« 詩人。 | トップページ | 死をみつめる。(前編) »

悟るということ。

『悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた』

増補改訂版の「納棺夫日記」には、本文の後に「『納棺夫日記』を著して」という文章が加えられていました。その冒頭に紹介された、正岡子規(『病牀六尺』)のこの一節もまた、わたしのココロに衝撃を与えました。わたしも、いつでも平気で死ねるようになることが悟るということだ、と信じていた者のひとりだったからです。むしろ「悟り」を開いたらその瞬間がこの世からの卒業のとき、親鸞の云う「光如来に出会って<死即仏>となる」ときだと思っていたのです。

突然、余命を宣告されたときに、こころを乱さずに死を迎える準備ができることが「悟り」ではなく、平然と日々を有意義に過ごせることが「悟り」・・・そうかもしれません。今想像してみても、前者ならわたしにもできるかもしれないけれど、後者は今のわたしには到底できるとは思えません。どこかの禅僧の半端な修行など屁の突っ張りにもならないことも簡単に想像できます。

死に往く人たちが皆穏和な顔になり、皆「ありがとう」という感謝の念に満たされていることをわたしも以前から感じていました。どんな苦しい思いをした死に方であっても、もはやその向こうには生も死もないきれいな青空の空間が広がっているのでしょう。きっとそこは素晴らしいところなんだろうな、と思います。それを思えば、死に往くことなどたやすいことでありますが、やはりこれは「悟り」とは違うものなのでしょう。というより、「悟り」がどうだこうだと、そんなことにこだわっていること自体に大した意味などないのだろうと思います。

|

« 詩人。 | トップページ | 死をみつめる。(前編) »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 詩人。 | トップページ | 死をみつめる。(前編) »