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2008年11月

間違いさがし(その1)

講演会でわたしがよく使うスライドを紹介します。

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「スーパーまで歩いていくのはいいですよ。わたしも試してみたことがあります。でもね、帰りは荷物があるでしょ。行きはいいけど帰りは荷物が重くて歩けないんですよ。」

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スーパーへの買い物に車を使わずに歩いて行ったらどうかと提案したときに、ある受診者の女性がこう答えました。そうなんだよね~と納得してしまいませんでしたか?実はこの文章は何かが間違っています。わかりますか?

答えは、「買いすぎ」です。昔、主婦はみんな買い物かごを抱えてスーパーに買い物に行っていました。そして、そのカゴに入る量しか買って帰りませんでした。いつの間にか郊外型ショッピングセンターが日本にもでき、週末に車で行ってショッピングカートに1週間分の商品を投げ込んでいくアメリカ型ショッピングが基本になりました。そのうち、商店街のスーパーでも同じ様な光景を見るようになり、ショッピングカート一杯の買い物を毎日のようにするようになりました。まとめ買いの方が安かったりしますし。

是非、試しにスーパーに歩いて行ったり自転車で行ったりしてみてください。必要な商品しか買えませんので、自ずとムダな菓子や食材などの買い物はしなくなります。運動になるうえに無駄買いもしない、一石二鳥にも三鳥にもなるような成果が期待できて面白いです。

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夫のユウウツ、妻のユウエツ

大きなお腹をかかえながら、血圧がやや高めで、中性脂肪が高く、脂肪肝も確認されて、わざわざオプションで行った腹部CTには、想像通りの内臓脂肪たっぷりのお腹が映っていました。旦那さんのため息も良くわかります。毎年健診のたびに指摘されるので、今年は一念発起して食事も自分なりに制限し、週末にはウオーキングも始めたのです。なのに、結局どこが変わったかわからないくらいしか改善していませんでした。「これ以上もっと頑張れってことですか?」・・・今にも泣き出しそうです。

一方、一緒に結果を聞いていた奥さんは、スレンダーで、検査データには特に問題になるものは見あたりません。CTをみるとむしろもう少し皮下脂肪がついていた方が良いくらいです。にこにこしながら、「まあこんなもんやな」と満足げです。

夫婦で人間ドックを受診し一緒に結果を聞くパターンの場合、こんな光景は日常茶飯事です。別に奥さんの方が旦那さんより努力をしているわけではありません。単に旦那さんは倹約遺伝子などのサバイバル系体質をたくさん持っており、奥さんにはそれがない、というだけのことです。なのに旦那は憂鬱で押しつぶされそうな表情で部屋を出ていき、奥さんは優越感に浸りながら旦那の背を押すようにして出ていくのです。世が世なら、立場は全く逆になっているでしょう。もし今、何も食べられなくなって電気もガスもなくなったら、きっと旦那は喜々として元気いっぱいに動きまわり、奥さんは動けずに感染症に陥ってしまうかもしれません。生まれてくる時代を間違えただけなのに、かわいそうな旦那さん。

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心のスイッチ

久しぶりに、BSjで「カンブリア宮殿」を見ました。

今週は、 「やる気のスイッチを入れる極意!教えます。」

廃校の危機を独自のゆるぎない理念と行動力で乗り越えて、7年で偏差値を20%アップさせた品川女子学院の漆紫穂子校長がゲストでした。齢16~18歳の高校生たちがあそこまで自主性を持って明確な人生ビジョンと高いモチベーションを維持させている現実をみると、ちょっと「ホントかいな」と疑ってしまいます。そんなしっかりしたお嬢さんたちが自ずと選ばれて集まって来るのは確かなのでしょう(わざわざ「んなの、かったるいよ~」とか云ってる女の子が中学入試を受けにくるとも思えません)が、それだけならもっと受験勉強のプロのような私立学校は他にもたくさんあることでしょう。でも、この学院のお嬢さん方はなんかみんな、平然と輝いています。

「『うちの子は全然やる気がないのです』と親御さんは云いますけど、一日中やる気がない子はほとんどいません。子どもたちはどこかでオンになっています。友達と話したり、部活をしたり、あるいはゲームをしたりするときだけはやる気がでていたりします。」・・・漆さんはそう話していました。生徒たちの心のスイッチをオンにさせる「28プロジェクト」。28歳の時に自分が何になっているかを想像して目標とし、それになるために自分で逆算して、今何をするかを各々で考えて実践していく教育です。そのためには、決算書の読み取り方の講義があり、経済学者の講義があり、通学かばんの改良と製品交渉を自分たちでさせ、学園祭では各クラスで会社を設立して株主総会までやり、いろいろな場面で自分のスイッチをオンにさせるきっかけが転がっている様子でした。

やる気のスイッチをオンにさせる、というのは、私たち生活習慣病の生活指導をする立場としても、とても重要なポイントなのです。

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くすりと病気

「くすりは毒物」・・・健診の世界に移ってきてから、それがずっとわたしの考え方の基本的なスタンスでした。毒物だから、使わなくてすむなら使いたくないし使う必要もない。できるだけ使わないでいい人生を謳歌したいし、謳歌させたい。そう思っています。

でも、毒だと分かっていても使った方がはるかに良い場合はあります。その時は躊躇しないのが良いとも思っています。高血圧の人や糖尿病の人の中に、早くくすりを飲んだ方がもっと楽に生きれるだろうにと思うのに二の足を踏んでいる人たちがいます。その姿を眺めながら、想うことがあります。彼らは、「くすりを飲むのは病人のすることだ」と思っているんじゃないかしら?つまり、くすりを飲むのは「病人」の証だから、自分は病人になりたくないからくすりは飲みたくない、と思っているんじゃないのかしら。

「くすりを飲まないことが健康であることの生命線」っていうのは、何か逆のような気がします。いつ壊れるか分からない爆弾を持つ身体で恐る恐るの毎日を送っている人より、くすりという毒物の助けを借りながらも活き活きと生きている人の方が、どうみてもはるかに「健康人」でしょう(それがくすりじゃなくて健康食品でも別にかまわいはしないのですけれど)。くすりを飲んだ方がいいと云いたい訳ではありません。その、病人か病人でないかの区別基準がイコール人生の勝ちか負けかの勝負基準となって、それが「飲むか飲まないか」に賭けられている気がしてならないのです。

そうだとしたら、何か、とてもくだらない。

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やや高めです?

うちの健診を受けた方で、血圧が140mmHgの人の結果報告書には「血圧が高めです。生活に注意して経過観察してください。」という総合判定コメントが書かれています。

わたしが健診の世界に入ってきた7年前から、どうしてもこの表現が気に入りませんでした。地域の保健師さんの依頼で軽症高血圧の方への啓発講演に行ったときにも、「まだ治療は要らないけれど今生活を見直さないと高血圧になってしまう可能性がある」と保健師さんが説明しているのを聞いて、指導する側がそんなじゃいかんやろ!と愕然とした記憶があります。

「血圧が高め」というのは130-139/85-89mmHgのこと(「正常高域」)です。血圧140mmHgは「高血圧症」であって、すでに病気です。「高血圧だから、今すぐ治療してください」という意味です。日本人は白人よりもはるかに高血圧の人が多いのに、何故か高血圧に対してとても寛容な人種だと思います。脳卒中の危険性はさらに「正常血圧」でも安心できない(「至適血圧」のみが合格)時代になったということは、先日書きました(2008.9.28「ちょい悪」血圧)。それらの要素を含めて、来年、日本の高血圧治療ガイドラインがまた更新されます。血圧に対する治療の賛否は医療現場でも相変わらず喧々囂々のようですが、くすりがいるかどうかが問題なのであって、治療をしなくて良いかどうかの話ではありません。相変わらず「治療=くすり」という間違った考え方をしているからそうなるのでしょう。

少なくともうちの報告書の総合判定コメントは間違っています。来年新しいシステムに入れ替える準備をしているようですので、そのときには「高血圧を認めます」と必ず訂正してもらいたいものです。

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休日と休暇

勤労感謝の日、ラヂオで日本人の休み下手の話をしていました。

過労と自殺や過労と心筋梗塞などが現在とても問題になっています。昔に比べれば日本人も休みを取ることが多くなったそうですが、それでも欧米人のそれとは比べ物にならないとのこと。自分を考えてみても、たしかに休めない。物理的にスタッフ不足のために忙しくて「休めない」という意味もありますが、むしろ、心に「平日に休む」という概念自体がなかなか入り込めないのであります。仕事を忘れ去る「心の休み」は、日本人にはできないのではないかという気がします。

ラヂオでは、日本人と欧米人の休み方の違いを、「休日」と「休暇」の違いで説明していました。なるほどと思いました。欧米人の休みは「休暇」いわゆる「バケーション」で、まとめて2週間~1ヶ月取るのが普通ですが、日本人の休みは「休日」(ホリデイ)で、1日とか半日とか、仕事に影響のないように取ることが多いというのです。いかがでしょうか?わたしはまさしくその通りです。循環器科にいた頃にはスタッフが多いのでまとめて1週間単位で取るように決められていました(と云っても実質5日しか休んでません)が、今はなかなか続けて取れません。仕事の代わりを人に頼まないと休めないと考えると、気を遣ってしまいます。

それでも、今は意図的に月1回休むようにしています。もちろん1日だけの「休日」ですが。最初はなかなか慣れませんでしたし、有休を取っているのに夕方には職場に行ったりしていましたが、最近は完全に仕事を考えない日を作ることを楽しめています。

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医療訴訟

15年ほど前に、訴えられて証言台に立ったことがあります。「医者をやっていく上ではこんなこともあるよ。まあ人生経験だと思って行っておいで」・・・うちの病院の顧問弁護士さんにそういわれながら法廷に出向きました。

心臓を栄養する血管を冠状動脈といいます。これが詰まると狭心症や心筋梗塞を引き起こします。症状や心電図検査でその異常が疑われたときに最終的に治療方針を決めるために行うのが冠状動脈造影検査です。直接心臓にまで異物を入れる検査ですからそれなりの危険性を伴います。その方は、その冠状動脈造影検査を受けるために入院しました。そして、その検査の途中で容態が急変し不幸にして亡くなられたのです。造影検査をしてみると想像していたよりもはるかに厳しい所見だったことを覚えています。わたしは、その患者さんを受けもった主治医の指導医の立場として、検査の説明をしました。当時、わたしはこの検査の説明に1時間かけていました。普通は20分程度だそうです。でも、病気の説明から検査の進め方、危険性、メリットデメリットなどをきちんと話していたら、当然1時間くらいかかって当たり前だと思っていました。もちろん、この方にも家族を交えて約1時間の説明をしました。ところが、わたしが証言台に立たされた理由は、「そんな説明は一切受けていない」という原告の主張があったからでした。「聞いたかもしれないけど理解できなかった」とか「忘れた」とかいうのではありません。「説明がなかった」と云うのです。

訴えられる側は訴えられたことにだけ反論することしかできません。根も葉もないことを云われても、それが根も葉もないことだということを立証しなければなりません。裁判というのは実に怖ろしいと思いました。そして、それが根も葉もないことだということは、自分が一番分かっているだろうに、どうして平然とそんな主張ができるのだろうか?人間って怖ろしいなと思いました。

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損害賠償3460万円!

Nikkei Medicalに、ある医療訴訟の事例が載っていました。ある企業の健診で採血をしたときに誤って腕の神経損傷をさせてしまったというものです。6mlを採血するはずだったが「痛いから止めて」と痛みを訴えたため結局3mlで止めてしまった。翌日わざわざ勤務先に電話して様子を確認したら整形外科クリニックを受診したとのこと。その後この人は不法行為に基づく損害賠償を求めて提訴し、一審は請求棄却でしたが二審で逆転して3460万円の損害賠償金の支払いが命じられました(2006.5.31仙台高裁)。採血中に針先で血管の横の神経を誤って損傷してしまう不可抗力は避けられない合併症のひとつです。そんなことで賠償させられるなら誰も採血なんかしない、という意見はわたしも賛成です。

この記事の中で驚いたのは、「定期健診の一環なので採血量が足りなければ検査が十分行えないはず。なのに3mlで終わったのは重大な事態が生じたと認識していたからだ」というくだりと「駆血帯の縛りすぎで検査を中止したくらいで翌日わざわざ電話確認したりしない」というくだりです。これは判決理由に並べられている裁判官のことばです。わたしたちがその健診現場にいたらどうだろう。縛りすぎで痛がっているならもう一度取り直すことを考えますが、「痛いから嫌だ」と相手が主張したらやむを得ず断念して帰ることはあり得ます。そして、少なくともうちの施設では、おそらく翌日確認の電話をするでしょう。どんな些細なことでも、何らかのトラブルがあったら、きちんと確認し事後処理をする、というのはサービス業に関わる者の当然の行為だと教育されています。そんなことでも頭を下げるんだなあ、と健診の世界に来たときには本当に驚きました。医療現場とは全く違う世界がここにはあります。健診はサービス業、受診者はお客様。徹底されている世界だと感心したものです。でも、そんなことしたら痛くもない腹を探られることもあるんだということを、この記事をみて思いました。

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消えていく記憶

わたしがこのブログを始めた、おそらく最大の理由は、「忘れていくこと」への恐怖です。記憶力には絶大なる自信があったわたしのアタマの中では、間違いなく、日々神経細胞が音もなく消えていっています。徐々にその消失速度に加速が付き始めている実感があります。

今アタマの中に閃いたアイデアや文章が、もう次の刹那には消えています。「今何を考えていた?」・・・何となく甘くいい感じの雰囲気だけがアタマの隅に残り香のように残っているのですがそれが何だったかどうしても思い出せません。しばらくして思い出していた時期もありますが最近は二度と同じものは思い出せません(というか、思い出したと思うものがさっき思っていたものと同じかどうかが良くわかりません)。自分で自分を整理できない現実にずっと悩まされています。メモを始めました。でもメモに書いた文章の意味がわからない。できるだけ具体的に書くようにしました。それを何度読みかえしても何を云いたかったのか理解できない。「ここは初めて来たけど、すばらしい景色やね。」「あなた、前に来たことあるじゃない!」。「へえ。それってそういう意味なのか!」「先週も同じ事云って同じように感動してたよ!」・・・何度もそんなことがあると、断片すらないくらいに記憶がすっかり消えることにもう慣れてしまいました。

その解決策として思いついたのがそのまま文章にしてしまうこと。それでも、題名だけメモして、パソコンに向かったときには何のことか思い出せないこともしばしばです。同じことを何度も書き始めたら、また一歩進んだなと思って許してやってください。

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「バカにするな」

父が生前、大分のある公立病院を受診したときの話をしたことがあります。

歩いていてちょっとヨタッとしたら、「おじいちゃん、大丈夫ですか?」・・・その病院の若い看護師さんがすぐにやってきてやさしくそう聞いたそうです。「人を年寄り扱いしやがって!!」・・・その直前に診察を受けた泌尿器科の若い医者の態度にムカムカしていた彼は、どうも彼女にお門違いな怒りをぶつけたようでした。高血圧の悪化にそんな出来事はしっかり寄与していたことでしょう。

その泌尿器科の医者がバカヤローであることはしょうがないので、さっさと縁を切らせることにしましたが、客観的にみてもたしかに70歳の彼は「おじいちゃん」です。うちの病院は必ず名前で呼ぶように教育されていますが、名前だけきちんと呼んでもその他はほとんどタメ口のナースは少なくありません。わたしは彼の息子だから、彼の若いときから知っています(わたしが生まれる前までは知りませんが)。その連続性があるので「歳をとってきた父」ではあっても「おじいちゃん」とは思いません。でも、点として出会ったちょっとヨタヨタしている70歳のオヤジはやはり「おじいちゃん」なんだなあと思ったとき、ハッとしました。わたしもまた、心はずっと青年のままです。中学や高校時代の友人と行動を共にすることが多いからかもしれませんし、子どもがいないからかもしれませんが、つい自分は若いものと思ってしまいます。でも、その連続性の中でいつの間にか認知症と老後を気にする歳になっています。端から見て、このゴマ塩アタマのオヤジはやはり青年ではありません。

あきらめとプライドと、どちらもが混在する厄介なお年頃ですが、きっとこの両方が存在してバランスをとっているから健康に生きていられるのだろう、と思う今日この頃です。

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医者だから

認知症に限らず、医者が自分の体調の不具合で病院を受診すると、スムーズに行きそうで意外にうまくいきません。

何だかただの物忘れではない深刻なものの気がして、精神神経科か神経内科を受診したとしましょう。初めは、ただの初老おやじとして対応してくれている皆さんが、医者であることを明かした途端に急にぎこちなくなります。逆の立場にわたしがなってもそうだから、きっと多くの医療従事者はそうでしょう。この医者の云っていることは信用できそうか?などと値踏みされていると思うのでしょうか?「先生には分かっているでしょうが・・・」「ご存知のように・・・」などと云いながらかなりの説明が省略されることになりそうです。「わたしは専門外なのでもうちょっと初歩的なところから教えてください」「その省略されたところが知りたいのですよ」と訴えても、その説明の仕方は一般の方のそれとはきっと違います。「そんなことまで話すのはあまりに失礼だ」と必要以上に気を回してしまうから。その前に、自分にも医者としてのプライドがあって、「そんなことも知らないの?」と思われたくないという本音も見え隠れします。相手が医者ではなく、カウンセラーだったらどうか?わたしはほとんど自分を出せないかもしれません。ヘラヘラしながらも悩んでいる本心をいえずに、相手も何か気兼ねしてズケズケとは入って来れないのではないでしょうか。

プライドと気兼ねの間をフラフラしながら、結局あまり良くわからないままに釈然としない状態で病院を出ていく、そんな気がします。だから自ずと病院受診が後回しになって「医者の不養生」ということになるのかもしれない、と思ったりします。事実、わたしがうつになりかけたとき、結局は医者の誰にも相談しませんでした。できなかったと云った方が正解かもしれません。医者は、患者になるのがものすごく下手なんです。

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「認知症と診断されたあなたへ」

先日の核医学学会の書籍コーナーに並んでいた本です。そのときには買いませんでしたが、妙に気になって結局Amazonで購入しました。

「認知症と診断されたあなたへ」(医学書院)小澤勲、黒川由紀子

「家族、介護者、専門職が読む本はたくさんある。あんなにたくさん本屋さんに並んでいるのに、私たちが読む本がない」・・・認知症の患者さんが訴えたこの叫びに対して、その答えとして作られた本です。ですから、読者は認知症を患っているご本人です。他人事のような書き方をしましたが、最近やや病的な健忘に心当たりが出始めてきた自分としては、我が身のために買ってみました。認知症は究極の「不治の病」として、宣告された途端に自分の存在を否定され人格までもを奪いとられてしまう(と思いこまされている)現実があります。病気自体が抱える問題よりもその誤解だらけの社会に大きな不安をいだいているのが真実でしょう。急に家族にやさしくされ始めた寂しさと不自由さはやはり本人にしかわからない気がします。医者であるわたしにはあまり目新しい内容はありませんでしたが、最終章で黒川先生が書き綴った「認知症のわたしから家族へのメッセージ」には深い真実が込められていると思いました。「受容なんて、できません」「不安でたまらない」「仲間はずれにしないで」「顔を見て話してください」「ありがとう」など、見出しだけでも心情が伺えます。この中で、「顔を見て話してください」はドキッとしました。・・・診察室で一緒に行った弟が「姉はアルツハイマー病の診断を受けています」と云った途端、医者がわたしを一度も見てくれないのです。とうとう最後まで、診察が終わるまで一度も顔を見てくれませんでした。・・・みんなが「どうせ分からないから話しても無駄だ」って思ってる。情けなくて、情けなくて・・・わたしはどうしただろうか?自信がありません。

認知症になるとはどんなことか、むしろ一般の多くの人が読んで同じ感覚を味わって貰えたらいいなと思いました。

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アルツハイマーになりやすい人

「アルツハイマーになりやすい人」(東京薬科大学 敦賀遼平先生)という解説がありました。

(1)高齢である人(60歳を超えると多くなり、85歳以上では一段と増える)。→×(心はもっと若いつもり)

(2).頭を使わない人。→△(ぼっとしているけど毎日こんな文章書いているから○かな)

(3)偏食の人(肉が好きで、特に緑黄色野菜(ブロッコリーや人参)や魚の嫌いな人)。→×

(4)酒に弱い遺伝子の人(酒を飲む練習をしても効果はない)。→××(絶対違う)

(5)どんな酒でもグラス3杯程度飲む人がアルツハイマーが一番少ない。→◎(そんなに飲んでもいいのかい)

(6)喫煙はアルツハイマーになる危険度を2倍にする。→×(やめたやめた)

(7)運動をしない人。→×(しすぎかもしれない)

(8)アルミニウムの恒常的な摂取。→×(なんじゃそりゃ?アルミ缶とかアルミ鍋?)

(9)女性の肥満。→×

(10)魚をほとんど食べない人。→×(肉も魚もあまり食わなくなった気もするが)

(11)食事の量が少ない人。→朝も昼も食わないから○かな(目の前にあったら全部食うが)

(12)水分の摂取が少ない人。→×(飲んでますよ)

(13)ストレスがある人(沈み込んだり不安に思うなど否定的な感情を持ちやすい人は、活発な人の2倍アルツハイマー病にかかりやすい。物事に悩む人は記憶力の減退が著しい)。→○(これだけはまったくもって自信がない)

(14)真面目な人。→◎(昔はイヤだったけど、やっぱ真面目は一番だと思う)

(15)遺伝性はほとんどない。→そりゃ良かった。

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酒の種類

「お酒は何を飲んだら一番いいんですか?」と良く聞かれます。痛風(高尿酸血症)だからビールを焼酎にしてようと思うがどうか?とか、ワインが動脈硬化にいいというから晩酌をワインに変えたがいいか?とか、酒に絡む質問はとても多いんですが、基本的に酒の量を減らすとか飲まないとかいう選択肢は考えないのがミソのようです。

でも、答えは簡単です。どの酒を飲んだって適量を越えてしまえば似たり寄ったり。適量を守れ!守らなければアル中だ!守らなければ病気を助長する!そう云われています。http://www.nikkeibp.co.jp/archives/347/347658.html

それじゃ「適量」とはどれくらいか?答えは、「アルコールの血中濃度が0.1%程度まで」。そんなまどろっこしいこと云わずに実際の量を教えろ!酒呑みはちょっと荒れ始めます。体重60kgの人が30分以内に飲んだ場合、約3時間で分解される量に相当する量を「酒1単位」とし、諸説ありますが一般的には、清酒1合、ビール大瓶1本、ワイン1/3本、ウイスキーの水割り(シングル)2杯程度(アルコール量は約20g)までです。厚生労働省が勧めているお酒の飲み方は、それに加えて1週間に最低2日はお酒を飲まない日(休肝日)を作ること。く~なかなか厳しい数字ですね。

でもよぉ!酒に強い人と弱い人とがあるじゃないか?それを一律に数字で決めていいのか?・・・一縷の望みを持ちながら、呑ンベエは抵抗してみます。答えは準備されています。「適量」とは「ちょっといい気分になってきて、もう一杯欲しいな!と思うその一歩手前で止めろ」ということ。つまり、生殺し状態で酒を持って行かれる状態です。「んなもん、できるかぁ~!!」と思ったあなたは(わたしと同じ)アル中ですね。

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脳がとける

今日も今日とて、呑ンベエな日々です。

数年前、酒を呑むとアルツハイマー病の予防になるのではないか、と云われていたことがあります。アルデヒド脱水素酵素2(ALDH2)というアルコールの毒素(アルデヒド)を分解する酵素が、アルツハイマー病に関連する毒素も分解することがわかりました。つまり酒が弱い人(ALDH2の働きが弱い遺伝子を持つ人)は、強い人より1.6倍アルツハイマー病発病の可能性が高いわけで、その結果として、酒が強い人はアルツハイマー病になりにくい→酒は呑めば呑むほどアルツハイマー病になりにくい、と事実が若干曲げられて伝えられてきたのです。http://allabout.co.jp/health/healthfood/closeup/CU20030203A/

呑ンベエには格好の大義名分ではありましたが、これは遺伝子レベルの問題であって、酒が強くなる練習をしてもムダ、そして酒を主眼に置くならば、過ぎたるは及ばざるがごとし!つまり「適量」の酒はアルツハイマー病を予防するが「呑みすぎ」は逆にボケを進ませるというのが真実のようです。たしかに、わたし自身の人生を振り返ってみると、わたしの物忘れが加速度を増してひどくなっているのは、どう考えても酒の呑みすぎと深く関連しているに違いないと思うのです。まさしく酒を呑むたびに脳がとけていく、そんな感じすらすることがあります。なんともおぞましい話ではありませんか。

酒なんか呑まない方がいい(呑めないともっといい)ですよ、とあえて他人事のように書いてみる。

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アタマの理想とカラダの理想のハザマで

今日も今日とて、みんなでメタボとの戦いです。

なぜ脂肪は思うほど簡単になくなっていかないのでしょうか?考えてみてください。「理想」とは何か?「余裕」とは何か?

アタマが考える「理想」とは、余分なエネルギーをできるだけ細胞から取り除いて身体の中の倉庫を空にすることです。いざとなったらいつでも入れられるスペースが空いていることが「余裕」です。一方、カラダが考える「理想」は、できるだけたくさんのエネルギーで細胞が充満されている状態です。いざとなったら何も食べなくても耐えていけるだけの在庫が倉庫に満たされていることこそが「余裕」です。つまり、アタマとカラダは全く逆の状態を理想だと考えているわけです。一人の個体が、いつもそんな二重支配状態にあるのだから、ことはそう簡単ではありません。

では、昔はどうだったのか。昔は、ほとんど飢餓状態の中で、アタマもカラダも、貯められるときにできるだけ貯めておくのが「理想」であり「余裕」だという点で、いつも一致していました。アタマの方は現代社会の抱える飽食の状態の危機感をきちんと察知し、「これじゃイカン」と真面目に反省しているのですが、カラダは昔の飢餓状態のときの記憶が細胞内に脈々と生きているので今でも当時の危機的状態に脅えています。急に天変地異に陥って、あるいは山で遭難したら、どうしようか。いつもそんなことを考えているのです。

そんな矛盾の大きなハコを抱えて途方にくれている皆様。とても大変ですが、アタマとカラダの両方に納得いかせるのは無理です。カラダに気付かれないように、そっと頑張ってください。

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軽く揉んでください。

インフルエンザの予防接種を受けました。今年もそんな季節になりました。

看護師さんの腕がよかったのでしょう。いつ刺されたのかわかりませんでした。最後に絆創膏を貼りながら「軽く揉むだけにしてくださいね」と優しく云ってくれました。そういえば予防接種といえば、昔から接種部位を反対の手で腕が疲れるくらい何十回も強く揉むように云われてきました。よく揉めば揉むほど後が痛くない、強わらない、だからしっかり揉みなさいと。でも、実はそれは筋肉注射のときの対処法(それでも最近はあまり強く揉みすぎないように指導しているようです)であって、予防接種の主流である皮下注射では、このごろは「あまり揉まないのが良い。揉みすぎると皮下組織を傷めてかえって腫れたりする可能性がある」と忠告されているようなのです。せいぜい数回軽く揉んで薬液を拡散させるだけでよいそうです。

で、この「数回軽く揉んでください」が、真面目な日本人にはちょっとむずかしい単語なんですね。どの程度を「軽く」と云うのか?「数回って何回?」・・・ものすごく個人差がありますから。「軽く揉んで」と云っているのに鬼のように高速回転で揉みながら出ていく方々は基本的に人の話を何も聞かない人(昔ながらの教育をしっかり受けてきた人)だからしょうがないとして、2、3回では心許ないからついつい10回、20回・・・結局揉みすぎたりして。わたしは、基本的には何も揉まないことにしています。特に今回のように優秀な看護師さんのおかげで痛くもなかったときには。ちょっと張った感じのときだけ手全体で包むようにして4、5回おまじないのように揉んでみています。まあ、大した問題じゃないんですけど。おかげさまで最近は全く腫れることがなくなりました。

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大麻汚染

大学生の大麻栽培、プロスポーツ選手の大麻所持、歯科医や自衛官の大麻吸引などなどまあ出るわ出るわの日々です。もっとも、かなり前から大麻吸引自体は世間に広がっていたとのウワサですし、今や高校生の間にも普通に蔓延しているといわれていますから、れっきとした汚染列島です。そういえば、大きな声では云えないけれど、遠い昔、大学時代にアメリカにホームステイの旅をしたときに1度マリファナの葉を辞書の紙に巻いて吸った経験があります。もう詳しい感覚を忘れましたが、ちょうど酒に酔っ払ったときの超気持ちのいい状態に似ていました。数十分後には元に戻ってしまいますし二日酔いもないのでアルコールより手っ取り早いかなと思った記憶がありました。

ただ、どうしてもガテンがいかない気がします。大麻の毒性や依存性は、タバコよりはるかに軽いというのが周知の事実です。なのに、大麻は持っているだけで捕ってタバコは胸を張って堂々と(今はそれほどでもないですが少なくとも合法的に)吸えるのは、おかしい!大麻を毒物、タバコを嗜好品と分けたのは昔のこと。なのにタバコがいまだに偉そうにしているのは収入源だからというそれだけのことでしかありません。政治家さんの誰かが本当に勇気を持ってタバコ規制を大英断してくれないと、とんでもないことですよ。この際、タバコを非合法の「毒物」、大麻を「嗜好品」と、扱いを総入れ替えしちゃったらどうでしょう。暴力団の資金源ソースも一旦総ざらえできるから一石二鳥かも。

それにしても、そんな大事なもの(法律違反のブツ)を入れた財布を、世の若者たちは簡単に落としたり置き忘れたりしすぎなんじゃないでしょうか?

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水は冷たくない

以前、アフリカから来た年配の黒人男性が人間ドックを受けました。ビジネスで日本に来ている息子が、父親を健康チェックのために日本に呼んだのです。

概ね良好な検査結果でしたが、尿酸値が異常に高値でした。尿酸が血中に高くなりすぎると痛風発作を起すことがあります。お国柄なのか、体質なのか、さすがにそれはわかりませんでしたが、「どうしたらいいですか?」と質問されたので「たくさん水を飲んでください」と答えました。すると彼はちょっと暗い顔をしました。そして、「わたしの国では、冷たい生水を飲んではいけないと言い伝えられています。それは一度火を通したぬるい水でもいいのですか?」と聞き返されました。「ウオーター」を息子が「冷たい生水」と訳したのかもしれません。たしかに火を通して酸素を飛ばしてしまうより微量のミネラルが含まれている真水が良いのでしょうが、治水管理を考えるとアフリカで生水を飲むなどということはいい事ではないに決まっています。「もちろんそれで大丈夫です。」と答えました。

治水事情の問題とは関係なく、日本でも、飲み水は冷やしていない方がいいと云われています。元々そんなに冷えた水など自然界になかったはずなのに、現代社会は子どものころから冷えた水を飲みすぎている感じがします。冷たすぎる水は自律神経に負荷をかけて胃腸を弱めますし、心臓への負荷が増すことを指摘する人もいます。わたしは2年ほど前の夏から常温の水をいつも持ち歩いています。運動前後で飲む水も常温です。慣れてしまえばどうということもなく、胃腸の調子もすこぶるいい感じがしています。たまにフィットネスのフロアで冷水器の水を飲んでみると、冷たすぎてしばらく動けないこともあったり。やはり体感として、わたしは飲水用の水は常温の水をお勧めします。

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辞めたくない。

わたしたちの病院でもメンタルトラブルで休職を余儀なくされているスタッフが年々増えてきました。そのまま退職して病院を去っていく人も居ますが、休職の道を選んだ人の多くは、治療の経過と並行して「リハビリ勤務」を開始し、自信がついたところで正式な「復職」になるという流れがうちの病院の規則なのだそうです。そのリミットは1年間。その間であれば「リハビリ勤務」は何ヶ月でも続けられます。

中には傍からみてどう考えても復職は無理だろうと思えるほど病んでいる人がいます。でも「どうしても辞めたくない」と言い張り、家族を交えて産業医と何度も話し合うこともあった、と聞きます。わたしが産業医をしている企業でも同じ様なお嬢さんがいました。傍から見て、早く辞めて新しい世界でリセットした方がはるかに建設的な人生が送れるのではないかと感じる人でした。なぜこの会社に残ることにそこまでこだわるのか?彼女と何度か話していると割合はっきりした理由が浮かび上がってきました。一言でいえば「敗北感と不全感」。「自分が自分に負けてしまったという無力感を味わいたくない。解決できずにここで逃げて負けてしまうのがイヤだ!」と彼女はいいました。でも、実はその裏で、「自分が戻れないのは、原因になった同僚や上司がそこにいるから。他の部署に移れば自分の実力はもっと生かせるはずだ。わたしはいつでも戻れる準備ができている。ただ何も分かってない何も変えようとしていない彼らの環境の中に戻るのがイヤなのだ。悪いのはその人たちなのに、どうして悪くない自分が去っていかなければならないのか?」という不満感が強いのではないか、と感じました。復職できた人たちは、その点に少しでも気付いて、そのために自らの考えがわずかでも変わった人たち、あるいは変えようと考えることができるようになった人たちなのではないかと思います。

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やっかいな時代

生活改善の取り組みに参加したみなさんに対して送った文章の転載(一部訂正)です。今でも、ときどき講演の手元資料として配っています。

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やっかいな時代になってしまいました

人類は、食べることがままならない飢餓の歴史の中を生き延びてきました。ですから、食べなくても生きていけるように、少ないエネルギーを上手く使って身体を動かせる仕組みを遺伝子の中に準備しています。ところが、せっかく準備万端で生まれ出てきたのに、今の世の中は想定外の異常な豊かさです。食うのに困るなんてほとんどありません。安くておいしい高カロリー高脂肪の魅惑の誘いがあふれていますし、ほとんど身体を動かす必要もありません。

何とかやりくりして、いざという時のエネルギーを蓄える準備をしていた脂肪細胞は、融通の利かない真面目すぎる性質ですので、「いざ」がないとすぐに満杯になり機能できなくなりました。身体は「もういらない」といっているのに、頭は「まだまだ」と主張して、エネルギーを集められるだけ集めます。空腹感に対して妙に不安を感じることはありませんか?空腹で倒れたことなんか一度もないのにそんな気持ちになるのは、組み込まれた先祖の記憶遺伝子の仕業です。結局、脂肪細胞は自らの細胞の大きさを風船のように膨らませるしか手がなくなりました。本来、脂肪細胞からは動脈硬化を予防して糖尿病や高血圧にならないように調節する善玉ホルモンがたくさん準備されていました。最近の若い女性は脂肪を目の敵にしますが、脂肪細胞はなくてはならないものです。実際、脂肪細胞がないと動脈硬化が進むことも実験でわかっています。ところが、ここまで想定以上に大きくなるとそんな大事なホルモンがみるみる出なくなります。そのために若くして動脈硬化が進み、血圧が上がり、血糖値が高くなり、血液中に脂肪が溢れ、前ぶれもなく突然に脳卒中や心筋梗塞で倒れる危険性にさらされる羽目になりました。これがメタボリックシンドロームです。ついこの間まで、日本人も欧米人並みの身体になり、足が長くなったと喜んでいましたのに。

大きなお腹をさすりながらため息をついている皆さん。このままではせっかく大事に蓄えたエネルギーが倉庫の隅からどんどん腐っていきます。この機会に、溜まってしまったものの在庫整理をしてください。少しでも整理すると、それだけでまた脂肪細胞が本来持っていた機能を思い出してくれます。大きくなりすぎた細胞はちょっとその気になればすぐに本来の姿に戻ることが出来るのです。今が勝負です。頑張ってください。

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いい歯の日

昨日(11月8日)は「いい歯の日」でした。

見事なオヤジギャグ的な出来栄えの語呂合わせです。「良い歯の日(4月8日)」「虫歯予防デー(6月4日)」「8020(ハチマルニイマル)運動」など日本歯科医師会は、学校や自治会を通じてとても精力的に啓発運動を行っているなと感心します。その活動の中で、「良く噛むこと」を大きな柱として提唱しているようです。「1口30回噛む」がキャッチフレーズ。噛むことは脳を刺激するから老化防止になる。噛むことは唾液が減っている現代人のネバネバ感の解決策になる。さらに満腹中枢を刺激するのでダイエットにも良い。

運転中にそんな話をラジオで聞きながら、この「1口30回噛む」が・・・できないのよねえと独り言をいいました。人に勧めることは何でも一度試してみるのが私のスタンスですのでもちろんこれもやってみましたが、数を数えているうちに味が分からなくなって、何のために食ってるのか本末転倒な気がして、即断念しました。「噛み終わるまで箸を置く」「噛み終わって飲み込んでから次を掴む」など、噛むための秘策がいろいろなハウツー本に載っていますのでやってみましたが、基本が卑しくてバキューム食い習慣のわたしには、まったく無力でした。

そんな中、わたしがストレスなくきちんと噛むことができるようになった唯一の方法があります。それは、目の前に出される食事を初めから半分にしてもらうこと。必ず噛みます。噛まなければ一瞬のうちに目の前のものがなくなってしまうからです。一度飲み込みかけたものを無理やり吐き出して反芻し直したことも何度かあります。おかずが半分ですむならご飯も半分ですむ。まあ、うそだと思うなら是非試してみてください。

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ため息と腹痛

先日、ご高齢の女性が息子さんに連れられて人間ドックを受けに来ました。下腹痛が突然おきて、病院でいろいろ調べるけれど異常がないのだといいます。それでも腹痛発作がなくならず、数日前には急に手が震えだして行きつけの医院で点滴を受けたりしたので、もう一度全身を調べてもらおうと思って連れてきたそうです。

もちろん、検査結果には特段の異常はありませんでした。商売をしている息子さんが、「いつも週末に起きるんです。週末は家族全員が忙しくてかまってやれないから、寂しがってこんなこと云うんじゃないかと思うんですよね。主治医も一度精神科に行ってみたら?などというし精神的なモンなんでしょうか?」と本人を前にして聞きました。ちょっとドキッとしましたが、本人も「家に誰もいないと寂しくなるんです」と胸の内を打ち明けます。

わたしはできるだけことばを選んで説明しました。「これだけ検査して異常がないから、痛みの原因が潰瘍や結石や婦人科の病気などではないと思うけれど、気のせいでもないと思います。実際に耐えられないように痛いのですし、腸の動きを抑える薬で良くなっていますから。きっと腸が動きすぎる(けいれんのような)ために痛いのだと思いますが、はっきりしたことはわかりません。ただ、もしかしたらそれを悪化させているのは「ため息」かもしれません。今拝見していてもため息を無意識についておられます。一人で寂しいときはもっとたくさんため息をついていませんか?手がしびれだしたのは過換気症候群という病気で、ため息のし過ぎで悪化してしまったのだと思います。『ため息をつくと幸せが逃げる』とも云われています。心療内科の先生の助けを借りるのもいいですが、とにかく意識してため息をしないように心掛けてみてはどうでしょう。」「・・・ため息ですか、ハァ。」「ほらほら、それです。」「あ、ホントだ。よくため息をつきますねえ」・・・やっと少しだけ彼女は笑ってくれました。

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情熱のジレンマ

キノシタさん。「自立支援法」へのコメントをありがとうございました。

わたしは部外者の素人なので何も助言はできませんが、キノシタさんは今、この世界で生きていく上で一番難しい位置にいますし、一番面白い位置にもいますね。ただ我武者羅に当事者と向き合えばいい世代とも違うし、組織や社会を変えて行くにはすこぶる無力。とてもやり甲斐のある世界ですが、逆に一番報われない世界でもあり、マザーテレサの精神で頑張っていても、ただの自己満足なんじゃないかという葛藤にさいなまれましょう。でも、あなたのとても真摯で情熱的なプロとしての仕事への葛藤をみると、「めぶき園まつり」の辺り一面に漂った優しい空気が、さもありなんと納得できるのです。『めぶき園』ということばでパソコン検索をしたとき、ある自閉症児をもつお母さんのブログに行き着きました。息子さんが「めぶき園」のショートステイを楽しみにしてるという話です。そこに書き込まれたコメントの内容も読みました。こういう本音の話の中に本音の現実が見えてくるのですが、きっとこの丘の上の小さな施設は、世界に誇れる大きな理念に守られているのだろうなと思いました(ちょっと褒めすぎ?)。

わたしたちの健診施設が何かの成果を発表すると、「あなたのところだからできるのよ」と掃き捨てられます。キノシタさんのところもまた、「めぶき園は素晴らしい。でもめぶき園だからできるのよ」と云われているかもしれませんね。自分たちの小さな施設が世界一になったところで、自分たちが求める理想の社会作りには「屁のつっぱりにもならん!」ほど微々たる成果かもしれません。でもその小さな一歩の発信がない限り何も前には進みません。現在、自閉症がものすごい勢いで増えています。社会環境がそうさせたのも事実、何でもかんでも「自閉症」のくくりで病名をつけて隔離したのも事実でしょう。でもそのためにこれまで社会から隠されていた哲学者たちが表舞台にでるチャンスも増えたと思います。難しいことでしょうが、「タブーからの脱却」のためにも頑張ってください。

哲学者たちの友人に対して凄く嫉妬しているおじさんが、じっと見守っております。

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材料の宅配

3日前から、夕食の材料の宅配サービス(お試し版)を頼んでいます。うちは夫婦2人暮らしです。毎日、夕食の料理の材料を2人分だけ持ってきてくれるというのです。初日は、外出から帰ってくると玄関先に大きな木製の保冷庫が置いてありました。

「カップ1杯、・・・小さじ2杯・・・」妻がブツブツつぶやきながら料理に没頭しています。「いつも目分量だから、料理本見ながらきちんと調味料入れたの何年ぶりだろう?」なにしろ、すべての材料がきっちり2人前です。ダイコンも肉もエノキも、一切の余分がありません。これは、なかなか素晴らしい。スーパーに行ってもこんな中途半端な量は売ってませんから結局余分に買ってきます。余分に作るか、余らせて腐らせるか。そんな懸念が一切ありません。材料は使い切り、料理はきっちり食べ切り。不足もないけど余分もないのです。もったいない精神の日本人にはうってつけかもしれません。妻は献立のことを考えなくて良いから楽だと云います。ついでに、これだとスーパーに買い物に行かなくて良いから、余分なお菓子や飲み物も買ってこなくて済む。間食がなくなったらもっと痩せるかも!と期待しているようでもあります。

ただ、否応なしに(もちろん前もって連絡すると休止できますけど)毎日材料が届きますから、「今日は疲れたから店屋物で!」とか「仕事が遅くなったら外で!」などという融通が利かないかもしれない。わたしは食うだけの仕事ですけど、作る側はそれなりにストレスかもしれませんね。まあとりあえず2週間のお試し期間を楽しんでみましょう。3日経験して、早くもわたしの体重が減ってきました。恐るべし宅配サービス!というより、恐るべしわたしの日々の夕食!

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高血圧男と糖尿病女

血糖値が高いけどぉ~好きなお酒はやめられずぅ~♪血糖値が高いのにぃ~好きなケーキはやめられないっ♪

ついつい口ずさんでしまう、なかなかよくできた某○○エキスのCMです。

高血圧家系の血をしっかり受け継いだわたしと、糖尿病家系の血を引き継いでいそうな妻との生活の中では、以前書いた「遺伝子の違い」を痛感することがあります。先日、仕事から帰ったわたしに「そこにおいしいケーキを買ってあるから、ご飯が出来るまで食べてていいよ」と夕飯の支度をしている妻が云いました。「ふ~ん」と生返事をしながら冷蔵庫からビールを取り出したわたしは、無意識に戸棚から柿ピーの袋を取り出して開けました。「え、何で?」と妻。「え、何が?」とわたし。

目をつぶって菓子の山の中に手を突っ込んでも、必ず一番高カロリーの菓子を握ってこれるのは糖尿病の遺伝子のなせる業です。そんなときに一番塩っ辛い菓子を握れるのが高血圧の遺伝子の仕業です。どちらも、飢餓の歴史の中で人類が生きていくために淘汰されながら生み出してきた生存の記憶なんですが、まあスーパーやコンビニに買い物に行くと、興味を示す場所は全然違います。治療を考えたら、お互いに全く逆を食べればいいわけでしょうが、そんなこと出来るくらいなら病気になんかならないわ。結局、戸棚には各々の気に入った100円お菓子を山積みさせて、安心できる日々です。困ったものです。

先日、あるディスカウント店に行ったときのことです。店頭においしそうな写真のついた袋がありました。私はつぶ塩あられに見えました。妻はキャラメルコーンに見えました。実体はただのキャットフードでした。二人で大笑いしました。

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自立支援法

先日、自閉症者の生活療育施設「めぶき園」という小さな施設で、地域をあげてのお祭りがありました。施設利用者の方々のハンドベルも和太鼓も完成度が高く、自閉症に伴う知的障碍などのことを考えると、その出来栄えは驚異的で感動しました。きっと、スタッフと当事者のみなさん各々が長い時間をかけて楽しくかつ懸命に関わってきた成果だということが見て取れました。山の中の小さな施設のお祭りでしたが、施設スタッフや利用者家族だけではなく、地域やボランティアの皆さんがとても暖かく見守ってくれている空気が印象的でした。

そのお祭りの受付デスクの横で署名活動をしていたので、名前を書いてきました。折りしも障害者自立支援法の1割負担は違憲だという訴訟が提訴され、国も自立支援法の見直しを来春検討していると聞きます。昨日の地元紙の社説でもこの問題を取り上げていました。福祉に関するいろいろな法律の中で、この法律ほど理念と現実がかけ離れている法律は他にないかもしれません。働いて得られる収入よりも支払う利用料の方がはるかに多いのでは、不安だけが残るのも分かります。重度障碍者ほど受けなければならないサービスが多く、支払いが嵩んでしまう現実は、社会全体が必死に考えなければならない問題でしょう。一方で、「大筋で考えると、介護と障碍者支援は同じくくりとして統合したい」という行政の施策もまた現実的でやむを得ないのかもしれません。

3年後にアップするという消費税が、主に彼らのものであってほしいと願います。「障碍者や高齢者にやさしい社会」・・・世界にはモデル国はたくさんあるのに、今の日本にはその方向に目を向ける人が多くない、自分のことで精一杯だからというカラカラ感が充満している現実がちょっと寂しい気がします。鎌田先生のブログにある「ウエットな資本主義をつくりたい」をわたしも陰ながら支持させていただきます。

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信用できないからやらない?

メタボリックシンドロームが世間で有名になったのは、あの「腹囲85cm」に非難が集中したからです。根拠の乏しいいい加減な基準で世間を不安に陥れるのはケシンカラン!というわけです。批判する医者や学者さんたちの云いたいことはまあ分かりますが、これまでにもここに何度も書いてきたように、数字はあくまでも「目安」です。目安の数字を出さないと人間動こうとしないから出しているに過ぎません。まさしく物理学的発想の方には耐えられないファジー(いい加減)さかもしれません。

ところで、そんなメディア(特に報道ニュース系)の影響を受けた方がたくさんおられまして、メタボや特定健診の説明会に回っていると、「オレはそんないい加減な基準に右往左往するのは間違いだと思う。信用できないから、自分の好きなように生きる!」と明言される方がいました。蓋し、ごもっともです。ただ、ちょっとだけつぶやかせてもらうなら、そういう意見をおっしゃる方ほど、データはそんな基準とはまったく関係ないレベルにある場合が多く、「もはや早く薬をもらった方がいいんじゃ?」と心配になるような人が多いという印象です。基準ギリギリの位置にいて、メタボの概念出現で一番被害を被っているであろう人たちはというと、意外にこの機会にきちんと自らの生活を見直そうとしておられる方が多い。面白いなと思いながらも、メタボの発想には大きな意義はあるんだなと感心しました。

諸外国がどんなに非難を浴びせても、きっと腹囲基準はなくならない(数字は変わるかもしれないけれど)と思います。「内臓脂肪が溜まっていない場合の病型とは全く別のものだ!」というのが、日本版メタボの元々の発想の出発点ですから。

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芸能山城組

先日ノーベル賞を受賞した諸先生方と肩を並べて仕事をしている分子学の専門家たちの、まくし立てるような早口の講演に、もっと早口の細かい質問が飛ぶ。日本核医学会という世界はさすがに凄いなあと思いましたが、全くもってちんぷんかんぷんでした。

そんな中で異彩を放ったのは、国立精神神経センター本田学先生の「美と快の脳機能イメージング」という講演でした。「理性と倫理が邪魔をする人類と違い、他の多くの動物は報酬系と懲罰系で生きている。報酬系に導かれ、懲罰系に押し出されて行動を起こす。」・・・大学に入ったら学校に行かずに「芸能山城組」に入ったという異質の経歴を持っている本田先生の話はどんどん聴衆を本田ワールドに引き込みました。「芸能山城組」は映画「AKIRA(アキラ)」の音楽を担当したことで有名になりました(と講演で云ってました)。

話の主体は「ハイパーソニック・サウンド」=超高周波成分の音は必要なのか?という話です。現在、人間には聞こえない20kHz以上の音はCDやMDではカットされています。音響学者がいろいろな実験をした結果、「その領域の成分が入っていてもいなくても快と感じる効果に差が出なかった」というのがカットされた理由です。ところが、音楽職人(アーチストやレコーディングエンジニア)たちは経験としてその違いを感じている。ということは、その実証実験のやり方自体が間違いだったのではないか?自らが音楽家である山城組長が中心となって、検証実験のやり直しをし、PET検査を使って見事にその差を画像で示したのです(詳細はどうぞHPへ)。すなわち、聞こえる成分は耳で感じ、聞こえない成分は身体全体で(どこかの皮膚を通して)感じている可能性を、学問的に示したのです。

面白かったです。かといって、今さらCDに聞こえない領域の音が入れられるようになるわけではない事実もまた面白い。生き方に幅がある人は話にも幅があるので面白い、そう思いました。そしてそのハイパーソニック・サウンドを用いたブルーレイ版「AKIRA(アキラ)」がもうすぐ発売されるのだそうです。ちゃっかり販促活動もやってました。

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ことばっていいな。

ある青年が、わたしのブログを気に入ってくれました。先日、鎌田先生の紹介をしたら、早速仕事帰りに本屋に寄って何冊か先生の著書を買ってくれました。その話を聞いて、ついついわたしもAmazonを検索してしまいました。

「がんばらない」「それでもやっぱりがんばらない」「なげださない」・・・不思議なことに、中古本は、文庫本より単行本の方がはるかに安いのですね。送料の方が10倍高い中古本をまとめて注文してしまいました。

以前、「あきらめない」を読んで、ヤバイと思いました。仕事の合間に読んでいると溢れてくる涙が多すぎて仕事にならないのです。目を腫らして鼻声でいては、「何か悲しいことでも?」と受診者に心配されるのがオチです。だからあえて先生の他の本を買わないようにしていました。・・・あ~、当たり前のことではありますけれど、どの本を開けても、やさしいことばに溢れていました。

またしても、撃沈!

つくづく「ことば」っていいな!と思います。鎌田先生の本に共通するのは「こころ」の大切さを「ことば」のやさしさで包み込んでいることでしょうか。「医学が科学かどうか」の論議が医学を飛躍的に発展させました。でもその一方で、「医学は科学である」という発想が結果として人間を置き去りにし医学を衰退させたのだと思います。鎌田先生の文章を読んでいると、「医学が科学かどうか」なんて、どうでもいい話のような気がしてきます。きっととても大切なことなのでしょうけれど。

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