« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »

2009年1月

般若心経

わたしの密かな人生の目標は「般若心経を理解すること」です。

15年くらい前から、本屋で分かりやすそうな本を見つけてきては読み漁ってきました。「色即是空、空即是色」・・・この世の全てのものは空であり、無である・・・理屈はそれなりに分かるのです。本に書いてあることも自分なりに理解できていると思いますし、納得できます。でも、実感としてどうしても理解できない。ピーンとくる感覚に出会えません。だから今ひとつ不満足なのです。

アタマ(理屈)で考えるから理解できないのでしょう。ある心臓病の患者さんに相談したら、「何度も写経をしてみたら見えてきますよ。まずは心を落ち着けて書いてみてください。」と云われました。友人が100円ショップでペン字の写経のノートを見つけて買ってきてくれました。なかなか墨と筆を準備する時間がとれませんが、ペンや鉛筆なら書けるかもしれないと思って仕事場のデスクに立てています。・・・が、結局まだ一頁も書いていません。これを書き始める心と体の準備ができたとき、次のステップに上がれるのかもしれないと思います。・・・ていうか、こんなことで屁理屈こねている自分には、結局まだまだその気がないんでしょう。数分で書ける事なのに、まだどうしても書き始める気になれないのです。

修行僧がそうであるように、理屈だけの頭でっかちでは絶対に覚れない世界がそこにはあるのだろうと思いました。これから徐々に経験値を積み重ねながら、生きている間に「あ。これか!」という気持ちになれたらいいかな。

| | コメント (0)

エンゼルメイク

「おくりびと」を観たのと時を同じくして、ある新聞にエンゼルメイクの話題が出ていました。「おたんこナース」で有名な作家小林光恵さんが最初に声を上げた「エンゼルメイク」は、「故人の尊厳を守るために家族や医療者で最期にふさわしい姿に身支度すること」だそうです。死の化粧用品を専門に扱う会社もあると聞いてちょっと驚きました。

エンゼルメイク、つまり「死化粧」ですが、私たちが医療現場で見てきたモノとは全く質が違います。病院で、「人間」から魂が抜ける瞬間を医者と一緒に経験するのがナースです。彼らには最後の仕事が残っています。昔から「エンゼルセット」というモノがありました。身体中の穴に詰め込む脱脂綿や綿棒、タオル、消毒液、縫合セット(注射でできた穴を塞ぐため)などが入った薄汚い箱がどこからともなくベッドサイドに準備され、男子禁制のカーテンの向こう側で殺伐とした儀式が行われてきました。付着した血液をきれいに洗い落とし、傷口に包帯を巻いて、新しい寝間着に着替えさせて「すっきり」した姿にしますが、そこにいるのはやはり「屍」でした。生前の元気だったころの面影はまったく見られず、病気と闘い抜いた成れの果てといった様相でした。

話題にしているエンゼルメイクは、まさしく「おくりびと」。しかもナースだけでなく家族と一緒に旅立ちの身支度をします。いかに綺麗にメイクしてあげられるかというだけでなく、家族と一緒に生前の思い出話をしながら、家族の心のケアを行うことの意義が大きいのだと思います。「故人の尊厳を守るため」といいながら、残された家人や医療者が後悔を残さないように満足のいく区切りをつける儀式なのでありましょう。

素晴らしい!と思いながら、一方でそれは医療の領域を越えていないか?という疑問が残らなくもないのであります・・・。

| | コメント (0)

死の儀式

救急医療に携わる者の宿命として、多くの死を見てきました。

世間の多くの人が死体を見て初めて死と対峙するのに対して、わたしたちはまさに魂が身体から抜けていく瞬間に立ち会うことになります。8割は病院で亡くなる現代、死を迎える人たちの死の瞬間は、身内の方よりも、わたしたち医療従事者が看取ることの方がはるかに多いのです。

死の瞬間、モニターの心拍の音が切れ、突然心電図が一直線になる・・・そんなドラマのようなことはまずありません。心臓は最後まできちんと拍動を続け、それが徐々に間隔を広げながらゆっくりと終焉を迎えるのです。まるでこの世から立ち去るのに忘れ物がないかカラダの隅々まで回って確認しているようです。最後に長年住み慣れた自分のカラダに「さよなら」を云って・・・命の終わりは、静かにゆっくりとやってきます。

ところが、救急医療の現場では、止まった心臓をもう一度呼び戻すために心肺蘇生術をします。ちょっと休んでいたり居眠りをしていた心臓なら、マッサージを受けるだけで目を覚まします。一方で、すでに魂はいないことを実感しながらも区切りの儀式のためにマッサージをしなければならないこともあります。寝耳に水の知らせに大慌てで駆けつけてきた家族に心の準備ができるまでの間、機械的に心臓を動かし続けるのです。

夜が白々と明けるころ、長時間のマッサージのために震える手で死亡診断書に字を書き込みながら、患者さんと関わってきた日々のいろいろが頭の中に浮かんでくると、知らず知らずのうちに涙があふれてきます。わたしほど、死亡診断書を書きながら泣いていた医者もいないかもしれません。「先生、また泣いてるよ」とあきれ顔のナースの顔が思い出されます。

| | コメント (0)

納棺師

遅ればせながら、映画館で「おくりびと」を見ました。魂の抜けてしまった抜け殻である遺体をキレイに祀り、艶やかにかつしめやかに送り出す儀式は、「愛おしい人と一緒に生きてきたことの想いを抱きながら、訣別のあいさつをする」、逝く人のためというよりは、残された者が自身の心の区切りをつけるための儀式だと思います。故人(の体)と対面するのは、多くの場合お葬式や通夜の席になるのでしょう。そこにあるモノにはすでに魂がないことは分かっています。生前の面影はすでになく、変わり果てた顔に死化粧を施し、「キレイにしてもらったね」とか「ありがとう」とか、かけがえのなかった存在に優しく最後の語り掛けをして、自分の心に別れの踏ん切りをつけるのです。

闘病生活を続けてきた母の最後の顔は、わたしの脳裏に残る母の顔=もっとふっくらとして静かに優しく微笑んでいる=とは似ても似つかない屍の顔でした。死後一週間たって少し腐乱しかけて見つかった父の身体は誰なのか半ば判明しにくい姿でした。突然死して数時間後の同僚の遺体と対面したときにも、若さを誇った彼の生前の面影は全く残っていませんでした。

「おくりびと」である本木君が施してくれる納棺のための儀式は、生前の姿を想像し、目の前の死体を生前の姿に戻してあげようとする作業です。あそこまでキレイに施した姿を目の当たりにするならば、おそらく残された者たちは今よりもっとたくさんの思い出を頭に浮かばせ、もっと多くを語りかけることができたでしょう。

死を忌み嫌う風土の中では蔑まれた職業と認識されるのもやむをえないかもしれませんが、死体を祀り上げる一方で死体を忌み嫌うということは、よく考えるととても矛盾したことです。「夫は、納棺師なんです」・・・最後に広末が堂々とそう語った姿をとても嬉しく感じました。

| | コメント (0)

パンデミック

40年以上起こっていない新型インフルエンザのパンデミック(世界的大流行)が、そろそろ起こるといわれてます。妻夫木君主演の「感染列島」は、まさしくそんなパンデミックの恐ろしさを具体的に表してくれている作品のようです。

わたしが産業医をしている企業の保健師さんが、「職員に新型インフルエンザに対する緊迫感がありません。衛生委員会で一言云ってください!」と訴えてきました。・・・でも、実はわたしもあまり重篤感を抱いていないんです。SARSが世界中を震撼させてからもう5年になります。その翌年も小さな流行がありましたが、そのままパンデミックになりませんでした。鳥インフルエンザからの変異が一番懸念されていますが、偶発的に起きるときの致死率が異常に高くても大流行したらそんなに高くならないだろうと云われています。これまで大流行しなかったのは、鳥インフルエンザ発生後の処置を速やかにしたからだと云われていますが、もしかしたらしなくても流行らなかったかもしれないという意見もあります。たしかに大流行するとみんなが寝込むので社会の産業(特にライフライン)が動かなくなる懸念や皆が病院に行って病院がパンクする懸念がありますから、やるべき手段(うがい、手洗い、マスクなどによる予防やワクチン、治療薬の備蓄など)はきちんとすべきだと思っています。

鳥インフルエンザ発症が確認されると、感染していないトリも併せて全部ひっくるめて処理される(殺される)ニュースを見るたびに、胸が痛くなります。トリ自身は何もやってないのに、人間の都合で大量虐殺されます。しかし、まるで外車の修理のように「商品の一括処理」をするような行為が、かえって自然のバランスを壊して、もっと激烈な変異を起す助けをしている危険性はないのでしょうか?

| | コメント (0)

できるかどうかではない!

ある健康プログラム会員の加入者が思うように増えないため、対策委員会を作って会議を開いたことがあります。わたしは委員長をしました。

何週間もかけてアタマを絞りました。若い人たちの柔軟な発想はとても面白く、感心することしきりでした。いくつかの独創的な意見のうち現実味のありそうなものをある程度具体的に取りまとめて担当の事務部門に提出しました。ところが、すぐに付き返されました。「無理!」の一言で・・・。さすがにあのときは、わたしも切れました。大の大人が、こんなに時間をかけて考えた末にこれなら頑張ればできそうだと判断したものを、上に上げる前に門前払いというのはいかがなものか。わたしは、門前払いをくらわしたその担当者と話をしに行きました。

「わたしたち対策委員会が提案したということは、『それができるのかどうか?』を聞きたいのではない。『することを前提にして、それをするために何をしたらいいのか?』を聞きたいだけなのだ。だから、具体的にその答をください!」・・・担当者は苦虫を噛み潰したような顔をしながら聞いていました。そして、「これだったらできないわけではない」という案を提案してくれました。「なんだ、やればできるじゃない!それを上に上げてくださいな」・・・そう彼に伝えて別れました。

あれからもうかれこれ2年。結局今も何も変わっていません。どこかで明らかに絶ち切れになっています。組織が大きくなるとフットワークが異常に重くなってしまいます。出てきた意見がとても前向きで素晴らしいものだっただけに、とても寂しく思いました。そして、それを何とかしてあげられなかった自分の力の無さに落胆しました。

| | コメント (0)

中性脂肪の正体

先日、医療雑誌に「非空腹時のトリグリセライド(中性脂肪)高値の人は脳卒中を起すリスクが上昇する」という記事が載っていました(JAMA 2008;300)。

トリグリセライド(TG)値、あるいは中性脂肪値が高くて悩んでいる人はとても多いはずです。太っている人だけでなく一見やせている人の中にも高い人はたくさんいます。ところで、この「中性脂肪」とは、一体どこにある何のことだかわかっていますか?中性脂肪とは、すなわち「脂」です。でも、お腹に付いた皮下脂肪や内臓脂肪などのことではありません。活動エネルギーとして血液の中に溶け出している脂です。体内に蓄えた脂肪から肝臓で分解されて血液中に出ています。ものを食べたあとにも食事から吸収したエネルギーがたくさん血液中を回りますから食後は高値になりますが、食後すぐに使わなければ脂肪細胞にして体内に蓄積させて血中から消えていくわけです。

トリグリセライド(中性脂肪)値が高いということは、使うために血液中に流したエネルギーが使われずに余っているということです。使う量が作る量よりはるかに少ないということに過ぎません。ですから減らすのは割合簡単です。なのに減らないのですから、使う量と作る量の差がどれだけ大きいか想像できます。中性脂肪がいつも血液中に溢れていると、一緒に回っている善玉コレステロールが使える形になれませんし、悪玉コレステロールが超悪玉に変わります。結果として動脈硬化を進めますし、直接急性膵炎を起す危険性を増すことにもなります。

普通は、食事の影響を除けるために空腹時に採血します。食べたらすぐに高値になるからです。でも、現代人の多くは空腹時がほとんどありません。冒頭の論文は、食事を取った後の中性脂肪値でもそれが異常に高い人は脳卒中になりやすい、と云っているのです。健全な代謝をしている人が食後でもあまり高くならず、いつも高い人がさらに高くなって減らないのは容易に想像できます。

| | コメント (0)

歩き始めの警告

ある男性が健康のためにウオーキングを始めました。歩き始めて数分すると必ずといっていいほど胸の妙な違和感が出てきます。でもあまり強くないのでそのまま歩いていると、そのうち症状は消えてしまいました。そして、その後は全くどうもありませんので、止めることなく毎日散歩を続けています。

こんなことを経験したことはありませんか?先週、健診を受けにきたある男性がそんな訴えをしました。すぐさま、わたしのアタマに若いころに受け持ったある患者さんのことが浮かびました。彼もほとんど同じような訴えで外来を受診し、精密検査をするために入院してきたのです。症状は大したことはなかったのに、精密検査の結果かなり重症の狭心症がみつかり、心臓のバイパス手術を受けることになりました。

心臓の筋肉を栄養する血管(冠動脈)が完全に詰まってしまうと普通は心筋梗塞になってしまい、突然死することもあります。ところが少しずつ狭くなっていくと、完全に詰まるまでの間に他の血管から助け舟の栄養血管が生まれて発達してきます。側副血行といいます。完全に詰まってもすぐさま側副血行を経て血液が送られてきて、心筋梗塞を起さずにすむことになります。ただ、側副血行は、幹線道路が土砂崩れのときに隣りの村から山越えして食料を運ぶようなものですので、運動などを始めたときにはきちんと栄養が送られるまでにちょっと時間がかかるのです。

これこそ「本当は怖い家庭の医学」・・・みんながみんなそうではありませんが、こんな症状に覚えのある人は、放っておかずに検査を受けることをお勧めします。

| | コメント (0)

健康診断個人票

ある会社の職員さんひとりひとりの健康診断個人票とやらに、職員健診の結果を書き写し、最後に「医師の診断」という小さな枠内に病名と判定のゴム印を押します。昨日わたしが書き込んだのは、あるタクシー会社職員の健康診断個人票でした。

「高血圧」-「要治療」、「高血糖」-「要再検」、「肝機能障害」「肥満」「脂質異常」「聴力障害」-「経過観察」・・・指定された枠よりはるかに多い病名が並べられる人がたくさん続きます。やむを得ず周りの枠を使ってゴム印を押しまくりました。みんなタクシーの運転手さんです。大丈夫かな?と心配になります(正直云って、道で手を挙げてこの会社のタクシーが寄ってきたら乗るのを止めようかな、とか思ってしまいそうです)。

労働安全衛生法に従って、従業員の健診を行い、それを管理するためにこの健康診断個人票は存在するのだと思うのですが、昼休みを返上して何人もデータを書き込みながら、こんな面倒くさい書き込みをする意味は本当にあるのかな?と思います。なぜなら、この個人票、たぶん私たちが書き込んだあとはただ大事に保管されているだけで、また1年後か半年後に出してきて私たちが書き込むだけの繰り返しです。会社に産業保健師がいるわけでもなく、結果を見ながら健康相談を受けるわけでもないのですから、実際は監査があったときに「ちゃんとやってます」という証のためにあるだけなんじゃないか、と疑います。

きっと、いい加減に押しても絶対見つからないよ!と、悪態をつきながらも、わたしは手をインクで青く汚しながら、真面目に黙々とゴム印を押すのです。・・・メタボ健診がきちんと作動したら、本当にこの人たちの生活は変れるのだろうか?

| | コメント (0)

リセット

昨年の忘年会で、少年隊の「君だけに」を踊りました。踊る機会を作ってもらい、一緒に踊ってくれたメンバーさんには心から感謝しています。

わたしが「復刻版『君だけに』を踊りたい」と口にし出したころ、わたしのココロは公私ともにかなりヘタっていました。時々やってくるうつ周期の中でもちょっと大きめの嵐がやってきていたころでした。こんなときには、じっと嵐の通り過ぎるのを待つのが常なのですが、何をするのも億劫な状態がいつまでも続きました。何かきっかけをつかみたい。現状をリセットさせて再出発したい。そう考えていたころでした。

そんなとき、6年前に、いい歳をした大の男たちがわざわざ休日を返上して一日中宴会芸の練習に打ち込んだことを思い出しました。傍からみればとても滑稽だったに違いありませんが、何事にも一生懸命打ち込んだときの達成感は、中途半端な心身状態にあるものをすっきりリセットさせてくれます。人間(少なくともわたしは)、人生の中に何か一生懸命に取り組めるものを見つけ出して、それを達成させたいという願望があります。その達成を周りが褒めてくれたら最高ですが、たとえ周りが認めてくれなくても人生の達成感は自分をたっぷりと満たしてくれましょう。小さな宴会芸の練習に打ち込むことがわたしの人生の取り組みであるはずはありません。でも、もう残り少なくなってきた自分の人生の中で、まだその人生をかける取り組みの何たるかがはっきりしていません。小さなリセットを何度も繰り返しながら、いざ大きなリセットの時期がきたときにたっぷり情熱を傾けられるように日々訓練しておきたいと思っております。

我武者羅に頑張る姿をみて、ちょっとポーズをつけて「くだらねえ」とか云ってみる年頃もありましたが、本当はいつでも頑張ってみたいんですよね。

| | コメント (0)

同窓会名簿

先週、ある印刷会社から、わたしの卒業した中学校の創立60周年記念同窓会名簿の発刊のお知らせが届きました。50周年記念の何じゃかんじゃがあってから、もう10年もたったんですね。月日のたつのは早いものです。

さて、「同窓会」というのは「卒業者」がその対象です。必ず○○年卒(第△期生)という括りです。よく考えるとそれなりに不思議な話です。3年間のうちの2年半を一緒に過ごしても3年生の秋に転校していったら、この人は同窓会メンバーには入らないのです。彼らにはこのお知らせハガキは送られて来ません。卒業後何年か毎に何らかの理由で消息確認をされますが、そんな人たちの消息は月日がたてばたつほど分からなくなり、同じクラスにそんな人が居たという記憶自体すら無くなっていくこともあります。在学中にあんなに仲が良かったのに・・・わたしたちの中学でも、途中で何人もの友人が通り過ぎていった気がしますが、正確にはもう定かではありません。わたしは当事者ではないのでよく分かりませんが、転出していった友人たちは、違う卒業者名簿を手にしながら、思い出のいくつかを消されていくような寂しさを感じているのではないのでしょうか。転勤族のお父さんがいると何校も渡り歩くことになります。あちこちに足跡を残しているように見えて、結果としていつの間にか自分の歴史は端からどんどん消えていっているのかもしれません。

同窓会名簿の話題が出てくる度に、一覧表に出てこない友人の名前を思い出すことがあります。顔は思い出すけど名前を思い出せないこともあります。みんな元気にしているのかしら?

| | コメント (0)

BOOCS理論

たまたま見つけた記事から「BOOCSダイエット」というのを知りました。九州大学の藤野武彦先生が提唱するものです。

基本はダイエット法ではなく、「脳疲労」。肥満の原因になるカロリーのアンバランスをもたらすものが脳疲労。過剰ストレスによる脳の処理能力オーバーが原因となって脳疲労を起こし、食欲中枢がおかしくなる、というものです(というふうに理解しました)。肥満の解消には脳疲労を癒すことが大切、とするこの理論に、変わり者のわたしは見事に食いつきました。早速、藤野先生の著書を3冊中古で注文したところです。

基本原則は「2原理3ルール」。

※2原理:●自分にとってキライなことはしない。●自分にとって快いことをする。

※3ルール:●たとえ健康によいことでも、キライなことは、決してしない。●たとえ健康に悪いこと(食べ物)でも、好きでたまらない場合は、とりあえず禁止しない。●快いことで、健康によいことをする(食べ物なら、健康によいものの中から好きなものを選んで満足いくまで楽しく食べる)。

ここまで読んで興味の出た方は、どうぞ本を買うか先生の講演会に行ってください。脳疲労の理論は肥満やメタボの問題だけでなく、うつ病子どもたちの健康に及ぶ真理のようなので、本が届くのを楽しみにしています。何か新しい発見があったら、またここでご報告します。

| | コメント (0)

低炭水化物食の台頭

一週間前に配信されてきた医学情報に、「低炭水化物食の糖尿病に対する効果」についての米国論文紹介とその解説が載っていました。

アトキンス博士の提唱する低炭水化物ダイエットの波紋は、紆余曲折ありながらも確実に世界中に広がっています。米国糖尿病学会では2007年に「低炭水化物食は肥満治療としては薦められない」としていたのに2008年には「短期間には有効である」と評価を変えました。効果が予想以上に強かったのでしょう。今回報告された米国デューク大学の研究は、2型糖尿病患者を低炭水化物食群とカロリー制限食群に分けて比較したものです。6ヶ月後まで真面目に続けた人が半数しかいなかった(特に低炭水化物食群は半分以下)ところに、煩悩と戦わなければならない食事療法の難しさが表れています。続けられた人たちだけを比較すると、2~3ヶ月の血糖コントロールの指標であるヘモグロビンA1cはカロリー制限食よりも低炭水化物食の方で多く改善しています。取ったカロリーは低炭水化物食群の方が多かったにもかかわらず。

私自身はまだあまりこの方法を薦める気にはなりません。日本人だからです。というか、ごはんをコーンやパスタと同等に扱うのが気に入りません。GI値でみると白米は血糖値とインスリン分泌量を確実に跳ね上げますが、それでもごはんだけはきちんと食べた方がいいと思う人間です。炭水化物はすぐにエネルギーに変わります。カラダを動かしさえすれば炭水化物の方が簡単に燃えるはずです。それでもその考え方を否定する気はありません。日本でも糖尿病治療に積極的に低炭水化物食を薦める先生が出てきました。うちの施設会員の糖尿病患者さんにも低炭水化物ダイエットの本を持ってこれを実践したいと切望する人がいました。まだまだ保守的な考え方の先生に潰されないように、その方法を薦めている内科の先生を紹介しました。

| | コメント (0)

高血圧治療ガイドライン2009

1月16日に「高血圧治療ガイドライン2009」が日本高血圧学会から発刊されました。

病気のガイドラインというのは、時代に合わせて数年ごとに改められます。2004年に改正されたときには「仮面高血圧」の考え方が加わりました。このときに「家庭血圧」を測ることがいかに大切かが示されました。健診や病院の血圧よりも自宅や職場の血圧が高い人が世の中にはたくさんいることが分かってきたからです。そして、家庭血圧135/85mmHg以上を高血圧症と定義されました。

ところが、高血圧の定義は決められましたが、じゃあいくつに下げたらいいのか(降圧目標値)が決められていませんでした。診察室血圧140/90mmHg以上を高血圧症といいますが、治療するときにはそれ以下にしておけばいいのではありません。他に病気がない人なら診察室血圧は130/85mmHgより低くすることを目標にすることになります。それと同じ様に、家庭血圧の降圧目標値を作らないと実際にクリニックの先生は患者さんに指導することができません。そこで、今回の新ガイドラインでは、家庭血圧の降圧目標値を125/85mmHgと定めてあります。どうです?凄いでしょう。いつの間にか世の中は、こんな低い値が血圧の基準になっているのです。

でも、家で自分で測る血圧にはそれなりにバラツキがありますし、測り方や血圧計の差がありますから、あまり細かすぎる数値基準を作っても意味はないような気がします。あくまでも大雑把な目安として考えた方が気が楽です。ま、とにかく、まずは自宅血圧や職場血圧を測ってみることが先ですね。

| | コメント (0)

「アタマの理想とカラダの理想」

昨年のうちに懺悔した通り、今回の職場の広報誌のコラムは、ここに書いた内容のツギハギになりました。ちょっと屈辱的ですが、まあこんなこともありましょうぞ。

********************************************

今日も今日とて、みんなそろってメタボとの戦いです。戦いはきっと難航していることでしょう。なぜ脂肪は思うほど簡単に減っていかないのでしょうか?ちょっと考えてみてください。「理想」とは何か?「余裕」とは何か?

アタマが考える「理想」とは、余分なエネルギーをできるだけ細胞から取り除いて体内の倉庫を空にすることです。いざとなったらいつでも入れられるスペースを空けていることが「余裕」です。一方、カラダが考える「理想」は、できるだけたくさんのエネルギーを細胞に充満させている状態です。いざとなったら何も食べなくても耐えていけるだけの在庫が倉庫に満たされていることこそが「余裕」です。つまり、アタマとカラダは全く逆の状態を理想だと考えているわけです。一つの個体が、いつもそんな二重支配状態にあるのだから、ことはそう簡単ではありません。会社のトップの意見が真っ向から対立していたら、あるいはチームの首脳陣のビジョンが全く違っていたら、社員や選手はきっと右往左往することでしょう。昔はほとんど飢餓状態の中にあって、貯められるときに貯めておくのが「理想」であり「余裕」だという点でアタマとカラダの意見はいつも一致していましたから、何ら問題はありませんでした。むしろアタマはいかに効率よく貯められるかを考え、カラダは実際に貯められる機能を完成させました。

アタマの方は現代社会が抱える飽食の状態の危機感をきちんと察知し、「これじゃイカン」と真面目に反省して、何とか社会に適応できる戦略を指示しようとしています。でも、カラダの方は飢餓状態のときの記憶が細胞内に脈々と生きているので、いつ襲ってくるかわからない危機的状態にいつも脅えています。急に天変地異が起きたら、あるいは山で遭難したらどうしようか。いつもそんなことを考えています。人類は、この2つの全く違う戦略感覚のシステムがあることによって絶滅することなく生き延びてこられたのだといわれています。

大きなメタボ腹をかかえた旦那さんが憂鬱な顔をして説明室から出ていきます。その後ろをなんら問題のなかった奥さんが優越感に浸りながら背中を押して付いていきます。日常の健診センターでは良く見かける光景です。世が世なら、確実に立場は逆転していただろうにと思うと、ちょっと旦那さんがかわいそうになります。そんな矛盾だらけの大きなハコをかかえて途方にくれている皆様。とても大変ですが、現代社会ではアタマとカラダの両方に納得いかせるのは到底不可能です。カラダに気付かれないように、そっとがんばってください。

| | コメント (0)

若いからこそ!

うちの施設では、健診結果の説明は当日の午後に行います。多人数に説明するので、どうしても問題ないところは省略したくなります。特に若い方々はほとんど異常値のない人が多く(当たり前ですけど)、サラサラっと終わるように心掛けてきました。

最近、食後高血糖が問題になっています。空腹時血糖が正常でも、モノを食べた後にだけ血糖が高く跳ね上がりすぎる人がいて、その度に動脈硬化が加速度を増して進行するのです。つまり、糖尿病にならなくても心筋梗塞になるかもしれません。ところが、健診では食べていないときの血糖しか計らないので、健診の結果を見てもその気があるかないかはわかりません。

健診の結果を説明するときに、わたしはそのことを必ず説明します。ただ、これまで他の結果に異常のない若い人には説明を省略していました。・・・でも、最近考え方を改めました。久山町の研究によると、今や男性の2人に1人はこの体質を持っています。糖尿病になっていない高齢者は今までの生活を続けていてもそんなに大したことにはなりませんが、若い人は違います。生まれたときからドクしか食っていない世代です。今痩せているとか、メタボでないとか、そういうことは何の関連もありません。誰にその体質があるかわからないのですから、できるだけ今のうちから健全な生き方をしておいてほしいのです。自分に異常があるかないか分からないのに摂生しろと云われてもなかなか難しい世代です。でも逆に、彼らはきちんと理屈を理解すると、ウソのように簡単に生活習慣を変えられる適応力があります。

これからの人生が長い若いときだからこそ、きちんと説明をしておきたいと考えています。

| | コメント (0)

オードリー春日の胸

「オードリー」というお笑いコンビが最近ブレイクしています。

「トゥース!」「オゥィ!」と自信過剰な態度で偉そうにしているのが春日くんです。野放しでほとんど勝手にしている風の春日を操りながら、突っ込み返しをしているのが若林くんです。通称「ズレ漫才」の世界を確立した彼らの舞台は、芋洗坂係長とともに、最近のわたしのツボです。

さて、ご他聞に漏れずわたしも年末年始のあいだにどうも太ってきた様子で、鏡に映るわたしの腹が醜く飛び出てきました。若い頃からどうしても猫背になってしまうわたしは、歳とともにすぐに下腹がだらしなく垂れてしまいます。洗面台の前で鏡をみながらポーズを取ってみました。胸を張って腹を引っ込めながら背筋を伸ばす姿をすると、それなりに見れないわけでもない姿に戻れます。ということは、この格好で歩き回ればいいわけです。腹を引っ込めながら背筋を伸ばしていれば、たしかにダイエットにもつながることは分かっています。

先週は、気が付けば必ず猫背になっているので、その都度胸の張り直しをしながら歩いておりました。そんな姿を窓ガラスなどで客観的に眺めてみると、どこかで見た感じのシルエットになっています。そうです!春日くんです!腕を広げて胸を無意味に張っている彼の姿に良く似ています。

若いからだを保つため、今日もアタマに春日くんの姿を思い浮かべながら廊下を闊歩しようと思います。

| | コメント (0)

なぜに自転車通勤?

「先生、なぜに今、自転車通勤なのですか?」

職員の一人に面と向かって尋ねられました。先日は、病院の看護部の幹部に「健康のために自転車通勤なんですね。さすがですね!」と云われました。わたしが自転車通勤を始めたのは昨年の秋です。1年以上前からいつかは始めたいと思っていましたが、買う自転車を決めることから始めなければならず、素人のわたしはなかなか踏み出しきれずに二の足を踏んでいました。

で、なんで始めたくなったんでしょう。健康のため?メタボ対策?・・・よく健康講話をするときに自転車通勤を始めたことをネタに使うことはありますが、最高の運動は「歩くこと」だと思っていますので、「健康のため」などというくだらない理由で高い金を払う気になるとは思えません(ただ、自転車というものがこんなに高いものだとは買ってみて初めて知りましたが)。「やせるために自転車通勤」は有効な手段だと思いますが、わたしにとってはあくまでも結果論です。エコ?ガソリン代が上がって、1年以上前から我が家の経済をかなり圧迫させ始めました。何しろサッカーシーズンになったら月に2回以上は大分まで往復します。その穴埋めのために通勤は自転車で?あるかもしれません。でも、きっとこれも始める強い理由ではなかったと思います。

妻に聞いてみました。「知らないわよ!」と一蹴されました。「でも、たしか『職場の誰かが自転車通勤してて、カッコいいからボクもしたいな』って云ってなかった?」とのこと。え~!そんなミーハーな理由なん?・・・結局、「なぜに自転車通勤?」の答は良くわかりません。いいんです、理由なんて。とにかく、クセになります!自転車通勤。

| | コメント (0)

伯父が亡くなりました。

先日、伯父が亡くなりました。満83歳の大往生だったと聞きました。

秋に長女をがんで亡くしたころから入院生活をしていました。元気だった頃、「自分より若い者が先に亡くなっていくのが辛い」と伯母にもらしていたと聞きます。若い頃からの喧嘩相手だったわたしの父親が亡くなったとき(基本的にうちの父のチャラチャラした自信有り気な態度に辟易していたみたい)には、長い間ふさぎ込んでいたそうです。

子どものころから可愛がってもらいました。哲学者のような人でした。とても無口な人でした。お宅に伺っても、2人でいるとほとんど無言のまま時が過ぎました。でも、ぽつぽつっと話すことばの中に優しさがこめられていることがわかります。山登りが好きだったということは告別式で初めて知りました。祭壇の写真も山登りのときのものでした。伯父についてのわたしのイメージは、タバコをくゆらせながらいつも本を読んでいる姿でした。優しい眼差しですが、芯が強くて自分の意見は絶対に曲げない頑固者でした。うちの父親と同様に、そんな性格を熟知した奥さんが居なかったら、こんなに円滑な人生は送れないであろう不器用な人だったと思います。そして、賢い彼はそんなことくらいしっかりわかってすっかり奥さんに頼っていたのだと思います。

わが子ががんの手術を受けたころから認知症になっていました。がんで亡くなったことはわかっていなかったかもしれません。「あれ?あんたなんでここに居るんかえ?」そんな会話を今頃天国でやっているのかもしれません。ご冥福を祈ります。

| | コメント (0)

膵尾部描出不良

新年早々から、いつもと変わらぬ多くの方が健診を受けに来られています。ありがたいことです。今年も、予防することの面白さと楽しさを多くの皆さんに伝える仕事に専念いたしましょう。

さて、健診の結果表にはときどき何のことかよくわからない所見を書かれることがあります。大した所見ではないのでわたしたちは説明を省略することが多く、一層何のことかわからないままになることが少なくないのではないでしょうか。たとえば、腹部超音波の所見に「膵尾部描出不良」というのがあります。漢字だらけのいかつい表現ですが、文字どおり、「膵臓の尻尾の部分(右端)があまり良く描出されていない」という意味です。でも、それって問題なの?問題じゃないの?わかりますか?膵臓は肝臓や胆のうの下奥の方に横たわっている小さな臓器です。小さい上に奥にあって目立たないので、膵臓がんを見つけにくく、見つかったときには手遅れだったということはめずらしくありません。それじゃあ、この「描出不良」というのは、「不良」だからまずいんじゃないか?そう思う人は少なくないでしょう。

でも、心配は要りません。「描出不良」は「上にいろんな邪魔なもの(筋肉や脂肪や肝臓や腸管ガスなど)があって良くみえない」という意味です。つまり「今回は、良く見えなかったので評価していません。見えんモノは知らん!」というただの覚え書きだと覚えておいて下ください。

| | コメント (1)

「ピエロが病院にやってきた」

昨夜、NHKBS1で「ピエロが病院にやってきた」という題名の番組を見ました。

ニューヨークで定期的にサーカス小屋を開く「ビッグアップルサーカス」はNPO団体です。このサーカス団の創始者の方が、サーカス興行と並行して行っているのが「クラウンケア」です。クラウンとは道化、だからピエロはクラウンを演じる人(道化師)です。サーカスは多くの人たち、特に多くの子どもたちを楽しませて暖かい気持ちにさせるのが目的です。一方、クラウンケアは病気を抱える子どもたちを喜ばせて癒されるようにピエロの姿で病院を訪問しています。単にピエロの姿で笑わせるだけではなく、心の不安を抱える家族や病院スタッフに癒しを与えることも目指しています。

ちょうど1年前(年賀状「ケアリングクラウン」2008.1.4)、演劇部の後輩Hの年賀状に「ケアリングクラウンの修行を始めました」とあったとき、わたしは初めてこの活動を知りました(ケアリングクラウンは子どもや病院に限定されず闘病中の大人や福祉施設などでも活動しています)。演劇をやっていたためか、昨年この活動の存在を知った後からずっと気になっていました。基本的に、健診の現場には闘病中の人は来ません。なのに、臨床医をしていたころよりはるかに今の方がこの活動に魅力を感じるのはなぜなのでしょう。病める人とこころのつながりを持てることへの憧れなのかもしれません。

1年前に年賀状をくれたH嬢、今年の年賀状にも「最近caring crownの修行を始めました」とまったく同じことを書いてました。あれあれ?と思いましたが、それでもまだ続けているんだな、と思うと嬉しくなりました。

| | コメント (0)

いのちの対話

鎌田實いのちの対話」が成人の日の1月12日(月)に放送されます(NHKラジオ第一9:05~11:50)。

「いのちの対話」は、NHKラジオで年に数回放送される特別番組です。諏訪中央病院の鎌田實先生がメインパーソナリティで、毎回、命に関わる対談が繰り広げられます。今回のテーマは「病気とつきあう」だそうです。多くのメールやFAXが寄せられてきます。

わたしが、わたしの尊敬するこの鎌田實先生のことを初めて知ったのは、数年前にたまたまラジオで聴いたこの番組でした。内容は忘れましたが、ラジオを聴きながらあるいは投稿のことばを聴きながら、わけもなくボロボロ涙をこぼしたのを覚えています。NHKであること、そしてほとんど聴くことのないラジオ番組であることを考えると、本当に偶然の(必然の)出会いだったのだと思っています。

今年の成人の日は全国的に寒い日になりそうです。ラジオを聴く時間がある方は、何をしていてもいいので是非とも聴いてみてください。

| | コメント (2)

あるとき突然やってくる。

それは本当に、あるとき突然始まりました。

半年くらい前でしょうか。ゴルフ場の昼食を途中で食べ疲れるようになりました。子どもの頃から「バキューム食い」が売りだったわたしには、それはショックなことでした。たしかにゴルフ場の食事は、どこも値段が高くて量が多くてしかも味が濃いのが普通です。昔のように気軽に生ビールを飲むわけにいかなくなり、しかも最近は若いお嬢さんゴルファーも増えたというのに、たしかにちょっと時代遅れかもしれません。ただ、少なくとも1年前にはそれを普通に食っていたのです。メタボ対策で日頃の食べる量は減らしましたが、それでも食べるときには食べていたのです。それが、本当にあるとき突然、「これはきつい」と思うようになりました。

「それを『老化』というんですよ。」・・・一緒に回っていた若い同伴者が笑いながらそう云いました。日々カラダを鍛えて暦年齢よりはるかに若い!と自負していたわたしは、「老化」ということばに見事に凹みました。そういえば白髪が増えたのもあるとき突然だった気がします。

前に書いたかもしれませんが、アンチエイジングの立場で考えると、人間のカラダはバランスで動いています。元気だったカラダのどこか一ヶ所にガタが来ると他の部分がそれを補うのではなく、その低下した機能に合わせてすべてを低下させてバランスをとるのだそうです。だから、「老化」は徐々に来るものではなく、あるとき突然やってくるのです!てことは、もしかして、すごくヤバイんじゃ?

| | コメント (0)

計画表

わたしは、段取りを立てること自体はキライではありません。というか、それなりの段取りを立てておかないと落ち着きません。待ち合わせが何時だから、何時に家を出て、そうすると何時に起きないといけないかな、などといつもアタマの中で考えています。「まあ、何とかなるさ」と口で云いながら、本心は気が気ではないのです。

若い頃は、まず必ず計画表を作りました。「夏休みの過ごし方の計画」は、作りはしますがそのまま実行できた試しはありません。でも、作らないと落ち着かないので必ず初日に作ります。作ること自体が楽しい作業で、好きです。「期末試験や中間試験の勉強計画」は、カレンダーを使って細かく書き込みました。きちんと予定通りにできるとそれだけで無性に嬉しかったものです。もっとも、それで成績が良かったかというと、それとこれとは別の話です。今の仕事になってからは「講演の準備計画書」や「学会準備の計画書」(つまり本番がいつだからこの日くらいから取りかかってこの日ぐらいには作り上げるなどのスケジュール決め)などがあります。いつも本番の1週間以上前には準備が整ってしまい、かえって本番のころには内容をすっかり忘れていたりしました。

そんな段取り屋のわたしの様相が、最近変わってきました。計画表を作るのが面倒くさくてたまりません。講演の準備にしても、数日後に本番なのにまだ何も始めていない、なんてことが珍しくなくなりました。今も、明日が〆切の原稿にまだ手を付けていません。どうも、この「面倒くさい」ということ自体が、老化の表れなのだと云われました。

でも、まあ、何とかなるでしょう(今回のは間違いなく「逃避」ですね)!

| | コメント (0)

段取り達人

1月4日(日)の朝に「カラダのキモチ(TBS)」というテレビ番組を観ました。

家一軒分の荷物をトラックに積み込ませると、新人の引越し業者さんの指示では45分かかりました。でも同じことを達人がするとその半分の時間で済んでしまいました。何が違うのかというと、トラックの荷台にすべてを詰め込んだ最終的な姿を具体的に「イメージ」できるかどうか、のようです。きっとわたしも、新人さんと同じようにとりあえず箱モノを運び出して奥から詰め込むことを考えます。でもそれでは定型でないものを入れるのに必ず死腔ができるのです。当たり前のことです。それをパズルでもはめ込むようにアタマの中で一旦きちんとシミュレーションして、一部の隙間もない形できれいにしまいこんでしまう達人の技(技というよりアタマの中)は、天才だ!と感心しました。

回り道をすることや無駄なことが大嫌いな人がいます。そういう人たちのアタマの中ではこんなシミュレーション作業が常時繰り広げられているのかもしれません。彼らは活発にアタマを使うことを楽しんでいるのでしょう。将棋や囲碁をしたらきっと得意なのでしょうね。でも、今のわたしはそんな人たちにあまり憧れません。わたしのような固くなった(今に始まった固さではないのですが)アタマの構造ではそんな作業は難しいですし、効率の良いスマートな生き方自体、もともと得意ではありません。でも、むしろあの新人さんのように、出したり入れたり試行錯誤しながら右往左往して、無駄な時間をかけて少しずつ形にしていく不器用な過程が、最近だんだん好きになってきました。

| | コメント (0)

正月の風景

元旦早々、早朝からゴルフに行くのが最近の習慣になりました。

行く途中、にぎりめしを買いにコンビニに寄ります。今年も、そこにはごく普通の朝のコンビニの風景がありました。そういえば5~6年前に初めて元旦ゴルフに行ったころには、元旦のこんな時間に開いているコンビニはありませんでした。夜中に初詣に行った連中はすでに布団の中で、巷には車も人も動物もほとんど動いていませんでした。ゴルフ場の食堂も開いていませんでしたから、みんな手弁当でしたし、中にはおせち料理を持ってきた輩もおりました。

この数年で、元旦の風景は明らかに変わったと思います。初売りが1月1日だという店もたくさんあります。レストランの多くは大晦日からぶっ続けに開いていますし、日頃の祝日と違うのはテレビ番組だけかもしれません。その一方で、年末には正月準備で商店街は毎年賑わっています。昔からずっと変わらない光景です。正月に火を使わないで済むように作りためる「おせち料理」は、今でも定番として各家に存在します。お正月の間に食べるであろうお菓子や飲み物も買い溜めます。おせちに飽きる2日の夜か3日の夜にはやっぱりカレーだな、と材料を買い込んでいます。

それなのに、なんと、元旦の昼には某ハンバーガーショップのドライブスルーに長蛇の列。夜には焼肉屋やファミレスが大混雑していました。凄いですね。あのおせち料理は、一体いつ食べるのかしら?買い溜めたお菓子はいつ食べるのかしら?

国民の8割が正月に太る、という理由が良く分かります。

| | コメント (0)

既往歴の記憶(後編)

人生の既往としての真実はたったひとつかもしれないけれど、でも終わった歴史はどうでもいいといえばどうでもいいことです。

ところが、話を聞こうとしている相手はそれを数字として記録に残さなければならないのでそれなりに必死のようです。話で聞く分には曖昧でもいいものが、文字として書く時点で記録になります。53歳を「54歳くらい」と書いても間違いではないけれど、「54歳」と書いたらウソになるのです。最近は電子カルテやパソコン管理が増えています。「54歳頃」は文字列ですが、「54」は数値です。そして、数値の方が文字列よりもはるかに管理し易いので年齢の欄は当然数値を入れるように設定されます。つまり、自ずと「53」なのか「54」なのかを決めてもらわないと入力自体ができないことになります。困ったものです。記録をスマートに管理するために、いい加減な記憶から無理矢理にひとつの数字を決められます。もしかしたら間違っているかもしれない数値が、まことしやかに自分の歴史を作り変える危険性があるのに、です。・・・生命保険に絡まない限り人生にとってどうでもいい事ではありますが(だからこそ)、明らかに本末転倒なことですよね。

最近は、インターネットのアンケートでも同様のことを経験します。買った車の年式は?とか今使っているパソコンを買った年は?とか。次を売るためのマーケッティングの意味が大きいことは容易に想像できますが、それでも「何年頃か?」ではなく「何年か?」の問いに「そんなこと覚えてるもんか!」とひとり突っ込みを入れながら、わたしの様に、その手の質問が出た瞬間に答えるのを止める人は少なくないのではないでしょうか?

| | コメント (0)

既往歴の記憶(前編)

「心筋梗塞になったのはおいくつの時ですか?」「あれは、50歳をちょっと越えとったなあ!」「で、何歳ですか?」「だけん、53歳か54歳くらいタイ!」「どっちですか?」「・・・」

まるで、「そんな大きな病気にかかっておきながらきちんと覚えていないなんて信じられない!」といわんばかりの顔で、看護師の若いお嬢さんは睨んできます。病院や健診では必ず「既往歴」の質問があります。これまでの人生で病気になったことはないか?それは何歳の時だったか?この歳になると少なからず病気の既往があるものです。ただ困るのは、これが何歳の時だったのかをどんどん忘れていくことです。東京で働いていた頃、マイコプラズマ肺炎で緊急入院しました。計算してみるときっと32歳か33歳だったと思いますが、定かではありません。高血圧で治療を始めたのは42か43歳頃だったと思いますが定かではありません。皆さんはいかがですか?あるいは、「禁煙したのは何歳の時からだったか?」そんなこと一々覚えていますか?覚えていても何の得もないことですのに。

若い人たちには、何を悩んでいるのかよく分からないかもしれません。人生の歴史が短い分覚えるべき項目があまりないということもありますが、昔の自分を考えても、若い頃には何でもきちんと覚えている自信がありました。何年何月のどんな日の出来事だったか、きちんと覚えていて当たり前でした。いつの間にか、覚えておくべきものを取捨選択しないと記憶のキャパが足りない歳になってきたってことでしょうか。

| | コメント (0)

入れ替えてみる。

年末に自宅の大掃除をしました。

掃除は日々やっておけば良い。年末は寒くて頑張りすぎると風邪を引くから掃除向きじゃない!と思いながら、結局は御用納めの後になってアタフタとする人生を何十年もやってきました。反省しても学習できない人生をここでも送っています。

わたしの大掃除は、モノを整理して要らないモノを捨てるのが主体です。斜めのモノを横に揃えるだけのこともあります。そんな中で、ひとつだけ楽しみにしている行動があります。そこいらに散らばっているモノを全部ひっくり返してから取捨選択をして元に戻していくのですが、全部を終えた後におもむろに総入れ替えをします。左右を入れ替えたり上下を入れ替えたり。洗面所の机上の配置も食卓の上の配置も自分の机や部屋の小物の配置もことごとく入れ替えます。決して「模様替え」ではありません。

日々使っているものを全部逆の配置にすると、もの凄く違和感があります。何も考えなくてもカラダが動いていた、その場所にあるべきものがなくて空振りをするのです。おもしろい!案の定、正月早々の朝の歯磨きから見事な空振りをしました。アタマを働かせていないとすぐにボケていきます。日常の生活の中に、ほんのわずかでもアタマを使う機会を作ってみました。

とかカッコいいことを書いてみましたが、実は「ちゃんと掃除したよ」という証のためにこっそりいじってみているだけの楽しみです。

| | コメント (0)

一生の不覚~酒の懺悔

正月早々からきたない話で恐縮です。

父親から酒飲みの血を引き継いで、ほとんど酒に飲まれることのない人生を歩んできました(はいはい。わたしがそう思っているだけです!)。外では自然にセーブしますが、不覚にもせっかくいただいたものをすべて吐いてしまった経験が2回あります。

人生最初の不覚は、大学入学後にあった出身高校の新入生歓迎コンパでした。下宿屋に帰ってからやらかしました。隣室の先輩方に「酔ってませんよぉ~」と酔っぱらいことばで絡みながらやらかしました。空いていた3畳の部屋に寝かされましたが、初めて飲んだ「白波」の臭いが(当時の白波は臭かったぁ)消えるにはかなりの日数がかかりましたし、1年間は白波の文字をみるだけで吐きそうでした。

次の不覚は、研修医で入局したときの歓迎会でした。勧められるままに飲んでいて急に催しました。何とかトイレまでがまん!と小走りしましたが、こらえきれずに途中でやらかしました。ちょうど吐いた目の前に教授がおられました。面目ない医者デビューになりました。それ以降「先生、お酒はほどほどにしなさいよ。」と云われ続けました。

家に帰った途端にグデングデンになるのは茶飯事ですが、外では平然とスマートに酒を飲むのをモットーとしております。遠い昔の失敗以来、地獄の想いは経験していません。吐かないけれど、上司のお宅にお年始に行って2年続けてベロンベロンになるまで飲んだのは、東京に住んでいたころのことです。最近は、すぐ口が回らなくなります。

新年早々、いただいた日本酒をちびちび飲みながら、そんなことを思いました。

| | コメント (0)

他人(ひと)を喜ばせる仕事

何を悩んでいたところで、何をあがいていたところで、かまうことなく粛々と新年は明けました。素晴らしいことだと思います。

昨日の大晦日の夜、テレビを見ながら、「他人を喜ばせる仕事」について考えました。

「医療は、究極のサービス業だと思います。」「おれはそうは思わないな!」・・・遠い昔、ある地方の公立病院に出向していたとき、副院長と鍋をつつきながら激論を交わしたことを思い出しました。「医療=サービス業」・・・それは医者としてのわたしを動かしてきた確固たる信念です。

医者の仕事とはなんだろうかと自分に問いかけると、わたしの答は割と簡単に出てきます。それは、「他人を喜ばせること」・・・生きていて良かった、あなたと出会って良かった、そう思っていただけるように仕事をするのが医者の仕事、きっとそう答えます。わたしたちは他人を喜ばせる仕事をして高いお金をいただいています。役者さんやお笑いの人たち、あるいは床屋さんや郵便屋さんもみんなそうだと思いますが、それが笑わせることであれ感動させることであれ、「他人を喜ばせる」ということがどれだけ難しいことか、もしかしたら医者がそのことを一番分かっていないのではないかと思うことがあります。そのことにずっと悩みもがきながら生きてきました。そのために勉強し、研修し、話し合い、工夫し、怒られ、落胆し、喜び、大いに泣きました。

いつまで医者をしているかわかりませんが、良い人生の選択だったと思っています。さあ今年はどんな形で喜んでもらえる仕事ができるでしょうか。楽しみです。

| | コメント (0)

« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »