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2008年10月

医学は科学ではない(後編)

医学部は、文系の人間と理系の人間が混在しています(わたしの学生の頃は文系の方が多い印象でした)。理学部に入る人、特に物理や化学を専攻する人は、やっぱり理系の人間ばかりでしょうね。

わたしは精神科医になりたくて医学部に入りましたが、精神科の教授が「分裂病(統合失調症)は分子レベルで解明されそうだ!」と嬉々として語る姿を見たときに、急激に興味を失ってしまいました。学会で発表をすると、「そのメカニズムを教えてください」「その機序をどう考えていますか?」とよく質問を受けました。わたしはあれが苦手でした。メカニズムが明確でないのは「たまたま」でしかなく、メカニズムこそがサイエンスである、というわけです。再現性のないものは科学とは云わず普遍性のあるものにしか真理はないというのです。わたしは病気の人間を良くしてあげたいと思うけれど、その病気が何で起きるのかがわからないといけないとは必ずしも思わないし、そういうものにあまり興味がない人種だということがわかってきました。

医者(医師国家試験合格者)の中には、同じカリキュラムを経て、同じ教育を受けてきたにもかかわらず、人間が細胞・分子の集まりに見える人と、心や魂の宿ったモノに見える人がいます。前者はサイエンス学者であり後者はヒューマニズムの哲学者なのかもしれません。前者だけの実験室オタクは医者ではありませんが、私のように後者だけの薀蓄野郎ももちろん医者ではなく、医者というのは、その両者をきちんと身につけているものでそのどちらが欠けても一流とはいえないのだと思います。ということは、やはり「医学は科学じゃない」というのが正解で、「科学じゃないからこそ医学は素晴らしいのだ」という気がします。

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医学は科学ではない(前編)

日本核医学会は今年は幕張メッセで行われました。この学会に行く楽しみは、東京に居たころに働いていたT病院の当時のスタッフとの食事会に参加することです。特に当時部長だったM先生のお元気な姿にお目にかかれるのは励みになります。

M先生が、最近まで働いていたH研究所でのことを話しておられました。「周りに物理学者ばかりが居たでしょ。彼らは答が明確にひとつでないと納得できないんですよ。曖昧さを許さない。『お前は頭が良くて成績も良かったから医者になったのだろうに、どうしてそんな当たり前のことがわからないのか』と云われるんです。生物学者たちは世の中には必ずしも答えはひとつではないことを理解してくれるんですけどね。」・・・それを聞きながら、なんかドラマの「ガリレオ」みたいだな、と思いました。

たしかに「医学は科学ではない」と云って、学者さんたちが少々見下した云い方をすることがあります。そうすると「そんなことはない!医学は立派な科学だ!」と云わんばかりに医学者たちは白黒をはっきりさせるような証明をしてみせようと躍起になります。ちょっと乱暴かもしれませんが、わたしは「医学は科学じゃない」というのなら、「それでもいいんじゃないの?」と思う人間のひとりです。医学が科学じゃないと、何か困ることでもあるのでしょうか?それって、いけないのでしょうか?

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化粧

病院を受診するときにしっかりと化粧をしてくる女性がいます。これでは診察の基本になる大事な「顔色」を確認することができません。頑丈なボディースーツで身を包んでいる女性もいます。隙間から聴診器を入れたって何もわかりません。

「一体、受診することを何だと思ってるのかしら!」・・・昔、出向した先の公立病院の婦長さん(現在で云えば師長さん)がとても憤慨していたのを覚えています。

健診では、化粧している女性は少なくありません。宿泊ドックの2日目でもギッチリとメイクしてくる女性もいます。眼瞼結膜・眼球結膜を診察をするだけで指にたっぷり化粧品がくっついてきます。ただ、健診は病院ではないので、その気持ちがわからないでもないなとも思います。スッピンでも人前で平気でいられるのは「若さ」に他ならず、化粧は年齢が高くなるほど濃厚完璧になっていきます。「スッピンの顔で人前に立つなど、裸で街を歩いているようなモノ。そんなことするくらいなら来ない方がまし!」・・・ある女性に、そう云われたことがありました。

師長が若い看護師さんを叱っている光景をみました。「あなたまさか化粧していないんじゃない?そんなだらしない姿で患者さんと接するなんて、みっともない!」・・・社会人の身だしなみとして、人前ではきちんと化粧するのが常識なのかもしれないけれど、一番素肌がきれいな世代のお嬢さんが、一番きれいな姿で接するのが患者さんには一番嬉しいのじゃないか?と思いながら眺めていました。一方で、診察室に入ってきた80歳を越えた女性の唇に艶やかな赤いルージュがしっかりと引かれているのをみたとき、「化粧」の意味がわかった気がしました。そのルージュ1本が「女性」を保ち、それでアンチエイジングが成立するのだということも知りました。

いずれにしても顔にシミだらけでも平気でいる中年オヤジの私には到底理解できない領域のような気がします。

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ダイエットは寿命を縮める

本当に肥満はからだに悪いのか?

メタボ列島、メタボ惑星と化した現在、何を今さら?と云われそうですが、実は、世には「ダイエットをした方が寿命が短い」というデータは山ほどあります。昭和女子大学の高田明和先生の特集文章「過激なダイエットはエイジングを促進するか」(アンチエイジング医学37-41,2007)に並べられたデータをみて、正直なところ大変ショックを受けました。

NHANESというアメリカのスタディでは、やせている人は高度肥満の人と同じくらい死亡率が高く、特に60歳以上では太っていてもなんら死亡率は増加しませんでした。また、体重と死亡率についての40個の論文をまとめた研究(Lancet 368,2006)では、正常体重の人の死亡率を1としたときによっぽど高度の肥満になるまで死亡率は1に満たないのですが、やせの死亡率は1.3くらいになります。簡単にいえば、「ダイエットでやせている人は病気になりやすく死亡率が高い」という結論に達します。「もともとが太っていてもやせていても、15%以上体重を減らした人はほとんど減らなかった人の2~3倍死亡率が高い(Am J Epidermol 136, 1992)」「ダイエットで体重を減らせても減らせなくても、結局ダイエットを試みた人は何もしなかった人より死亡の危険性が高く、ダイエットすること自体が健康に良くない(Ann Intern Med 119. 1993)」・・・これらの論文が10年以上前に報告されています。

世間で、「やせろやせろ」と騒いでいる最中にそんなこと云われても、ねえ。もっとも、これらの論文の大きなミソは、「ダイエット」=「食事制限」だということのようです。運動や日頃こまめに動く人、ダイエットでリバウンドを繰り返さない人などは結局健康度も寿命もアップさせている。だから、体重の大小ではなく動くことが老化防止には大事なのだと云いたいようでした。もともと運動欲のない人間。動きすぎると活性酸素ばかり増えてくる現実。どっちにしても一筋縄ではいきませんが、「やせればいいってもんじゃない!」このことは事実のようです。

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朝だけバナナ

例によって、巷の店頭にバナナがなくなってしまう現象を引き起こした「朝バナナダイエット」。先日、ある企業で講演をしているときに、保健師さんから「バナナダイエットをどう思いますか?」という質問を受けました。あまり勧められない方法だということを説得するにはどうしたらいいのか?というニュアンスの質問だったと思います。

朝食をバナナと水にするだけで、昼と夜は自由に食っても痩せる!というものです(詳しくは知りませんが)。これまでいろいろ云われてきた単品ダイエットとあまり変わらないような気もしますが、「健康のために朝食を抜く」を2年以上前から実践しているわたしにとっては、どうでもいい話です。かといって、「朝を食べないよりマシかしら?」と保健師さんや栄養士さんが「正論」を話しているのを遮る気もございません。

単品ダイエットで注意することはやはり栄養バランスでしょうか。炭水化物もたんぱく質もなくてはならないものなので、カロリーだけを考えて一品にこだわるとどうしても足りないモノが出てきます。以前、中心静脈から高カロリー点滴を受けていた集中治療室の患者さんに亜鉛などの微量元素不足が起きて問題になったことがあります。普通なら何かから得ているはずのものが全く入らなかったのです。単品ダイエットも同じ事がいえますから、先日紹介したフォーミュラ食の方がはるかに理想的かもしれません。でも、朝昼晩そればかり食べる訳ではないから、あまり関係ないかもですね。効果がある方は続けても良いんじゃないでしょうか?ただフォーミュラ食のときにも書きましたが、この手は続けないとかえってリバウンドしますから、効果が今ひとつだったり飽きそうだったら他の方法にした方が良いと思いますよ、きっと。

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マザーテレサ

先日、ある人のブログに「マザーテレサのメッセージ」が書き写されていました。読んで心が動いたので、感謝のコメントを入れました。「人の言葉を書いてお礼を言われると申し訳ない気がします」と返信をもらいながら、たまたまそれを見ることになったご縁に感謝しました。心が必要としていないときに読んでも気づかないでしょうけれど、きっと必要なときにしか目の前に現れないモノなのかもしれません。そのまま自分だけ持つのももったいないので、無断で転記します。ご縁のある方は最後まで読むことになるのでしょう(?)

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「あなたの心の中の最良のものを」

人は不合理、非理論、利己的です。
気にすることなく人を愛しなさい。

あなたが善を行うと利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。 
気にすることなく善を行いなさい。

目的を達しようとする時、邪魔立てする人に出会うでしょう。
気にすることなくやりとげなさい。

善い行いをしてもおそらく次の日には忘れ去られるでしょう。
気にすることなくし続けなさい。

あなたの正直さと誠実さとがあなたを傷つけるでしょう。
気にすることなく正直で誠実であり続けなさい。

あなたの作り上げたものが壊されるでしょう。
気にすることなく作り続けなさい。

助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。
気にすることなく助け続けなさい。

あなたの中の最良のものを世に与え続けなさい。

蹴り落とされるかもしれません。
それでも気にすることなく最良のものを与え続けなさい。

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卒業試験

自家用車の7年目の車検を受けました。ということは、あの事故があってから丸7年になったということになります。

土曜日だったその日、朝から自家用車に乗ってゴルフに向かう途中でした。自宅近くの商店街の裏側の交差点で、青信号だったのでブレーキを踏むことなく交差点に入ったら、左側から信号無視のトラックが突っ込んできました。朝日を直接浴びて信号機が見えなかったのではないかと思います。わたしの目の前に急速に近寄ってくる車を見ながら「バカァ」と心で叫びました。わたしの愛車はトラックにぶつけられたあと道路脇の電柱にぶつかって大破しました。トラックは止まりきれずに建設中のセブンイレブンの建物にぶつかって止まりました。瞬時の出来事に呆然としながらも、妻と上司に電話をしました。車のドアは開いたので降りてみました。シートベルトをしていた胸がちょっと痛かったことを除けば五体満足な自分がおりました。

跡形もなく大破した車に比べて大した外傷もないわたしについて、義母は「亡きお母さんが守ってくれたのよ」と泣きながら云いました。でも、わたしはきっと卒業試験に合格しなかったんだな、と思いました。救急医療に携わっていると「九死に一生」を得た患者さんを何人も見かけます。「わたしが生きて退院できるのは先生のおかげです」と感謝され「いえいえあなたの生命力です。拾った命、大切にしてください」と云いながら、実は「あなたはまだこの世の卒業試験に受からなかっただけですから、もっとやるべきことをやってください」と内心で思っておりました。年齢に関係なく、この世で学ぶべき試練と経験をきちんとこなした人から順にこの世から卒業できるのだとするなら、こんな大事故でも生かされると云うことはまだこの世ですべき試練と経験と喜びと・・・何かが全然足りてないということになりましょう。あれから7年、相変わらずのところで藻掻いている気がします。

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わかってもらう

職場の広報誌の最新号(2008.10号)が発行されましたので、コラム転載します。夏の心臓リハビリテーション学会で聞いた話を中心に書きましたので、一部このブログで書いたこと も入れちゃいました。どうぞ、ご内密に。

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わかってもらう、ということ

「それは辛かったでしょう。もう大丈夫です。一緒に治しましょう。」

私の妻が、ある漢方医院を受診しました。これまでの様々な症状と辛い治療の歴史を話し終えたとき、じっと聞いていた先生がやさしい眼差しでそう言いました。そのことばを聞いた瞬間に、感動で涙が出そうになったそうです。「今までそんなことばをかけてもらったことがなかったので、とても救われた気がした。」と語る顔は晴れやかでした。先日、学会の講演会で、ある心療内科の先生のお話を聞きました。身体が一日中痛くてどうしようもないと訴える患者さん、旦那さんのツテを使って可能性のありそうなありとあらゆる教授や名医にかかってみたけれど全く治らなかった患者さんが受診されました。約45分間の初診面接が行われました。「ありがとうございました。何かとても楽になりました。これまでどんな有名な先生にかかっても私の苦しみをわかってもらえなかった。私の『痛み』をきちんと聞いてくれたのは先生が初めてです。」・・・診察を終えたとき、患者さんはそう言って帰っていきました。その1ヶ月後に受診したとき、痛みの訴えは半日間に減っていたそうです。

ここまで劇的でなくても、相手に「わかってもらえた」と実感できる瞬間があります。問題が何も解決していないのにそれだけでハッピーになったりします。症状が改善した患者さんに行ったある心療内科のアンケート調査の結果では、「なぜ治ったか?」の問いに、その25%は「安心感、信頼感」、20%は「具体的な説明」と答えたそうです。一方で、「わかってもらえていない」と感じることは、その何十倍も経験します。「そんなことじゃない。どうしてわかってくれないの?」と、イライラしたことは誰にもあるでしょう。夫婦や恋人同士なら間違いなくけんかに発展します。医療の場では、医療不信のきっかけとなりドクターショッピングにつながるかもしれません。「わかってもらう」ということがどんなに幸せでかつ難しいことかがわかります。

前述の学会では、元ミスタータイガース掛布雅之氏のフリートークもありました。彼は最後に患者さん方にメッセージを残しました。「主治医との心のキャッチボールをきちんとしましょう。キャッチボールは野球の基本です。投げる方は一番受け易い球を投げ、受ける方は投げる人の気持ちになって確実に心をキャッチする。その基本がなかなか出来ていない気がします。」・・・ここにとても重要な「わかってもらう」の極意があるように感じました。患者さんの主治医への想いはつい片思いになりがちです。「私の思いに気づかないのは相手が聞く耳を持たないからだ!」と不満を持ち続けていませんか?キャッチボールは投げる側の投げ方も重要だということです。患者さんも主治医も同じ球をキャッチボールするためには、どっちの心もお留守になってはいけないのだということを再確認させられました。

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こころざし

先日、初めて行ったあるスナックで帰り支度をしていると、マスターがわざわざ色紙に字を書いてくれました。

色々書いた後、最後に「お節介ながら」と前置きして「こころざし」という漢字を書いてくれました。普通は、武士の「士」に「心」で「志」ですが、わざと「土」に「心」と書いて「こころざし」。その違いを、わたしはわたしなりに理解していました(何かの本で読んだことがあった?)。が、「『志』は武士が出世するために人と競い合い、上へ上るために人を押しのけていくこと」・・・彼がそう話し始めた途端、なぜだか涙がボロボロと溢れ出てきました。「もっと自然に任せて地に足を付け、心のつながりを大事にする『土』という字の『こころざし』の方がいいんじゃないかなと思って、この字にしてみました。」そう続けることばはほとんど聞こえていませんでした(だからちょっと意味を間違えて書いているかもしれません)。

彼にしてみれば、いつも書いている字かもしれません。でも、そのことばの最初の段階でわたしの心と体が瞬時に反応したということは、今の自分に一番必要なことばだったのだろう。わたしは素直にそう思いました。

人との出会いもご縁なら、ことばとの出会いもご縁。そんなことを確認した深夜の都町でした。

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悟りの錯覚

診察の「察」は、科学的な「観察力」と情報のすべてを集めて考える「洞察・推察力」の意味だと教わりました。でも、鎌田先生から醸し出される「察」には、何かもっと大きな力があるように感じてなりません。

わたしもそんな「察」の医者になりたいと思いました。「医者」の肩書きはどうでもいいのですが、そんな「察人間」になりたいと思いました。今の職場に移って数年で、自分がどんどんそんな人間に近づいているという実感がありました。このまま行ったらすぐに悟りきってしまうかもしれない!と思い上がりました。

でもここ2~3年、その心は退行する一方です。人の心や人生を察するには、自分の姿を察する力が鈍っていてはどうしようもない。自分が楽しいことが大事。当時は何をしても楽しかったけれど、今の自分はきっと楽しくないのだろうなと思います(「思います」というところが自分を察し切れていない証拠でしょうか)。先日、ある方から「あなたは何かやりたいことがあるはず。それを勇気を持ってやりなさい」と云われました。きっとそれがあるんだろうなと思いながら、いくら考えてもそれが何なのかわかりませんでした。

そんな中でたまたま出会った鎌田先生の笑顔の写真。「まだそう焦らなくてもいいのかな」・・・そう感じさせてもらえました。もっと感じて、もっと察することを素直に楽しめたらいいのかな、と思います。

鎌田先生のブログ「なげださない」http://kamata-minoru.cocolog-nifty.com/blog/

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「察する」心

NHK「きょうの健康」11月号のテキストを衝動買いしました。「40代からの脱メタボ必勝法!」という特集見出しが気になったからです。新しい知識を期待していませんが、内容がわかりやすいので講演をするときに参考資料として薦めようと思いました。

そのテキストをパラパラっとめくっていたら、鎌田實先生のいつもの写真がわたしの目の中に飛び込んできました。先生の写真はいつも笑っています(そんな写真しか撮らないのかこの顔以外の顔が存在しないのか)。わたしもそれに憧れて、できるだけ笑い顔で写真に写るように心掛けています(病院のホームページの写真をみて「なんであなただけバカ笑い?」と妻に指摘されたこともあります)が、どうしても意識すると引きつった笑顔になってしまいます。

鎌田先生の連載エッセイ「つながる」は4月号から始まったようです。第8回の今月号は「二人のすてきなドクターに会った」。先生の人間を「察する」相変わらずの心に、またぐっときました。「人生はあきらめなければ必ず変わる。」「『つかれたのでひと休み。人生の休憩です。』・・・親孝行を前面に出さないのがオシャレだと思った。」・・・先生の云うとおり、どちらの先生もきっと患者さんに慕われている良い先生なのでしょう。

人柄には人柄が集まってくる。先生の周りには、オシャレな心と優しいことばがいつも溢れ出るように集まってきて、それをさりげなくきちんと感じて拾い上げてくれる先生がいて、増幅して周辺のみんなを包むので、みんなが満ち足りてくるんだろうなと思います。

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ディスチミア親和型うつ

このことを何度も書いてきたのは、産業医として自分の頭の中を整理するためです(わたしが産業医をしている職場でもいよいようつ病の嵐が吹きぬけ始めてきました)。でも、正直なところ、分からなくなる一方です。特徴はわかる。で、どうしたらいいのか?わたしは基本的に物事を白と黒に分けられない性格なので、大変困っています。

「ディスチミア親和型は、もともと規範的でなくむしろ規範に閉じこめられるのを嫌う性格、仕事熱心の時期がなく常にやる気の無さのうつ状態を呈する。若い人に多く、自責や悲哀よりもはっきりしない不全感(満たされない感じ)と心の疲労を訴え、罪悪感に乏しく、他罰的である。休息と薬では慢性化するだけである。抑うつが軽度であっても希死念慮(死にたい)を表明。良好な人間関係作りが治療の基本で適度に誉めたり励ましたり(うつ病では禁忌だといわれていた)して弾力性を刺激するのがよい。主役は抗うつ剤ではなく自分自身だと言うことを何度も確認する。」・・・第5回日本うつ病学会の記事から松尾信一郎先生(若久病院)のことば(Medical Tribune2008.9.25)を並べてみましたけれど・・・さっぱりわからんです。どうしたらいいのか、わかるようでわからんのです。わたしが生涯の命題だと思っているのにまださっぱり悟れない「般若心経を分かる」と同じ感覚です。

なんか、まるでズボラでいい加減なヤツという印象のことばばかりが並んでいますが、本当にそんな表現だけでいいのでしょうか?

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やせすぎ注意

世間がメタボ対策で「やせろやせろ!」と騒いでいる一方で、若い女性や子どもたちを中心にした痩せすぎの問題は年々深刻の度合いを増してきています。

厚労省難治性疾患克服研究事業「中枢性摂食異常症に関する調査研究班」という何ともお役所っぽい名前のグループのとても実際的な医療研究班の報告が、ある医療ページに出ていました。摂食障害には拒食症(神経性食欲不振症)と過食症(神経性大食症)とがあり、前者には食事を摂らないだけのパターンと無茶食いした後に吐いたり下剤を使ったりするパターンとがあることは周知のとおりですが、何しろ200~600人に1人の割で発症して、死亡率5%をはるかに越えているというのは、きわめて異常な緊急事態だと云わざるを得ません。

たしかに、最近の子どもたちや若い人たちを眺めてみると、明らかに太りすぎているか痩せすぎているかの両極化がみられます。先日、職場で予防接種の問診係をしましたが、20代前半の若者は男女を問わず低体温で脈の遅い人が多いのに驚きました。生まれたときからエアコンの下にいたために自律神経が脆弱なんだと思っていますが、中には摂食障害のパターンも隠れているかもしれません。どうしてそんなに極端に痩せたがるのか、おじさんにはやはり不可解です。異性である男性は、「女性の痩せすぎに魅力を感じない」・・・これは諸般のアンケート結果で明白です。なのに、女性は極端に痩せ細った姿に目をキラキラさせます。魔法でゴボウの姿になったのに鏡に映る自分の姿が大根に見えている状態なのでしょうか。

この緊急事態に、校医、産業医、一般医向けのガイドライン(神経性食欲不振症のプライマリケアのためのガイドライン(2007年)が発行されました。具体的な治療法が並べられています。医療関係の方は是非、一読をお勧めします。

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「まだ」と「もう」

わたしの職場にはフィットネスセンターがあります。せっかくあるのだから昼休みに利用します。昼休みは1時間ありますが、昼食時間や着替えなどを除くとトレッドミルに乗れるのは30分あるかどうかです。午前中の仕事がちょっと長引くとその時間も取れなくなります。「もうこんな時間か。今から始めたら20分しかできないから今日は無理かな。」・・・始めた頃はすぐに諦めていました。ところが、運動が習慣になってしまうと、なぜか動かないことが気持ち悪くなります。「今から急いで準備したらまだ20分もできるじゃない。早く行こう!」・・・いつの頃からか、そんな感覚になっている自分に気づいて驚きました。

同じ時間を「まだこれだけある」と思うか「もうこれだけしかない」と思うか、その感覚の差は積もっていくともの凄い差になるように思いますが、この感覚は理屈ではありませんので、実際にやって実感できないときっと理解してもらえないでしょう。昔、高校の数学の某先生が「これがわかるかわからないか、ロケットで行くくらいの差があるんだよ!」と云っていましたが、まさしく「まだ」と「もう」の差はそれ以上かもしれません。

運動をするしない、メタボになるならない、そんな次元の話ではなく、人生のどんなものに対しても前に進むか止まってしまうかが暦年令以上に人生の幅に大きく影響を与える気がしてなりません。するかしないかは別にして、アンチエイジングの基本がここにあるように思います。

とか書きながら、最近また「もう・・・」になって、着替えることなく昼休みにブログを書いていたりします。いかんいかん、老化に加速度がついてきた!

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アンチエイジング

アンチエイジング(抗加齢)医学は、ここ数年で一気に脚光を浴びてきました。最初に日本抗加齢医学会に入会したときは、周りから「怪しい学会に入ったんやなあ」と苦笑いされました。今でも「怪しい」部分はしっかりはらんでいる気がします。それは「アンチエイジング」のことばに対する考え方が千差万別のまま、いろいろな思惑と戦略を持った有象無象が集まっているからだと思います。でも、逆に「科学」とか「学問」とかいう概念に凝り固まっているお堅い学会よりもはるかに面白いとも思います。

アンチエイジング医学とは、老化・加齢のメカニズムを究明しQOL(日常生活)の向上と健康長寿の達成を目的とするもの、と学会誌に書かれていました。ですから、アンチエイジングは「若返り」の学問ではなく、その年代において心身共に最も生き生きとした理想的な健康状態である状態を維持させることが目標なのだそうです。

アンチエイジングを考えるときに大事な事実は、「一部が落ちると全部が落ちる」という真理です。ひとつだけ病的老化が進んだ臓器や器官があると、人間の身体は元気な部分をその悪い方に揃えることでバランスをとろうとします。手術や病気になったりすると急に老け込むことがありますよね。怪我する前まであんなに元気だったのに・・・それが老化のメカニズムです。老化は徐々に進んでいくのではありません。あるとき急に老化します。ですから、アンチエイジング医学はそんな悪循環を断ち切って、高いところ(元気な状態)でバランスをとる心身作りを目指しているということになります。

そう考えると、人間のあるべき姿を最も真摯に探求する学問だとはいえないでしょうか。

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叩くと埋める:凸と凹の医療

人間を「人間」として捉えようとするとき、東洋医学の考え方を避けて通れません。東洋医学や代替医療の世界を知れば知るほど、西洋医学と東洋医学は全く逆の発想だということに気付きます。

わたしは、西洋医学は「叩く医学」で東洋医学は「埋める医学」、あるいは西洋医学でいう病気が凸で東洋医学でいう病気が凹だと思っています。余分にでできてしまったものを取り除く(手術)とか侵入物(菌やウイルス)を薬で叩くというように、本来ないものが内外から出てきたために「戦う」相手が病気だというのが西洋医学の考え方です。でも東洋医学では、病気は身体の中の一番弱いところ(周りに比べて凹んでいるところ)に潜んでいるものだから、その部分を補いながら身体全体を健康状態に戻していこうという考え方です。

対象臓器がはっきりしている西洋医学と違って、東洋医学はひとつの臓器を相手にしているのではなく、身体全体の滞りを本来の姿に戻すことを目的にしています。選ぶ薬にしても、病名に対する薬がはっきりしている西洋医学に比べて、東洋医学は飲む人の体質によって全く違う薬になったりします。

どれがいいとか悪いとかいう問題ではありません(両者のいいところを駆使できる医者が理想でしょう)が、今のわたしはやっぱり東洋医学的な考え方の方が好きです。日常茶飯事のようにやってくる「侵入者」と戦うという考え方よりも、どんな侵入者が来ても自分は自分の姿を整備する、という考え方の方が、自然だし無理がないように思います。その代わり、「風邪を引いたら風邪薬を飲めばいい」という単純な対応ではありませんから、日頃から自分の身体を見つめている必要があります。

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コンビニの業績好調

昨夜のテレビニュースによると、コンビニの業績が絶好調なのだそうです。その理由は、多くの人が想像している通り、もちろんいわゆる「タスポ効果」です。

単純に、「タスポを持っていないからコンビニの店頭でタバコを買う」ためだけではありません。自販機でタバコを買っていたときには気にもしていなかったことですけれど、店頭で買うので、タバコだけ買うのが申し訳なくてついつい何か他の商品も一緒に買ってしまうというのです。女性ならともかく、男性も同じなのですね(わたしは良くコンビニでオシッコをします。そんなときにもたしかにタダで貸してもらって申し訳ないのでおにぎりやお茶を買うことが多いです)。

ところが、その抱き合わせで買う主な商品が、缶コーヒーだったりジュースだったり菓子パンだったりするわけです。これを聞きながら、健診の医者としてちょっと心が凹みました。もちろん、タバコの一吸い一吸いはその都度に動脈硬化を進ませます。典型的な酸化ストレス(活性酸素)を出す行為ですから。それなのに、わざわざそれに加えて買っているものがすべて動脈硬化を進める(酸化ストレスだらけの)ものばかりなのです。あるいはメタボの腹をもっと大きくするものばかりなのです。そんなものを抱き合わせで買うくらいなら、よっぽど自販機でタバコだけ買うほうが健全です。理想はタバコと一緒にビタミンCを買うこと(タバコの一吸い一吸いでビタミンCを破壊するのが悪の根源)でしょうが、そんなもの買うような健康オタクなら、この行為(タバコ購入)自体がないのでしょうか?

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牛乳批判への反論

Medical ASAHI 10月号に別冊がついていました。「牛乳をめぐる科学的とはいい難い風評が流れ、消費者に混乱を来している」からということで開かれたあるセミナーの講演サマリーです。牛乳乳製品健康科学会議監修のQ&Aも付いています。

とても面白いな、と思いました。わたしは、、もう長い間、牛乳を人に勧めないスタンスを取っています。ここでその理由を論じたいとは思いませんし、このサマリーを読んでもあまり意見を変える気にはなっていませんが、それを言い始めた当時は、異端児扱いされていました。「別にそれでいいんじゃない」と思っていましたが、今回こんな特集が出たことに驚きました。つまり、それだけ、牛乳に対する逆風が強くなってきた証だからです。Q&Aにある「牛乳をたくさん飲んでいる人ほど骨粗鬆症になりやすい?」とか「最近30年でアトピー・花粉症が増えたのは、学校給食牛乳の普及のせい?」「超高温瞬間殺菌の牛乳は脂肪の酸化が進んでいて、からだに悪い?」などという問いのすべてがたしかに私の読んだことのある本には書かれていたなあ、とか思い出しています。そういう意見を主張し、啓発しているグループがありますが、小さな口コミから発しているレベルだと思っていました。それがこんな特集を組ませるほどの勢いになった、ということに驚いている次第です。

物事には必ず賛成と反対があるということを以前書いたことがあります。わたしは「絶対真理」といわれているものほど逆説を探して理解できるか検討してみるのが好きです。でも、この特集をみる限り、勢力が半々になった気がして、ちょっと興味が失せ始めました。もちろん、少なくとも日本人という人種の栄養補給に牛乳はいらない、という考えを今のところ変える気にはなりませんが。

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可能性とは?

医者の発することばには、当人が思っているよりはるかに重い意味が潜んでいます。「もって6ヶ月でしょう」などと云いながらどうせ明確な根拠のある数字ではありません。ドラマで「あの子は薬がないと1日しかもたない」などというと、なぜか「リミット24時間」と決め込んでいて滑稽です。「23時間50分、あと10分しかもたない!」などとクライマックスで一生懸命ですが、「約1日」は、30時間でも大丈夫かもしれないし20時間もたないかもしれないのですから、まるで時限爆弾のような分単位の緊迫感は意味がないがな、と思います。

医者が、「もう無理だ」と判断する根拠は何なんでしょう?「もはや延命の意味はないから、最後はご家族みんなで看取ってあげてください」と集中治療室から個室に移したら途端に奇跡の快方を迎えることがあります。ガンの終末医療では、医者の思惑よりはるかに長く生き生きと生きる患者さんがいる一方で、予想以上に早く一気に萎んでいく患者さんもいます。

「医者は不安になることしか云わなかった。なんで『わたしに任せておけば大丈夫。』って云ってくれないの?何か頼りない気がした」・・・昔、わたしの姉が長男を小児科に連れて行ったあと、わざわざわたしに電話してきてそうグチを云いました。でも、それはしょうがないでしょう。特に小児科では、間違いのないように、ありそうな可能性は何でも前もって話しておくのが無難です。モンスターペイシェントばかりの中で、「根拠のない自信」など云うはずはないじゃない?

わたしにも外来をしていたころに時間をとって可能性を詳しく話したところ、「あの先生は頼りない。『大丈夫!』って云ってくれないから」そういって、他の先生のところに移られてしまった苦い経験があります。でも、心臓がほとんど動いてないのに「何をしても大丈夫」って云ってあげるほどわたしはその患者さんの人生を抱えこむことはできませんでした。

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「健康」と「終末」の医療教育

大学を卒業し大学病院(大学教育の現場)と縁を切ってから、もう相当の時が流れました。大学教育はかなり様変わりしたのかもしれませんが、わたしの感覚では、医学部の教育の中で決定的に足りないのは「健康」とは何かと「老化」とは何かということだと思います。「終末医療」というものもほとんど教わらなかった(今はきちんとカリキュラムがあるのかも)ですが、現在はこれだけで一教室あってもおかしくないと思います。

基礎医学教科として「生理学」や「解剖学」「組織学」などを習いました。「健康」はつまりそういう正常な細胞や組織の集まったものだ、と暗に教わったのかもしれません。「発生学」は習いましたが「老化学」は教わっていないように思います。最近になってやっと「アンチエイジング」が学問として認められ始めているのですからさもありなんです。あるべき細胞に異常を来したものが病気だからあるべき位置に戻すように手助けすること、すなわちそれこそが医者の仕事であると先輩諸氏からいい伝えられてきた気がします。だから「健康」も「老化」も医者の向かうべき方向(仕事)ではない、あるいはそんなものは「哲学」でしかないとそう云うのでしょうか?「終末医療」とはすなわち医療のギブアップ(敗北)だと云うのでしょうか?

今、「健康」が正常細胞の集合体を指すのではないということを疑う人はいないでしょう。「健康とは何ぞや」ということを医学ではなく哲学だ、というのは一部の古い頭の医者しかいないと信じています。「老化学」こそが人間学の究極ではないかと思いますし、人間がいかなる「終末医療」を受けられるかということが、医療の最大の存在価値だと思わずにはいられません。これらを医学の末端だと云い切る古い頭の医者たちはどうせそのうち消えていきます。今、新しく医者になろうとしている若い柔軟な頭にこそ、しっかりとこれらを教育してほしいと、切に願います。

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白衣

Medical ASAHI 10月号に「在宅医療の最前線」という特集がありました。仙台で往診専門のクリニックを開いている川島孝一郎先生は白衣を着ません。先生の話にはとても共感できるものがありましたので、そのまま書き写します。

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(前略)・・・「一般病院の外来にいた時、医師が白衣を着て患者に平然と意志決定をさせるシーンを見て、『それはないだろう』と思いました。白衣そのもので、患者には相当の心理負担がかかっているはずなのに、医師は全く気づいていないのです。医師は患者との関係性を無視して、『あなたが選んでください』と選択肢を与える。そのとたんに患者は選択肢との格闘を始めなければなりません。患者が望むのは医者との直接の関係性であり、『私が生きられる方法を一緒に選んでほしい』ということであるはずです」

日本は「治す医療」に関して世界最高のレベルにある。ところが、これまでの医療は治る見込みのない重症者に対して非常に冷たかった。治る可能性に満ちたものを「価値が高い」とし、治る可能性の乏しいものを「価値が低い」とする比較論の所産だ。ここに説明不足が生み出される要因があると考えられる。

「治らない人たちに必要なのは『支える医療』であり、『どのように残された日々を生きていくか』という生き方を示すことです。そうでないと、この人たちは右往左往する。ところが医者は疾病論、症候論で病気の説明しかしません。本当の説明と決定は、白衣を着けない医師と患者が互いに相手を思いやる関係性の中で成立するものです」・・・(後略)

                         Medical ASAHI 2008,Oct.16-19

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優生思想

「メタボ健診はヘタをすると優生思想に結びつきかねない」という話をある先生の学会講演の中で聞きました。「優生思想」って、何のことかわかりますか?わたしは全く知りませんでした。たしかに妊娠中絶をするときに「優生保護法」というのがあった(1996年に母体保護法に変更)、あの「優生」?というくらいの知識でしたので、この機会に調べてみました(哲学者で大阪府立大教授の森岡正博先生の論文を参考にしました)。

優生思想とは、ナチスのユダヤ人大量虐殺にみられるように、劣った人種や人間を抹殺させてでも、人種や民族の質を保つのが良い、という考え方だと理解しました。現在は、人種の優劣を考える人は白人の一部を除いてほとんどいなくなったと思いますが、では障がい者はどうでしょう。障がい胎児はどうでしょう?出産前診断の技術が向上するにつれて、生まれる前から胎児に障がいがあるかどうか分かるようになりましたが、障がいがあるとわかったときに人工中絶を考える、これが「優生思想」だということになります(優生保護法はこのことでした)。そしてそれは、「社会に障がい者はいない方がいい」ということに他ならないため、健常者のエゴだ!と障がい者の皆さんは反発することになります。障がいを持って生まれてくるのは不幸でかわいそうだから前もってわかっているなら中絶を考える、というのも、基本に障がいはあるべきでないとはっきり云っていることになり、またそんな出産前診断を受けて生まれてきた健常者は両親のふるいにかけられたという感情(障がいがたまたまなかったから生んでもらったがあったら抹殺されていたかもしれない)から親への信頼が揺らぐ可能性はあるでしょう。

何がいいのか悪いのか、深い哲学のはなしになりました。

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ちかめの歴史

小学校のころ、健康優良児として表彰されたことのある私の目は両眼とも良く見えるのが自慢でした。

試験を受けて入学した中学時代、ある理由で眠れない日が続きました。ベッドの中で悶々とする姿を見るに見かねた母が本を読むことを勧めてくれました。本好きの姉が揃えていた文学全集などの中から選んで、毎晩布団の中で読み耽りました。

横向きに寝たまま本を読んだおかげで目は簡単に悪くなりました。しかも厄介なことに左目だけが悪くなりました。子どものころ、ブーメラン遊びをしていて友人の投げたブーメランが刺さったのが関係しているのではないかと親は云いましたが、あれは右目です。授業中だけメガネをしましたが、片目なのであまり良くみえません。視力の違う2つの目をどちらも同じようにみえるように矯正すると、網膜に映し出された画像の大きさに左右差が出ます。それを頭の中であたかも同じ大きさが映っているように自動で修正しなければならないので凄く疲れることになります。だから、視力の左右差が大きい場合、悪いほうは半ばアバウトな矯正で誤魔化すしかありません。これが固定レンズであるメガネの宿命です。そうやって作ったメガネをわたしは左右逆さまにして使用していました。見えない方はより見えなくなりますが、見える方はウソのように良く見えるようになります。結局そうやって片目状態をさらに進ませることになりました。

舞台ではメガネをかけられないから、いつも相手がアバウトにしか見えないから、という理由で、大学3年か4年のときにコンタクトレンズにしました。そんな左右差のある目にはコンタクトレンズが一番だ、ということはそのときに眼科の先生が教えてくれました。ウソのように左右とも良く見えました。・・・みなさん、目は大事にしましょう。

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ちいさな文字

「先生、新しいパンフレットの原稿ができましたので、チェックしてください。」

そういいながら若い方々が持ってくる文書の印刷文字があまりに小さいので凹んでしまいました。あるいは「詳細は添付資料をみて下さい」というその資料がA3書類をわざわざA4に縮小コピーしてくれたりします。たしかにエコではありますが、初めから降参です。

いつの頃からか小さい字が認識できなくなりました。近づけても遠ざけても見えないモノは見えません。中学の頃に目を悪くして以来近視の人生でした。昨年、合わなくなったコンタクトレンズを新しくしようと眼科に行って、遠くをきちんと見えるように調節してみたら、なんと驚くことに手元に持った普通の絵本の文字が全く読めませんでした。字は見えているのです。でも何と書いてあるのか理解できません。ちょっとやそっとでは立ち直れないようなショックでした。とうとう眼筋が歳をとってしまって、「これを老眼というのだなあ」と思うとちょっと寂しくなります。結局、遠くも近くもほどほどに見えるように中途半端に調節しましたが、返って疲れますので、困っています。

そんな目になって初めて分かることがあります。「小さすぎれば、字は読めない」という当たり前の事実です。パンフレットを読むのはわたしより高齢の方々が大多数です。内容や誤字脱字云々よりも前に、「こんな小さな字じゃ、だれも読まんわ!」と怒鳴ってみたり。むかしはわたしも気にしなかったことだから、若い人にはきっとわかんないでしょうねえ(と書きながら、わたしは若い人の組に踏みとどまりたい!と足掻くのであります)。

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なにもしないと決めた人へ

「一度しかない自分の人生だから、勝手にさせてくれ!」

生活習慣病の話をしていくと必ずこういう人がいます。「あきれてモノがいえない!」と目くじら立てる保健師さんも多いですが、わたしはその人のいう通りだと思っています。一度しかない人生をビクビクしながら生きていくより、自分の生きている時代の流れに乗りながら、やりたいことをやって太く短くピンピンコロリでさようなら!が最高だ、と思う人種のひとりです。ただ、社会を生きていく上で注意しておかなければならないことはあると思います。いつも講演の最後に出すスライドです。皮肉で云うのではなく、残される人たちのためには最低限守っておくべき項目と思って話します。

「なにもしないと決めた場合の注意点」

・子どもや孫にだけは厳しく指導してほしい(彼らは同じ体質を持っていますが、自分よりもはるかに生活の影響を受けやすい、危険な時代に生きています)。

・家族には突然倒れる可能性は伝えておくこと(できたら「倒れても救急車を呼ぶな!」と念を押しておくとよい)。借金の有無や生命保険の手続きのしかたなどは必ず具体的に教えておくこと。

・運転はしない、させない(いつ心筋梗塞や脳梗塞になるかわからないので、飲酒運転するよりもはるかに危険)。

・職場の重要ポストにはつかないように心掛けるか、すぐに代われる代役を作る。

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たばこは薬剤

「米下院でたばこ規制法案を可決」

定期的に送られてくる医療情報紙(Medical Tribune2008.9.25)を読んでいたら、こんな囲み記事が目に入りました。

たしかに、たばこに関する法律はどの国も決して有効ではありません。日本はまったく論外だとしても、アメリカを筆頭に欧米諸国でも、ことが政治と金と利権に関わる話なので、時代やそのときを支配する政党でコロッと変わったりします。

そんな中、アメリカ議会の下院で、「アメリカ食品医薬品局(FDA)に対して、たばこを薬物として規制することを求める法案」が可決されたのだそうです。米下院といえば、つい最近、緊急安定化法案を否決して世界同時株安をもたらしたように、なかなか想像のつかないことをやらかしてくれます。もっとも、民主党支配の下院で可決されても、共和党(ブッシュは否決すると断言)支配の上院では否決されるだろう(どっかの国と同じようなねじれ国会ですね)といわれているらしいのですが、今度の大統領選挙でオバマさんが勝ったりした日には、これはどう転ぶかわかりません。

まあ、できるできないは別にして、苦肉の策だとはいえ、「たばこは薬だ」という考え方を主張したところが面白いと思いました。「たばこは百薬の長」という意味ではなく、「薬=毒物」だというブラックユーモアだと解釈しています。日本でも、民主党が「たばこを外国から輸入させない法案」みたいな新しい発想の議決を参議院でやってみてくれたら見直しますが、「たばこの値段を上げすぎるとたばこを吸う人が減るからあまり上げられない」なんて本末転倒なことを厚労省が直々に試算する国だから、あまり期待できないですか、やっぱり。

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「はらすまダイエット」

今、メタボ健診を追い風にして、健診現場で大旋風を起こし始めている(と思っているのは関係者だけかしら)ダイエット法が、「はらすまダイエット」です。

「腹をスマートに」で「はらすま」。あまりに短絡的、直接的なネーミングですが、やっていることもいたってシンプルかつスマートです。日立製作所の日立健康管理センターと産業医大公衆衛生教室の共同研究で開発され、このたび商標登録されたそうです。内臓脂肪を減らすためのダイエットプログラムで、体重5%減量を目標に90日間で4.5~9kg減量を実現させるというものなんですが、なんと、日立製作所で実行してみたところ、参加者53人の60%以上がメタボ解消を実現させた(同センター 中川徹医師)というのです。「なに?」と振り向かずにはおれないでしょ?

朝晩2回毎日体重測定(100gまで表示する体重計使用)をして必ず記録することと、「100kcalカード」を使用するのがミソだそうです。この「100kcalカード」は、100kcalに相当する方法を書いたたくさんのカードから自分で好きなモノを選ぶ方法です。間食編、主食編、運動編で各々にたくさんの事例があり、その中の何をどれだけ使っても良いわけです。1日の減量に必要なカロリー分だけ(300kcalなら3枚のカード選択:たとえば缶コーヒー1本半+インスタントラーメン1/5杯+ジョグ12分)を自分で選んで実行するのです。やり方を人に強要されるわけでなく自分で選んでいるので、これが意外に続けられるようです。

今あちこちの研究会や学会で引っ張りだこのニューメソッド、是非ともお試しあれ。http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-132906-storytopic-1.html, http://www.hitachi.co.jp/New/cnews/month/2007/05/0524a.html

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フォーミュラ食

F1グランプリのことではありません。日本語では「調合食」。商品名では「マイクロダイエット」などが有名です。

肥満が原因で健康障害を合併しているかこれから合併しそうな場合、これは単なるデブではなく「肥満症」(医学的に減量を必要とする病気)といいます。今年、「日本肥満症治療学会」が発足しましたが、その最初の学術集会でテーマになったのがこの「フォーミュラ食の適正使用」だったそうです。

「マイクロダイエット」はご存知でしょう。1日3食のうちの1食をこれに切り替えるだけで確実にダイエットに成功する優れものです。このようなフォーミュラ食の特徴は、単に低エネルギー低カロリーなのではなく、必要なビタミン、ミネラル、タンパク質がきちんと配合されていることです。自分勝手な無防備なダイエットで陥りがちな栄養バランスの悪化がないのが特徴です。この学会の報告をみると、確実な体重減少をもたらす(導入1ヶ月で2kg減少)だけでなく、糖代謝異常の改善、HDLコレステロール増加+中性脂肪値減少、メタボの原因である内臓脂肪量の減少、睡眠時無呼吸症の改善、酸化ストレスの減少、糖尿病性腎症の改善・・・などなど、輝かしい成果が並んでいます。もともと医療用に開発されたものですので積極的に利用してほしいと思います。もっとも、製品によっては成分表示の含有量と実際の含有量に差が大きいものもあるようで、昨今の食品偽装問題と同様に品質管理が重要な問題のようです。

ただ、わたしが一番知りたいことをまだ良く理解できていません。世間の人は、ダイエットできたら止められると信じています。一時的に頑張れば良いんだと思っています。でもそうじゃないんじゃないかしら?理想的な配合の「食品」ではありますが、あくまでもずっと継続することが前提の「治療薬」として存在しているのじゃないのかしら。ですよね?

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知的好奇心とキャリア

「それは、先生の医者としてのキャリアに何か意味があるの?」

昨年、漢字検定2級を受けようと、テキストを買ってきて毎日暇を見つけて勉強していました。残念ながら試験日のたびに諸般の用事が入ってしまって、受けられないままにタイミングを逸してしまいましたが、そのわたしの噂を聞いて、ある知り合いの開業医の先生がこう云ったそうです。

漢字検定に合格したところで、医者のキャリアになど何のメリットもないと思います。一人の日本人が漢字をもっと知りたいと思ってやってみた。それは大して不思議なことではないと思います。興味が湧いたからやってみたくなった。それが「好奇心」。それが何か?好奇心を「知的」好奇心と「知的でない」好奇心に分ける意味はあまりないと思いますが、人間はもちろん一番知的好奇心が強い動物です。最先端医療の研修に行くとか糖尿病の勉強をしてみたいとかそういうジャンルなら職場も奨励するのでしょうが、般若心経を会得したいから札所めぐりを考えるとか、パソコンでホームページを作りたいなどという好奇心は、「ただの趣味」と切り捨てられて、そんな暇があるならもっと勉強しろ!などと無粋なことを云う輩がいます。でも、同じ知的好奇心でも、こういう興味の方が歳とともにどんどん膨らんでいきます。似顔絵を描きたいと思って資料を買ったこともありますがあれは頓挫してしまいました。これから機会があれば川柳もやってみたいと思います。これらもまたキャリアには何の関係もないことでしょう。

この歳になると、好奇心が湧かなくなったら無理やりにでも湧かせないとすぐに枯れてしまいそうで心配になります。何事にも「くだらない」と思わない心構えで生きております。そんな構えでいると、キャリアなんてどうでもいい気がします。今はこのブログ書きに没頭中です。

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関係ないと思っていたもの

秋になって、今年も講演の依頼がちらほらとやってきました。今年は「メタボリックシンドローム」に加えて、やはり「特定健診(メタボ健診)・特定保健指導」についての依頼が多いようです。

それの準備をしながら、現代社会の病気に対する概念がここ数年で著しく変わってきたことを改めて痛感します。わたしたち健診の世界の人間にとってはかなり前から分かっていたことですが、臨床の現場がその重要性に目を向け始めたことが大きいと思います。

3年前にメタボリックシンドローム(日本版)が発表されました。その時はほとんど見向きもされなかったのですがその1年後に大々的に世間のさらし者になり、そのおかげで「メタボ」のことばに市民権を与えられました。そしてその影響で多くの研究成果が日の目をみるようになったのです。このブログでも触れてきましたが、「食後高血糖」(「あなたは糖尿病です!」2008.2.16)や「CKD(慢性腎臓病)」(「CKD」2008.5.6)などの問題がとても深刻であることが分かってきました。これらに共通する問題点は、毎日加速度を増して人生を縮めているかもしれないというのに、「自分には関係ない」と思っている人がとても多いという事実と、「自分に大いに関係していることを知らない人(認めたがらない人も含めて)がまだたくさん居る」という現実です。特に若い方々は全く他人事と思っているようです。うちの施設で人間ドックを受ける方々に30代の方が増えてきましたが、この世代の男性には異常でない人がほとんどいません。かなり深刻なことに気づいていない人だらけです。時代は明らかに変わってきたな、と実感せざるを得ません。

私たちはとにかく、地道に啓発・啓蒙講演を続けていくしかないのでしょうか。

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面白いものは面白い

職場の広報誌のコラム転載のバックナンバーはこれが最後です。2007年10月号です。

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面白いものは面白い~笑顔の贈り物

最近、心から笑ったことがありますか?

「破顔一笑」ということばがあります。会心の笑みという意味です。わたしは、人間の顔の中で、無防備に大口をあけてバカ笑いしている顔が一番好きです。人生でもっとも無垢な屈託のない笑いができるのは3歳児のころでしょうか。そして、長い年輪を深いしわの1本1本に刻んだ老人が、かっかっかっと大笑いする姿もまた神々しくてすてきです。

人間以外の動物で、顔に明確な表情があるのは猿・イヌ・ネコだけだそうですが、喜怒哀楽の表現のうち「笑い」は正式には人間にしかない特権のようです。それなのに、面白いものを面白いと表現できない人が、最近急速に増えているように思います。現代の若者には笑わない人が増えています。笑っているのかもしれないけれど笑った顔ができません。表情筋が発達していないようです。小さいころには笑っていたはずなのに一体いつから笑えなくなったのでしょうか。筋肉は使わなければ退化しますから、表情筋が一番発達するはずの小学生・中学生の時期にあまり使っていないことになります。一方で、50歳を過ぎたあたりから「いい歳をして」とか「年甲斐もなく」とかのことばが心の鎧になり始めます。何をみてもくだらないと思い、人前で大笑いをするのがみっともない、と思うことが常識となりはじめます。

笑いはNK細胞などの免疫系を刺激して病気を抑えることが知られています。がんや難病を克服するための「笑い療法」は免疫療法として医療の現場でもこの10年ほどで完全なる市民権を得ました。吉本のグランド花月で行われた笑いと健康についての実験で、大部分の対象者のNK細胞が増えたというのは有名な話です。また、喜怒哀楽の感情を抑えれば抑えるほど交感神経が高ぶって心筋梗塞を起こしやすく危険だというデータもあります。がまんして感情を表に出さないというだけでなく、がまんしていないつもりなのに感情が表に出せなくなっている人も同様です。

面白くないから笑わない。一番大切な子供のころにすでに笑えなくなったのが現在の社会環境の影響であることは容易に想像できます。でも、それをぼやいてもしょうがありません。まずは笑ってみましょう。面白くないなら面白くすればいい。面白いと感じるには少々練習が要りますが、とりあえず口角を上げてみることは簡単にできます。くだらないと思っても笑う。何か面白い面を見つけ出して笑う。案外、本当はそれほど「面白くない」とは思っていないのかもしれません。忙しくて感じる余裕がなくなっているだけなのかもしれません。笑う習慣を体得していくうちに、意外に意味もなく楽しくなったりするものです。「笑う」という動作はきっと神様が与えた大きな贈り物だと思います。

最近、みかけるたびに額に縦じわが増えてきた保健師さんがいます。たしか去年の今頃はとても笑顔がすてきでした。もう一度あの輝いた笑顔を取り戻してもらいたいな、と密かに思っています。

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