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お葬式に出る

「主治医が葬式や通夜に顔を出すと、何かやましいことがあるのではと勘ぐられる。だからよしたほうがいいと、たいていの医者は思っている。とんでもない誤解だ。家族からは感謝され、こちらの気持にもふんぎりがつく」

帚木蓬生(ははきぎほうせい)の「風花病棟」(新潮社)という短編小説集を読んでいます。その中にある「藤籠」という小説の中の一節です。少なくともわたしが働いてきた環境の中には、葬儀への参列をタブー視する風潮はありませんでした。ただ、受け持ち患者が亡くなったとしても、その居なくなったベッドにはすぐに次の重症患者さんが入り、次の患者さんと死闘を繰り広げることになるのです。平日に礼服を着て葬儀に参列する時間がもらえることは稀でした。

心停止を起こして救急車で担ぎ込まれるたびに生き返っていたIさんは、うちの自宅のすぐ近くに住んでいました。そのIさんが他の病院で亡くなりました。救急で近くの病院に担ぎ込まれて、うちの病院への転院を希望したいと奥さんから電話で相談を受けましたが、移送できるような状態ではありませんでした。仕事から帰ってから通夜に行きました。もう10年近く前のことです。奥さんは今も元気で一人暮らしをしています。

新聞のおくやみ欄を見ていて、外来で受け持っている患者さんの突然の死を知ることもあります。驚きます。Mさんはちょうど日曜だったので、大急ぎで斎場に行きました。奥さんをうちの病院で殺されたと云い、医者も看護師も信用できんと云いながら、なぜかわたしとはウマがあった爺ちゃんでした。いつも車椅子を押してくれていた付き添い婦の女性がわたしを見つけるなり駆け寄ってきて号泣しました。もうちょっと早く見つけたら助かったかもしれない、と自分を責めました。わたしは静かに合掌させていただきました。わたしもまた、わたし自身の区切りをつけるための参列だったかもしれません。

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