先日の日曜日に実家の墓参りに行きました。雲ひとつない快晴でした。小高い丘の上にある墓苑の前に立ったとき、どこからかうぐいすの鳴き声が聞こえました。ホー、ンケキョ!おしい!「ホ」が一個足りないけどまあまあ合格かな、とか独り言を云いながら墓の前で手を合わせてきました。真夏日の陽射しがジリジリと照りつけましたが、吹き抜ける風はまだまだ爽やかでした。

3月の終わりころ、うちの自宅近くでもどこかからうぐいすの鳴き声が聞こえていました。ホーホケキョッ!あのときの鳴き声は、教科書どおりのキレイな完成品でした。うぐいすの鳴き声にも上手い下手があるようです。あのときはあまりにもキレイすぎて録音された音ではないかと勘ぐったくらいです。

遠いむかし、今ごろだったか、もうちょっと早い季節だったか忘れましたが、山の中の病院に勤めていたある朝早くに、宿舎の裏山からうぐいすらしい鳴き声が聞こえました。ホー、ケ、ケ、ケキョキョ・・・わたしは素っ頓狂な鳴き声で目を覚ましました。ひいき目に聞いてもまったくもって下手くそでした。その音痴な歌声は、つっかえつっかえでしたがそれでも毎朝聞こえてきました。まるで近所の子どもがピアノの練習を始めたときのようです。いつしか毎朝くだんのうぐいすの歌声を聞かないと落ち着けないようになり、出勤までに聞こえない朝は心配になったりしました。毎朝マジメに練習をしていたのでさすがに徐々に上手くなっていきました。最後に、ホーホケキョッ、ケキョケキョケキョッ!とキレイな歌声になったときには、「うまくなったなあ」と、思わず拍手を送りました。

春にうぐいすの声、いい風情です。・・・そういえば、最近ひばりを見なくなったなあ。

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携帯メール

最近、携帯メールを打つのがとても億劫(おっくう)です。打ちたい先はたくさんあるのに、携帯のキーを打ったり変換させたりする作業がどうもスムーズにいきません。打ち間違えることも、へたをするとせっかく打ったものを最後に消してしまうこともしばしば・・・。溜息が出ます。

私が携帯を持つようになったのは14、5年前でしたか?外勤先の病院で当直をするときにヒマだから友人に打ったのがわたしの携帯メールの初めでした。たしか200字制限くらいだったと思います。ことばを選び抜いて打ったことを覚えています。わたしにとって、今や携帯メールは離せない必須ツールになりました。その後出てきた携帯の新しい機能にはほとんど手を出しません(出せません)が、メールだけは直接電話するより頻繁に使います。

なのに、今の新しい機種に替えてからキータッチミスが多くなった気がします。目も悪くなったのかもしれませんが、それは「全部ひっくるめて、『歳取った』ってことだよ!」と妻が冷たく云い放ちました。一生懸命打ったのに、後で読み返すとほんの数行だったり・・・たしかにそんなことは1、2年前にはなかったかもしれない。最近は割り切って、長いのを打たなければならない時にはパソコンから自分の携帯宛にメールを出して転送することさえあります。そんな屈辱的なこと1年前までは考えられませんでした。絵文字でごまかしても、やっぱり歳には勝てませんですかねえ。

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サーカディアンリズム

「サーカディアンリズム(概日リズム)」とは、約24時間周期で変動する体内リズムで、たとえずっと室内にいても内在する機能でほぼ昼夜の変動をさせることができると考えられてきました。ちなみにWikipediaによると、「昼間の有害な紫外線下でのDNA複製を回避するために獲得した機能であると考えられ、結果として複製は夜間に行われることとなった」という記事にはちょっと感動しました。たしかに紫外線を浴びながらDNAが複製なんかしたらすぐに異常な突然変異を起こしそうですもの。

さて、そんなサーカディアンリズムを乱れさせる実験がアメリカで行われました(Proceedings of the National Academy of Science, USA, 2009;106)。健康ボランティアに実験室内に閉じこもってもらって人工的に1日を28時間にしたらどうなるか? それをくり返していくうちに満腹感を誘起させるレプチンが低下したり、糖尿病や高血圧に関与するコルチゾルが異常に上昇したりしたのです。睡眠・覚醒周期を12時間ずらしたとき(つまり昼夜逆転時)に正常との差が一番大きいこともわかりました。これらのホルモンの異常は、食欲の増加と活動性の低下をもたらすことになります。夜勤労働者で肥満、高血圧、糖尿病のリスクが増す原因はここにある!という結論でした。

人間のサーカディアンスリズムをきちんとリセットさせる物質BMAL1が働くには朝日などの光を目に浴びることが必要で、その光刺激が松果体のメラトニン分泌スイッチを入れた結果その14時間後に眠くなる・・・以前体内時計のことを書いたときに紹介しましたが、こんなデリケートな機能を、現代社会はとことん壊しまくっている最中です。起きているときも寝ている時も本来あるべき位置に戻してくれることをカラダは切に願っているのでありましょう。

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芝居を観る。芝居を楽しむ。

大学時代に演劇部に入りました。

年2~3回の定期公演のために日々練習をくり返していました。時期が来ると、差し入れを持った先輩たちが夜な夜な練習を見に来てくれます。本番の一週間くらい前にあるリハーサルは多くの先輩たちがきびしい評価をしてくれる一番緊張する日(たぶん本番より緊張する)です。「学芸会じゃないんだから」「入場料分の芝居を見せないと詐欺だ」「こんなのでお金をもらうつもり?」・・・毎回かなり厳しい評価をいただきます。どの程度が入場料分の演技なのか明確な基準はありませんが、温かい叱咤激励だと受け止めて本番までに一気に気運を高めていくのが常でした。

そんな環境だったため、わたしはいつも批判をする目で芝居を観ていました。それがアマチュア演劇でもプロの芝居でも変わりなく、いつもアンケートにどんな批評を書くかを考えながらあら探しをするような目で観ていました。自分がするならどうする?という目で見てしまうのです。それでもおもしろい芝居こそが本物だ!などと嘯(うそぶ)いていましたが、つまるところ、同業者や後輩に負けたくなかっただけかもしれません。だから、芝居を観てもちっとも楽しくなかった。

芝居を楽しめるようになったのは、上京した友人たちの芝居を観に行くようになったころからでしょうか。「自分は役者」のココロを捨てて「私はただの観客」になる。肩肘張らずに観れる異空間はとても楽しく、あっという間に時が過ぎ去りました。感動で涙がでました。ずっともったいない時間を過ごしてきたんだなと後悔しました。悪いところを探さず良いところを観る・・・人や組織をみるときにも通じる、そんな世界の嬉しさを、わたしは遅ればせながらそのときに体感することができました。今は、芝居を観るのが楽しみです。ただ、熊本に帰ってきてからはなかなか観に行けません。東京の人がうらやましい。

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ひらめく

忌野清志郎が亡くなりました。58歳でした。わたしを今の職場に導いてくれた恩師も五十歳代半ばで亡くなりました。皆さんは、惜しい人を亡くしたと嘆き、さぞかし無念だっただろうと故人を語ります。

でもわたしはそうは思いません。彼らは、単にわたしたち凡人よりも人生サイクルがちょっと短かっただけだと思っています。脳腫瘍で亡くなったわたしの尊敬する恩師をみているとそう思わずにはおれませんでした。毎日数時間しか寝ず、いつも精力的に動き回っていると、新しいことが次々とひらめいてくるのだと云っていました。せっかくアイデアが次々と浮かんでくるのに寝ているなんてもったいない、とも云っていました。一日のうちのほとんどをボーっとして過ごしているわたしたちの何倍もの速さで生きていたのですから、早くこの世の卒業試験をクリアできても何ら不思議ではありません。

「ひらめく」ということ。クリエーターではないわたしには、あまり縁のないことばだと思っていました。それがどうも最近よく「ひらめく」ようになった気がします。このブログを書き始めたことも関係しているかもしれません。ネタをいつも無意識に探しているのでしょう。診察をしているとき、説明をしているとき、会議をしているとき、出張中の飛行機の中、ひらめきは突然やってきます(もしや、わたしの人生サイクルが急に加速を始めたのではないでしょうね)。

ただ、悲しいかな、忘れちゃう。刹那のひらめきは刹那に消えていく儚(はかな)いものなのです。ひらめいたものを忘れてしまい、「なんだったかなあ。すっごく素晴らしいことだったんだけどなあ!」なんて思ったことは数知れません。これは「歳」ですね。やはり先が短いということでしょうか。脳細胞が覚えられないので、ひらめいたらメモするようにしています。近くにある紙にとりあえず題名だけでも。・・・ただ、後でそれを見直しても、何のことだかさっぱり思い出せないことも少なくなかったりして・・・。

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飛び箱

肥満児で運動オンチだったわたしは、小さいころからかけっこが苦手でした。かけっこだけでなく、逆上がりも飛び箱もできませんでした。泳ぎも苦手でした。オンチな音楽と、もっとオンチな体育だけ通知表はいつも3でした。

当時小学校の教師をしていた父は、日曜日に自分の勤務する学校にそんなわたしを連れて行きました。日曜の職員室はとても魅力的です。職員室の父の机の引き出しの中には、まるでドラえもんのように、小さな子どもにとって魅惑の教材サンプルがたくさん転がっていたからです。そんなひと時のあと、騙されたように体育館に連れて行かれました。数学(算数)が専門の父はとりたてて運動などしたことはないと思っていたのですが、まがりなりにも小学校の教師です。ちゃんとした教科書どおりのノウハウで教えてくれ、数時間で飛び箱も逆上がりもできるようになりました。運動は苦手でしたが、練習してできるようになるのは快感でした。だから今でも、練習は嫌いではありません。

実は、そんなわたしは6年生のとき、100m走の地区記録を持っていました。運動オンチだったわたしが学校の陸上の代表として市の大会へ出るようになったきっかけは大したことではありません。4年生のときの運動会でなぜか3位になったからです(それまではドベ)。有頂天になれるほど自分を信用できませんでしたが、でももしかしたら自分は足が速いのかもしれないと錯覚しました。ジョギングなど始めてみました。5年生の運動会ではダントツの1位になり、リレーの選手にも選ばれました。自信なんて所詮そんなものです。

運動に限らず、やればできる(かも)という自分への自信が生じるきっかけは大したものではありません。自分に自信のない皆さん。焦らずともいつか錯覚に近い自信が生じるきっかけに出会います。それに気付いたときに、もっと錯覚しておけば大丈夫です。

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コーチング

人間にはいくつかのタイプがあって、人が皆自分と同じように感じているとは限りません。相手を動かす場合には必ず自分のタイプと相手のタイプを知った上で、それぞれに合ったアプローチをすることが大切です。ということで、先日妻が買った「コーチング流タイプ分けを知ってアプローチしするとうまくいく」(鈴木義幸著、伊藤守監修、Discover21)という本を読みました。

コーチング(COACHING)というのは要するにコーチをすることなわけで、「人を育てること」と訳します。スポーツの技術向上、専門家としてのスキル向上、社会人としてのコミュニケーション技術の向上など、それぞれに多彩な使用法があります。馬車(COACH)が人やものをある場所から目的地に届けることから来ているのだとか。

人間は、「A.自己主張が強いか弱いか」と「B.感情表出が高いか低いか」で大きく4つのタイプに分けることができます。人も場も支配しようとする「コントローラー」はAが強くてBが低く、人に指図されるのが大嫌い。一国一城の主タイプで人に弱みを見せるのが苦手です。「プロモーター」はAが強くてBも高いタイプ。アイディアや想像力が豊富で人のモチベーションを上げるのが得意、注目されると一気に本領発揮できます。新しいことへの挑戦は好きですが飽きっぽいのが玉に瑕。人気者だが人の話は良く聞かないとも書いてあれました。一方、Aが弱くてBが高いのが「サポーター」です。俗に云う「いい人」タイプ。争いを嫌い、和を重んじ、ビジネスよりも人間関係優先。気配り上手で穏やかだがリスクを冒さず、常に人に関心を持たれたいと思い、無意識に相手からの見返りを求めているところがあります。もうひとつが「アナライザー」で、Aが弱くBも低いタイプです。アナライズとは分析するという意味で、物事を客観的にとらえて沈着冷静慎重派。多くの情報を集めてじっくり状況を分析し、計画を立ててからやっと行動を起すタイプで、変化や混乱に弱く、感情表現や大人数が苦手な傍観者と表現されていました。

長々と書いた割には分かりにくかったかもしれません。相手のタイプを知り、そのタイプに合った接し方や指導の仕方をすると上手くいくという話ですので、是非読んでみてください。ちなみに、妻に云わせると、わたしは典型的なアナライザータイプ(彼女は典型的なプロモータータイプ)なのだそうです。否定はしません。

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太ったマウス

アメリカ(南カリフォルニア大学)から、カロリー制限とアンチエイジングの関係についての動物実験の報告がありました(J.Nutrition, 2009:139)。

「やせたマウス(たぶんやせたヒトも)がカロリー制限をするのは、アンチエイジング戦略としては無駄かもしれず、むしろ危険かもしれない」、つまり「カロリー制限がすべてのマウス(すべてのヒト)の寿命を延ばすとは限らず、有用なのは食べ過ぎの肥満マウス(肥満ヒト)のみである」という単純明快な結論です。まあ、当たり前といえば当たり前の結果だと思いました。

でもこのメタボ時代、だれもが盲目的にやせ志向に邁進(まいしん)していますので、良い警鐘になる論文だと思います。さらにこの論文には、「老齢マウスにカロリー制限を行うと寿命が縮む」という忠告も書かれています。健康に気を遣いすぎる高齢者の皆さんはどうか世間の騒ぎに影響を受けすぎて「やせたやせた」と喜びませんように。また、肥満マウス(肥満ヒト)について、「肥満体に限れば身体活動を増やすよりもカロリー制限をした方が望ましい」というコメントも付いていました。つまり、「ハンバーガーを一気にたべてしまったとしたら、ランニングマシーンを利用するよりも、その後のダブルチーズバーガーを1回抜く方がはるかに効果的だ」ということになります。・・・なるほど、と納得しながらも、そんなことができるなら肥満マウス(肥満ヒト)になんかなってないわ、と突っ込みを入れたくなるのであります。

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ハゲの遺伝子

男性型脱毛症の遺伝子ゲノム解析を行ったドイツの大学の報告記事を読みました(Nature Genetics 2008:40)。

脱毛に関連すると考えられる遺伝子が2つ見つかっているそうです。数年前に見つかった「アンドロゲン(男性ホルモン)受容体の危険遺伝子」というものはX染色体の上にあるため、母親だけから引き継がれる遺伝子です。つまり、「男性における脱毛は母方の祖父から引き継がれることが多い」と結論付けられてきました。

ところがこの度、もう一つ、早期脱毛との関連が示唆される遺伝子がみつかりました。これは父母どちらからも遺伝する可能性があります。これによって父親と息子の毛の生え方が似ていることを説明できることになったのです。

わたしの父は若いころからハゲでいました。赤ん坊のわたしを抱いて写った写真には、もうすでにほとんど額だけになってしまった父の笑顔がありました。わたしはむしろ白髪交じりのゴマ塩アタマでほとんどハゲていません(さすがにちょっとだけ額がうすくなってきましたが)。父方の祖父がハゲていなかったので、私は隔世遺伝だろう、と云われてきていました。でも、このハゲ(脱毛症)の研究を読んでみると、ハゲた人がほとんどいない母親の家系の血を引いただけだったのでしょう。顔立ちや性格は父とうり二つなのですが、それでもちょっと納得しました。

ところで、頭のてっぺんからハゲるタイプと額が広くなっていくタイプ(父は後者)がありますが、心筋梗塞になりやすいタイプは同じハゲでも前者のタイプだという論文を、遠い昔に読んだ記憶があります。

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睡眠の質(後編)

「睡眠不足」ということばには、時間的な睡眠の不足だけではなく、質の不足の意味も示されています。むしろ質の問題の方が意味は大きいのではないかと云われています。睡眠の質が悪いと夜間の血圧がきちんと下がらず、そのためにダラダラと寝続けてしまうというデータも紹介されていました。つまり大人の場合、睡眠時間が長い人の中には睡眠の質の悪さが隠れている危険性があるというのです。睡眠時間が長すぎる人も、短すぎる人と同様に生活習慣病のリスクが増加しているというデータがそれを物語っています。

「睡眠の質」とはつまり熟眠がどれくらいできるかということです。熟眠といえる深い眠りの時期をノンレム睡眠期といいます(夢を見ているときがレム睡眠期です)。このとき脳波が「徐波」という形になっているので「徐波睡眠」ともいうそうで、つまり、寝入りばなに集中して徐波睡眠が出ている状態が「質の良い睡眠」です。これはどうも高等動物にのみ準備されている機能で、短時間睡眠でも効率よく回復できるように発達してきたものだそうです。たしかに脳が疲れる仕事を長時間したりすると、身体は疲れてなくてもその後に「爆睡」します。このときに「徐波睡眠」となり、急速回復している証なのでしょう。徐波睡眠期に刺激を与える実験(徐波断眠実験)を行う(ひどいことをするものだ)と、インスリン感受性が低下し、インスリンの糖処理能力が低下するというデータの紹介を読んで、ホントにデリケートなコントロールをしているものだなと感心しました。

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睡眠の質(前編)

Medical Tribune2009.4.23に載っていた、「睡眠の質」に関する座談会記事を興味深く読みました。「睡眠不足は生活習慣病のリスクを高めるが、睡眠時間が長くても熟眠できていなければやはり生活習慣病を悪化させる」という内容です。

「真夜中は別の顔」・・・睡眠中の科学にはロマンがあり、睡眠中に織りなすカラダの中の振る舞いはすべてが別世界の小宇宙なのでおもしろいと思います。生き物は睡眠中にカラダの奥の体温を低下させ代謝を抑えることで臓器や脳を休ませています。睡眠不足になるとその休憩ができなくなり、狭心症・心筋梗塞や糖尿病、肥満、死亡などのリスクを高めたり炎症の回復を抑えたりするのだそうです。睡眠不足のために、ストレスホルモンが増加するのが原因ではないかと云われています。

4時間くらいの短い時間の睡眠しかとらないと、満腹情報を伝えるレプチンというホルモンの分泌が減り、逆に飢餓情報を伝えるグレリンというホルモンの分泌が増加することが分かっています。そのために空腹感が強くなり、食欲が増します。血糖のコントロールがおかしくなって太ってきます。世のデブタレントが、総じて売れっ子になるほど太っていくのは、夜中まで起きていて食べてばかりいるからだと思っていました(売れていないときはヒマだからすぐ寝ていたのに)が、それにはこんな科学的なメカニズムがあったのですね。

かくいうわたしの睡眠時間は、正味5~6時間弱です。夜中に腹が減るのは実感しています。それでなくても夜はBMAL1の働きでカロリーを割り増し蓄積させると聞いていますのに。くわばらくわばら。

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朝食摂ってないぞ

「おれは朝から何も食べてないんだぞ!」

健診を受ける人はまあそれが当たり前なんですが、どうも腹が減ってイライラするらしいのです。先日の健診では受付開始時間のはるか前から並んで、「あ~カラダがフラフラして倒れそうだ!まだ始まらんのかなぁ」と大声でグチる中年男性がおりました。大人げないといえば大人げない人です。健康体だといえばまさしく健康体の証明なのかもしれません(まあ、総じて、こういう人はメタボ腹で生活習慣病の坩堝(るつぼ)の方が少なくないのは事実ですが)。

健康のために朝ごはんを食べなくなって長いので、わたしにはそのイライラ感はまったく理解できませんが、でも、朝食べていないのはそんなに大変なことなのでしょうか。もしや、朝ごはんを食べないのは不健康だと思いこみすぎているがために、早く食べないとカラダを壊すかもしれない、とかマジメにそう思っているんじゃないかとかえって心配したりしています。

どうせ検査が終わるまで食べられないのが健診なのだから、せっかくなら「空腹」を感じる良い機会にしたらいいのにと思いますし、きっと、そのあとの昼食がとてもおいしいはずです。もちろん、朝を食べていない分を取り戻そうと大量の昼食を摂るようでは本末転倒ですが。

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カウンセラーの素質

わたしの親しい知人のお話です。

その女性は、親戚の男性の相談(グチ)をよく聞いてあげるそうです。いつもカッカしている彼はいろいろな鬱憤(うっぷん)が溜まっているようです。ちょっと下世話なハレンチなことも含めて、彼女は聞き役になります。「こいつは凄いんや。こいつに話をすると気持ちがスッキリするんや。おまえもこいつに悩みを聞いてもらえ!」と云って他の人にも彼女を紹介しようとするので勘弁してほしい、と先日話していました。「だって、全部右から左に聞き流してるだけだもの。他の家族には話さない方がいいような内容が多いから聞いてやってるけど、どうせ大した話じゃないから、ただ適当に相づち打ってるだけ。全然覚えてないから、前のことを聞かれたら、『あらそうやったかいな』とか云って誤魔化してるんだから。」

恐れ入りました。カウンセリングのプロに云わせると「けしからん」のかもしれませんが、わたしはむしろ完璧なるカウンセラーの姿だと感服しました。相手の云うことをじっと聞き、相づちを打ち、ときどきオウム返しに反復し、共感してあげる。それだけで相手は満足して帰る。まさしく教科書通りのカウンセリングです。しかも聞き流しているから自分が入り込んで悩むような失敗もありません。それを日々の仕事にしているわたしはそれができずに悩んでいるのです。なかなか最後まで聞いておれませんし、すぐに悩みに入り込んで一緒に考え込んでしまったり、勝手に助言してしまったりして、ちっともうまくいきません。

これはもともと持って生まれた才能なのだろうな、と彼女の話を聞いてそう思いました。

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酒のトラブル

草なぎくんの泥酔全裸事件はバカみたいな騒動になってしまいました。もちろん大の大人が法律違反したわけだから罰せられるべきものですが、多くの一般常識人が「たわいもないこと」と思い、「騒ぎすぎだろ」と同情した事件です。この事件に対して某H大臣が、まるで虫けらのごとくに吐き捨てたあの態度が一番滑稽でした。地デジのCMまで全部作り替えるんだそうですが、税金の無駄遣いも甚だしい。

この某H大臣は、産婦人科病院の副院長が酒気帯びでお産に立ち会った事件でも、「飲酒運転より悪質!」と吐き捨てました。「バカいってんじゃねえよ」と思わず叫んでしまいました。この副院長がべろんべろんで何かした訳じゃなし、予定手術の執刀医が酒飲んで来たのとは訳が違います。いつ何があるかわかならないんだから断酒しろ、飲んだら現場に来るなと云うのであれば、そう法律で決めてしまえばいい。わたしたちもパーティの最中に救急の人手が足りずに呼び出されることはよくありました。あれをされないで済むのはラッキーな話です。その代わり、現場は医者が足りずに救急ストップをかけるでしょう。世の晩酌をされる開業医の先生は皆夜間の対応はできなくなり、巷に救急患者だけが溢れることでしょう。かく云う大臣さん方もいつ何が起きるかわかりません。パーティーや料亭から呼び出されて官邸に颯爽と向かっているのをよく見ますが、大臣さんは酒気帯びで公務をしても飲酒運転と同じじゃないんでしょうか?

最近、「常識」への過剰反応が甚だしいように思います。ちなみに某N大臣のドロドロ会見も、風邪薬を飲み過ぎたら(酒を飲み過ぎなくとも)本当にあんな風になりますから試してみてください。ただ、会見をキャンセルする選択をしなかったのがまずかっただけで、あれを酒のせいにしないでもらいたいものです。

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臓器移植(後編)

そこには、お互いの子どもの「生きる(生かす)可能性」と「生きる(生かす)権利」がぶつかり合っています。親のエゴや切実で複雑な願いが入っています。もちろん、「死」とは何か、「生」とは何かという生命の尊厳を突きつめる重い場ではありますが、そんな哲学的な問題云々よりも前に、何よりも「我が子」。とにかく「我が子」を何が何でも幸せにさせたい。そのためにはどんなことでもしてあげたい。親のその思いは、場合によっては怨念のような激しいエネルギーに化けてしまうかもしれません。ひとつの「命」の奪い合いです。そこにあるのはまさしく修羅場です。

拡張型心筋症の募金について書いた時にも言及しましたが、皮肉にも、すべては「臓器移植が実現可能になった」がために生まれた軋轢(あつれき)です。エコ運動のリユースと同じ次元で語られる話ではありません。それは生命への冒涜(ぼうとく)なのかもしれませんが、臓器移植はごく普通の概念として皆の頭の中にインプットされています。「臓器移植は夢のまた夢」といわれていた時代には、それはそれで皆のこころの準備はできていました。あるいは「外国でないと移植はできない」と限定されればその可能性は限られていました。でもその足かせがなくなってしまいそうです。・・・不幸にして臓器奇形で生まれてきた我が子がいます。親は自分を責めます。罪の意識に耐えながら悶々として生きてきました。今、消えてしまいそうなその命さえ我が子に分けてもらえるなら・・・選択肢が増えてしまった分だけ、迷い、悩まなければならないことになるのだと思います。

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臓器移植(前編)

臓器移植法の改正案が国会に提出されそうです。今回の改正の目玉は、「ドナーの年齢制限撤廃」です。どんな小さな子どもでも、脳死と判断したら臓器移植の提供者になれることになります。もちろん意思表示ができないので「家族の同意」が絶対条件ではありますが、これはかなり厳しい葛藤を覚悟しなければなりません。夫婦で意見はきっと分かれるでしょう。

おとなでも基本は同じですが、子どもの死の判定の方がはるかにむずかしいはずです。もはや無理だろうと思われる状態から奇跡が起きる可能性は子どもの方がはるかに多く、それはちょうどグリーンサイドに外れて完全に止まってしまったゴルフボールが傾斜や風の影響でゆっくりと動き始めてとうとう勝手に転がってホールインするようなものです。先日そんな光景をテレビで観ましたから、実際にないわけではないことです。また、それが子どもだからこそ、まだまだこれから成長するはずだった罪もない自分の子どもの臓器が、脳死を認めたために無理矢理えぐり取られることになるのは、まるで自らが我が子を殺すような深い心のキズを家族が持ち続けるかもしれません。

その一方で、今その臓器をもらえたら元気に生き延びられる可能性のある命が待っています。待っている親の身としては、相手の親の気持ちはわかるものの、我が子にせっかくもらえそうな権利(臓器移植)を使えなかったら、これまた大きな後悔を残して生きていくことになります。「もう脳が死んでいるのなら、早くあきらめて臓器を提供してほしい」・・・阿修羅のような複雑な気持ちに悶々とするかもしれません。

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ジェネリック

「ジェネリック医薬品」とは、「後発医薬品」のことで、いわゆる「ゾロ品」です。

ひとつのクスリを開発して発売するまでには莫大な金と労力が要りますので、発売後ある期間だけそのクスリの作り方に特許権が与えられます。その期間が過ぎたあと、他のメーカーが同じ成分を使って同じ作り方で作るクスリをジェネリックというのです。あちこちでゾロゾロと作られるので「ゾロ品」。昔はジェネリックの仕入れ値が安いため薬価との差(収益)が多かった事情もあり、信頼に欠けるゾロを金のために採用するのは一流の病院やクリニックでやることではない、という風潮がありました。今は薬価差が修正され、医療費削減や受診者の負担軽減のために、逆に積極的にジェネリックへの移行が薦められています。

ただ、同じ主成分を使い、同じ作り方のマニュアルを使って作っても、先発品と同じ効果が理論どおりに出ないことは少なくありません。「替わったクスリは効かないから前のに戻してほしい」と患者さんに云われたゾロ品はいくつもあります。医療者は、「それは気のせいです。だってメーカーが違うだけで”まったく”同じものなんですから」と口では云いますが、根拠はないけれどそれは真実だろうことを薄々感じています。

ある抗生剤のジェネリックBとジェネリックCがあって、「Bはまあまあ効くけど、Cは全然効かないよね」というのが実際の小児科の現場で今ちょっと話題になっています。患者さんの自覚症状の改善の有無ではなく、熱が下がるとか炎症が治るとかですから、結果は明確に出ます。許可を受けて堂々と売られているクスリだから名前は出せませんが、それって「ゾロ品」じゃなくて「バッタモン(=にせ物)」ていうんじゃないのかしら?それを分かっていて処方するのは犯罪と同じなんじゃないのかしら?とか、思わないでもありません。

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アメリカンジョーク

昔から良く引き合いに出されるジョークがあります。医者がプライベートの席で、あるいは何かのついでに、患者さんや知人から医療相談を受けた場合どうするか。

あるとき、同窓会があって、その宴席で弁護士をしている友人にそのことを相談してみます。この場合、相談に乗ってあげた方がいいのかどうか?あるいは云ったことにちゃんと責任を持たなければならないのかどうか?・・・弁護士の彼は明解に答えます。「そんなもん、当然責任はあるんだから、ちゃんと受診料を請求すべきだよ!あるいはそこで答えずに後日受診させるべきだよ。」・・・「そうか。やっぱりそうだよね。これからはもっとクールにすべきだよね。」などと云ってこのときはそのまま別れました。ところがその数日後に、その友人から郵便が届きます。開けてみると、なんとそこには、「コンサルト料○○円」の請求書が入っていました。チャンチャン♪・・・という話です。

これはアメリカンジョークではありますが、でもとても当を得ていると思います。同じことを話しても、外来なら診察料や初診料が発生するのに、それがまるまる無料になるわけです。わたしも酒の席で、あるいはプライベートで、よく同級生や仲間や先輩後輩から健康相談を受けます。そうなった場合、普通は普通に、いやむしろ人一倍親身になってアドバイスをします。良心というやつでしょうか。「今はプライベートだから」なんてクールに答えることはできません。でも、医者が医療に対して意見を云えば、当然それには意味が出てきますし、社会的には責任が生じて然るべきです。かと云って、「知らねえよそんなこと」なんて云ってたら友だちが居なくなってしまいそうで、弱気なわたしは結局、金を貰うときよりも真面目に答えるのでありましょう。そんなだから、世間の皆さんは、どうか医者の良心にあまりすがりませんように。あるいは酒の席なら生ビールか焼酎の1杯でもご馳走してやってください。

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消毒薬と喘息

医療情報誌Medical Tribune(2009.4.16号)に「医療用洗浄薬や消毒薬で看護師の喘息リスク上昇」という記事が載っていました(Occupational and Environmental Medicine, 2009;66:274-278)。現場で悩まされている人は昔から恒常的に多いのに、なかなか医学的な問題として取り上げてくれないのが不思議でならなかったので、今さら?という気持ちよりもホッしたというのが正解でした。

アメリカテキサス州の研究で、パウダー付きラテックス手袋を使う看護師が新たにその業務に就くようになって喘息が増えたり、器具洗浄を行う業務の看護師もそれに就くようになって喘息が有意に増えているというのです。患者さんの皮膚を洗う洗浄液や消毒薬、医療器具洗浄のための薬剤や漂白剤など、日常的に呼吸器刺激物質や感作物質がたくさん含まれているのが原因ではないかと結論しています。

ただ、わたしの懸念はそれに留まりません。皮膚のアレルギーだけでなくカラダ全体の不調や肝機能低下を来している医療従事者は少なくないと云われています。もともと細菌やウイルスを殺すのが目的の薬剤ですから猛毒です。そんなものをいつも扱っているのですから、単に鼻から吸い込んだからというだけでなく、皮膚からの吸収の要素も十分にあるでしょう。一般人の過剰な「清潔病」は考え方次第で避けて通れますが、医療者の場合はそうはいきません。経済面ばかり重視しないで、医療従事者のカラダを守る観点から薬を選んでほしいものだと切望する次第です。

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不良と非行

「最近は『不良』が居なくなった。居るのは『非行』か『犯罪者』だけだ。」という話を、先日運転中のラジオ番組で聞きました。

「不良」とは、「不良行為少年」を指すことばで、徳を害する行為をしている少年および少女のこと。法律上は、「非行少年には該当しないが、飲酒、喫煙、深夜徘徊その他自己又は他人の徳性を害する行為、つまりは不良行為を行っている少年」と規定されています。一方「非行」とは、軽い違法行為、あるいは違法ではなくても反社会的とみなされる行為のことで、「少年非行」は、「未成年者によってなされた犯罪行為、及びこれに類する行為と社会的に判定された行為」だそうです。要するに、非行は法律違反をすることであり、不良は公序良俗に反する行為はするけど違法ではない、という区別だと理解しました。たしかに昔から巷には「ワルゴロ」や番長グループというのは存在していましたが、彼らは強面にワルぶっているだけで、特に男なら大なり小なり成長期に必ず通ってきたプロセスでした。一応、そこには彼らなりの仁義があり、彼らなりの理屈がありました。一線を越えない「常識」がありました。一部はそのまま暴力団に入る者もいましたが、大部分は一時的なものでした。「昔は『やんちゃ』だったよね」という連中は、みんなこんな連中でした。

ところが、最近はそのプロセスなく、日頃不良そうな生活を送っていないのに突然犯罪を犯す青少年ばかりになった、と冒頭の番組がぼやいていたのです。だからたぶん「加減」がない(できない)のだと思いますし、ゲームの中のようなバーチャルと現実を区別できないのでしょうが、やはりとてつもなく怖い時代になってしまいました。

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ザ!鉄腕DASH!

先日、久々に「ザ!鉄腕DASH!」を観ました。ほのぼのとしていますが、昔から好きな番組のひとつです。

TOKIOの面々も各々に歳をとりましたが、彼らは若いときから何に対しても真面目に取り組んできたし、いつも好奇心旺盛で発想力と行動力があって、何よりも素直な若者たちなので、ついつい見入ってしまうのです。

もうかなり成熟してきたDASH村。わたしもあんな生活に昔からあこがれていますが、結局は周りの人たちの協力をどう得られるか、どう入り込めるかなわけで、それが不器用なわたしには一番苦手なのであります。周りはとてもやさしくしてくれるのに、何か自分から入っていけないのです。相手が厚意を見せてくれればくれるほど、それに甘えてはいけないのじゃないか、それは厚かましいのじゃないかと思ってしまいます。皆の心の中に入っていきたいのにふと気づくと決して心を許している状態になっていません。ひとりでは何もできませんし、何も楽しくありません。分かっているのですが・・・。そんなウジウジした思いと焦りを、この番組を観ながらいつも感じてきました。

父は若い頃から盆栽が好きで、ベッドの脇にはいつも盆栽の本がありました。本を読んで自己流に研究し、分からないことは散歩中に見かけた庭先でも聞いてくる姿をよく見かけました。退職したら庭師に弟子入りしたいと云っていましたが、ある日腰を痛めてしまってそれを断念したと聞いています。わたしはこれもまた苦手です。自己流の研究は好きですがそれを他人に曝して助言を請うとうことができないのです。子どものころにそういうことに慣れ親しんでいなかったのが一番の原因かもしれません。この歳からでもきっと変えられるはずとは思いますが、裏腹に偏屈爺になって行く一方です。何とかならないものかしら。

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所詮は他人事ですから。(後編)

もっとも、医療現場では相手を常に客観的に診る冷静さが必要です。

「所詮は他人事」という目で診ないと大事なことを見落とすことがあります。昔から、「身内の病気は自分で診るな」と云われる所以です。自分に近い人ほど冷静さを欠くモノだからです。だいたい世の名医というものは常に「他人事」の冷静な心で厳しい客観的な目を持って診療をしていくので、「冷たい」とか「おまえには血が通ってないのか」とか云われても信念を貫くことができるのでしょう。生半可でいい加減なわたしは、そんな強い信念で「他人事」を貫いているわけでもありません。

先日、健診に来ていた受診者の一人が不整脈発作を起こしたので、病院の救急外来を紹介しました。電気ショックで治療しようとしましたが安定剤が効かずに結局治療を断念しました。担当をした医者は「特に急いで治療しなければならないわけでもないので、目を覚ましたら帰そうと思います」と伝えてきました。「で、これからの治療をどうしましょう」と聞くと、「別に無理して治療しなくても良いんじゃないですか」と即答されました。すぐに命に関わる病気ではありませんが、脳梗塞を起こす危険性のある不整脈ですから元に戻せるモノなら早く戻してあげたい。そういう病気だということを本人が理解して今後の管理をだれかにしてもらいたい。わたしはそう思いました。彼の云っていることは専門医の意見としては正解なのだと思います。でも、「もし、それが自分の親や奥さんや子どもだったら、あなたは同じ対応をしますか?」と云ってやりたい気がしました。後日、柄にもなくわたしから本人に説明をし、幸い不整脈は取れていましたが、今後の管理を他の病院に依頼しました。

「自分の身内だったらどうするか?」・・・診断や対処に悩んだときは必ずそれを指標にすることにしています。

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所詮は他人事ですから。(前編)

「ま、所詮は他人事ですから。」

先日読んだある医者の本の冒頭に出てきたことばを書き写してみました。本の内容とはなんら関係ない話ですが、医者のやっていることは「所詮は他人事」だもんな、といつもそう思っています。

検査結果が悪い。なんとかしないと命に関わる病気になるかもしれない。その危険性を説明していると、明らかに「いらん世話じゃ。私のカラダのことは私が決める!」と云いたげに聞き流している態度を取られることはままあります。外来をしていたころもそうですが、今薬を飲まないと危ない!と云うことを説明している端から「薬を飲みたくないからここに来たのだ。それ以外で何とかしろ!」「今までの先生はそんなことは云わなかった。おまえは傲慢だ!」と云われたりします。単に今までの医者が無知でいい加減だっただけじゃねえか!と内心で怒り心頭に達しながら(きっと血圧上がってるだろうなと思いながら)、自分を落ち着かせることばは、「申し訳ないけど、そんなこと知ったこっちゃない。どうせわたしのカラダじゃないんだから、どうしようとアンタの勝手だよ!」・・・大部分は心のことばですが、声に出して云うこともあります(もちろんもっと丁寧語で)。

わたしは、聖職とは言い難いとんでもない医者です。事実は事実として正確に伝えるとして(伝え方は相手によって千差万別、これは技術ですが)、その後のその人の人生まで抱えてあげる気は毛頭ありません。「いやいやそうじゃなくて、本当に今が大事なんですよ・・・」と説得を続ける医者や看護師さんをみていると、ホントに偉いなあ、と心から敬服します。前世で素晴らしい徳を積んでこられたのでしょうね。

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ブルガダ

先日、うちの職場の生理検査のお嬢さんが、わたしに教えてくれました。

警察から依頼があって、うちで健診を受けたある男性の過去5年分の心電図を提出したそうです。実はその男性が突然死をしたのです。20歳代の男性でした。彼の心電図は最初の心電図だけが「正常」で、それ以降は全部典型的な「ブルガダ型心電図波形」でした。毎回、精密検査を指示していましたが、おそらく自覚症状がなかったから(2回目以降は『いつものことだから』の気持ちもあったのでしょう)一度も専門医を受診したことがなかったようです。

「ブルガダ型心電図波形」は1000人に2人弱程度の割合でみられる波形です。いわゆる「突然死」した人たちの心電図について多くの検討がなされましたが明確な特徴は見つかりませんでした。ところがその中で、ごく一部に共通の心電図波形を有する集団(家族性のことが多いのですが)があることをブルガダさんという人が発見して「ブルガダ型心電図波形」として発表しました。

症状(動悸・ふらつき・意識消失など)や家族歴がなければ大部分は問題ないのですが、前ぶれなく突然危険な不整脈が出現して突然死する人がいるので要注意なわけです。健診では神経質になりすぎてやや引っかけすぎだと批判を受けがちですが、今回の若者のように、おそらく家族歴も症状もなかったであろう人がこうやって突然死してしまうと(詳細を知りませんので因果関係はわかりませんが)、疎かにはできないなと改めて思いました。彼のご冥福を祈ります。合掌。

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漢字が多い

うちの職場の広報誌に定期的にコラムを書くようになって、もうすぐ15編めになります。ここに書くコラムの内容はわたしに一任されているため、提出したモノが原則としてそのまま掲載されます。ですから、良かったのか悪かったのか、内容の偏りや間違いがないかを指摘してもらうこともできません。そのため、できあがった広報誌をときどき友人に送って評してもらっています。

「内容はわかりやすいし、文章もやさしくて自分は好きだ。ただ、いつも思うのだけれど、ちょっと漢字が多すぎる気がする。同じ内容でも、漢字が占める割合が多いと重い感じがして読みたくなくなる場合がある。」・・・ある時、友人のひとりにそう云われました。

これはとても大事なことのような気がします。自称「国語博士」のわたしは、当用漢字に直せるモノは直して標記するのが当然の正しい日本語表記だ、と思っていました。それはそれで正解だと思うのですが、でも、公文書や論文ではありませんし、最大の目的は「人に読んでもらう」ということですから、「漢字が多い→むずかしそう」の感覚は避けては通れないと思いました。ときどき、作家さんの書く文章で、何でひらがななの?と思うことがありましたが、そんな意味もあるのでしょうか。

今では時々(ときどき)、わざと漢字に直さないで表記したり(表したり)、できるだけ平易な言葉に(やさしい言葉に)変えたり、いろいろトライしてみています。大体、漢字が多い時には自ずと内容が固くなり、あるいは自分の中で内容や云いたいことをきちんと把握していないことが多いモノです。自分で噛み砕けてないのであれば、人には伝えられません。ん?今日の文章は、何か漢字が多い気がします。屁理屈で引き伸ばした文章だからでしょうか?

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手際と手順

夕食の食材宅配サービスを頼むようになって5ヶ月を過ぎました。最初はこんなに少ないの?と思いましたが、最近は「多すぎるよ」とグチるようになってしまいました。慣れとは恐ろしいことです。

さて、先日小さな宴会で料理の話になりました。ちなみに、わたしはほとんど料理ができません。世の魅力的な男性たちのように「美味い料理を作りたい!」という衝動に駆られることがまったくないばかりか、味さえ濃すぎなければ、世に不味い料理などほとんどない!と思い込んでいる、錆びた舌の持ち主です。

前述の食材宅配サービスは、毎回必ずおかず三品分の材料が入っています。三品それぞれの作り方のレシピも同封されていますのでそれに従ってそのまま作れば、準備された料理ができあがります。ただ、夕食の準備として、その三品を同時進行で作りあげる「手順」は何も指示されていません。いらん世話だといえばいらん世話ですが、Aの準備をしながらBの下準備を開始し、さらにCの野菜をいつ刻むか・・・料理のセンスは「手際」に出ます。でも、準備されているのはあくまでも各々の料理の作り方のみです。「わたしは料理が好きだからそういうことはまったく苦にならないけれど、料理ができない人には辛いでしょうね」・・・いつものように指示通りの料理を手際よく作り上げながら、妻が以前そう話していました。

考えてみると、料理に限らず、世の中何事も手際と手順次第です。それが、「できる人間」とそうでない人間の決定的な差なのだろうと思います。わたしはどうかといえば、何をするにも要領が悪くてイヤになってしまいます。

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パニック体験

友人たちと某デパートに遊びに来ましたが、待ち時間があるというのでデパート内を一人で散策しておりました。三階の売り場の中を何をするでもなくブラブラしておりました。

ふと、あることに気づきました。静か。静かすぎる。徐に辺りを見回してみたらわたし以外誰もいません。それを除けば他には何一つおかしなことはありませんが、とにかくわたし一人。・・・突然、異常な不安感が押し寄せてきました。わたしの目は出口の一点に釘付けになりました。「急いでここから出なければ危ない!」・・・咄嗟にそう感じて走り始めました。出口のドア以外は視界から消えています。突然胸がドキドキし始めてきました。とてつもない不安感がザザァーっと押し寄せ、視界が波打つように広がったり縮んだりして落ち着かなくなりました。

はやる気持ちで出口を飛び出た後、とにかくみんなのいるところに行かなけりゃと思い、狭い非常階段を上り始めました。ところが不安感は強くなる一方で、ふと「反対!」と思いました。何故だか分かりませんがそう思うと急に振り返って下り始めました。狭い階段の途中で誰かとすれ違った気もしますが定かではありません。壁に囲まれた非常階段をグルグルと回りながら何段下りても外に出ません。何?ここはどこ?出口はどこ?目の前の視野がどんどん狭くなっていきます。不安感と動悸がおさまりません。とにかく、外の空気を吸いたいんだ!誰か助けて!

と、ここで目が覚めました。数日前の夜中のことです。パニック発作ってこんな感じなのかな、と思いました。初めての経験です。どうしたのでしょう。わたし、病んでいます。

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魔界水滸伝

どうしたことか、ある日突然「魔界水滸伝」がアタマに浮かんできました。栗本薫のSF小説「魔界水滸伝」を読み耽ったのは、ちょうど東京に住んでいたころでした。当時はまだ全巻が出終わっていなかったので、新しい巻が発売されるのをいつも心待ちにしていたのを思い出します。

この世のモノとは思えない風貌の地球外の神々の侵略を阻止すべく日本古来の神々が次々と目覚め、八百万の神々を従えて集結して戦う話なのですが、その展開のダイナミックさにいつもドキドキして読んでいました。最初のうちは人類を守るための戦いなのだろうと思っていましたが、徐々に神対神の戦いとなり、実体のない異次元空間の世界(魔界)が広がる中で「人類」は藻くずのように次々と消えていきました。スケールの大きな話になるに従って、ニンゲンであるわたしは、ちょっと切なくなっていきました。

世には「選ばれし人々」がおり、彼らは有事の際にこうやって隠していた能力を目覚めさせて勇敢に生き延びていくのだと思います。そんな超能力を持つのが「うちの妻でありその母親である」と信じていました(今もそうですが)。一方で、わたしのように何の取り柄もないニンゲンは、十把一絡げの集団の中の一人として、有事の際には最初に儚く消えていくのだと思います。だからこそ、読んでいくうちに徐々に主人公の普通のニンゲン「伊吹涼」に自分を重ねてのめり込んでいったのかもしれません。この小説を読んだ後に世紀末がやってきました。結局ノストラダムスの云うようなハルマゲドンはまだ起きていませんが、きっと「有事の時」はすぐそこに来ていることでしょう。わたしを取り巻く家族や親しい友人たちが皆「選ばれし人々」に見えます。

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死をみつめる。(後編)

「硬直した死体に触るのは嫌じゃなかったですか?」と質問する看護師に「あなただって、さっきこの死体を処置なさったのでしょう?」と逆に聞いたら、「だって、さっきはまだ温かくて柔らかかったもの」と答えた、という下りもとても面白いと思いました。

患者さんが壮絶な戦いの末に<死>を迎えたとき、病院であれば最初にそれに直接接するのは多くの場合看護師さんです。エンジェルセットを持って、死後の処置をします。その段階では、目の前にいるのはさっきまで生きていた患者さんなのでしょう。でも、霊安室に移り、そこから葬儀屋さんや納棺夫さんの手にわたる頃には、それは<死体>になっています。

一体、<死>が<死体>に変わっていく境界線はどこにあるのでしょうか?看護師さんたちはそれをカラダが固くなってきたかどうかで感じているようですが、その前に魂が抜けていく瞬間をきっと彼女たちは体感として感じているのではないかと思うのです。科学的でないそんな感覚がだんだんとマヒしていくのが救急医療の現場なのかもしれませんが、<死者>を<生>の時から連続で見守っていてあげられる唯一の存在が彼女たち(家族は<生>→<死>の間に空白時間がある)なのですから、是非とも自分の感性を大事にしてしっかりと魂と会話してあげてほしいと願っています。

話がいつの間にか横道にそれました。

『<死>は医者が見つめ、<死体>は葬儀屋が見つめ、<死者>は愛する人が見つめ、僧侶は<死も死体も死者も>なるべく見ないようにして、お布施を数えている。』

・・・やっぱりこの人は詩人だ。

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死をみつめる。(前編)

最後にもうひとつだけ「納棺夫日記」について書きます。

『今日の医療機関は、死について考える余地さえ与えない。』・・・医療従事者として、この文章もまたとても深くて厳しい真理だと思いました。

『死に直面した患者にとって、冷たい機器の中で一人ぼっちで死と対峙するようにセットされる。しかし、結局は死について思うことも、誰かにアドバイスを受けることもなく、死を迎えることになる。誰かに相談しようと思っても、返ってくる言葉は「がんばって」のくり返しである。朝から晩まで、猛烈会社の営業部のように「がんばって」とくり返される。親族が来て「がんばって」と言い、見舞い客が来て「がんばって」と言い、その間に看護婦が時々覗いては「がんばって」となる。』『集中治療室などに入れられれば、面会も許されないから「がんばって」もないが、無数のゴム管やコードで機器や計器につながれ、死を受け入れて光の世界に彷徨しようとすると、ナースセンターの監視計器にすぐ感知され、バタバタと走ってきた看護婦や医師によって注射をうたれたり、頬をぱたぱた叩かれたりするのである。折角楽しく見ていたテレビ画面のチャンネルを無断で変えられるようなものである。<生命を救う>という絶対的な大義名分に支えられた<生>の思想が、現代医学を我がもの顔ではびこらせ、過去に人間が最も大切にしていたものを、その死の瞬間においてさえ奪い去ってゆこうとする。美しい死に方どころでないのである。』

手厳しいけれど、自らの「死」を想像したとき、「まさしくその通りだ!」と賛同の拍手を送りたいと思いました。救急医療の現場はまさしく生か死かであり、生死をひとつの流れの中に位置させて死に行く過程を考えることなど考えている余裕はありません。それはホスピスの終末医療とは違うから当たり前だと思っていたけれど、よくよく考えてみれば、その思い込みはやはり<生>の思想に他なりません。

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悟るということ。

『悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた』

増補改訂版の「納棺夫日記」には、本文の後に「『納棺夫日記』を著して」という文章が加えられていました。その冒頭に紹介された、正岡子規(『病牀六尺』)のこの一節もまた、わたしのココロに衝撃を与えました。わたしも、いつでも平気で死ねるようになることが悟るということだ、と信じていた者のひとりだったからです。むしろ「悟り」を開いたらその瞬間がこの世からの卒業のとき、親鸞の云う「光如来に出会って<死即仏>となる」ときだと思っていたのです。

突然、余命を宣告されたときに、こころを乱さずに死を迎える準備ができることが「悟り」ではなく、平然と日々を有意義に過ごせることが「悟り」・・・そうかもしれません。今想像してみても、前者ならわたしにもできるかもしれないけれど、後者は今のわたしには到底できるとは思えません。どこかの禅僧の半端な修行など屁の突っ張りにもならないことも簡単に想像できます。

死に往く人たちが皆穏和な顔になり、皆「ありがとう」という感謝の念に満たされていることをわたしも以前から感じていました。どんな苦しい思いをした死に方であっても、もはやその向こうには生も死もないきれいな青空の空間が広がっているのでしょう。きっとそこは素晴らしいところなんだろうな、と思います。それを思えば、死に往くことなどたやすいことでありますが、やはりこれは「悟り」とは違うものなのでしょう。というより、「悟り」がどうだこうだと、そんなことにこだわっていること自体に大した意味などないのだろうと思います。

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詩人。

『・・・詩人とは、悲しい存在なのである。雨でもなく雪でもない<みぞれ>というものがあるように、覚者でもなく普通の人でもない詩人というものがある。親鸞もまた、自分は僧ともいえず、俗ともいえず、どちらともいえないあやふやな存在であると自覚し、愚禿親鸞と名乗って、・・(中略)・・と、己の中途半端な姿を正直にのべなければならないほど、誠実な悲しい存在であった。親鸞も道元も、そして良寛も、偉大な良き人は、みんな詩人でもあった。』

「納棺夫日記」第三章<ひかりといのち>を読んでいて、突然フリーズしました。「詩人」・・・忽ちわたしのこころをとらえて離さないことばになりました。続きを読みながら、魂がどんどん惹きつけられていくのです。『詩人は、その詩作品とは裏腹に、決して美しいといえる生き様ではなく幸せといえるような生涯は見当たらない。物への執着がなく、そのくせ力もないのに人への思いやりや優しさが目立ち、生存競争の中では何をやっても敗者となり、純粋で美しいものに憧れながら、愛欲や酒に醜く溺れ、死を見つめているわりに異常に生に執着したりする。言葉でいっていることのわりに、やっていることはお粗末で、世に疎まれながら生きている。そんな詩人に共通の生涯を辿る理由が<光>ではないかと言うのです。あの<光>に出会うと、生への執着が希薄になり、同時に死への恐怖も薄らぎ、安らかな清らかな気持ちとなり、すべてを許す気持ちとなり、思いやりの気持ちがいっぱいとなって、あらゆるものへの感謝の気持ちがあふれでる状態となる。』

・・・わたしの憧れとする生き様が、まさしくそこに書き記されているような気がしました。医者は天職ではないだろうという感覚に襲われ始めた最近のわたしは、医者ともいえず、かといって普通の人でもない、あやふやな感覚の中に浮遊しています。「詩人」の生き様をこれから体現できる権利が、もしかしたらわたしにはあるのかもしれないと思いました。

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みぞれ。そして光。(後編)

納棺夫の青木さんが何度も見たという「光」。何億年も前からいのちをつなげてきた卵をかかえて竹と竹の間を弱々しく飛んでいる糸とんぼに生命を感じ、腐乱死体のあった部屋の中を逃げまどう蛆たちの一匹一匹に生命を感じたとき、それが光って見えたという。多くの故人たちが、死を覚悟したときに世の中が突然明るく光って見えたという。

そして、親鸞上人がいう『仏は不可思議光如来なり、如来は光なり』という明快な説明。

その「光」を、理屈で理解しようとしてもさほど意味をもたないのだとわかりました。わたしが般若心経にとらわれ、それを理解したいと切望しながらもなかなか到達感を感じないのは、努力が足りないこともありますが、まだわたしがこの「光」を経験するときにないからでしょう。ふと思い出した光景があります。半年前、14年一緒だった愛犬が静かに息を引き取りました。母の死にも父の死にも立ち会えなかったわたしですが、彼が倒れてから7日間、時間の許す限り寄り添うことができました。最初に倒れた日に一緒にソファに寄り添って夜明けを迎えたときと、最期の朝を迎える前夜、暗闇の中で意識の遠のいた彼のカラダの中から魂が抜けたり戻ったりしている奇妙な感覚を覚えながら、彼のカラダがぼわっと仄白く光っていたような気がしました。

ここでいう「光」はそんなあやふやなものではなく、あのときはちょうど白々と明けようとする朝の光だったのであり、あるいは近くにあった熱帯魚の水槽の光だったのかもしれません。ただ、あのときにいつまでも流れた涙は、寂しさや悲しさではなく、何か感動と感謝に満ち溢れていました。そのことを、今もう一度思い出させてもらえたことに感謝して、再び熱いものを感じています。

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みぞれ。そして光。(前編)

「納棺夫日記(増補改訂版)」(青木新門 文春文庫)をやっと読み上げました。涙が止まりませんでした。出会いたい本にやっと出会ったという感覚がじわじわと湧き上がってきました。まだまだこの本に書かれているメッセージがカラダに染み込んでいく感覚にはなりきりませんが、これから何度も読んでいけばきっと、わたしがずっと探し求めてきたことへの答えを見出せるような気がしました。

何か書きたいのに、書こうとすると何も書けなくなるのがもどかしいです。だから、読み終えてすでに1週間経つのに書けずにいました。それでも、そろそろ何かを書かないと、逆に何もかもが薄れていく感覚にも苛まれて、重い腰をあげました。

「みぞれ」・・・英語にはそれに相当する単語がないというこの「みぞれ」ということばに、もの凄く惹かれました。雨でも雪でもない状態、しかも刻一刻と変化していく曖昧で不安定な現象は「無常」が理解できる日本人にはさほど抵抗のあることではありません。ただ、この表裏一体ともいえる「みぞれ」が、「生死」と同じであるということを理解するのはちょっとむずかしいかもしれません。ところが、『・・・特に仏教は、生死を一体としてとらえてきた。生と死の関係をみぞれの中の雨と雪の関係のようにとらえるなら<生死一如>=<みぞれ>であって、雨と雪を分けるとみぞれでなくなるというとらえ方である。』という文章に、「あ、そういうことか」と妙に合点がいったのであります。

『・・・みぞれの中で大根を洗うこの地方の老婆は、梢に残った木の葉が一枚落ちる度に、「なんまいだぶつ」と口ずさんでいる。・・・』の下りを読んでいて、不覚にも涙が流れ出てきてしまいました。

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新入社員

新年度が始まりました。うちの病院にも毎年多くの若者が入社してきます。医療従事者だけではなく、多くの事務員さんも入ってきます。

彼らを見ながらいつも感じることがあります。これだけ多くの若者たちが入ってくるのに、どうしてうちの病院の職員さんたちはみんなこんなにとてもしっかりしているのでしょうか。好人物だらけに見えます。仕事柄、あちこちの企業の健診でいろいろな人たちと関わっていますと、世間一般に「この人はちょっと」という人が必ずいるものです。ほとんど子どものまま社会に出てきたような若者や悪態をつく人、あるいはいわゆる変人の類の人など、一般の企業のサラリーマンを見ていると必ず一定の比率でそういう人はいます。あるいは一緒に仕事をしていながら、すれ違っても挨拶すらしない人も少なくありません。

それなのに、うちの病院ではまだそんな人間に出会ったことがありません(医者は別です。医者は、わたしも含めて「変人だらけ」と云っても云いすぎではありません)。世間一般で批判されているような「ちゃらんぽらん」な若者がうちの病院にいないのはなぜなのでしょう?かなり厳しい入社試験だとは聞いていますが、それだけでは人格的な見極めはむずかしいはずです。偶然ではないでしょう。頭がいいから仕事だけきちんとこなしているのだろうと考えられないわけではないけれど、頭が良い人ほど変人が多い昨今です。やっぱり試験官に見る目があるのでしょうか?それとも入社後1ヶ月の新人教育が本当に徹底していると思って、純粋に自施設を自慢して良いものでしょうか。自然淘汰もあるのでしょうね。

とにかくはっきりしていることは、こんなさわやかな職員さんばかりの中でわたしは幸せ者だということです。

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軽躁

ある医学雑誌によると、日本人には国民性のひとつとして「軽躁」があるのだそうです。甲高い声で早口で心身ともにちょっと騒がしい状態、と云ったらいいのでしょうか。物静かで寡黙なのが日本人の日本人らしさなのだと思っていましたので、ちょっと驚きました。でも、自分を考えてみると確かにいつも軽躁です。特にここ数年は、良いことも悪いことも、嬉しくても怒っていても、いつの間にか大声で話してしまっています。かなり苦しかったうつ状態のときですらそうなったりしていました。もともとは小声でボソボソ話すのが常でしたが、滑舌の悪いわたしが耳の悪いお年寄りの方々にわかりやすく話そうとする意識が強くて、あるいはボソボソしゃべると機嫌が悪いように思われるので誤解されないようにという意識でそうしていたつもりでしたが、歳とともにどんどん声が甲高くなっていくのは、ちょっと病的かもしれません。

その記事にはもうひとつ、武田信玄の遺訓にも触れていました。「主将が陥りやすき三大失観」です。①分別あるものを悪人と見ること、②遠慮あるものを臆病と見ること、③軽躁なるものを勇豪と見ること、です。ここにも軽躁をヨシとしてしまう間違いを戒めています。3つのうちの1つですので、これはかなりのウエイトをもって昔からリーダーが陥りやすかった勘違いなのでしょう。

現代社会の若者たちは、自分の世界に入り込むオタクと周りを気にせずうるさく騒いでいる軽躁ばかりで、社会性が欠落している!と云われますが、それは若者たちに限った特徴ではないようです。わたしもこの機会に、少し反省してみましょう。

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微量金属

人間のカラダの中に必須微量元素というものがあります。本当に微量だけあれば十分な物質だけれど、ないと生きていく上で重要な機能が欠落していくものです。以前、中心静脈栄養の患者さん(口から食べることができないので心臓近くの太い血管まで管を入れて高カロリーの輸液をする必要がある患者さん)が亜鉛不足になるケースが多くて問題になったこともあります。

そんな重要な微量元素・微量金属ですが、食事を普通にとっておけば問題ないはずなのです。ところが最近、そんな微量金属欠乏症の人が普通に見られるようになってきていると云われます。インスタント食品しか食べなかったりお菓子しか食べなかったりの偏食が原因で起きるビタミン不足と同じような理由なのでしょうか。一方で「足りないなら、じゃあサプリだ!」とばかりにサプリの過剰摂取で中毒症状を出してみたり。今はホドホドがホントに難しい世の中です。

ある医学雑誌に載っていた「ヒト必須微量元素欠乏症の症状」の一部を転記します。気になるモノがあったら調べてみてください。

●鉄→貧血・免疫力低下など、●亜鉛→味覚障害(低下)・嗅覚障害(低下)・視覚障害(暗順応不全)・成長の遅れ・妊娠異常・脱毛・うつなど、●銅→神経・精神発達の遅れ、骨や血管の異常、貧血など、●ヨード→甲状腺腫・クレチン病、●クロム→糖尿病・脂質異常症、●コバルト→悪性貧血、●マンガン→低コレステロール血症・体重減少など、●モリブデン→脳症など、●セレン→心筋症・心筋梗塞・がんなど。

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胸がキュンとする

恋をすると胸がキュンとします。この「キュン」は、医学的に何ですか?という質問を受けました。

これは、とても深くてむずかしいことだと思います。医学的に書けば、おそらく簡単なことです。身体中にはりめぐらされた自律神経の網の中で、興奮状態の時に優位になる交感神経が脳から刺激されてホルモンを大量に分泌させられたのです。ドパミンが脳に快感を与えるとともに、ノルアドレナリンが動悸と血圧上昇をもたらすのだと思われますし、皮膚が収縮してゾクゾクとなるのでしょう。ネットをチェックしていたら、このとき心臓の筋肉が瞬時に収縮するから「キュン」となるんだ、という説明文も見かけました。

わたしは循環器内科の医者でありながら(むしろそれだから)、「こころは心臓にある」という説が好きです。交感神経の反応を、脳は猜疑的(理性的)に対処しようとして、心臓は好意的(感性的)に同調するのだと解釈しています。同じ様な「好きだ」でも相手によって、あるいは同じ相手でも日によって「キュン」を感じたり感じなかったりしますし、自分の感じてきた「キュン」には、解説書に書かれているような「胸の痛みの感覚」とはちょっと違うモゾモゾ(ゾクゾク)感を伴っています。「好きだ!」という思い(興奮状態)に対して、脳はそれなりの生体反応で落ち着かせようとしますが、心臓がその制止を振り切って抑えきれなくなってしまうのではないかしら。それが「せつない」という感情。この感情を発しさせているのは脳かもしれないけれど、それを表現しているのはやはり心臓に違いないと思っています。

ま、そんな理屈は脳に任せておいて、こころはいつも素直に感じていきましょう。今日が、そんな胸キュンな日でありますように。

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田舎の裏庭

先日、友人とトイレの話になりました。

わたしの田舎(父の実家)の便所は家の一番奥、縁側の廊下をミシミシいわせて歩いていったその果てにあり、手洗いの水は便所前の軒下に懸かったジョウロのような容器に入っていました。幼稚園に上がるまで農繁期にはいつもばあちゃんに連れられて田舎に滞在していたわたしは、あの忌まわしい薄暗い空間がお化け屋敷のように恐怖でした。

最終目的地(便所)は、家の中の北のはずれの裏庭に面したところにありました。「何もおらぁせん!なんか、男ん子やろうが!」と本家の兄ちゃんに笑われ、今にも泣き出しそうな決死の覚悟で闇の中に突入するのでした。昼間でも薄暗くて気味が悪いのに、夜はさらに凛とした漆黒の闇が裏庭の向こう側に待ちかまえていました。生け垣の向こう側に延々と広がる田圃や林からは虫たちの声、さらにその向こう側にある沼や川のせせらぎの音も聞こえていたはずですが、きっと当時のわたしには何も聞こえなかったはずです。もはや天も地もない暗闇の中を前だけをみてスローモーションで駆け抜けていく自分がいます。便器の下から手が出てきてわたしの足を握るかもしれないから夜にウンコに行ってはいけない。後ろを振り向いたらそこに何かが立っているかもしれないから、終わったらそのまま振り向かずに後ずさりし、音を立てずにドアを閉めてから一目散で走って帰るのです。でも、この行動計画の最大のネックは、軒下の水。これでどうしても手を洗わないといけないのかしら。子どもながらに何回そう思ったことでしょう。きっと裏庭の闇の中から無数の妖怪たちがこっちをみているのです。こんなところで、無防備にひとりで立っていては彼らに見つかってしまうではないか!

やっとの思いで明るいこの世に戻ってみたらみんながこっちをみて笑っています。そっと大きなため息をつきました。・・・こんな夢を、この歳になってもときどき見ることがあります。疲れているのかしら。

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誕生日

今日は、4歳違いのわたしの姉の誕生日です。

子どもの頃は良くけんかをする姉弟でしたが、大学受験の前日に一生懸命英単語を覚えていた姉に対して「今ごろしてもムダだよ!」と軽い気持ちで云ったら、突然不安そうな暗い顔になったのを覚えています。あのとき以来、あまりけんかをしなくなりました。今は三重県に住んでいます。長男のアトピーを診察した医者の説明の仕方が不安だった!と、なぜかわたしのところに文句の電話をもらったこともありますが、わたしが父の反対を押し切って結婚したことを知ってからは口も聞かなくなり、遠く離れていたこともあってそのまま疎遠になっていきました。

久しぶりに彼女と話したのは、母の十七回忌のときでした。それは妻が初めてうちの親族に正式に紹介された日でもありました。でも本当に互いの想いを語ったのは父の急死の後からかもしれません。何日も同じ屋根の下に居て相談しながら遺品をひとつひとつ整理したときに本当にココロが再接続できたような気がしました。わたしの唯一の身内である姉と再度つなぎ合わせしてくれたのは、云うまでもなくやはり両親だったのだとココロから感謝しています。もともと多くを語り合う間柄ではありませんでしたが、あのころポツポツと語ってくれた彼女の若いころからの想いは、本当はまだまだ語り尽くせていないだろうと思います。

何度も繰り返される法事の度に顔を合わせましたが、昨年父の七回忌も終わり、また当分会うことのない関係になります。それでも、きっと昔とは違った姉弟の間柄であるだろうと信じています。先日、息子の就職にあたって保証人になってくれないかという電話がありましたので、快く引き受けました。

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7つの健康習慣

先日、ある公民館に生活習慣病のお話をしに行ったときに、以前使っていたスライドを1枚久しぶりに引っ張り出して追加しました。

「Breslow(ブレスロー)の7つの健康習慣」というものです。つまり●適正な睡眠時間、●喫煙をしない、●適正体重を維持する、●過度の飲酒をしない、●定期的にスポーツをする、●朝食を毎日食べる、●間食をしない・・・この7つの健康的な習慣に該当する生活を多く送っている人ほど、病気にかかる率が低く寿命が長い、というわけです。

これを読んでどう思いますか?多くの人が「そんなこと当たり前だろう!」と突っ込みたくなるでしょう?5、6年前に初めてこれをみたわたしも、実はそう思いました。で、次に何と続きますか?

現代人は「そんなこと当たり前。でもそんな理想を並べられても現実としてできるはずがない」と続くのではないでしょうか?ところが、ブレスローさんがこれを提唱した1972年のころに遡ったと思ってみてください。タバコの概念は別として、それ以外は「今さらいちいち云われなくても当たり前のことばかり。ただ普通にしてたら良いってことだ!」と思ったに違いありません。自分の若いころを思い出してみても、毎日一般庶民が普通にやってきていたことばかりが並べられています。

「そんなこと当たり前」なのに、昔は「普通のことを並べているから『当たり前』」で、現代は「理想は『当たり前』だけれどするのは大変!」なのです。これは真逆の感じ方です。現代は昔とは別の惑星に住んでいるのだから、昔の理屈を引きずってはいけません!ということを云いたくて、このスライドを追加しました。

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国試対策

わたしはどうも連むのが苦手です。試験勉強はひとりでやっていくのが昔からの習慣でした。自己流のやり方や覚え方でないとアタマの中に入っていかないのです。そのスマートでない勉強の仕方をヒトに笑われるのが嫌なだけだったのかもしれません。

自分の生き方のスタンスには自信もあり、その方法はそれなりに通用してきました。でも、医師国家試験だけは恐怖でした。クラスメートは必ず友人とグループを作って勉強し合っていました。あるいはクラブの先輩から虎の巻やポイント集のコピーをもらい、どんな参考書を買えばいいかアドバイスを受けていました。それが国試対策の常套手段だったのだと思います。別に授業をさぼっていたわけではありませんが、居眠りすることは多く(今でも学会場で暗くなると瞬時に意識がなくなるのは当時からの条件反射かしら)、本学(医学部ではなく全学部合同)の演劇部に入り浸っていたわたしはクラスにクラブの仲間すらいませんでした。コピーは何とか再再再コピーの段階で分けてもらい、友人に参考書のアドバイスの受け売りを教えてもらいはしましたが、いかんせん勉強の仕方がわかりません。

よくもまあ合格したものです。受験した後もできた実感がなく、卒業して引っ越すときにもまだ国試対策の問題集と参考書は捨てる勇気がありませんでした。きっと医者の多くが常識だと思っている知識を、わたしは意外に知らないままに仕事しているかもしれません。代わりに、多くが知らないであろう、分厚い内科教科書の欄外のコラムの内容をこそっと覚えていたりするかもしれません。昔はちょっと負い目に思っていましたが、最近はこんな医者がいても良いんじゃないかしら、と開き直っています。

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独りよがりの恋

高校を卒業して大学予備校に通い始めたころから、わたしはある同級生に独りよがりの恋をしました。遠く離れた、わたしの立場で云えば(相手にとっては恋愛ではなくて仲の良いお友達だったかもしれません)「遠距離恋愛」になるそのつき合いは、途中での中断を経ながら、まがりなりにも大学卒業の前まで続きました。

携帯電話やメールの存在しないあの時代、手紙と里帰りのときのたわいないデート以外に交わすことばすらありませんでしたが、わたしはいつもウキウキしていました。「恋」というものはそんなものです。

予備校時代、夏を過ぎても成績はパッとしませんでした。志望校の合格可能性Dランク・・・とりたてて遊んでばかりいるわけでもないのに今ひとつスイッチが入りません。そんなころ彼女から一通の手紙がきました。「勉強の邪魔になるからしばらく手紙出さなくていいよ」・・・きっと軽い気持ちで書いたのでしょうが、その一通で突然わたしのスイッチが入りました。正月明けの模試ではAランクに。おかげさまですんなり志望校に入学でき、わたしってすごいなと思いました。その影響からか、大学時代のわたしは何をするにも自信がありました。それはきっと遠くに彼女がいたからだと思います。生き方の自信というものは理屈ではありません。芯になる存在があれば簡単にできることです。でも医師国家試験を前に別れを告げられました。彼女のために大分に帰る決心をしていたわたしのこころは見事に潰れました。彼女とは縁がなかったのだと諦めるのに長い時間がかかりました。

ただ、今思うと、彼女はわたしが今のわたしであるためにどうしても必要だった、最大のご縁だったのではないかと思います。彼女がわたしの前に存在しなければわたしは医者をしていません。医者になったことが良かったか悪かったかはわかりませんが、今でもわたしは彼女にこころから感謝しています。

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思索の時間

サッカーシーズンが始まり、贔屓にしているJ1チームの応援のために隣県まで阿蘇の山を越えて何度も往復します。ひとりで運転しながら誰にも邪魔されずに見慣れた風景の中を走っているこの2時間半がわたしにはとても充実した思索の時間になります。

いろいろなことに想いが馳せます。間近にひかえた講演のシュミレーションや頼まれた原稿の構想を練ってみたり、その合間に目の前の無謀運転に腹を立てたかと思えば、阿蘇の山々の季節の移ろいをぼぉっとながめながら遠い昔を思い浮かべ、次の瞬間には今夜の宴会のことを想ってみたり、はたまたラジオの会話に勝手に突っ込みを入れてみたり。その内容は全く秩序も節操もなく、時々はひとりでいることをいいことについつい独り言を云ってみたりしています。呆け防止の脳トレとしてはとても大事な時間だと思っていますが、決して建設的なあるいは学研的な時間でないことだけは確かです。

ただちょっとだけ気になるのは、想いの方向が最近は未来ではなく過去に向かうことが多くなってきたことです。これからこんなことをしたいとか、あの仕事をどう展開していこうとか、そういう想いがここ数年あまり浮かんできません。したいことやしなければならないことがないからなのかもしれないけれど、子どものころや青春時代のころのことばかりが浮かんでくるというのは、どうしたものでしょうか。

この時間に自分のブログのネタを思いつくことは良くあります。ただ困ったことに、せっかく内容の概ねをアタマの中で書き上げていたというのに、目的地に着いて友人に会ったころにはすっかり内容を覚えていないこともまた日常茶飯事なのであります。まるで夜見る夢のよう・・・。

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仲間たち

先日、今年度の〆の宴会がありました。わたしが今の職場に来て、最初に管理を任せられた部署の宴会でした。

当時、わたしは40歳代前半でした。スタッフたちは20歳代中盤でした。歳の差は約20歳。でも、わたしは何の問題もない歳の差だと思っていました。上司という感覚がなく、心もカラダも「仲間」として接してきたつもりでした。「仲間」は一緒に何もかもをゼロから作り上げていって、何をするのも面白かったように思います。

ところが、いつの間にか月日が経ちました。ふと気付くと、そこに無視できない歳の差を感じ始めていました。「あんたらは若いもんね」が口癖になってきました。今は直接の管理をする立場ではなくなってしまったからかもしれませんが、自分がたいそう年寄りのオヤジさんになった感じ。彼らは昔のままなのに・・・今も昔も同じ20歳の歳の差なのに、何か前よりはるかに遠くなったような気がしました。わたしは心身ともに無理がきかなくなっています。何をするにもつい守りに入るようになりました。

きっとわたしの中だけの問題なのでしょうけれど・・・「仲間」が「部下(他人)」になってしまったような感覚は、やはり思いの外寂しいものです。ちょっとだけ感傷的になってしまった、先日の宴会でした。

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花冷えの思い出

ご多分に漏れず急な花冷えが続いています。その前が暖かすぎたので体感的にはちょっと花冷えの域を超えているかもしれません。だから桜満開の春の景色なのに厚手の上着は手放せません。

この季節にいつも思い出すのは、別れと新しい生活、引っ越しと薄ら寒い新しい住処のことで、ちょっと甘酸っぱくてうら寂しい感情の残り香が心の片隅に残っています。

東京に引っ越したのは遠い昔、結婚1年後の春3月でした。二人とも初めての東京生活に緊張していました。紹介してもらった人と前もって不動産屋巡りをして、緑の多い石神井に、できたばかりの新築のこぎれいなアパートを見つけました。熊本のアパートを引き払い、各々の車を処分し、大分市役所で戸籍謄本などの諸々の書類を発行してもらい、墓参りを済ませてから片道だけの航空券を買って九州を飛び出しました。新居には荷物が翌日届きました。Y運送業者のパック便は引っ越し前にあったとおりの状態に戻してくれるのが売りでした。そういえば、本棚の中の本が全部左右逆になっていて揉めたことを思い出します。「逆だ!熊本で入れた奴が間違えたんだ!逆に入れてくれ!」と主張するのに「いえ、決まりですから」といって頑なにわたしの希望を拒んだ、山形出身の運送屋さんは、今は何をしているのかしら。頭に来たので、彼らが入れている端から全部払いのけて入れ替えてやった、血気盛んなころでした。

小物を入れた箱をまだ開けきらないまま夕方になりました。東京の日没があんなに早いモノとは思いませんでした。一気に気温が下がっていきました。やはり北国は寒かった。電気カーペットがあればこたつは要らないだろうと高をくくっていた私たちは、思いがけない肌寒さと知人のいない心細さで潰れそうになったことを、今でも思い出します。

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タバコとハンバーガー

BMB2008という、分子生物学と生化学合同のみるからに難しそうな学会が神戸で行われ、そのレポートもMedical Tribuneに掲載されていました。

ベンゾ[a]ピレン(BaP)という物質は喫煙の主成分らしいのですが、それがハンバーガーなどの加熱食品に大量にふくまれていると云うのです。それでもってこの物質を動脈硬化モデルマウスに食べさせると動脈硬化が進行し、さらに動脈硬化誘発食(高コレステロール+高脂肪食)を同時にとらせるとその進行度が増します。BaPは免疫で重要な働きをする胸腺を萎縮させますが、動脈硬化誘発食を同時に投与するとそれが一層ひどくなり、動脈の中性脂肪の蓄積も増加させるのだそうです。

要するに、脂質代謝異常によって作られた動脈硬化巣がBaPによってさらに増悪することが示されたわけで、欧米型食習慣に伴う動物性脂肪や加熱食品を大量に取りながらさらにタバコを吸っていると動脈硬化は加速度を増すことになるよ、ということのようです。BaPがあると大動脈で代謝を活性化させやすくなり、動脈硬化メカニズムを誘発する恐れがあるのだとも書かれていました。

タバコの主成分とハンバーガーの成分が同じだという事実には驚かされましたが、それでなくても現代人は食事の欧米化でかなり大量のBaPを取っているのだということを分かっておかなければならないでしょう。

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健康補助食品

サプリメントに関わる検討が最近医学界でもやっとなされ始めてきました。偏見をもっている医者もまだまだ多いですが、利用者が想像以上に多くなっている現在、それを無視できない状況ですし、その知識がないと患者さんの質問や相談にものれなくなっていくことになります。

サプリメントは「健康補助食品」という括りですが、疫学調査の結果、最近の中高年のサプリメント利用者はそれを「補う」目的ではなく、「病気の予防や改善」の目的で使っているのだといいます。ですから、昔のようにサプリといえば「ビタミン剤」「滋養強壮」と思われていた時代とはまったく趣きを異にしているわけで、たしかにグルコサミン・ヒアルロンサンと関節痛、アントシアニン(ブルーベリー)と目の健康など、特定の目的に飲んでいる人が多いようにわたしも感じています。

利用者が単なる栄養補充ではなくて病気の改善(というより本人たちは「治療」として)のためにサプリメントを利用しているにも関わらず、大部分の人がそれを医者に申告していないという事実は以前にもここで書いたことがありますが、今回、日本病態栄養学会とやらのシンポジウムで愛媛大学から報告されました。「糖尿病患者の約40%が健康食品を摂取しているにもかかわらず、主治医に報告している患者は20%に満たない」というアンケート結果の報告です。患者心理として、「できたら薬を減らしたい。でも、先生に云うと止めろといわれそうだから」とか「薬じゃないからいちいち話す必要はないと思うから」とかなのでしょうか。

これからは、医療者側から「カラダに良いもの、飲んでませんか?」と聞いてあげて、きちんとアドバイスしてあげるのがエチケットなのかもしれません。

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日本統合医療学会

伝統医学、相補・代替医療を統合して「患者中心」の医療を推進するため、2つの学会が統合されて「日本統合医療学会」というのが発足しました。その学術大会のレポート記事を、Medical Tribuneで見つけました。

とても悦ばしいことだと思いました。近代西洋医学体系のみを重んじる現代医療にとっての頼みの綱はEBM(Evidence-based Medicine)ですが、これが一人歩きしすぎたころから大きなひずみが生じ始めてきたと思います。EBMは医療者が訴えられないように編み出した隠れミノであって、わたしには単なる統計学でしかないように思えます。証拠がない医療は「経験主義のまやかしだ」という考えが、経験による医療を魔女狩りのように完全排除させて、統計学的に一番優れた方法だけを公認することを正義だと勘違いしているのではないかと思うのです。医療が普通の科学と違うことは、相手が人間であり、「全て」の人間が恩恵を受けなければ意味がないという点です。「統計学的に有用とされた方法で上手くいかない人は、しょうがないから諦めなさい」というわけにはいかない世界なのです。そしてもうひとつ科学と大きく違うことは、科学的に解決するかどうか(診断がつくかどうか)ではなく、患者さんの生活や価値観が満たされるようになる(満足できる)かどうかが最も重要なことだということです。端的に云えば、原因がわからなくてもすっかり治ればそれでいいわけです。だからこそ、西洋医学的に解明できなくても統合的に解決できるものがあれば積極的に試みてみることは、これからとても大切になってくるだろうと思っています。

幸い、「EBMの抱える矛盾に対し、最近では対話、傾聴、行動観察を通じた質的調査が試みられ、患者や家族から表出される物語に着目して全人的医療を目指すnarrative-based Medicine(NBM)で補っていこうとする動きがある。」そうで、もっともっと人間を人間としてみる医療の分野が広がっていってほしいと思います。

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完璧主義

わたしの印象では、無意味に数字にこだわるのは医療従事者に多いような気がします。特に、検査技師さんと看護師さん、そして時々医者。

数字の意味をちゃんと分かっているのに、どうしてそんな意味のない数センチを気にするのか?あきらかに検査値が正常範囲なのに「上限に近い」と云ってそんなに気にしているのはなぜなのか?・・・わたしにはどうしても理解できませんが、いろいろな重症患者さんや思いがけずにミゼラブルな経過をたどった患者さんの姿を何度も目の当たりにしているから、他人のことなら冷静でいられてもついつい自分のことだと不安になってしまうのかもしれません。でもそれでも、医療従事者がそんなこだわりでアタフタするのはわたしにはいつまでも理解できないことでしょう。

健診を受けたら、今年初めて「やや異常」というのが出た!と大騒ぎしている若者がいました。そんな彼には、「受けた検査項目が増えてしまったからだよ」と教えてあげましたがなかなかピンとこないようです。若者が受ける検査と、ある歳以上になって受ける検査ではその項目数が全く違います。歳とともに受ける検査項目の数が増えるのですが、検査が増えれば当然「異常」といわれる可能性は増えます。単に検査項目が少なかったから「異常なし」だっただけの話です。今時、完全無欠の検査結果であるのは至難の業です。「やや異常」は「異常なし」と同義語だと認識しているのは、健診関係者だけなのかもしれません。

日本人は、男も女も若いのもお年寄りも、本当に「完璧」が好きです。「異常値」は「標準の値ではない」というだけのことで、ちょっと背の高い人に文句をつけているようなもの、ただのコンピューターの嫌がらせですと説明するのですが、なんか納得してくれません。困ったものです。

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数自慢

先日、久々に自分のお腹の傷口をながめて「昔、十何針縫ったんだ!」と傷口自慢をしているオヤジさんをみました。昔ほどではありませんが、今でもそんな数自慢が好きな人は少なくありません。どうしてそんなに数にこだわるのでしょうか?

健診の説明をしていても、「胃にできたポリープの数が去年は○個と云われた」とか、「腎臓ののう胞の数」とか「腎結石の数」とか、みなさんよく覚えておられます。

でも、それはたぶんほとんどの場合あまり意味はありません。たとえば5cmの傷口を縫うとして(その傷の深さや場所にもよりますが)、緊急で外科医が縫うなら6,7針かもしれませんし、形成外科医が小さく縫えば15針もするかもしれません。大ざっぱに乱暴な云い方をすれば、同じ大きさの傷でも何針縫うかは担当した執刀医の気分と性格の問題でしかない可能性も大いにあります。

胃のポリープの大部分は良性ですしヒダの間に隠れたら見えません。腹部エコーはただの影を見る検査だからあってもなくても見えないことはよくあります。要するに、検査した人はそのとき見えた数を伝えているだけですから、伝える人(医療者)は伝えられる人にそれほど重要な意味を持って伝えているわけではありません。たしかに大腸ポリープは大きさが悪性度の指標になります。でもたとえば「去年は3mmだったけど今年は4mmと云われたから心配だ」という人は取り越し苦労です。なぜなら、検査中にポリープの横にノギスか定規を当てて計測しているわけではないのですから、あの数字は施行医の単なる経験的な目分量です。・・・ことカラダの健康に関わる数字の場合は、意味のあるモノと意味のないモノが歴然とあることをしっかり知っておいたほうがいいと思います。

まあ、前述の大きなメタボ腹の傷口をポンポン叩いていたオヤジさんは、ただ「大怪我だった」ということを自慢したかったのでしょうから、笑顔で聞いてあげました。

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テレビ

あなたは、家に帰るなりテレビのスイッチを入れないと落ち着かないタイプですか?

昔のわたしはいつもそうでした。妻は今でも家に存在する限り必ずテレビのスイッチを入れます。朝など、家の中でテレビの音が聞こえ始めたら彼女が起きてきたことを示します。家にいる間中、何をみるでもないのにテレビをつけないと心が落ち着かないというのは現代社会人のひとつの習慣のようですが、それが不安神経症のひとつである場合もあると聞きました。

さて、最近、わたしは一人のときはテレビをつけなくなりました。朝も仕事から帰ってからも、よっぽど見たい番組がない限りスイッチをいれません。静かな部屋でパソコンのスイッチを入れます。そうすると持ち帰った仕事も手紙も依頼された原稿も、あるいはブログ書きも、ものすごくはかどります。たまには静かな部屋で本を読みます。すごい勢いで内容が頭の中に入ってきます。昔はテレビの音がバックグラウンドミュージックのように感じてむしろ聞こえた方が仕事がはかどっていましたが、今は単なる雑音として聞こえ、かえって作業の邪魔をするようになりました。昔は聖徳太子だったかもしれないわたしの頭が歳とともに超凡人になってしまったのでしょうかしら。

テレビのスイッチを入れないと落ち着かないとか不全感があるなどといった感覚はまったくなくなりました。でもその代わりに、最近のわたしが朝起きて最初にすること、あるいは職場に行って最初にすること、そしてもちろん外から家に帰って最初にすることは、「パソコンのスイッチを入れること」です。これは、無意識にテレビのスイッチを入れるのと何ら変わりはないのじゃないかしら?今、パソコンから離れることはできそうにありません。仕事の逃避をするときもパソコンです。・・・テレビ依存症がパソコン依存症になっただけだったりして。

お~こわっ!

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募金

拡張型心筋症の青年が海外で心臓移植を受けるため、ボランティア募金を行っていました。これに似た募金は全国で前から繰り広げられています。プロサッカーチームのサポーターをしていると、最近は良くこういう話を聞きます。

拡張型心筋症というのは、心臓の筋肉が徐々にその力を失い動悸・息切れなどを起し始める難病で、最近は内服薬で正常機能近くに回復できる人も少なくありませんが、やはり最終的に動けなくなって苦しみながら亡くなる人が多い、とてもミゼラブルな病気です。ただ、ここに「心臓移植」という選択肢が出てきました。心臓移植が成功すれば再び元気な人生を送れる可能性があります。本当にそれは、画期的な朗報です。でもその一方で、その選択肢ができたがために返って多くの人が悩み苦しむことになったのかもしれません。わたしは生命の尊厳をあまり冒したくないと思う医療人の一人です。当事者ではないからあまり軽はずみなことは書けませんが、できる限り宿命を大事に受け入れたいとも思います。

過激なことを書きましたが、可能な限り可能性にかけることはそれで良いと思います。でも、国内でなぜ心臓移植ができないのかというと、多くの日本人が「臓器提供意思表示カード」にきちんと○印をつけていないからだと聞きました。「ある難病青年がいるからみんなで助けよう!」との呼びかけには直ぐに同意するのに、自分(あるいは家族)が死んだときに「その臓器を提供するのはお断りだ!」というのは、どうしたものでしょうか?それが国民性だと云われればそれまでですが、ここのところがわたしにはどうしても受け入れられないのです。

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大根おろし

焼き魚とそれに寄り添う大根おろしは、わたしの大好物です。

先日、夕飯の準備をしていた妻にその大根をおろす作業を頼まれました。ご丁寧に、「ちゃんと手を洗ってね!」と忠告されながら。ですから、「石鹸で洗ってもいいの?」とわたしも念を押します。「ちゃんと洗い落とせば大丈夫でしょ。」・・・うざいと云いた気に彼女の声のトーンが明らかに落ちました。

日頃から、できるだけ石鹸で手を洗わないように心がけています。特に薬用石鹸は必要ないときには絶対使わないようにします。抵抗力の落ちた重病人やご高齢の患者さんがいるところで働くこともなくなりましたので、それを使うのは、コンタクトレンズを入れる前とかワンのウンチの処理をしたあととかくらいでしょうか。それは、もちろん自分の身体を守るためです。コンビニでくれるウエットティシュや診察室にある消毒液は本当に強力な殺菌作用がありますから、どうかみなさんも使いすぎにご注意ください。

さて、普通にパソコンで仕事をしていたわたしですので普通に水洗いするだけで大丈夫なのに、素手で大根を握るのに妙に躊躇してしまって結局は石鹸で手を洗ってしまいました。あとでさらにしっかり水洗いして無事に大根おろしを作りましたが・・・今回は考えすぎた分だけちょっと気持ち悪かったです。けどまあ、焼き魚もおろし大根もとても美味しうございました。

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カラダの声が聞こえる

人間ドックに来て結果説明を受けるときにわたしを指名してくれる方が数人います。昨日もそんな75歳の女性が来られました。もう割と長いお付き合いになります。

いくつかの持病を持って近くの開業の先生のところに通院している方ですが、とても元気です。人間ドックの項目でいえば特に悪いところも見当たりません。治療中の高血圧や肝臓病や甲状腺機能も良好です。それどころか、骨密度(値としては骨粗しょう症ですが)や心臓ホルモンの値などは年々改善しています。値自体は微々たるもので医学的には誤差範囲内の変化かもしれませんが、年々歳をとっていくことを考えたらこれはやはり明らかに身体が若くなっている証拠だと思って、本人に伝えました。ちょっと微笑んで「嬉しいです」と答えました。

わたしが胃カメラの写真を説明している途中、彼女がおもむろに口を開きました。「最近、自分のカラダの中から発せられる声がきちんと聞こえるようになってきましたよ。昔はこの声に気付かなくてカラダを痛めつけてばかりでした。」・・・思いがけず深いことばが返ってきました。「自分のカラダの声が聞こえる」ためには、しっかりと自分のカラダと対話をする習慣が必要です。ちょっとやそっとのことでは中々実感としてこのことばは出てこないだろうと思います。自分に素直になれたとき、すっと聞こえてくるものなのだろうな、それが「悟り」というものなのだろうなと思いますが、残念ながらまだまだわたしにはあまり聞こえません。いつも耳を澄ませているつもりでいるのですが・・・。

また来年、お互いにますます元気な姿になって再会することを約束しました。

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ヤーコン

うちの施設で健康増進のための取り組みをしている一人の男性が6ヶ月目のチェックを受けました。始めたときには糖尿病や脂質異常症や脂肪肝で、お腹には基準をはるかに超える大量の内臓脂肪を抱えていましたが、今回どれも見事に正常値になりました。ブラボーです。ところが、問診票の片隅に「健康のためにこの会に入っているのに毎晩浴びるように酒を飲んでいる父に対して、どう協力したらいいのかわからず悩んでいる」という娘さんからの伝言が書かれていました。本人も毎晩焼酎を飲み過ぎることを反省しています。今日こそは1合でやめるぞ!と固く思うのではありますが飲み始めるといつの間にか負けてしまうのです。ただ、それと裏腹に検査結果はとても良くなっているのです。何か問題がありましょうか?これはまさしくわたしの日常と同じでありまして、残念ながら何もアドバイスしてあげられませんでした。転倒して怪我などしないように、とだけ伝えました。

そんな彼がヤーコンなる野菜を自分の菜園に作って毎食少量食べています。煎じてお茶にもしています。原産は南米アンデス地方の菊芋のような野菜です。栄養価が低い一方でフラクトオリゴ糖が含まれるため整腸作用やら脂質異常・血糖・血圧の正常化作用やらがあり、フラボノイドなどのポリフェノールも含まれているのだとか。有名な健康野菜のようです(外国産の食べ物に興味がないためでもないですが、わたしは全然知りませんでした)。これを毎日食べているからこんなノンベでも結果が良くなったのかもしれません。でも、とにかく何であれ、新鮮な野菜をそのまま丸かじりできる贅沢に勝るモノはないような気がします。

たしかに、こんなことするよりお酒を減らした方がはるかに簡単じゃない?と娘さんは思うのでしょうね。わたしたちアルコール中毒はそんな一筋縄じゃないのですよ。だって、中毒だから。

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よだれ

わが家には、来月11歳になるメスのワンがいます。家の中では若干4ヶ月になったばかりのメスのワンと対等に遊び、ひとたび散歩に出ると11歳とは思えないような強い力でぐいぐい引っ張って行きます。

そんな彼女が、ごはんの時間になると自分を抑えきれなくなります。彼女の食事は子どものころから一日2回のドライフードのみです。元気がいいとはいえやはり年寄りですからドライフードは老犬用になりましたし、腎臓を悪くさせないようにあまりタンパク質をあげないでくださいと病院の先生に云われているので、最近はわたしが酒を飲みながらこっそり手渡ししていた冷や奴やピーナッツも禁止させられました。ごはんの時間、自分の皿の前に座って「待て」をするときにボトボトこぼれる涎(よだれ)はいかんともし難く、尻尾を振り切れんばかりに振り回しながら待つ彼女のキラキラした目からは、ものすごいワクワク感が伝わってきます。もちろん「ヨシ!」と云った瞬間から食べ終わるまでに何分もかかりません。先日腸炎を起こしたばかりでしたからしばらくサツマイモを加えてあげましたが、一層大量の涎でベトベトになりました。

「そんなものイヌだから当たり前!」などと一蹴しないでください。先日(2009.3.3)の「ごはんは楽しみですか?」でも書いたように、現代人でこんなワクワクした空腹感を味わえている人はそんなに多くはないと思います。正直云って、そんな彼女の毎日が、ちょっとうらやましいのです。

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墓参り

彼岸の入りを前に、実家の近くの高台にあるわが家の墓に参ってきました。昨年は父の7回忌、一昨年は母の25回忌でしたので、今年は特に大きな法事の予定はありません。1月に伯父の葬儀の時にちょっと寄ってきて以来でしたので、小一時間かけて草むしりやら墓石磨きやら、めずらしくまともに墓掃除をしてきました。父と母の骨が埋められている赤土の上の草はなんとかきれいに抜くことができました。

うちの墓は、26年前に母が亡くなったときにわたしの名前で父が建てたもので、「吉相墓」というものらしい。吉相墓の何たるかをわたしはあまり詳しく知りません。7年前に父の骨を埋葬する時に墓石屋さんを呼んで大がかりな埋葬をしました。最近のお墓のように墓のウラに納骨スペースがあるのではなく、遺骨は土を掘ってそこに埋めます。長い歳月の間に骨は土へと帰りますと云われ、たしかに掘り起こしても母の骨らしい破片は見あたりませんでした。このとき、粛々と父の骨は土に帰っていきました。「当時は吉相墓がちょうどブームだったんですよね」と、墓石屋さんがちょっと自嘲気味に云いました。先祖との関わりや親子の関わりを大事にするという本来の考え方よりも、「先祖のたたり」とか占いとかのいかがわしい話題がマスコミを騒がせたために、「吉相墓」ということばにあまり良いイメージがないのかもしれません。

穏やかな春の日差しがふりそそいでいました。めずらしく風もなく静かな空気でした。残念ながらこの地にわたしたち夫婦の墓を建立してくれる子孫はいません。わたしの両親と一緒に生活したことのない妻が、自分が亡くなったときにできるなら南の海に散骨してほしいと云った、その気持ちはわからないでもありません。そんなことを思いながら、今年はいつもよりちょっと長めに手を合わせてきました。

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全休符

先日、テレビのあるクイズ番組で「五線譜に『全休符』の記号を書いてください」というのがありました。

「全休符」です。「全音符」はまだ何とか思い出せます。でも「全休符」は、不本意ながら何のことか全く浮かびもしませんでした。何かカモメが飛んでいるような形の「四分休符」はなんとか覚えています。どっかの草の実のような形の八分休符というのもありましたね。でも、それ以上は無理。「全休符」の存在を一生懸命思い出そうとしましたが、わたしの記憶の淵にカケラも残っていなくて、完全にギブアップでした。

ところがこれを出演者は簡単に答えていきます。「全休符」の形だけではなくそれを五線譜のどこに書くのかまで正解しないといけません。なんでそんなもん覚えているのよ?と思います。歌手や音楽関係者ならともかく、お笑いや俳優さんには縁がないでしょう。記憶のキャパが限られている上に徐々にキャパの大きさが小さくなるこの歳になると、そんなムダなことを覚えていると他に覚えるべきものが記憶の箱からこぼれ落ちてしまうのです。と言い訳なんかしたいところなんですが、その番組で私よりかなり年輩の俳優さんまでもが正解したときには、マジでへこたれました。

・・・ちなみに、正解はこれ (http://musical-grammar.com/pause005.html)。

昨夜は、「リピート」なる楽譜記号が問題に出ました。・・・これまたさっぱり!頭は使わないとどんどん記憶のキャパを少なくしていくんだろうなということを実感しています。わたし、マジでもう一度脳トレを再開しようかしら。

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北風と太陽

藤野武彦先生の「BOOCSダイエット」(朝日文庫)の序章に、イソップ童話「北風と太陽」の喩えがあります。

従来のダイエット法はいわば「北風型」だそうです。つまり、脂肪というマントを早く脱がせようと、逆風になる北風(食べるな・運動しろ)をピューピュー吹き付けるのだけれど、それが強くなればなるほどマントの胸をしっかりかき合わせてマントの中で我が身を縮める一方です。つらいことや嫌なことばかりを強要するダイエット法では、旅人である肥満者は決してついていけない・・・これはとても良い喩えだなと思いました。マントを脱がせたいなら、太陽の暖かな光で旅人を照らし、暑くさせさえすれば自分から勝手に脱ぐものだ・・・これが「脳疲労」を取り除くBOOCS法だというのです。

わたしの最近のマイブームではあるけれども、別にBOOCSのPRをしたいわけではないのでそのことは置いておきますが、とにかくこの「北風型ダイエット指導」の在り方については反省したい点が多々あります。このまま放っておくととんでもないことになるぞ!今、煩悩と戦って何かを始めないと手遅れになるぞ!と背中から鞭打って、嫌々立ち上がろうとするのを抱え上げて牢獄にたたき込む。「おまえのためだよ」「あなたのためよ」・・・どこかのCMのようなそんな呟きを耳元でずっと囁いてきたのかもしれないなあ、とつくづく思うのであります。

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高HDLコレステロール血症

ある企業の採用時健診結果の評価を頼まれました。データを転記して送られてきた診断書には、LDL-C 100mg/dl、HDL-C 136mg/dl、TG(中性脂肪) 92mg/dlと書かれていました。

HDLコレステロールは善玉コレステロールと云われ、動脈硬化抑制効果のあるコレステロールです。ですから、一部の家族性疾患(*)を除いて、HDLコレステロールは多ければ多いほど動脈硬化になりにくいといわれます。100mg/dl以上のものを高HDLコレステロール血症といい、日本には1000人に1人くらい存在すると文献には書かれていました。わたしも運動を始めてからかなり上昇を続け、職員健診では91mg/dlでしたからもう少しで高HDLコレステロール血症の仲間入りができます。

さてここで問題の健診結果です。HDLコレステロール136mg/dl・・・高HDLコレステロール血症ですが、さすがに136はかなりの高値です。高値すぎます。HDL-C 92mg/dl、TG(中性脂肪) 136mg/dlの方が自然です。「書き間違いじゃないですか?」と確認しましたが、「再検査したけど間違いありません」と回答がきました。最近はTC(総コレステロール)が判定基準から外れたためにあえて調べない企業が増えてしまいました。このTCさえあれば、書き間違いかどうかは簡単にわかります。<TC=HDL+TG/5+LDL>という式があるからです。前者ならTC≒254ですが、後者ならTC≒219です。まあ、間違っていようがいまいが採用するかどうかには直接関係ない話ですので、そのまま評価させていただきました。

(*)原発性高HDLコレステロール血症(コレステロールエステル転送蛋白の異常または欠損がある家系の場合、冠動脈疾患のある人が多いという報告がある)

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からだの歌こころの歌

定期的に送られてくるMMJという医学雑誌があります。わたしはその中にある「からだの歌こころの歌」というコーナーが好きです。病気をテーマにした短歌を紹介するコーナーです。今回(2009.2号)のテーマは「認知症」でしたが、今まで以上に感じるところの多い歌でした。無許可ですが転記してしまいます。

●日の暮れて祖母の願ひは 「これみんな食べたら家に帰して下さい」(佐々木千代)

●あんた誰 口拭かれつつ吾に問ふ 祖母の笑顔の百歳ぞよし   (佐々木千代)

●祖母には祖母の正論があり呉服屋へにんじん買いにゆくと言い張る(後藤由紀恵)

●ものを忘れ執着心も薄れゆき こゑの可愛い老女となれり  (河野裕子)

●安らかにわたしの母は死んでほしい 私を忘れてしまつていいから (河野裕子)

わたしは、後藤由紀恵さんの歌が特に好きでした。

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国語博士

公式文書や製本された本でも、段落が変わったときに一字下げしていない文章がたくさんあります(わたしのブログは気まぐれで行替えしているので字下げしないことにしましたのでたぶん「悪文」の代表です)。きっと原稿をワープロやメールで書いているためなのではないかと思います。あるいは文の最後が「。」「!」「?」で終わっていない公文書も最近目立ちます(「。」の後に( )があるとか)。学術的な学会誌や小中学校の教科書くらいにしかきちんとした日本語表記はなくなったのではないかと思うと、ちょっと悲しくなります。

若くして亡くなったわたしの母は、国語の教師でした。中学で教師をしていた頃は国文法ばかり教えていました。そのためか、当時まだ小学校低学年だったわたしは文法のスパルタ教育を受けました。たとえば国語や社会科の教科書、あるいは書棚に並んでいる有名な小説家の本を指し、そのたまたまた開けたページの「ここからここまでの文章をノートに書き写しなさい。その文章をすべて文節に分け、次に単語に分けた上で各々の品詞名と動詞なら何形かを書き込みなさい」と、突然云われるのであります。授業用に準備されたものではないので大変そうに見えますが、その分、正解するととても嬉しくて面白かったことを覚えています。サ行変格活用(サ変)→「さ、し、する、する、すれ、せよ、しろ」。下一段活用→「け、け、ける、ける、けれ、けよ、けろ」。ついでに、形容動詞→「だろ、だつ、で、に、だ、な、なら」。・・・子どものころに覚えたものは、これだけ健忘のひどくなった今でも意外に忘れないモノのようです。でも、ちょっとだけあやふやになってしまった文法をもう一度勉強し直してみようかな、と思う今日このごろです。

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日本語文法

「最低限の日本語文法の常識を持っているまともな人を担当にしてくれないなら、他の会社を探します!」

うちの施設で定期的に発行している広報誌の編集・製本を依頼していたS社の担当者が、渡した原稿の文章をめちゃくちゃに書き直してしまってわたしの逆鱗に触れました。文章の専門家ではないスタッフの文章はお世辞にも上手いとは云えないものでしたが、わたしが可能な限り「てにおは」の手直しをして提出しました。ところが、できあがったゲラを見て愕然としました。担当者があちこちいじり直した挙げ句に、わたしが手を入れる前の文章よりはるかに悪文に壊してしまっていたのです。いわゆる「フィーリング」で書いてあるその文章は日本語になっていませんでした。この人は日本語文法をまったく知らないのではないか?と思いました。省略されていようがいまいが、日本語の文章(とくに書き言葉)にはきちんとした文法があります。主語には述語があり、述語には必ず主語がある。もともと文法なんて気にしたこともない人は、そんな最低限の決め事の何たるかを分かっていないようでした。文章を扱う仕事に付いていながらこんな文章を許すS社自体がうさんくさい会社に見えました。

数年後に新しい会社に契約を変えたとき、またまたわたしのコラムをいじられました。必要もなくたくさんの段落に区切られていたのです。「読みやすいように行を変えてみました」と云わんばかりでした。文章内容の大きな区切りが「段落」です。まるでメールやブログの文章と同じような感覚で意味も考えずに気軽に行替えした、その感覚には呆れました。

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数字の独り歩き

先月、京都で開かれた第34回ニュータウンカンファレンスに行ってきました。心臓核医学について最先端の医療情勢を知ることのできる、歴史のある研究会ですので、毎年万難を排して出席しています。

核医学というのは、微量の放射線をくっつけた物質(放射線医薬品といいます)を患者さんに注射したり吸い込んでもらったりして、体内に取り込まれた放射線を外から撮影する検査です。心臓に注射すると心臓の機能の悪いところを見つけだせます。核医学に限らず、放射線を使った検査(レントゲンや透視やCT、PET、MRIなど)はどれも「影」を写す検査です。だから医者が所見を読むことを「読影」と云います。内視鏡検査のように直接実物を見る検査とは違って、あくまでも影を眺めながら実体を想像する検査です。最近はMRIや大腸CTなど、まるで実物を見ているかのような立体三次元のリアルな画像を見せますが、錯覚してはいけません。あれはあくまでも影をつなぎ合わせて機械が想像した絵です。バーチャル体験をしているだけです。

そんなまことしやかな像を作っていくためには、決まった領域ごとに数字化する作業が入ります。もともと「影」なものを数字化、つまりデジタル化させる段階で、そこにあるものは明らかに「虚像」です。元々実体のないものを数字化すること(これを「定量化」と云います。医療現場では「定量」ということばは重要な位置にあり、これがなければ「科学ではない」と云われてもしょうがない、という学者さんも多いでしょう。)は注意しなければなりません。ヘタをすると「定量化と言う名の数字遊び」をしているに過ぎない可能性があるからです。絵がきれいだというだけで感動しないようにしましょう。

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病気じゃないから治らない

もうひとつ、石蔵文信先生の「男もつらいよ(男性更年期)」の話題です。

「あなたは病気じゃないから治らないよ」・・・そう言い切る医者がいる(石蔵先生のことですが)。すごくシャレていて良いなと思いました。うつ病の治療をするとき、完全に治そうとするとする側もされる側も精神的に疲れてしまいます。それでなくても元々うつ病になる人は何でも完璧を期す人が多いのですから、つい頑張りすぎて潰れてしまうのだということを、わりとすんなりと理解することができました。

「あなたのうつは完全には治らないだろうけれど、調子が悪くなったらボクのところに来てね」「あなたには薬を飲まなくても済む時期もあるし、たまには薬が多くなる時期もあってもいいじゃない」と伝えます。そうすると、お互い肩の力がふっと抜けるのです。

「あなたは病気じゃないから治らないよ」は、冷たく突き放すことばなのではなくて、「良くなるまでゆっくり付き合いましょう・・・わたしはいつでも付き合うからね」という優しさに満ちたじゅ文のように感じました。

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パニック発作

石蔵先生によると、中高年の引きこもりの中には「外に出るのが面倒くさい」人だけでなく、不安障害(パニック障害)の人も含まれる可能性があると云います。これは、大勢に囲まれると息苦しくなったり胸がドキドキしたりする病気です。

わたしの妻が、若い頃パニック発作に悩まされました。きっかけは突然でした。わたしたち夫婦は、わたしの仕事の都合で新婚早々に東京に移り住みました。石神井公園近くの閑静な住宅地にあるアパートを借りましたが、都心で仕事をしている私と違い、周りに知り合いのいない彼女にとって一日何もしゃべらない日も少なくなかったようです。ある日、西武池袋線の電車に乗っていたら、池袋の直前で突然急停車をしました。何があったのか告げられることなく待たされたとき、突然動悸が始まりました。単なる信号待ちだったことを後で知りました。次に、超満員の急行電車に乗っていました。このとき突然に不安がこみ上げてきたのです。「今、この電車が急停車したらどうなるのだろう?」・・・思っただけで怖くなりました。尋常でない動悸に襲われました。早くこの場を離れたい!そう思いましたが、急行電車は何駅も飛ばして走っていきます。やっとの思いで途中駅のホームに降りたとき、顔面蒼白になっていたそうです。

それ以降、彼女は電車に乗れなくなりました。やむを得ない時は時間を掛けて各駅停車に乗りますが、それでも最初のうちは何度か途中下車したと聞きます。出ないで済むならどこにも行きたくない・・・彼女の一番苦しかった時期でした。まだ当時はそういう概念が確立していませんでしたので、病院に行っても良いアドバイスはもらえませんでした。何とか治った後、何年もして「パニック障害」という単語を初めて聞いたとき彼女は喜びました。やっと得体の知れない相手が分かり、自分だけが特殊じゃなかったことを知って安堵したのです。

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肩書き

「今度ぜひ、新聞の読者の投稿欄を注意して見てください。60代以上の男性の職業をみると、「無職」「年金生活者」「町内会長」「元会社役員」「元小学校校長」「執筆業」などさまざまです・・・」

大阪大学の石蔵文信先生の書いた「男もつらいよ(男性更年期)」の中の一節です。上に書いた職業のほぼ全員が「無職」だと思われるのに、男性はなぜか肩書きにしがみつくところがあると云うのです。その後わたしも時々新聞や雑誌の投稿欄を覗きみることにしています(昔はここを読むのが好きでしたが、最近は苦情やグチが多くなってきた感じであまり読まなくなりました)が、たしかに・・・学校教育のことを書いているわけじゃないのに「元教師」、地域の問題を書いているわけじゃないのに「元自治会長」・・・ありますね、たくさん。

その本の中で、男性の多くは出世やお金を人生の目的にしており必ずしもその先にある「幸せ」に向かって頑張っているわけではないので、退職すると目標を失うことになる、と云っています。現在進行形の肩書きはまだ理解できますが、辞めてしまったらもはや何の意味もない役職名に拠り所を求めざるを得ないのは、日本のオヤジの悲しいサガなのかもしれません。

先日わたしたちが企画担当した研究会で、発表者の役職名を全部消しました(必要ないかなと思って)が、ムカッとしている人が何人かいたかもしれませんね。

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ホッチキス

「書類が多くて失いそうだから、ホッチキスできちんと留めて送ってほしい」

先日、病院にあるアンケート箱にそんな要望が入っていました。奇しくもわたしは書類の束の隅に留められたホッチキスをひとつひとつ外しながら、そんな報告書を読んでいました。うちの健診結果の報告書も一部が冊子様になっています。その冊子は導入された時から真ん中でホッチキス止めされています。「市政便りや公文書の類が全部ホッチキスを除けようとしているこのご時世に、なんでホッチキスなんかをわざわざ使うの?」と事務方にクレームを云いに行ったら、利用者からの要望が多いのだと回答されました。

たしかに書類を区分し、なくさないようにまとめるのにホッチキスは便利です。でも、ホッチキスは捨てるときにとても厄介です。ゴミの分別化が一層細やかになりました。紙ゴミを捨てるに当たってホッチキスの針は全部取り外さなければなりません。個人情報はシュレッダー行きです。スチール製のホッチキスの針が1つで付いていようものなら一瞬にしてシュレッダーが壊れます。だから公文書や自治体の広報誌は折り曲げただけの冊子に代わったのだと認識しています。主目的の使いやすさを重視(お客様の要望に従って)する一方で、使用後の扱いの可能性まで目を向ける心配りがある方がカッコいいな、とわたしは思います。

ある食品会社の健診に出向いたとき、書類が全部紙のホッチキス留めでした。ホッチキスの針が食品ラインに混入したらいけないからです。たしかに使っているうちにポロポロ外れますが、それでもこれで十分だと思いました。

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さいごまでたたかう

Medical Tribune(2009.2.26号)に、東京大学病院の緩和ケア研究グループが行ったアンケート調査結果が載っていて、興味深く読みました。自分が末期がんになった場合にがんに対する「望ましい死」のあり方を問うたアンケートで、外来受診のがん患者、一般市民、がん診療に携わる医師、看護師で比較しています。

望ましい死の在り方として「さいごまで病気とたたかう」と答えた人は、患者81%、一般市民66%に対して医師19%、看護師30%でした。あるいは「死を意識せずふだんと同じように毎日を送れる」も各々88%、77%、44%、58%でした。一方で「残された時間を知っておく」(医師89%)「会いたい人に会っておく」(看護師92%)を重視した人は医療人の方に多かったそうです。これらの結果から、患者さんや一般市民は「自分らしさ」を重視しがんを患っても前向きに過ごすことが大事だと考え、医療従事者は「死に備える」覚悟をした上で終末期治療に臨むことを考える傾向にあると考察されています。

「死後の世界はある」「霊やたたりはある」を肯定した人が患者さんは2割強なのに看護師さんは4割以上あったというのは面白いと思いました。「死は怖い」と答えた人も患者さんや一般市民より医者で多かったそうです。

あくまでも考え方のアンケートですから実際はどうか分かりませんが、多くの死を看取ってきた医療従事者の方が物事をできるだけ客観的にとらえようとしていると察することはできます。・・・読みながら自分はどうかと考えましたが、死後の世界のことを除くとほとんどがん患者さんや一般市民の方の意見に近い気がしました。やっぱり、わたしはもはや医者じゃないのかも。

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アスタキサンチン

ある薬品メーカーの人からアスタキサンチンという物質を配合した新しいサプリメントの試供品をいただきました。

そのパンフレットによると、「アスタキサンチン」には強力な抗酸化作用があるのだそうです。抗酸化はすなわちアンチエイジングです。具体的には、細胞の炎症を抑え、潰瘍や筋肉の痛みを修繕し、体脂肪の増加を防ぎ、糖尿病を予防し・・・おそらくそれらの働きの中心は、動脈硬化を予防することで有名な脂肪ホルモン「アディポネクチン」が低下するのを抑えることによるのではないかと思いました。だから、現代病の代表「メタボリックシンドローム」の予防と治療に最適な健康補助食品(栄養補助食品)という謳い文句になるのでしょう。

そんなこと云われたって、「アスタキサンチン」なんて初めて聞くぞ!と思いながら家に持って帰ったら、家にあった牛乳屋の広告のトップに「食事・運動+この1本『毎日の健康習慣に』 話題の『アスタキサンチン4mg』配合!」と書かれた文字が目に入り、正直びっくりしました。わたしが知らなかっただけなのかしら。

アスタキサンチンは「赤色の色素」のようです。だから魚の赤身の一部はこれによるのかもしれません。この商品は藻から抽出する天然色素だから安全!というのも売りのようですが、多いのは鮭や甲殻類(カニ・エビなど)みたいですからアレルギーの人はちょっと危ないかもしれません。

「試してみて感想を!」と云われました(試供品だから当たり前ですか)が、試して直ぐに何かが変わるというのでしょうか?アディポネクチンの採血をするわけでもないのに。でも幸いなことに1週間後には職員健診があります。まさしく「渡りに船」です。とりあえず、せっかくいただいたので飲んでみましょう。

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ごはんは楽しみですか?

「子どもは育ち盛りだから栄養価の高いものをたくさん食べさせなきゃいけない」とか、「子どもは育ち盛りだから、一日三食はきちんと食べなきゃいけない」とか・・・ほとんど外で遊びもしていない子どもたちなのに、じいちゃんばあちゃんたちはいまだにそんなこと云ってます。もともと日本人はまず一仕事してから遅い朝飯を摂って、あとは夕食だったんです。だから小腹が空いた昼下がりに握り飯などの「おやつ」があったのです。今時は、三食どころか、10時のおやつと3時のおやつがあってさらに夜食まで摂ってそれ以外に間食です。子どもたちに限らず、現代人にはお腹が空いている時間帯なんてないのではないかと思います。

「ごはんは楽しみですか?」

心地よい空腹感があって、夕食が待ち遠しい状態。ダイエットのことなど気にせずに早く食卓に着きたい衝動。そんな期待感のある空腹感をみなさんは日々感じていますか?それは、イライラした空腹(飢餓感)とは全く違うものです。「食べること」を考えるとき、今の社会に一番足りない、そして一番大事なことは、そんな満足感なのではないかと思います。

BOOCSの藤野先生によれば、現代社会の子どもたちの諸症状(気力がない、頭がぼんやりしている、イライラする、怒りっぽい、疲れやすい、肩こりがある、朝起き辛い、朝食欲がない、あくびが出る)は、決して朝飯を食わないからではなく、インスタント食品や脂っこい食事、あるいは間食のジャンクフードの量と強い相関があるといいます。なぜかとても説得力のあるデータだと思いました。

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子どもは和食がキライ?

「子どもは魚を食べない。野菜はキライ。和食なんか食べないで、ハンバーグやカレーが好き。」というのは、単なる先入観ではないか?と、「BOOCS」の藤野先生は云います。

たしかに子どもたちは畑で穫りたてのニンジンをガリガリかじれば「おいしい!」と云います。旬の食材できちんと作った伝統的な野菜の煮物をキライと云わない子はたくさんいます。ところが、生まれたときからレトルトで育ち、冷凍野菜で育っているから(すでにお母さん世代から同じかも)、そんな死んだ味が当たり前と思い、本当の味を知らないまま舌がおかしくなっているのではないかと危惧します。うちの母は料理下手でした。働いていましたので、料理は毎日仕事から帰ってからでした。でも、まだレトルトなどボンカレーくらいしかなかった時代なので料理を手作りで作ってくれました。うちの妻は料理好きで旬の食材で簡単においしい料理を作ってくれます。この味の差は歴然で、明らかに食卓に並ぶ料理の種類と質が違いました。でもわたしは、母の料理、キライではありませんでした。旬のモノしかなかったからでしょうか。いい時代だったなと思います。

いつの間に、毎晩毎晩レストランで食べるような料理を求めるようになったのでしょう?これは欧米型の栄養学先行の弊害かもしれません。忙しいお母さんはどうしても出来合いやレトルトに頼らざるを得ません。初めから本当においしい和食の家庭料理が食卓の基本であったなら、お母さんが手料理をせざるを得ない環境であったなら、きっと子どもたちはそんな料理が好きになっただろうな、と思います。それだから、時々出てくるカレーや肉料理がうれしくておいしかったのに・・・。親にも子どもたちにもかわいそうな時代になったものだと思います。

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朝食(後編)

でも、現実問題として、夜中になるほど面白いテレビ番組があるのです。借りてきたビデオも見なければなりません。お父さん向けのニュース番組の主流はいつの間にか夜の7時ではなくて10時以降にシフトしました。ふと気付くと、誰もが夜更かしすることを前提にして社会が流れています。親が夜中まで起きてテレビやビデオを観ているのだから、狭い家で子どもだけ寝ていることは難しい相談です。だからみんなで夜更かしです。

義務感の朝食は返ってマイナス効果だ、と藤野先生は提案します。食事はお腹がすいたときに食べるものです。でも朝はきっとお腹がすいていません。「食べたい」とも思っていません。でも食べないといけないといわれるから食べているだけ。夜更かしする生活ならば、まだ脳が目覚めていないのだから、「朝食は、一日で最も遅い夜食だ」という藤野先生の主張の方が当を得ています。

そして、そんな朝に食べるものなのだから、何かきちんとした「食事」という固形食にこだわらなくてもいいのではないか、とも主張しています。頭も身体も起きていないということは胃も起きていません。寝ている胃に突然固形物を投げ込むのはあまりに酷というものです。うちの生後3ヶ月の子犬はドライフードを食べるとしゃっくりをします。お湯をかけて柔らかくするとそれが消えました。胃はそれくらいデリケートです。だから朝は水分中心の摂り方でも十分だという藤野先生の意見に、わたしは心から賛同できるのです。

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朝食(前編)

朝食はどうしても摂らなければいけないのか?

これは悩ましい問題です。ある町で小学生の父兄に生活習慣病についての話をするように依頼されました。そこは、町を上げて子どもたちに朝食を摂らせる運動を熱心に繰り広げている地区です。

「朝食を食べなければならないという義務感から自分を解放しよう」・・・健康のために朝食は摂らない!という生活を続けているわたしにとっては、「BOOCSダイエット」(朝日文庫)の藤野武彦先生のこの提案は簡単に理解できます。たしかに糖質を摂らないと脳にブドウ糖が行きませんから、脳の栄養失調をまねいて午前中ぼ~としている子どもたちが多い、というのも良くわかります。京都などで昔から食べられている「おめざ」はまさしくそんな一品でしょう。

でも、子どもたちが朝食を食べたがらない理由は、きっと食べたくないからだと思います。ダイエットのためというよりも、おいしくないからでしょう。なぜおいしくないのかというと、まだ頭も身体も起きてないからでしょう。そう考えると、栄養面の理由で朝食を摂るべきだと論ずる前に、頭と身体が朝食を摂る体勢になることが先決です。なぜ起きていないのか?答えはたぶん簡単です。きっと夜更かしするからです。「朝からしっかりご飯を食べる」というのは早寝早起きの習慣の下での常識です。昔、わたしが子どものころの夕食の時間は遅くても7時ころでした。子どもは9時にはテレビをやめて床につくものと教育されていました。毎晩、長い夜を寝疲れするほどに寝て過ごしたら、いやでも朝は腹が減って早くに目覚めます。それならきっと粗末な朝食でもおいしく食べられます。朝食を習慣化させたければ、まずは夜更かし習慣をどう解決させるかにかかるのだと思います。

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GI値と白米

昨年行われた日本心臓リハビリテーション学会のシンポジウムで食後高血糖管理の話がありました(京都大学 津田謹輔先生)。

GIはGlycemic index(グリセミック指数・血糖上昇指数)の略で、血糖の上がりやすさの指標です。同じ量の炭水化物でも血糖が急に上がったりゆっくり上がったりするものがあり、問題の「食後高血糖」を起こしやすいかどうかの指標として評価されています。1981年にJenkins(ジェンキンス)博士が提唱した考え方です。

GI値=(食品摂取時の血糖面積)/(基準食品摂取時の血糖面積)

基準になる食品(普通は「ブドウ糖」)が2時間の間に上昇させる血糖値の山の面積を100%にしたときに、ある食品の血糖値の山の面積が何%にあたるかということです。白米72とか、にんじん92とか、牛乳34などで、このGI値が低値なほど血糖の上がり方が緩やかになり、食後高血糖を起しにくいことになります。大豆食品であるソイジョイのCMにある「SOYJOYは低GI食品。」というキャッチコピーがまさしくこれ(大豆はGI値15)で、低GIの食品(0~55)を選ぶなら糖尿病も改善するといわれています。

さて、そんなGIの考え方ですが、日本での基準はブドウ糖ではなくてごはんであるべきだ、という考え方に私も賛成です。で、基準食品をごはんにしたらどうなるかという研究がなされたのですが、とても興味深いことに、ごはんを同じ人が同じ量だけ食べてみても、血糖の上がり方にかなりのばらつきがみられたのだそうです。つまり、ごはんをよく噛むほど、あるいはゆっくり時間をかけて食べるほど、血糖の上がり方は緩やかになるのです。何を食べるかではなく、どうやって食べるかで結果が違うというのは、とても面白いなと思いました。

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研修会の食事

先日あった某研究会の懇親会で、ある著名な先生が、「『和食と米飯を見直す』というテーマの研修会に行ってきたのですが、なんとその後の昼食バイキングでは若い参加者の多くがパンとコーヒーを食べていたのです。とても驚きましたが、現実とはそんなものです。」とスピーチされて参列者のみなさんを笑わせました。

わたしは以前、あるセミナーで「コーラがもたらす健康被害」についての感動的なお話を聞いたことがありますが、講演の後にロビーに出たら、我先にと自販機の前に並んで美味しそうにコーラを飲んでいるおばさんたちを見ました。よく見ると、それはまさしくさっき講演を聞きながら涙を流していた人たちでした。ことばで感じるものなんて、結局は他人事なんだなと痛感したのを覚えています。

最近はかなり改善しましたが、以前は総合健診学会や人間ドック学会のランチョンセミナー(昼休みに各メーカーが行うセミナー)のお弁当が異常に豪華でした。医療関係者(特に医者)の弁当付き説明会は超豪華弁当のことが多いのは事実ですが、さすがに健康を考える学会の弁当でこれでは、まるで反面教師だなと思って閉口したものです。

あるメタボリックシンドロームの講演を頼まれたとき、昼食の準備もしますと云われました。こんなとき準備されるお弁当はとても豪華なことが常なので、「わたしは昼はあまり量を食べないから」と断ったら、わざわざ上にぎり寿司を注文されて、返って恐縮したこともあります。

うるさい偏屈じじいになりたくはないですが、本音と建て前に生じる差がもう少し小さくなることを念じて止みません。

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腹囲測定が始まった!

うちの職場の職員健診は、一般の受診者が少なくなるこの季節に行われます。平成20年度から始まった特定健診(通称「メタボ健診」)の花形である腹囲測定が正式に始まりました。

診察をしたときにときどき職員さんに感想を聞きますが、多くの人が誤解しています。「妙なところで測るんですよ。なんか下の方で。」「はい。臍の上を測るのが決まりですから。」「いや、臍の下で測ってます。」「あ、いやそう言う意味ではなくて、『臍の高さ』で測るんです。」「わたしのズボンはウエスト82cmなのに、91cmと云われたんですよ。」「ズボンのウエストとは全く違いますよ。」・・・医療従事者だからそれくらいのこと当然知っていると思っていました。そりゃ、事務の人が知らないのはまだ分かりますが、納得がいかないという渋い顔で首をしかめているドクターを見ると、この病院は大丈夫かな?と心配になります。逆にいえば、まだまだ一般の人が知らなくてもやむを得ないのかもしれませんね。啓蒙不足は否めない事実です!

さてわたしの健診もあと2週間後です。今、必死で悪あがきしていますが、きっと85cm以下にはなりません。高血圧の治療をしていますから、たとえ「わたしの内臓脂肪はCT検査で少ないことを確認しているんだ!」と主張したとしても、きっと指定された保健師さんに拉致されることになるのでしょう。どんな指導をしてくれるのか、ちょっと楽しみです。

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おれがおれが

「大分の人はみんな優しかもんな。熊本のモンのごつ、『おれがおれが』て人を押しのけて出しゃばる人は大分には少なかですもんね。人間が上品ですもん・・・。」

よく参加させていただくゴルフコンペのメンバーの一人が、先日の宴会のときにわたしにそう話しかけました。わたしが彼からみるとそんな風にみえるということかしら。それは「上品」というのではなくて「優柔不断」とか「自主性がない」とか、そういうのではないのかしら?とついつい思ってしまいますが、少なくとも外から見た大分はそんな感じ方なのでしょうか。

熊本出身の運動選手、松野明美・古閑美保・上田桃子を見ていると、たしかに一流になるには「わたしがわたしが」でなければならないのかもしれません。「おれがおれが」は自己主張が強い人と思われ勝ちですが、一方でリーダーシップがあってお節介、集団をグイグイ引っ張っていくタイプとも考えられます。そういう点では、まさしく「おれがおれが」のイメージに合う人は大分より熊本に多いような気はします。「大分県民は個人主義者が多い」という意見を聞いたことがあります。「他人のことには干渉しないから、自分のことにも干渉しないでくれ」というタイプです。以前大分駅前からタクシーに乗ったときに、大阪から来たばかりだという運転手さんがそんな大分県民性をずっとぼやいていました。・・・考えてみると、わたしもきっとこんなタイプだな、と思わないでもありません。・・・世の大分県民の皆さんはどうお感じでしょうか?

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大分

大分市に生まれて、高校を卒業するまでずっと大分で育ちました。のどかな田園風景の中に1学年2クラスしかない小さな小学校があり、校庭には大きな楠の木が生えていました。そんな海に近い田舎の地に父が家を建てたのは、わたしがまだ3歳くらいのころでした。今も残っている実家の家は、高校2年生のときに建て直したものです。

ふるさとの「大分」はあまり好きではありませんでした。取り立てて取り柄がない土地のような気がしていました。大学から熊本に住むようになって、一層劣等感を感じるようになりました。熊本は、街の大きさも然ることながら、生き方にメリハリがあり自信をもっている人が多い印象でした。自己主張をあまりしないのが大分の県民性なのかもしれません。大分には「革新県」のイメージがありますが、文化については行政主導のいつもトップダウン方式のような気がしていました。現場から自然発生的に生まれてきたものではない、よそ者文化の植え付け方のような気がして、いつも反発していました。

いろいろと深い縁があって、最近は良く大分に帰ります。「そんなに大分は良いかい?」「愛人でもいるのかい?」と云われながら、足繁く行き来するようになりました。いつしか大分の文化が好きになりました。それが行政トップダウンであれ自然発生であれ、そこに根付いた文化が人々の足元にしっかりと根を広げてつながり合っている印象を受け、とても羨ましく感じます。そしてふと気付くと、わたしはどこにも属さない根無し草の様相で、なにか一気に凹んでしまうのであります。

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それぞれの時間

先日、妻と待ち合わせをしました。

「12時30分に○○の前で!」・・・他の用事で出ていたわたしは30分ほど歩いて12時20分に目的地に着きました。「良かった。何とか時間に間に合ったね。」と独り言を云いながらほのかにかいた汗を拭きながら待つことにしました。でも12時30分になっても待ち人は来ません。ちょっと寒くなってきたので、一度脱いだセーターを着込みました。

「お待たせ~。ちょうど良かったね!」と云いながら義母と一緒に妻が自家用車で到着したのは12時40分でした。わたしはそのまま車に乗り込んで目的地へ。この20分間のズレはわたしたちの間では別に話題になりません。なぜなら、いつものことですから。わたしは目的の時間の10~15分前に照準を合わせます。いつも余裕をかませる時間配分をするので遠距離になると思いの外順調にいきすぎて、1時間も前に着いたりしたこともあります。一方、妻の家系は目的の時間の10~15分後に照準を合わせます。ヘタをすると待ち合わせ時間に家を出たりします。つまり、わたしの云う「12時30分」は「12時15分~12時30分」のことであり、彼女の云う「12時30分」は「12時30分~12時45分」のことなのであります。

標準時のズレが初めから分かっているのですから、神経をとがらせる必要はありません。むしろ、わたしが初めから15分くらい照準を遅らせて行動すると良いのでしょうが、これができないんです。性分というヤツでしょうか。だから長く待つのが常ですが、時間潰しの準備さえしておけば別に苦痛ではありません。意外に充実した時間を過ごせます。

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大麻とタバコの問題

大相撲力士の大麻騒動。京大生の大麻所持。いまだに続いています。ラグビーの日本選手権ではとうとう東芝が不祥事を理由に出場辞退してしまって、寂しい限りです。

お相撲なんて、あれだけ問題になっている最中にどうして吸っちゃうんだろう?とか思いますが、でも飲酒運転による事故もいまだに後を絶たないわけで、まあやっちゃうバカはどうしようもないんだろうなと思います。

ただ、以前(2008.11.13)も書きました(http://satoritorinita.cocolog-nifty.com/satoritorinita/2008/11/m-0da2.html)が、大麻事件の話になるとムカムカします。大麻事件を扱った報道番組や討論番組がこれだけたくさんあるのに、とても良識のある文化人や怖いものなしの毒舌タレントが出ているのに、そして彼らが口を揃えて「大麻は犯罪だ」と非難しているのに、どうしてタバコの話題に一切触れないのでしょうか?先日「『大麻はタバコよりはるかに安全だ』とか云って正当化する意見は詭弁だ!」とある弁護士さんが顔を真っ赤にして話しているのを見ましたが、でもそこまでなのです。違うでしょ!「『大麻はタバコよりはるかに安全だ』ということは、国が認めているタバコはもの凄い毒物だということを証明しているようなものなのだから、この機会にタバコも取り締まることを検討したらどうか?」という人が一人くらいいるのが当たり前でしょう。

現代社会はスポンサーでもっています。あるネットビジネスがバッシングを受けたときも影には影響を受けた化粧品メーカーが糸を引いていたと噂されました。タバコ産業はもっと深く政治家が関わっていますから露骨です。それは十分分かっているつもりです。それでも、一人くらい良識を貫くタレントがいそうなものだと思うのですが・・・考えが甘いのでしょうか。

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電子タバコ

電子タバコというものの存在自体は何となく聞いたことがありましたが、先日のゴルフで一緒に回った社長さんが使っていて、初めて実物を見せてもらいました。

専用カートリッジに液体が入っており、それに噴霧器になっている本体と充電した電池とをつないでセットすると、あたかもタバコのような形になります。これを吸い口から吸うと水蒸気の煙が出ます。なかなか優れものです。ニコチンがカートリッジの中に含まれていますが、一酸化炭素やタールなどの発がん性物質が含まれていませんし、火を使わないから火事にもなりません。ニコチン含有量を少しずつ減らしていくと禁煙にもつなげられるというわけです。一方、煙は出ますがただの水蒸気ですから臭いはしません。副流煙の心配もなく、周りの人にも不快を与えません。それなりに高い買い物ですが、それだけの価値はありそうだと思います。禁煙に興味のある人には朗報かもしれません(http://cris-kansai.jp/)。日本製の電子タバコ「TaEco(タエコ)」というのが日本では売れ筋のようです。

さて、くだんの社長さんですが、ついこないだまで禁煙なんか絶対しない!と云っていました(http://satoritorinita.cocolog-nifty.com/satoritorinita/2008/01/post_1375.html)ので、ちょっと可笑しかったですが、でも何かが変わって行動に移したのだとしたら素晴らしいことです。かわいらしい娘さんが何か云ったのかもしれません。数回に1回、タバコの臭いがしました。キャディさんが「これって臭いもするんですか?」と目を丸くして驚いていました。「今はホントのタバコ吸ってるんでしょ?」と同伴のメンバー。「やっぱイライラするときは本物吸わないとね」・・・ま、それでも全然良いと思います。

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「いい医師とは」

日経メディカルオンライン(2009.2.13)に載っていた「東大医学生の“いい医師”の定義に背筋凍る」という記事に目がとまりました。書いたのは医業経営コンサルタントの高月清司(こうづききよし)という人です。

2月4日に亀田総合病院で行われた「明日の臨床研修制度を考えるシンポジウム」の冒頭で、ある東大医学生が「いいお医者さんとは、うまい、つよい、えらいの3つの言葉で言い表せる」と云ったのを聞いて、「うそだろう?」と耳を疑ったというのです。筆者が医療訴訟の現場で感じる、必ず患者とトラブルを起こす医師のイメージこそ、その「うまい、つよい、えらい」で言い表せるからでした。筆者の云うとおり、「いい医師」は「患者にやさしいお医者さん」だというのが一般社会の常識的感覚だと思いますし、患者の視線でモノを考え、患者の言葉で話すことができ、患者の家族に配慮できる医師なら、医療ミスを犯しても訴訟にはならない、という意見も全く同感です。一時期(今でもたくさんいますが)、病気になったらできるだけその病気の権威でできるだけ地位が高い医者にかかりたい、という風潮がありました。今、わたしが病院受診のことでアドバイスを求められたら、必ず「権威とか地位とかを気にせず、あなたとウマが合う人を捜してください。一生付き合う人なのですから、気兼ねしてガマンしていては治るものも治りません。」と答えています。

発表された東大医学生にその場で質問をし、「つよさの中に秘めた優しさ」など、大変満足のいくお答えをいただきました、というフォローのコメントが最後に付いていましたが、おそらくその質問がなければ筆者と同じように感じた人は少なくなかったでしょう。それを聞いた他の医者たちはどう感じたのか、ちょっと興味があります。

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らくらく心電図トレーニングDS

注文してもう3週間。忘れかけていましたが、先日無事に届きました。かなりの人気で初期予約完売のため重版しないと足りないようです。

「らくらく心電図トレーニングDS」

これはDSを使って医療従事者が不整脈を勉強するソフトです。副題は「DSソフトで心電図漬け これで心電図診断のプロになる」・・・まだ一度しか使ってみていませんが、初めて心電図を学ぶ初心者からかなりのプロフェッショナルまでが利用できるようになっているようです。フィードバック学習ができ、ランダム出題で選択肢は毎回変化する、と書いてあります。初版は「不整脈」シリーズのようですが、解説書に書かれた不整脈の用語はかなり専門的に整理されています。これはなかなかの優れものだと直感しました。ちなみにわたしく、初級編10問で2問も間違えました。ちょっと悔しいです。

世間で話題になった(もちろんわたしも利用した)「脳トレ」(脳を鍛える大人のDSトレーニング)とは基本的に違って、明らかに教育用ソフトです。・・・心電図が苦手だった人は是非使ってみてください。きっとこれが一定の評価を受けるようになったら次のシリーズや他の分野の医療教育ソフトが続々と出るだろうと推測できます。楽しみです。

ニンテンドウDS恐るべしです。ただ、医療用だからとはいえ、願わくばもうちょっと安い方がいいですね。

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肥満細胞

「肥満細胞」は脂肪細胞とは別ものですよね?

ある看護師さんに質問されました。「肥満細胞」?何か昔覚えていた記憶。それと別につい最近聞いた記憶。・・・自分の記憶細胞がどんどんなくなっていく昨今、耳慣れているようで知識を整理できない単語が出てきました。こんなときは迷わず検索!直ちに答えを出してくれました。

『肥満細胞(ひまんさいぼう)は哺乳類の粘膜下組織や結合組織などに存在する造血幹細胞由来の細胞。マスト細胞 ( mast cell ) ともいう。ランゲルハンス細胞とともに炎症や免疫反応などの生体防御機構に重要な役割を持つ。・・・』(Wikipedia)

そうです、そうです。免疫学で学びました。アレルギーの代表的な細胞です。リンパ球のB細胞というものから作られたIgEが肥満細胞にくっ付くことでI型アレルギー反応が起きて、ヒスタミンを出すからアレルギー性鼻炎が起きるのです。これからシーズンの花粉症で本領発揮する細胞です。漠然とですが、「顔を」少し思い出してきました。

で、実は最近お目にかかった「肥満細胞」はちょっと別ものです。イヌやネコに起きやすい「肥満細胞腫」というものです。イヌの皮膚悪性腫瘍の代表でそれなりに多い病気です。人間のそれと同じ「肥満細胞」が腫瘍化するわけです。昨年、義母と住んでいるパピヨンがこの病気のために手術しました。うちのワンも先日これではないかと心配しました。免疫系の細胞が腫瘍化するというのは、やはり化学物質や食べ物といった現代社会の弊害なのでしょうか。

・・・ところで、何も考えずにすぐ検索は、どうよ?と自問自答。物忘れと老化に一層拍車をかける結果となったりして・・・。

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肥満治療のカリスマ

先日行われた熊本生活習慣病研究会で特別講演にお招きした京都市立病院の吉田俊秀先生の熱いお話を聴きました。毎日70~100人の肥満外来をこなしながら93%の減量成功率を誇っている吉田先生の話を総合的に評価をするなら、「ほとんどわたしが毎日やってることと変わりないな」でした♪

例によって、講師の語録から気になったフレーズを記録しておきましょう。

●肥満になる原因をみつけて納得させてからでないと、肥満治療は始めない。●「肥満症」を「健康な肥満」にするための治療であり、標準体重を求めているのではない。脂肪細胞が5%減れば、アディポサイトカインはほとんど正常化する。●アルコールは必ず内臓脂肪を増やす。●ダイエットの一番の敵は「小さなストレス」!大きなストレスはやせ細させるが小さなストレスは太る(必ず甘いものやアルコールに走る)。●イヤなことを云われたら、①その場を離れる→売り言葉に買い言葉、即答を避ける!②相手の鼻を見て聞く。③常にポジティブ思考!●3ヶ月間頑張ったら、後は「普通の人」と同じ様に食えるようになれる!「前と同じように」ではない。「普通の人」である。●小さな声で「頑張ります」では頑張らない。大声で「頑張ります!」と云わせること。

アルコール・・・のクダリには思わずため息がでました。興味のある方は、先生の「夜キャベツダイエット」を試してみては?

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梅酒

酒を飲みに行って、ときどき梅酒を注文するようになりました。梅酒なんて酒じゃない!と思っていましたが、友人が頼むので一緒に注文したのがきっかけでした。・・・美味しかった。そして、梅酒は種類が多いことも知りました。焼酎からも日本酒からも作れること、その質はピンキリだということも酒飲みの知り合いたちに教えてもらいました。

わたしの実家には、庭作りが好きだった父が植えた古い梅の木があります。季節になるとたくさんの梅の実がつきます。は、教師の仕事を退職して胃がんで死ぬまでの短い期間に、その梅の実を使って梅酒を作っていました。でも、残念ながらそれを飲んだ記憶がありません。ちょうど大学時代で実家から離れていたからかもしれませんし、そんな甘ったるいモノなんか飲まない!と突っ張っていたからなのかもしれません。

酒飲みだった父も母の作った梅酒はあまり飲まなかったと記憶します。母が亡くなったとき、母が作った梅酒を壺5、6個分捨てたのを覚えています。亡くなったのが5月ですので、あのときの梅は、その前年(まだ入院する前)のものだったのかしら?20年ほどしてが亡くなった後、家の片づけをしていたら納戸の奥深くに山積みされた壺がみつかりました。もはや主の居なくなった家には必要のないものだと判断して壺を処分しました。何か、深い思い出の残った存在が消えていく感じがしました。

母の作った梅酒はどんな味だったんだろうか?飲んでおけばよかったなと今になって思います。そして今、人に貸している実家の庭の梅の木はもう実を付けなくなったのだろうか?・・・やっと花が付き始めた我が家の小さな枝垂れ梅を見ながら、そんなことを思いました。

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SVR理論

心理学者マースティンという人の「SVR理論」(1972)というものをご存知ですか?

初対面の男女が親密になるまでには3段階の発展段階があり、各々の段階において2人が重視する内容や関係にズレが出てくると、その関係を続けにくくなったり、たとえ結婚しても早々に離婚してしまうというのです。逆にこの3つのステップをきちんとこなしていけば結婚に失敗は少ないと括っています。

●第一段階=刺激(Stimulus)ステージ:出会いのとき、人は身体的、行動的特徴や社会的地位に心を惹かれる。外見(容姿や地位など)の<刺激>がその後の進展を決める。

●第二段階=価値(Value)ステージ:「初期の接触」段階では<価値観>が似ていることが重要になる。趣味や好み、意見の一致などの共通点が見出されると心が惹かれてもっと親しくなりたいと願うようになる。

●第三段階=役割(Role)ステージ:さらに親密になると共同作業・共同行動の場での2人の<役割関係>が重要になる。お互いにお互いを補い合う関係になる。2人の課題にしっかり向かい合える関係になれると真の親密な関係になれる。

聖バレンタイン・デーなので、ガラにもなくこんな記事にしてみました。先日、妻が職場の上司からこの理論を書いてある本のコピーをもらってきました。「うちは第二段階が抜け落ちていたのよね、きっと」と云いました。・・・なるほど。

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「ニンジンから宇宙へ」

これもわたしが「変わり者の医者」になるきっかけになった本です。7年ほど前に友人から薦められて読みましたが、生きとし生けるものの生命力の大切さと深刻さを痛感した記憶があります。久しぶりに書棚から出して読んでみたくなりました。

書いたのは大分県野津町の「なずな園」というところで農業を営んでいる赤峰勝人さんです。生きるべきものが「生きていない」ことを嘆いています。「今の地球で、いちばん壊れているもの。いちばん、修復しなければならないもの。それは、循環です。」「循環しているのは何でしょうか。そう、「命」です。命のエネルギーが循環しているのです。」「この宇宙の中で、循環していないものはすべて間違っている。」・・・皆さんは、これを読んで何を云っているのかわかりますか?・・・こんなことはわたしたちが医学教育を受けた昔、自然界では当たり前の常識だった気がします。「食物連鎖」ということばを知らない若者が思いの外多いのに愕然とします。わたしが学生のころ、自然界はこの食物連鎖があるから成立しているのであり、どこで切れても生物のバランスは必ず壊れる、と教わりました。これこそ「循環」の最たるものでしょう。

でも今、循環などしていません。不衛生だからという理由で水洗トイレにした時点から連鎖はありません。自然の浄化力も消失しました。だから食べ物は生きていません。主成分を元に「効率のよい食品」を工場で作るようになって、見た目が同じ様に見えても私たちが昔食べたことのあるものとは全く違うことを実感します。「塩」は塩化ナトリウムとイコールではありません。塩化ナトリウムと違って自然塩では高血圧にならないとまで云われます。雑草はムダな草ではありません。草は土の中からカルシウムを集める仕事をしています。人間のカラダも含めて、自然界にムダなものなど存在しないのだということをこの本で教わりました。

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食べ物は生き物、生き物は命

標準的な「医者の常識」で生きていたわたしが、食に疑問を抱き始めたのは10年くらい前のことです。常識や定説には必ず逆説があり、そちらの方が納得がいくことも少なくないことを知りました。

西日本新聞に連載されて、本としても発行されている「食卓の向こう側」という特集があります。2003.12.17に<プロローグ こんな日常どう思いますか?>という問いかけから始まったこの連載も昨年12月には第12部に突入しています(まだ続いていることに感動です)。わたしは、数年前に職場のスタッフに借りて初めて読みました。食に対する取材陣の熱い想いがひしひしと伝わってきます。かなりのことは知っていたつもりのわたしですら耳を疑いショックを受けた内容はいくつもありましたが、それでも、この現実を肯定できる自分の感性に安堵しました。

最近の食は「呆食」=好きなものだけを食べているバカ/家庭の食卓はファミレスではない/お母さんが食べるものでオッパイの味は変わる/無くなってしまった旬を取り戻せ/米食・牛乳=できあがった固定観念はなかなか変えられない/「食事はただ肉体に栄養を補給するだけではなく、心を育てる糧でなければならない(道元)」・・・講演に使った哲学的な語録は数知れません。中でも一番好きだったことばが「食べ物は生き物、生き物は命」!生きてないものばかりを選んで口にしている現代人に生きている細胞ができるはずがありません。成分表の添付された「工業製品」を食べても命のエネルギーを吹き込めるはずがありません。ちょっと過激ですが、そんな当たり前のことを皆が忘れていることに強い危機感を感じる者のひとりです。

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マンガ

わたしの尊敬する恩師は、常に情熱的で学問に貪欲で常に患者さんの立場に立ち、そしていつも部下や病院の5年後10年後を見据えた提言をする人でした。カリスマ中のカリスマですが、世間のカリスマにありがちなワンマンプレーではなく、部下や周りの人間の幸せを常に考えている人でした。止まることを知らず、だから人生のサイクルが普通よりはるかに早かったのだと思います。生まれてからこの方、わたしが関わってきた人の中で、この人はやはり全く別格であったと思います。

ただ、意外にもそんな革新的な彼が、頑なに拒んでいたのがマンガ本です。わたしたちはよくマンガ誌を回し読みしていました。「大の大人が、しかも医者の君たちが、マンガなんか読むなんて信じられん!」・・・彼はいつも強い口調で叱責していました。「今は歴史書や哲学書もマンガの方が分かり易いモノがたくさんあるのですよ」と進言しましたが、全く聞く耳を持ちませんでした。マンガは子どもの読み物・・・他の事に関しては、あれだけ柔軟で発展的な考え方をしている人なのに、その決め付けを最後まで曲げませんでした。今考えても、あれだけは不思議です。

それはともかくとして、本当に最近のマンガ本はセンスがあって大人が読んでも面白いと思います。某病院の当直中にバカボンドやピンポンの全集を読んでいたら、いつの間にか夜が明けたことがありました。友人は「神の雫」を読んでワインに嵌りました。マンガは決して暇つぶしで読むものではありません。ただ、正直なところ最近の自分はあまりマンガを読みません(大人のマンガも含めて)。なんか、妙に面倒くさいのです。小説を読む方がはるかに楽です。これが「オヤジの証明」というものならさびしい限りです。

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エビデンス

先日行われた九州予防医学研究会で、「肺がんに対する(低線量)CT検診」の意義についての講演を聴きました。

今や、肺がんは胃がんを越えてがん死亡のトップになりました。CT検査は胸部レントゲンでは見つけられないような小さな肺がんを見つけ出すことができます。最近は肺の端の方のがんが増えていますが、これは症状がないためつい発見が遅れ、その点でもCT検査は有効だと思われます。うちの施設でも、肺がん検診としてのCT検査を受ける人は少なくありません。被曝のことを考えて通常のCT検査のときよりもかなり低い放射線量で撮影をします。

ところが、実はこの低線量CT検診は必ずしも肺がんの死亡率を低下させるかどうかはっきりしていないのです。この検査で1~2cm程度の小さながんを早く見つけ出したとしても、統計学的には受けなかった人と死亡率に差がないというのです。なのに、病気でもないのに放射線を浴びて被曝するのは、デメリットだけしかない可能性も否定できません。だから、人間ドックなどで肺CT検査をするときは、「必ずしも死亡率を下げないことや被曝することで健康を害する可能性もあることをきちんと説明した上で、それでも受けると云う人にだけこの検査をしなさい!」と国のお役人はうるさくそう云っています。

2年ほど前、国立がんセンターの呼吸器外科の先生の講義を受けました。彼は、「肺がんで死なない唯一の方法は、『タバコを吸わずに年1回肺CT検査を受けること』のみ」と云い切りました。つまり、確率論から云えば肺CTは決め手がない。でも一人の人間が生きようと思ったとき肺CTしか確実なことはない、とこういうことです。自分ならどうするか?自分で選択するしかありません。

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わかっちゃいるけど・・・

「『わかっちゃいるけどやめられない!』があるから人間は倒れないでいられる。」

というのはまさしく真理だなと思います。メタボの生活療法はいつもこの煩悩との戦いです。「わかってるんですけど、つい食べちゃうんですよね。」・・・そういう言い訳はつまり「本当はわかってないのだ!わかった気になっているだけで、もし本当にわかってたらするはずがない!」と、わたし達健診スタッフはそんな皮肉っぽいことばで叱咤激励しています。

でも、これは完全に逃げ道を塞ぐことばです。日本国民はいわば一億総儒学者、あるいは総修行僧です。子どもの頃から見事に教育されていますから、あるべき姿から外れると、「自分はダメだ」「根性がない」と勝手に悩みます。最近の若い子達は新人類だから違うと云われますが、「関係ねえよ」とうそぶいている彼らも内心「ヤバイ」と思うのであります。日本の教育は本当に素晴らしい(=恐ろしい)と認めざるを得ません。

わかっちゃいるけどやめられない!・・・そんな煩悩に対してガマンしてガマンして「頑張る」日本国民。頑張った末に成果が出たとき、何が起きるのでしょう?きちんと悟りを開けたのでない限りは、最終的にココロが壊れる危険性があるように思います。で、わたしは、おかげさまでまだ壊れていません。悟ったのではなく、きっと壊れるところまで突き詰められないのでしょう。

先日宴会のあとに、久々に締めのラーメンを食べました。「メタボの道まっしぐらですよ」と保健師さんにはお目玉を食いましたが、やっぱり締めのラーメンは格別に美味しい♪

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脳疲労

藤野武彦先生の「BOOCSダイエット」にちょっと嵌りそうです。3年前に「健康のためには朝食を取らない」の小山内博先生の理論に嵌って以来、久しぶりに「面白そうだ」と思う理論に出会いました。こういう人たちの著書の特徴は、とても文章がわかりやすいということです。分厚い本なのに気が付いたら一気に読み上げてしまうのは、内容も文章もわかりやすいからだと思います。

BOOCS法とは脳疲労解消法。ですから、この「脳疲労」の理論を理解してしまえばいいことになります。貝原益軒の「養生訓」のごとく、「節制こそが人の道」というのが日本人の好む人間道でしょうが、ストレスだらけの現代社会ではそうはいきません。「わかっちゃいるけどやめられない!」でやっと持っているバランスなのです。無理してやめたら、良くなるどころかバランスがバラバラになる。「ストレスをつくる生活改善は改善にならない」「生活習慣の乱れを直すのではなく、生活習慣の乱れを作る原因を直す」という理論。・・・ん~わたしの文章がわかりにくいですね。

「一日一快食:ワクワクした空腹感を感じそのときに食べたいものを満足行くまで食べる」・・・この理論をダイエットに頑張っているすべての人に捧げたい。でも、我慢しながらギリギリで頑張っている皆さんに熱く語ってみたものの、「それを今のわたしにさせたら今までの努力が水の泡。前よりずっと膨らんでしまうこと請け合い!」と云って聞き流されてしまいました。小山内先生の理論もそうですが、面白いのに意外に普遍化しないのはなぜなのでしょう?する人が信じ切れずに中途半端にやっているか、指導者たちが眉唾物の理論に聞く耳を持たないのか・・・?

ちなみに、わたしも試してみたいのですが、すでに今やっていることがBOOCSの「二原理三原則」に合致してしまっているから、今さら変えるものがないんです。

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甲子園

わたしの出身高校が春の高校選抜野球に出場します。後援会や野球部OBは何十年ぶりかの甲子園出場に躍起になっているようすですが、わたしの気持ちはあまり高揚しません。

わたしの人生の思い出の中で、残念ながら高校時代だけがすっぽりと抜けています。学校や校区中に名の知れた優等生でありながら、影で同級生に陰湿ないじめをしたり親の金を盗んだりしていた小学校時代。街中にある某附属中学に進学したがために、田舎者の劣等感にさいなまれよそ者感覚を自分の中からぬぐい去れないまま、友にココロを許すことができなかった中学時代(それでも中学時代の友人たちとのつき合いが今でも深いのは不思議です。父の葬儀や相続の手続きなどのときには一番力になってくれました。「友人」っていいなと思いました)は、妙な虚勢ばかりを張って生きていた気がします。

「高校に上がったらクラブ活動せずに勉強しなさい」といわれた高校時代ですが、結局電車(現JR)通学の帰宅部は、途中どこに寄るでもなく、家に帰ってから遊ぶ友人が居るでもなく、かといって勉強するでもなく、ただただ一人漠然と生きていました。よそ者感覚は中学時代の比ではなかったように思います。「幼なじみ」とか「高校からの悪友」とかいう青春ドラマのそんな響きに憧れながら、良きにつけ悪しきにつけ、高校時代の三年間に想い出が何も残っていないのは、もったいないばかりです。

そんなこととは無関係に、春の選抜、是非旋風を巻き起こしてほしいと思います。

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聞く耳

毎日読んでいる好きなブログがあります。以前「マザーテレサのことば」を紹介したブログです。先日、またとても心に残った文章がありました。

   そんなこと知ってる

   と思った途端、新しいことはなにひとつ入ってこない。

   知ってると思った途端に好奇心は消える。

   そのとき自分は傲慢。

本人の許可も得ずに転載していますが、この4行を読んだ瞬間にグサリと胸に何かが刺さり、見事にはまりました。人の話を聞くとき、「聞く耳」を持てなければまさしくそれまで。聞く耳を持とうと思って聞き始めても、「ギャンことくらい、分かっとっタイ!」と思ったら、もうその後にその人が何を話そうとほとんどアタマの中を素通りしています。そんなことはありませんか?わたしはきっといつもそうです。相手が目上の人や偉い人なら尚のことです。学会に行っても、「これは知っている」と思った瞬間からアタマが他に移っていくのがわかります。

これはそのまま逆にも当てはまるのだということを忘れないようにしたいものです。わたしが人に説明するとき、分かり切ったこと、毎年聞かされていること、そんなフレーズがわずかでも相手のアタマをかすめたら、相手が再びわたしのことばにアタマを戻してくれる可能性は極端に低くなるのだということです。

とても深いことばとして肝に銘じておこうと思いました。

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新美南吉童話集

わたしの新美南吉のイメージは、「端正な甘いマスク」。29歳で亡くなっていることもあって何か軟弱な優男の印象があり、実はあまり興味がありませんでした(わたしは面食いですが、元気が良いことが必須条件なのです)。もっとも、「童話なんて子どものお遊び」という先入観があったからかもしれません。

先日NHKラジオで新美南吉の紹介(以前「家守綺譚」の紹介をした番組)を聴いて、急に読んでみたくなり、代表作14編を集めた小さな文庫本(岩波文庫)を手に入れました。少々不思議な感じがしました。「童話」って子どもたちに読ませる教訓を交えた寓話だと解釈していましたが、新美南吉のそれの多くは童話というよりも小説、あるいは随筆のようなものです。子どもより大人の方が感じるものが多いように思いました。

ごん狐」や「手袋を買いに」はこんなにタンパクな文章だとは思いませんでした。むしろ世間にある解説文の方がはるかに劇的にオチを紹介しています。そっちを読んでなかったら、「だから何?」と云いたくなるようなメリハリのない文章でした。「牛をつないだ椿の木」は国語の教科書か何かで読んだことがあります。子どものころ、「なんと道徳的な話だろう、世の中そうは甘くないぞ」と思った記憶があります。不思議なものです。同じものを読んで、今は「自分のことばかり考えている人生を送っても徳はないな」と思うようになった自分があります。「百姓の足、坊さんの足」「花のき村と盗人たち」は本当に「心の純粋さ」っていいなと感じました。子どものころに感じてほしい感覚をむしろこの歳になって切々と感じるようになるというのは、やはり人生経験でしょうか。

今だから、読んで感じられる、そんな本のように思いました。長くなったので、一番好きだった「屁」と二番目に好きだった「狐」の話は止めておきましょう。読んでみたくなった方は、この機会に是非。出合いは縁です。

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認知症になりにくい人

ある医学誌(Neurology 2009;72)に「社交的でストレスを受けにくい人は認知症になりにくい」という報告がありました。以前から、神経質・几帳面な人は呆けやすく、社交的・外向的な生活をしている人は呆けにくい、というのは云われてきていましたので、これを実証した論文のように思われます。

「外向的」「精神的に穏やか」は認知症発症リスクを下げる因子、「内向的・社会的孤立」「神経質」はリスクを上げる因子だそうです。「外向的だが神経質」は「外向的で穏やか」の2倍のリスク、あるいは「内向的でも穏やかな人」はリスクが下がるのだとか。だから、ストレスの多い現代社会ではいつも冷静さを保ち感情を安定させましょう、日頃から社交的な生活を送り楽観的になりましょう、と云うのです。

手足が短いと認知症リスクが高い」という論文が出たこともあります。「友人が多いと血圧が下がる」という論文もありました。

以前も書いたことがありますが、こういうのは結果として知ったところでどうしろと云うのでしょうね。人付き合いが苦手な人にとっては「社交的な生活」を意識するのは本当にストレスです。こころが休まりません。神経質・悲観的な性格をもっとずぼらにして楽観的にさせようと頑張ったところで、そう180度変わるとは思えません。まさしく認知症第一候補のような性格のわたしにとって、それはとても残念な結果を教えてもらったにすぎません。変えられない自分が不甲斐なくて、「いらん世話じゃ!」とちょっと毒づいてみたくなりました。

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ジャマイカ精神

「巨人性うつと阪神性不安」(石蔵文信著)は、文章がとても面白い。巨人ファンと阪神ファンのファン心理の特徴をうまく捉えて、「あるあるあるある」と机を叩きそうなエピソードのまぶし方が絶妙で、さらに関西人特有の軽いタッチの割り切り方が心地よいのです。わたしもこんな文章を書いてみたいな、と思うのです(内容よりも文面に憧れる、って医者としてどうよ?)。是非とも、うつで悩んでいる皆さんやパニック障害・不安神経症で通院している方は読んでみてください。「そうそう!わかる!」と妙に元気良く相づちを打てると思います。

ご多分に漏れず、わたしは典型的な「巨人型うつ」パターンです。巨人には何の興味もないのですが・・・。ちゃんとできて当たり前。成功はしたけどちょっと気になる部分があると何故そうなったかを解決させないと落ち着きません。その一方で、「阪神性不安」=ガスの元栓は切ったかな、電気は切ったかな、待ち合わせの時間は間違いなかったかな・・・まさしく「強迫性障害」と「心配性」のちょうど境目あたりで生きています。

そんな本の最終章(9回:野球のイニングのように9章に分けられています。延長戦は想定されていないようです)に「ジャマイカ精神で行こう!」という文章がありました。ジャマイカ人のようにのんびりと?・・・わたしも石蔵先生と同じことを発想しました。でもそうじゃなくて、あまり几帳面に構えすぎず、あまり不安になりすぎず、「じゃ、まー、いいか」と少し肩の力を抜きましょう!というのです。・・・「どっかで使えるぞ、このオヤジギャグ的発想!」ということで、とりあえずここにメモをしておきました。

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人間は定位置にいないと落ち着かない

「巨人性うつと阪神性不安」という本を読みました。男性更年期外来をしている心臓屋の医者(大阪大学石蔵文信先生)が書いた、とても楽しい本です。

読売巨人軍(とそのファン)は、常に勝つことを義務付けられている(と思いこんでいる)。幸せ慣れした人は突然の不幸に弱く、些細なことに傷つく。つまずいたことのない人は転び方がわからずに大怪我をする! それが「巨人性うつ」なのだそうです。「つまずいたら、つまずく前のように走ろうと無理をしてはいけない。少し症状が良くなると、すぐ元のように働こうとする。そして、ぶり返して元の木阿弥になるのである。」・・・典型的なうつ病の経過を、見事に巨人ファンの心理を通して解説しておりました。

一方、阪神です。実はこの本が書かれた2003年、阪神は18年ぶりの優勝を果たします。「いつも負けているのに今年は優勝するかもしれない?」・・・そんな絶好調の真っ只中での阪神(とそのファン)の心理です。慣れない幸せに恵まれると落ち着かない、不安でたまらない。今日は良いけど明日から全部負けるかもしれない。この幸せの先にもっと大きな不幸があるかもしれない!といつも不安に思うのです。これが「阪神性不安」です。不安になると過去の失敗ばかりに気をとられて「また失敗するのではないか」と悪い予感にとらわれる。これを避けるには過去の良いことばかり思い出せばいい。「バース、掛布、岡田のバックスクリーン三連続本塁打」・・・関西では年中このシーンばかり流れるらしい、と書かれていました。超楽勝だと思われた昨シーズン、阪神はウソのような大逆転で優勝を逃しました。この本を読みながら、阪神ファンにまたまた完全なるトラウマの伝説を植え付けることになったんだろうなと思いました。

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新型インフル

10日ほど前に重い風邪を引きました。朝にノドがおかしいと思ったら夜には鼻詰まりと咳が出始め、翌朝にはノドの痛みも加わりました。いつになく早い進行でしたが、それでも発熱がありませんでした。最高でも37.4℃でした。頭痛も関節痛もありませんでした。職場ではインフルエンザが蔓延っていましたが、急激な発熱や強い頭痛はA型インフルエンザの初発症状としては必須のはずです。そう思って病院に行かずに頑張っていました。ところがわたしの発病から2日後に妻が同じ症状で発症、そして彼女はその2日後の朝に急に高熱を出しました。検査の結果、彼女のそれはA型インフルエンザでした。

結局わたしは検査をしませんでしたからインフルエンザだったかどうかは分かりませんが、実はわたしのような微熱でインフルAの診断をもらった人がうちの職場にはちらほらいます。予防接種のせいだけではなく、どうも今年のインフルエンザのパターンはいつもと違うのではないかと思います。

今年の流行はソ連A型ですが、ソ連A型はもちろん今回のワクチンのターゲットの中に含まれていました。なのに、どうしてこんなに流行してしまったのでしょうか。しかもその多くがタミフル耐性で、リレンザの方が有効でした。何かが例年と違っています。新型インフルエンザのパンデミックがいつ起きるのかと世界中が慄いていますが、知らない間にすでにインフルエンザはマイナーチェンジして進化してしまっているように思います。一見とても怖いことのように思いますが、こうやって新しいタイプのインフルエンザに感染することによって、勝手に各々のカラダに免疫ができます。だから、パンデミックを起したとしても意外に大したことにはならないのかもしれません。

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般若心経

わたしの密かな人生の目標は「般若心経を理解すること」です。

15年くらい前から、本屋で分かりやすそうな本を見つけてきては読み漁ってきました。「色即是空、空即是色」・・・この世の全てのものは空であり、無である・・・理屈はそれなりに分かるのです。本に書いてあることも自分なりに理解できていると思いますし、納得できます。でも、実感としてどうしても理解できない。ピーンとくる感覚に出会えません。だから今ひとつ不満足なのです。

アタマ(理屈)で考えるから理解できないのでしょう。ある心臓病の患者さんに相談したら、「何度も写経をしてみたら見えてきますよ。まずは心を落ち着けて書いてみてください。」と云われました。友人が100円ショップでペン字の写経のノートを見つけて買ってきてくれました。なかなか墨と筆を準備する時間がとれませんが、ペンや鉛筆なら書けるかもしれないと思って仕事場のデスクに立てています。・・・が、結局まだ一頁も書いていません。これを書き始める心と体の準備ができたとき、次のステップに上がれるのかもしれないと思います。・・・ていうか、こんなことで屁理屈こねている自分には、結局まだまだその気がないんでしょう。数分で書ける事なのに、まだどうしても書き始める気になれないのです。

修行僧がそうであるように、理屈だけの頭でっかちでは絶対に覚れない世界がそこにはあるのだろうと思いました。これから徐々に経験値を積み重ねながら、生きている間に「あ。これか!」という気持ちになれたらいいかな。

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エンゼルメイク

「おくりびと」を観たのと時を同じくして、ある新聞にエンゼルメイクの話題が出ていました。「おたんこナース」で有名な作家小林光恵さんが最初に声を上げた「エンゼルメイク」は、「故人の尊厳を守るために家族や医療者で最期にふさわしい姿に身支度すること」だそうです。死の化粧用品を専門に扱う会社もあると聞いてちょっと驚きました。

エンゼルメイク、つまり「死化粧」ですが、私たちが医療現場で見てきたモノとは全く質が違います。病院で、「人間」から魂が抜ける瞬間を医者と一緒に経験するのがナースです。彼らには最後の仕事が残っています。昔から「エンゼルセット」というモノがありました。身体中の穴に詰め込む脱脂綿や綿棒、タオル、消毒液、縫合セット(注射でできた穴を塞ぐため)などが入った薄汚い箱がどこからともなくベッドサイドに準備され、男子禁制のカーテンの向こう側で殺伐とした儀式が行われてきました。付着した血液をきれいに洗い落とし、傷口に包帯を巻いて、新しい寝間着に着替えさせて「すっきり」した姿にしますが、そこにいるのはやはり「屍」でした。生前の元気だったころの面影はまったく見られず、病気と闘い抜いた成れの果てといった様相でした。

話題にしているエンゼルメイクは、まさしく「おくりびと」。しかもナースだけでなく家族と一緒に旅立ちの身支度をします。いかに綺麗にメイクしてあげられるかというだけでなく、家族と一緒に生前の思い出話をしながら、家族の心のケアを行うことの意義が大きいのだと思います。「故人の尊厳を守るため」といいながら、残された家人や医療者が後悔を残さないように満足のいく区切りをつける儀式なのでありましょう。

素晴らしい!と思いながら、一方でそれは医療の領域を越えていないか?という疑問が残らなくもないのであります・・・。

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死の儀式

救急医療に携わる者の宿命として、多くの死を見てきました。

世間の多くの人が死体を見て初めて死と対峙するのに対して、わたしたちはまさに魂が身体から抜けていく瞬間に立ち会うことになります。8割は病院で亡くなる現代、死を迎える人たちの死の瞬間は、身内の方よりも、わたしたち医療従事者が看取ることの方がはるかに多いのです。

死の瞬間、モニターの心拍の音が切れ、突然心電図が一直線になる・・・そんなドラマのようなことはまずありません。心臓は最後まできちんと拍動を続け、それが徐々に間隔を広げながらゆっくりと終焉を迎えるのです。まるでこの世から立ち去るのに忘れ物がないかカラダの隅々まで回って確認しているようです。最後に長年住み慣れた自分のカラダに「さよなら」を云って・・・命の終わりは、静かにゆっくりとやってきます。

ところが、救急医療の現場では、止まった心臓をもう一度呼び戻すために心肺蘇生術をします。ちょっと休んでいたり居眠りをしていた心臓なら、マッサージを受けるだけで目を覚まします。一方で、すでに魂はいないことを実感しながらも区切りの儀式のためにマッサージをしなければならないこともあります。寝耳に水の知らせに大慌てで駆けつけてきた家族に心の準備ができるまでの間、機械的に心臓を動かし続けるのです。

夜が白々と明けるころ、長時間のマッサージのために震える手で死亡診断書に字を書き込みながら、患者さんと関わってきた日々のいろいろが頭の中に浮かんでくると、知らず知らずのうちに涙があふれてきます。わたしほど、死亡診断書を書きながら泣いていた医者もいないかもしれません。「先生、また泣いてるよ」とあきれ顔のナースの顔が思い出されます。

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納棺師

遅ればせながら、映画館で「おくりびと」を見ました。魂の抜けてしまった抜け殻である遺体をキレイに祀り、艶やかにかつしめやかに送り出す儀式は、「愛おしい人と一緒に生きてきたことの想いを抱きながら、訣別のあいさつをする」、逝く人のためというよりは、残された者が自身の心の区切りをつけるための儀式だと思います。故人(の体)と対面するのは、多くの場合お葬式や通夜の席になるのでしょう。そこにあるモノにはすでに魂がないことは分かっています。生前の面影はすでになく、変わり果てた顔に死化粧を施し、「キレイにしてもらったね」とか「ありがとう」とか、かけがえのなかった存在に優しく最後の語り掛けをして、自分の心に別れの踏ん切りをつけるのです。

闘病生活を続けてきた母の最後の顔は、わたしの脳裏に残る母の顔=もっとふっくらとして静かに優しく微笑んでいる=とは似ても似つかない屍の顔でした。死後一週間たって少し腐乱しかけて見つかった父の身体は誰なのか半ば判明しにくい姿でした。突然死して数時間後の同僚の遺体と対面したときにも、若さを誇った彼の生前の面影は全く残っていませんでした。

「おくりびと」である本木君が施してくれる納棺のための儀式は、生前の姿を想像し、目の前の死体を生前の姿に戻してあげようとする作業です。あそこまでキレイに施した姿を目の当たりにするならば、おそらく残された者たちは今よりもっとたくさんの思い出を頭に浮かばせ、もっと多くを語りかけることができたでしょう。

死を忌み嫌う風土の中では蔑まれた職業と認識されるのもやむをえないかもしれませんが、死体を祀り上げる一方で死体を忌み嫌うということは、よく考えるととても矛盾したことです。「夫は、納棺師なんです」・・・最後に広末が堂々とそう語った姿をとても嬉しく感じました。

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パンデミック

40年以上起こっていない新型インフルエンザのパンデミック(世界的大流行)が、そろそろ起こるといわれてます。妻夫木君主演の「感染列島」は、まさしくそんなパンデミックの恐ろしさを具体的に表してくれている作品のようです。

わたしが産業医をしている企業の保健師さんが、「職員に新型インフルエンザに対する緊迫感がありません。衛生委員会で一言云ってください!」と訴えてきました。・・・でも、実はわたしもあまり重篤感を抱いていないんです。SARSが世界中を震撼させてからもう5年になります。その翌年も小さな流行がありましたが、そのままパンデミックになりませんでした。鳥インフルエンザからの変異が一番懸念されていますが、偶発的に起きるときの致死率が異常に高くても大流行したらそんなに高くならないだろうと云われています。これまで大流行しなかったのは、鳥インフルエンザ発生後の処置を速やかにしたからだと云われていますが、もしかしたらしなくても流行らなかったかもしれないという意見もあります。たしかに大流行するとみんなが寝込むので社会の産業(特にライフライン)が動かなくなる懸念や皆が病院に行って病院がパンクする懸念がありますから、やるべき手段(うがい、手洗い、マスクなどによる予防やワクチン、治療薬の備蓄など)はきちんとすべきだと思っています。

鳥インフルエンザ発症が確認されると、感染していないトリも併せて全部ひっくるめて処理される(殺される)ニュースを見るたびに、胸が痛くなります。トリ自身は何もやってないのに、人間の都合で大量虐殺されます。しかし、まるで外車の修理のように「商品の一括処理」をするような行為が、かえって自然のバランスを壊して、もっと激烈な変異を起す助けをしている危険性はないのでしょうか?

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できるかどうかではない!

ある健康プログラム会員の加入者が思うように増えないため、対策委員会を作って会議を開いたことがあります。わたしは委員長をしました。

何週間もかけてアタマを絞りました。若い人たちの柔軟な発想はとても面白く、感心することしきりでした。いくつかの独創的な意見のうち現実味のありそうなものをある程度具体的に取りまとめて担当の事務部門に提出しました。ところが、すぐに付き返されました。「無理!」の一言で・・・。さすがにあのときは、わたしも切れました。大の大人が、こんなに時間をかけて考えた末にこれなら頑張ればできそうだと判断したものを、上に上げる前に門前払いというのはいかがなものか。わたしは、門前払いをくらわしたその担当者と話をしに行きました。

「わたしたち対策委員会が提案したということは、『それができるのかどうか?』を聞きたいのではない。『することを前提にして、それをするために何をしたらいいのか?』を聞きたいだけなのだ。だから、具体的にその答をください!」・・・担当者は苦虫を噛み潰したような顔をしながら聞いていました。そして、「これだったらできないわけではない」という案を提案してくれました。「なんだ、やればできるじゃない!それを上に上げてくださいな」・・・そう彼に伝えて別れました。

あれからもうかれこれ2年。結局今も何も変わっていません。どこかで明らかに絶ち切れになっています。組織が大きくなるとフットワークが異常に重くなってしまいます。出てきた意見がとても前向きで素晴らしいものだっただけに、とても寂しく思いました。そして、それを何とかしてあげられなかった自分の力の無さに落胆しました。

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中性脂肪の正体

先日、医療雑誌に「非空腹時のトリグリセライド(中性脂肪)高値の人は脳卒中を起すリスクが上昇する」という記事が載っていました(JAMA 2008;300)。

トリグリセライド(TG)値、あるいは中性脂肪値が高くて悩んでいる人はとても多いはずです。太っている人だけでなく一見やせている人の中にも高い人はたくさんいます。ところで、この「中性脂肪」とは、一体どこにある何のことだかわかっていますか?中性脂肪とは、すなわち「脂」です。でも、お腹に付いた皮下脂肪や内臓脂肪などのことではありません。活動エネルギーとして血液の中に溶け出している脂です。体内に蓄えた脂肪から肝臓で分解されて血液中に出ています。ものを食べたあとにも食事から吸収したエネルギーがたくさん血液中を回りますから食後は高値になりますが、食後すぐに使わなければ脂肪細胞にして体内に蓄積させて血中から消えていくわけです。

トリグリセライド(中性脂肪)値が高いということは、使うために血液中に流したエネルギーが使われずに余っているということです。使う量が作る量よりはるかに少ないということに過ぎません。ですから減らすのは割合簡単です。なのに減らないのですから、使う量と作る量の差が