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みぞれ。そして光。(後編)

納棺夫の青木さんが何度も見たという「光」。何億年も前からいのちをつなげてきた卵をかかえて竹と竹の間を弱々しく飛んでいる糸とんぼに生命を感じ、腐乱死体のあった部屋の中を逃げまどう蛆たちの一匹一匹に生命を感じたとき、それが光って見えたという。多くの故人たちが、死を覚悟したときに世の中が突然明るく光って見えたという。

そして、親鸞上人がいう『仏は不可思議光如来なり、如来は光なり』という明快な説明。

その「光」を、理屈で理解しようとしてもさほど意味をもたないのだとわかりました。わたしが般若心経にとらわれ、それを理解したいと切望しながらもなかなか到達感を感じないのは、努力が足りないこともありますが、まだわたしがこの「光」を経験するときにないからでしょう。ふと思い出した光景があります。半年前、14年一緒だった愛犬が静かに息を引き取りました。母の死にも父の死にも立ち会えなかったわたしですが、彼が倒れてから7日間、時間の許す限り寄り添うことができました。最初に倒れた日に一緒にソファに寄り添って夜明けを迎えたときと、最期の朝を迎える前夜、暗闇の中で意識の遠のいた彼のカラダの中から魂が抜けたり戻ったりしている奇妙な感覚を覚えながら、彼のカラダがぼわっと仄白く光っていたような気がしました。

ここでいう「光」はそんなあやふやなものではなく、あのときはちょうど白々と明けようとする朝の光だったのであり、あるいは近くにあった熱帯魚の水槽の光だったのかもしれません。ただ、あのときにいつまでも流れた涙は、寂しさや悲しさではなく、何か感動と感謝に満ち溢れていました。そのことを、今もう一度思い出させてもらえたことに感謝して、再び熱いものを感じています。

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