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2008年9月

サザエさん症候群

お魚くわえた野良猫、追っかけて~♪

日曜の夕方といえば、「サザエさん」。この楽しいはずの番組が始まると、何かうら寂しくなる。何か見てても面白くない。くだらないと思う。・・・こう感じることはありませんか?

これが有名な「サザエさん症候群」です。「サザエさん」が終わると、もう日曜も終わり。明日の朝にはまた会社に行かなけりゃならない。憂鬱だなあ。一週間も我慢しなきゃならないのかなあ。あ~あ。・・・自分の心の中に明確にそんな気持ちがあることをわかっている人はいいですが、「そんなことはない。ちょっと疲れているだけ。むしろやりがいのあるポジションをもらっているんだから、きついけど頑張らなけりゃ!」と思い込んでいる人で、このサザエさん症候群のような症状がある方は本当にご注意ください。あなたは気付いてないでしょうけれど、あなたはもうほとんど「うつ病」です。

そのほかにも、男性の朝刊症候群(朝刊を見ても読む気になれない)、女性の身だしなみ症候群(化粧やオシャレなんてどうでもいいわと思うようになる)などがあります(第20回人間ドック認定医研修会:大阪樟蔭女子大 夏目誠教授の講義より)。心当たりはありませんか?うつ病の治療は、まず何よりも、自分がうつ病かもしれないということに気付くことと、それを否定せず認めることです。「本当におかしくなったヤツは自分がおかしいことに気付かないんだから、おまえは心配しなくても大丈夫だ」と昔良く云っていましたよね。それは合っているようで違っています。「おかしくなった人は、最初は自分がおかしいことに気付かないから危険」なんです。どうかご注意ください。

なぜ「ちびまるこちゃん症候群」じゃないんだろう?って夏目先生云ってましたね。歴史の差ですかね?それとも普及率の差ですかね?

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動脈の石灰化?

先日、ある知り合いが職場の健診を受けて、レントゲン検査で「大動脈の石灰化疑い」と書かれて凹んでいました。日頃からガンガン走っている人なのに、頑張りすぎたら血管が切れたりしてまずいのではないかと運動中に心配になった、ということを自身のブログに書いていました。

大動脈の石灰化はまぎれもなく動脈硬化の所見です。動脈の中がグジュグジュになった粥状硬化のレベルではなくてそれがある程度のところで固まって石になってしまった状態です。でも、大部分はそう心配要らないことは以前書きました(2008.3.12)。もっと程度が強かったり細い血管(冠動脈や腎動脈など)にあれば意義は大きいのでしょうが、「石灰化疑い」という表現は、ただ書いてみた、というレベルです。二十歳の子にあったら問題ですけど、現代社会に生きるそれなりの年齢で、タバコも吸わず油こってりが嫌いで毎日何十キロもジョグしている人が、そのことばにびびっていてもしょうがありません。ですから彼のブログには心配要らないとコメントいたしました。「もし何かが起きたらそれはその石灰化のせいじゃないです!」と何かあったときのための保険をかけてしまうのは職業病みたいなものでしょうか。

そういえば、胸部CT検査などで動脈の石灰化を指摘すると、「どうやったらこれは取れますか?」と良く聞かれます。「これはもう消えません」と気軽に答えてしまいますが、これからはもっと慎重に思いやりのある返事をいたしましょう。

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「ちょい悪」血圧

<「ちょい悪」血圧、ご用心 脳卒中などの危険が倍に>という見出しの記事が、2008.9.19の朝日新聞に出ていました(asahi.com)。

日本人は、欧米人に比べてはるかに脳卒中を起こしやすい人種です。その最大の危険因子が「高血圧」なのですが、その基準を日本人の多くがとても甘く見ています。メタボリックシンドロームや特定健診の基準が「130/85mmHg未満」とあっても、あるいは普通の健診で「140/90mmHg以上を高血圧と云う」と云われていても、ほとんどの人がピンときていません。150/90mmHgでも「ちょっと」高かった、などと云っています。明らかな症状がないからあまり怖くないようですが、日本人の高血圧の特徴は「症状がないこと」ですので、お気を付けください。

さて、そんな中で、今回の国循と医師会の共同研究はとてもインパクトの強い結果でした。何より、日本国民の結果であって、決して外国のものではないということが大事です。その結果、「至適血圧(120/80mmHg未満)」の人に比べて、メタボ基準の「正常高値(130/85~140/90mmHg未満)」の男性は脳卒中か心筋梗塞を起す危険度が2.5倍もあるというのです。さらに「正常(120/80~130/85mmHg未満)」であっても男性の場合は2倍。これにはさすがに驚きました。日本語はむずかしいものですが「正常」は落第しない点ではあっても及第点(至適)とはいえないわけですか。女性には女性ホルモンという大きな味方がありますから男性ほどの結果は出ていません。でも、男性に多い理由は、喫煙者や常習飲酒(毎日2合以上)や肥満者が対象者に多かったからだと書いてましたから、これからの時代は性差がなくなるかもしれませんね。

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BioFilmって知ってますか?

「Biofilm(バイオフィルム)は定期的に歯科で取ってもらわないと取れません。そして放っておくと歯周病が進行します。ちょうど庭木の剪定をするようなイメージで歯科の定期受診をしてください。」

そう話すのは、歯科医の西真紀子先生(アイルランド・コーク大学)でした(日本人間ドック学会教育講演2)。BioFilmなんてことばを聞いたことがありませんでした。そんな重要なことを講義で教わってないのだろうか?と不安になって、早速調べました。新しい概念のようですが、歯垢や舌苔もBioFilmの一種だと分かってちょっと納得しました。やや古い文献ですが、大阪大学の恵比須教授の説明 (http://www.lion.co.jp/press/2002073.pdf)がわかりやすいので紹介します。是非ごらんください。西先生が働いておられた日吉歯科診療所のホームページの歯周病の頁も参考までに。

BioFilmとは、排水溝のヌルヌルや台所の流し台にある三角コーナーのヌルヌルのことです。あそこには種類の違うたくさんの細菌たちが共同生活をしていまして、共同の井戸や共同の栄養を通して、あるいは隣の集落とも情報交換しながら、各々の細菌に一番住みやすい環境を作り上げていってどんどん大きな集落にするのだそうです。しかも堅固なFilmで守られるので生体の免疫や抗生剤は跳ね返されます。結局、物理的に削り落とすしかなく、毎日のブラッシングだけでも完全には取り除けない。だから、専門家(歯科医院)の予防的な定期ケアが必須なのだそうです。

歯磨き大嫌いなわたしは耳が痛い。主治医からも「時々は見せに来なさい」といわれているのに忙しさを理由に放ったらかしているわたし。めちゃくちゃヤバイです。

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「えとうのひとりごと」

以前、紹介した(2008.2.25「マイベスト(自分の歩幅)」)心理カウンセラーの衛藤信之先生(日本メンタルヘルス協会)のコラム「えとうのひとりごと」。 久しぶりに覗いてみました。

おばあさんが亡くなったことを告げたコラム「さよならの季節」が書かれた2008.9.16は、くしくも私の同い年のいとこの女性が、実家で年老いた両親や旦那さんや子どもさんに囲まれて静かに逝った日でした。手術後ちょうど半年しか生きれなかったと、翌日した電話先で彼女の母親が静かに語ってくれました。その1週間前にはうちのワンが逝きました。それがヒトであれ動物であれ、それが死であれ生であれ、別れの瞬間を迎えるときにヒトのタマシイは大きな成長を遂げる気がします。今回のコラムには、そんな別れのケジメのつけ方について語られていました。

チャールズ・チャップリンは言いました。「人生とはクローズアップで見ると悲劇だが、ロングショットだと喜劇になる。」・・・コラムの中に書かれていた一説です。なんかいいな、と思いました。

余命短いおばあさんと、衛藤先生の父親との会話は、そのひとつ前のコラム「思い出のゆくえ」(2008.8.11)にありました。最愛のおばあさんの死が近いことの知らせに対して「順番通りだから」と受け止め、彼女の親友や愛する人たちはこっちよりもあっちの世界に多くなったはずだから、「やっと会いたい人たちに会えて良かった」と思ってあげられる心は大事だと思います。仏教では、法事に集まる皆に対して、「死んでいただいてありがとう。死んでいただいたおかげで今皆がここに集まり、皆が皆のことと先祖のことを思う機会を与えてくれました、とお礼をいいましょう。」と必ず説教されます。

そんな衛藤先生のおばあさんが大分に住んでいたこともこの文章で知りました。

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わたしの勝手でしょ!

健診結果を見ると、悪化した病気状態をそのまま放置している人はたくさんいます。

「こういうのを『生活習慣病放置病』といいまして、すべて医療従事者の責任です。あなた方がきちんと指導しないから、この人たちはもっと悪くなって、にっちもさっちもいかなくなってからやっと私たちのような専門病院にやってくるのです。」

順天堂大学の河盛先生が何年も前からそう私たちに苦言を呈していました。でも、わたしたちには基本的にはこんな人たちを病院に行くように強制する権利がありません。上司からの業務命令なら行くしかないのでしょうが、「行くか行かないか、そんなの私の勝手でしょ?」そういわれたら、もうわたしたちには何もいえません。

でも、本当は「わたしの勝手」じゃないのです。今、病院に行かないのは勝手だけど、それが悪化したときに高度医療を受けるのなら、それは単なる身勝手な話。わたしたち堅気の人間が払った保険料で、そんな身勝手な人の治療費を払ってることになります。そういう人に限って「オレは保険料をずっと払ってるんだから、もらう権利があるんだ!」って云うんです。バカ云ってんじゃねえよ!て思うでしょ?

そんな不公平感の解決策として、いわゆる骨太の方針としての医療制度改革が始まりました。昔のように感染症で死ぬ時代は、みんなで助け合わないと自分も危険だから、だから共同体として戦うために健康保険がありました。今は生活習慣病が原因で死ぬのだから、自己責任の問題。なのに真面目な人が不真面目な人の治療費を払うのはおかしい!ってなったわけです。どうぞご承知おきください。基本的には、治療を受けないと決めた方は、人生を全うする最後の最後までその固い意志を貫いてほしいと切に願います。

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健康マイレージ

せっかく遠くに行ったので、人間ドック学会の残りの話題をいくつか書いておきましょう。

「医療経済学から見た生活習慣病対策」と題した楽しい講演をしていただいた川渕孝一教授(東京医科歯科大)の話の中で、とても気に入った考え方が「健康マイレージ」です。

生活習慣病を克服するために、どうしても避けて通れないのが「行動変容」。乱れた食事を見直し、ゴロゴロせずに運動するように心がけないと病気になる可能性が高くなるわけですが、そんなことは誰もがみんな知っています。健康日本21も特定健診・特定保健指導もそれを求めています。でもできない。それをできるようにするためにアプローチするのが私たちの仕事なわけですが、たぶん一番有効な方法は、私たちのスキルや熱意ではありません。努力したことに対して何らかの報酬を与えることです。データが目標値を超えたら20ポイント、一日5000歩歩くごとに1ポイント、腹囲が1cm縮んだら1ポイント、禁煙できたら50ポイント。そんなポイントを貯めていきながら、何ポイント貯まったら次の健診料金を割引してもらえるとか、税金を割引してもらえるとか、提携温泉やフィットネスジムの使用割引券をもらえる、などの権利を得られるようにするわけです。

人間、道徳だけでは動けません。脅しだけでも動けません。やはりご褒美に勝るものはありません。このマイレージ全盛時代ですから、国や健診機関は、きれいごとばかり云ってないで、もっと健康マイレージ制度の導入を積極的に考えて欲しい。そういう話でした。

大賛成です。

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選択

先日、NHK総合テレビで「村へ来たれ!医学生よ」を見ました。わたしも地域医療の問題を以前書きました(2008.8.31)が、現実の問題としてこれから始まる医者としてのキャリアの選択をしなけらばならない学生たちにとって、初めから「地域医療」を選択肢の中に入れようとしている若者が多くいることに、驚きました。現実にその選択をした人はまだなかなかいないようですが。

「病気を診るのではなく人間をみる」という名言を残した地域医療の師である若月俊一先生のことは、わたしは佐久総合病院の歴史として教わりました。その先生の本に感動し、かの地を毎年訪れていた6年生の医学生の「病気をきちんと診れるようにならないと人間は見れないのではないか」という不安。その不安に対して、「ちずさん(現地で一人暮らしの88歳のおばあさん)に出会ったから、都落ちと云われても山でしばらくちずさんを診たいから来た、でいいじゃないか」と説得する診療所の医師。私には、どちらの気持ちもとても良くわかる気がします。結果として都内の病院を研修先に選んだ彼でしたが、ちずさんと話しているときの心からの笑顔は本当にいい顔でした。どんな医者になるとしても、このときのこの笑顔を一生忘れないでほしいと思いました。

わたしの中学時代の同級生が小学校の教師になったとき、「特殊学級の生徒たちを受け持ちたい」と希望しました。それに対してわたしの母は「特殊学級を受け持つにはそれなりの技術と経験が要る。教師になってすぐにそれに従事できないわけではないけれど、普通の教師を経験してからその世界に行った方がはるかに大きな教師になれると思う」と反対しました。その後、結局彼は障害児には関わらない教師の人生を送りました。

結局わたしも、そんな医者になりきれなかった人間のひとりです。

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優先順位

ある講演の依頼を受けて、週末の休みを返上して徹夜で準備をし、やっとできあがったと安堵していたら、直前になって「他の重要要件が優先になって講演会は中止になりました」と連絡がありました。それも人づてに。「先生には直接お詫びの連絡をします」と云ったそうですが未だに梨の礫です。先日は、職場の保健師さんから「ある要件の検討会議をしたいので出席してください」と依頼されました。予定の時刻に連絡をしたら、前の会議が長引いているのでちょっと待ってくれとの返事。そのためにじっと連絡を待つこと2時間半。結局何の連絡もないので帰宅しました。翌日以降になっても何も云いに来ないところを見ると、もう忘れているのかもしれません。

わたしの様な暇人とは違って、世間の皆さんはとても忙しく働いています。当然いくつもの要件を抱え、常にその優先順位は変動します。でも、その人たちの優先順位とわたしの優先順位が別にイコールなはずはありません。その人たちにとっては「やむを得ない事情」でも依頼を受けたわたしにはまったく関係のない話ですし、その約束がきちんと破棄される時点までわたしにとっての優先順位は一番めのままですので、他のやっておきたい仕事を先に廻すという選択を取ることすらできません。自分の優先順が後回しになった時点で、依頼主は依頼先(それがどんなヒラ人間であっても)に万難を排して大急ぎで変更を伝える、これは社会の最低限のルールのように思います。

「人の振り見て我が振り直せ」・・・そんな仕打ちにカッカして持病の高血圧が悪化しまいか心配する前に、わたし自身も、はたして自分は大丈夫なのか、自分の日々を反省しておかなければなりますまい。誰も、やりたくてそうしているのではないでしょうから。

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モタさん

斎藤茂吉の息子さんで精神科医の斎藤茂太先生のCD全12巻のPRが9月15日の熊本日日新聞に出ていました。桂枝雀や瀬戸内寂聴や日野原重明先生などのCDシリーズが出るといつも欲しくてたまらなくなるのだけれど、斎藤茂太先生(モタさん)のこのCDも欲しくてたまりません。でも、この手はいつもちょっとだけ値段が高く、いつも思うだけでなかなか手を出せません。ですので、この新聞に出ていた語録だけ並べてみます。新聞に出てるんだから著作権は心配ないでしょう。

●あのねえ、五年も六年も先のこと考えちゃだめですよ。その日をうまく、頑張って生きれば、それがその人の人生になるんですよ。

●自分の理想とするような人間としかつきあわない、というのは、下手な生き方だと思います。世の中っていうのは、いろいろな人間がおりまして、これが面白いんですよ。

●「一所懸命」って言葉があります。大変いい言葉でありますけども、いい人間関係をつくるためには「一緒に懸命」がいいと思うんです。

●人間、ある歳になったら「なんとかなるさ」っていうのも大事かもしれませんね。

●高齢ってのは、山登りに似ています。上がれば上がるほど息切れをする。しかし、視野はますます広くなる。てっぺんに登って眺めてごらんなさい。すばらしい景色が広がっています。

興味をお持ちの方は、ユーキャンか熊日までお問い合わせください。

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医療常識

わたしが循環器救急の世界から希望して健診の世界に移ってきた平成13年ころ、「成人病」が「生活習慣病」という概念に変わろうとしていました。わたしはこれの意味を説明するのに時間を要しました。でも今では「生活習慣病」は世間の常識です。むしろ「成人病」ということば自体が一気に消えてしまいました。

日々健康の伝道者としての仕事を続けていると、新しい情報は自然に入ってきます。テレビでも雑誌でもたくさん発信していることを実感します。わたし自身あちこちで啓発講演をしてきました。そうしているうちに、わたしの中に誤解が生じて来ている事に最近気付きました。わたしの知っていることくらいは、もはや常識なんだと思い込んでいるのです。みんなが知っている常識を偉そうに得意げに話すのはわたしにはどうもできません。だから常識と思える内容を講演スライドから除けていきます。昔は、こんなことをまことしやかに話してたんだ、恥ずかしいなあ、とか思いながら。

「健康寿命」ということばを知っていますか?始めた当時はこれこそが人生一番大切なことだと思い、あちこちの講演で使っていました。「平均寿命」と「健康寿命」には約6,7年のギャップがあります。この6,7年が寝たきりの期間なのです。こんなことは今や世間の常識だと思っていました。でも、つい先日「こないだテレビでいい事云ってたのよ。『健康寿命』って知ってる?」と妻に云われました。「そんなことも知らなかったの?」わたしは思わず聞き返してしまいました。「初めて聞くわよ。自分が知ってるからって、みんなが知ってると思ったら大間違いよ!」しこたま説教されました。翌日、こっそりとわたしの講演スライドライブラリーの中に「健康寿命」のスライドを戻しておきました。

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知らなすぎる現実

徳島県は連続15年間「糖尿病死亡率全国ワースト1位である」という事実を、さて徳島県民はどの程度知っているのでしょうか。実はこの状態を打破するために、数年前から、糖尿病「緊急事態宣言」とやらを県知事まで巻き込んで全県的に繰り広げて啓発活動をしているのだそうです(日本人間ドック学会教育講演3)。でも、結局ほとんど改善していません。おそらくこれからもさほど画期的な改善など望めないでしょう。それは、一般県民のほとんどが「自分の問題」とは思っていないからでしょう。

糖代謝異常の危険性」については前にも書きました。日本全体が加速度をつけて危険な状態になっていることは、ここ1,2年間、マスコミも含めて日本中で騒がれてきました。ですから、わたしは「知っているけれどできない」のだと思っていました。でもそれが間違っていたことを知りました。一般の方々の多くは基本的には「何も知らない!」。今年4月から始まった「特定健診・特定保健指導」も然りです。おそらく日本にはまだ存在すら知らない人たちだらけでしょう。どんなシステムの変化でもそうですが、そこに字面が並んでいるものを見ていても、結局見えていなければ同じことです。「目は節穴」です。目で見ていたら必ず脳に届くものだと思い込んでいるのは、医療従事者や役人さんだけです。たとえ一歩譲って、その字面の内容を理解している人がいるとして、おそらく大した差はありません。なぜならば、きっとそれを自分のことだとは思っていないからです。

「知っているのにできない」「わかっているのにできない」ということばを本当の意味で使える人は、芯からしっかりと理解できている一握りの人間でしかないということがわかりました。わたしたちは今までの何十倍もしつこく啓発活動をしないといけないのだということも自覚しました。

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心障者

月曜日が休みだったのでぼーっとテレビ報道を見ていました。朝の1時間、通学路のために進入禁止になっている道路を、抜け道として当たり前のように100台以上の車が抜けていきます。たしかに標識がわかりにくい。終日じゃないので見えても瞬時には理解しにくい。ナビがこっちを通れといった。どれも言い訳としては分からないでもありません。でも、きっと大部分の人は明らかな交通違反だと分かってやってます。プロであるタクシーもトラックも通ります。「会社名が分かるから迷惑だ」「お前らにとやかく言われる筋合いはない」「はいはい。悪うございました~」。見ているとムカムカします。

日曜に朝から郊外のショッピングセンターに行きました。その帰り道、郵便局の駐車場に1台の車が入ってきました。他に車はありませんでした。その車は迷うことなく入り口の間近に1台分だけある身障者用スペースに停めました。降りてきたのは見る限り普通の女性です。そのスペースと普通の駐車スペースは隣り合わせです。全部空いているのだから、1台分隣りに停めても労力に差はありません。なのにわざわざあそこに停めるのは、おそらくいつもそこに停めているからでしょう。身障者用駐車スペースに健常者が平気で停める!という特集も、くだんの番組で以前やっていたのを思い出しました。

「信じられん!」と怒りを口にしたら、隣りにいた妻は「あの人たちは『心障者』だから。人間としての心が欠損している相手に怒ってもしょうがない。だって、無いんだから。」と冷静につぶやきました。さびしい話ですけど、「そうねえ。人間じゃないと思えばいいわけね。」と、私もなぜか納得して心が落ち着きました。

そんなことよりさあ。例の進入禁止違反の現状は、明らかに行政の怠慢でしょ。郊外の真っ直ぐな道でネズミ捕りするくらいなら、あそこに隠れていて取り締まれ!資金不足なんて簡単に補えるぞ!・・・警察も「心障者」だから、無理か?

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慈しむ。

「からくりからくさ」(梨木香歩)を読みました。日本人間ドック学会のあった徳島は熊本からはとても遠く、450頁弱の小説を読むのに片道6時間のJRの旅は十分でした。

主人公の蓉子という女性を「自分は気付かずに、いろんな命を育んだり慈しんだりしている女性」と評しています。「・・・慈しむとか、大切にするとか、尊ぶとか、そういうことが、観念ではなく、出てくるのよ・・・。それは、りかさんだけじゃないんだ。この家の一人一人に対して、草木に対してさえ、蓉子さんはいつもそうだった。」・・・わたしは常々、人間の(あるいは生きるもの全ての)根底に流れる最も重要なことは、この「慈しむ心」だと思っていましたので、その文言が突然目の中に入ってきて、驚きました。わたしは読むべくしてこの小説を読んだのだと思いました。

サッカー応援の友人に、そんな蓉子さんのような人がいます(男性ですが)。人間の本質は「慈しむ心」だと思っているわたしではありますが、それを身体で表現することがなかなかできません。それを彼は普通にできます。彼は常日頃から、いつもぶつぶつ文句ばかり云っています。でも、たとえば九石ドーム(J1大分トリニータのホームです)で、雨に濡れそうになって戸惑っている身障者を見かけたら走っていって傘を差し出し、車に乗るのを手伝います。たとえば九石ドームで迷子になって泣いている子どもがいたら必ず声をかけて、安心させながらスタッフに渡します。肉親でもないのに、「お世話になったから」という理由だけで縁者の居ない墓参りを続けます。そういうことを「普通のこと」として簡単にやってのける姿を何度も見かけてきました。彼の人生を一言で表現するなら、迷わず「慈しむ」を選びます。「僕は好き嫌いが激しいからね」と云い、頑固オヤジであることは自他共に認めます。でも、その頑固さが「慈しみ」に満ちていることを、周りの人間は皆がわかっています。こんな人間になりたい。間違いなく、わたしの憧れの姿です。

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綱渡り

クドイと云われそうですが、「未病を発見して病気にならないようにする」ことを一次予防とは呼びたくない、というこだわりがわたしにはあります。一次予防を表現するなら「未病状態があるのならそれを見つけ出して早く健康状態に戻してしまう」こと、と定義したいのです。「病気にならないこと」と「健康に戻すこと」を同じことだと思うのが、病気の方向しか眺められないタイプの医療従事者のサガだという気がします。

曲芸の中に「綱渡り」というのがあります。バランスを壊さないように調整しながら、天空高くに張られた一本の綱を渡っていきます。「健康」という状態はこの一本の綱を転落することなく歩いて進んでいくことだと思います。体調や環境や年齢や、いろいろな因子の風が揺らしにかかります。それを未然に感じながら、揺れを最低限に保ってすぐに元の位置に戻しながら進んでいけるのが理想ですので、現代社会で健康を保つということがどれほど大変なことかが分かります。「病気にならない」ということは、綱の上からいつも眼下の世界を眺めていることになります。落ちないようにということばかりに注意して進んでいく人生です。「健康に戻す」ということは眼下を見ることなく前を見つめて進んでいくということに他なりません。この2つのことを、それでも結局同じことだ、と言い切れる人がどれほどいましょうか?

でも、それをするのは「医学」ではない、とそういうのでしょう。そんなことのために高い金を払えない。少なくとも医者の給料を払うほどのことではない。そういうのでしょう。

わたしには、やはり相容れることのできない大きな壁になりそうです。

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時代遅れ

日本人間ドック学会長だけでなく、「予防とは病気を早期発見することであり、早期治療を受けることで健康を取り戻すことだ」と考えている医者はまだ世にたくさんいます。うちの病院の医者の大半はそう思っていることでしょう。そしてそれが健診の目的に他ならない、と。だから、健診に一番必要なものは高度で正確な検査結果を出せる機器であり、その結果から病気の存在を見逃さない高い「診断力」を持つ医者が居れば良いのだ、という結論に結びつくのでしょう。

でも、それは「二次予防」に他なりません。今、予防医学の主流になろうとしているのは「一次予防」なのではないのか?わたしはそれを求めてこの世界に入りましたので、その意識の大きなズレが日々わたしを苦しめています。「未病状態のレベルで未然に病気を防ぐ」というのでももはや一次ではない気がするのですが、このレベルより前(健康側)の世界に医者が入り込むのはタブーであり他の人がするべきだという古い考え方は何とか捨てられないものでしょうか?

その反対に、「禁煙は予防医学だ」という古い考え方があります。今回の学会でもフル活動していた中村正和先生(大阪府立健康科学センター)や繁田正子先生(京都第一日赤)が常に言い続けていることですが、「喫煙は病気。病気を治すのは医療の仕事であり医者の仕事。だから、禁煙は予防医学ではなく典型的な治療医学なのである」という考え方の時代になっていることを、世の医者たち、特に第一線の救急医療に携わっている医者たちや経営者・指導者の先生方は早く受け入れてもらえないものでしょうか?

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意識の違和感

日本人間ドック学会に行ってきました。冒頭で、学会長の講演を聴きました。心臓外科を専門とするその学会長は、「『健診』は健康度をみるものであり、それに対して『人間ドック』はイコール『検診』だ」と言い切りました。彼曰く、「病院は病気になった人への治療をするところ。それに対して、人間ドックは病気の早期発見をするところ。だから、人間ドックには医者や技師の高い「診断力」が必須であり、診断精度の高い、良い検査機器を使うことこそが何より優先されるべきだ」と強調していました。

その話を聴きながら、「ん?」と妙な違和感を感じました。健診と検診の違いについては以前書きましたが、わたしの感覚では、人間ドックは当然「健診」の代表のはずです。でも、彼は「検診」だというのです。これが普通の臨床の医者の感覚なんだと思いました。世の第一線の医者は、受診者が健康であり続けるために助言をすることは医者の仕事ではないと思い、病気を早く見つけ出すことにしか興味がないといってもいい。わたしが、今の職場で同僚の医者たちと話していても、健診に対する意識に何か違和感を感じていた理由がやっとはっきり分かったような気がしました。わたしはやはり医者じゃなくなったのかもしれません。でも、大昔の「医者」はもっと違うものじゃなかったのかしら。

実は「人間ドック」というのは2.26事件のあった翌年、民政党代議士の桜内幸雄・俵孫一氏が健康チェックのために一週間入院したときにできたことばだそうです。「航海を終えた艦船がドライドックに上がり、船底の貝殻を取ったりエンジン・計器の整備をするようなものだ」と記者会見で言い訳したのです。そういう意味から考えると、もしかして「検診」の方が正しいのかもしれません?

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人間ドックの使い方

いまだに人間ドックを受診する目的を間違えている人が少なくありません。

「最近調子が悪いから、この際、身体中を徹底的に調べてもらいたい」と云って、予約をする方がいます。こういう方には、できるだけ外来を受診することをお勧めしています。人間ドックはその名の通り、船の「ドック」から命名された日本特有のシステムです。忙しい日常の中で、疲れてガタが来た身体をゆっくり休めながら、一通りの身体のチェックをするのが目的です。ですから、検査は多岐に及んでいますが、その分だけ通り一遍の浅い検査しかしません。こんな検査で、症状の原因をみつけられる可能性は高くありません。症状があるのなら、面倒くさがらずに外来を受診してください。必要のない検査をすることもありませんし保険が通るのできわめて経済的です。皆さん、人間ドックに多大の期待を持ちすぎです!

「頭が痛いから脳ドックを受ける」とか「動悸がするから心臓ドックを受けたい」とか云われる方もいます。専門ドックは内容によってピンキリですが、たしかに特定臓器の深いところまで見てもらえます。それでもわたしはやはり外来受診を勧めます。同じ検査をしても外来の場合の倍以上の料金を払わなければならないところがほとんどです。しかも、治療をする必要があるなら改めて外来を受診しなければなりません。身体のことを考えるとき、「如何に良い検査を受けるか」ではなくて、「如何に検査を最低限にしてその結果をきちんと評価できる医者に診てもらうか」にかかっています。どんなに最先端の検査をたくさん受けたとしても大事なひとつの検査を受けなかったために病名が分からずに命取りになることもあるのです。

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事故米

事故米が使われた酒やあられの回収騒ぎで世間は大わらわです。酒とあられが大好きなわたしも心中穏やかではありませんが、今のところ日頃飲んでいる銘柄は公表されているものとは違うようです。

「だまされた!」と嘆く某老舗酒造メーカーの社長の談話がテレビニュースで出ていましたが、「酒や焼酎は米と水が勝負なんじゃないのかい?」とつい皮肉りたくなります。そこがプライド。価格競争の中でうまくしのぎを削るのが営業努力なのかもしれませんが、侵してはならない領域に手を出した気がして、ノンベのわたしとしてはとても寂しい気がします。

一方、わたしが一番ショックだったのは、「事故米は家畜資料用であって人間用ではない」という事実です。言い方を変えると「人間様はさておき、家畜の食べ物に金をかける必要はない」という概念の事実です。カビはまあ大したことはありませんが、残留薬物はさすがに・・・。人間よりはるかに毒物に弱い動物たちの食べ物には何が入っていても目をつぶれというわけですか。「キズモノあり」のジャケットではありません。価格の安い「割れおかき」でもありません。「薬物残留ありは承知の上」という事実がとても悲しくなりました。

「この薬物を含むものを常時食べていると肝臓癌になる可能性があります。」・・・「まさか!」テレビを見ていた妻がつぶやきました。「ドッグフードの『ラム&ライス』の『ライス』にはこんな事故米ばかりが使われているんじゃないの?アレルギーだから気を遣って食べさせていたフードにこんなものが入っていたから、うちのイヌは肝臓腫瘍になったんじゃないよね!」・・・時期が時期だけに、家の中には重い空気が流れました。

時代が歪んでいく。むなしいニュースが続くテレビの画面をぼおっと眺めながら、寂しい現実を実感します。

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弔辞

町田の地でたくさんの兄弟と一緒に生まれたあなたが、空路はるばる熊本空港にたどり着いたのはもう14年も前の冬の日のことでした。町田でブリーダーさんの腕の中にいたときにはおっとりとしたのんき者に見えましたが、うちに着くなりずっとウオンウオン泣き続けましたね。犬のしつけは最初が大切。上下関係をはっきりさせるまでは甘い顔をみせてはいけない。真面目な新米パパママはどんなに泣いても叱りつけました。粗相をしたらゲージにいれて震えあがるくらいに叱りました。あなたが異常に臆病で、大きいくせに決して目線を合わせないオドオド犬になったのは、そしてお腹の弱い犬になったのは、まちがいなく私たちのせいです。

家の中にはあなたとの思い出の写真がたくさん飾ってあります。ミュイ天文台への山道で生まれて初めて吐きました。天草の海岸では堤防から滑り落ちて生まれて初めて溺れそうになりました。あそこは足が届くような浅い海でしたけど本当に慌てましたよね。高千穂峡にも行きました。若いお姉ちゃんを見かけたらなりふり構わず走り回りましたね。晩年までずっとお姉ちゃんが大好きでした。おばあちゃんは大嫌いでした。黒い服のばあちゃんがいると遠くからでも吠え立てましたね。一番大好きだったあのお散歩おじさんは、今でも元気にしてるんでしょうか。

ワンのオフ会はどこにでも行きましたね。富士の裾野、河口湖にも行きました。琵琶湖にも大仙にも四国にも行きました。牛窓でも四国でも必ず部屋の中でオシッコを漏らしましたね。家に雷が落ちて以来、遠くで鳴っていてもいつもガタガタ震えていました。頑固なくせに、とても優しい父ちゃんでした。娘を必ず前に出してやりました。彼女が横取りする餌は全部渡していましたね。「おれがおれが」のない、やっぱりあなたは「おっとりおじさん」でした。

一緒に生きてくれてありがとう。心から感謝しています。合掌。

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魂のエネルギー

昨日の早朝、わたしたちの家族だった13歳11ヶ月の老犬が、神に召されました。私たちに別れる覚悟が出来るまで待ってくれた一週間なのか、もうしばらく生きていたいと本人が願った一週間だったのか。

最後の2日間、腫瘍が肺と胃を圧迫した状態は想像を絶する辛さだったと思います。目を閉じることなく喘ぎ続ける姿は、見ているだけで涙が溢れてきました。神様、こんなに辛い状態をいつまで続けさせるのですか?こんなに頑張らないと逝かせてもらえないのですか?背中をさすってあげながらずっと念じていました。でも、彼の心臓はとても屈強でした。さすがに亡くなる数時間前からは不整脈がでてきましたが、結局肺が音を上げて呼吸が止まるまで、心臓はきちんと拍動していました。

何もないところから何かが生まれ出ることも奇跡に近いことだと思いますが、きちんと機能している臓器が順番に停止していきながら、最後に魂が身体から抜け出てしまう瞬間には、とてつもなく大きなエネルギーを必要とするのだなあと思いました。

喘ぎ苦しむ姿をじっと眺めながら「神様、早く楽にしてあげて」と祈るような気持ちでした。でも、魂が完全に飛び出てしまって「存在」がなくなったら、みるみるさびしくなっていきました。残る者の心は、本当にわがままなものだと思います。

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まだら記憶

先日、昔の知人のブログを読んでいて、もう何十年も前の大学時代のたわいもないことを鮮明に思い出しました。「よくそんなこと覚えているな」と云われました。

もの覚えには、最近の記憶力(記銘力)と昔の記憶力とがあります。わたしの記銘力は確実に低下しています。脳細胞が日に日にみしみしと軋み音を上げて消えている感覚が頭の中にあります。同僚やタレントの名前が出てこない、昨日食べたものが思い出せない、何をしに来たか思い出せない。日常茶飯事です。これの回復のためにはやはりいかに「頭を使う」かにかかっているようです。ボーっとしたら脳細胞が消えていきますし、パソコンや計算機ではなくて、手書きや暗算をするだけで、おそらく脳細胞の働きはまったく違います。脳細胞と脳細胞の接続が切れていくのを抑えるのが大事です。以前、PSの脳トレに嵌ったことがあります。始めた頃の脳年齢60歳が2ヵ月後には20歳にまで若返りました(もう今は元よりひどくなっているでしょうけど)。

一方、昔の記憶のまだら加減は何から来るのでしょうか?入学試験・国家試験の合格の日や結婚式や母の葬式や、そんな人生の区切りのことはほとんど靄の中です。でも、夜中に泥酔した女子大生を交番に連れて行こうとしたらナンパと間違えられたことや教授の目の前で吐いたことや(酒絡みばかり?)お笑い頭の体操で坂本スミ子さんが紙の真ん中に斜め線を書きその一番下の隅に「子」と書いて、「これでさかもとすみこ」と答えたことや、そんなつまらないことがまだらで記憶されています。

かと思えば、「ここ初めて来たけど、いいところやね」と云ったら「初めて?前に来たことあるじゃない?」と妻に一蹴されるときのショックときたら・・・。「前にも来たよね」「わたしは初めてよ。あなた誰と来たの?」よりはマシか!

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ウソつき模範生

わたしは子どものころからウソつきでした。教師の息子として、世間の模範生でなければならないと自分を律していたからかもしれません。本心を明かさないという点では、小学校低学年のころから社会人になるまで一貫していました。模範生に見せるためについたウソは決して忘れないようにしました。つじつまが合わなくなるとウソがバレてしまうからです。本心を明かさない、心を開かない、そんな態度に気付いた人はあまり多くないかもしれませんが、何を考えているかわからない男という印象を持った友人は少なくなく、周りとの距離を感じてきました。

小学生のころに祖母や親から金を盗んでいた時期があります。小さなウソをついては親に叱られました。ある晩、両親が相談している声を聞きました。「放っておいたら犯罪者になるかもしれないから、今のうちに児童相談所か少年鑑別所に連れて行こうか?」という内容でした。幼いわたしも、逮捕されるのではないかと怖くなりましたので、犯罪になるようなことはやめようと思いました。

世間体など大したことではないと思うようになったのは、大学に入ってからでした。でもそのころはいい格好をしたい年頃ですので、だらしない正直な自分を曝け出すわけにはいきませんでした。何も考えてなくても何か考えているふりをしていました。社会人になると、「かけひき」というものが大切だと教わりました。大勢に影響がないウソはついてでも自分の社会的評価を上げるのが大人だと教わりました。そんな「かけひき」自体をくだらないことだと思うようになったのはまだここ6、7年くらいです。世の政治家さんや社長さんへ。ウソをついたのはしょうがないとして、ウソがばれたときは潔く全部曝け出しましょう。絶対そっちの方が格好いいと思います。どうせ保身なんて無理なんですから。

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家族の仕事

小学校のころ、「家族のしごと」という作文を書かされました。

「洗濯は週に1回、毎週日曜日の朝からします。洗濯機を回すのはいつも父の仕事です。お米を仕掛けるのは毎晩母の仕事です。毎朝、炊飯器のスイッチを入れるのは父の仕事です。お風呂は一日おきで、薪を焚くのはいつも父の仕事です。」

共働きのわたしの両親は、毎日の仕事分担が割と明確でした。父は毎晩午後8時には床に就きますし朝5時には起きていました。母は、食事の後片付けのあと、テレビを見ながらテストの採点やらを始めるのが常でした(居眠りするのもいつものことでした)。正直者のわたしは、普通にそのままきちんと書きましたし、クラスで発表しました。

1、2ヶ月後、父だったか母だったかに、「そんな恥ずかしいことを書いたらいけんよ」と怒られました。どうも、わたしの担任の先生からチクられたようです。両親ともに同業者ですから、何かの用事で会ったときに聞いたらしいのです。何で担任がそんなことを話したのかもわかりません(普通、大した問題ではない限りそんな話はしないでしょう?)。他の家のことなど知るよしもないわたしでしたが、ガテンはいかなかったものの、真実をなんでもそのまま公言してはいけないのだということをそのとき知りました。

小学校に上がる前のころ、家に父の職場の同僚が何人か尋ねてきました。寿司屋から出前を取りました。その場にあいさつに行ったとき、「ぼくはお利口だね。このお寿司を少し食べない?」と聞かれて、「帰ってから余りを食べるから、要らない。」と答えました。このときも後でシコタマ怒られました。いつもそうしていたやないかい。

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値上げ

9月に入って、おかげさまでガソリン代は若干下がりました。まあつい最近まで何十円も安かったことはすっかり忘れてしまいそうでしたが。

同時に食品の多くが値上がりしました。バター、ビール、ハンバーガー、チーズ・・・。「日々の生活に必要なものばかりなので、とても困っています。」というインタビュー映像がたくさん流れました。わたしも、8月の終わりに、大急ぎで安売り店に行ってサントリーの「金麦」をまとめ買いしました。

ただ、わりとはっきりしている事実があります。みんなが、「できたら触れないでほしい」と心の片隅で感じている事実です。それは、どれも「本当は必ずしも困るわけではない」ということです。ビールや発泡酒がなくて死ぬ人はもちろんいません。バターやチーズは尚のことです。小麦粉が値上がりしたのなら、料理を作る量を減らせばいい事です。どうせ安いことをいい事にいつの間にか作りすぎて食べ過ぎるようになったのだから、この機会に作る量と内容を変えてあげれば、家族全員がメタボと確実にオサラバできます。ついでにガソリン代を考えて自転車通勤にすれば、たとえ初期出費(自転車購入費)がかさんでも、将来の高度医療にお世話になるときの医療費を確実に未然に防げます。その浮いた金で家族全員でハワイ旅行ができるかもしれません。

「わかっているのにできない」のだから、やむを得ず「せざるをえない」の大義名分があってくれてラッキーなこってすね。

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左回り

オリンピックでは野球もサッカーも散々でした。でも、野球の中継が同時にいくつもあったのには驚きました。「やっぱり何といっても日本人は野球ですから」といっていたどっかの解説者のことばが妙に耳に残っています。「何云ってだ、おまえ?バカか?」と、ガラにもなく怒ってしまいました。

子どものころ、雑誌の付録で小さなコイルラジオをもらい、イヤホーンで雑音の中のプロ野球中継を聴きました。ジャイアンツ戦でした。中学に上がったらトランジスタラジオを買ってもらいました。「巨人大鵬卵焼き」の時代でした。V9時代のジャイアンツの選手は、7(12)柴田4土井1王3長嶋36末次8高田5黒江27森と、空で云えました。高校のころもプロスポーツといえば野球でしたがジャイアンツには興味がなくなりました。予備校時代は西鉄ライオンズが好きでした。その流れで東京勤務時代は西武球場に通いました。

別に運動が好きだったわけではありませんが、中学ではバスケットボールをやっていました。サッカーに何の興味もありませんでしたが、今は大分トリニータのサポーターです。逆に野球にどうしても興味が持てなくなりました。何故だろうと思っていましたが、どうもスポーツの形態の差のように思います。野球は必ず順番に左回りに回らないといけない決まりです。守っている途中に攻撃ができません。まるで儒教のようです。サッカーもバスケットも、発想のユニークさが勝負です。ファンタジスタの想像だにしないパスが決まる瞬間の感動は明らかに脳を賦活させてカテコラミンを吹き出させます。

若い頃、頑なで臨機応変な行動の不得意だったわたしが、いつの間にか発想のユニークさを求めるような生活になったのと、ちょうど連動している気がします。人生に置き換えたら、後者の方が何か大きくなれそうではありませんか?考えすぎ?

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寿命

もうすぐ14歳になろうとしているうちのワン(牡)が今、末期状態にあります。正月に腫瘍が発見されて、今は腹水も溜まってきている様子です。腫瘍が腸管を圧迫し、食べられなくなってしまいました。階段の上がり下がりにわたしが抱えあげてやることもありましたが、今は上には行けません。

動物の場合の「延命治療」というのは人間よりもさらにシビアに考えさせられます。競馬の馬の場合は骨折したら安楽死の道が選ばれます。自分で動けなくなった馬は死んでいくしかないから「苦しまないように」なのだと聞きました。ペットが末期の腫瘍で苦しんでいるときにも注射を使って安楽死させることがあります。わたしたちにブリーダーを紹介してくれた知人も、飼っていたワンが末期がんで苦しんでいるのをみていられないと云って、悩んだ挙句に安楽死を選択しました。うちのワンはアガリスクを飲んでいます。食べられなくなった時期に点滴で回復させたこともあります。腎障害で人工透析を受けたり、心臓のバイパス手術を受けるペットもいると聞きます。かわいいわが子と別れるのが辛く、かわいそうで出来る限りのことをしてあげたい、と思う飼い主の心は良く理解できます。

でも、いずれにしても、本人(人ではないけれど)の意志とは無関係に周りの人間の満足のために「治療」「処置」を施すのは、やはり生命への冒涜ではないのか?と考えてしまうことがあります。人間の場合も同じことです。まるで他人の運命を弄るようなことが本当に許されてることなのだろうか?最先端の救急医療に携わっていたころから、ものすごく悩むようになりました。

理屈ではそこまでクールになれても、苦しげに喘いでいるワンの目を眺めていると、走馬灯のようにいろいろな思い出が浮かんできて、涙が止まりません。

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延命治療

「急変した場合に延命治療はしますか?」

夜中に救急で入院してきた患者さんの状況を家族に説明した後、必ずこれを聞きます。連絡をつけられるまで待てない状態のとき、心臓マッサージをしますかしませんか?気管挿管をしますかしませんか?本人に聞くのではなくて(当たり前といえば当たり前ですが)残される家族の満足のために聞いておく、という感じではないかと思います。ERに心肺停止状態の患者さんが担ぎこまれた現場では、一般的に脳外科医は早めに諦めます。循環器科医は機械的にマッサージを始めて根性で心臓を再開させます。前者は植物人間になることに誰も幸せがないことを云い、後者は無駄だと思っていた人が元気に生き返ったことのある経験を主張します。

もうひとつ、終末医療(がん)の「延命治療」があります。こちらは家族にだけではなくて本人にも判断を求めることがあります。人間らしい生き方とは何なのか。期限の切られた人生に延命治療は無駄だ、命を永らえるために抗がん剤を使うので動けなくなるのは人間として本末転倒ではないか、そういう意見は医療の世界にもあります。でも、一方で、「必ず治る」「奇跡を起す」その気合だけで、どんどん元気になれる人はたくさんいます。がん細胞は自分の身体の中の細胞の不良化・暴走族化ですから、更生して堅気の細胞になることがあっても不思議ではありません。

「生きる望み」を失ったとき、それが命の境界線になるのではないか。わたしはそう思っています。

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夏休みの宿題

朝から、世間に子どもたちが湧いてきました。やっぱりこれが本来の日本の姿でしょう。

さて、以前わたしとわたしの姉との性格の違いを書きました(2008.5.20)。夏休みで思い出すのは宿題です。「夏の友」を含めて、わたしは7月21日の夏休み開始から早速宿題を始めます。できるだけ早めに宿題を済ませようと頑張ります。すっきりしてから夏休みを楽しみたいからです。ですから最終的には自由研究や工作などの後回しにしておいた内容を除けば、8月の初めまでには終われます。一方姉は、どちらかというとマイペースです。せっかくの夏休みは堪能しなければ!という考えですので、だいたい盆のころから宿題を始めます。で、どうなるかというと、結局8月31日にどっちも宿題が終わっていません。わたしは自由研究を残していたりして夜中までアタフタと仕上げることになります。

食事をします。わたしは、まず好きでないもの(基本的に「嫌いなもの」がない)から食べてから最後に好きなものを食べるタイプです。最後に好きなものの食感で口中を充満させて終わらせたいからです。姉は好きなものから食べます。(まあ好き嫌いが強いから嫌いなものは食べないこともあるのですが)最初に嫌いなものを食べたら口の中にその臭いが残って、好きなものを食べても味が本当の味じゃなくなるから、だそうです。

今になって、姉の生き方の方がわたしの生き方よりずっと楽しかったのじゃないかと思ったりします。なんかわたしの生き方にはピークがない気がして、メリハリがある人生の方がはるかに魅力的なような気がして・・・でも、無いものねだり、「となりの芝は青く見える」ってやつなのでしょうかしら?

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僻地医療

わたしが東京で働いていたときの上司は、北海道の大学のご出身でした。札幌よりやや北西にある小さな島(まちがってたらごめんなさい)の医者になりたかったというお話を、よく宴会の席でお聞きしました。

「東京にちょっと来い、と呼び寄せられたまま、結局そのまま僻地医療の夢は果たせなかったんですよ。」

酒のために赤味を帯びた上気した顔で、それでも決して語調の乱れることのない紳士然とした口調で、いつもその話をされていました。優秀だったからこそ呼ばれたわけですが、その後しっかりと研鑽を積まれ、わたしがお会いしたときにはすでに日本の第一人者の位置にありました。あのとき、希望通りに島に渡っていたら、日本の医療界には大きな損失になったかもしれません。でも一方で、先生の紳士然とした口調や患者さんを常に敬う態度をみていると、離れ小島で僻地医療に携わっていたとしても、きっと「北のDrコトー」として素晴らしい恩恵を島の民にもたらしたことだろうと思います。

僻地医療の大変なところは自分で判断して自分で責任をもたなければならないところだと思います。中央の医療水準から取り残されるからと言い訳していますが、実のところその自己責任義務に縛られるのが怖いから、僻地医療に行きたがる先生が少ないのではないでしょうか。小児科医や産科医や救急医療従事者の希望者が激減したのも同じ理由でしょう。自分が患者さんのために身を粉にして施した処置がうまくいったら当たり前、悪い方向に行ったら社会から干されるなんて。金をいっぱい積まれても(給料が上がっても)その理不尽が解決しない限り、志の高さだけでは乗り越えられない現実があるのは事実です。難しい問題です。

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