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2008年12月

思い入れの差~メタボ基準論争

「日本基準よりNCEP(米国コレステロール教育プログラム)基準の方がCVD(心血管疾患)予測能に優れる(吹田研究の最新成果)」<MT Pro2008.12.24>

簡単にいえば、日本のメタボ基準の必須条件にある「腹囲」は、心血管疾患の予測因子としてはナンセンスであり、外国の基準に従った方が意義が高いと云っています。この手の批判は日本基準が発表された2005年からずっとあります。とても良くわかるしその通りだと思いますが、一方でメタボ基準を作った先生方の「ちがうんだよなぁ~」というため息混じりの歯軋りもまた手に取るようにわかります。

彼らが腹囲にこだわる理由ははっきりしています。腹部肥満=内臓脂肪蓄積型肥満だけをターゲットにしたいのです。アメリカの基準では太っていない単なる病気重積型の人たちが含まれます。危険因子を持っている人全部を拾い上げているのだから、心血管疾患の予測能として優れているというのは至極当たり前です。それを承知の上で日本基準に腹囲が入っているのは、内臓脂肪蓄積型の人とそうでない人を区別したいからに他なりません。内臓脂肪蓄積型の人は内臓脂肪を減らせば、つまりやせれば良くなる可能性がある。それもちょっと頑張るだけで良くなるかもしれない。だから、そんな人は今こそ頑張って損はないよ!と。単に病気の危険因子を効率よく見つけだすことに主眼をおいているわけではないのです。

その思い入れの差が妙に曖昧な基準になって、どうも世の学者さんや医者に受け入れられないようすです。金銭と利害関係が絡む国の健診事業に直接絡ませてしまったのは失敗だったかもしれません。それでも動き出したメタボ健診。現場は批判ばかりしないで、修理して乗りながら徐々に完成品に作り上げていく外車のように、知恵を出し合って使えるモノに作り上げていったらいいのに、と思います。

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医者の目線

患者さんと同じ目線になることが良い医療人になる基本だと云われています。その点では、わたしは割と自然にそれができていたと思います。病室では時間がある限りパイプ椅子を引っ張ってきて座るようにしていましたし、患者さんがベッドに寝ているときには自ずと横にしゃがみこむ格好になります。わたしはプロフェッショナルになりきれなかった医者ですので、医者のあるべき姿を意識してそうしたのではありません。脈を取ったり診察したりすると座って近付かざるを得ませんし、ボソボソ声のために相手に聞き取ってもらうには耳元でしゃべるしかなかったのです。

救急外来や病棟で、患者さんと一緒にベッドに並んで座って話をすることが何度かありました。紙に書いて説明したり文書を一緒に読んだりするとき、向かい合いではできないので自然と隣りに寄り添う形になってしまいます。「ベッドは患者さんのものですから、医療従事者が患者さんのベッドに座るようなことは言語道断です」という注意が全体にアナウンスされたことがありますが、もしかしてあれはわたしに対する注意だったのかしら(今頃気付いてもしょうがないけれど)。愛する家族や好きな人との距離は何も考えなくても自ずと近くなるものです。医療スキルとして考えるのではなく、目の前の患者さんが身内だと思えばどうってことはありません。

ただし、健診の場ではそれは通用しません。健診ではわれわれの目線は受診者よりさらに下になくてはならないからです。医療経験豊富なベテラン医師や師長経験者が健診には向いていると思われがちですが、かえってそんな人たちはこの目線感覚のズレに戸惑ってしまいます。健診業務を医療の片手間でできる、と思っている人には到底理解できないことかもしれませんね。

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今日はパーティだ!

クリスマスの日、健診を受けたご夫婦に結果の説明をしました。旦那さんの体重が1年で3kg増え、悪玉(LDL)コレステロールが増加していました。「なにかあったのですか?」と聞くと、「夕食が充実した成果だと思います」と即答されました。腹部エコーでは脂肪が入り込んでキラキラ輝きはじめている肝臓が写っていました。

厄明けした43歳。勝負の時期を迎えています。検査結果としては大して悪くない今だからこそ何かを考えてもらいたくて、いろいろ助言しました。「夫は、肉と牛乳が大好きなんです。『肉はないと?』と云われるので結局肉料理を追加してしまいますし、牛乳はお茶代わりに飲んでいます。」という奥さんは、きっと旦那さんが大好きなんでしょうね。残念ながら、LDLコレステロールを上げる最大の敵、飽和脂肪酸の代表が肉(脂)と牛乳です。この難敵に取り憑かれた旦那さんはこれからどう戦いましょうか?「赤身の肉を探します。野菜を中心にします。」・・・そんなことばが返ってきますが、好きでもない料理を嫌いだと思って食べるのはつまりません。選ぶ道は2つあると思います。1つは好きでもないと思っていた料理を好きになってしまうこと、もう1つは好きなモノを半分量に減らして今まで通り食べることです。「どちらでもかまいませんが、今夜何かをしないとたぶん何もしませんよ!」と釘を刺しましたら「残念です。今日はクリスマスパーティがあるので無理です。明日からになりますね。」とこれまた即答。

「あ、じゃ無理です。断言します。きっとしませんよ。」・・・ちょっと強すぎたかなと思いながらわたしの本心を口にしてしまいました。予定していたパーティを止めろなどと云ってません。料理を変えろとも云ってません。それでもそのパーティで何かを変えることは簡単です。それを「パーティだからできない」と云うならば、一生パーティをしない方法しかないと云っているようなモノです。アタマでは理解していても実際に何かを始めようとする、その第一歩は思いの外難儀なものです。

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続くモノですね。

気付いたら、ブログを始めて今日でちょうど1年目になりました。

健診の医者として、日々思っては消えていくことを忘れる前に書いておこうと思って始めたブログでした。年4回、広報誌にコラムを書くようになって、ネタ探しをする目で日常を眺めていると今まで気付かなかったことが世間にはたくさん溢れていることに驚きました。これをそのまま忘れ去るのはもったいないと思い、どこかにメモする場がないか探していたらブログをみつけました。

週に2、3回書ければ良いかなと思って始めましたが、1月3日に書いて以降は皆勤賞になってしまいました。医者の目での徒然のつもりが、時々自分史も書いてみたり。自分の中でじっと封印して隠しておいたココロを世間に曝してみたいと思うようになったのは、ブログを始めた最大の収穫かもしれません。数年後に150編くらいできたら自費出版で本にでもしようかとか思っていたら、どうということなく360編を越えました。もしわたしが倒れたら、遺言だと思ってだれか骨を折ってやってください。

わざとページを区切らずに1回目から並べています。とても重くなりますが、たまたま出会った人にも是非とも最初の方を読んでほしいから。最初の方にやはり書きたかったことが選び抜かれている気がするのです。家族について書いた文章はどれもとても好きです。一番素直な自分が出ている気がします。書き始めるにあたって考えておいたネタはまだ半分以上が手つかずです。ふと思いついたネタをメモしておきますが、後で文章にしようとすると何を書きたかったのか良くわからなくなったりします。物忘れ防止のためにもうしばらく続けてみようと思いますが、さすがに少しペースを落としたいかな。でも、わたしは典型的な執着気質なんで・・・今後とも、たまにはお立ち寄りください。

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餅つき

昨日は、職場の仕事納めでした(まだ年末年始の業務は盛りだくさんですが)。昼休みには、寒空の中、恒例の餅つき大会が行われました。もう何十年も変わらない病院の風物詩のような光景です。つき上がった餅を職員と入院患者さんの一人一人に振る舞うのも変わらぬ習慣です。

ところが今年から、市内の基幹病院のひとつであるN病院では餅つき自体が中止になりました。振る舞われた患者さんが餅をノドに詰まらせたら訴えられるからだそうです。たしかに年末の餅つきは臼と杵を使って多人数が何度もつきますからとても腰のある伸びやすい餅ができあがります。飲み込みたくても飲み込める大きさにまでこなされず、一か八かで飲み込んでみることを、実はわたしも経験したことがあります。毎年、必ず餅をノドに詰まらせて窒息死する人があることを考えると、そして現代の訴訟社会の現状を考えると、やむを得ないことなのかもしれませんが、日本の特徴的な風物詩なのでとても寂しい気がします。病院の病室で食べるんだから何か起こってもすぐ対処できるんじゃないんかい?大きさや内容物を工夫すると何とかなるんじゃないんかい?と思ってしまうのですが、「そんなことまでしてやらなきゃいけない行事でもない」・・・今時のクールな事務方さんや幹部はやっぱりそう考えるのでしょうね。

蒟蒻畑の騒動は、どう考えても企業の責任ではありますまい。あれだけ忠告しているのにもかかわらず、子どもやお年寄りに渡す人が悪い!とてもはっきりしている事実です。でも餅は、手がかかって美味しくでき上がったモノほど詰まらせ易いのがネックです。うちの病院も今年の振る舞いが最後になるかもしれないと聞いています。だからひとつだけ食べてみようと思いましたが、もうなくなっていました。

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医者の用足し

自らが心臓病の治療を受けている開業医の先生がおりました。先生の悩みの種は、心不全予防のために飲んでいる利尿剤(オシッコを出してムダな心臓の負担になる水分を抜くくすり)でした。普通、外来には患者さん用トイレしかありません。利尿剤を飲むと午前の診療中に何度もトイレに入らないといけないので、飲むわけにいかないと云うのです。それが原因で心不全になったこともあります。・・・結局、それがきっかけで先生は医院を閉めました。

ある眼科を受診して待合室で待っていたとき、おもむろに院長先生が診察室から出てきてトイレに入りました。そして程なく、ハンカチで手を拭きながら出てきた先生をみつけました。わたしが呼ばれるのはずっと後ですが、その手で目を触るのだと想像すると何かあまりいい感じがしませんでした。

この冬の時期、わたしも診察の途中でがまんできずに小用を足しに行くことは間々あります。幸い、うちの施設は職員用トイレが裏側にあるので受診者と動線を交わらせることはありませんが、それでも部屋に帰ってきたときにトイレに行ったことに気付かれるのではないかと無意味に気を遣ったりします。一番大変なのは院外健診に出向いたときです。午前中に診察を100人近くすることが少なくありませんが、途中で小便に行くのはさすがにできません。皆が、わたしがトイレに入る姿を見てしまいますから。我慢の限界に達しそうになることは実はかなりの回数ありました。

しっかり手洗いしているのだから、実際には感染した患者さんを診察した後よりかえってきれいなはずです。単なるイメージだけの話なのですが、する側もされる側も払拭できない後ろめたさがあります。・・・医者も人の子、どうぞご容赦ください。

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舞台に立つ!

6年前、二人の青年が少年隊のビデオを持ってやってきました。「先生、今年はこれをやります。」「?」・・・何のことかと思ったら、職場の忘年会の出し物の踊りのことでした。「君だけに」・・・仮面舞踏会よりもスローテンポではありますが、何しろ、演歌ビートのわたしのリズム感にはかなりの難題でした。コマ送りで見てもどっちの足をどう出しているのか理解できません。何度も何度も繰り返して確認しました。何度か週末に合宿を張って、フィットネスフロアの鏡の前で悶絶しながら頑張った記憶があります。

わたしの初めての舞台は、たぶん大学1年の時の演劇部定期公演「可愛い女」(安部公房作)です。中学の文化祭での「水戸黄門」のチョイ役は時間の都合でカットされましたから。「まさか!あんたが演劇部ね?」・・・大学の演劇部に入ったとき、友人だけでなく学校の恩師や親までもが驚きました。「可愛い女」はミュージカルでした。メインキャストの1人として、恥ずかしいくらいの拙い踊りと歌をやったことを思い出します。下手くそでしたが一生懸命でした。出来がどうであれ、決していい加減ではなかったことが今でも自慢できるわたしの歴史でした。

「君だけに」は、宴会場の芸(「余興」ということばは大嫌いなんですが)ですから、もちろん酔っ払いの皆さんは絶賛してくれました。たかが宴会芸にどうしてそこまで?そんなヒマがあったらその分仕事したら?などといわれながら、久しぶりに一生懸命な練習を楽しみました。しかもビデオを持ってきたひと回り以上若い世代の二人も、宴会芸だからといったいい加減な妥協をせずしっかり汗を流してくれました。だから本当におもしろかった。今年、6年ぶりに再び「君だけに」を踊らせてもらいました。わたしが1年前から訴えてきた希望でした。今回は2回だけプチ合宿をしました。そして、また完璧な「君だけに」を踊れました。楽しかった!

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放置と自己管理の違い

健診では、まず問診票を書いてもらいます。そこに「高血圧-放置」「高脂血症-放置」とか「不整脈-放置」とかいう表現がよくみられます。そうすると、「高血圧なんだからちゃんと治療しなさい」という意味で「要精密検査」とか「要治療」とかいう判定になって紹介状がつくことになります。

でも本当に「放置」していますか?高血圧や高コレステロールや高血糖を昔から指摘されているのに「そんんもの関係ないわ」と嘯(うそぶ)いて、いつも野放しにコッテリ料理を食っているのならたしかに「放置」です。でも、多くの人は、大なり小なり自分なりの節制をしていることでしょう。これは「放置」ではありません。だって、節制しているのですから。節制は立派な「治療」です。ところが、医療の定義では医療機関で管理されていないと「治療中」という認定をもらえないらしいのです。別に薬を飲んでいなくてもかまいません。定期的に医療機関に通って管理してもらってさえいれば「治療中」なのです。要するに、何かあったときに責任を取る人を明確にさせたいのでしょう。自己管理をして年に1回人間ドックを受けるのでは倒れたときに誰が責任をとるかがわからなくなるのでダメらしいのです。まあ、「自己管理」は時々やり方を間違ってかえって悪化させる場合もありますので、面倒でもやはり「病院に定期受診中」であってほしいと思います。

一方で、薬をもらっていても、ほとんど診察も受けないし採血も受けない通院(窓口で薬だけをもらうとかヘタをすると家族がもらいに来るとか)を「治療中」と呼ぶのはおかしなもんだ!と思います。それこそ「放置」なんじゃないかしら。

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宴会の精進料理

不況の昨今、さすがに回数は減っていますが、それでも今年も忘年会が続いています。

宴会場の料理もかなり様変わりしてきました。たしかに昔のようなコテコテの宴会場で、見るからにカラダに悪そうな料理が出る状況は減って、それなりにヘルシー料理になったと思います。でも、気付きませんか?最近、料理の下に引いていた野菜がほとんどなくなっています。刺身のツマとしての大根ですら最低限しか盛ってなかったりします。野菜を食べたかったら「サラダ」を注文しろ!と云わんばかりです。ついでに出てきた大根の千切りやパセリからまず手を出すわたしとしては、ちょっと不本意です。

以前、副院長をされていたS先生が自慢げに「勧め上手になりなさい。わたしは、最初に乾杯したらさっさと薄いウイスキーの水割りを持って、ビールを注いで回ることにしている。そうしたら酒を呑み過ぎないから。」と語っていました。「そんなことするくらいなら、宴会場に行かんわ!」・・・呑み助のわたしは、間髪入れずに心の中でそう突っ込んで聞いていました。

いずれにせよ、今時の宴会場では精進料理は出てきません。予算をギリギリにするとき、もしや精進料理はかえって高くつくのかもしれません。メタボ対策や糖尿病の治療として宴会場での酒を控える方は少なくないかもしれませんが、そんな方はきっと努力の割にあまり痩せないでしょう。手持ち無沙汰なあなたは結局料理に手を出すことになりましょうから。宴会場の料理は、ヘタをすると酒よりもはるかに高カロリーで、しかも質の悪い飽和脂肪酸や酸化脂肪酸ばかりでできていることがあります。ご注意ください。

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アナログ人間とデジタル人間

「人間はアナログ人間とデジタル人間に分けられますが、先生は間違いなくアナログ人間だと思います。アナログ人間の医者の方がご高齢の患者さんを診るのに向いていると思います。あっちに行っても先生らしく地域医療に励んでください。」

元上司の送別会のとき、はなむけのことばとして副院長がこう云いました。まあまあ当たっているなと思いました。

で、わたしはどうだろう?と考えました。わたし自身の答はとてもはっきりしています。デジタルのデの字も当てはまらないくらいのアナログ人間です。でも、周りはどう見るでしょう。物事をきちんきちんと片付けていかないと落ち着かず、几帳面に計画を立て、融通が利かず、いい加減なことをされたら烈火のごとくに攻撃するのがわたしの性格・・・きっと多くの人がわたしのことを「典型的なデジタル人間」だと思っているのではないかしら。そう思うとちょっとシャクです。デジタルが良いとか悪いとかいうことではなく、自分の本来の姿を分かってもらえないのが面白くないのです。

つくづくわたしってアバウトだなと思います。日本人の大腸がんの発症頻度が現在どれくらいに増えているかとか、メタボに該当する人は全受診者の何パーセントなのか、あるいは昨年の健診センターの収益は何円だったか?などという質問が大嫌いです。知るかそんなこと!病気になる人はなる。最近明らかに増えている。自分がそれになりたくなかったらやることはやっておいた方がいい。それでも病気になるなら、それは天命だ!それでいいんじゃないんか?・・・そんな人間です。そりゃあ出世しないわけだ。・・・それでもいい加減な姿を他人に見せるのがイヤで、それなりに誤魔化しています。デジタル人間に憧れて、分かっている振りをするのはそれなりに大変なんです。

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親孝行

わたしが7年前まで勤務していた循環器内科の副部長が年内で退職されることになり、先日送別会がありました。研修医として今の病院に勤務し始めたときのわたしのオーベン(指導医)でした。若い頃から、気に入らないと上司でも平気で文句を云っていたわたしのことを、きっと鬱陶しく思っていただろうなあと、今になって反省しています。

定年でもない彼が退職して生まれ故郷に帰る決心をしたのは9月だったそうです。そして同じ専門領域の業務をしているわたしに一早く決心を教えてくれたのが10月の千葉での学会のときでした。彼のお母さんは2年前に亡くなりました。ひとり残されたお父さんはその後も田舎で自営の仕事を続けておられましたが、今年になって原因不明の体調不良に何度か見舞われ、「疲れた」と初めて弱音を吐くお父さんの姿をみたとき、「今親孝行しないと一生後悔する」と思ったのだそうです。

お父さんを熊本に呼ぶことは最初から考えませんでした。彼がこれまで造り上げてきた生活を壊してしまっては意味がないと考えたからです。そんな思いを千葉で聞きながら、わたしはやはりわたしの父のことを考えてしまいました。父は大分の地でひとりの生活を20年続けていました。彼は、いい頃合にわたしが実家近くでクリニックを開業し、自分と一緒に暮らすものだと思っていたのでしょう。酒が飲めるようになった息子とゆっくり飲み明かすのが夢だったに違いありません。でもわたしはその選択をしませんでした。彼の術中に嵌るのがイヤで、自分から避けてきました。

どうだろう。今父が生きていたら、彼と本音で酒を酌み交わせるだろうか?昔は反発ばかりしていてゴメンな!と云えるだろうか?・・・元上司の生き様に感服しながら、一方でそんなことを考えていました。

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脳ミソと酒

脳の全容量は飲酒量に反比例

Medical Tribune(12/11号)でわたしが興味を持った記事をもうひとつ紹介します。アメリカシカゴ発の発表論文(Archives of Neurology 2008;65:1363-1367)です。

分かってはいるけど触れたくはない事実をまたご丁寧にMRIで確認してくれています。被験者はFraminbham Offspring Studyという研究に参加した1839人で、全員にMRI検査とアルコール摂取量の調査をしています。大部分の参加者は「あまり大酒は飲まない」と申告しているのに実際には男性の多くは中等度~重度の飲酒量だったそうで、ちょっと面白かったです(わたしもきっとそう答えるでしょう)。

で、結論は「飲酒量が多いほど脳の容積は減少する(特に女性でその傾向が顕著である)」という単純明快な結果でした。「少量(適量)の酒はむしろ脳容積の年齢的な減少を緩和させる」とか、「少量頻回の飲酒はむしろ心血管系の死亡率を低下させる(Clinical and Experimental Research 2008)」とかいう意見をいともたやすく否定し、「飲酒が脳容積に対して保護的効果をもたらさないことを示している」と冷たく云い切っております。

このCarol Ann Paulという先生は、きっと酒を飲まない人なんだろうなあ。

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若年認知症者

12/11号のMedical Tribuneに紹介されていた、日本認知症ケア学会(高松市)の記事を読みました。

若年認知症は40歳代、50歳代のいわゆる働き盛り世代に襲ってくる認知症ですので、自ずと会社との関わり合いが重要になります。全国の若年認知症者(多くはアルツハイマー病ですが)にアンケート調査をした結果の報告が載っていました。会社で「今までできたことがなぜできない?」と責められ、「今までのように仕事ができない」自分に苛立ち、結果として退職・休職を余儀なくされるケースが少なくないとのこと。特に、病名を会社に相談した人の方が、相談していない人よりも「仕事を続けたい」「仕事以外の社会参加をしたい」と思っている人の比率が少ないという結果は、裏返せば、会社の若年認知症に対する理解が乏しいということを物語っています。「仕事を続けるために必要な支援は何か?」という問いには「上司、会社の理解」「仕事内容の変更」という答えが返ってきており、これから増えて来るであろう若年認知症に対する啓発体制の整備と支援者の育成が急務である、と締めくくられていました。

この記事を読みながら懸念したことは、突然拍車がかかった不況の嵐です。この世代が仕事を辞めても(特に認知症の理由で)再就職は厳しいでしょう。だからイヤでも会社にしがみついておくしかない、というプレッシャーがまたさらに自分を苦しめることになります。一方で会社の本音を云えば、仕事能力がおちて逆に前より手を取るようになった人を抱えておくよりも新しい人を雇用した方がはるかにメリットは大きいに違いない。でもなかなかそうもいかない。

自分の姿を重ね合わせると、ものすごく辛くさびしい、殺伐としたイメージが浮かんできてしまいます。

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生活の質

未曾有の不景気状態に突然見舞われてしまいました。本当は大した不景気じゃないのに連鎖反応が悪循環を引き出している?という気もします。需要が減って仕事が少なくなったために人員削減をせざるを得ないという選択をひとつの企業がしたら、いままでガマンしていた多くの企業が堰を切ったように同じ選択を始めました。本当は、もうちょっとだけガマンを続けようとしたら頑張れるかもしれないのに。そして、人員削減(クビ)、失業、消費減退、不景気、まるで当たり前のような大きな流れができてしまいました。どう考えても、尋常ではありません。

「節約できるところは節約するけれど、生活の質だけは落としたくないの!」・・・以前バブルが崩壊した頃、世の多くの人たちがこう云っていました。でも、最近はこのことばをあまり聞きません。なりふり構わなくなったからかもしれませんが、わたしはきっとエコの考え方が浸透してきたためだと思っています。

「生活の質」とは何か?高い服を着て、贅沢な食事をして、いつも身だしなみをきれいにしている・・・昔考えられていた「生活の質を保つ」とはそんなことではなかったかと思いますが、今時、そんなことを考えている人は、そう多くはないでしょう。突然襲ってきた不況の嵐は経済の縮小をもたらそうとしています。世も末だと思って、不安な空気に騙されそうになっていませんか。今こそ、生活の整理ができるいい機会なのかもしれません。経済の縮小はむしろ健全な社会規模に戻ろうとしているだけなのではないかと思います。高騰したガソリン代に対抗して車離れできたら、再びガソリン代が下がって100円を切ろうとしてもわざわざ車に戻る必要はなくなりました。それで車が売れないから不景気だというのはおかしいかなと思います。もっと人はたくましくなれると思います。

それにしても、こんな時代なのに、どうしていまだにどこのコンビニも24時間営業なのでしょうか?これが現代の社会人の死守する「生活の質」なのでしょうか?

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理不尽なきっかけ

わたしが産業医をしている企業の職員にうつ病が増えてきました。最近休職に入った一人のお嬢さんがおかしくなりはじめたきっかけは、本当に理不尽な出来事でした。

彼女は今年入社したばかりの新人さんです。ある日、職場の宴会があり楽しく参加しました。ところが、翌朝出社すると職場の先輩に呼ばれて注意を受けました。「あんなこと云ったら失礼でしょう。もっと注意してちょうだい!」

そんなことを云われても何のことかわかりません。自分が変なことをしたり誰かに失礼な言動をした覚えがないのです。何のことか?と聞くけれど先輩は具体的には答えてくれませんでした。「わたしが何をしたの?」・・・実感のない非難を受けて、彼女は自信をなくしていきました。何かを話すと人を傷つけるかもしれないと思うと怖くてあまりしゃべれなくなり、何をするにも不安になっていきます。そのあと、精神的に不安定になっていくのにさほど時間は要しませんでした。たぶん、単なる勘違いか行き違いがあっただけなのだと思います。それでも、たとえ彼女が普通に職場復帰してもこのときの理不尽な思いはきっと解決しないままに残るでしょう。将来、ただの思い出になったとしても小さな闇の箱は心の隅っこにそっと残り続けることになります。

わたしは遠い昔(大学予備校に通っていた頃)、ある友人に意味もなく怒っているふりをしたことがあります。日頃はとても仲良かったのに、急に不機嫌な顔をして口を利かなくしたのです。ただ面白がってやっただけで何の意味もありませんでした。数日後には仲直りしましたが、あのときの彼の引きつった顔を忘れられません。なんと愚かなことをしたのでしょう。

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振り子

「最近の調子は、どうよ?」・・・ときどき自分で自分に問いかけます。

わたしの心はまるで大きな振り子のようです。むかしのわたしは、いつでもどこでも何をするにも大きく振りかぶっていました。自分ではあまり気付いてはいなかった、というより、そんなことはないと思っていました。それが当たり前の姿だと思っていたのかもしれません。大きく振り上げるとどうしても重心がブレてしまいます。そして大きく振り上げた分と同じ大きさで大きく振り下ろすことになります。しかもついつい力が入ってしまうのです(まるで、下手くそなわたしのゴルフスイングのようです)。当然、その反動は気付かないうちに大きな衝撃となって返ってきました。繰り返すうちにわたしの心は疲れていきました。時には大きすぎる衝撃にぶちのめされました。

最近は振り上げる幅があまり大きくないから反動も大したことはないみたいです。心の揺れが少ないということは、安定してきているということだから良いことだと思うことにしました。ゴルフスイングに例えるなら、ブレも少なくてゆっくり振れるから意外にジャストヒット!グゥート・ショォットォ!ナイス・オォ~ン!

うつ病につながったこともあるわたしの心の動きを振り子の動きに例えてみましたが、実は最近のわたしの心の振り子はもっと三次元に振り回されていることに気付きます。「仕事」という平面の上を右往左往して一喜一憂するだけだったむかしと違って、人生にはもっと他の面が無限にあることに気付くことができました。一つの平面だけを見つめるからスイング幅ばかりが気になるのです。世界が球状だと気付くことができた瞬間に、世界は突然に無限大になります。おもしろいものだなあと思います。

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かけ出し医者の年賀状

研修医を明けたばかりの新米医者として今の病院に舞い戻ったとき、わたしはその年に急性心筋梗塞で入院して無事退院した受け持ち患者さん全員に年賀状を出しました。医者としては、未熟なわたしに実地で勉強させていただいた貴重な「先生」であり、人間としては、縁あってお知り合いになっていただいた「人生の先輩」たちでした。病棟担当でしたから、退院後は全く会う機会もなく、その後の元気な姿を想像して一言一言手書きで書き込みました。

返事をいただけた人、いただけなかった人、もうそんな詳しいことは何も覚えていません。個人情報うるさき昨今なら、サマリーに書かれた住所を書き写したこと自体が問題になったかもしれません。その翌年の正月、お世話になっている開業の先生方との親睦新年会の二次会で、ある先生につかまりました。「うちに来ている患者さんに聞いたけど、先生、患者さんに年賀状出したんだって?」「はい。急性心筋梗塞の方だけですけど。」「先生は一体何歳ね?その若さでそんなことする医者見たことないぞ!はっはっは。患者さん、ものすごく感激しとったよ。でも、先生、先生みたいなことされたら、いつも診てる主治医のわたしは立つ瀬がないんよなあ。」・・・その先生はそれだけ云ったら、笑いながら他のテーブルに移っていきました。今までほとんど話したこともない大先輩のドクターでした。ちょっと嬉しく、ちょっとはずかしかった感覚を覚えています。出して良かった、と思いました。

今年も年賀状を準備する時期になって、ふとそんな遠い昔のことを思い出しました。年賀状がいつの間にかあいさつだけの儀式になろうとしています。この機会にほんの少しでも初心に戻ることができたらいいな、と思いました。医者としても、人間としても。

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白米と玄米の戦い

来月号の職場の広報誌に掲載するコラムとして白米のことを書こうと考えました。これまでも何度か書いてきましたが、白米は米(籾)から籾殻を取り除いた(この段階が「玄米」)だけでなく、さらに一番栄養素の豊富な糠(ヌカ)と胚芽も取り除いたものです。つまりはただの炭水化物でしかなく、まさしく米が白いと書いて「粕(カス)」、米のカスだけ食っているようなものだ!と書こうと思ったのです。ビタミンB1不足で脚気になったというエピソードは有名です。炭水化物の代表とされる米は結局白米のことを指し、だから食後高血糖を助長する悪いやつの代表とされ、低炭水化物ダイエットの有効性の張本人にされているけれど、それは白米だからなのであって、米=玄米として考えたら決してそんなことはないのだ!それを強調しようと考えました。日本人は米食、つまり玄米食が基本で理想食だとういう主張もしたかったのです。

ところが、そんな熱い思いで資料を集めていたときに、「危ない玄米食」という題名の、あるお米屋さんのホームページに行き当たりました。「玄米食こそが理想食だ!」という間違った幻想は捨てなさい!と主張しています。なぜなら、玄米は汚い(きちんと精米されないので石やガラスやネズミの糞などが入っている可能性がある)。籾や糠には残留農薬が残っている危険性がある。玄米は毒素も排出するが栄養素も排出する(かえって貧血になりやすい)。カルシウムの吸収率が低い。食物アレルギーを起こす可能性がある。そう考えると、結局白米を美味しく食べながら豊富なビタミン・ミネラルを含むおかずをきちんと食べた方がメリットが大きいのではないか!と云うのです。

理想の理論に対して現実論で対抗。日本人ならではの米論争は、意外なほどに複雑で混沌としているのだということを知りました。どっちもどっちですが、とりあえずコラムには書きにくいようなのでやめました。で、〆切り間近だったので不本意ながらこのブログからある文章を拝借してしまいました。先に懺悔しておきましょう。

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歴史を変える人

ノーベル賞の授賞式が、スウェーデンのストックホルムでありました。

「アイ キャン スピーク ジャパニーズ オンリー!」・・・そう云って、すべてを日本語で記念講演した益川教授(京大)は大きな話題になりました。ノーベル賞授賞式始まって以来の出来事だというのです。彼の発表は研究内容の説明だけにとどまらず、子どものころに理科に興味を持つきっかけになった父親のことにまで及んだと聞きます。既成に捉われず破天荒でありながらきわめて愚直な生き方をしてきた益川さんの、暖かい人柄が感じられます。

そして、わたしがさらに感動したのは、記念講演の翌日に行われた授賞式の光景です。ノーベル賞委員会委員は、その選考理由をあえて日本語で語ったのです。これもまた、ノーベル賞始まって以来の出来事だそうです。益川教授の行動はそれなりにわたしの想定内の出来事でしたが、そんな日本の研究者に最大の敬意を表する方法を柔軟に考え、いとも簡単に歴史を変えてしまった選考委員のウイットと行動力には敬服しました。凄いことだと思います。たとえば、うちの職場の組織でこれをしようと思ったらどうか?現場で具体的な提案をし、それを直属の上司を通して組織のトップに打診され、細かに手直しをさせられた上で、病院の管理会議にかけられ、そこで許可がおりたら初めて日の目を見ます。授賞式なんてもうとっくに終わってしまって、「今回は間に合わなかったけど次回からは是非」と、こうなるのは目に見えています。

ユニークな発想と地道な努力が評価される「ノーベル賞」の世界が、想像以上に奥深いことを思い知らされます。実にかっこいい!

それにしても、下村名誉教授とジェンキンスさんの区別がどうしてもつきません。

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「学術の動向」

以前、メタボリックシンドロームに対する運動療法について独立行政法人国立健康・栄養研究所の田畑泉先生にご講演をいただいたときに、ネット検索をしていてこの雑誌の存在を知りました。その名が「学術の動向」http://www.h4.dion.ne.jp/~jssf/text/doukousp/です。日本学術協力財団 という団体が出している月刊誌です。その名の通り、日本で行われている科学や学術の講演会・シンポジウムの内容がタイムリーにしかも事細かに載っています。何が凄いって、1冊756円のその雑誌に掲載された文章のうち、特集の記事はすべてがPDFの形で全文掲載されているのです。田畑先生のお話は2006年5月号の「ライフスタイルと健康」という特集の中で「身体活動の増加は健康増進にどこまで貢献できるか-そのエビデンス-」という形で載っていましたので、印刷して前もって予習することができました。

あのときにその周辺の記事も読ませてもらいましたが、どれもとても面白かった記憶があります。そのときにはたしか、「ライフスタイルと健康」(2006年5月号)と「スポーツの科学」(2006年10月号)を読みました。とてもタメになりました。メタボや運動に携わる仕事をしている方は必見です(くどいようですが、無料です)。

医療関係者の方(あるいは内容に興味がある方)で、トピックスな考え方を知りたいと思ったら調べるときにちょっと覗いてみてください。バックナンバーも全部掲載されています。ちょっとばかりマニアックな世界にハマれるかもしれません。

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イヌの運動欲

「人間には運動欲がない」を教わって以来、いたるところでそのことを語ってきました。

先週の日曜日に久しぶりにうちのワンコの散歩に行ってきました。前足を浮かせて喉をヒーヒー鳴らしながらリードをグイグイ引っ張っているワンコの姿を眺めながら、「イヌには運動欲はあるのだろうか?」と考えました。さて、実際どうなのでしょう?

野生の動物たちは生きていくために走ります。獲物を追いかけて捕まえないと餓死しますし、走って逃げないと捕まって食べられてしまいます。動かなくても餌がやってきて、動かなくても命の危険がないのなら、きっといつも寝て暮らすのだろうな。動物園の動物たちを見るとそう感じます。きっとこれは「運動欲」がないということなのでしょう。ではペットの動物たちはどうか。生活のために運動する必要はないけれど、たしかにうちのワンコは散歩が大好きで、連れて出ようとすると狂ったようになります。イヌというものは、散歩中、それが飼いイヌでも野良イヌでも、みんないつも小走りで忙しそうです。マーキングしたいから動きたがっているというだけでもないのではないかと思います。運動しないとストレスがたまってしまうから走り回らせるだけで、本当は走りたいわけではないという意見もわからないでもないのですが、やっぱりうちのワンコは外を歩きたくてたまらないのだと思います。元々の牧羊犬としての血が騒ぐだけではなく、外に出れば友達がいて(相手はそうは思ってないようですが)、いつもご主人を独占できて、風を感じることができる散歩が大好きなように見えます。これは厳密な意味では「運動欲」ではないのかもしれないけれど、もうそんなことどうでもいいや。

心不全になるのではないかと思うくらい走らせてきたので、ヘロヘロになって爆睡している彼女の姿を眺めながら、そんなたわいもないことなどを考えました。

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ガタが来た身体もおもしろい。

40歳弱の若い男性が、わたしに面会に来ました。先週うちのドックを受けにきた人です。わたしは時々こんな面会を受けます。どうも、私のように医者らしくないいい加減な人間の方が話しやすいのかもしれません。

彼は健康のことで悩んでいました。健康のために運動をがんばったおかげで健診データが見違えるように改善したのですが、ちょっとやりすぎて股関節を痛めてしまい、それが治らなくて大きな病院を転々としています。インターネットで名医を探しながら受診してみますがなかなかスッキリした解決策をもらえないようなのです。人に勧められてグルコサミンやコラーゲンを飲んで少し良くなった感じがするのですが、多くの整形外科医がそれを肯定してくれないのも心がスッキリしない原因になっているようです。

人間は、思いがけないカラダのトラブルが生じたとき、何とか元の何もなかった状態に戻したいと思います。それが若ければ若いほど、完璧な無傷状態に戻せないと取り返しのつかないカラダになってしまった気になって、必死になるようです。でも、ガタがきたカラダと一緒に人生を過ごすのも意外におもしろいものなのですよ。もちろん、身体の不具合でとても苦しんでいる方には不謹慎な云い方かもしれません。でも、わたしは頚椎ヘルニア・腰椎ヘルニアでずっと足が痺れていて時々指先も痺れたりして、膝が壊れて正座ができなくて、首がひどいと背中の痛みで眠れなくなったりして、最近は足の裏が固まって、ついでに視力の矯正も十分できなくて・・・そんな元には戻せないカラダですけど、別に何の制限もしない人生を過ごしています。

「あきらめる」というのは決して後ろ向きの対処法ではなく、かえって前向きな生き方へ踏ん切れるきっかけになることをわたしはいつの間にか体得しました。彼もまた、そんなしがらみから開放されて「これもまた楽し」と思う人生の来ることを祈っています。

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月曜が好き!

不器用なアドバイザーとして、一緒に患者さんの人生をどっぷりと抱え込んでしまう医療従事者、特にナースの方は、注意しないと「燃え尽き症候群」になってしまいます。その点、そんなところまでは入り込まなかったわたしの母(教師)は、ある意味プロフェッショナルだったのかもしれません。

月曜日が近づくと徐々に心が沈んで体調もおかしくなる人たち(「サザエさん症候群」)が最近さらに増えてきているようです。うつ病の兆しのバロメータとなっています。で、うつ状態に周期的になるわたしはどうかと考えてみましたが、どうもわたしは基本的に「月曜日が好き!」みたいです。土曜も日曜もじっとしないで遊び回っている日々ではありますが、最近は「サザエさん」をいつも楽しく見ています(すでに酒に酔っぱらって寝てしまった時以外は)。週末にもじっとしていないのに、疲れがたまった感じになることは一切ありません(まあ好きなことしているんだから当たり前でしょうけど)。「さ、明日からまた一週間が始まるぞ♪」という気分です。ウキウキはしていないけれど、憂鬱でもありません。最近は残念ながら「仕事が好き」とは云えないし、仕事の云々を考えているといろいろなしがらみでうつ状態が出始めてくるのですけれども、でも月曜がイヤという感覚にはならないのです。ま、仕事を仕事と思わず、気軽に遊び惚けている状態とあまり変わらないスタンスで居れるからなのかもしれません。幸い、そんな重い物事を考えなければならない立場にありませんので。

おそらく、心の健康度は自分で思っているほどは悪くない、そう判断しました。良いことだと思います。

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パターン認識

学校の教師をしていた私の父は、子どもたちをいくつかのパターンで区別し整理していました。「このタイプの子どもはこういう性格だからこういう対処をしたら大体上手くいく」・・・パターン認識の確率論に基づいて、いつもスマートに問題を解決させていました。同じく学校教師だった母はというと、いつもパーソナリティを大切にしようとしていました。「そんなときにはな・・・」と父からアドバイスを受けながらも、どうしてもパターン化できないのでとても不器用な対応をしていました。そんなに考えすぎたら、先に行けないんじゃないかと心配したこともありました。父も母もどちらも子どもたちにはとても慕われていた良い教師だったと思います。

「『できるだけパターン化して効率よく対処できるのが教育のプロだ!』と言い切る、父の生き方がきらいだ!」という話を大学時代に友人に話したら、自らも教師の両親を持つ彼が「なんかそれ分かるような気がする。」と言っていたのを思い出します。医者になって、プロフェッショナルとは何かを考えるようになったとき、やはり気になるのはこの問題です。数をこなさなければならない日常の中で、いかに効率よく平等にしかも全員に満足いってもらえる「サービス」が与えられるかが、「プロフェッショナル」の条件であることは認めます。多人数を相手にする健診の現場では、それがもっと明確です。でも、相手にとっては常に一対一の対象です。健診の結果説明ひとつを取っても、全く違う人生背景と社会背景をかかえている各々を十把一括り扱いで相手することは、私にはどうもできそうにありません。

コストパフォーマンスが悪くても、必ずしも平等な対応をしていなくても、やっぱりわたしは母に似て、不器用な頼りにならないアドバイザーとして相手とともに悩むのが性に合っている気がします。

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手づくり

「今年は、忘年会はないの?」

うちのフィットネスの会員になっている義母が、急にそんなことを聞きました。そういえば、フィットネスセンターができた当時、会員さんとの親睦会を何度か企画しました。夏には温泉施設でバーベキュー大会、秋にはウオーキング大会、そして年の瀬にはボーリング大会や忘年会。ウオーキング大会は健診センター全体の行事に格上げされましたが、バーベキュー大会や忘年会は、会員数の増加とともに何となく消滅してしまいました。会員数を増やすという目的の意義が薄れてきたからだと聞いています。

とかく組織が大きくなって系統だってくると、そんな手づくりの取り組みは消えていくものなんでしょうね。アナログ(手づくり)の企画にはアットホームな心の表現があって、何事につけスマートにいかないけれど、でもとても好きでした。暗中模索の中に人間味がにじみ出てきて、問題にぶち当たったらこれも手づくりで解決策を練る姿って、とても健気でかっこいいなあと思っていました。

企画自体は、もっと健診センター全体の企画として盛大にかつスマートに生まれ変わっています。大成功だと思います。でも、やっぱりわたしはあのときの和気あいあいの忘年会がなつかしいです。

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デジタル時代のアナログ

健診を受けてみたらいわゆる「メタボ」に該当したため、うちのフィットネスジムで改善を試みるプログラムに取り組んだ皆さんの卒業試験が行われました。

その報告書の確認をしました。数字だけが並んでいる、とても味気ない報告書でした。良かったのか悪かったのか、頑張ったのか頑張りが足りないのかの「評価」がないのです。高い金を払って個別にべったり指導を受けるプログラムもありますが、それと違って集団で指導を受けるこのタイプのプログラムではこれが限界なのだと云われました。各々の生活に細かく入り込んでいないので詳しいアドバイスができない、できる人とできない人があると平等性に欠けるからしない、コメントを入れると人数が増えたときに対処できなくなる危険性があるから初めからしない・・・コストパフォーマンスとしての限界と平等性の維持のためだということは良くわかるのですが、やはり寂しい気がしました。機械的に準備されたサンプルをクリックしてコメント欄に入れる報告書もあります。無いよりはマシだけれど、形だけの年賀状みたいであまり好きになれません。

私だったら、きっと、可能な限り意地でも手書きで何か一言だけコメントを書き込むだろうな。デジタルだらけの流れの中にアナログがちょっと入り込んだだけで、一瞬にしてすべてが優しくなるように思います。もらった人が、初めてスタッフと一対一になった感覚になれると思います。毎年、わたしはそんな思いで年賀状に書き込みをしています。人数が増えて大変になったら、その時に考えたらいい。

「たしかにそうですね。ちょっと考えてみます。」・・・わたしの想いを聞いてくれたスタッフの一人がそう答えてくれました。その柔軟な答えに、ちょっと嬉しくなりました。

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糸こんにゃく

糖尿病になりやすい体質を持つ人は、物を食べた後に普通よりちょっと血糖値が高くなります。これを「食後高血糖」といい、このときに動脈硬化が進行していくのだということがわかってきました。ですから、この体質の人は、糖尿病になっていなくても日頃から血糖を跳ね上げないような食べ方をすることが大切です。Soyjoyは「低GI食品」が売りです。蕃爽麗茶のキャッチコピーは「食後の血糖の吸収を穏やかに!」です。いずれも、食後高血糖をターゲットにしています。世はそういう時代です。

というわけで、この体質の方に話をするときに、「要するに、『そこにあるスキヤキを全部食べてもいいよ』と云われたら、最初に肉にいってはダメ。まずは糸こんにゃくか野菜から手を出して、最後に肉にいってください、ということです!」と説明しています。

先日、久しぶりに家でスキヤキをしました。うちではスキヤキ奉行はいつも妻です。最近買った携帯型IH調理台に鉄釜を乗せてせっせと準備をしてくれました。美味しそうな臭いが漂ってきます。「もうそろそろいいわよ!」というので、箸と器を持って乗り出しました。・・・糸こんにゃくが、ない。「こんにゃくは?」と彼女の顔を見上げると、彼女の手には糸こんにゃくの袋。「こんにゃくはすぐ火が通るから、入れるのは最後でしょ!」と一蹴されました。そうかあ。現実的には、「最初に糸こんにゃくを!」なんて平気で云ってはいけないんだな、と反省した次第です。やむを得ず、春菊と豆腐を取りました。熱くて火傷しそうでした。でも、やっぱスキヤキは旨い!ビールも旨い!

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「眠らない冬眠」(後編)

「人間は冬眠しないシマリスだ」あるいは「リズムを忘れつつある動物だ」と前述の研究者は書いています。シマリスの冬眠システムのうち人間にないのは冬眠をうながす物質だけなのです。その他のパーツは全部揃っています。だから、ホルモンにリズムのうねりを作ってやれば人間も人工冬眠ができるかもしれないというのです。そうするとこの究極の健康管理システムによって、病気予防や老化防止ができるかもしれません。

でも、現代社会を生きる人間は逆にリズムをどんどん失っています。地球の異常気象によって四季の変化がなくなっているだけでなく、1年中同じ環境の中に生活するようになって、本来持っていたであろう体内の年間周期的リズムもなくなっています。生きていくための機能が退化していっている人間界では、人工冬眠の夢は遠いものになっていくのかもしれません。

ちなみに、クマがするのは冬眠ではありません。食うものがないのでエネルギーを使わないように「冬ごもり」をするのです。冬ごもりをしている間に体重が減りますが、なんと皮下脂肪しか減らず、筋肉や骨はきちんと維持されるそうです。人間が何ヶ月も食べずに寝ていたら筋肉がなくなり骨がスカスカになって、歩けなくなりますから、クマの冬ごもりにはまた全く違うメカニズムが存在しているんでしょう。調べていくとなかなか面白いことばかりです。

人生の3~4分の1は睡眠中です。「真夜中は別の顔」、どうせ別世界に生きるならステキな夜にしたいものです。

ところで、シマリスの冬眠研究をしている近藤宣昭氏たちのいる三菱化学生命科学研究所は2010年に解散する、というニュースを読みました。不況の煽りではありますが、何かもったいない気がします。

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「眠らない冬眠」(前編)

最近、寒いとすぐに眠くなります。うちにいる10歳半のワンコもこの季節は丸くなって良く眠ります。「寝る子は育つ!」と申しますが、安眠できるかどうか、睡眠の質の善し悪しが、生活習慣病や睡眠時無呼吸に関連するだけでなく、うつ病や老化にまで影響を与えるといわれています。

冬眠をする動物たちは総じて長生きです。たとえ冬眠中に大量の細菌や発ガン性物質にさらされても死にません。この期間に脳が一生懸命働いて、悪い方向に傾いた細胞の修復に専念するのだそうです。つまり、冬眠環境の下では究極の健康管理がなされていることになります。そのメカニズムを人間に応用できないかとシマリスを使って研究している日本のグループがあります。そのレポートによると、冬眠動物たちは寒くなって自分の体温が下がったから冬眠するのではなく、その季節になったら冬眠をうながす物質が自動的に血液中から脳の中に移動して、脳が全身を冬眠状態に誘(いざな)うのだそうです。そして、また時期が来たら今度はその物質が脳から血液中に出て来て冬眠から覚めるしくみです。そのリズムは気温の上下には関係しておらず、周期は常に一定しています。この物質が脳の中に大量にあるときに寒くなると冬眠します。逆に、もし大量にないときに体温を下げてしまったらたちまち死んでしまうといいます。さらにその物質の血液中の量を調整しているのが甲状腺ホルモン(チロキシン)。オタマジャクシをカエルに変態させるホルモンです。以前書いた体内時計のホルモン(BMAL1)もそうですが、自然界を生きていくための機能はカラクリ時計のように本当に精巧にできていると思います。ところが、環境はますます厳しくなり、異常気象が年々その乱れの度を増しています。冬眠動物のこの精巧なカラクリは、気候が乱れてくることで脆く壊れてしまいそうで心配です。

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「情けは人のためならず」

先日ある雑誌を読んでいて、国語学者の金田一秀穂先生のコラムがありました。

「残業をしていたら、『情けは人のためならず!』といって手伝ってくれる人とさっさと帰ってしまう人がいるのはなぜ?」・・・わたしは一瞬何のことか理解できませんでした。「情けをかけるのは、人のためではなく自分のため(自分の力)になる」という意味で手伝う人と、「情けをかけるとその人を甘やかすことになって結局その人のためにならない」から放ったらかして帰る人がいる。このことばの意味の正解は、前者。まあご多分に漏れずわたしも後者の意味で覚えていました。金田一先生は、その誤解云々を論じているのではなく、自分のやっていることに意味のないことなどありえず、存在が無意味などということはありえないのだということを書いていました。

「自分たちだけがどうしてこんなに朝早くから夜遅くまで病院のために働かなきゃいけないの?」と不満を漏らした看護師さんに、わたしの恩師H先生はいつも口癖のようにこう云っていました。「この努力は病院のためにするのではなく、自分のためにするのだよ。自分の力になり、将来必ず自分の財産になっているはず。その自分のための努力が結果として病院の成果になっているだけで、決して病院の犠牲になっていると考えてはいけないよ。」・・・このコラムを読みながら、そんな光景をふと思い出しました。

「前向きに生きる」(2008.5.28) 

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間違いさがし(その2)

もう一つ紹介します。

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妻 「ほらみてごらん!だから云ったでしょ!わたしはいつも『食べ過ぎだ』って注意するんですよ。でも全部食べてしまうんですよ、この人。」

夫 「人間がいやしいんでしょうね。もったいないので全部食べてしまいます・・・。」

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これはどうでしょう。ご夫婦一緒に健診結果を説明しているとよく聞く会話です。何が悪いのでしょう?

これはとても単純明快です。「作った奥さん」が悪い。「作ったものを全部人の前に出した奥さん」が悪い。目の前にいっぱい誘惑を並べておきながら、「残していいからね」とご託を並べられて残せるほど、日本人の心は甘くはありません。もし残せるとしても、どうせ嫌いなものしか残さないのは目に見えています。「『残す努力』よりも『作らない勇気』」です。そうはいってもねえ・・・と思っているあなた、まあ試しにやってみてください。大したことではありません。面白いですよ。

もっとも、「だって、作らないと『何かないんか?』『オレを殺す気か!』と怒り出してうるさいから、黙らせるために作るんですよ。」と裏事情を話してくれる奥さん。旦那はとてもバツが悪そうですが、この会話をしたことで、きっと何かが変わってくれるでしょう。もちろん、キツネとタヌキの化かし合いです。結局、お互いに相手のせいにすることで正当化している真実にあまり踏み入るとしっぺ返しを食らうので、苦笑いを誘った辺りでさっと話を変えることにしています。

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