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立て板に水

先週、うちの施設で年4回発行している広報誌の1月号が発行されましたので、今回はそれに掲載中の私のコラムのコピーで失礼します。

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立て板に水

   数年前の職員旅行で、ある観光ホテルに泊まりました。各部屋に分かれる前に全員がロビーに集められて、ホテルの特長や施設利用の注意項目などの説明を受けました。そのときに説明してくれた、そのホテルの担当の方の話し方は実に感動的でした。まさしく立て板に水を流すごとく、よどみも無駄もまったくないしゃべりで、それでいて早すぎもせず遅すぎもせず、小さすぎず大きすぎず、聞き取りやすい切れ味のよいトーン・・・それは耳にとても心地よく入ってきました。さすがはプロだと感心しました。ところが、話の終盤になって、ふと妙なことに気づきました。どうも周りの同僚たちも同じことを感じたようです。「結局、大浴場は何階にあるって言った?」「夕食は何時からって言った?」・・・彼が話した話の内容が頭にほとんど残っていないのです。あれだけきちんと聞き取れていたはずなのに、見事に右から左へ流れ出していました。

    私たちは「伝える」という仕事をしています。毎日多くの人に接しながら限られた時間で受診者の皆さんに多くのことを伝えます。私たちもまた、あのホテルの方と同じようになっているのではないか、と不安になりました。「話した」ということと「伝えた」ということとは違います。「伝えた」ということと「伝わった」ということもまったく違います。言った、聞いてない、の争いは世に絶えません。たとえ「話した」としてもそれがちゃんと「伝わった」のでなければまったく意味がないのです。

   先日、20数年ぶりにある患者さんにお会いしました。ある病気で言葉が不自由な方ですが、昔のままの満面の笑顔の彼は、古希を越えたとは思えない弾んだ歓声で迎えてくれました。彼の言葉はお世辞にも聞き取りやすいとはいえません。でも、彼の言っていることは聞き返す必要もなくニュアンスの隅々まで理解できました。彼は、「こころ」で伝えることを常に意識しているんです、と言います。遠い昔、入院した彼の主治医になった研修医の私に、患者-医者のスキルとしての会話ではない、こころの繋がりの大切さを教えてくれました。私たちは、たとえ頭で違うことを考えていてもきちんと必要なことを話すことができます。しかし、正確に聞き取りやすく話すスキルをどれだけ向上させても、おそらくそこにこころが入っていないと真意は伝わらないのだと思います。昼下がりの結果説明などで、口は正確に動いていたけれど今話した内容は伝わっていないかもしれない、と感じる瞬間が時々あります。私は、もし自分が相手だったら、今の言葉でちゃんと理解できるだろうか、そう自分に問いかけながら話すように心がけていますが、それでも時々受診者の方からお叱りを受けることがあります。そのときには決まって事務的になっている自分がいます。仕事としての「伝える」は本当に難しいものだと痛感します。久しぶりにこころの師に会えて、私の医師としての仕事の原点に立ち返った気がしました。

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