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2008年6月

宇船(そらふね)

先日、たまたま通勤途中に車のラジオから<TOKIO「宇船(そらふね)」>が流れてきました。なんだと云うのではないけれど、メロディが妙に心の奥深くに入り込んでくることがあります。先日はそれが<TOKIO「宇船(そらふね)」>でした。

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その船を漕いでゆけ お前の手で漕いでゆけ お前が消えて喜ぶ者に お前のオールをまかせるな

その船は今どこに ふらふらと浮かんでいるのか その船は今どこで ボロボロで進んでいるのか 流されまいと逆らいながら 船は挑み 船は傷み すべての水夫が恐れをなして逃げ去っても 

その船を漕いでゆけ お前の手で漕いでゆけ お前が消えて喜ぶ者に お前のオールをまかせるな♪

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こんな厳しい歌詞は、今のわたしには似合わない気がするのですが、でもなぜか奮い立つのです。中島みゆきではなく、TOKIOの長瀬がいいのです。なんでなんでしょう?

ちなみに、先月末の大分行きの車中では、ずっと<北島三郎「祭り」>でした。サブちゃんは、いい!

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小脳梗塞

40歳になってからゴルフを始めました。好奇心旺盛な妻とその友人が突然ゴルフを始めたいと云いはじめ、自分たちだけ遊ぶのは心苦しい(というか、堂々と遊びにいきたい)ので、嫌がるわたしを無理やりコーチのところに連れて行ったのです。いまだに下手くそですが、おかげで楽しくプレイできていますし新しい仲間も増えましたので感謝しています。

わたしが小脳梗塞になったのは、ある炎天下のゴルフのときでした(真相はわかりませんが)。概略は「病気博士」(2008.4.22http://satoritorinita.cocolog-nifty.com/satoritorinita/2008/04/post_45b6.html)の通りですが、そのときにちょっとふらついた以外、その後の生活に問題はなかったのでずっと忘れていました。

ところが最近、ちょっとしたことで眩暈がします。通勤の運転中にグラグラっと揺れてしまい、身の危険を感じて頭を振ることもたまにあります。先日のウオーキング大会の道中、道ばたの小さなふじ色の花を見つけ、ガラにもなく屈んで顔を近づけたら途端にグラグラっときました。その場にしゃがみこんでじっとしていたら良くなり、そのまま何食わぬ顔で昼食会場のバンガローに行きました(低血糖だったのかな)。

新しい病変が出来ている可能性がないわけではありませんが、わたしの「素人考え」では、あの小脳梗塞があるために、年齢とともに落ちてくる微妙な調節力が普通より強いのかなと思っています。まあ、だからといって何かを自粛するわけじゃないしクスリを追加する気があるわけじゃありませんが、一応公表しておかないと。いつ何が起きるかわからないかな、とか思いまして。

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感染症狂想曲

あまりにばかげた騒動が続いています。

採血ホルダーというものがあります。採血用の針をセッティングし、患者さんの血管に刺したまま真空の採血管をつなぐと、必要量の血液を直接取れる優れものです。リキャップしないので針刺し事故も起きにくくなりました。このホルダーを複数の患者さんに使い回しをしていた医療機関が毎日謝罪しています。当然、うちの病院も使いまわしていました。なぜなら、このホルダーに血液がつくことはまず無いからです。それを、まるで感染者の血液がついた不潔なものを使いまわしているかのようなマスコミ報道が続いています。そのために無意味に不安を抱いた患者さんや家族の方も多いと聞きます。検査をしても、この採血手技が原因で肝炎に感染した人は出てこないでしょう。たしかに、ディスポーザブル機器は毎回捨てるように作られているのですから、使いまわすのは違法です。それでも、杓子定規に「ダメ」と役人の一言で括ってしまうのはあまりに実情に合ってないように思いました。結局現時点では、採血ホルダーを各人で替えるためには市場の在庫が足りなすぎるそうで(最初から使いまわすのが前提だった?)、生産が追いつくまでは昔のように注射器で採血して針で採血管に移す作業が必要です。これによって採血をする看護師さんや検査技師さんが感染者の血液を自分の指に刺してしまう事故が起きることは必至です。取った血液が少なすぎて取り直したり、多すぎて捨てたりというムダも増えるでしょう。採血ホルダーが完全供給されてからは毎日大量の廃棄物が出ます。普通の廃棄物扱いでいいはずのものを全て医療廃棄物として扱わねければなりません。大量のムダが出てくることでしょう。

「感染予防」ということばを役人さんは全く履き違えているようですが、彼らにとって大事なことはそんなことではなく、任期中に100%何も起きないこと、なんでしょうね。

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おまえには診てもらいたくない

苦い思い出があります。

「あんな医者のところに戻らせたくない!」出向先の病院で、救急で担ぎ込まれた急性心筋梗塞の患者さんに初期処置をして救急車で熊本に送ったことがあります。順調なリハビリを終えて地元に戻ることになったとき、奥さんがこう云ったのです。どうも、最初に受診したとき、わたしが初対面の自分を頭ごなしに怒ったのだそうで、はらわたが煮えくり返るほどだったけど救急事態だったからじっと我慢したのだそうです。

転院してきたとき、息子さんだけ付いてきました。奥さんも心筋梗塞で大学病院に入院したことがあるが5日間しか入院しなかった。夫は2週間も入院した。あの病院は金儲けしか考えてない病院だから早く出ようと思ってやむを得ずおまえ(わたし)のところに転院するのを承諾したのだ!息子さんは奥さんの言葉を代弁してそう云いました。「きっとわたしが何を話しても信用しないと思うのですが」と前置きしたら、息子さんは「もちろん、何も信用する気はありません」と不機嫌そうに答えました。

「心筋梗塞」という病名でも、陳旧性心筋梗塞と急性心筋梗塞は全く別の病態です。後者は今まさに心臓が腐っている状態です(http://satoritorinita.cocolog-nifty.com/satoritorinita/2008/04/post_c816.html)。陳旧性心筋梗塞で5日間の入院は長すぎです。急性心筋梗塞を2週間で退院できるのはかなり早い経過です。その差を説明しましたが、「きっとあなたは信用していないでしょうから、そのまま大学病院の先生に聞いてみてください。」と伝えました。きっと息子さんは奥さんにそんな内容は伝えなかっただろうなと思います。

わたしをどう思ってもいいのですが、わたしが関わったために、あの家族は間違った知識のままに生きていくことになってしまいました。それが何か申し訳なくてたまりません。なお、当の本人は発病前のいい加減な生活を反省して、その後もいつもニコニコして通院してきてくれました。

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たまたまの出会い

わたしの勤務する病院の外来には、各診療科に各々日替わりの新患担当の先生がいます。初めて病院を受診するとその担当の先生が診てくれます。そのまま通院する場合はそのままその先生が主治医になるのが普通です。健診センターの人間ドックの場合は、結果の説明を聞くのに、異常や特殊な検査がなければ機械的に担当医師が割り振られます。する側もされる側も自分の意志とは無関係に、たまたまの組み合わせの出会いがそのまま人生を決することになるわけです。

自分の力に自信があるとか、自分の医療観に誇りを持っているとかそういうレベルの問題ではなく、そんな「自分」をたまたまやってきた受診者さんに無理強いしていいものなのか、もしかしたらわたしが担当しなくて隣りの部屋の同僚が担当したならもっと良い人生を送れたかもしれない、外来をしていたときからずっと気になっていたことです。同じ病気に対しては同じ治療ができるように、医者によって治療の質が変わらないようにするために、治療ガイドラインやクリニカルパスなるツールがあるわけですが、それでも医者の人となりによって患者さんの運命は少なからず変わってしまうと云えましょう。

私は、医師を紹介する場合、名医だとか専門だとかにあまりこだわりません。もちろん、肩書きが大好きな方には期待に沿ってあげますが、人生を任せるのなら人として本心で向かい合えるかどうかの方が大切だと思っています。もちろん実際には会ってみないとわかりませんが。

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マスク小僧たち

最近、病院やクリニックに行くと、手術室でもなければ風邪が流行っているわけでもないのに、妙に大きなマスクで顔を覆ったスタッフの姿をよく見かけます。

うちの病院も例外ではなく、むしろ救急病院のせいか、医者や看護師だけでなく検査技師、放射線技師、臨床工学士、あるいは薬剤師や受付の事務員の皆さんまで、しっかりとマスクしています。感染予防の考え方がしっかり普及しているためだと思います。

ただ、マスクしている皆さんは、自分がマスクしていることをもっときちんと意識してほしいと思います。先日、救急外来の待合椅子のところで、若い看護師さんがおじいさんの横にひざまづいて熱心にクスリの説明をしているのを見かけました。その横を通り過ぎるときに盗み聞きしましたが、きっとあの患者さんは、彼女が何を云っているのかさっぱり聞き取れないだろうな、と思いました。口元をマスクで覆っていると、音が籠もって聞き取りにくい。それ以上に、人は相手の口元の動きをみながら言葉を聞き取るものです。その口元がマスクで見えません。口元をマスクで隠すと、相手の表情も見えません。相手の心のうちも見えません。とにかく、「会話をする」「意志の疎通を図る」という点で、マスクはもの凄くハンディを負っているのですから、普通にしゃべっていたのではまず絶対相手には理解してもらえない、と肝に銘じておかないといけないなと感じました。

私も、咳が出るときにはやむを得ずマスクしますが、意識的に大声でしゃべっているにも関わらず、相手がどうも十分な理解をしてない顔をするため、結局マスクを外して話すことになります。だから、一旦風邪を引くとなかなか治りません。

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「健やかな病人になる」

職場の広報誌の寄稿コラム(一部訂正加筆)です。ちょっと古く、2005年7月号です。

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「健やかな病人になる」~生活習慣病入門の心得

「あなたは病人ですか?」・・・残念ながら、多くの現代人は病人です。「私は違うわ」と思っているあなたもきっと病人です。少なくとも私は病人です。今の世は病人だらけです。病気のこと、特に生活習慣病のことは皆さん詳しく知っています。なのに「コレステロールが高い」といいながら、それが病気だとは思っていません。「それを『脂質異常症』といいまして、今夜、何の前ぶれもなく突然に心筋梗塞になって倒れてもおかしくないという意味ですから、家族にはきちんと伝えておいてください。」私は皮肉を込めてそう云います。血糖が高いけど糖尿病とはいわれていないとか、血圧は高いけど薬はいらないから高血圧ではないとか、どうしても病気と認めたがりません。「血糖が高いことを『糖尿病』というんです。血圧が高いことを『高血圧症』というんです。それが予備軍だろうと正規軍だろうと、どうせ同じ事をするんだから無駄な抵抗はやめましょうよ。」・・・私は、健診結果を説明しながら、いつもそう思います。実体のない「健康」の文字に必死でしがみつきたがるのはどうしてなのでしょう。医学は常に「病気」を相手にしてきました。「健康」は当然あるべきものでしたから「健康とは何か?」などの論議は無用でした。「病気」は常に悪であり退治すべき対象でした。だから「病人」は落第生の証なのかもしれません。一度認めたら最後、まるで修行僧のように食べたい物は食べられなくなり、新興宗教のように黙々とただ歩かされ、挙げ句の果てに毒薬を一生飲まされる。とんでもない!死んでも首をタテには振るまい、といったところでしょうか。

ところが今の世は病気だらけなのですから、「健康」には定義がいります。”心身ともに爽快で毎日を明るく楽しく送れること”と定義してみましょう。そうすると、似非健康人の皆さんが「やばいかな」とか考えながらケーキを食べる行為はバツ。高血圧の私が運動後に気分良く握り飯を頬張るのはマル。脳梗塞で麻痺になった患者さんが頑張って歩けるようになったら三重マル。これはなかなかいけてます。病人なのに健康でいられます。生活習慣病は遺伝病です。同じものを食べて同じことをしても自分だけ病気になる体質ですからもっとゆっくりつき合いましょう。2,3年前から私は高血圧ですし、油断するとすぐ太ります。隠すことなく私は病人です。でもそのおかげで私は動くことと食べることの面白さを知りました。

「あなたは病人ですか?」の問いには、迷うことなく「私は病人です。これからも『健やかな病人』であり続けたいと思います。」と答えます。「正常」にしがみついて汲々とするより、病人の人生をうまくコントロールして楽しんだ方がずっと面白い。これからの人生に面白いことがもっと沢山あるはずだと信じています。

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国産豚肉

某発泡酒のCMに出てくるお好み焼きがとてもおいしそうだったので、昨日の夜は久々にお好み焼きをしました。スーパーでキャベツとヤマイモを買い、そういや豚肉もあった方がいいかな、と肉売り場に行きました。

やっぱり肉は「国産」かな(本物かどうかわかりませんが)と思い、「国産豚ばら肉」とやらを手に取ろうとしたのですが、思わずやめてしまいました。なぜなら、パックに並んでいる「肉(と称するもの)」の半分以上は真っ白な脂肪の塊でした。なんでアブラに金払わないといけないわけ?その隣りに並んでいた「アメリカ産豚ばら肉」の方がはるかに「肉」でした。久々に買う肉でしたが、今はこんな「肉」を肉としないと売れないのか?と思うと、妙に不安になりました。

「肉は食べないように頑張っています」という人は最近多くなりました。でもそれは本当は大きな間違いだと思います。肉はとても理想的な食材です。動物性タンパク質はビタミン、ミネラルの宝庫でもあります。ただ、「肉」にまぶされてしまった「脂肪」がマズイだけです。サッカーのカズ選手が、オーストラリアで毎食毎食、肉の中の脂肪を全部削り落として食べたというのは有名な話ですが、まさしくそれが正解なのだと思います。昔ながらの肉、つまりいつまでも噛んでおかないと飲み込めないような、そんな肉が理想なのですが、残念ながらそれを今の一般市場から見つけ出すのは至難の業になりました。しっかりと霜降り+フォアグラ状態にして、とろけるような肉こそがブランド肉として高く売れる、現在社会では当たり前といえば当たり前なのですが、そのために、「肉」ということばが悪役になっているのは不本意な気がします。

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船の舵取り

ここ数年、「病気」(特に生活習慣病)の考えた方が大きく変わってきました。「予備群」とか「未病」とかいうことばを良くみかけますが、これは、もともとは「病気になる前に生活を見直して病気にならないようにしましょう」という予防の考え方から来ていました。つまり「一次予防」です。備えあれば憂いなし、といういわば優等生的な理想の生き方を薦める概念でした。

ところが、最近はそんな甘いものではない、と云うようなデータが次々とベールを脱いで出現してきました。食後高血糖(http://satoritorinita.cocolog-nifty.com/satoritorinita/2008/02/post_81ce.html)、慢性腎障害(http://satoritorinita.cocolog-nifty.com/satoritorinita/2008/05/ckd.html)、メタボリックシンドロームなどなど・・・今すぐ流れを変えない限り、病気進行の勢いは絶対止められなくなる!それが「予備群」と云っていた状態の真の姿でした。もはやこれは「予防」の概念ではありません。大きな母艦の舵取りをしているようなものです。対向船がいるとわかったら、かなり前から進路変更を企てないと衝突を回避できません。たとえ見張りを怠っていなかったとしても、直前になってから避けようとしても不可能なことなのです。

ところがこの通称「予備群」のやっかいなのは、姿の見えない敵だということです。やらなきゃいかんと分かっていても、モチベーションを高められない、あるいは維持できません。これまで何度も書いてきました。くどいようですが、やればできることなのです。でもやらないとできないことなのです。舵取りを高々1度ずらしただけで、最終的に何百メートルも方向が変わります。舵を持つ手にちょっと力を加える気があるかどうか、決断力があるかどうか・・・試しにちょっと触ってみるのは意外に面白いものなんですが。

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ガス漏れ事故

2年位前、北海道のある街でガス漏れ事故が起きました。街の地下を走っているガス管が老朽化し一気に噴出してしまって街の機能が麻痺したものです。でも、実はそのはるか前からガスのような臭いがすると市民から苦情が出ていたそうです。「大したことはないので心配ない」というのがそれに対する行政の返事でしたので、その後非難囂々(ごうごう)でした。

このニュースを知ったとき、何かに似ていると思いました。「動脈硬化」です。「動脈硬化」という、目に見えずに実体を確認し難い難敵は、まるでガス管が壊れるように、あるいはダムが決壊するように、何の前触れもなく突然壊れて脳梗塞や心筋梗塞を起こします。でも、決して突然に生じた異常ではありません。動脈硬化は水面下で徐々に進んでいきますが、よほど進行しない限り何の症状もありません。そして大して進行しなくてもあるとき突然壊れます。難儀です。ただ、健診を受けて、動脈硬化の危険因子がたくさんあることを毎年指摘されている人は星の数ほどいます。せっかくの警鐘に対して、「まだ、大したことはないから大丈夫」・・・そう思っている人はいませんか(そう説明している医者が少なからずいますが)?

全くもってガス漏れ事故と同じじゃ!(篤姫の口調で)

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内臓脂肪の誤解

メタボリックシンドロームが市民権を得、特定健診で病人探しの踏み絵のような役目をすることになった「内臓脂肪」ですが、意外にこれが何なのか知らない人が多いようです。

内臓脂肪と脂肪肝をごちゃごちゃにしている人も見うけられます。腹部臓器(胃や腸など)を保護するために腸の表面は「腸間膜」という薄いベールで覆われています。この腸間膜の表面に付着する脂肪が「内臓脂肪」です。ちなみに、脂肪肝というのは、肝臓の細胞のひとつひとつの中に脂肪(一番エネルギー効率が良い)が入り込んでいった状態=フォアグラ状態です。飢餓状態が基本だった日本民族にとって、内臓脂肪はほとんど溜まっていないのが本来の姿だといわれています。腸管ガスがあるので残念ながら腹部エコーでは評価は出来ません。

皮下脂肪と内臓脂肪を区別するのには腹部CTが一番わかりやすい手段です。テレビや雑誌などで見かけたことがあるでしょう。自分のCTを撮ってもらった人もいるでしょう。臍の高さの腹部CTでの内臓脂肪面積=100cm2という数値も世間では腹囲85cmと同じくらい一人歩きしています。日本人の理想は30とか40とかいう数だと聞いたこともあります。ただ、CTの画像というものはCT値で決まります。CT値いくら以下をカットするとか、CT値いくつの範囲を脂肪とみなすとか。つまり、わずかな設定の違いだけで、面積数値は全く違うものになります。100の下が合格(健康)、上が不合格(病人)などという全か無かというものではないことも理解しておいてほしいと思います。

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コレステロールの誤解(後編)

わたしが産業医をしている、ある全国規模の企業があります。今年の職員健診から全社をあげて総コレステロールの項目が削除されました。代わりにLDLコレステロールが追加されました。迅速な対応で驚いています。

ただ、実際にこのシステムでの健診結果が返ってきてみると、総コレステロールのデータがないととても危険だということがすぐに分かるようになりました。注意しなければならないことが大きく2つあります。

1. 「総コレステロール値が低すぎると危ない」:世間ではコレステロールが高いことにばかり目を向けていますが、コレステロールは細胞やホルモンといった大事なものを作る中心的材料です。不足すると大変です。何もしてないのに減る場合、例えば甲状腺機能亢進症や悪性腫瘍やその他の消耗性疾患の存在を疑わなくてはなりません。命に関わる重大な病気です。でもそれを測定しなくなったので、評価できません。

2. 「non-HDLコレステロール」:総コレステロールが高値なのに、HDLコレステロールもLDLコレステロールも低いことがあります。この場合、HDLでもLDLでもないコレステロールがたくさん存在していることになります。例えば、LDLコレステロールよりも小さくてはるかに動脈硬化を起こしやすい「超悪玉コレステロール」が多く存在する場合です。これもHDLやLDLコレステロールだけ測っていたのではわかりません。悪玉が少なくて良かったと喜んでいるとそれよりも遙かに危険なコレステロールがたくさん存在していることが少なくないのです。

ですから、「判定基準にない」=「無駄だから削除」は実はとても危険なのですが、一支社の雇われ産業医の身としてはこうやってグチをいっておくしかないようです。

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コレステロールの誤解(前編)

昨年のわたしの誕生日に、コレステロール値などに関するガイドラインが変更になりました(動脈硬化性疾患予防ガイドライン2007 http://jas.umin.ac.jp/guideline.html)。マスコミを通じでかなり浸透してきたようですが、それでもまだ誤解している人がいます。

「高脂血症」ということばが誤解を招きやすいので「脂質異常症」ということばに統一させたいということで、テレビ番組ではその1ヶ月後にはすでに「脂質異常症」ということばを使っていました(うちの施設はいまだに「高脂血症」を公式文書で使っています)。あ、その前に、「動脈硬化性疾患治療ガイドライン」だったものを「・・・予防ガイドライン」に換えてあることは医療者でも意外に知りません。

一番大きな考え方の変換は、総コレステロール値が基本的に脂質異常症の判定基準からはずされたことです。HDL(善玉)コレステロールとLDL(悪玉)コレステロールがあることは有名ですが、多いほどいいといわれているHDLコレステロールが多くなっても総コレステロールが上がってしまいます。世間では総コレステロールを一生懸命下げようと躍起になっていますが、いいヤツが増えたために総コレステロールが上昇しているなら下げるだけムダになります。メタボリックシンドロームが問題になった頃から、医療現場もコレステロールを積極的に下げるのがベストだという考え方が主流になってきて、安易にクスリを処方する傾向になってきました。そのことへの警鐘を鳴らす意味で、総コレステロールを基準からはずしてLDLコレステロール値を基準に入れたのです。コレステロールを見るときは必ずHDLコレステロール、LDLコレステロール、中性脂肪などを区別して眺めてください。

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父の人生

父はいわゆる「でもしか」時代からの教師で、小学校の校長を定年退職したあとは、高い年給で悠々自適な生活をしていました。

わたしはずっと父に反発して生きてきました。いつも打算的な生き方をしていることと、笑わせようということが見え見えの話し方と、生徒をパターン化して分類指導する態度が特に嫌いでした。高校の時に進路を相談する予定だった日、酒に酔って帰ってきた父に「ふざけるな!」と反目したときからずっと冷ややかな眼で眺めていました。父の反対を押し切って結婚式をあげ、やっと家に挨拶に上がれるようになったころには熊本に勝手に家を建て、ずっと父の思惑を裏切って生きてきました。

「あんな男になりたくない」という反面教師的な意識で父を観てきていましたが、当然のことのようにわたしはどんどん父に似てきました。最初はそんな自分が嫌でしたが、徐々にその心は変わってきました。単に素直な表現が下手なだけ、本当は情熱的なのにクールに見せかけようとして不器用なだけ、本当は寂しいのに弱点をみせたくなかっただけ。自分の姿を鏡にしてみると、父の心の中が鮮明に見えてきました。父の昔からの友人には父を悪く云う人はいません。人生に悩んだとき必ず父に相談に来ます。遺品を整理していたら、姉のものよりはるかに多いわたしの写真アルバムがでてきました。全てにコメントが入っています。子どもの頃には日曜日に父の学校で跳び箱や水泳の練習をしたことを思い出します。自慢の息子だったに違いありません。母が亡くなった数年後、「寂しいがのう。黄昏時になるとどうしても涙がこぼれてくるのう」と彼がわたしに呟いた本音、わざと聞き流した息子は親不孝者です。早々に大好きだった妻を亡くし、息子にずっと反目されながら、それでも見栄を張って生きてきた彼の人生は、幸せだったのだろうか?ちょっと問うてみたい気分です。

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父の死

父の命日は、医師の書いた死亡診断書によると「平成14年6月16日頃」です。

6月23日の早朝、実家の近くに住む伯母から突然電話がかかりました。「お父さんはどこか遠くに旅行にでも行ってるの?」。一人暮らしだった父は毎日牛乳を配達してもらっていました。その牛乳が何日も溜まっていたことから牛乳屋さんが不審に思って警察に通報し、緊急連絡先だった伯母のところに連絡がきたわけです。わたしは、裏の倉庫にかけてあるカギで開けてくれるように頼みました。居間で死んでいた父が発見されたのは間もなくのことでした。父の妹である叔母の判断で司法解剖は行わず、私が現場に着いたときには死体はきれいに安置されていました。外傷がなく、髄液が血性ではなかったため、脳のトラブルや事件ではないと判断されました。父の食卓に残っていたジャスコの惣菜の日付が6月16日だったこと、居間の電灯が付けっぱなしだったことなどから、16日の夜を死亡推定日と判断されたようです。が、告別式で受付をしてくれた近所のおじさんがわざわざ私を呼び止めて「先生は17日にいつものように散歩していましたよ」と云ってくれました。ちょっとボケが出ていた裏のおばあちゃんも「翌朝見かけた!」と主張していました。きっと16日死亡説は間違っているのでしょう。でも、寺が書いてくれた位牌には「頃」が消されており、いつの間にか、「平成14年6月16日」が命日になってしまいました。

特別に発見時の写真と調書を見せてもらえました。死体の周りに散らかった新聞紙が、一人苦悶していたであろう父の姿を物語っていましたが、それでもおそらく長くても1,2時間の苦しみだったのではないかと思います。一人寂しく息絶えたのは無念だったかもしれませんが、闘病生活が長かった人たちに比べれば、いわば「ピンピンコロリ」に近い死に方でした。ある意味幸せだったのではないかとわたしは思っています。

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演劇を始めた理由

昨夜、佐伯で芝居を観てきました。高校教師をしている大学時代の演劇部の先輩が中心になって、1年前に旗揚げした演劇集団の2回目の公演でした。

大学入学の2ヶ月後に、オンボロプレハブの演劇部室にいるとは、わたし自身も思ってもいませんでした。高校時代までのわたしを知る全ての人間が、それを聞いて仰け反って驚きました。演劇部に入った理由は大したことではありません。出身高校の新入生歓迎コンパでしつこくラグビー部に勧誘する先輩を断るために「すみません。わたしは演劇部に入ることに決めたものですから」と口から出任せを云いました。その場に同じ下宿に住むF氏がおり、それを同じ下宿に住む演劇部のI氏に話し、二日酔いのわたしに「演劇部に入るんだって?早速部室に行こう!」と連行されたわけです。そのI氏こそ、昨夜佐伯の舞台に立っていた先輩です。

高校演劇から入部してきた人(わざわざ演劇をするためにうちの大学を受験した人もいます)や唐十郎の赤テントに感動してその足で入部した人にはホントに申し訳ないことです。でも、人生のつながりなんて、こんないい加減なご縁から始まるものかもしれません。それでも、あのとき演劇部を選んだのはわたしにはとても意味があったように思います。舞台に立ってスポットライトを浴びる快感は一度知ったら忘れられませんが、現在、あちこちで講演するときに生かされています。役者として他人になりきる習慣は、自分ならどうするか、という違う眼でものをみるのに役立ちますし、相手の心と空気を読む習慣は、話をしていて相手の考え方を推察するのに役立ちます。

こうやって仲間の芝居を観ると、いまだに「舞台に立ちたい!」心が頭を擡げてきて、初恋の時のような切なさとドキドキ感を感じてしまいます。

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からだが訴えていること

若い男性受診者から相談を受けました。「最近いつも胃が痛く胃薬を飲んでいますが効きが今ひとつです。ただ、土日は薬を飲まなくても全く痛くなりません。ストレスでしょうか?それから、目の近くがピクピク動くようになりました。以前はたまに片目だけでしたが、ここのところ毎日両眼に出てきます。これは関係があるでしょうか?」

彼はその悩みのために健診を受診したのですが、本人の目の前で確認した胃カメラの画像はとてもきれいでした。「これだけ胃がきれいなのだから胃炎や潰瘍でないですね。一番考えやすいのはストレス性の胃けいれんみたいな症状でしょうかね。」と答えました。目の周りのピクピクは大部分は眼の疲労症状ですからまずは眼を休めるのが得策でしょう。「ストレス」ということばはなかなか奥深くて一筋縄ではいきませんが、基本的には自律神経(交感神経)緊張状態の症状をもたらすわけですから、交感神経を落ち着かせる薬で簡単に改善するかもしれないと思います。胃薬はけいれんを取るタイプのものをもらうと効くかもしれません。

でも、そんな話をしながら、「本当は自律神経がいろいろな手段を使って『おまえ(=自分)は身体が疲れきっているぞ!普通じゃないぞ!』と訴えているのではないか?『だから心身の休養を取れ!』といってるのじゃないか?そんな忠告を無視するように薬で押さえつけてしまって大丈夫なのか?」ということが妙に気になり始めてきました。素直に彼にそう話したら、「たしかにそうですね。」と彼は笑って答えてくれました。

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小さながん?

以前勤務した田舎の病院で、ある若い内科の医師が肺炎で入院した患者さんの経過を年老いた妻に熱心に説明していました。その妻は医師の説明のひとつひとつに相槌を打ち、神妙に聞いていました。説明は小一時間で終わりました。

医者が立ち去ったあと、彼女はさめざめと泣き始めました。不思議に思った病棟の看護師が老妻に声をかけました。

「じいちゃんはもう長くないんやろうか?先生の云いよったことはほとんど何のことかわからんかったけど、じいちゃんの胸に小さながんがたくさんあるって云いよった・・・」

「がん?」・・・普通の肺炎で入院してとても経過の良かった患者さんのレントゲン写真に、がんの所見など何もなかったはずです。どうも、彼がわざわざばあちゃんに分かるようにと使った慣れない方言がまずかったみたいです。

「ほら、入院したときはこがん(=こんなに)大きかった影が、今はこがん(=こんな)風に変わっとるでしょ!」・・・あがん、こがん、そがん(=あんな、こんな、そんな)・・・。「こがん」を「小癌」と勘違いするなんてあり得んぞ!と思いましたが、笑い話のような本当の話です。

医者が患者さんに説明をしようとするとき、一般的に若い先生は専門用語を使いたがります。そのため患者さんは理解できずに聞き流す傾向にあるような気がします。年配の先生の中には、どうせわからないんだから、と説明をなおざりにする人がいます。患者さんも全部任せているからと依存していたりします。わたしも何とか理解してもらえるようにと表現をいろいろ工夫してみていますが、どれだけわかってもらえているのかはわからないのが実情です。

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どなたかドクターはいませんか

秋葉原の無差別殺傷事件の惨劇の現場にたまたま出くわした2名の医師の救護活動の記事がパソコンのニュースで流れていました。一人は日本臨床救急医学会総会に来ていた医者だそうだから、まさしくプロ中のプロが居てくれたことになります。声をかけたら私服姿の消防関係の人と看護師が手を挙げ、一緒に心臓マッサージを続けたそうです。残念ながら心肺停止状態から脱することができず亡くなってしまいましたが、自分も危険に晒されながらの彼らの行動には心から脱帽します。

医者や医療従事者は、基本的にオンとオフがありません。有事の際には自ら名乗り出て適切な処置に当たらなければなりません(法律上はどうなのか知りませんが)。でも、胸に名札をしているわけではありませんから、私服で休日の街に遊びに来ていてそんな事件に遭遇しても、手を挙げなければ素通りできます。日本臨床救急医学会総会が東京ビッグサイトで行われていたのですから、この惨劇の現場付近にも医者や医療従事者はきっと他にたくさんいただろうと推測できます。月曜の職場で興奮しながら同僚に話していたかもしれません。でも、そこで手を挙げなかったとしても決して不思議ではないように思います。自分がそこにいたらどうしただろう?そんなことを考えながらこの記事を読みました。

わたしはこれまでに2回、名乗り出た経験があります。心臓マッサージをしたこともありますがいずれも大したこともなく回復してくれました。でも、街角の小さな転倒事故や浮浪者風の人が倒れたときなど、遠巻きに様子をうかがって近寄らなかったこともあります。良心の呵責と戦いながら、大事はなさそうだとか、通行人が声をかけたから大丈夫だろうとか言い訳して、足早に立ち去りました。記事を読みながら懺悔しています。

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精査指示に込めた思い

数年前、ある企業健診の心電図判読をしました。ある30歳代の男性の心電図に心室性期外収縮がみつかりました。わたしは、二次精密検査の項目として、「心エコー・トレッドミル検査(運動負荷検査)・ホルター(24時間)心電図」を指示しました。ところがその数週間後、「(その企業の)産業医に相談したら、まだ若いのだからホルター心電図だけでいいと云われた。どうしたらいいか?」と企業の担当者から質問が入っているという連絡を受けました。

心室性期外収縮の全てが危険なわけではありません。治療を要するような危険なものはその中のごくわずかですが、心室性期外収縮を起こす原因疾患が隠れていることがあり、それを見つけだすために精密検査を勧めます。その産業医は期外収縮の原因として狭心症や心筋梗塞などの虚血性疾患を念頭に置いたのだと思います。30歳代に動脈硬化の進行は考えられないから、ホルター検査で日常生活に危険性がないかさえ調べておけば良いと判断したのでしょう。でも、わたしが確認したかったのは心筋症の存在です。あるいは負荷誘発性の期外収縮です。若い世代の突然死の原因は大部分がそれらですから。心筋症は心エコー検査をすればすぐ分かりますが、心電図変化が出てこない限り軽度のうちに検査を受ける機会がありません。そして突然死で発症してしまうことがあります。つまり、若年者だからこそ、あえて心エコー検査と運動負荷検査を受けることを勧めたつもりでした。

若年者だからあえて検査を勧めたわたしと若年者だから検査を削った産業医。なかなか、真の想いは伝わりません。でもわたしは、「是非とも検査を全部やってください」とは答えませんでした。金を払うのは本人です。産業医の進言を曲げさせて無理矢理検査しても心筋症が存在する確率は高くありません。受けて何もなければ不満が出ます。「産業医が責任持つって云うんだから、それでいいんじゃないの?」と大人げなくふて腐れて逃げてしまいました。

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どんな人生を生きるにしても

「どんな人生を生きるにしても、あなたの身体で生きるのです」

先日、ある受診者の方から教えてもらったことばです。「誰かの本に書いてあったものを書き抜いて部屋に貼っているんだけれど、なかなか実践できません。」と云っていました。人生の生き方は人それぞれに千差万別で、人に迷惑をかけない限り、自分のやりたいことを求めたり好きな人生を歩むのはその人の自由です。ただ、それを実現できるのは自分の身体あってのもの、どんな大いなる夢を思い描いても、それをこなせるだけの身体がないと前には進めません。どんな蘊蓄を語っても、他人が肩代わりできるものではありません。だから、精進しなさい。・・・教えてもらいながら、良いことばだなあと思って記してみました。

ただ、現実には本当に難しいことです。わたしも健診結果の説明のときに、「まあ、どうせわたしの身体ではないのですから、わたしにとってはどうでもいいことですけどね・・・」と意地悪な捨てぜりふをよく口にします。「分かってはいるんですけど」と云いながら、想像以上でも以下でもない言い訳が返ってきます。煩悩は星の数ほど転がっています。しなくてはならないことができなかったとき、人はたくさんの言い訳をします。わたしも人に云いながら自分のことにはだらしなく、「だって・・・なんだもの」の言い訳は茶飯事です。そう簡単に悟りを開けるものではありませんし、本当に悟りを開けたときにはこの世から次の世に昇華してしまうものだと思っています。それでも自分の人生を生きるために頑張るものなのですね。言い訳なんてどれだけ並べたところでだれも困らないし、何も解決しないことを肝に銘じながら。

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標準化(続編)

先日、父の七回忌を無事済ませました。

私の家が形だけの檀家になっているお寺は、実家の近くにあるために母が亡くなったときに父が探して檀家にしてもらったのですが、とても長い歴史のある大きなお寺です。僧侶もたくさんおり、法要をお願いしたときにお経をあげてもらうお坊さんは、毎回違います。

今回の担当のお坊さんは、「わたしたちは座布団は必要ないから使わないのですよ。便宜上派手な座布団敷いてる人もいますけどね」「まずは施主の方からご挨拶ください。わたしのご挨拶はその後です。その順が本当の姿ですね」と、初めからいつもと違う流れでしたが、突然、渾身の力を振り絞って大声で読経を始めました。最後まで持つのかしら、と私たちが心配するくらいでした。いつも回される勤行集も使いませんでした。

考えてみると、今回が特別なのではなく、今回ほどではないにしろそれぞれのお坊さんにはそれぞれのやり方があったように思われます。同じ「法事」という行事に対して、同じ浄土真宗東本願寺大谷派の門徒であるにも関わらず、読むお経の長さや内容もそれぞれに少しずつ違っています。最初に指導を受けたときには同じことを教わっているのでしょうがそれに各々の経験値と勉強(修行)が加わって各々に独自の作法が出来上がっているように思います。それが一番如実に顕れるのが、お説法の内容かもしれません。いつもと全く違う1時間少々の法事の時間に、わたしはなんの不快感も違和感も感じませんでした。

施主として、足の痺れと戦い吹き出る汗を拭きながら、大きな身体で自信に満ちた力一杯の読経をあげておられる目の前のお坊さんの姿に、もの凄く励まされた気がしました。

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標準化(後編)

ところが、一人当たりの健診結果説明時間に医者によるバラツキがあるのはいかがなものか?というスタッフ内部からの問題提起があり、これまた先日長々と会議がもたれました。同じ金を払っているのに、検査や説明が同じでないことには不公平感が出るのではないかと云うのです。

だから、「標準化」をしたいらしいのです。同じ金額を払った受診者さんには誰がやっても同じレベルのサービスを受けられるようにしたいらしい。「標準化」はいいことです。提供する内容の質を上げてステイタスを高めることは、受診者にとっても我々にとっても望ましいことです。でも、多数の受診者をこなすための「標準化」とは、簡単に云えば「最低限の質を保ちながら、あまりバラツキのある過剰サービスはしないようする」ということになります。わたしの結果説明の方法は健診の世界ではおそらく邪道です。もしわたしのやり方を全員がしたら、たぶん時間がかかりすぎて業務が全く回らないようになるでしょう。そうなると、逆に、「標準化」のためにわたしが「普通のやり方」をするように求められるのかもしれません。

健診という事業は、経済効果を考えなければなりません。100人の受診者のうち、70~80人に効果があったら超優良企業です。でも、わたしは経営者になりたくて医者になったわけではありません。医者なら、関わった人が高々10人以下でも必ず全員に何らかの成果が出ないと意味がない、と考えるのが当たり前です。それではスタッフの給料を捻出できず、企業が成立しません。そんなことを考えながら、もし「標準化」がそのレベルで落ち着いてしまうなら、わたしは自分のやりたい健診の形を求めて、どこの施設に転職しようか?・・・そこのところが、いま、わたしの頭の中で燻り続けていて、ちょっと辛い日々です。

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標準化(前編)

健診結果説明の一人当たりの時間が、わたしは他の先生より明らかに長いです。

健診結果の説明において、「要精密検査」や「要治療」と判定された結果内容の説明についてはどうでもいいことだと思っています。何の病気を疑ってどんな検査を受ける(どんな治療を受ける)必要があるなどという内容は医者じゃなくても誰でもできます。当人がその判定に納得して詳しい専門医のモトに受診してくれればいいだけですから。

わたしが時間をかけているのは「異常なし」「軽度異常で心配なし」と判定されている項目です。「血糖異常なし」と書かれているけれど空腹時しか調べてないから異常がないかどうかはわからない。「血圧正常」と書かれてるけど早朝高血圧があるかもしれない。「腫瘍マーカー異常なし」と書かれているけど癌がないという意味ではない。・・・家族歴や体格や喫煙歴や年齢などを考えると、一見「異常なし」とみえるデータであってもそこまで話しておかないといけないと思われる人がたくさんいます。「それこそ保健師がするべき仕事で医者の仕事ではない」とよく云われますがわたしはそうは思いません。医者が「問題ない」と話した後にどんな優秀な保健師さんがあれこれ説得しても、まず聞く耳を持ってくれないからです。病気に対する行動変容は、医者がどの程度まで関与できるかにかかっていると言い切れます。ただ、現実には他にすべき仕事があるから・・・と逃げているだけです。精密検査の必要性の説明に時間を費やすくらいなら、その時間を未病状態の実体を分からせる説明に使いたい。そういう思いで、わたしは健診の世界に移ってきました。

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法事会席料理

明日、父の七回忌の法要を実家の近くのお寺で開きます。先月半ばには親戚の伯母の三回忌がありました。この歳になると毎年のように親戚の法事があります。最近は読経をいただいたあとの会席料理を、家で作らずに仕出し屋さんに頼むことが多くなりました。一同が会する広い家も少なくなってきたので、直接食事処で宴席を設けることも少なくありません。うちの場合も、お寺とお墓に近いところにある食事処を予約しました。

このときの料理内容を決めるのがとても厄介です。法事会席料理といえばどこの店でも概ね決まっています。値段さえ決めればそのランクに応じた料理が出てきます。ところが、法事会席の基本はあくまでも「酒の肴」です。酒に合うような味付けや料理内容になっていますから、ランクを上げるとその分揚げ物や油モノが一品ずつ増えてきます。でも、今はほとんど酒を飲みません。半端に離れた親戚が集まるために使う交通手段はほとんどが自家用車で、酒を飲めるご主人が運転者ですので自ずと酒は飲むわけにいきません。さらにみんなどんどん歳を取ってきました。今回予約した店は昨年母の法事のときにも使った店ですが、昨年あまりに多すぎて料理が余ったので、今回は1つランクを下げたもので予約しました。何しろ腐れやすいこの季節、余り物を持って帰ることすらできません。

きょうび、年寄りと運転者ばかりしか列席しないことが標準になりつつある法事。仕出し屋さんやお食事処では「法事会席」の料理内容を根本から考え直して、より現実にあったアレンジをしていただきたい。

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聴診器

聴診器は内科医の象徴です。特に循環器内科医にとっては命のようなものだと指導されてきました。回診に聴診器を忘れていこうものなら、「キミは病院に遊びに来たの?」と上司からシコタマ怒られました。聴診器は、耳に当てる部分と相手の胸に当てる部分ができるだけ短いのが理想です。大昔の聴診器はほとんど胸に直接耳を当てて聞くようなタイプでした。それでは不便なのでゴムチューブを付けるようになりましたが、長いほど良く聞こえなくなります。わたしが初めて循環器科に就職したとき、持っていた聴診器のチューブを短く切りとられました。現在使っているのは、その後に大奮発して買った、初めからかなり短い循環器用の聴診器です。

健診の診察で心雑音を聴き取ることが珍しくありません。でも、前回までの記録をみると「異常なし」のことが多いのです。この場合、3つの可能性があります。1.前回の医者が心雑音をきちんと聴き取れなかった、2.聴き取ったが問題ない雑音だから「異常なし」とした、3.前回までは雑音が本当になかった、です。一番問題なのは3です。たとえ大した音ではなくても前回なかったのであれば、新たな病気が生じてないかきちんと心エコー検査などを受けるべきです。1.は論外ですが、やはり餅は餅屋、専門医だから聴き取れる音ってあるんですよね。そんなことを常日頃思いながら、先日自分の聴診器を修理に出したため、診察室に備え付けの聴診器を使って診察しました。世間の病院に普通にある標準的な聴診器です。それを使ってみたら、たしかに雑音なんか聞こえませんでした。かなりの病的雑音じゃないと聴き取れません。「そうか!わたしの腕じゃなくて、聴診器の格の問題か!」・・・もしかすると、良く聞こえる聴診器よりもちょっとザル気味な聴診器の方が、健診としては目的に適っているのかもしれないと思ったりしました。

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チャンピックス

禁煙治療といえば、ニコチンガム(二コレット:武田薬品)かニコチンパッチ(ニコチネルTTS:ノバルティスファーマ)が有名です。ニコチンを体内に吸収させてニコチンの禁断症状を抑えます。多めのニコチン濃度で始めて徐々に軽くしながら最後に縁を切る、というしくみです。ところがガムは仕事中に噛めないとか口内炎ができるとか、ニコチネルは肌がまけて痒くなるとか、副作用のために続けられない人が少なくありません。あるいは逆にニコチン濃度を減らせずにやめられなくなることもあります。

そんな中、つい最近、禁煙補助の内服薬「チャンピックス」(ファイザー)が薬価収載されました。この薬にはニコチンは含まれません。ニコチンはニコチン受容体というところにはまり込むとドパミンというホルモンを放出させます。これがあの一服したときの気持ち良さを出させる物質です。そのニコチン受容体に、ニコチンがはまる前にこの薬がはまり込んでしまいますので、ニコチン自体が反応せず、タバコを吸っても気持ち良くならなくなります。一方で少量のドパミンをきちんと放出させますからニコチンが入ってこないことへの禁断症状が緩和されることにもなります。最初はタバコをやめないままに少量飲み始めて、「今日から禁煙!」と決めた日から量を増やして服用する仕組みだそうです。保険診療ができる医療機関ではこの薬を保険で処方してもらえます。大きく選択肢が増えた感があります。

基本的には「禁煙したい」という自分の意志があるときでないと効果はありませんが、これまで何度かトライしてうまくいかなかった人はもう一度保険診療のできる医療機関の門をくぐってみてはいかがでしょうか。今度は上手くいくかもしれません。

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タスポ

成人識別たばこ自動販売機「タスポ」が世に出ました。わたしは全然興味がありませんが、基本的にはこの取り組みは意味がなかったという意見が大勢です。でも、きっとなくならないでしょう。国が財源になるタバコの自販機を失くしたくないので講じた手段だといわれています。どうしても吸いたい子どもたちは成人である先輩や親のタスポを使うでしょうが、単なる好奇心の子ども達が面倒くさがって吸わなくなるなら意義があると思います。

一方、タバコ自販機をかかえる小売店にとってはタスポは大不評らしいです。 「買うのが楽なコンビニにお客さんが流れるのは分かりきっている。この店も続けられるかどうか」と話すタバコ店の店主の話がでていました。タバコ屋さんの中には廃業する店も少なくないと聞きました。また実際のタスポ認識装置の設置費用は自販機メーカーの負担です。1台10~12万円もする機械を新規導入してもタスポを使う人が増えないのならメリットが薄く、もう作らない方が得という小売店もあるそうです。せっかくタバコの世界から足を洗うのだから、彼らにはもう少しの補助を出してあげても良いのじゃないかしら。対面販売のコンビニでの売り上げが上がるだろうと考えられていますが、身分証明書などの提示をどこまでいい加減にするかが売り上げに大きく関係するというのも皮肉なものです。ホテルや居酒屋では「タスポ貸します」という店が出始めたというニュースが昨日の新聞に出ていました。

タバコ事情が何か少し変わろうとしているのは事実です。が、医療現場がタバコ規制の大きな働きかけをしようとするたびに責任者が某お偉いさんに呼び出されて露骨に脅される国です。自らが自らの身体を守る(あるいは家族を守る)以外、誰も自分を守ってくれない国だということは知っておいたほうが良いでしょう。

ところで、わたしがいつも宝くじを買う(とても良く当たると有名)大分の某タバコ店は、宝くじのために何とか存続してほしいです。

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タバコがなくならない

わたしのタバコ歴は大学3年か4年くらいからだったと思います。きっかけなんて覚えていません。別に長生き志向もなければ将来の夢もないわたしは、健康のために禁煙するなんて気は毛頭ありませんでした。妻は嫌がっていましたので、自宅を新築したときに自宅での喫煙が禁止になりました。医局に喫煙スペースがあった間は仕事をちょくちょく抜け出しては一服していました。他の科の先生との大事な意見交換の場でしたから(みんな必ずこう云いますね)。それが建物の軒下に移動されたあたりから面倒くさくなって職場での喫煙をしなくなりました。仕事中に吸うことはなくなりましたが、宴会などでは貰いタバコを続けていました。2年前に職場が敷地内完全禁煙になったとき、なぜだかわたしは「禁煙担当(禁煙パッチ処方担当)」にさせられました。表向き吸うことができずにいましたが、それでも宴会中の貰いタバコは時々やっていました。ただ、最近はそういう吸い方をすると必ず翌朝吐きそうになりますし、決まってひどい二日酔いになります。どうも、身体自体が受け付けなくなってしまったようです。2日前に半年ぶりくらいに1本吸わせてもらったら案の定翌朝は二日酔いになりました。

タバコが100%身体に悪いことは、もはや周知の事実です。この事実にはまったく逃げ道はありません。世界中がそう宣言しています。なのに、なぜなくならないのでしょう?ケシの花があれだけ問題になったのにタバコ栽培が禁止にならないのはなぜでしょう?日本ができないのはわかります。政治家が牛耳っているからです。大事な収入源だからです。アメリカがそうしないのは、日本みたいな国に売れば売れるからだと聞きました。でも、ヨーロッパを初めとして、製造中止にするか販売禁止にするかしている国がどっかにあってもいいのじゃないかと、いつも不思議でなりません。

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タバコとシャンプー

世界禁煙デー(5/31)からの1週間は禁煙週間なので、タバコに絡む話題を書いてみます。日本禁煙学会という学会があります(http://www.nosmoke55.jp/)。禁煙に関するありとあらゆる情報が集められ、タバコの世界に対してアグレッシブな働きかけを続ける学会です。禁煙治療に保険が使える医療機関も載っていますから、禁煙を考えている人やそのご家族は参考にしてください(http://www.nosmoke55.jp/nicotine/clinic.html)。熊本にも熊本禁煙研究会という活動があります。熊本生活習慣病研究会から派生した研究会です。

2007年度の禁煙研究会では京都府立医科大学の繁田正子先生をお呼びしました。そのお話の中で私が一番記憶に残っていることは、「タバコはなぜ腐らないのか?タバコはなぜ虫に食われないのか?」という話でした。植物でありながら、たとえそれを乾燥させたからと云っても、ずっと机の上にほったらかしたとしても、いつまでも朽ち果てることがないのはなぜでしょうか?そう云われて、「たしかにそうだなあ」と初めて思いました。

結論は簡単でした。製造中に、除草剤(カドミウムなど)が加えられ、防虫剤(ヒ素など)が加えられ、防腐剤も加えられているからです。農薬散布された野菜は洗ったりそのまま放置するとそれなりに濃度は減るでしょうが、タバコはきちんと塗り込められていますから確実に体内に吸収させることができます。私は、その話を聞きながら、タバコは市販のシャンプーと同じ、つまり、シャンプーを飲んでいる様なものなのかと思いました(まあ、経皮毒の市販シャンプーも危険ではありますけど)。

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