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臓器移植(後編)

そこには、お互いの子どもの「生きる(生かす)可能性」と「生きる(生かす)権利」がぶつかり合っています。親のエゴや切実で複雑な願いが入っています。もちろん、「死」とは何か、「生」とは何かという生命の尊厳を突きつめる重い場ではありますが、そんな哲学的な問題云々よりも前に、何よりも「我が子」。とにかく「我が子」を何が何でも幸せにさせたい。そのためにはどんなことでもしてあげたい。親のその思いは、場合によっては怨念のような激しいエネルギーに化けてしまうかもしれません。ひとつの「命」の奪い合いです。そこにあるのはまさしく修羅場です。

拡張型心筋症の募金について書いた時にも言及しましたが、皮肉にも、すべては「臓器移植が実現可能になった」がために生まれた軋轢(あつれき)です。エコ運動のリユースと同じ次元で語られる話ではありません。それは生命への冒涜(ぼうとく)なのかもしれませんが、臓器移植はごく普通の概念として皆の頭の中にインプットされています。「臓器移植は夢のまた夢」といわれていた時代には、それはそれで皆のこころの準備はできていました。あるいは「外国でないと移植はできない」と限定されればその可能性は限られていました。でもその足かせがなくなってしまいそうです。・・・不幸にして臓器奇形で生まれてきた我が子がいます。親は自分を責めます。罪の意識に耐えながら悶々として生きてきました。今、消えてしまいそうなその命さえ我が子に分けてもらえるなら・・・選択肢が増えてしまった分だけ、迷い、悩まなければならないことになるのだと思います。

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