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詩人。

『・・・詩人とは、悲しい存在なのである。雨でもなく雪でもない<みぞれ>というものがあるように、覚者でもなく普通の人でもない詩人というものがある。親鸞もまた、自分は僧ともいえず、俗ともいえず、どちらともいえないあやふやな存在であると自覚し、愚禿親鸞と名乗って、・・(中略)・・と、己の中途半端な姿を正直にのべなければならないほど、誠実な悲しい存在であった。親鸞も道元も、そして良寛も、偉大な良き人は、みんな詩人でもあった。』

「納棺夫日記」第三章<ひかりといのち>を読んでいて、突然フリーズしました。「詩人」・・・忽ちわたしのこころをとらえて離さないことばになりました。続きを読みながら、魂がどんどん惹きつけられていくのです。『詩人は、その詩作品とは裏腹に、決して美しいといえる生き様ではなく幸せといえるような生涯は見当たらない。物への執着がなく、そのくせ力もないのに人への思いやりや優しさが目立ち、生存競争の中では何をやっても敗者となり、純粋で美しいものに憧れながら、愛欲や酒に醜く溺れ、死を見つめているわりに異常に生に執着したりする。言葉でいっていることのわりに、やっていることはお粗末で、世に疎まれながら生きている。そんな詩人に共通の生涯を辿る理由が<光>ではないかと言うのです。あの<光>に出会うと、生への執着が希薄になり、同時に死への恐怖も薄らぎ、安らかな清らかな気持ちとなり、すべてを許す気持ちとなり、思いやりの気持ちがいっぱいとなって、あらゆるものへの感謝の気持ちがあふれでる状態となる。』

・・・わたしの憧れとする生き様が、まさしくそこに書き記されているような気がしました。医者は天職ではないだろうという感覚に襲われ始めた最近のわたしは、医者ともいえず、かといって普通の人でもない、あやふやな感覚の中に浮遊しています。「詩人」の生き様をこれから体現できる権利が、もしかしたらわたしにはあるのかもしれないと思いました。

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