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死をみつめる。(前編)

最後にもうひとつだけ「納棺夫日記」について書きます。

『今日の医療機関は、死について考える余地さえ与えない。』・・・医療従事者として、この文章もまたとても深くて厳しい真理だと思いました。

『死に直面した患者にとって、冷たい機器の中で一人ぼっちで死と対峙するようにセットされる。しかし、結局は死について思うことも、誰かにアドバイスを受けることもなく、死を迎えることになる。誰かに相談しようと思っても、返ってくる言葉は「がんばって」のくり返しである。朝から晩まで、猛烈会社の営業部のように「がんばって」とくり返される。親族が来て「がんばって」と言い、見舞い客が来て「がんばって」と言い、その間に看護婦が時々覗いては「がんばって」となる。』『集中治療室などに入れられれば、面会も許されないから「がんばって」もないが、無数のゴム管やコードで機器や計器につながれ、死を受け入れて光の世界に彷徨しようとすると、ナースセンターの監視計器にすぐ感知され、バタバタと走ってきた看護婦や医師によって注射をうたれたり、頬をぱたぱた叩かれたりするのである。折角楽しく見ていたテレビ画面のチャンネルを無断で変えられるようなものである。<生命を救う>という絶対的な大義名分に支えられた<生>の思想が、現代医学を我がもの顔ではびこらせ、過去に人間が最も大切にしていたものを、その死の瞬間においてさえ奪い去ってゆこうとする。美しい死に方どころでないのである。』

手厳しいけれど、自らの「死」を想像したとき、「まさしくその通りだ!」と賛同の拍手を送りたいと思いました。救急医療の現場はまさしく生か死かであり、生死をひとつの流れの中に位置させて死に行く過程を考えることなど考えている余裕はありません。それはホスピスの終末医療とは違うから当たり前だと思っていたけれど、よくよく考えてみれば、その思い込みはやはり<生>の思想に他なりません。

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