« 2008年6月 | トップページ | 2008年8月 »

2008年7月

「リセット禁煙のすすめ」

乗りかかった船なので、磯村先生の「リセット禁煙」の話を続けます。講演会のアンケートにお答えしたらその翌朝にはメールが届き、1週間後には「リセット禁煙のすすめ」(東京六法出版、500円+送料160円)が届きました(http://www.t-roppo.com)。

「まだ禁煙するな!この本をきちんと読み終わるまでは禁煙をするな!」と云い切るこの500円の本は、なかなか魅力的です。「タバコについての気づき、5~6回の気づきの連鎖反応を起こすことでそれまでのタバコに関する誤った思いこみをすべてリセットして、タバコの真の姿を理解する。もともと渇望して吸っているわけではないタバコなので、自然に吸う気がなくなってしまう。」・・・これが「リセット禁煙法」なのだそうです。この方法は、禁煙成功率もさることながら、再喫煙率が驚異的に低いことで脚光を浴びています。それは努力型禁煙法ではないからだそうです。

酒の席しか吸わないから「ほとんど禁煙した」という人は、禁煙することを諦めた人だ。本数が減るほどタバコはおいしくなる。「軽いタバコ」はフィルター付近の穴の大きさが大きいだけで葉っぱは同じ、実際に吸うときにはその穴を潰すから本当は軽くない。メンソールタバコは初めて吸ってもむせない様な麻酔薬が入っている。・・・本題とはあまり関係ないけどこんな話をちょっと面白く思いながら読みます。失恋した相手を忘れようとするのがこれまでの努力型禁煙法だ。タバコを忘れるために飴玉を舐めても止められないのは楽しくないから当たり前。タバコは完璧な詐欺師だ。なかなか語録が多すぎて書きつくせません。

「8月1日から禁煙を始めます」とわたしに宣言してくれた若手職員の男性がいましたので、この本を貸してあげました。

| | コメント (0)

禁煙研究会

以前紹介した熊本禁煙研究会(http://satoritorinita.cocolog-nifty.com/satoritorinita/2008/06/post_d404.html)の講演会が今年もありました。

今年は、リセット禁煙研究会(http://homepage3.nifty.com/hokenshitsu/)の代表をしている磯村毅先生のお話でした。名古屋の予備校生に禁煙をさせて合格率をアップさせたり、ナゴヤドームで高校生相手の禁煙キャンペーンをしたりとユニークな活動をされていますが、今回は「リセット禁煙」のやり方を実演してもらいました。

タバコを吸わない人は美味しい料理を食べるとそれだけで満足できますが、タバコを吸う人は最後の一服をしないと満足できません。ニコチンはドーパミンを分泌させ気分を良くさせます。そして気持ちが良い証拠のα波という脳波を出させます。だからその快感を得たくてことある毎にニコチンを補充するわけですが、タバコを吸うたびにα波を出し続けるので基本のα波がだんだん足りなくなります。足りないからさらにニコチンを補充します。おわかりでしょうか? タバコを吸う人のα波は、タバコを吸うことによってやっとタバコを吸わない人の基本の位置と同じになるわけですから、残念ながら快感も満足度もそれ以上にはなれません。自分がスリに遭っていることに気づかず、その盗まれた金を返してもらって喜んでいるようなものです。ニコチンはドーパミンを強制的に分泌させますが、続けていると何か楽しいことがあっても脳がさぼってそれ以上のドーパミンが出せなくなっています。

あまり上手く書けていませんね。自分の力でこっそりできる「リセットパック」通信教育教材があるそうです。もっと安い導入本やCDもありますので、興味のある方は問い合わせを!(http://www.t-roppo.com)

| | コメント (0)

スピリチュアリティ

黒丸先生は、心療内科医を経て、現在は終末医療・緩和ケアの世界にいる方なので、現代医療の医師たちがおそらく一番苦手としているであろう、スピリチュアリティの問題にきちんと向かい合った話をしてくれました。退屈そうな溜息をつく隣りの席の医者を尻目に、「医者もどき」の私はとても楽しく聞くことができました。

スピリチュアリティ(霊性)、つまり「超自然的な存在に自分がつながっているという感覚」。自分の生きてきた意味、自分の存在の意義などという宗教観や哲学もこれに含まれるわけですが、こころとからだのつながりは心身症という形で何とか理解できているであろう医師たちも、ここに「必然」とか「宿命」とかいうことばが入ってくると途端に眉を顰めます(特に若い第一線の先生たち)。「わたしは生かされている」「生きていることに感謝することができました」という患者さんの心からのことばをさらっと聞き流す医師が今でも多いのは、ちょっと寂しい気がします。

人間は単なる細胞の集まりなのではなく、生きているということ自体がもの凄い神秘の存在であるという当たり前のことを、医療人だけではなく一般の方も忘れかけている気がしてなりません。○○先生は糖尿病の専門だ、心臓は△△病院、胃腸は■■クリニック、そんな臓器別主治医を巡っている患者さんと、臓器専門領域以外はわからない医師・・・人間を人間として見ていれば、スピリチュアリティのイメージにさほどの違和感はなくなるように思うのですが。そんな流れの中から、「ホリスティック医学」の考え方が大きな流れになろうとしてきることは、とても心強いです。http://www.holistic-medicine.or.jp/index.htmhttp://holistic.1717.info/holis.html

| | コメント (0)

時計をはずす

日本心臓リハビリテーション学会の2日目には、緩和ケアの黒丸尊治先生が「こころとからだのかかわり」という題名の面白い話をしてくれました。

一番感動したのは、「わかってもらえるということの素晴らしさ」ですが、これはまた改めて書こうと思います。

こころのちょっとした変化が病状を簡単に変えてしまうことを、これまでの臨床経験から話していただきました。そして、医療者がそのことを表面的なレベルで理解している気になったとしても、人の心はそんな単純なものではないということについて、しっかりと再確認させられました。

自分の行動パターンを変えるということはどんなことか。たとえば「時計をはずす」。わたしの様に時間がとても気になる人間は、待ち合わせ時間を何時にする、その30分前には着かないといけないから、そのためには何時に準備を始めて何時に家を出て・・・と計画を立てないと落ち着かないタイプですが、そんな人は一度肌身離さず付けている腕時計を完全に外してしまってみると面白い、というのです。わたしの勤務している健診センターの受診者フロアには時計がありません。人間ドックを受けている間だけは世俗の流れを忘れてもらいたい、というコンセプトからです。本当はテレビもビデオかDVDだけしか流さないことにしていましたが、さすがに高校野球やニュースを見たいという受診者の要望には勝てなかったようです。それでも、時計は今もありません。開設当初は時計がないことの苦情がアンケートに割合多かったのですが、最近はあまり聞かなくなりました。

ついつい時計をみるクセのある人、週末などを使って、一度試してみましょう。いつもの生活と何かが変わる感覚を少しでも経験できたら、素晴らしいことだと思います。実は最近、時計をどこにやったかわからずに朝になって大慌てすることが時々あります。

| | コメント (0)

キャッチボール

先日、「日本心臓リハビリテーション学会」(大阪)に出席しました。オープニングセレモニーとして、特別企画「わがプロ野球人生-ケガとの戦い-」と題して、元ミスタータイガース掛布雅之氏のフリートークがありました。

司会の某先生が、何とか医学の学会に合うように心リハの教訓にしたくて無理やり誘導しようとするのですが、掛布さんがお構いなしに話し込んでいくので最後まで噛みあわないトークになりました。でも、わたしは楽しく聴かせてもらいました。

プロのアスリートは出続けることが大事。「今日は出るのだろうか?」ファンがそんなことを心配しながら球場に来るような4番打者は要らないのじゃないか!という広島の鉄人、衣笠選手のことば。つい、わたしが応援しているサッカーチームのことを思ってしまいました。最後に彼が、心リハを頑張る患者さんに向けて2つのメッセージを発信しました。

●病気と良い付き合い方をしましょう。自分(掛布さん)のケガも同様ですが、「どうして自分だけが」と思ってもしょうがないこと。一生付き合うものだから、病気と一緒に生きる人生を楽しみましょう。

●主治医との心のキャッチボールをきちんとしましょう。キャッチボールは野球の基本です。投げる方は一番受け易い球を投げ、受ける方は投げる人の気持ちになって確実に心をキャッチする。その基本がなかなか出来ていない気がします。

良い話を聴かせてもらいました。患者さんの主治医への想いはつい片思いになりがちなものです。患者さんも主治医も同じ球をキャッチボールするためには、どっちの心もお留守になってはいけないのだということを再確認させられました。

| | コメント (0)

煩悩な日々

職場の広報誌7月号が発行されました。投稿コラムを転記します。このブログを始めてから、コラムのネタが浮かばなくなってきてこまっています。

********************************************

煩悩(ぼんのう)な日々

「人間は煩悩の生き物である!」・・・わたしがずっと座右の銘に掲げてきたことばです。生活習慣病のお話をするときにこのことをいうと必ず笑われます。「煩悩」という仏教用語が近代医学になじまないと感じるとか、「煩悩に負けるのは恥ずかしい」という真面目な教えが日本人に浸透しているとかかもしれませんが、きっと「煩悩と戦うしかありません」といわれても勝てそうにないことを分かっているからではないかと思います。

「食欲」は人間が持つ基本の欲求です。知らなかったらどうもないのに、その味を知ってしまったがためにしかもすぐ手に入ると分かったがために、もう食べずにはおれません。高血圧の人は塩辛いものが好き、糖尿病の人は甘いものが好き。神様は煩悩に上手い具合に刺激を与える準備をしています。人間は欲求を満たすためには努力を惜しみません。できるだけ安くて高カロリーの食べ物を口にできるように知恵をしぼって開発し普及させました。大成功でした。「運動欲は人間には存在しない」ということを、松尾洋さん(くまもと健康支援研究所)と新年号で対談したときに教わりました。とてもショッキングな事実でした。「動物は動くのが当たり前」と思っていましたが、実は動かないですむなら動かないように作られているのだそうです。だから、できるだけ動かないでも楽できるものを開発し次々と作り上げてきました。これも見事に成功しました。人類がこうして次々と作り出した「文明」は一気に栄光の時代を迎えました。

ところが、その栄光は今、音を立てて崩れていっています。実は、食欲も運動欲もその欲求に任せて好きにやっていると勝手に病気になるように作られていました。神様はわざと煩悩ばかり並べておいて、その煩悩と対峙しなければならないカラクリを準備していたことになります。わたしたちの仕事は、いかにこの煩悩を克服させるかを説く仕事です。自分のことを棚に上げてでも「しないと大変なことになりますよ!」と脅す仕事です。でも、できない。分かっていたってできないものはできない。私自身も例外ではありません。「あなたは他人に厳しいけど自分には甘いよね」とは、私がよく妻に言われる厳しいひと言です。煩悩と戦っても勝ち目はないのだから、煩悩に負けることは恥ずかしいことではありません。けれどそれに甘んじていると病気になります。ですから、何とか煩悩と戦わなくても良い方法を探す必要があります。期間限定で煩悩に逆らってみるのも案外面白い方法です。おかずはわざと少ししか作らないとか、エレベーターは壊れていると仮定するとか、些細でくだらない誓いでもいいので、プチ修行をしてみてはいかがでしょうか。

「煩悩があるからこそ悟りを求める心が生まれ、悟り(菩提)があるからこそ煩悩を見つめることができる」・・・煩悩に向かい合い、考えて工夫することは、その人の人生を大きく変える手段だと信じてやみません。きっと、煩悩を克服して悟りを開けたときがこの世からの卒業のときだと思いますが、残念ながら私には当分先のことのような気がします。

| | コメント (0)

脚気の再来

話題の「篤姫」で、篤姫を寵愛した第13代将軍徳川家定は、持病の脚気を悪化させ、心不全(脚気衝心)を起こして死んだと云われています。

脚気(かっけ)。ビタミンB1欠乏症でおきる有名な病気です。末梢神経炎を起すので膝をハンマーで叩いた(膝蓋腱反射)ときに反射が起きないことは医者以外でも良く知っていることです。ビタミンB1不足などというのは栄養が十分行き届くようになった現代社会では過去のものだと思っている人も多いようですが、驚くことにこれが意外に少なくなっていないのです。

元来、富裕層である大富豪に多い病気で、これの原因が白米だったと云われています。一般庶民は雑穀を食べるので脚気にはならず、当時は脚気は贅沢病とまで云われていました。また、戦争中に兵隊さんが良く働けるようにと、大盤振る舞いで白米を支給したらおかずも食わずに白米ばかり食べていて脚気になってしまいました。おわかりでしょう。白米にはビタミンB1が含まれていないのです。白米は死んでいる!と以前書きました(http://satoritorinita.cocolog-nifty.com/satoritorinita/2008/07/post_cc64.html)が、こういう大事なモノが捨てられていることを知っておいてほしいと思います。普通はおかずでビタミンを補います。ところが、ジャンクフードやインスタントラーメンと砂糖漬けの清涼飲料水しか摂らない若い皆さん、残念ながらその中にビタミンB1はほとんど含まれていません。あるいは、米飯は食べずに代わりに酒ばかり飲む人、不規則な食生活の人、野菜など大嫌いな人、その上で運動バカの人・・・ね、現代人はビタミン不足の宝庫です。

ご注意あれ!

| | コメント (0)

天空の視線

妻は、以前よく予知夢を見ていました。東京で軽いパニック障害を起していた頃のことです。夢の中で、彼女はステンドグラスを作っていました。周りに何人か居ますからどこかのステンドグラス教室のようです。ビルのような鉄筋の張りのある一室でした。自分が楽しそうに笑いながら周りに溶け込んでいる様子だったので、夢ではあったけどちょっと安心したそうです。

約半年後、彼女は自分で調べて、新大久保の駅の近くにあるステンドグラス教室に行くようになりました。電車でそこに通うようになって彼女のパニック障害は徐々に良くなっていきました。夢のことなどすっかり忘れていたのですが、ある日、「あ、この風景見たことがある」と思いました。そしてそのとき、何となく天井の一角が気になってしょうがなかったそうです。何か妙な視線を感じる・・・意を決してその一角に視線を上げたとき、彼女は全てを悟りました。半年前に見たのはちょうどあの天井から見た俯瞰図のような光景だったのです。いつもの予知夢は自分の目で見た風景だったのに、あのときの夢だけは自分の姿が見えていたのです。そうです。彼女が下から眺めた先にあった視線は、まさしく半年前の夢の中で自分の目から発したものだったのです。

わたしはこの話がとても好きです。「時空を越える」ことが普通にありえることを物語っているからです。過去の自分に会うなどという空想小説のような話が、現実にあっても全然おかしくない!わたしは、この話のおかげで、普通に受け入れることができています。

| | コメント (2)

霊の良し悪し

「怖がるといけないから云わなかったんだけどさ」・・・妻はよくこんな云い方をします。

ある山中の病院に勤務したことがあります。初めて行った年、私たち夫婦は古い平屋の職員宿舎に住みました。細い町道からちょっと高台に上ったところにそれはありました。家の裏側には欝蒼とした林がぎりぎりまでせり出しており、そちら側半分はジメっとした薄暗い家でした。おかげで、大きなムカデやゲジゲジが我が物顔で家の中を通り抜けて、よく朝から大騒ぎしました。4DKの間取りの中央に、二間続きの座敷がありましたが、その中央の境目の鴨居の横に御札が貼ってありました。あるとき、「お札は、家の隅か押入れの中に貼るのが普通じゃないか」とふと思いました。それを妻に話したとき、彼女が重い口を開けました。

「この家には他に住んでるモノがいるみたい。あるいは溜まり場なのかな。一人は座敷童みたいな子どもで、ステンドグラスを作っているときに足もとにまとわり付くの。これはたぶん遊んでほしいだけの良いヤツ。でももう一人が厄介なの。あなたが当直の夜にだけ時々出てくるんだけどさ。寝てると枕元に気配がするから、またムカデかなとか思っていたら、そうじゃなくてね。」・・・そのおばあさんのような女性は静かに枕元に座ってじっと自分をみているのだと云います。その悲しげな風情はゾクっとしてあまり良い感じがしないのだそうです。「ヤバイ!と思うんだけど、その位置から絶対近寄ってこないの。どうもその御札の位置からこっちに入ってこれないみたいなの。」彼女は、わりあい平然とそんな話をしてくれました。

彼女は、以前からわたしには見えない存在をちょこちょこ見てきました(2回の流産(http://satoritorinita.cocolog-nifty.com/satoritorinita/2008/05/post_a85f.html)の後からあまり感じなくなったようですが)。ですから、何も見えないわたしも、いつの頃からかそういう話をあまり特殊なことと思わなくなりました。

| | コメント (2)

「家守綺譚」

「家守綺譚(いえもりきたん)」(梨木香歩著)を読みました。先日、運転中に紹介されたのを聴いて、まるで憑かれたように読みたくなりました。推理小説でもサスペンス小説でも純愛小説でもない、こんな不思議な小説を読むのは本当に久しぶりでした。

綿貫征四郎という売れない物書きの主人公が、亡き学友の実家を守るわけですが、とにかく出てくるものが妖怪だらけ。狸や河童だけでなく花や草木や鳥たちといったあらゆる自然界の精霊たちが彼に絡んできます。死んだはずの学友も平然と掛け軸から出てきます。大の大人がカワウソの孫だったりします。それを、主人公も隣りのおばさんや寺の和尚も全く当たり前のことのように悠然と受け入れている。奇妙な物語(=奇譚)ですが、この不思議な空気がとても心地良く、一気に読み上げてしまいました。ちょうど、先週末にテレビで見た「となりのトトロ」と同じです。トトロの世界でも精霊たちは人間と共存し見守ってくれています。トトロでは精霊が見えるのは子どもたちだけですが、でも周りの大人たちはみんなその存在を認めています。

わたしはどこかでこんな人生に憧れています。守る家で悠々自適に生きる生き方にも、自分の周りの自然界にそのまま同化してしまいそうな生き方にも憧れています。というより精霊たちに認められた綿貫征四郎に嫉妬してしまいます。きっと昔の日本はどこでもこんなもんだったのではないかと思います。幼稚園に上がる前、田舎の父の実家にばあちゃんと住んでいた頃、わたしはそんな精霊や妖怪たちに出会っていたような気がします。先日、法事で田舎に行きました。もはや家も道も変わっていましたが、合間に裏の田圃のあぜ道に出てみたら、何かが木陰でわたしを覗いているような気がして、とても懐かしい感覚になったのを覚えています。

| | コメント (2)

介護サービス(後編)

伯母が介護サービスを受けるかどうか悩んだ最大の要素は、実はもっと別の話でした。介護ヘルパーという赤の他人に自分たちの秘密をすべてさらけ出すことができるだろうか、という懸念です。

もちろん、「夫婦の間のことを他人にお願いするのは申し訳ない」という気の遣い方をする日本人特有の遠慮深さはありましょうが、おそらくそれは表向きの言い訳です。自分の家の中の恥ずかしくて他人には見せたくない部分、あるいは夫婦や人間関係の他人に知られたくない部分が必ずあるものです。それをさらけ出さないといけないことに、二の足を踏む最大の理由があるのです。それは、誰もが持っているプライドなのかもしれません。でも、ほとんどすべてをさらけ出さないと期待するほどのサービスは受けられません。くだらない取り越し苦労だという人もいるでしょうが、やはり心も体もヘルパーさんに委ねてしまう覚悟ができるまでには、葛藤があって当然なような気がします。もともと開けっぴろげな性格でおおらかだった伯母でさえも、そこが最大の壁だったと云います。さらに、初めて会う人と性格が合わなかったらどうしよう、嫌だったら断れるだろうか?断ったら嫌がらせを受けないだろうか・・・。伯母さんの場合は出会った人がとてもいい人だったから、覚悟を決めるのにあまり時間がかからなかったそうですが。

二人暮らしの我が家でも決して他人事ではないこの問題、医療従事者でありながら、わたし(あるいはわたしの妻)も同じような途方の暮れ方を同じようにするような気がします。

| | コメント (0)

介護サービス(前編)

母方の伯父が突然認知症になりました。日頃から矍鑠(かくしゃく)としていた彼は自分のことは全て自分でしないと気が済まない人でした。それが今年に入ってから急に変わってしまったようです。多くの持病をもつ彼をどの病院に連れて行こうか、行きつけの病院を無視して良いのか、遠くでは連れて行けないし・・・何冊もの病院のパンフレットを机に並べながら年老いた伯母(伯父の奥さん)は途方に暮れました。そんなとき、たまたま紹介された介護ヘルパーの方がとても切れ者でした。看護師の資格も持つという彼女は、病院受診の段取りや助言にとどまらず、公共の介護サービスの手続きを手伝い、自ら病院に出向いて病状を説明し、リハビリの仕方を習ってきては伯母に教え、それはとてつもなく精力的な介助を(伯父にだけでなく伯母に対しても)してくれたそうです。ほぼ同じ頃、彼らの娘が大腸の進行がんで大手術を受け、付き添いが必要になりました。出会いは宿命だとはいえ、伯母が彼女に出会わなかったら、伯母は何もできずに立ちすくんでいたかもしれません。

時々、「病気を抱えた妻の介護疲れて無理心中」とかいう痛ましいニュースを耳にします。「公共の援助機関やサービスがたくさんあるのに、自分たちだけで背負い込まずにどうして相談してくれなかったのだろう」と、近所の人や役場の担当者は必ずそうコメントします。でも、伯母と話しながら分かったことがあります。どんな素晴らしい制度やサービスがあっても、まず最初の第一歩、一体何をどうしたらよいか経験のない素人にはさっぱりわかりません。電話相談でもインターネットでも気軽に・・・と云われますが、それは慣れた人の発想です。経験した人には簡単でも、予想だにしなかった初めての出来事に簡単に対処できるものではありません。伯母のようにたまたまた出会った人が動いてくれなければ、彼女もまた何もできなかったでしょう。

| | コメント (0)

ニトロの舐め方

縁のない人にはまったく縁がない話ですが、ニトログリセリンという薬があります。これが爆弾ではなくて狭心症の発作止めだということくらいは知っているでしょう。

心臓を栄養する冠動脈という血管が狭くなって、一時的に心筋に十分な血液が廻らなくなると胸を締め付けるような症状を起こします。これを狭心症と云います。この時にニトログリセリンを舐めると冠血流を改善させて発作を止めます。舌の下に挟んで溶かす(これを「舌下」といいます)と、舌の下にある静脈を通して直接心臓に薬が到達するので、内服するよりはるかに早く効果を出すことができます。

「胸が締め付けられる」症状で病院に行った人の多くがニトロを処方されます。「なにかあったらそれを舐めなさい」といわれているはずです。でも、実際に使ってみる人は少ないようです。一度も使ってない人は「使うほどひどくなかった」と云います。これは大きな間違いです。ニトロは、我慢しても良くならないときに最後の手段として使う薬ではありません。ニトロは軽い時しか効きません。ひどくなりすぎて心筋梗塞になってしまったらもうダメです。「あれ?何か変」と思ったらすぐに使うのが正式な使い方です。脳血流を増やすので頭が痛くなる人が多いと思います(わたしもその一人です)。発作時に使用すると2,3分ですっかり改善します。その場合は異常ですので病院に再受診してください。何となく効いたような効いてないような・・・は、効いていません。狭心症とはまったく関係ないか、あるいは逆に心筋梗塞になりそうな重篤な状態になっているかのどちらかです。

ちなみにテープ剤を発作時に貼る人がいますが、経皮吸収では即効性が期待できないのであまりお勧めしません。

| | コメント (0)

胸が締め付けられる

先日、普段どおりに朝から健診結果の説明をしている最中、急に胸の辺りが気持ち悪くなり締め付けられるような変な気分になりました。徐々に血の気が引いてくる感覚がとても不安になりました。とりあえず何とか説明は続けられ、徐々に落ち着いてきたので助かりました。「ちょっと胸焼け」というのとは何か違っていましたし、不整脈の症状とも違っていました。なんなんでしょう?ときどきこんな事があります(http://satoritorinita.cocolog-nifty.com/satoritorinita/2008/02/post_053c.html)。循環器を専門にしているわたしがこんな書き方をするのも変な話ですが、狭心症とは違うんじゃないか?と思いながらも決め手がありません。

「胸が締め付けられる」というのは、これがなかなかむずかしい問題なんです。循環器の医者はまず狭心症や心筋梗塞を考えます。消化器の医者はまず胃潰瘍を考えます。でも典型的でない限りどちらも決め手にかけるので、必ずしも教科書のようにはいきません。ニトロを舌下して2,3分で治るなら狭心症、ガスターDが効くなら胃潰瘍や逆流性食道炎などという姑息な診断的治療をする場合もありますが・・・。ただ、唯一はっきりと云えることは、こんな症状があったら、程度にかかわらず必ず早めに内科を受診することが大事です。医者は決め手のない話しかしてくれないかもしれませんが、後の祭りにならないように(自分のことを棚にあげて申し訳ないのですが)。

ちなみに、「恋をして胸がキュ~ンとなる」というのも、きっと「胸が締め付けられる」状態です。

| | コメント (0)

脂肪肝の恐怖

「脂肪肝」は健診受診者の約三割で指摘される病気です。わたしも体重を落とす前までは当然の様に毎年指摘されていました。

「脂肪肝」を「脂肪が肝臓の周りに巻いている状態」と勘違いしている人が少なくありませんが、そうではなくて、脂肪滴(余ったエネルギーを蓄えるのに一番エネルギー効率のよい形が脂肪です)が各々の肝細胞の中に入り込んでいる状態です。ですから「霜降り状態」ではなくて「フォアグラ状態」と理解するのが妥当です。

脂肪肝は、飲酒を原因とするアルコール性と酒が関与しない非アルコール性とに分けられます。後者は肥満や過食が誘因だと云われますが、全く酒を飲まない人を除けば、高カロリーの肴を常時食べている現代人にとって両者の区別は現実には難しいかもしれません。いずれにせよ、脂肪肝は単なるエネルギーの過剰貯蔵というだけでなく、ひどくなると肝臓に仕事をさせなくなって肝機能障害を起し、肝炎(ASH & NASH)を経て最後に肝硬変やがんをもたらす危険性があります。

まあ、脂肪肝の改善はさほど難しいことではありません。余っているのだから使えばよいわけで、動き回れば簡単に出ていきます。ただ余れば溜めます。特に日頃動かない人が急に動き出したら危機感を覚えた身体は前より溜める身体を作って対抗します(恒常性http://satoritorinita.cocolog-nifty.com/satoritorinita/2008/05/post_fc36.html)し、無理なダイエットをした場合も同じ理由で、かえって脂肪肝を助長します。日々の地道な摂生が必要になるのでなかなか上手くいかないのでしょう。そして何よりも、酒を控えるとか食べ過ぎないとかいう基本の対処を避けて通れないのは、ほとんど修行の世界です!

| | コメント (0)

ビール2缶

「晩酌は毎晩、缶ビール(350ml)2缶」

健診の問診表にこう書かれていると、担当の保健師さんや栄養士さんが必ず食いついてきます。「休肝日を作るか、それが大変だったら、せめてこの2缶(700ml)を500mlの1缶にできませんか?」・・・それはきわめて妥当なご意見でございます。でも、それは酒を飲まない人の理屈ですわね。きっと呑み助の大部分の人はそれはできないと思います。それができるくらいならさっさとやってますわ。500ml缶にしたら、もしかしたらそれを2缶(合計1リットル)飲むかもしれません。仕事が終わって帰ってきて早速「かぁっと一口、この喉越しがたまらんのや!」と思うだけで1缶めは終わります。次の1缶を開けてやっと初めて「ビールを飲む」わけです。「2缶がいいのなら、じゃあ250ml×2缶ではどうですか?」次にそう聞くかもしれません。バカ云うたもんじゃ。ビールは、日本酒や焼酎のようにチビチビ飲むというスタンスは似合わんのじゃ。温くなったら台無しじゃねえか。そんなもん簡単になくなってしまうから2缶では済まんかもしれんやないか。350ml×2缶にはそれなりの理屈と哲学があるんじゃ!

先日も、脂肪肝と高中性脂肪血症の男性受診者の方と晩酌の話になったときにその話題になりました。妙に意気投合して別れました。あいたぁ、これじゃあ生活指導になってませんわ。

呑み助のわたしは、ほんと、酒についての話になると、負けてしまいますなあ。

| | コメント (0)

吹き出る汗

わたしの車のエアコンが壊れました。連日35度の炎天下では、エアコンの吹き出し口から見事に熱風だけが出てきます。

先週末にサッカーの応援のために大分まで往復しました。エアコンからの熱風はわたしの額から大粒の汗を噴き出させ、服だけでなくタオルをびしょびしょに濡らすほどでしたので、やむをえず、エアコンを切って窓を全開にして走りました。阿蘇路の風はそれなりに爽快でしたが、下界の道で信号停車になると途端にジリジリと焼け付く日差しがわたしを攻め立てました。こんな仕打ちは到底耐えられないぞ、とつぶやいてみました。

最近は、ガソリン代値上げの影響か、窓を開けて運転しているドライバーをよく見かけます。オープンカーだって当然エアコンをつけません。よく考えたら、昔は「夏の車」といえばほとんどこんな感じでしたね。たまに窓を閉めた車に出くわすと「すげえ、エアコンが付いてるんだ」と羨ましがったものです。わたしの同僚は愛車の軽自動車に奮発してエアコンを付けましたが、よくバッテリーがあがっていました。

ゴルフをするときやサッカーの応援をするときはこの灼熱の仕打ちを甘んじて受けているのに、車の運転はエアコンが当然というのもおかしな話です。でも実は、2日間窓開け運転をしながら汗をたらたら流していたら、何となくからだが慣れてきました。外気温の変化に対するからだの自律神経の対応が久しぶりにきちんとできた気がしました。これは意外にクセになるかも知れません。もちろん、スーツ着て仕事に行くときには薦められませんが。

| | コメント (0)

学校にエアコン

仕事帰りの車のラジオで「学校のエアコン談義」をしていました。「温度調節を生徒がしてもいいかどうか?」みたいなことを話していました。でも、わたしの感動は「学校の教室にエアコンが付いている!?」という現実を知ったことです。公立学校の教室でもエアコンがついているのでしょうか?高校ばかりでなく、まさか中学や小学校でもついているのでしょうか?

今の子どもたちは生まれたときからエアコンコントロールの中に育ったために汗をかくことがなく、汗腺が発達しなくなりました。結果として自律神経の発達が遅れ、体温調節が全く出来ない低体温児が急増し、あるいは自律神経失調症状を訴える子どもたちが増えました。感染にも弱くなりました。この事実はきわめて深刻な問題です。わたしの子供の頃のエアコン(クーラーって云ってました)は普通の家にはあまりない贅沢品で、使うときはカーテンを閉めて茶の間に家族全員が集まった上で、「もったいないから2時間限定で」などという一大イベント的な使い方でした。おかげで大量の汗をかき、赤ん坊の汗疹もひどいものでした。わたしの大学時代、当然部屋にエアコンなどあるはずもなく、扇風機からは熱風しか出てこないので、授業のないときは喫茶店と図書館をハシゴしたものです。

ただ、「暑い!」と云った所で昔はせいぜい30~32℃でした。「猛暑日(35℃以上)」などという単語は存在しませんでした。それでなくても体温調節ができない今の子どもたちにとって、35~38℃の気温を乗り切るのにエアコンがないのは自殺行為なのかもしれません。でも、わたしはスカートの裾を捲り上げて汗だくで自転車をグイグイ漕いでいるお嬢さんの姿の方が断然好きです。とか云いながら、もちろん、今の私にはエアコンなしの団扇生活など考えられない話です。

| | コメント (0)

壊れるとき

わたしが産業医をしている企業では、この半年間くらいの間で休職者が急増しました(http://satoritorinita.cocolog-nifty.com/satoritorinita/2008/05/post_21e8.html)。うつ症状やそれに伴う身体症状のためです。それも若いお嬢さんたちや働き盛りの温厚な男性職員に多いように思われます。同じ様な現象はうちの病院のナースたちの間でも起きていました。わたしの友人の会社でもドクターストップを受けた同僚がいると聞きます。

いわゆる「燃え尽き症候群」のパターン。現在のストレスだらけの社会では、うつ状態が蔓延しているのは容易に理解できます。ただ、それが形として「壊れる」には、何かのきっかけが必要ではないかと思います。最近、若い人を中心に「ディスチミア親和型うつ」という自己中心型のうつ病が増えていると聞きます。わたしがこんな状態になったのは周りが悪いからであって自分は被害者だというのです。ですが、私が出会ってきた人たちは、基本的には真面目で几帳面で文句を云うこともなく、力以上に抱え込んだ仕事をこなそうとしながら結局何もできなくなっていく「メランコリー親和型うつ」のパターンばかりのように思います(http://hrclub.daijob.com/hrclub/?p=375 , http://blogs.yahoo.co.jp/slowlifeeye/35974562.html)。

ただ、同じ職場で休職者が出たとき、「あれ?なんで?」という無意識の疑問が浮かんできます。わたしも同じ様なのに、周りに迷惑をかけると思って休まずにこんなに頑張っているのに、そんなに簡単に休んでもいいんだ?・・・この無意識な感情が、いままで張り詰めていた緊張をプツンと切ってしまうのではないのでしょうか。そういう目でみると、この人たちはやはり「ディスチミア親和型うつ」ということになるのでしょうか?

| | コメント (0)

そりゃ受けないわ!

昨日、「特定健康診査受診券申請書」という紙が病院の人事課を通じて配布されました。まるで狂犬病予防接種の通知ハガキか悪徳業者の架空請求書の書面のような無機質な事務通知でした。どこにも発行元の名前や住所が書かれてないのも怪しい感じです。対象者は、わたしの被扶養者である、わたしの妻です。この申請書に署名して社会保険事務局に提出すると「特定健康診査受診券」が送られてきて、この受診券を持って指定された医療機関で健診を受けなさい、というものです。

わたしも健診業務に携わる医者ですので、この特定健診システム自体は理解しています。でも、ここで当然の疑問が湧きます。うちの妻は毎年、うちの健診センターで職員家族健診を受けています。特定健診よりはるかに内容の濃い人間ドックメニューを受けていますし、その後で結果説明や保健指導を受けています。それなのになんで改めて健診を受けなきゃいけないの?うちのセンターは社会保険事務局の指定医療機関にかててもらえてないので、わざわざ他の病院に行って約2000円の自己負担金もいるんだと云われても、納得はできんでしょう!

職場の担当者に聞きました。管理責任者である社会保険事務局が、そのデータを持たないからだそうです。じゃあ、うちで受けたデータをコピーして送ったらいいんじゃないんか?と思うところですが、紙で送られた膨大なデータをコンピュータに打ち込み直す手間を省くために、契約医療機関から特定健診として受けたデータファイルをそのまま一括して吸い上げるシステムだから、ダメだそうです。

そんな手前勝手な理由じゃ、特定健診なんて受けるわけないわ。わたしが妻のこの申請書を提出することはないでしょう!

| | コメント (0)

論語・為政第二

40歳の別名を「不惑」と云います。

「40歳は初老!~厄払いの意義を考える」の講演資料を調べていて、これが 「論語・為政第二」にある有名な一節だということも知りました(世間では常識なのかもしれませんが)。http://www.benricho.org/koyomi/nenrei_isyo.html#ron

子曰,「吾十有五而志於学。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而従心所欲,不踰矩。」

われ、十五にして学に志す(学問で身を立てる決心をする)。三十にして立つ(独り立ちする)。四十にして惑わず(心の迷いがなくなる)。五十にして天命を知る(天が与えたもうた使命を自覚する)。六十にして耳に従う(何でも素直に聞き入れる)。七十にして心の欲するところに従えども矩をこえず(思い通りにしても人の道を踏み外すことはない)。

自らに問うてみます。時代が違うとはいえ、40歳ですでに「狭い考え方にとらわれずに迷いがなくなる」というのは、さすがにスーパーマン孔子様ならではであって、凡人のなせる技ではありませんね。自分の人生を考えると、むしろ40歳ころから心の迷いがコンコンと湧き出て頭を悩ませることになりました。若い頃にしっかり学んでない未熟者の人間の宿命なのかもしれません。

30歳=「而立」、50歳=「知命」、60歳=「耳順」、70歳=「従心」、この機会にひとつ学びました。

| | コメント (0)

40歳の健康

アラフォー(Around 40)ということばがあります。40歳前後の(独身)女性の生き様を示したことばだそうで、某TVドラマで定着しました。もともとはアラサー(Around 30)から派生したんだとか(今、この記事を書くために調べていて初めて知った!というのが真実です)。

ある公務員の40歳の方を対象にした講演を依頼されました。「40歳は初老!~厄払いの意義を考える」という題名にしましたが、健康を考える上で40歳というのは微妙な世代です。私にも経験がありますが、心は三十代のつもり、でも今ひとつ付いていけなくなってきた肉体とのギャップに気づきたくない年頃。身体と心の破綻が一気に動き出す世代です。男女を問わずアラフォー世代あたりから大きく二分極し始める気がします。社会の中心として輝き、人生で一番活力に満ちている人たちと、その一方で人生で一番疲れ切っている人たちです。

ところが現代の「40歳の健康」を考えていると(「30歳の健康」でも同じですが)、そんな年齢自体のもつ意味だけでなく、昭和43年生まれという「時代」のもつ意味も大きいことに気づきます。「いざなぎ景気」のただ中で生まれ、新・三種の神器といわれるクーラー・車・カラーテレビが当たり前に存在し、青春時代が「バブル絶頂期」で就職の頃に「バブル崩壊」をむかえた世代。われわれが「飽食」「運動不足」と云い捨てる状態が、子どもの頃からの普通の習慣である世代の始まりです。しかも社会環境はどんどん変化しています。今50~60歳の人が10年前に40歳だったときの生活と、今の40歳の生活を単純比較することはできないのです。

| | コメント (0)

活力のおすそ分け

阿佐ヶ谷にあるその雑然とした空間は、いつ行っても埃とタバコでモウモウとしていた気がします。黄ばんだ蛍光灯の灯りの元で、彼らはいつも夜中まで汗の臭いを充満させて熱い練習をしていました。

東京の小さな劇団が、現在上演中(7/3~7/13)の公演を最後に21年の幕を閉じます。劇団の主宰の男と看板男優は、大学演劇部時代(http://satoritorinita.cocolog-nifty.com/satoritorinita/2008/06/post_84ab.html)を共にした同期ですので、先週末に観にいってきました。空間の隅々まで行き届いて完成しきったその芝居を観ながら、「プロの集団になったなあ」とちょっと感動し、ちょっと寂しい気分になりました。仲間が遠くの世界に行ってしまったような感覚。今まで何度も彼らの芝居を観てきたのに初めて感じる不思議な心寂しい感覚でした。

彼らが熊本を離れて上京するのと入れ違いの形でわたしは熊本に帰ってきました。安定した職を捨て、芝居をするために上京することを決めた彼らの姿は、わたしにはとても羨ましく映りました。仕事や学会で上京したときに何度か彼らの練習場に出かけたことがあります。仕事を持ちながら、夜中まで芝居に没頭している彼らの姿の中には、いつも熱い勢いを感じました。当時、救急現場の激しさに忙殺されながら抜け殻になりつつあったわたしは、そこで数時間だけの共通の時を過ごすのが楽しみでしたし、そうすることで彼らの大きな活力を分けてもらうことができました。

これからまた、新たな芝居作りを始めると聞いています。成熟してきた彼らには、きっともう当時の熱さは必要なくなっているかもしれません。未熟でも若さと活力がみなぎっていたあの当時を懐かしく思い出しながら、じっと芝居を眺めました。

| | コメント (0)

医者は修繕屋

急性心筋梗塞の患者さんが緊急入院すると、夜中だろうと休日だろうとポケットベルが鳴ります(今は携帯電話ですか)。心筋に酸素を与える血管(冠動脈)の詰まったところを数時間以内に再開通させると梗塞範囲が狭くなり、心筋梗塞で命を落とす率が格段に低下します。ですから緊急治療は時を選べません。夜が白々と明けるころ、眠たさで気だるくなりながら「今回もいい仕事をしたな」という満足感に浸れるのは、救急治療最前線の醍醐味かもしれません。それから始まる1日の仕事はとても長いですけれど。

でも、そうやって自分の身を削って患者さんの一命を取り留めたと喜んだところで、わたしたちがやったことは所詮大きな体の中の心臓という小さな臓器の表面にある小さな血管の高々数ミリの詰まりを修理したに過ぎません。突然流し台の水道が詰まったからその部分の修理をしたのと同じです。きっと家中の水道管がボロボロに腐っているのでしょうがそれを全部良くしたわけではありません。そこのところを、する側もされる側もつい忘れがちな気がします。

ここには「うまい先生」がいると聞いてはるばるやってきた、という患者さんがいます。この「うまい先生」ということばの響きにどうもわたしは馴染めませんが、結局「名医」とは「腕の良い職人」ということでしょう。わたしは大した腕じゃなかったからさっさと医者をやめました。医者は修繕屋ですが、患者さんの身体の全部を修繕することはできません。全身の修繕ができるのはおそらく患者さん自身だけだと思います。ですから、大した腕のない職人崩れのわたしは、全身修繕が可能な時期の人たちに助言するアドバイザーになろうと考えました。

| | コメント (0)

「健康運動」

職場の広報誌の投稿コラム転載もあと少しです。今回は2006年4月号です。「人間には運動欲がない」(http://satoritorinita.cocolog-nifty.com/satoritorinita/2008/01/post_ee72.html)ということをまだ知らなかった頃の文章です。

**************************************

「予防医学」のディレンマ~「健康運動」はホントに健康なの?~

運動するには持ってこいの季節になってきました。ダイエットのため、健康のため、あちこちで運動で汗を流す姿を見かけます。予防医学では、病気を軽いうちに見つけて早期治療することを「二次予防」といい、病気にならないように健康を維持しようとすることを「一次予防」といいます。運動でいえば、前者を「運動療法」、後者を「健康運動」として区別できます。「これからは『一次予防』の時代です。病気になる前に病気にならない体を作りましょう!」…私はフィットネス部門の責任者として、あちこちでそんな話をしてきました。

でも最近気になることがあります。「健康運動」という言葉には、「しないと病気になるからやむを得ずする」「しなくてすむならしたくない」という明白な意志が感じられるのです。「医学」の対象はあくまでも「病気」、だから「予防医学」は「病気を予防する医学」…結局、病気にならないために何をするか?というのが予防医学の求めている根本だという気がしてなりません。当然のことですが、私たちが求めているのは「病気にならないこと」ではありません。「人生の目標は健康です」という人がいますがそれもナンセンスです。健康であることは前提でなければなりません。そんな中で「運動」は皆さんの生活の中ではどの位置にあるのでしょう。人間の体は、初めから動くためにできています。それが「動物」です。健康のために動くのではなく、動くのが当たり前、動けなくなったら病気になるのが動物の宿命です。そんな理屈はわかっています。でも「健康運動」というのは「健康になるための運動」「健康を維持するための運動」。こんな意味づけをしないと運動することができない現代人が多いことを妙に寂しく感じます。

私は、昼休みにほぼ毎日フィットネスセンターで運動しています。それは別に高血圧の治療のためではありません。健康のためでもありません。特に理由はありませんが、歩きながら考え事をするのが面白いから。というよりただの毎日の習慣だからといった方が良いでしょう。格好良く言えば、昼休みに30分間ウォーキングすることで私の体内のリセッターが働いて、ずれた体内時計を0に戻すという感じです。ある運動の雑誌にウォーキングサークルの人へのアンケート結果が載っていました。運動を始めた動機は「健康になりたいから」「減量したいから」などさまざまですが、「なぜ続けているのか?」の質問には大多数が「楽しいから」と答えています。楽しいから続ける。結果として健康でいられる…私たちの求めている理想はそこに集約されています。なのにこれを「健康運動」といっていいものか、私はずっと悩んでいます。定義からするとこれは決して「健康運動」ではありません。あえていえば「運動習慣」でしょうか。

ま、とにかく、あまり難しいことを考えないでとりあえず外に出てほしいと思います。いかに効率よく痩せられるか、いつ歩くのが一番効果があるか、どんな速度でどんな姿勢でどれくらいの時間をかけて…そんなことに一生懸命になるのもいいけれど、足下にタンポポの小さな花が咲いていることに気付いてちょっと足をとめてみるのもいいものです。

| | コメント (0)

腫瘍マーカーの誤解

CEA(癌胎児性抗原)、AFP(αフェトプロテイン)、CA19-9など、腫瘍マーカーと呼ばれる物質がたくさんあります。人間ドックや健康診断の項目にこの腫瘍マーカーがいくつか入っているのを良く見かけます。検査項目を最低限に削っていても腫瘍マーカーだけは入れている企業も少なくありません。

ただ、これらの腫瘍マーカーは値段が高い割には大した検査ではありません。「ガンがあれば必ず上昇する」というものではないからです。そのことを受ける人たちはもっとしっかり理解しておかなければなりません。腫瘍マーカーは、他の検査で腫瘍があると判断されたときにはその程度や治療効果、再発の有無などを評価するのにとても優れています。でも、健診のようにもともと何も疑っていない人に検査をして、これらの値が正常範囲であったとしても、それは「良かった、ガンがなかった」というものではないのです。正常値ならそれは「検査をしなかった人と同じだ」といっているようなものだと思うことです。

そんな中で、天皇陛下の前立腺ガンで有名になったPSA(前立腺特異抗原)は、それが上昇していないときには前立腺ガンは存在しないと思ってもいいのではないかと思います。ですから健診には向いていると云えましょう。

その一方で、腫瘍マーカーが異常値になったとき、それは必ずしも「ガンがある」ということではないということも覚えておきましょう。こんな大したことのない採血検査ごときに右往左往することのないようにしたいものです。

| | コメント (0)

雑穀米

うちの施設にあるレストランは、とても人気があります。健康を主眼にしながら病院食特有の味気なさが全くなく、市中のレストランよりはるかに美味しい味を誇ります。さらにスタッフは病院の食堂とは思えない「安らぎの空間」を常に工夫しています。ここで食事をしたいためにうちの人間ドックを受ける受診者も少なくありません。

そのレストランの御飯にこのたび「雑穀米」の選択肢ができました。実は開設当時は雑穀米でした。ところがすぐに苦情がでました。「御飯が臭い」とか「貧乏人みたいだ」とかそんな理由だったようです。そのためにすぐに御飯は白米に変更になりました。ところが今になって、逆に「雑穀米を食べたい」という希望が増えてきたのです。健康ブームの影響でしょうが、素晴らしいことだと思いました。

ところが、その話題を受けてわたしの上司が「おれは白米じゃなかったら食べないな」と云いました。事務部長も「逆ならわかるけどね」と云いました。そんなことばを健診スタッフのトップから聞いたのはちょっとショックでした。白米は地に蒔いても芽が出てきません。つまり白米は死んだ食べ物です。死んだものを食べても身体の活力には絶対なりません。そういう話を聞いて深く納得したのはもう5,6年も前のことです。玄米は理想です(わたし自身は大好きです)が、あまり噛めない現代人はお腹を壊す人が多いようです。その点、雑穀米はいろいろ入っているので玄米よりは食べ易いと思います。ダイエットのためには御飯を食べないのが良いという話がよく出ますが、それは白米のことでしょう。「日本人には絶対御飯が一番合うはずだ!」と信じてやまないわたしの云う御飯とは、決して白米ではありません。健康のためというのではなく、徐々に白米ではない本当の御飯を皆が好んで選んでくれるようになるといいなと思っています。

| | コメント (0)

異空間への壁

昨日、健診の結果説明をわたしに受けたいと指名した変わり者がおりました。こんな場合、多くは前回わたしの毒舌に打ちひしがれた人です。今回もそんな51歳の女性でした。去年、先生に「バリバリの糖尿病ですよ」「帰りに心筋梗塞で倒れるかもしれませんよ」とボロクソに云われてショックでその日から生活を変えました、と誇らしげに報告してくれました。体重が7kg減ったことよりも、血糖異常がなくなり、クスリが必要だろうと思っていた高LDLコレステロール血症が見事に正常値になったことに驚きました。

「初めの10日間は地獄でした!」と語った彼女はきっと大丈夫だろうなと思いました。大きなリバウンドはしないでしょう。決して偏った生活療法を選択していませんし、今の生活に慣れてしまっているからです。着る服の選択肢が増え(LLからMへ)、若い頃に作ったスーツも着れるようになったと喜んでいました。

生活療法をする場合、そこに大きな(当事者にはそうみえる)異空間への壁があります。厚すぎると思って諦める人、闇雲にぶつかって跳ね返される人などの中で、そのツボをみつけてうまく壁を通り抜けることができると、向こう側には全く別の世界が存在しています。不思議なことに、一旦通り抜けてしまうとその壁がもの凄く薄かったことに気づきます。川にたとえてみると、私たちには小川にしか見えない川が当事者には大海に見えるようです。ちょっと飛び越せばすぐに向こう岸に渡れるのに、魔女の魔法がかかっている人にはなかなか渡れません。

さてこの受診者さんに対して、「それでも維持するのは大変なことです。油断したらすぐ戻りますよ。」と釘をさしてしまうわたし。・・・そんなイケ好かないことをいうのは、どの口かぁ?

| | コメント (0)

はだかの王様

「どんな苦情が出てるんですか?少なくともわたしたちは外来で不満を抱かせるようなことはしていないし、わたしは今まで苦情など一度も受けたことがない自信があります。」

健診から精密検査のために外来を紹介した場合に何かと苦情が出ます。健診では「お客さま」ですが外来では普通の患者さんですから、そのギャップに文句が出る場合もあれば、外来の医師や看護スタッフの態度が悪いといって怒り出すこともあります。そのため、定期的に各科の先生と情報交換会議を行います。外来の先生方とそんな話をしていたとき、M先生が気色ばんでそう発言しました。

その半年ほど前、うちの妻が「あなたの病院にM先生という人がいる?」と聞いたことがあります。「最近来た○○科の先生でしょ。なんで?」と聞き返すと、「友人がこないだ受診したんだけど、その先生の言い方がいい加減な感じでとても不安になったんだって。だからどんな人かなと思って。」と教えてくれました。その当事者の先生とこのとき初めて話しながら、「この人か」と思いました。

M先生がどうこうではなく(彼の名誉のために云えば、とても人気のある先生だそうです)、私たちは患者さんの本当の気持ちをほとんど知りません。アンケートやクレームを書いてくれる一部の方はありがたいですが、普通は伝えてはくれません。受付で大声で怒鳴っていたのに診察室に入った途端何もなかったようにニコニコしている患者さんもたくさんいます。結局、外来の苦情は身内を通して間接的に聞くことがとても多く、現場はほとんど知らないでしょう。健診に対するクレームも職員家族健診をしたときが一番多くなります。本音を間接的に伝えてもらえるからです。

苦情が正式に聞こえてこないからといって、奢っていてはしょうがありません。「はだかの王様」にならないように、常に謙虚でいたいと思います。

| | コメント (0)

感染症狂想曲・続編

先日、ぼやきのように書いた真空採血管ホルダーの使い回し事件(http://satoritorinita.cocolog-nifty.com/satoritorinita/2008/06/post_08d3.html)について、医療用メルマガでも大きく取り上げられました。

もともとは、島根のクリニックで糖尿病用の穿刺器具の針先を使い回しした事件が発端です。針は取り替えても器具は複数の人に使っても大丈夫だと思っていたとか、針が自動で入れ替わると勘違いしてそのまま複数使ったとか、そういう勘違いが世間にたくさん起きていたことが分かったわけです。これはたしかに他人の血液が付着している危険性があり、本来一人の人が自分で血糖検査をするために販売されていた器具と医療現場で使う器具との意識の混同があったことは、改善すべき問題だと思います。

ところが、この問題がマスコミにでると、同じように世間で使い回しされている「真空採血管ホルダー」をやり玉にあげた報道機関が出てきて厄介なことになりました。B型肝炎ウイルスは当然アルコール消毒したくらいでは死滅しませんから、可能性があるなら全部処分しなさいというお達しがあるのに無視して使っているというのです。医療関係者なら、この穿刺器具の使い回しと採血管ホルダーの使い回しが全く次元の違うものだということくらい誰でも分かります。ところがほとんどその重要性を理解できていない部外者の「同じ犯罪者扱い」報道で、一気にバカげた騒動になったのです。

じゃあ、なぜ駆血帯は全員代えなくていいの?採血台はなぜいいの?シーツは代えなくていいの?医者の聴診器は患者一人にひとつにしないといけないんじゃないの?言い出したらキリがないこの問題を、中途半端な行政処分で済ませることになるのでしょうが・・・(無知の)マスコミって本当に怖いです!

| | コメント (2)

平均寿命の誤解

ごぞんじのように、日本は長寿国です。超々長寿国です。

日本男子の平均寿命は世界2位、女子は相変わらずの世界1位の長さです(2007.5.18平成18年簡易生命表:厚労省)。でも、これは「死ななくなった」だけで、元気かどうかは別問題です。つまり、ただ長生きしているだけではなく、寝たきりにならずに元気な人生を送ることが大事だということで、これを「健康寿命」といいます。平均寿命と健康寿命の間に差がないのが理想で、それこそが「ピンピンコロリ」です。日本の場合、現実にはまだ6~7年の開きがあります。

ところで、この「平均寿命(平均余命)」とか「健康寿命」とかいうものが公表されるときに、どうも世間に大きな誤解が生じているように思います。この数字を眺めている若者、あるいはわたしたちのような中年~壮年の人間にとって、この数字は決して自分たちのものではないことを忘れてはいないでしょうか。

日本の平均寿命(平均余命)や健康寿命が長いということばの意味は、「いままで長生きしてきた人が元気だ!」「今生きているお年寄りが元気だ!」「生まれたての子が死ななくなった」というだけのことです。直接自分たちのことを表しているものではありません。人生80年なのは激動の人生をこなしてきて今80歳になった人の人生です。現代社会の生き方をする人の人生はそう長くないように思います。平均寿命と健康寿命のギャップももしかすると今が一番短くて、これから徐々に長くなるのではないかと懸念しています。

さらに心配性のわたしがもっと懸念するのは、「元気なからだ」がイコール「生きがいのある人生(心)」とは限らないということです。は~。暗いため息話は早々にやめましょう。

| | コメント (0)

« 2008年6月 | トップページ | 2008年8月 »