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『とんがる』を考える

知人のブログを読みながら、「とんがる」について考えました。

若い頃、「とんがる」ことが正義だと信じていました。「とんがる」ことができない「妥協」は、つまりは「敗北」であると思っていました。あるとき、とんがるのを止めてみたら大きく世界が広がりました(http://satoritorinita.cocolog-nifty.com/satoritorinita/2008/04/post_a433.html)。でも、今になって、「とんがる」ことに再び憧れ、渇望すらしている自分がいることにも気づきます。「とんがる」のを止めると見えてくる世界があるのと同じくらい、「とんがる」ことでしか見えない世界もありましょう。

「とんがる」のを止めて「丸くなる」ことは悟りにも似た素晴らしい大進歩です。ただ、現在社会は「丸くなる」の意味をちょっと取り違えているように思います。「丸くなる」は「相手に対する深い思いやりの心を持つ」ことに他ならず、間違っても「大雑把になる」とか「丸く収める」とかと混同してはならないものです。一方で「とんがる」とは「切れる」とか「怒りっぽい」とかと混同していないでしょうか。「大人げない」という言葉で切り捨てようともしていないでしょうか。領土問題に対する某隣国の国を挙げての態度はちょっと大人げない気がします。あれを「とんがる」とは云わないでしょう。

「組織の中にとんがっている人間がいないと馴れ合いになる」ということばは間違っているかもしれません。ただ、とんがっている人間がいた方が大きな視界の転換にはなると思いませんか?わたしが今もう一度「とんがった」生き方をできたとしたら、きっと若いときの「とんがり」とは全く違う、云うならば「丸いとんがり」ができるに違いないと思うのです。

ただ、それにエネルギーを使うのがだんだん面倒くさくなっている。埋もれるな、自分よ!

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