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2009年6月

「シ」と「ツ」

阿蘇路を運転中、「超安値、ラキー!」という手書きの文字を見かけました。

「ツ」を「シ」と書いてしまう人をみると、心からもったいないと思います。その人に最初に「シ」と「ツ」を教えた人がいけないのだと思います。もしや、教えた人自体が何も分かっていないのかもしれません。彼らは、「シ」と「ツ」の違いは最後の「ノ」を上から下ろすか下から上げるかの差だけだと勘違いしています。だから件(くだん)の「ラキー!」も、単に字が下手なだけだと思っているのではないでしょうか。でも、「シ」と「ツ」は決定的に別物です。この二つにはとても簡単な決め事があります。それができていなければ、「」は「ッ」にはなれない。至極当たり前のことです。

「シ」と「ツ」の違いは、ひらがなを思い浮かべれば理解できます(多くの場合、ひらがなはカタカナの後にできました)。「シ」は「し」なのですから、長短三本の棒を縦に並べ(左端揃え)て初めて「シ」なのであり、「し」を書くのと同じ様に最後に右上に跳ね上げます。「し」を書くときにアタマに点をうつことがありますが、それが「シ」の第一画の点と同じです。同じように「ツ」は「つ」なのですから、三本を横に並べ(上端揃え)て初めて「ツ」であって、「つ」を書くように最後に右上から下に跳ねるのです。

覚えてしまえば簡単なことで、そんなことでこんなくどい文章を書くのもどうかとは思いますが、大したことではないけれど、大したことではないからこそ、大人はこどもたちにきちんとした日本語を教えてあげてほしいと思いました。

そんなことを考えながら運転しているうちに、ふと気づくとすでに県境を越えていました。

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消えていくことばとキー入力

最近、ボキャブラリーの減少に拍車がかかった気がします。思いの外、わたしの脳細胞の消えゆく速度は速いようです。何かを話そうとするとき、あるいはこのブログを書こうとするとき、もっとしゃれた表現をしたいのに出てきません。きっと1年前にはもっとたくさんのことばがボロボロと浮かんでいました。分かり易い云い方を探しているのに、なんかこの辺(アタマの片隅)にあるモヤモヤしたものがはっきりしません。メガネかコンタクトをはめたらスパッと見えそうな、まるで白内障の目のような、そんなモヤモヤで一杯になります。結局、「まあ良いか」と諦めてしまうからいけないのかもしれません。

明らかにここ数ヶ月、パソコンキーの打ち間違いが多くなりました。さほど小さくもない職場のデスクトップのキーボードでも、もちろん携帯電話の小さなキーでも、何度も間違っては打ち直すことをくり返します。同じ間違いを二度も三度もくり返す場合も少なくありません。「手の感覚がおかしくなるのは老化の表れなんだよ」と云われました。微妙な位置がずれてしまうのでしょう。はいはい、老化現象です。分かっています。

もっと本や活字を読むといいのでしょうか?昔やったDSの脳トレをもう一度始めてみましょうか?漢字検定の勉強をしていたころは漢字を毎日書くだけでもアタマがスッキリしました。そんな、いろいろな賦活方法をまた始めておかないとアタマからこぼれ落ちていく脳細胞は歯止めがつかないのでしょう。・・・でも、わかってるのに面倒くさくてできなくなったのは、そのこと自体がもはや末期症状かも・・・。

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モー娘。

わたしの仕事は、心臓ドックや生活習慣病の指導など、特殊な検査結果を説明したり、個別の生活指導をしたりすることです。みっちり説明をしたあとに、話した内容をすべて報告書に記入します。他に仕事はたくさんあるのだから、記入はそのあとにしてほしい、という空気が流れている中で、わたしは、それを説明のすぐあとにします。

なぜなら、すぐに忘れるからです。一人が終わって次の一人に話をしているうちに、一人目の人に何を話したかすっかり忘れています。簡単なメモをとってみたこともありますが、結局書こうとした時点ではそのメモを見ても今ひとつ思い出せません。だから、たとえどんなに顰蹙(ひんしゅく)を買っても、その場で書き上げることにしています。

他の部門を担当している若いスタッフは皆さんあとでまとめて書きます。数日前のコメントをメモを頼りにさらさらと書けている若い人たちは、凄い!と思います。まあわたしにもたしかにそんなときがありましたから、歳をとっただけなのでしょう。

ほんの十数年前、わたしは大好きな「モー娘。」のメンバーを初代から全員ソラで云えました。なのに今はまったく区別が付きません。ゴマキが入ったあと、わたしの識別能力は、石川・吉澤・辻・加護が加わったときまでです。今も似たようなかわいらしいお嬢さんがたくさん並んでいますがどれがどれか良く分かりません・・・お前らに特徴がないんだ!と思うことにしていますが、きっと10年前のわたしだったら簡単に区別できたに違いないのです。

名前を覚えられないだけで、何かものすごく損をしているような気がしてなりません。

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夢と云えば。

大学時代に一緒に演劇をしていた連中が、今も東京で芝居を続けています。昨年、新しい集団にリニューアルして頑張っています。

最近まで、そんな彼らの芝居本番の舞台に自分が立っている夢をときどき見ていました。まったく台詞を覚えた記憶なんかありません。練習した記憶すらありません。でも、たぶん、もうすぐ自分の台詞の順が来るはずです。かなり長い台詞だったような気がします。・・・場面はいつもそんな同じシチュエーションです。でも、わたしは全然焦っていません。台詞覚えした記憶もなければ話の筋もよく分からないのだけれど、友人である演出家が自分を使ってくれたことが嬉しいのか、あるいは仲間と一緒に舞台に立っているのが嬉しいのか、なんかワクワクしています。きっと、その番が来たら勝手に口が動いて勝手に台詞が出る、という確信があるのです。そういえば役者をやっていたころは何かそんな自信に溢れていました。

今から試験を始めます。という夢もときどき見ます。わたしは大学生のようです。演劇ばかりしていて授業をよくさぼったので、この教科の授業に出た記憶なんかありません。もちろん教科書を開いた記憶もありません。試験用紙が配られてきました。もうすぐ試験が始まります。参ったな、何にもしてないのに・・・と思いながら、まるで開き直っているかのように落ち着いています。きっと、何とかなるさと思っています。今までもそうやってきたような気がします。

小心者で神経質なわたしですが、こんな夢を見るところをみると、意外に強気で脳天気なのかもしれません。でも、ここ1年くらい、こういう夢を見なくなりました。

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大雨

年に数回、洪水の夢を見ます。

大雨の中、いつもの道を自家用車で走っています。辺りの田圃はもはや池のように水で溢れそうです。進んでいくうちに徐々に道は水に沈んでいきます。ふと前方をみると、もはや道は田圃との区別ができないほどに冠水しており、車を止めてしばし途方に暮れて立ちつくすことになります。「どうしよう。今ならまだ無理したら何とか向こうまで行きつけるかもしれない。でもどんどんカサが増えてきているみたいだから、もしかしたら流されるかもしれない。かといって小さな農免道路の一本道だからUターンすらできないし・・・。」不安でアタマが一杯になりながら、何気なく後ろを見回してみました。何と!!わたしの後ろは断崖絶壁に変わりその向こうは大荒れの海になっています。いつの間にか、自分だけが取り残されているのです。

夢判断の知識が何もありませんが、どうも良い夢ではなさそうだということは分かります。何者かに追われる夢もよく見ます。拳銃を持っているので捕まったら殺されそうで、住宅街の路地裏や家の中を走って逃げまどうのです。わたしの子どものころの実家の辺りや中学校の通学路辺りがよく舞台になっています。

かなり追いつめられているねえ、とそれを聞きながらある人が云いました。ストレスの表れであることは明らか・・・病んでるねえ、と。そうなのかもしれないな、とそれなりに納得します。そうだとすると、何となく解決できているからそれはそれで良いのかもしれません。洪水に車ごと巻き込まれてしまったことはありませんし、追われて捕まって殺されたことはまだありませんから(あ、一回だけ殺されました。完全に血の気が引きました。死ぬってこんな感じだったんだと思いました・・・あれは、別の意味で怖かった)。

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ひと違い

先日、ある中年の女性が宿泊ドックを受診しました。検査の判読をしているときにたまたまその女性の名前をみつけました。私の知人である開業医の奥さんの名前です。数年前から毎年ご夫婦で受診してくれていました。「あれ、今日奥さんだけ受診するという連絡はなかったんだけど・・・」と思いながらも、住んでいる小さな町の名前も年齢からしてもまず間違いなさそうでした。

ふと目に入った検査情報をみて驚きました。大きな腫瘍がみつかっています。おそらく早々に手術が必要になりそうなものです。今まで何も異常はなかったのに・・・とても心配になりました。ですから担当の専門医に詳しい話を聞きに行きました。あまり良くない所見のようです。・・・何と説明してあげたらいいのだろうかと思案しながら、翌朝、結果説明のために彼女を診察室に呼びました。静かに入ってきた女性は、わたしが想像していた人とはまったく別人でした。同姓同名で、住んでいる町も同じでしたが、まったく違う人でした。「えっ?」と一瞬絶句しましたが、何食わぬ顔をして淡々と結果の説明を済ませました。

後日、話を聞きに行った担当ドクターにひと違いだったことを告げに行ったら、彼はすでに紹介状にドクターの奥さんだと書いて渡してしまったと云います。大慌てで病院に訂正の連絡をとったり・・・大変恐縮いたしました。今回は大事に至りませんでしたが、反省しきりです。わたしは、当人を確認することなく自分の知り合いだと思い込み、事を大きくしてしまいました。たとえすぐに訂正したとしても、誤った情報はこうやって誤りと誤解のままにまことしやかにあちこちに伝わって、とんでもないことになってしまうのでしょう。以後気をつけましょう。

でも、当事者には申し訳ありませんが、全くの別人でホッとしたのも事実です。

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クレアチニンと筋肉

「血中クレアチニン」といえば腎機能を表す物質として有名です。腎臓で濾過されておしっこに出て行くものなので、血液中にクレアチンが多く残っているほど腎機能は低下していることになるのです。ところで、もともと筋肉中の「クレアチン」が代謝して「クレアチニン」になるので、当然筋肉量に比例してクレアチニンは増加します。若いマッチョの方が高いですし、男性の方が女性より高くなるのが普通です。

先日の第52回日本糖尿病学会で「血清クレアチニン低値は2型糖尿病の発症リスクである」という発表がありました(The Kansai Healthcare Study: 大阪市立大針田伸子先生)。40~55歳の糖尿病でない男性のうち、登録時にクレアチニン値2.0mg/dl未満だった人を4年間追跡した研究です。その結果、クレアチニン値が低ければ低いほど糖尿病になる率が有意に上昇したというものです。つまり、筋肉が少ない人ほどクレアチニン値が低くなるのであり、それは基礎代謝量の低下や運動不足の表れだから糖尿病悪化の誘因になる、という考察でした。

至極当然のように書いてきましたが、実は正直なところ、まったく想像だにしていなかった話題なので驚きました。クレアチニンは高値なほど危険なのであり、糖尿病が悪化すれば腎機能が悪くなるのであるからクレアチニン値は上昇するもの。クレアチニン値が低い、などということは臨床上には何ら病的意義はないものだと思ってきました。またひとつ勉強になりました。

「歳をとると腎機能が低下するかわりに筋肉量も低下するから、クレアチニン値は相殺されて年齢が上がっても変わらない」という理論を読みながら、「なるほど」と簡単に納得してしまいましたが、それって、本当に正しいのかしら?

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うるさい

庭の草刈りをしていましたら、隣りの家から子犬の鳴き声が聞こえていました。ずっと鳴きやみません。すると、ご主人の声がします。「うるさい!」・・・それでも鳴きやみません。さらにもっと大きく鳴いています。「うるさいでしょ!!」・・・もっと大きな奥さんの苛立った声が聞こえてきました。

聞きながら、ほとんどうちの家と同じ光景だなと思いました。いつもは静かなのに散歩の準備を始めるとまったく聞く耳を持たずに大騒ぎで吠え続ける11歳のワンと、朝早くから起きろ起きろと鳴きながら大騒ぎする生後半年のワンとに、夫婦で何度も「うるさい!」と大声を出すのが日常でした。

わたしは、そんな光景が急に滑稽でみっともないと感じ始めて、意識して「うるさい」ということばをつかわないようにしました。「うるさい」は、自分の苛立ちをただ犬にぶつけているだけです。そしてそれに応じてくれないことにさらに腹を立てているだけです。大声を上げて怒っている姿が傍に聞こえるのは、そんな自分の苛立ちを皆に見せているだけのような気がしました。「怒ってもしょうがないから」と、吠えても無視することにしました。ワンたちは大騒ぎで吠え続けます。「うるさいでしょ!」妻の大声が聞こえます。そんな喧騒の中、ぐっとガマンを続けていたわたしですが、突然プチンと切れました。スリッパを投げつけ、首根っこを掴んでガンをつけます。一瞬静かになりました。が、またさっきより激しい大騒ぎが始まりました。・・・自己嫌悪です。

今どきのおかあさんが、あるいは若いおとうさんが、小さな我が子をなぐりつけ虐待する姿、あるいはノイローゼになるおかあさん。思うようにいかずに突然「切れる」大人たちの感覚がまさしくこんな感じなんだろう、とそう思いました。

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歯磨きで菌血症

感染性心内膜炎という病気があります。細菌が心内膜に感染して、命に関わることのある病気です。細菌が心臓の弁膜について増殖してしまったら、いぼ状の塊になって(疣贅=ゆうぜい)急性心不全になることもあり、あるいは菌の塊が脳などの臓器に飛んで詰まってしまったり(塞栓症)、もはや手術などの治療でしか解決しないことにもなりかねません。

と、書いてみたところで、おそらくこれを読んでいる大部分の人が他人事だと思っていると思います。でも、循環器の病院にいますとさほど稀なものでもありません。必ずしも心臓に病気を持っている人だけがかかるとは限らないのです。虫歯や歯槽膿漏を放置しているとずっと菌が体内を回っています。菌血症といいます。これが弁膜に付着して心不全になって入院するというパターンは2年に一人くらいは経験しました。だから、うちの病院の心臓外科医は自分の虫歯治療を最優先で済ますように指導されていました。

菌血症というのは、わりと簡単に起きます。物理的なキズが粘膜につけば菌は簡単に入ります。虫歯治療自体でももちろん菌血症を作ります。だから抗生剤を処方されたりするのです。普通は抵抗力が強いから病気に発症しないだけのことだと思った方が良いでしょう。さて、今回の題名の意味がお分かりでしょうか?そうです。毎日する歯磨きでも菌血症は起こるのであり、感染性心内膜炎のリスクになりうるのです。1回の歯磨きで菌血症になる危険性は低いかもしれないけれど、年に1、2回するかしないかの歯科治療より、むしろ毎日2回も3回もこまめにする歯磨きの方が菌血症になるリスクは高くなってもおかしくはない、ということになります。

だからといって、歯磨きをさぼりませんように。一過性の菌血症を恐れていてもしょうがありません。むしろしっかりと健全な生活をして菌に勝てる体力を保つことが大切だといえるでしょう。

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かがやく

もうひとつだけ「風花病棟」(帚木蓬生・新潮社)から。

「宮田さんが言っとりましたよ。わしは最後によか主治医に会うたと」・・・(中略)・・・大学での一年目の指導医の教えを忠実に守ったに過ぎない。面接で話題がなくなったら、本人が一番輝いていた時期のことを聞く。そうすれば、治療は決して悪い方にはいかない-。~精神科医としてアルコール病棟の医師となり、病棟の主のような患者(宮田さん)とのこころの交流を描いた作品=「かがやく」の一節です。

とかく医者は自分に必要なこと、あるいは自分に興味のあることしか聴こうとしません。時間がないということもあります。精神科の場合は十分な時間をとって患者さんと面接をするのが常ですが、それでも話題を振ろうとするときにはどうしても診療に直接関係ある情報を得ようとするものです。そんな中で、「本人が一番輝いていた時期のことを聞く」というのはとても素晴らしい考え方だと思いました。

わたしが「医者」だったころ、わたしも良く診療と関係ないことを聞いていました(カルテメモ)が、あれは相手が話したことをメモしたにすぎません。病院に来たら病気のことを聞いてほしいのだと意気込んでくる患者さんも多いですが、それでも診療にあまり関係ない釣りの話や孫の話をしているときの方がはるかに良い顔をしていました。わたしは精神科医ではありませんが、あの気の毒そうに(待っている患者さんが多いことを知っているので)そっと話す患者さんのこころからの笑顔を引き出せたことはいいことだったと自負しています。

帚木蓬生の「風花病棟」は、1年に1編だけ小説新潮に掲載されてきた、医師を主人公にした短編小説集です。舞台が九州であるものがほとんどだということも親近感を覚え、一気に読み終えました。

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泣ける医者でありたい

「医者になって十年、なんとか患者の気持を汲み取れる治療者になろうとして努力してきたが、二つはなかなかひとつにならなかった。所詮医師は建物の中にいて、雨に濡れる患者を眺める存在だった。たまに雨の中に出て来ても、目だけしかあいていないようなレインコートで重装備し、雨に濡れないようになっていた。」・・・自らが乳がんになり不安の中で治療を続ける女医を描いた小説「雨に濡れて」(帚木蓬生「風花病棟」・新潮社)の最後に書かれた一節です。

「その通りだな」と思いました。

わたしもまた泣き虫医者でした。受け持ちの患者さんが亡くなって、心臓マッサージで震える手で死亡診断書を書きながら何度嗚咽したかわかりません。一緒に戦って、一緒に一喜一憂してきた戦友が居なくなった悔しさと、彼らを侵した病気と運命への憤りでした。医者としての知識や技術を大して持ち合わせていないわたしは、患者さんの気持ちになれる医者、患者さんのココロを代弁できる医者でありたいと思ってきました。同じ状態をみるとき、患者さんの目と医療者の目ではまったく違うところに焦点があり、まったく違う価値観にあることを知っています。手を握って座って話をするとか、服の着替えを手伝うとか、「そんなことは医者のすることではないからやめなさい」「もっとプライドを持ちなさい」と云われ、「くだらない」と吐き捨てたことがあります。自分は医療者である前に人間として患者さんと向かい合いたいのだと主張していましたが、でも詰まるところ自分の自己満足でしかないのだと思います。患者さんの友人であり身内であるのと同じような意識で患者さんを思おうとしていても、所詮は他人であり、所詮は「先生にはわからないよ」ということなのだと思います。

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お葬式に出る

「主治医が葬式や通夜に顔を出すと、何かやましいことがあるのではと勘ぐられる。だからよしたほうがいいと、たいていの医者は思っている。とんでもない誤解だ。家族からは感謝され、こちらの気持にもふんぎりがつく」

帚木蓬生(ははきぎほうせい)の「風花病棟」(新潮社)という短編小説集を読んでいます。その中にある「藤籠」という小説の中の一節です。少なくともわたしが働いてきた環境の中には、葬儀への参列をタブー視する風潮はありませんでした。ただ、受け持ち患者が亡くなったとしても、その居なくなったベッドにはすぐに次の重症患者さんが入り、次の患者さんと死闘を繰り広げることになるのです。平日に礼服を着て葬儀に参列する時間がもらえることは稀でした。

心停止を起こして救急車で担ぎ込まれるたびに生き返っていたIさんは、うちの自宅のすぐ近くに住んでいました。そのIさんが他の病院で亡くなりました。救急で近くの病院に担ぎ込まれて、うちの病院への転院を希望したいと奥さんから電話で相談を受けましたが、移送できるような状態ではありませんでした。仕事から帰ってから通夜に行きました。もう10年近く前のことです。奥さんは今も元気で一人暮らしをしています。

新聞のおくやみ欄を見ていて、外来で受け持っている患者さんの突然の死を知ることもあります。驚きます。Mさんはちょうど日曜だったので、大急ぎで斎場に行きました。奥さんをうちの病院で殺されたと云い、医者も看護師も信用できんと云いながら、なぜかわたしとはウマがあった爺ちゃんでした。いつも車椅子を押してくれていた付き添い婦の女性がわたしを見つけるなり駆け寄ってきて号泣しました。もうちょっと早く見つけたら助かったかもしれない、と自分を責めました。わたしは静かに合掌させていただきました。わたしもまた、わたし自身の区切りをつけるための参列だったかもしれません。

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突然の死

妻の中学校時代の友人の母が昨日の未明に亡くなりました。肺がんでした。

ほんの2週間前まで、元気にガーデニングをしていたという70代半ばの女性でした。その友人の父親は長い闘病の末に正月に亡くなったばかりで、母子2人暮らしなって半年後のことでした。

数日前、妻にメールが届きました。母親が入院したこと。ちょっと腰が痛いと云って病院を受診したらそのまま入院になり、肺がんであることを告げられたこと。すでに全身に転移していたこと。組織型を確認するために気管支鏡検査をする予定だったが急速に悪化して結局検査もできないままになったこと。何がなんだかわからないこと。

医療関係者ではない彼女にとって、この2週間の出来事は何一つ理解できることではなかっただろうと思います。最愛の人がある日突然入院して、何を考える時間もないままに意識がなくなり、みるみる危篤状態になって、何も話せないままに何の心の整理もできないままに逝ってしまったことを、きちんと受け入れるのは大変だろうと思います。それでも、ほんの数日間だけでも時間があったことは、何はともあれ彼女には大切な時間だったことでしょう。そういえば、7年前に亡くなったわたしの父は、わたしの知らない間に(というより誰も知らない間に)一人で逝ってしまっていました。わたしが何も知らずに普通に生活していた同じときに、父は一人この世を去っていったのだと思うと、たとえ受け入れがたい突然の別れであっても、きっと彼女の方があるいは彼女の母親の方がきちんと区切りができただろうと思います。

通夜、葬儀から法要まで一人でやりくりすることになるであろう彼女が、ゆっくりとご両親と改めて対話できる日は、かなり先になることでしょう。ご冥福を祈ります。合掌。

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飽きてきた

どうもいけません。

あなたのやりたいことはないの?と聞かれても、今、浮かべることができません。きっと数年前だったらあったのかもしれません。おぼろげながら夢を語ることができたような気がします。でも、ここ1、2年で一気に失せてしまいました。仕事も人生も、なんかどうでもいいや、という気分になることがあります。それは若いときからときどきありましたが、最近ちょっと多くなってきているような気がして気がかりです。

「たばこをやめましょう」キャンペーンの講話を頼まれました。「メタボリックシンドローム予防」の講師も頼まれました。毎年のことです。ただ、今年はなんかあまり気乗りがしません。なぜかあまり興味が湧きません。飽きちゃったといってもいいのかもしれません。自分が興味が湧かないことについて話をするのは、それなりに辛いことだと思います。学校の先生や講演行脚をする皆さんは、たしかにそれが飯の種だからと云っても、やっぱり偉いなあと思います。まったく気乗りがしないときも体調が今ひとつのときも同じことを同じように話して回らなければなりません。自慢ではありませんが、わたしは、同じテーマの話を3回続けるなら3回とも内容を変えないと続けられません。話している自分が飽きてしまうからです。本物の話のプロは、まったく同じ内容と同じことばを3回も5回も10回も続けられるようでなければならないのだと聞いたことがあります。それでなければ、相手に感動を与えることはできないのだ、と。相手に感動を与え続けることは、わたしには到底できない芸当だなあと最近痛感します。

さ、グチはこれくらいにして、そろそろ講演の準備を始めなければ・・・。

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ヨーヨーダイエット

抗加齢医学会の学会誌にアメリカの専門医テリー・グロスマン先生(コロラド州立医科大学)の「減量最前線」という記事が載っています(Vol.5No.1 069)。

一定の体重を減らすまで「ダイエット」を行った後それ以前の食習慣に戻ることでリバウンドし、それをくり返すのは「ヨーヨー」のようなサイクルだということで「ヨーヨーダイエット」というのだそうです。世のダイエットを試みる多くの皆さんが陥るヨーヨーダイエットからどう脱却するか?

グロスマン先生は「永続的に減量を行うための唯一の方法は、長い間続けることが可能な食習慣をみにつけることだ」といい、ガイドラインを示しております。1.減量を達成したかのように食べる。2.腹八分まで食べる。3.健康的な一人前の分量を決める。4.規則的な時間・回数で食事をする。5.カロリーの種類。6.減量のために炭水化物を削減する。

もっともなことが書かれていてあまり興味がなかったのですが、そのうち「すでに減量を達成したかのような食べ方をする」はちょっと面白いと思いました。つまり、すでに自分の目標の体重に到達した場合に必要と思われるカロリーを初めから摂取する、というのです。90kgの体重を70kgまで減量したいと考えたとき、普通は、20kgを○ヶ月で減らすためには最低何カロリーの食事制限と何カロリー消費する運動を・・・と考えて頑張ります。これは、そうではなくて、今現在70kgの人がそれを維持するために摂っているカロリー量を今から摂る食習慣にするのです。今はあまり運動をしていないけれど将来それなりに運動すると決めたなら、それを考慮してそういう生活をしている70kgの人の食べ方を今からするのです。それって、できそうな気がします。もちろんすぐに成果は出ないかもしれませんが、ずっとするつもりの生活を今から習慣付けるだけですのであまり無理がないように思います。これからの指導に取り入れてみようかと思います。

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何か食べられないものはありますか?

先日、友人に誘われて夫婦で焼き肉を食べに行きました。注文をし終わった後で、店のお嬢さんが「何か食べられないものはありますか?」と聞きました。「それはアレルギーのことですか?」さすがに焼き肉屋でそんな質問を受けたことがなかったので妻はそう質問しました。「それでしたら、エビ、イカ、カニ、タコは食べられません」・・・そう答えられて、メモしていたお嬢さんもちょっと緊張気味でした。

最近、食物アレルギーに対する考慮をしてくれる店が増えてきました。ただ、「アレルギーのある方は店員に伝えてください」と店内に表示した上で客から申し出るのと、わざわざ店の方から個別に「アレルギーはありますか?」と聞いてくるのとでは、責任が違ってくるように思います。もちろん、聞いたからと云って、「アレルギーを考慮して食材を変えます」とは云ってないわけですが、うちの妻のようにエキスやだし汁が入っていただけでのアレルギーが起きるニンゲンは世にたくさんいますので、聞かれないで食べたら自己責任ですが、聞いておいてアレルギーが起きたら、それは店の責任になるのではないかと気になりました。

うちの施設にもレストランがあります。健診受診者のみなさんに問診で「食べ物のアレルギーはないですか」とこちらから聞くかどうかで揉めています。相手から「アレルギーがあるのだが考慮できますか」と聞かれたらできる範囲で対処する、というくらいで良いのではないか、という話に落ち着きそうです。こういう情報は知ってしまったら何もしないわけにはいかないからです。できるなら、できるだけ知らない方がいい。知らないで居たいのです。

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初心に戻る。

「初心に戻る。」・・・「云うは易し、されどするは難し」の典型のようなことばです。

健診センターで健康増進に関わるようになって、他人に云うことだからまず自分で試してみようと思ってやってみたことはたくさんあります。

昼休みに運動をする。食卓に並べる夕食のおかずを半分にする。晩酌の酒をコップ一杯にする。月水金禁酒(宴会を除く)にする。宅配の夕食材料サービスを使う。職場にエレベーターは存在しないと考える(階段だけを使う)。自転車通勤する。朝食を食べない。スーパーやコンビニに車で行かない。仕事帰りにコンビニに寄らない。酒やお菓子の買いだめをしない。禁煙する。1時間半以内で時間があるなら歩いて帰る・・・などなど。そのまま続けてやれていることと、とっくに止めたことなど、いろいろあります。

おかげで見事に体重が10kg減り、筋力と心肺機能がアップし、バスケットボールができるカラダになり、中性脂肪が正常化し、HDL(善玉)コレステロールが跳ね上がり、内臓脂肪が減少し、そして脂肪肝がすっかりなくなりました。

最近、そんな栄光のカラダとは何か違う物体がわたしを包んでいます。自分で試したのだから、やったことをもう一度頑張ればそれなりの効果はあるに違いありません。でもそのためには、常に自分を律し、「決めたことだから頑張る」という信念を維持しなければなりません。当時は面白かったのでやれました。でも、一度達成できると、ニンゲンは弱くなる動物なのだということを悟っています。同じことをするのはちっとも面白くないのです。かなりのモチベーションがないと、同じことをもう一度するなんて考えられません。なぜなら、成功しても当たり前で、上手くいかないと自分がダメだから、とそう感じるに決まっているからです。

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さだまさし

わたしの尊敬する鎌田実先生のブログ「なげださない」の6月6日の記事にあった、さだまさしのシングルCD「私は犬になりたい490円」を買いました。本当に490円でした。

大学生のころ、さだまさしの歌が大好きでした。「現実味がなくて、女々しくて、ことば遊びばかりして歌を弄(もてあそ)んでいるようなやつなんか大嫌いだ!」と、吉田拓郎に傾倒していたクラブの先輩から云い放たれました。直線的な吉田拓郎や長渕剛も好きでしたが、さだまさしの、その女々しいくらいの繊細な表現力がもっと好きでした。今のように、CDやMDやipodやなどというものの時代ではなく、レコードプレーヤーも持たなかったので、カセットテープに録音したり音楽テープを買ったりしてアルバム全曲を聞いていました。失恋したときには、聞いていると涙がこぼれてくるので全部捨てようかと思いましたが、さだまさしとわたしの失恋は関係がないので、もったいないと思い、下宿の押入の隅に仕舞い込みました。

おとなになって、いつの間にかさだまさしを卒業しましたが、アルバムの中の数曲をいまだに口ずさむことがあります。あの繊細な詩からは想像できないくらいの彼の大雑把さと、わたしにないケセラセラの感じが、妙にわたしの興味をくすぐります。

「私は犬になりたい」を早速聴いてみたら、聴いたことのある曲でした。ソフトバンクのホワイト学割のCMソングとしてテレビで流れているからです。簡単にダウンロードできるのにわざわざCD買ったんですか?と云われました。買いましたよ。それが、何か?

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塩のこと(後編)

減塩に対して必ず言い訳されることば、あるいは数人の知識人が口にすることば、「塩分がないと力が入らないから減らせない(減らすべきでない)」というのは、少なくとも高血圧患者にとってはウソだと思います。アタマがそう発しているのですが、実際には減らしても力は入ります。慣れてしまえばどうということはありません。ただ、糖尿病の人がカロリー不足だと云いたげにカラダをワナワナさせて危険そうな主張をするのと同じように、高血圧のカラダは塩分をできるだけ多く体内に入れさせようとします。

高血圧ではない人にとっては減塩は危険かもしれませんが、高血圧の人は元々塩分が少なくても生き延びてきた遺伝子なのですから、大丈夫です。でも、不安だから、きっと限界まで減らすことはできません。それが遺伝子です。「減塩1g/日で血圧1mmHgが減少し、国民全体が2mmHg低下したら循環器疾患で死亡する人数が年間で2万人減るのです。」と三浦先生は減塩の必要性を語りますが、みんながみんな減塩して平均点を下げてもしょうがないと思います。高血圧の人、あるいは高血圧の家族歴の人だけが減塩すればいいのですが、その人たちこそが減塩できないのです。高血圧症のわたしは自分をみていればすぐにわかります。デザートのケーキに何も興味が湧きませんが、漬け物を食卓に並べておけばなくなるまでボリボリ食ってしまいます。

6g/日未満に塩分制限すると有意に降圧できるという欧米のガイドラインに準じて日本でも高血圧患者の食塩摂取目標値を6g/日未満に定めました。白人さんは元々塩辛いのが苦手です。昔から摂っている塩分量がとても多い日本人に同じ基準で減塩を指示しても実現はむずかしいに決まっています。これもまた、高血圧でない人にはわかりますまい。

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塩のこと(前編)

日経メディカル特別号(2009.6)に「日本人の減塩はむずかしい」という内容の解説がありました(滋賀医科大学三浦克之先生)。日本人の平均食塩摂取量が2007年も2003年も1988年も大差ないというのです。日本人の脳卒中が著しく低下した理由は、厳格な高血圧管理がなされるようになったからだと云われています。これだけ高血圧と塩分の関連が取り沙汰され、日本中で減塩指導が厳しくされはじめて久しい中、高血圧管理がしっかりしてきた理由が減塩によるものだと思っていたら、単にさっさと内服をするようになっただけだということなのでしょうか。

わたしの実感では、もうちょっと減塩が進んでいると思っていました。たしかにメタボ騒動で、減量や糖分や脂肪分のことばかりが取り沙汰されて、減塩だけが置き去りにされる傾向はありますが、それでも減塩対策の食品やナトリウムを吐き出す食品がたくさんCMされていますから。

現代の日本人の減塩が進まない理由には、日本人の食事が外食と加工食品にまみれているからだと三浦先生は指摘していました。外食や加工食品に塩分が多いのは明らかです。塩分量を増やすと水分吸着量が増えて文字通り「水増し」されること、塩気はクセになるので塩辛くした方が多く売れること、さらに喉が渇けば飲料水も多く売れることなど、商売する上では減塩食なんか売っちゃまずいのです。最近、外で食事を摂ると、「うえっ、塩っ辛え!」と思うことが多くなりました。歳のせいだと思っていましたが、実際塩分が多くなっているのかもしれません。一方で塩分だらけの食べ物を食べ、一方でいくつものサプリメントを口にする、日本人は不思議な国民になってきました。

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やせるために運動!は考えない方がいいと思う。

「毎日イヌの散歩を1時間以上して、さらに仕事場に自転車通勤しているのに、どうしてやせないの?」・・・うちの妻がぼそっと云いました。「食べてるからでしょ?」と無造作に答えたら不機嫌になりました。やせないのだったら運動なんかしたくないのでしょうが、わたしにそんなグチを云われても・・・。とくに女性は女性ホルモンで支配されていますから、運動だけでやせるつもりならアスリートのような日々を送らなければむずかしいし、ずっと続けない限り必ずリバウンドします。さらに、うちの妻の家系は生粋の糖尿病家系です。この世代のこんな家系の女性にとって、体重が「増えない」ということが即ち「勝ち」だと思うのですが、そんなことでは本人が納得しません。

どうせ、運動だけをしたってやせはしませんが、彼女は数年前、フィットネスジムに通うと同時に食事に注意して、カッコいいやせ方をしました。それまではまったく歩けなかったし運動してもまったく汗を出せなかったのですが、今では近くに行くときには必ず歩くか自転車を選びますし、運動でちゃんと汗が出るようになりました。運動を始めたおかげだと思います。ただ、それを経験したために過去の栄光に浸りすぎ、またあのときのような運動を再開すればまたあのときのようにやせられると思っています。

リバウンドするくらいなら初めから太ったままの方が長生きする、というアメリカのデータはかなり説得力があります。つい油断してやせてしまった。カラダにとっては一生の不覚です。もう二度とやせさせないようにしよう!とカラダは誓うのです。せっかく運動の楽しさを経験したのだから、そして「運動欲がない」動物でありながら今でも運動することを続けているのですから、やせるとかやせないとかそんなことにこだわらなくても良いのではないかとひそかに思います。

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やっぱり朝食は要らない

健康のために朝食を摂らないようになって久しいのですが、何とかしてちゃんと朝を食べさせようとする妻が、弁当のおかずの残りで朝食の体裁を整えて「食べない?」と食卓に並べることがあります。一週間ほど前、何となくお腹が空いていたので、それを食べて出勤しました。そうしたら翌日から毎日朝食が出るようになりました。時々職場に着いてからサンドイッチを買うこともあるのだから、まあ良いかなと思って、それに甘んじることにしてみました。

ところが、数日続けてみましたが、どうも体調がよろしくありません。以前は朝9時頃から湧いてきていた空腹感がまったくなく、そのまま昼食の時間になっても腹が減らず、それでも持ってきた小さなお弁当を食べないわけにいかないので完食。昼下がりに無性に眠くなり、夕方になっても何かが腹に溜まっている感じ・・・そして夕食。

朝、ちょっと食べただけで、ここまで「空腹感」がなくなってしまうとは思いませんでした。そのせいか、何か一日中からだが重く、かえっていつも満たされない感じになります。慣れていないだけだろうかとも思いましたが、よく考えたら、朝食を摂らなければ解決することですからそれを止めればいいわけです。わたしのからだを心配してせっかく料理を作ってくれる妻には申し訳ないが、また朝食を摂らない生活に戻ることにしました。

「空腹感」を感じられないとこんなに辛い、ということを体感できたのは、収穫でした。「心地よい空腹感」は、ニンゲンがニンゲンとして生きていく上でとても大切なことだということが良く分かりました。

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卒業アルバム

先日、高校時代の友人に、同級生のことで質問を受けました。

「竹中のKくんの頭はチリチリだったっけ?」「Tくんという名前の人は高校時代の同級生に居たっけ?」・・・お互いに何とも心許ない記憶を辿り合ってみましたが、おぼろげなモヤは一向に晴れる気配がありません。わたしは自宅の書棚の一番下隅に仕舞っておいた高校時代の卒業アルバムを取り出してみました。「Kくんの頭はチリチリではなくてウエーブのかかったロングヘア」「Tくんはたしかに同じクラスの同級生として卒業している」・・・疑問の確認はできました。

そのまま、ん~十年の長い時の流れを遡(さかのぼ)り、当時はまだ白黒写真だった卒業アルバムをしばらくパラパラとめくっておりました。写真をみるとどれもほとんど見覚えがあります。なつかしい顔ぶれです。でも、写真の下に書かれた名前にまったく見覚えがない、そんな御仁が何人もおりました。「こいつそんな名前だったっけ?」という感じです。記憶のキャパが年齢とともに小さくなって、新しい記憶が入るたびに古い不要な記憶がポロンと転げ落ちるのだなと納得しましたが、結局最後まで数人の名前には記憶のかけらも残っていませんでした。ま、どうせ会うことはないからそれでもいいかなと思ってページをめくりました。

それにしても、みんな若い。何といっても、このシャープなあごの線とつるつるの肌。美人さんは私の記憶以上にさらに美人に、そうでない方も思いの外それなりに、古い白黒写真でも18歳の若い肌が手に取るように分かります。地デジに対応できるのはこんな肌だけだわ、としみじみ思いました。

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下手な説明

先日、職場で会議がありました。

「この件については委員の一人である○○さんに簡単に説明してもらいましょう。」

司会者がある若者を指名しました。その若者の説明にしっかり耳を傾けて聴いていたのですが、最初から最後まで、まったく理解できませんでした。・・・「さっぱり、意味分かんねえよ!」とこころの中で舌打ちして、そのまま聞き流すことにしました。

すると、ある男性が手を上げました。「ちょっと話をまとめてみていいですか?つまり、今の話は、こうこうこういうことで、こうすることになったと、そういう意味でいいのですか?」・・・彼は自分のことばで見事にまとめてくれました。それを聞きながら、「なるほど、そういう意味か!」とわたしのこころを晴れやかにしてくれました。話したことを簡単に要約するのは、本来は司会者の仕事です。でも司会者は前もって内容をわかっていますので、みんなが理解したと思ったのでしょう。彼は話を次に進めようとしていましたから。

こんなことは、きっと大したことではありません。でも、どうでもいいからこんなやつの話なんか聞き流そうと思った私は、きちんと話を整理してその場のみんなの意識を一つにさせた一人の男性の姿勢に感謝しました。わたしだったら、「おまえの言い方じゃ分かんねえんだよ!」と云ったでしょう。彼がそんなことを云わずにそっとサポートしたことで、発表した若者は傷つきませんでした。会議において、一人の人間が分かり良い説明をするかしないかということはどうでも良いことです。でも、みんなの意識が同じ見識で一致できるかどうかが全てですから、こういう心配りがさらっとできる人が組織に居るかどうかということが、とても大きなことだと思います。

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意味が分からん!

先日、あるお詫びの文書をうちの施設で発行しました。本来もっと早期に送らなければならない書類の発送が遅れたことについてのお詫びです。発送書類に添付して受診者の皆さんに送るのだそうです。それを読ませていただいたのですが、正直云って今ひとつよく分かりません。書いてあることに間違いはないし、日本語としても問題ないのですが・・・結局、正式文書としてやむを得ないのかもしれませんが、内容を分かっているわたしたちだから分かるけれど、普通の方がこの文書を読んでも何のことか分からない人が少なくないと思いました。お詫びの文書を添付したという事実があれば良いのかもしれませんが、何か腑に落ちないものがあります。もう少し平易な表現ができるのではないかしら。

一方、数日前、クレジットカード会社から「カードご利用可能枠変更のご案内」という封書が届きました。キャッシングはしないのでいい加減に読んでいたら、何か希望コースを決めて署名をした上で送り返せ、と書いてあるようです。よく分からないので書類を隅から隅まで読んでみました。でも結局よく分かりません。そこには6月17日までに送り返さなかったら規定通りに変えます、と書いてある(ような感じ)。でも理解できていないのにこんな財産に関することを気軽に処理できなくて、今ちょっと閉口しています。実は数ヶ月前に、生命保険会社から「年金受取方法ご指定のお願い」という封書も届いておりまして、これもまた隅々まで読んでもよく理解できないので、そのままです。

日頃から慣れている人たちにはどうと云うことのない簡単なことなのでしょうが、素人からしてみると異次元の内容です。なのに相手は、早々に意思表示をして、それに責任を持つという意味の署名をして送り返せと云います。よく考えたら、とても怖ろしいことだなあと思います。で、世間知らずのわたしは、何もできずに放置しているのであります。

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学位謝礼金

大学の博士号を取得した後に、教授にお礼を渡していたことが複数の大学で発覚しました。指導してくれた教授に対するお礼金だと思ったら、論文審査をしてくれた教授たちへの謝礼金のことのようで、そりゃたしかに一般常識から外れた習慣だと思います。

わたしは、東京で働いていたときに、ある有名私立医大の研究生になって論文を提出して博士号をいただきました。「乙種」の学位(大学院で研究して学位をいただくのが「甲種」)、別名「論文博士」というやつです。学位審査では、提出した論文の要旨を自分でプレゼンし、その後主査・副査の先生方から質問を受けるのですが、もうすでに熊本に帰っていたわたしは、そのためにわざわざ上京しました。待機室で待っていると、大学院生らしい若い数人が話していました。「教授への謝礼はいくらくらいにしたらいいの?」「去年学位を取った○○先輩の話では・・・。」

「げえ!そんなに渡すんか!?」・・・聞き耳を立てていたわたしは驚いて飛び上がりそうになりました。受けるための申請費用だけでもかなり高いのに、さらにそんなに払わないといけないのか!と、田舎者で世間知らずのわたしは正直驚き、不安になりました。わたしはどうしよう?わからないので、勤務していた病院の部長に相談しました。「別に要らないんじゃない。だって、特に指導してもらったわけじゃないんだし。」とっても淡白な返事が返ってきました。「え、ホントにまったく何もしなくていいんですか?」と驚いていると、「お菓子でも持って行って『大変お世話になりました』ってきちんとお礼すれば、それで大丈夫だと思いますよ。」と静かに助言していただきました。

そこの大学は研究生としての学費もとても安く、おかげさまで、日本で一番安い費用で由緒正しい論文博士の一員にさせていただきました。いまだにそれを持っていることで何の得もありませんが。

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糖の細胞記憶

最近、糖尿病に関して面白い結果報告が出ています。イギリスの歴史ある糖尿病大規模試験UKPDSの追跡調査もそのひとつです。

UKPDSは、「糖尿病の初期段階に専門家がきちんと介入して薬も使ってしっかり血糖管理をした人たちは普通の食事療法しかしなかった人たちより合併症が少なかった」という、当たり前といえば当たり前の結果ですが、実はその後を追跡調査してみていたのです。すると、血糖コントロール自体は介入を受けていなかった人たちと同じレベルになったにもかかわらず、心筋梗塞や死亡リスクはその後も有意差を持って低かったというのです。「Legacy effect」とか「glucose memory」とか称されるこの現象は、つまり診断をつけられたらできるだけ早期にしっかりとした積極的治療を始めて、きちんと良好な血糖コントロールを維持させておくことが大切で、そうなれば細胞は高血糖のときの記憶をきちんと次の細胞に引き継いでいく可能性があるということです。

平たく云えば、「血糖管理は、とりあえず最初にしっかり頑張ることが大切だ!」ということになります。これもまた真理であり、だからこそ病気になって早期、あるいはその前段階のレベルで本人に出会うわたしたちのような健診医師が、その重要性を本人にしっかり伝えなければならないのであります。

「強気すぎて受診者の不安を煽る」と陰で非難されているかもしれない(被害妄想であればいいですが)わたしを後押ししてくれる、とてもありがたい結果報告です。

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血糖の正常高値は正常にあらず。

「空腹時血糖が正常高値の人は健常者よりも糖尿病が約6倍も発症しやすい」・・・大阪で行われていた第52回日本糖尿病学会のシンポジウムで札幌医大の大西浩文先生が発表したこの内容は、なかなかセンセーショナルなものでした。

北海道には、九州の久山町研究に匹敵する、30年以上続いている疫学研究(端野・壮瞥町研究)があります。この研究に登録されている受診者を最大16年追跡してみると、最初に受診した時の血糖値が90mg/dl未満だった人が糖尿病になる危険性を1としたとき、なんと90~99mg/dlで2.2倍、100~109mg/dlで6.42倍、110~125mg/dlで14.78倍になるというのです。それもかなり早い時期(例えば100~109mg/dlの場合、5年後ですでに6.76倍の危険性)に。つまり「血糖値は低ければ低いほど糖尿病になりにくい」という結論です。医療関係者の方はご存知でしょうが、これまでの健診では、126mg/dl以上が糖尿病型であり、110mg/dl未満は「正常」でした。昨年変更されて100mg/dl以上を「正常高値」として分けて、注意を促すようになったのです。

「この『正常高値』は厳しすぎる」と医療現場では不評でした。そんな値で引っかけたら異常者ばかりになる!とか、肥満者(メタボ)じゃなかったら心配いらない!とか勝手な手心を加えて説明している医者も少なくないでしょう。先日、ある受診者からクレームがありました。「結果説明が厳しすぎてショックを受けたから来年から受けたくない」というものです。部長は「大した異常じゃなかったのに大げさに説明しすぎたせいだ」とスタッフに説明していました。たぶんその説明をしたのはわたしです。「バカいってんじゃねえよ。あんな異常値を大したことないとか云ってるからみんな病気になるんだろうが!」と内心で思いながら聞き流していました。そんな異端児のようなわたしだから、正式な学会でこんな発表があると自分のやっていることが間違っていないことが確認できて嬉しくなります。

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素人みたいな酒の話

つい最近まで、焼酎の方が日本酒やワインよりカロリーが低いと思っていました。患者さんや健診受診者さんには「数呑みゃどっちも一緒ですよ!」と云ってのけていますが、本当は蒸留酒である焼酎が一番カロリーが少ないと思い込んでいました。

ところが先日、「焼酎とワインと日本酒、同じ量ならどれが一番カロリーが多いのですか?」という質問に管理栄養士さんが答えたのを傍で聞いていて、仰天しました。

アルコール1%当たりのカロリーはもちろん焼酎が一番低いのだけれど、日本の焼酎は日本酒やビールよりはるかに度数が高いので、同じ量(ml)なら結局焼酎が一番カロリー高!そりゃ、考えてみれば当たり前の話です(http://www24.big.or.jp/~nakatomo/alc_karori_hayamihyou.html)。

その代わり、酒由来のカロリーは代謝が早くてさっさと抜けるけれど、糖質由来のカロリーは糖として体内に残り易いわけで、蒸留酒である焼酎の方が日本酒や甘口ワインより体内に残るカロリーは少ない、というのはやや説得力あり。でも、甲種焼酎と乙種焼酎ではどうか?という問いには、(納得いかないけれど)甲種の方がカロリーは多いと書いてあるものが多いようです。

まあそんな蘊蓄(うんちく)をどんなに語ったところで、結局どれも大した差はありません。なぜなら、一緒に食べる酒の肴のカロリーが酒よりはるかに多いのですから。

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ことばの行き違い

「検査は全部終わりました。四階の受付へこのボードをお出しください。」・・・アテンダントの女性が受診者に話しているのを何となく聞いていました。

すると受診者が「ここは何階な?」とすぐに聞き返しました。「ここは四階です。あ、わたしがご案内しましょう。どうぞ。」・・・彼女はそう答えるなり、受診者を連れて歩き始めました。

そんな経緯を傍から眺めながら、きっと彼女には受診者の聞いたことの真意が伝わってないな、と思いました。「あちこちのフロアを上がったり下がったりしてこられたから、今がどこだか分からないんだろう。迷うといけないのでわたしが連れて行ってあげよう!」と考えて行動した彼女のアテンダントとしての行動は素晴らしいと思います。でも、もしわたしがその受診者だったとしても、きっと同じことを聞くでしょう。「ここが四階だと思っていたけど、ここは四階じゃなかったの?」と悩んだから聞いたのだと思うのです。四階に居て、「四階の受付へ」などと云われるとは思わないからです。でも、彼女にしてみると各階に受付があるから他に行かないようにわざと「四階の」と云ったのだと思います。「このフロアの受付へ」と云われれば何も悩まなかったでしょうけれど。

ことばの行き違いというのは、日常茶飯事で起きています。受診者が「あ、彼女は意味を間違えてる」と思いながらも「まあいいか」と思って付いていき、そのまま何も起きなければそれはそれで終わります。ところが、「何云ってるんだこいつ?」とちょっと苛立ってしまって、さらに受付でちょっとしたトラブルがあれば一気に一触即発の空気になるかもしれません。むずかしいものですね。

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