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2009年7月

「早起きは三文の得」ではなくなった?

米国の高校で10年くらい前から始業時間を遅らせる学校が増えている、という記事が医学雑誌MMJ(July 2009,vol.5,No.7)に出ていました。もっとも、遅らせても午前8:15始業ですから、そもそも早すぎだろ!という気がしないでもありませんが・・・。

始業を遅らせると、授業に積極的になり、居眠り・遅刻・欠席が減り、さらにカウンセラーへの相談者やうつ症状を訴える生徒も減ったとのことです。学業成績向上にもつながっているとかいないとか。たしかに夜更かしグセの高校生たちにとって、朝まだ頭も起きてないのにイヤイヤ登校することが減るのですから、この結果は「さもありなん」と納得できますが、これを少し科学的にアプローチしていました。

10~17歳の学生が最適な覚醒を得るために必要な睡眠時間は平均9.25時間(Sleep 2002;25:606)。ところが面白いことに、ヒトの体内時計が思春期になると変化して、睡眠導入が小児期より1時間遅れるのだそうです。だからその分、朝の覚醒時間も遅れることが明らかになったと書いてありました。実際に睡眠概日リズムマーカーのメラトニン量を測定すると、思春期前の子どものメラトニン分泌開始が午後9時半ころなのに対して、思春期になると午後10時半になるといいます。メラトニン分泌は眠たくなる1時間前に始まるので、つまり思春期の子は午後11時半以降にならないと生理的に入眠準備ができていない、とBrown大学の研究は語っているのです。

こんな夜更かしが正当な理由付けとしてまかり通るなんて、時代は変わりましたねえ。

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『病気にならない本』

「皆さんこんばんは!!」「『禁煙は愛!』でしょ!!」

ちょっと場違いなくらいのパワーで声が枯れるまで講演していただいたのは、江藤敏治先生(宮崎大学准教授)。先日行われた、第8回熊本禁煙研究会でのことです。江藤先生は宮崎ではむしろテレビのパーソナリティとしての方が有名な人だとか。熊本禁煙研究会はいつもとてもユニークな先生をお呼びしてくれます。金曜の19時から始まる研究会ですが、いつも最後まで居眠りするヒマがありません。活力のある講演のしかた自体がわたしには勉強になりました。

さて、そんな江藤先生が本を出しました。印税分を割り引かせてでも学生たちのために安く発行させたのだそうです。『病気にならない本-予防医学へのいざない-』(大学教育出版)です。あんなに話はうまいのに、なぜかPR自体はあまりうまくなく、この場に持ってきたらサイン入れてもらってすぐに買うのにな!と思いながら、Amazonで購入しました。

内容は、とってもオーソドックスでした。もっと破天荒で大小さまざまな文字があちこち飛び跳ねているような本を想像したので、逆にちょっと驚きましたが、学生講義の教科書ですからさもありなんです。ただ、冒頭に先生が書いているように、「・・・いろいろな分野の専門家がそれぞれの領域でその専門性を突き詰めるのは当然必要です。しかしながら、それと同時に各分野を総括して一個人を見渡す領域も必要であり、むしろ人を診察する場合そのような眼力が特に重要となってきます。人間は機械のように精密ですが、ただパーツが寄り集まっただけのものではありません。・・・」~この思いを教科書にして、これから医者になる医学生たちに、そして多くの一般社会人の方に、「予防」こそが「医療」だということをしっかり伝えていただいていることに、感謝します。

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老人腹

運動する時間がなかなか取れなくなったわたしですが、手足の太さにはあまり変化がありません。義母などは会うたびに「やせた、やせた」と云いますが、これはやせたのではなく筋肉が萎んでいっているのだと思います。それは男性の老化の典型のような気がして、まったく気に入りません。

一方で腹だけが何となく出てきてしまいました。風呂に入る前に洗面所の鏡の前でポーズをとってみても、脇腹のプヨプヨした脂肪はいつの間にかわたしのカラダから「くびれ」という単語を消し去っていました。おかしいなあ。1年前はこうじゃなかったぞ!2年前はもっと締まっていたぞ!と、ニンゲンはどうしてこうも過去の栄光に浸りたがるのでしょうか。この歳になると、腹筋の周りの脂肪は簡単につきます。脂肪は、腹筋に力が入らなくなった瞬間から貯まります。でも腹筋は意識していないと使いません。椅子に座って背筋を伸ばしているあいだは使いますが、背もたれに触れたり、ちょっと猫背になったり、あるいは机に肘を置いた瞬間から、まったく使わなくなります。これはなかなか厳しいものです。

でも、じいさんのカラダにはなりたくないのだ。いい歳をしてバカみたい!とお思いかもしれませんが、いやいやこれこそがアンチエイジングです。これだけはいつまでもジタバタしていたいのです。とりあえず、いつもいつも、オードリー春日かタイガーウッズの姿勢を意識したいと改めて誓い直す今日この頃でございます。

ただ、最近もうひとつ気になる箇所が出てきました。「ほっぺた」です。垂れてます。太ったのではなくて、垂れてます。半年前には気づかなかったから、最近急に垂れてきました。ヤバイです。じいさんのほっぺたです。これはどうしたらいいんでしょう?とりあえずいつも笑っておくしかないと思います。毎日無理矢理に笑うことにいたしましょう。

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夏用スーツ

講演をする機会が増えたので、2年前に夏用スーツを新調しました。東京にいた頃にダブルのスーツを買って以来なので、奮発してオーダーメイドで作りました。

せっかくやせたのだから、「シルエットのかっこいいのを作りましょう」と云われましたが、どうもそういうのが苦手なので(いや、実はすごく憧れなのですが、子どものころから肥満児だったわたしは、服を買いに行ったらデザインよりもまず体に入る服があるか探す習慣でしたから、「オシャレ」というものに縁のない人生だと諦めておりましたのです)、モジモジしていたら服屋さんがどんどん話を進めてしまいました。

濃紺の上品なストライプ柄に、よく見るとボタン穴縢りの糸がピンクだったり、ボタンを青や赤の糸で止めたり、あるいは袖口の裏地だけ真っ赤だったり、胸ポケットの裏地を引っ張り出すとピンクストライプのポケットチーフになったり・・・これがなかなか、遊びごころ満載でかっこいいのです。着ているだけでちょっとウキウキします。

わたしたちの年齢になると、年齢より若く見えるか、年寄りに見えるか、とても大きな差が出てきます。「いい歳をしてそんな子どもみたいなことをして!」「普通のサラリーマンだったら仕事でそんなもの着たら信用を失うぞ!」と目くじら立てる人もいるかもしれません。でもむしろ、この歳だからこそ、「この遊びごころをフォーマルで着たい」とまだ思える自分の考え方を自慢しても良いのではないか?と思うております。

ただ残念なことは、暑すぎて、あるいはクールビズで、上着は持って歩くだけのことが多いということです。隠れた遊びごころを見せびらかすチャンスがなかなか来ません。

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40歳は初老

昨年に続いて今年も40歳の公務員に対する講演をしました。

その一週間前には、これも恒例になっている50歳の公務員に対する講演もしましたが、やはり40歳は圧倒的に若いです。50歳の皆さんを相手にしながら、「どれ見ても、まだまだオレの方が若く見えるな」とこっそり思っていましたが、さすがに40歳の皆さんを見たら、くやしいけれど「まったく勝ち目がないな」と降参しました。

同じような生活習慣病の話をしながら毎回自分で痛感することは、今やそれは予防の概念ではなく、若いころから修正しないと手遅れになる時代だということです。それは大きな艦船が遠くの障害物を避けるためにかなり手前から方向転換を始めないと間に合わないのに似ています。厳しい時代ですが、実感がないのが辛いところです。

それはそれとして、「男の人生は『厄明け』から、女の人生は『閉経』から始まる」というのは蓋し正論だなと思います。わたしの場合も厄明けが大きな節目でした。小脳梗塞になったのも、うつ病になったのも、交通事故にあって脊椎ヘルニアになったのも、父が急死したのも、全部40歳代のことでした。一方で、ゴルフを始めたのも、バスケットボールを再開したのも、サッカーのサポーターになったのも、40歳代でした。もう帰っては来ない40歳代ですが、この10年間にここまでいろいろなことがあるとは思ってもいませんでした。人生で一番輝いている時代。でも人生一番疲れている世代。それが40歳代だと云えましょう。

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「噛む時間なんかありません!」

先日、こんな不思議なことを云う女性がおりました。

待ち時間が長かったのか、何となく初めから機嫌は良くはなかったようで妙に無表情な方でした。こういう方とお話しするときにはことばの一つ一つに注意を払いながら話すことにしています。今回は健診で行った胃内視鏡検査の結果の説明でした。所見はほとんど問題なく、ごく一部に軽いびらん性胃炎(胃の表面が少し炎症で荒れている状態)を認めるのみでした。

「ほぼ問題ない胃です。少しだけ荒れているので胃をいたわってあげる意味で、『食べ過ぎない』とか『イライラしない』とかいうことに注意してください。」と云うと、「『イライラしない』は無理です!」と強く否定されました。「まあそう云わず、意識だけでもしてみてください。」とやんわりと進言しておきました。

「結局、『市販の胃薬を飲めば良い』ということですね。」・・・帰り支度しながらその女性がそう総括するので、「いやいや、薬は要りません。代わりにできるだけ良く噛んで食べてくださ・・・」「無理です!わたしは忙しいので噛む時間なんてありません!」~わたしのことばを遮って、そのことばが即座に出てきました。

「いや、忙しくったって噛めますよ!わたしなんか昼飯は5分で食べてしまいますけど、ちゃんと噛んでますもの。早食いだって噛めます!」・・・カチンと来てしまったわたしはついそんな反論をしてしまいました。表情を変えるでもなく帰っていくその女性をながめなら、感情を抑えきれなかった自分に自己嫌悪でした。

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たましい

山道を運転していると、ときどき道路脇や道の真ん中に小動物の亡骸(なきがら)が転がっているのを見かけます。山の中なのでイタチやタヌキなどが多いようですが、まったく原型をとどめていないことも少なくありません。

散歩だったのか何か用事だったのか、きっと何気なく出かけて、突然車に叩きつけられたのだろうと推測します。魂(たましい)は突然カラダを離れてしまって、何が起きたのか理解できていないでしょう。ぶつかる瞬間、あるいは魂が抜け出る瞬間、彼らは何を考えるのだろう?人間と同じ様に、走馬灯のように今までの短い人生(動物の場合は何ていうのだろう)がフラッシュバックされる時間はあるのだろうか?第一、彼らの脳はそんなフラッシュバック機能を持った脳なのかしら?思いがけない衝撃に、成仏できない魂がその辺りを彷徨(さまよ)っている、っていうのもまんざら分からないでもないな・・・などと、連休の渋滞の阿蘇路で前の車をボーっと眺めながら考えていました。

魂が消える瞬間(それが病死などのようにある程度準備された場合であっても)、ロウソクの火が消える瞬間と同様に、その一点は一瞬です。この一瞬にとてつもなく大きなエネルギーが現世から消えてしまうのです。その流れには、人間も小動物も違いはないように思います。まるで抜け殻をうち捨てるように道路脇に放置されている亡骸が、踏み裂かれ、朽ち果てて風に吹かれる姿を「哀れだ」と思っていましたが、むしろ自分のたましいが宿っていた抜け殻がきちんと自然に戻ってくれることに妙な安堵感を覚えるようになってきました。

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ことばは聴診器より大切

日経メディカル500回記念号の「あの人はその時、何を語ったか」に、わたしの敬愛する日野原重明先生(現聖路加国際病院理事長)の記事が載っていました。1985年2月号に掲載されたものです。

『医者はせっかちで、説教から始める。「あなた、こういうことしちゃだめですよ」と言う。そうでなしに、患者に質問させる。高血圧だといったら、「あなたはこの病気についてどんなことが聞きたいか、食事のことでも何でも」というふうにまず聞くことが大切です。最初からこうしなさい、ああすると悪いなんて立て続けに言っても、当人は何も覚えてない。自分の質問に対して答えたのは覚えている。先生が勝手に言ったことは覚えていない。』~蓋し正論、まことにもって耳が痛いお話です。

<患者指導の要諦を一言で言えばどうなりますか?>という質問に、『本当のことを言えるような人間関係。体のことも、心のこともね。』・・・当たり前のことであり、とてもむずかしいことです。<ちゃんと薬を飲んでいるかを正直に告げてくれるか?>という問いに対して、『正直に言うような関係をつくればいい』と即答。わたしもその通りだと思って患者さんと接してきました。正直に話しているかどうかは、自分が正直に接していればわかるものです。

『それには言葉が大切です。同じ言葉でも、大げさな言葉を使わないで、非常にリファインされた言葉、その人に合った言葉で対応する。だから医者というのは役者なんだよ。相手次第で、表情なり言葉なり変わるわけだ。だから、ボキャブラリーをたくさん持っていないとだめですね。』~『聴診器とか心電図とかいうと、大切にするでしょう。言葉はそれ以上に大切なものです。』・・・日野原先生の口からこぼれ落ちるように発せられることばは、やはり昔から深いことばばかりです。

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皆既日食

子どものころの奇妙な記憶があります。天気の良い夏でした。昼より前だったと思います。いつものように汗だくで遊んでいたら、急にあたりが暗くなり始めました。曇ったわけでもなく、夕立でもありませんでした。何が起きたのかよく分からなかったのだけれど、それは急にやってきて、数分でまた何もなかったかのように元に戻っていきました。自分の中では何か不安なドキドキする出来事でしたが、なぜか自分の周りの大人たちは全く意に介さない感じで平然としていた印象があります。そのまま誰に聞くでもなく、わたしはきっと大したことではないのだろうと思うことにしましたが、実は今でも良く理解できていない不思議で奇妙な経験でした。

昨日、46年ぶりに日本を通る皆既日食がありました。嫌がらせをするような梅雨前線がわざわざこの日だけ一気に南下してきましたが、わたしも雲の間から三日月型の太陽を見ることができました。まあ、若干騒ぎすぎの感はありましたが、それでも夜にテレビの特番を見ていると、それは人生観を変え、歴史を変える大きな出来事であったことを痛感しました。

そんな中、ふとあの子どものころの遠い思い出は、もしやその皆既日食ではなかったのかと思いました。コースの主体は北海道の方だったそうですが、九州の片田舎の小さな少年が経験したあの出来事もまた、日食そのもだったのではないかと思います。

次の天体ショーは26年後だそうです。ちょっと微妙な年齢になりますが、もう一度経験することがあるとしても、また子どものころのあの思い出が浮かんでくるような気がします。それにしてもどうしてあのとき、大人たちは何も騒がなかったのだろう?騒いでいたけれど子どもだったわたしに理解できなかっただけでしょうか。いまだに不思議です。

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健診任せ?

健診の心電図である種の不整脈や波形異常が見つかった場合、あるいは運動負荷心電図で異常が見つかった場合、わたしたちは念のために専門医で精密検査を受けることを勧めます。そんな方々の中に、受診した医療機関から、「所見はたしかにありますが、特に治療の必要はなさそうな所見なので経過観察してください」という返信をいただくことがあります。翌年に本人に聞くと、「あとは毎年の健診や人間ドックで診てもらってください」と云われた、というのです。

この手の返事が一番困ります。一体、健診で何を診ろというのでしょう?健診で行う検査は、安静時心電図や一部で負荷心電図をする程度です。それで異常があったから紹介したわけで、それを毎年続けたところでほとんど何もわかりません。不整脈に危険性があるのかどうかはホルター検査でしょうし、心肥大の進行の有無は心エコー検査でしょう。それらを見ないと大丈夫かそうでないかの判断はできません。「健診で何かあったらまた来てください」というのならまだしも、この場合はつまり、「無罪放免ではないけれど、面倒くさいからこんな程度のことを自分のところで診たくない。だからそっちで何とかしてください。」という門前払い的な意思表示のように見えます。

こういう返信をされる先生は、基本的に健診でどんなことをするのかあまり理解していません。だから健診でフォローできるのかどうかなど考慮して云っているのではないでしょう(わたしも昔臨床現場に居たときにはそうでしたから)。困ったものだと思いながらも、ハザマにいる受診者の方に今後の方針をどう説明しようかと思案する日々です。

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早歩きしないとダメ?

「きのう、フィットネスジムで運動体験をしたんです。そのときに運動指導士さんにいろいろ教えてもらいました。わたしは毎日30分歩いていますが、あんなんじゃダメだということがわかりました。10分でも良いからもっと早歩きするといいんだそうですが、わたしには体力がなくてきのうも数分しか出来ませんでした。だからわたしはやせないんだわ。」

宿泊ドックを受けたある女性がそう嘆きました。彼女の年齢は72歳。たしかにちょっと小太りで、軽い糖代謝異常がありますが、それなりにコントロールできていると思いました。エネルギー効率を考えると、たしかに早歩きしないと脂肪は燃焼に転じにくいので、ただの散歩ではダイエットにつながらない、というのは本当です。でも、この女性に果たしてそれは必要なのだろうか?という疑問が生じました。「なんでもかんでもやせればいいというわけではない!」~このブログのタイトルにしたことばですが、まさしく彼女はそんな人のひとりのような気がしました。この年齢の女性はむしろダイエットした方が寿命が縮むというデータもあります。もちろん、筋肉が落ちると老化につながりますからしっかりとした運動を続けることは大事ですが、今でも30分もウオーキングしているのならばそれを続けることで十分なのではないでしょうか?この歳で、黙々と必死の形相で早歩きする姿はちょっと異様です。むしろ季節の変化を愛でながら風を感じて歩いてほしい!というのがわたしの持論です。

どうか無理をしませんように。やりすぎに注意して、もっと人生を楽しんでください、と助言しました。ただし彼女の息子さんとお孫さんは太りすぎ・食べ過ぎです。彼らには厳しく接してほしい、とも話しておきました。彼女の持っている生き延びる遺伝子(倹約遺伝子と糖尿病の体質)をしっかり引き継いでいるようですから・・・。

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喘息コーチ

わたしが個人的にゴルフを教えてもらっている男性がいます。

彼から、「最近なかなか治らない頑固な咳に悩まされている」と相談を受けました。生半可な市販の咳止めを飲まずに、呼吸器の専門医を受診することを勧めました。

それに従って受診した彼は、諸検査の末、『気管支喘息』の診断を受けました。多くの内服薬が処方され、1週間後に再診するように指示されました。ところが、一回内服したら、翌朝は目が腫れ上がって開けられないほどになり、からだがだるくてどうしようもなくなったため、怖くなって処方薬を飲まないでおいたそうです。

定期的なゴルフのレッスンを受けたのはちょうどその頃です。かなり苦しそうな咳をしていました。話を聞くと、結局そのまま放置している、と。「飲まないほうが良いですよね?」「他の病院に行った方が良いんでしょうか?」と心配気です。「最初に行った病院で『飲んでみたらこんなことがあった』と云ってください。それで内服薬を変更するはずですから」と助言しました。前にも書いたことがありますが、ある症状で病院に行ってクスリを貰ったのだけれど、それを飲んで副作用が出たとか、返って調子が悪くなったとかいう目に会ったとき、そのまま止めてしまってほったらかしたり、心配になって他の病院を受診する人が少なくありませんが、これは大きな間違いです。こんな場合は、そのクスリを飲まないで処方された病院に行き、事情を話してほしいのです。その情報から医師は処方の修正をします。本当の治療はこのときからです。医者が名医かヤブ医者かはこのとき以降の処方で決まると云えます。

「じゃあ、1週間後にもう一度行ってみます」と彼が云うので、「ダメですよ。明日必ず行ってください」と念を押しました。そんな彼から連絡がありました。クスリを変えてもらったら、ウソのように咳が止まったそうです。名医だったようですね。

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慣れることの有難さ

わたしの応援しているプロサッカーチームの監督が成績不振の責任をとって更迭されました。4年前、瀕死の状態のチームを生き返らせてくれた神様のような存在でしたので、その話を聞いたときには頭の中が真っ白になりました。もはや何もかもが終わりだ!と悲観しました。ところがある事情でそれが10日間延期されました。もしやこのまま?という期待は残念ながら外れましたが、でもこの10日間があったおかげで、わたしのこころはとても静かに運命を受け入れる準備ができました。ずっとそのことばかり考えているうちに、こころが慣れたのだと思います。そして冷静に現実をみつめる時間を戴いたことに感謝して、新しい体制にこころを向けることができています。

わたしの敬愛するボスが脳腫瘍になったのはもう12年も前です。突然の出来事で、現場は混乱しました。彼なくしては自分たちの組織は崩壊する!と思いました。彼はその後手術を受け、一度現場に復帰しました。「半身不随になってまで生きたくない。男としての美学だ!」というのをみんなで説き伏せて手術をしてもらいました。「あなたが存在しているだけでもわたしたちの支えなのです」と。結局帰らぬ人になりましたが、その期間のおかげで職場のシステムの作り直しだけではなく皆のこころに準備ができました。あの半年間にわたしを含むスタッフ全員が突然成長したと感じました。

昨年9月に亡くなった愛犬の場合もそうでした。彼はわたしたち夫婦の「こころの準備」が出来るまでちょうど1週間だけ、逝くのを待ってくれました。おかげで、こころ安らかに彼を送ることが出来ました。

運命は何も変わっていないのに、パニック状態から静かに受け入れのこころに代われるのは、きっとニンゲンが生きるために前もって備えておいた逃避能力のひとつなのだろうと思います。

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無料?

うちの健診センターで、保健師さんたちがいろいろな企画を積極的に発案して頑張っています。

先日も、館内放送を何度も流していました。一週間にわたってメンタルケアの教室やカウンセリングや展示の企画をすることを告知していたようです。流れているアナウンスを聴きながら、「良く頑張っているな」と心強く思いました。

ただ、「・・・どうぞ、ご遠慮なくお越しください。」と云うことばで終わってしまった館内放送を何度も聴きましたが、「で、お金は?」と、ついひとり突っ込みをしてしまいました。何度聴いても、参加料(入場料)については一言も触れていなかったからです。きっと無料なのだと思い、きっと無料だから云わなくていいと思っているのかな?とも思いましたが、でも、もしかしたら何百円か木戸銭を取るつもりなのかもしれないとも思いました。

きっと、放送を聴いた受診者の皆さんの多くがやはりそう思ったのではないかと思います。こういうありがたい企画は、一般的には料金をとって然るべしです。「あ、面白そうだから行ってみようかな」と思うものの、「値段がわからないからなあ」、と二の足を踏んだ人は絶対居たと思います。うちの施設は昔からそんな「下品」なことは云わないでスマートに表現しよう、という風潮がありますが、云わなければわからないことはたくさんあります。やはり野暮でもいいから「参加は無料です。」と云ってほしかったです。

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積極的支援レベル

悪名高い「メタボ健診」も、とりあえず始まって1年がたちました。賛否両論ありながら、喧々諤々ありながら、それでもそれなりに定着するものなのですね。最近は、健診のときに「腹囲測定をします」と云っても誰からも拒まれることはありません。

ただ、まだ特定保健指導のことをきちんと理解していない人が多いように思います。健診結果から「積極的支援レベル」と「動機付け支援レベル」と「情報提供レベル」、および「受診勧奨レベル」に分けられるわけですが、その中で最大級の特別扱いを受けるのが「積極的支援レベル」です。保健師さんたちと一緒に具体的な目標を立て、その後何度も定期的に保健師さんから激励の連絡(メールや電話など)を受けながら生活改善に取り組むのです。あまりに悪くて早々にクスリを飲まなければならない人や、すでに服用をしている人は残念ながら対象になりません。そんな人は病院の先生から指導を受けなさい、ということになります。

これまでに何度も書いてきましたが、メタボ健診は、「誰でもやせなければならないのではなく、とにかくやせればいいのでもない」ということを忘れてはなりません。複数の危険因子を持っている上に内臓脂肪がたまっている人(つまりメタボリックシンドロームの人)はやせれば病気がよくなる可能性があるのですが、何も問題ない人や内臓脂肪がたまっていない人はやせたところで何の意味もありません。そんな努力をする前に早く病院でクスリを貰わないと危ない可能性もあります。だから、メタボ健診で動機付け支援や積極的支援にひっかかった人はむしろラッキーです。そのふるいわけのために「メタボ健診」が存在するのだということを忘れないでおいてください。

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禮子さん

人間ドックを受けにきたある女性に結果の説明をしました。

彼女は、診察室に入ると結果報告書を指差しながら、開口一番、「この字、まちがっています。」と云いました。怒っている感じではないのだけれど、でも強い意志を感じる口調でした。彼女の名前は「禮子」さんですが、印刷物には「礼子」と書かれていたのでしす。メインの報告書は「禮子」となっていましたが、いくつかの検査伝票に「礼子」と書いてありましたので、もしかしたら検査室のパソコンの辞書に「禮」がなかったのかもしれません。

「礼」の旧字体が「禮」です。「害」と「碍」のように若干意味がずれているのとは違って、おそらく「禮」も「礼」も意味は同じです。「治」を「二」と書いてあるとか、「斉藤」を「斎藤」と書いてあるとか、そういう間違いは「間違い」なのだけれど、わたしたちは、意味が同じなら新字体も旧字体も同じものじゃないか?と思ってしまうところがあります。

でも、考えてみると、「名前」は「記号」ではありません。他人は、一人の個人を他の人と区別するために「名前」を使います。そういう意味では「A-267897号」でもまったくかまいませんし、「禮子」も「礼子」も同じことです。ところが、本人にとっての自分の名前は自分自身ですし自分の歴史です。親が想いを込めて決めた名前は「礼子」ではなく「禮子」なのですから、「禮子」と「礼子」は全くの別ものです。それは姓名判断の画数の違いレベル以上のものだと思います。

ということで、説明を終えた後にスタッフに変更するように伝えましたが、さて、皆さんにそんな意図は伝わったでしょうか?

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厳しい上司がいる。

「うつ病記」の著者はやしたけはるさんは復職後に二度目のうつ病にかかりました。

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「厳しい上司がいる。」

云っていることがキツイと思う。同僚が叱られる光景をみて、イヤだなと思う。指摘を修正するとまた違うところで叱られる。自分の番になるのはイヤだなと思う。でも、とうとうその順番が回ってきた。

以前ももっとひどい言葉を云われたこともあるし上司の性格は理解しているつもりだ。一度長期休業をしているので、うつ病で二度も長期休業すると色々あると思ってがんばっていた。

ある日、別件で機嫌の悪かった上司から理不尽なことで怒鳴られて、自分の「うつ病サイン」が赤信号になったことを悟った。上司の命令を無視してそのまま病院に行った。

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こんな上司が自分の周りにいたらわたしもイヤだなと思いながら、マンガを読みました。でもよく考えたら、自分がまさしくそんな上司なんじゃないだろうか?「仕事は遊びじゃないぞ!プロならプロらしい厳しさを持て!」「おまえは給料ドロボウか!?」「バカじゃない?」そんなことばを平気で発していたのは、まさしくわたしの姿でした。当時のわたしを知っている人は、今でも出会うと目線を逸らします。よっぽどイヤな男だったのだと思います。

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うつ病記

ある薬品会社が企画・発行した小冊子のマンガ「うつ病記」(はやしたけはる著)を以前たくさんいただきましたので、あちこちに配ってまわりました。今回、ちょっとだけメンタルヘルスの講義をすることになったので、久しぶりに引っ張り出してきて読みました。以前読んだときよりも共感する部分が多くなったのは、それだけ同じような場面を現実に経験してきたからなのかもしれません。

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仕事が忙しくなった。かかえていた仕事が遅れてきた。会社に行く足取りが重くなった。

→なかなか眠れない。仕事の夢を見る。うなされる。頭痛が続く。めまいがする。食欲がおちる。胃が痛くなる。吐き気が続く。集中力がなくなる。

→ 『責任感とプライド』が邪魔をしてギブアップできない!

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病院に行った。「過労だ」と云われた。

→体調管理のために九時五時の仕事になった。複雑な仕事は他の人に回した。みんなが残業する中、自分だけ帰る。なぜか考えが上手くまとまらなくなった。楽になったけど、ボーっとする時間も増えた。

→ 『私の存在意義』って何だろう?私は今、何をしているのだろう?

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著者はこうやってうつ病になりました。今のわたしも、この中のある地点で同じようにして佇んでいる気がします。

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サザエさん

昨夜のテレビの「サザエさん」で、サザエさんが水着になった姿が出ていました。買ってきた水着がやっと入ったのなんのと云っていましたが、でもサザエさんはとてもスマートで驚きました。というか、24歳の一児の母親としてはちょっと痩せすぎかもしれません。

そういえば、サザエさんのお宅はみんな痩せています。九州出身の波平さんはちょっとお腹が出ているかもしれないと思っていたけれど、単に丸顔なだけかもしれませんし、静岡出身のふねさんの兄弟もみんな丸顔なんですがやはりスタイルは良さそう(「サザエさん家系図」参照)。天神の岩田屋でお見合いした大阪出身のふぐ田マスオさんの家系も太っていないみたいで、どうもサザエさん一家の遺伝子はメタボ系には縁がなさそうです。怪しいのはノリスケさんだけかな。

東京というところは生粋の江戸っ子(たい子さんが東京っ子)と地方出身者の混在する土地ですが、もともと倹約遺伝子(何も食べなくてもきちんと生きていける遺伝子)が多いのは、東京出身者なのでしょうか?それとも地方出身者なのでしょうか?マンガを見ながらそんなことを思いました。少なくとも、サザエさんのお宅は世が世なら、あるいは天変地異が突然起きたならば、最初にくたばるタイプの家系の代表のように思います(もちろんカツオ君は要領よく誰かに助けてもらえそうな気もしますが)。

それに対して、花沢さん家はもしかしたらメタボ系かな(あそこは生粋の江戸っ子なのかしら?)。まあ、食べられなくなっても絶対たくましく生きていける家系だから、安心かもしれません。でもどうして「不動産屋さん」はみんなお腹が大きいというイメージがあるのかしら。

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幸せってなんだ?

「ばぁかおまえ、これはもの凄く良いヤツなんぞ!」

わたしの父は、そう云っていつも誇らしげでした。ランドセルに始まり、木琴や書道の道具や技術家庭の道具や・・・同級生たちと同じものを持たせてもらえませんでした。小学校に上がるときに買ってもらったランドセルは何かの高級皮製だとかで柔らかくてペッチャンコでシワシワでした。友だちのランドセルは固くて大きくてテカテカ光っていて、テレビのCMで見るのと同じでとても羨ましかったのを覚えています。「あれは安モンの偽モンぞ。おまえのは本物ぞ。」・・・わたしが不満をいうと、父は必ずそう云っていました。

そうじゃないんです。高級品かどうかより友だちと同じものがほしかったんです。学校で安く一括購入する木琴や書道具を大部分の同級生は使っていました。先生もそれの使い方を基本にして指導しました。学校に行くときに一人だけ皆と違うものを持っていくのはシャイなわたしにはとても辛かったのです。

先日、渡辺淳一氏の「鈍感力」の講演の中で、似たような話がありました。ある日、渡辺氏は二十数名の仲間と一緒に一泊二日のゴルフツアーに行きました。夜泊まった旅館の食事でみんなが腹を壊したのに、ただ一人腹を壊さなかった男がいたそうです。彼が渡辺氏にそっと聞きました。「なぜわたしは腹を壊さなかったのか?」・・・それに対して、「それは分からないけれど、君の腹は細菌なんかよりずっと強かったということなんだから、自慢してもいいんじゃないか?」と答えたら、「わたしもみんなと同じ様に腹を壊したかった」と彼はつぶやいたと云うのです。

「分からないものです。幸せってなんなんでしょうね?」と渡辺氏は話を〆ました。でもわたしは、そのただ一人腹を壊さなかった彼の気持ちがとても良く理解できます。

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それはできん。

先日、ある女性に健診結果の説明をしました。彼女はわたしと同い年です。

「コレステロール、特にLDL(悪玉)コレステロールが高くなったので食事に注意しているのだけれどなかなか下がらない。あとはどんなものを食べたら良いのか?」というのが彼女の悩みでした。

「『トランス脂肪酸が悪い』というのでマーガリンも全部バターに換えたんです。」と云うので、「LDLコレステロールのことをターゲットにするのなら、この際バターも止めてみたらいかがですか?」とアドバイスしました。そしたら、「それは無理です。わたしは毎朝パンを食べますから。」とスッパリ切られました。「別にバターにこだわらなくてもいいんじゃないですか?わたしなんか、食パンはいつも焼くだけで何も付けませんけど、おいしいですよ。」と答えたら、途端に顔を顰(しか)められました。「そんな味のないもの食べられません!」だそうです。

彼女の場合、LDLコレステロールの値はさほど高すぎるというわけではなく、他の危険因子も特にないので、おそらくコレステロールの値をあまり気にしなくても大丈夫だと思います。ただ、こういう話をするとき、相手の思い込みと聞く耳を持たない頑(かたく)なさに閉口することが少なくありません。彼女は、健康に注意している、できることは何でもしている、と断言していますが、「パンにはバターがなければ食べられない」という考えを変える気はなさそうです。わたしは、焼いたパンとスープだけ(またはサラダだけ)でとても美味しいと思うんですけど・・・ちょっと試してみることで、今までの濃すぎる味覚を変えられるいいきっかけになるかもしれないのにもったいないなあ、と思いました。

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キャロット・ジュース

某老舗デパートのお中元商戦で、限定商品を扱っていた番組を観ました。

なんたらキャロットという(まあ外国の「ニンジン」だろうかな)野菜のジュースをお中元用に売っているのです。試飲会を催したり、店員さんがPRしたりなどで、目標の100セットを大きく上回った売り上げを見せていました。

「大嫌いなニンジンなのに、これは飲める。」「こんなに濃くて甘いのに糖がまったく入ってないのはすごいね。」などと、試飲をしたオバ様方がこぞって買っておられました。メーカーのスタッフも、「一度飲みさえすれば、必ず買ってもらえる自信がある」と豪語していましたが、まさにそれを実証した売り上げ数だったのでしょう。

でもどうなんだろう。健康ブームではあるけれど、思いの外美味しいのかもしれないけれど、それを飲み続けるものなのでしょうか。「ニンジンが苦手だけど、これは入っているのに全然気付かないからわたしにも飲める(食べられる)」というようなものがあったとして、それをわざわざ自分で買って何度も飲みたいと思うものなのでしょうか?

「これは食べられる」を、「だから毎日食べる」と勘違いしてはなりません。数ある中からあえてそれを選ばなくても何も困らないのですから。わたしが「バナナの天ぷらは苦手だ」と云っていたら、数年前、ある居酒屋でバナナの天ぷらを食べさせてもらいました。それは思いの外とても美味しくて驚きました。でも、その後あえてバナナの天ぷらなんか注文していません。そんなものでしょう。「とても良い娘」であっても必ずしも結婚を申し込むとは限りません。数ある中からあえてそれ1つを選ぶ、というのは、考えてみるととても奇跡的なことなのだと思います。

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やっつけ仕事

ある病院とテレビ局の共同企画で、渡辺淳一氏の講演会がありました。

急性胃腸炎で食欲がない、体調が悪いという彼は、15分か20分くらい話したあたりから時計を気にし始めて、半分過ぎたところで、「まだいっぱいあるなあ」とぼやき、それでもツギハギの「鈍感力」の話をきちっと1時間話して、終わりました。「仕事をキャンセルしようと思った」というだけのことはあります。まさしく「やっつけ仕事」だと思いました。私の方が上手く話せる気もしました。でも、そんな力の抜けた世間話のような1時間を、ちゃんと聴衆を笑わせながら、そっと医学的なエキスを交えながら、きちんとこなすあたりがプロなのかもしれません。

私だったら、与えられた1時間を有効に使おうをするあまり、あれもこれもと話題を詰め込み、早口で畳み掛けるような話をしてしまいます。それでは聴衆はかえって消化できずに不満足になる気がします。別に教訓を伝えたいわけではないし、勉強になることを教えたいわけでもありません。それなら、笑ってるうちに「何か」が残る、だけでも十分です。渡辺さんは決して話が上手いと云えませんでしたが、「やっつけ仕事」でもこれだけ聴衆の心を捕らえられるから偉いなあと思って帰路に着きました。

そんな「やっつけ仕事」の中で、覚えている文を書いておきます。詳細はご想像を!キーワードはもちろん「鈍感力」。

●長生きで元気のいい爺さんたちに共通の特徴は、「人の云うことをほとんど聞いていない」こと。

●「鈍感力」のある子どもになるには、おおらかなお母さんに育てられること。

●世のお父さんは、朝起きてきたお母さんに、「おはよう。今朝は一段ときれいだね」と云いましょう。ウソでもいいから。顔を背けながらでもいいから。

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甥のうつ

甥が会社を辞めました。

今年4月に新卒で就職したばかりでしたが、新人研修を受けているうちに、朝になっても職場にいけなくなってしまいました。

彼は次男坊です。長男はどちらかというと融通が利かない頑固な性格ですが、次男は子どものころから考え方に余裕がありストレスに強い人間だと思われてきました。あまり大酒は飲みませんが友人も多く、明朗快活な男だと思っていましたし、物静かで人格もよく、人望も厚いし、温厚な性格・・・申し分のない若者だと、本人も両親も自信を持ってそう思ってきただろうと思います。

ですから、今回のエピソードは、思いもよらない大事件だったに違いありません。自分でも自分の身体の変化を予想できずに面食らったでしょう。「○に限ってそんなことはないだろう」とわたしも思っていたくらいですから、母親のショックは大きかっただろうと想像できます。

まだ始まったばかりだったのだからもう少しガマンしても良かったのではないかという意見もありますが、自分に合わないと思った仕事なら早いうちに修正できてよかったのかもしれません。ただ、自分に自信があった(息子に自信があった)だけに、どんな仕事に就くにしても次の仕事を始めるときには、うまくいくだろうか、また同じことが起きるのではないだろうかという大きな不安に苛まれることでしょう。

まだまだ若い彼に、幸あれ!

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俯瞰図

きのしたさんに戴いたコメント(2009.7.6「叱咤激励といじめ」)を読みながら、きのしたさんへの返事が長くなりそうになったので、本文にも追加しました。

俯瞰図のお話、私には良く理解できます。一般には地図で教わる「鳥瞰図」と同じ感じですのでそっちの方が分かり良いかもしれませんね。私はできる限りそういう目で人生を考えてみようと思ってきました。医療の現場だけでなく、日常の生活でも、いつも俯瞰の位置から全体を眺めて冷静で中立な立場で物事を判断するように心がけてきました。

ですが、逆にそれはそれでまったく面白くない人生です。ご存知の方はご存知のように、わたしが贔屓にしているプロサッカーチームの試合(大苦戦中)を応援する場合、わたしはいつもバックスタンドのやや上の方から観ています。いわゆる俯瞰の位置で、そこからは全体が見えて楽しいのです。解説者になった気分です。そこからは、テレビでは見せてくれないグラウンドの片隅の選手の動きや、ボールを持つ選手に対して遠くで手を上げる選手の動きなど、手に取るようにわかります。何が悪かったか、何が良かったかを分析するのに最適な位置です。

でも、実はゴール裏や最前列にいる方がもっとワクワクできることも知っています。全体の流れは分からないかもしれませんが、贔屓の選手が自分たちに向かって走ってくる光景に興奮したり、ピッチに立つ選手と同じ様な目線で、重なり合った選手たちの臨場感たっぷりの動きを見ることができます。同じ試合を、俯瞰の位置とゴール裏の位置と同時に経験できたらいいなと思っている人は多いことでしょうが、それは絶対できません。それに対して、人生ではその「同時」ができます。俯瞰の位置からの客観的で冷静な目と、当事者の目で見る主観的で素直な感情とを同時に分析対象にすることができるのは、当たり前のことではありますがとても素晴らしい特権だと思います。

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叱咤激励といじめ

アドバイスの送り手は「叱咤激励だ」「愛のムチだ」と云い、受ける方は「いじめだ」「嫌がらせだ」と感じる。そこから軋轢が生じ、うつが生まれます。

「叱咤激励」と「いじめ」は、一体どこが違うのでしょうか。わたしは、それは「愛情」なのだと思っています。大学の運動部や相撲部屋に伝統的にあった後輩への「愛のムチ」には「愛情」はありません。いたぶることを楽しんでいます。戦時中の軍隊時代からの伝統なのかもしれません。ただこれらは、未熟者が未熟者を指導する図なのですから、お遊びでしかありません。

社会に出て間もない若者に「最初にガツンと云って聞かせておかないと付け上がる」と思いながら教える云い方と、「最初は失敗も当たり前。分からないだろうからできるだけわかり易く」と思って話すことばは、同じことを伝えるとしても全く違うことになるのは、火を見るより明らかです。受ける方も、相手を苦手だなと思って聞くか、信頼感を持って好意を抱いて聞くかでは、まるで違う印象になってしまうものです。自分がイライラしていて、その気はなかったのについ辛く当たってしまうこともあるでしょう。そのときに、「悪いことをしたな」と若い部下に素直に詫びる心を持てるような上司なら、受ける方は決してひねくれたココロには陥りません。お互いがお互いを尊重できる関係になるには「愛情」が必要不可欠なのです。

●受け手への愛情はあるか。●送り手の心に余裕はあるか。●それによって具体的にどうなってほしいのか。

○受け手に心の準備はできているか。○送り手を信頼しているか。○それによって具体的にどうなりたいのか。

・・・結局は、気持ちの相互関係の問題なのだと整理できます。

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体育会系の職場

日本の企業は、大なり小なり体育会系のノリで大きくなってきたと云っても過言ではありません。根性とやる気をバネにして、先輩に理不尽な怒られ方をすることがあっても、「愛のムチ」でしごかれ続けても、それでもそれに耐えて、自分を犠牲にして頑張ってきたからこそ成り立ってきたのだと思います。

むかしながらの定形型「うつ病」は、真面目で几帳面な性格の人がかかりやすいのが特徴です。また新しい形の非定形型「うつ病」が若者の間で増えていますが、寂しがり屋で自己愛が強く、他人への不信感が強い特徴があります。どちらのタイプであっても、この「体育会系の職場」ではかなり辛いところがあります。

なぜなら、「体育会系の職場」では、●みんなそうやってきたんだ。●甘ったれているんだ。●気合があれば乗り切れるはずだ。●最近の子は怒られ慣れていないから壊れる。●付いていけないヤツは辞めればいい。・・・おそらく、現場の管理者の多くがそう思っていますし、自らがその環境の中で育ち成長してきたという誇りと自負があるのです。これを変えようとするのは、よほどの事件が起きるか鶴の一声があるかしかないと思います。

「うつ病」で復職した彼のはなしを聞きながら、救急現場で常に命を相手に厳しい戦いをしているうちの病院でも十分ありえる内容だと思いました。うちの病院にも同じ様なケースがあっていることを知っていますが、管理者たちが時々こぼすグチを聞く限り、おそらく彼らもまた「最近の子は困ったものだ」としか思っていないように感じます。うちは日本でも有数の先進的な職場だと誇りに思っていましたが、相変わらずの旧態依然とした風土なんだなと思うと、ちょっと寂しい気持ちになりました。

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ゆるせない(後編)

この「怒り」の感情は、うつの状態から回復していく過程で、どうしても生じてくる感情です。少し余裕が出てきた証拠であるとも云えるでしょう。今でも治療を続けなければならない自分や家族への迷惑を考えるとき、「のほほんと平気な顔をして生きている加害者」だけでなく、何の対策も講じることなくそんな「加害者」を野放しに許している職場自体にも、ガマンできないような苛立ちを感じるのでしょう。わたしにも経験があるので、その気持ちは手に取るようにわかります。そのことを思い始めると動悸がし、吐き気がし、床についても興奮して眠れなくなってしまいます。

でも、じゃあ、どうしたらいいのだろう?と、彼に質問してみたいところです。その上司を降格させたり辞めさせたりしたらいいのでしょうか?その上司が彼が思っている程度の人間なら、彼のことを逆恨みしてもっと嫌がらせするかもしれません。彼はかえって働きにくくなるかもしれません。彼はそんな仕打ちに耐えられるのでしょうか。その上司が罰せられても、あるいは指導者から退いても、きっと彼の心はそれだけでは満たされることはなく、何ら解決しないことでしょう。

結局、彼自身がその上司を許してやれる心の状態になるときまで、彼の今の苦しみは続くことになります。でも、今の彼には信じられないかもしれませんが、その日はそう遠くない将来にやってきます。自分がこだわっていたことが大したことではないことに気づき、他人を気にしていたこと自体がくだらなかったと思えるときが、今回の「うつ病」から卒業できるときなのだろうと思います。「時が解決する」というのは真理です。それを得るために焦らずゆっくりとした時間を費やしてもらいたいと思います。

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ゆるせない(前編)

わたしが産業医をしている企業のある若者がうつ病になりました。就職後、上司の厳しい指導についていこうとするうちに体調がおかしくなり、動悸がひどくなって仕事に行けなくなりました。とうとう彼は病院を受診し、「うつ病」の診断書とともに休職しました。そんな彼が数ヶ月前に復職しました。それなりに順調に回復し、現場復帰できています。

産業医として関わっているわたしは、先日彼とゆっくり話をしました。一通り彼の思いや近況を話してもらったあと、「もう言い残したことはないの?」と聞いたら、しばらく口ごもったあと、やっと重い口を開けました。

「自分がこんな形で復職できたことはとても幸せで有り難いことです。でも、たとえどんなに反省してもらったとしても、やはり、自分をこんな身体にし人生をボロボロにさせた上司が、何のペナルティも受けないことに納得がいかない自分があります。彼のやったことは「いじめ」であり、同じことが行われて自分と同じような目に遭う若者がこれからも出るとしたらそれは「犯罪」ではないかと思うと、どうしても彼を許せないのです。」・・・ずっと静かに穏やかだった彼の顔色が蒼白になり急に涙をボロボロ流し始めました。

明らかな感情失禁状態なので、その話はそこで終わることにしました。

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徹底的に?

「わたしの身体を徹底的に調べてみました。ありとあらゆる検査をしてみました。」というオジさんが時々います。「徹底的に」とか「ありとあらゆる」とかいうことばは、まあ本人の心意気を示しているだけなのだろうなとは思うのですが、でもやっぱり何か違和感があります。

ニンゲンの身体を「徹底的に」調べる、ってどういうものだと思っているのでしょうか?健診や人間ドックは、もちろん何も徹底的ではありません。むしろ何もないことを念頭に置いて、グローバルな項目をさらっと表面的に流しているにすぎませんから、よっぽどの異常でもない限りひっかかりません。病院では、何か訴えられている症状に対して想像される病気があるかどうかを調べますので、ターゲットはかなり絞られているでしょう。「身体中を徹底的に」などありえません。神秘な世界の集合体である「身体」をバカにしているのか、医療の検査器具を過信しているのか、あるいは「権威ある」医者の云っていることばを鵜呑みにしているのか。

わたしはとても意地悪なので(というより、とても性格が悪いので)、そんなオヤジが誇らしげにしていると、ついつい苛めてみたくなります。このプライドを弄ってみたらどうなるのだろう?と思ってしまいます。「それは大した検査ではありませんよ」とか「それじゃあ、ほとんど何も分かりませんね」とか、平気で云ってみたり・・・きっと、いけ好かない、態度の悪い医者に見えていることでしょう。

だれが最初にこんなことばを云い始めたのでしょう。きっとどっかの有名な文化人か芸能人か政治家なのに違いがありません。ニンゲンの身体を調べるために、隅から隅までありとあらゆる検査をするなら、体力的なことも考えると(非人道的ですけれど)、3ヶ月くらいかけたらそれなりのレベルはできるものなのでしょうか?

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「右」と「左」

「右」と「左」の書き順も面白い対比です。「右」は「ノ」から書いて横棒が長い、「左」は「一」から書いて「ノ」が長い。子どもたちを悩ませるこの2つの文字の違いもまた子どものころに面倒くさがらずにきちんと教えてあげてほしいものです。

由来は象形文字から来ていますから、知ってみるとそれなりに面白いし、書き順が決まった理由も理解しやすいと思います。

一方で、「覚え方」を検索してみるとこれまた面白い。「ノ」「一」と続けると右回りで、「一」「ノ」と続けると左回りだ(これは子どものころ聞いたことがあるかもしれません)とか、「ノ」は右側から書き始めるけど「一」は左側から書き始める、とか・・・。なるほどねえ、と思わず唸ってしまいました。じゃあなぜ「さゆう(左右)」と「みぎひだり(右左)」の言い方の違いがあるのか?・・・書き順をきちんと覚えましょう!ということを書きたくてちょっとネットを検索していたら、そんないろんな世界に入り込んでしまいました。何事も深く入っていくと面白いものです。

ところで今、「漢字の書き順」はあまり問われなくなってきているそうです。「~でなければならない」という根拠がないから、他の説もあるから、などの理由だと聞いています。そういえばテレビのクイズ番組でインテリ芸能人と称する高学歴のお嬢さん方の漢字の書き順をみると、あまりにユニークで目が飛び出そうになります。きっと彼らは文字を絵(画像)として記憶させるのでしょう。パソコン・携帯世代だからなのでしょうか。まさしく右脳の働きですね。

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