« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »

2009年8月

「20世紀少年」に重なるもの

昨日、「20世紀少年」最終章を映画館で観てきました。

全然興味はなかったのに、数日前に第二章と一週間前に第一章をテレビで観せられて(他に面白いものがなかったからという理由だけで)、最後が気になってしょうがなくなったからです。テレビ局の目論見にものの見事に嵌(はま)った感じです。

「くだらない!」と思う御仁もたくさんおりましょうが、わたしはこの話は総じて好きでした(原作マンガを読んでいませんが)。わたしの世代にドンピシャだったということも理由にないわけではありません。秘密基地、作りました。当時のいろいろが思い出されますが、きっとクラスメートの1人くらいは存在を忘れてる人がいます(自分がそれだったりして)。わたしもみんなで想像しながらあんな空想マンガを毎日書いていました。あれはどこにいったかなあ。

そんな思い出がある一方で、小学校時代の「ともだち」との付き合いは中学校に上がるときに途絶えました。中学校で地元に進学していないのです。高校や大学で一緒になった人もいましたが、結局お互いに尻込みして話すことは二度とありませんでした。自分の問題ではありますが、それはさびしいものでした。

ただ、昨夜はこの映画を観るべき日ではなかったのかもしれません。あまりに気持ちが悪いのです。昨日は衆議院選挙がありました。民主党圧勝の様子はまるで映画の中の「民友党」のように見えます。鳩山さんの演説に集まった聴衆はエキストラではありません。驚きよりも怖さを感じます。昨日は24時間テレビもありました。国民全員を巻き込むお祭りがまたまた映画とダブります。なんと、今の時点で募金が2億5千万円もあったそうです。何かがおかしい気がしてなりません。そして映画館は子どもたちで溢れていました。新型インフルエンザが蔓延する中でこんな無防備な(わたしもその一人)人ごみが何事もなかったかのように広がっているのでした。

| | コメント (0)

携帯電話

信号が赤になったので車を停めました。脇道から猛スピードで飛び出してきた大型トラックの運転席には、携帯電話を片手に楽しげに笑いながらハンドルを切っているお兄さんが見えました。その対角の歩道には、一心不乱に携帯メールを打ちながら自転車を走らせる女子高生もおりました。

最近よく見かける光景です。一体、法律ってなんなんだろう?運転中に携帯電話を触ると交通違反=6000円の罰金と違反点数1点というのが決まったのはいつだったでしょうか?もう5年も前の話です。どう考えても意味のない「ハンズフリー・グッズ」が良く売れました。始まったときにはかなりの数の運転手が捕まりました。でも、いつの間にかだれもが平然と携帯片手で運転しています。もしかしたらパトカーとすれ違っても、追いかけられないかもしれないと思うこともあります。

「自転車運転中の携帯電話使用禁止も定められました!」・・・先日出席した運転免許更新の講習会で、交通安全協会の講師は誇らしげにそう云いました。「でも」・・・わたしは手を挙げて質問したかったけれど、話好きな彼は時間をかなり超過していてみんなイライラしていたのでやめました。そんな規則を作ったといったって、きっと高校生たちのほとんどはそんなこと知らないんだと思います。講習会から帰る道すがらでも携帯少年の自転車を見かけました。

実のない法律が存在するのはしょうがありません。ただ、実体がない法律だということを、警察や交通安全協会の皆さんは素直に認めておいていただきたいです。少なくとも、実質は何も変わってはいないということを。でも、かといって狭い道の路肩で、大きな車に急に停まられるのも、それはそれなりにとっても迷惑ではあります。

| | コメント (0)

いっぱい食べても脂肪抑える化合物発見

いっぱい食べても脂肪抑える化合物発見http://www.asahi.com/science/update/0828/OSK200908270148.html

朝日新聞にこんな記事が出ていました。

京都大学のグループが「細胞内で脂肪の合成を抑える化合物」を発見したというのです。食べ過ぎで肥満になったマウスにこの化合物を与えたところ、体重増加や血糖値上昇を抑え、脂肪肝になるのを防いだそうで、糖尿病や脂肪肝などの治療薬開発につながる可能性を示唆しています。

この異常な過食・肥満社会では福音のような話です。ただ、わたしはどうもこの手の開発が好きになれません。現代社会で全人類の目の敵にされている「脂肪細胞」ですが、本来この「脂肪細胞」が動脈硬化を抑えて糖尿病を予防する仕事をしています。食べ過ぎて脂肪細胞が大きくなりすぎて、そのために本来の仕事ができなくなった。でも食べる量を減らすのは辛いから、それじゃあ、増えないようにする物質をみつけよう、という発想はどうしたものだろう?そんな欲求を満たすためだけのために、本来の生物のもっている機能をいじるようなことをしても本当に大丈夫なのだろうか?綿々と精密に組み合わされて作られてきていた生物の細胞機能が人間の都合に合うように姑息に操作されてしまうのは、遺伝子操作と同じように、何かとんでもないしっぺ返しを食らわせられるのではないのだろうか?心配性のわたしにまた心配の種がひとつ増えました。是非とも、重篤な病人に限定した福音のレベルで抑えてほしいと切に願います。

| | コメント (0)

目標達成術

メディカルサポートコーチング(奥田弘美先生)の今回の講義のメインはこっちでした。

「マイゴール(自分の目標)」を設定し、それに対してメリット・デメリットを書き並べ、さらに具体的なゴールした姿をイメージしてビジュアル化する。次に具体的に何をしたら達成できるかを書き並べた上で、何からするかを決めていくのです。他のコーチングのセミナーでも、あるいはあるネットビジネスの研修会でも同じようなことを教わりました。これはコーチングの基本的な手法ですので、とてもいい方法だとわたしも思います。ただ、やはりわたしは、こういう研修の場だから、あるいはどこかに相談に行った先だったり、グループでやっているときだから、できるのだと思ってしまいます。だれからも「書いてごらん」と云われないのに、だれも見ていないのに、自分だけで「書く」という作業が習慣になっていないのです。自分に素直になって自分の心の中で「自分を見つめて考える」ということは割合抵抗なくできることです。なのに、それを文字にして形にするという行為が、どうも気恥ずかしいのです。

それでも今回は「演習」でしたので自分でもやってみました(もちろん、「やれ」と云うからやるのですが)。「まず『私の達成したいこと』を書いてください。何でも良いです。」・・・先生は軽い口調で云いました。ハタとペンが止まりました。そうだった!まず第一に、私は「自分の達成したいこと」がはっきりしないのだった!書いては消し書いては消しした挙句に、やむを得ず、「酒をやめたい」と、アル中のオヤジらしく殊勝なことを書いてみました。メリット・デメリットも書き並べました。・・・そして最後に、「とりあえずやること」として「帰ったらすぐ犬の散歩に行き、家に戻ったらすぐに大量のお茶を飲む」と書きました。「いつからしますか?」の問いには「あしたから」・・・。

「今夜からする!明日朝になったらもう今の心は半分になってますから、必ず『今夜から』何かをしてください!」・・・日頃の講演で、いつもそう話している私ですのに。

| | コメント (0)

「人は聴いてもらえないと動かない」

ブラッシュアップ研修会では『メディカルサポートコーチング』の話もありました(精神科医、奥田弘美先生)。

「応用編」がメインでしたが、やっぱりわたしの頭は「基礎編」で停滞します。すべては「聴くこと」から始まる。「耳」プラス(+)「目」と「心」と書いて「聴」とは、まあよく考えたものです。先入観を持たずにとにかく聴く。うなずいて相づちを打ち、オウム返しを繰り返す・・・2年前の情報管理指導士の資格取得のための研修会でも教わりました。そして反省しました。でも、やっぱりできていないなあ。途中で一切口を出さずに聴くことも、オウム返しも、理屈で分かっていてもできていないなあと、またまた反省です。まあ反省は何度しても良いことです。その都度リスタートのきっかけになりましょう。また今日から意識のし直しですね。

そんな中で、今回わたしのこころに残ったスキルは「ペーシング」です。「ペーシング」、つまり相手にペースを合わせること。同じ視線、同じ声の調子、同じ声の大きさ、同じ速さ、同じ雰囲気・・・これを合わせて調和したときの心地よさは自分でもよくわかります。わたしはつい早口になってまくし立てるクセがあるので、時々リセットさせて、ゆっくり、落ち着いたトーンで意識的に話すようにすることがあります。ところがこれがあまり奏功しないのです。「暗い」とか「態度が悪い」とか云われ、どうも評判が良くないのです。これは、そんなTPOをわきまえていない、いわば「KY」の典型なのだと云うことが理解できました。

| | コメント (0)

LDLコレステロールの位置

先日、人間ドック健診情報管理指導士のブラッシュアップ研修会に行ってきました。単位取得のためではありますが、実際の特定健診・特定保健指導に携わっている人たちの研修会なので、「ただ出るだけ」的な出席者は少なく、講義もおもしろくて、割といい時間を過ごせたと思います。

特定健診の必須項目に入ってない高LDLコレステロール血症や、慢性腎臓病(CKD)の元になるクレアチニン値の問題、あるいは肝機能障害の有無など、実際にやればやるほど問題点はどんどん表に出てきます。それに不満を持ちながら、最悪のシステムだと批判しながらも、きちんと活用して実りあるものにしようと、日本中の現場はみんな本当に頑張っていることがわかって心強く思いました。

メタボリックシンドロームは、もともと「LDLコレステロールは正常で、中性脂肪やHDLコレステロール異常のある人」でした。ところが、いつの間にか後者だけが取りざたされてしまいました。だから、特定健診(メタボ健診)の必須項目(中性脂肪、HDLコレステロール)に従って特定保健指導の対象にされている人の中に、すぐにクスリを飲まなければならないような高LDLコレステロール血症を合併する人もかなり含まれています。こういう人は、保健師さんや運動指導士さんのお世話になる前にまずは病院を受診しなければならない人たちです。ヘタをすると、やせるために運動をしている最中に心筋梗塞や脳梗塞になる危険性があるからです。ところが、今のメタボ健診の条件では、必ずしもLDLコレステロールを加味しなくてもいいのです。医療の素人である保険者が、「してくれ」といえば基本的にはしなければなりません。怖い話だと思いませんか。

でももっと怖いのは、今回の選挙です。マニフェストによると、民主党が政権をとったらこの膨大な金をかけて始めたシステムがなくなるかもしれません。馬鹿げています。

| | コメント (0)

LDLコレステロール直接測定法

LDLコレステロール(LDL-C)、通称「悪玉コレステロール」を知っていますか。

現代社会の病気、特に動脈硬化をもたらす生活習慣病の主役を演じるのがこのLDL-Cです。日本人のようにHDL(善玉)コレステロール(HDL-C)が多い人種では、世界が騒いでいる総コレステロール(TC)ではなくてLDL-Cの高値こそが問題なのだということで、2007年に日本動脈硬化学会が「動脈硬化性疾患予防ガイドライン2007」を発表したときに、管理目標の指標をTCからLDL-Cに変更しました。テレビのCMで徳光さんが「LDLコレステロールが・・・」というのを聞いたことがあると思います。最近はあえてLDLということばを広げようとしているようです。企業によってはTCを検査項目から削ったところもありました。

ところが今、そのLDL-Cを直接測定する方法に疑問符が投げられています。第41回日本動脈硬化学会総会のシンポジウムで発表された内容によると、現在LDL-C直接測定法を臨床応用できている8つの方法の間にバラツキが大きすぎて、精度面で問題ありということです。検査の方法によって数値に差が出てくるようでは、出てきた数字に意味がありません。学会としての結論は、今のところはできるだけ間接測定法(Friedewald計算式)で計算した数値を優先した方が良いということです。そうなると自ずとTCを測定しないとLDL-Cの値は出てこないことになります(LDL-C=TC-(HDL-C)-TG/5)。

ちなみに、だからこそ以前ここで書いた「non-HDL-C」を指標にするのが良いのではないかという意見も現実味を帯びてきているようです。まだまだ混沌としています。

ただ、動脈硬化の主役がLDL-Cであるということには変わりはありませんので、しっかりと食事療法に励みましょう。

| | コメント (0)

おまんじゅうの食べ方

軽い糖代謝異常を有するわたしの義母は、それなりにきちんとした食事療法をしています。定期的にスポーツジムで運動もしていますし、夜7時に夕食を摂って以降は何も口にしないということをしっかり守っています(と、本人が云っています)。

そんな彼女の現在の最大の命題は、お客さんや友人が持ってくる差し入れのお菓子とどう戦うか?です。洋裁の仕事をしている義母の人付き合いはとても広く、家に来客が絶えません。彼女の世代の女性は、当然のごとく手ぶらで来たりはしません。もってくる菓子は甘いものばかり。そして独り暮らしだというのに、体裁を整えて包装された菓子箱のなんと大きいことか。加えて、糖尿病家系の人間のサガとして、甘いものはキライではないのです。

さてさて、そんな条件の女性は世にたくさんいるはずですが、甘いもの、特におまんじゅうを食べるとき(「食べない」の発想は無理だから考えてはいけません)、できるだけ食後高血糖にならないですむ食べ方はないのでしょうか?先日、うちの管理栄養士さんに聞いたら、「食間に食べず、食事に続けて食べる」が一番だ、という答でした。そんなのはダメです。欲しくなるのはおやつ時の小腹が空いている時間帯なのですから。しかも、「ごはんの後のケーキは別腹」というのは、日常茶飯事の常識ですからあまり意味がありません。○○のお茶と一緒に食べるといいとか、△△と食べあわせるといいとか、そういう怪しい健康番組に出てきそうな、そんな下世話な朗報が何かないものでしょうか。

10月に生活習慣病の食事についての研修会があるようなので、そのときに質問してみようかな、と考えているところです。

| | コメント (2)

日々勉強

先日、中学時代の同窓会がありました。

その二次会で、地元で開業医をしている友人が、「勉強はあんまり関係なかったね」と云いました。彼の云いたかったのは、「学生時代の成績と社会人になってからの成功とは関係がないね」ということだったのかしら、と勝手に解釈しました。

ただそのことばを聞きながら、「いやいややっぱり勉強は大事だと思うよ、Fくん」・・・そう云いたい心境でした。学生時代の成績云々はどうでもいいことだとしても、やはり医者になってから(社会人になってから)は明らかに勉強した者勝ちだと実感します。日々勉強です。医業だけでなく、今の社会は勉強に勝るものはありません。経験も勉強ですし、極める遊びもまた勉強です。獲得した知識と経験に満足していたら、そんな輩はいとも簡単に取り残されてしまいますのです。

「もっと若いころに勉強しておけばよかった」という後悔は、たしかに少しはありますが、そんなことよりも、今現在、面倒くささにかまけてどんどんずぼらに生きている自分が気になっています。そんな何もしないままに過ぎゆく日々に、本当は相当な不安と焦りを感じているのです・・・。それを再確認させてくれた友人でした。

と、こんなこと書いているヒマがあったら、勉強しなさい!

| | コメント (0)

覚えているもんか!

健診であれ、病院受診であれ、「既往歴」というのを問われます。自分の病気史をきちんと紐解いて教えろというわけです。数日前に秋の職員健診がありました。その案内書に「今回はシステム更新に伴い前回までにお伺いした内容の表示が出来ませんので、当日受付にて改めて『本人既往歴』『家族歴』のご記入をお願いします。」と書いてありました。

バカ云ってはいけません。そんなもの覚えているわけがない。前にも同じことを書きました(2009.1.4「既往歴の記憶」)。ない記憶をたぐり寄せながら何とか病名を思い出しました(それでもかなり落ちているでしょう)が、年齢を思い出すのは不可能です。「子どものころ」か「若いとき」か「最近」かの区別くらいではいけないのでしょうかね。そうじゃないと無理ですよ、と駄々をこねてみました。社会保険庁の「ねんきん特別便」の職歴調査ですら一応わかっている職歴が書かれているからこそ断片を抜き出せるのです。

自分の病気の歴史なんだから当然覚えているでしょう!という顔でわたしをにらむ保健師さん、そりゃあなたは生きてきた歴史が短いから記憶が鮮明でしょう。そんなあなたにはきっと理解出来ないことでしょうけれど、覚えていないものは覚えていないのです。ということで、今年、わたしは自分の歴史を改ざんいたしました。

| | コメント (0)

わたしはそれです。

「『萎縮性胃炎』は"胃が歳をとって細胞がしわくちゃになった"という意味ですので、是非とも胃の負担を取ってあげてください。『食べ過ぎない、飲みすぎない、イライラしない、よく噛んで食べる、夜遅くにモノは食べない、食べてすぐ寝ない、禁煙する』・・・」と説明していると、相手はそれを奪い取るように、すかさず答えるのです。「ああ、わたしは『イライラしない』だわ!」と。

だれも、「これらの中のどれかひとつを選びなさい」とは云ってません。どれもこれも全部が必要なのです。頭を掻きながら、「全部当てはまってますね」と云う人は割と冷静に自分を分析できている人だと思います。それに対して、ほとんどが当てはまっているはずなのに、その中のひとつを取り出して「それだ!」と主張する人は、自分に自信があるのではなく、どうも自分自身が分かっていないことが多いように感じます。

「生活習慣病の治療の基本は、『無駄に動く、無駄に食べない(作らない)、タバコを吸わない』です」と云うと、「わたしの場合は運動不足ですね」と自己解析する人もいます。そんな場合、わたしは、「自分で解析するのとは違う方に真の問題があるもの」という感覚で話を聞くことにしています。「それ以外は自分はできている」という主張ではなく、それ以外の部分は「触れたくない」という気持ちの表れのように感じるからです。

ちなみに、多くの皆さんが勘違いされますが、「そんな生活をしていなかったから萎縮性胃炎になった」のではありません。そういう弱った胃の状態になっているから、これからはそんな生活に心がけて「胃をいたわってやってほしい」、といっているのです。

| | コメント (0)

「いっぱいごめん いっぱいありがと」

認知症のお母さんをもつ友人の話を書きました(2009.8.8)。その友人が、先日「本屋で引き寄せられるようにして見つけた」という絵本を貸してくれました。

いっぱいごめん いっぱいありがと (岡上多寿子 木耳社)

"認知症者の母とともに"という副題のついたA4横のその絵本は、この上ないやさしさに満ちていました。認知症になっていく母、母が母でなくなっていくことへのとまどい、母への感謝の気持ちと自身の懺悔と・・・75編の詩が自作の挿絵に添えられた数行の筆文字のかたちで書かれており、それが実の母娘のすがたを素直に表しています。わたしはを若くして胃がんで亡くし、ひとり暮らしだったも突然この世から居なくなりましたので、幸か不幸か晩年を一緒に過ごす親がおりません。それでも本屋で絵本を手にとって熱いものが溢れてきたというわたしの友人のことばがよくわかります。今、認知症の親御さんと過ごしながらこころとカラダを疲れさせ続けている多くの方々に、このやさしい文字と挿絵をながめながらひと休みしてもらいたいなと思いました。

・一緒にいたけど独りきりだったかもしれない 母さんの目が淋しそうだった

・本日私は 鬼と人との間でした

・見るでなく 前をながめつ ろうろうと歩く母のうしろから「何想う 何処へゆくのか」問いもせず あと一時間つきあおう

・晩年の母の生るを乱した私

| | コメント (0)

意外に噛んでない

数年前、夕食のおかずを半分にしてみました。わたし自らが提案したことですが、外で何も食べてきていないということを妻に信じてもらうのに半年かかりました。「あなたにはありえない!」と云われました。あのころ、半分になったおかず(もちろんごはんも半分)を口に入れながら、良く噛みました。噛まないと目の前のものがすぐになくなるからです。飲み込みかけたものをもう一度口に戻して噛み直したこともあります。

だから、今でも弁当をたとえ5分で食べても、ちゃんと噛んでいる自信がありました(「噛む時間なんかありません」2009.7.26)。

先日、消炎鎮痛剤の影響で逆流性食道炎になりました。一日中胸焼けがひどく、ものを食べると痛みさえ感じるようになりました。昼食のために持っていくのは、いつも5分で食べ終えることのできる小さな弁当箱です。いつものように弁当箱を開けましたが、やはり痛くて飲み込めません。なかなか飲み込む勇気が出ないため、いつまでもいつまでも噛み続けました。

このとき、再認識しました。これまで自分は噛んでいるつもりでいましたが、いつの間にか全然噛まなくなっていました。世間の人より噛んでいるかもしれませんが、でも自慢するほど噛んではいません。「噛む」って、こういうことだな、と思い出しました。それをしっかり再認識することができたのは逆流性食道炎のおかげだと思います。

でも、食道炎も良くなって、またちょっと噛まなくなってきたかな、と反省。

| | コメント (0)

自然(じねん)性の人

稲盛和夫という人が、京セラやauを創業した人だということはもちろん知りませんでした。「稲盛和夫 名言」と検索するだけで30000件以上ヒットしたところをみると、知らない方がおかしいのかしら。

前述の『へこたれない』(鎌田實・PHP研究所)にも彼の名言が載っていました。

*******************************

(彼は)六十歳からの二十年は死への準備に充てるべき期間と明言した。「生まれた時よりも少しでも良き心、美しい心になって死んでいく。これが大事なのです。人を見ていると、どんなにまわりが燃えさせようとしても、不燃物のようにまったく燃えない人もいます。ちょっとこちらが刺激してあげれば、燃えることができる人もいます。そんな人は可燃性の人。でも大事なのは、自然性の人。自分が、自ら燃えることのできる人。燃える人間になってほしい。」彼は常に人のために生きることを忘れない。いつも燃えながら生きている。すごいなと思った。・・・(略)

*******************************

不燃性の人、可燃性の人、自然性の人・・・とても分かりやすい説明だと思いました。でも、本当はだれもが「自然性」の要素をもっているに違いないと思います。もちろん、本当は「可燃性」なのに他人が火をつけようとすると途端に「不燃性」になる人もいます(簡単に云えば、わたしのような天邪鬼な人)。自分が自分自身を見つめる中で、これをしてみたい、と思った何かがみつかったとき、人は大なり小なり燃えるはずです。あとはそれが小火(ぼや)で終わるのか、メラメラと燃え上がる炎になれるのか、そこが問題なのでしょう。やはりせっかく着いた火ならきれいに燃え上がらせたいものです。もっとも、燃えすぎて大火になりすぎるのは考えものですが・・・。

| | コメント (0)

母乳信者の誤算

小児科クリニックに勤務する妻がテレビをみながらぼやきました。テレビでは、ある産婦人科病院で新米お母さんが我が子に母乳を飲ませる教室を開催していました。

「何でも『母乳、母乳』!って云ってるけど、実はそれなりに考えものなんだよね。保健師さんによっては、ミルクは毒物だから絶対飲ませちゃダメ!母乳あるのみ!って指導する人までいるのよ。困ったものよ。」

母乳には赤ちゃんが必要とする栄養素が、バランス良く過不足なく含まれている。そして母乳には病気に対する免疫力がたくさん備わっていると云われます。

ところが、最近の若いお母さんときたら、決して栄養が十分とは云えません。だから母乳だけで育てると、赤ちゃんに十分な栄養が行き渡らない危険性もあることが報告されています。そしてもうひとつの誤算は免疫の問題。今時の若いお母さんたちは子どものころに本当の病気にほとんど罹っていません。わたしたちは、風疹(三日はしか)・麻疹(はしか)・水痘(水ぼうそう)などに普通に罹っていましたが、最近はワクチンをきちんと打っているために、罹らないままのヒトが少なくないのだそうです。ワクチンで作り上げた免疫力は、本当に罹ったときにできる免疫力ほど強くないのです。つまり、お母さん自体に大した免疫力が備わっていなかったりします。

たしかにミルクは毒物です。アレのためにアトピーになり、喘息になり、栄養過剰になり、骨を弱くします。それでも、それでなくてもあまりおっぱいが出ないお母さんが少なくないのに、あまり万能ではなくなっている母乳神話に完全にしがみつくのは、もしかしたらあまり現実的ではないのかもしれません。

昔の常識は、机上の空論としてうち崩されていくんだろうかなあ、と思いました。

| | コメント (0)

お金持ちじゃなかったんだ

「借金してでも、家を売ってでも、絶対大学に行かせてやるから金のことは心配要らん。安心して勉強しろ。」

わたしが高校生だったある日、父がマジメな顔をしてわたしに云いました。少し酒に酔っていたかもしれません(今のわたしと同じように、彼はいつも酔っていたような気がします)が、でもいつになくマジメな口調でした。

これは意外に堪えました。親としての思いやりだったのだろうと思いますが、急にそんなことを云われて芯から面食らいました。うちは大金持ちではないけれど、少なくとも中の上クラスの金持ちで、とりあえず贅沢しなければ金には困らない家庭だと思っていたからです。今はどうだか知りませんが、当時の学校の先生の給料はそれなりに高給でした(と思います)。それが2人です。単純に×2です。すでに東京の私立大学に通っている姉が居たとは云え、もうひとり大学に行かせるのに、『家を売ることも吝(やぶさ)かではない』はさすがに予想だにしないことばでした。きっと彼なりの計算をするとこれからとんでもない金がかかると思ったのでしょう。特に医学部なんか入った日には・・・そうか、たしかに私立医大に行かせてもらえるような金はなかったのかもしれません。とにかく、彼が息子を思って気を遣って云ってくれたのであろうと思われるあのことばは、ホントにショックでした。

ちなみに、わたしが大学に入学してすぐに退職した母の退職金の利子だけでわたしは月々の生活をまかなっていましたし、アルバイトすることもなく青春を十分堪能しました。国立大学の学費が年間14万円くらいに上がったばかりのころのはなしです。

| | コメント (0)

妙な夢。

先日、ちょっと変な、ちょっとイヤな夢を見ました。

新しく赴任した病院の当直表のようなものありました。スタッフのだれかが忘れて行ったようです。何をみるというわけでもなく何となく覗いてみました。私の名前がありました。よく見ると、その私の名前の横に、小さな走り書きがありました。

『○○先生は本当に信頼できるのか?疑問!!』

どういうこと?オレが何かした?いや、オレが何かしなかった?仕事でもサボった?何かいい加減なことでもした?だれが書いた?「何じゃこりゃ?」と怒ることよりも、むしろもの凄い勢いで不安感が押し寄せてきて、めまぐるしく頭を巡らせる羽目になりました。誰かが自分のことをそういう目で見ている。何を誤解しているかわからないけれど、自分をそういう目で見ているヒトが近くに居る。そう思うと、疑心暗鬼になります。妙な胸騒ぎがしたとき、目が覚めました。

イヤな夢でした。でもこれはわたしが見た夢ですから、きっとわたしのこころの中を表しているのだろうと思いました。その漠然とした不安には、覚えがあります。仕事をしている最中だったり、スタッフと世間話をしているときだったり、あるいは宴会で病院幹部と談笑しているときだったりにそれは突然襲ってきました。相手の目が笑っていません。「何を云ってるの?」とあざ笑っているように見えます。完全アウエイです。自分の存在がなくなっていく感覚になります。おそろしい感覚です。

やっぱりわたしは病んでいるのかしら。

| | コメント (0)

3Dアート

焦点をぼやかしながらぼーっと眺めていると、突然その中に立体画像が浮き出てくる絵があります。3Dアートとかいうやつです。「裸眼立体視(ランダムドットステレオグラム)」と云うんだそうです。

初めて目にした15年くらい前にはなかなかうまくいかずに苦労しましたが、最近は隠れた世界を簡単に目の前に展開させることができます。訳の分からない幾何学模様の中に、突然ハートマークの山やらせん階段が迫ってくる感覚は、経験したことのある人にしかわからない感動です。

わたしは、生活習慣病を持つ受診者のだれかが「あ、そうか!」という閃きを感じて、その後の生き方を変えてくれるきっかけになってくれればいいなという思いで、いつもアドバイスをしています。健診を受けるということがそのきっかけの場になればいいなと。自分でも経験したことのあるその感覚は、ちょうどこの3Dアートに似ているなといつも思っていました。一生懸命に凝視しつづけるだけではその感動の世界は姿を現しません。でもいろいろと模索しながらいろんな角度からながめていると、それはあるとき突然浮かび上がってくるのです。「わあ、これか!これがみんなが騒いでいた世界なのか!」・・・このとき、川の向こう岸で楽しんでいる皆さんの世界の中に突然ワープすることができるのです。

「なんだ、簡単なことじゃないか!」・・・経験したヒトが必ず思うその感覚は、経験できたヒトにしかわからない感覚なのです。それをできるだけ多くのヒトに味わってもらいたい。意外に殊勝なわたしです。

| | コメント (0)

健診医の仕事

eGFRの評価を始めて4ヶ月あまり、先日医局の会議にちょっと遅れて参加したら、それが問題になっていました。あまりにも異常値としてひっかかる人が多く、意味を説明するのに時間がかかるから判定基準から消した方が良いのではないか、というニュアンスの意見でした。

「何を云ってるんだろう、この人たちは?」と耳を疑いました。異常者が多すぎるのは基準がおかしいからだと云いたいのだろうか?思っていた以上に腎臓の予備能が落ちている人が多いということがわかっただけのこと。だからこそ動脈硬化の危険因子を持っている人の生活改善をもっとしっかりやってもらいたい、と指導するのには恰好の材料だと思っているわたしとは、やはり根本的な健診に対する考え方が違うのだなと再認識させられました。

彼らの思っている「健診」は、やはりいまだに「病気の早期発見」なのだなと思います。わたしが健診に求めている「病気になんかならない人生への修正」との意識のギャップはまったく埋まってないように思います。早期胃がんをみつけたとか、乳がんを小さいうちに発見できたとかと同じ感覚で、「もう病気になってしまったものを軽いうちに指摘できる」というのでは、そこいらの病院の医者となんら変わらないではないか!とついつい熱くなってしまうのです。

ちいさな漁船は目の前に障害物が見えてからでもすぐに避けられますが、大きな艦船は肉眼では見えないようなはるか遠くに障害物を発見した時点ですぐに舵(かじ)をとらなければ衝突は免れないものです。現代人の多くがそんな大艦船の生活をしているのだということに気付いて、早く考え方や生活の仕方を変えてくれたらいいなと思いながら、実りの少ないことをグチることなく口うるさく結果説明をしている毎日です。

| | コメント (2)

CKDとタンパク質

糸球体濾過量を簡単な計算式で推定できる、推算糸球体濾過量(eGFR)が徐々に世間に浸透してきました。これは、以前書いたことのある慢性腎臓病(CKD)を見つけるための指標です(「CKD」2008.5.6)。

今までの腎機能検査で正常と云われている人の中に、思ったより腎臓の予備力が低下している人が隠れており、その人たちが将来人工透析になったり心臓病や脳卒中になったりし易いので早めに見つけだそう、という発想から生まれた概念がCKDです。

この4月から、うちの健診でもeGFRの計算結果を表示するようになりました。思っていた以上にeGFR値が正常基準の90ml/分/1.73m2より低い人が多いことが分かって驚きました。これが60ml/分/1.73m2より低い人は中等度CKDとして腎臓病専門医の指導を受けることが勧められていますが、今まで「正常」だった中にたしかにそういう人がいます。それが低いからといって特別な治療があるわけではありません。●水分のとりすぎと不足は有害である。●塩分制限の基本は6g/日未満。●肥満の是正に努める。●禁煙は必須である。●中等度以上低下したらタンパク質制限(0.6~0.8g/kg/日)が有益。●エネルギーを取りすぎない(30~35kCal/kg/日)。●酒を飲み過ぎない。●血圧は130/80mmHg未満に保つ。・・・これが正式に勧められるCKDの治療方法です。つまりは生活習慣病の是正ですが、それをより厳密に厳しくすることを強いているのです。

わたしは脱水に注意することと無意味にタンパク質を摂りすぎないようにすることを強調しています。現代人は思っている以上にタンパク質を摂りすぎています。脂肪燃焼に有効な○○酸、アンチエイジングの美肌効果に△△、ダイエットに低脂肪高タンパクの□□、たまった疲れを取る●●・・・健康ブームのおかげで、「カラダに良い」という謳い文句に釣られて無意味にタンパク質ばかり摂っていますが、腎臓に一番負荷をかけるのがタンパク質だということを忘れてはいけません。

| | コメント (0)

『おかげさん』

木の芽が のびるのは やわらかい から    

                          みつを

我が家に、ベストセレクション『おかげさん』(相田みつを作品集 特別限定版)という名の日めくりカレンダーがあります。一日一枚の日めくりは、それぞれに彼の直筆の書が印刷されている31枚のみです。つまり毎月毎月初めに戻って繰り返すのです。だから、同じものを毎月見ています。特に毎朝それを繰りながら読み返すわけではありません。ただただ、カーテンをあけるついでに日課の作業として繰り返しています。日によっては何日も忘れられていることもあります。

先日、ひとりで弁当を食べていました。いつもは妻が座る席に座ってふと目を上げたとき、それは何となくわたしの目に入ってきました。

「木の芽がのびるのは やわらかいから」みつを

繰り忘れた何日か前のページでした。これまでに何度も読んだことのあることばでした。こういうことばは、それがどんなに深いものであっても完全に弾き飛ばしてこころに入ってこないことがあるかと思えば、何気なくすっと入り込むときもあります。あるいは何の抵抗もなく素通りしてしまうときも・・・。そのときは、どうしてこのことばがこころを捕らえたのでしょうか?

いいことばだなあと思って、しばらく箸を止めて眺めてしまいました。

| | コメント (0)

より高い理想を求めて?

3ヶ月間の生活改善プログラムで採血データがまずまず改善したある男性がいます。内臓脂肪量が、基準値以下にはなっていないものの明らかに減少しました。採血データも若干正常より高いものが数個あるものの軒並み前より改善していました。ですので本人はそれなりに満足して喜びました。

でも、実際は、週に1回フィットネスジムに来るようになった以外は運動量は前と同じ。夜のアルコールも止められず食事も毎晩たっぷり摂っている、とのことです。週1回の運動ぐらいで採血データや検査データがここまで良くなるとは思えませんから、無意識のうちに前より活動量が増えていたり、前より料理のカサが少し少なくなったりしていることは容易に推測できます。なかなか良い感じなので、「今を維持させましょう」と云って励ましました。

ところが、担当保健師さんが満足しません。「まだガッツリ食べているんですよね。お酒ももう少し減らせるんじゃないかと思います。」と、さらなる生活改善のための介入に意欲的です。「せっかくがんばり始めたのだから後一息がんばらせたい!」という彼女たちの声を聞きながら、熱心だなあと感心しました。でも、そこまでしなくても今それなりの成果が得られているのです。なのに、「生活改善」の名目でもっともっと紳士淑女たれと責められる。そこまで模範的な生活に矯正させることが、そのヒトの人生に本当に必要なんだろうか?

この仕事をしているといつも突き当たる疑問なのです。

| | コメント (0)

特定保健指導

保健師さんが、健診結果の束をもってやってきました。「これから郵送するんですけど、先生見てくださいよ。みんなすごいんですよ!」喜々としてそう話し始めました。

そこには春の健診で「積極的支援」という特定保健指導を受けることになったみなさんの、6ヶ月間の努力の成果がありました。どれも見事に改善しています。5~10kg近く体重が減っているだけではなく、問題だった検査データも軒並み良くなっています。これは盲目的なダイエットではないことの証だと思います。とやかく云われている特定保健指導ですが、きちんと取り組めば、より安全で効率的に生活改善効果をもたらせる良いシステムだと思います。

「ただ、」・・・イケズなわたしは、ついつい釘を刺してしまいます。「ここまでは、真面目に取り組みさえすれば、どこでもだれでもできるのよね。問題はこれから・・・!」

がんばらなければならないショッキングなデータが目の前にあり、いつまでに達成させるぞ!という具体的な目標さえあれば、ヒトはだれしもがんばれます。でもその結果発表の日がやってきて、達成感に安堵したその時点からモチベーションが保てなくなるものです。結果として1年後には元に戻るかむしろ前よりひどくなる、これが「リバウンド」です。せっかく良くなったデータを維持させるにはどうしたらいいか、それは日本中の健診世界の命題です。なぜできないかといえばモチベーションが続かないから。なぜ続かないかといえばうるさく云う人がいなくなるから。なぜいなくなるかといえば、予算がないから。・・・この鎖をどうやったら切れるか?どうか保健師のみなさん、せっかくつながった縁ですから彼らを真の勝ち組にしてあげてください。わたし個人の意見では、誰もに通用する普遍的で効率的な策を練ろうとするからうまくいかないのでは?と思います。成果を出したあとには、オーダーメイドの介入しかないはず。人海戦術でいいからひとりひとりに合ったモチベーション作りを手助けしてあげてほしいなと思います。

「楽しくなければ人生の無駄使い!」という歌詞が、サンバおてもやん♪の中になかったかしら。まさにそれだね!

| | コメント (0)

誰の満足が大切なのか

友人のお母さんが認知症になりました。介護保険サービスを利用して、ある施設で週末にショートステイをお願いしているそうですが、先日大きなたんこぶを作って、施設の人に抱えられながら帰ってきました。行くときはひとりで軽やかに歩いて出ていったのに・・・と家族は驚いたそうです。こんなことは今回で2回目なのに特に詫びを云うでもなくさっさと帰っていった職員さんの対応に不安になった友人は、危機管理について組織としての考え方を聞かせてほしい、と申し出ました。それを受けて家を訪れたのは2人の現場担当者だけで、言い訳をくり返した挙げ句に急用で早々に帰っていった、とあきれ顔で経緯を話してくれました。

こういうトラブルの場合に、担当部署の責任者と現場担当者が来るのが普通だと思います。今回のように、現場の人間に押しつける形の企業がありますが、つまりこれが施設の姿勢なわけで、簡単に云えば「レベルの低い」施設だと云えます。

その話を聞いていたわたしたちは、ついヒートアップしてしまい、「新聞社に投書しろ」とか「経営者に責任の追及をしろ」とか「とにかくさっさとやめさせろ」とか気色ばんで意見を云いました。それに対して、「ただね、母は違う場所に行くと不安がるし、施設の担当者の人とも仲良くやっているのよね・・・」という友人のはなしを聞いて妙に納得しました。友人の人脈を使えばもっと良い施設を紹介してもらえるでしょうし、施設にクレームを叩きつけてもらうことはできるのかもしれない。そしてこの施設は明らかにレベルは低い。・・・でも、当の本人はそこが気に入って、行くことを嫌がってはいないのです。ケガをするのは勘弁してほしい。でもそれを除けば、家族や周りの人間の不満よりも本人が満足できる方法を選びたい・・・それは野次馬的な自分たちにはわからない、家族ならではの悩みだと思いました。

| | コメント (0)

死の迎え方

内藤いずみ先生の『最高に幸せな生き方死の迎え方』(講談社)の話でもうひとつ書いておきたかったことがあります。

往診先の患者さんに死期が近づいてきたころ、とても穏やかないい顔になっていました。声をかければしっかり返事をするけれど一日中うとうとしている状態です。モルヒネの使用量から考えても、それは薬のせいではなく命の炎が小さくなってきていることだということを家族に告げます。 『・・・いま「死」は日常生活から隔離されたところで起きていて、間近で人がどんなふうに亡くなっていくのかをみんな見ていないから、そこまで言わないとわかってもらえない。・・・(以下略)』

身近で死に行く人を見たことがないから、在宅で最愛の人たちを看取るのを怖がるというのも理解できます。実をいうと、医者や看護師ならそんなことはないかというとそうでもありません。若い医者たち、とくに大きな病院や大学病院で研鑽を積む医者たちは、かえって自然の流れとして死んでいく姿を見たことがないかもしれません。できる限りの点滴をし最期までできる限りの蘇生医療を施すからです。病院に居合わせた以上はそうすることが義務だからです。人生の中で死に方を考える機会が本当に少なくなったなと思います。

『・・・人間は誰しも生まれたときから、死に向かって歩んでいる。末期がんの患者さんは迫ってくる死を見つめながら生きているが、私自身、死への途上を歩いているという意味では患者さんと同じ立場にいる。これは世界中の誰一人、例外のないことだ。 平等に死にゆく存在として、人間は誰もがどう生きるか、生ききるかということを問われている。最期まで人間の尊厳を失わず、誇りを持って生きるためには何が必要か、それを考えていったときに、おのずとホスピスの考え方が生まれてくるのだと思う。』<「痛みのないことが幸せ」>より転載

| | コメント (0)

内藤先生

鎌田實ストーカーシリーズ第二弾。『最高に幸せな生き方死の迎え方』(内藤いずみ、講談社)を読みました。甲府の小さなクリニックで「在宅ホスピス」をがんばっている内科おんな先生が書いた奮闘記、というより現代医療や社会通念の壁へのもどかしさに対して叫んでいる戦士の声のような気がしました。

「人工呼吸器を取りつけるとき、『どうしますか?』と聞いてくださる先生はあるいはいらっしゃるかもしれませんが、それを取りつけたら最期のお別れの言葉が言えないかもしれないということまでは話してくださらない」と、順子さん(遠藤周作さんの奥さん)は言う。ご家族にとっては、苦しい息が一時間延びるよりも、最期の言葉をしっかり受け取ることのほうがよほど重要であるかもしれない。(<医療知識のギャップ>から転載)

自分の医療人生を思い返しても、そんなことを話してあげたことはなかったかもしれません。というよりも、本人とは時間が許す限りお話をしたかもしれないけれど、ご家族と長い時間話したことのあるのは数人しか居ません。

「・・・ゴッドハンドは大切。でも一人の患者をみたとき、それを臓器の集合体だとしかみえないのだろうな、あるいは研究対象物にしかみえないのだろうなと思える医者が、なんと多いことか。・・・」

内藤先生の思い、鎌田先生の思い、何とかもっと若い先生たちの中にそんな思いの人がたくさん生まれてきてほしいと思います。医者としての経験と人生の経験を重ねていくと、そういう考え方が大切だと云うことは当然のようにわかる(それでも分からないヤツは医者とは呼ばないことにしています)けれど、若くしてそう思い行動を起こせる先生がもっと出てきてほしいと思います。内藤先生はそんなひとでした。

それでも、「在宅ホスピス」が一番!と意見の無理強いをしないところがまたいい。

| | コメント (0)

あのね

鎌田實先生の隠れストーカーのわたしは、そっと先生のブログを覗き、先生が勧める本をこっそり読んでみたりするのです。

『あのね~子どものつぶやき』(朝日文庫)は朝日新聞のコラム「あのね」に載ったものをまとめた本です。基本的に大人が書いているのでちょっとデフォルメして書いたのかなと感じるものもないわけではなかったけれど、やはり子どもたちの目はスルドイ!そして残酷きわまりない!そう思いながら一気に読み上げました。わたしが好きだったものを数首紹介します。

**************

しかりながら母が、「お母さんに、何か言うことがあるでしょっ!」「・・・・・あそぼ」 ごめんなさいと言ってほしかった。

お風呂で一人、頭を洗いながら独り言。「妹は、いつまでたっても妹・・・・・・」

台風の暴風雨を祖母と見て、「ばあちゃん りっぱな 風だったね」

いつもビリの運動会で3位。「いつもの走りと違ったみたいね」と言う祖母に、「あんなに 急いで走ったのは はじめて」

踏み切りで上り列車が通ったあと、すぐに下り列車。「わすれもの したんじゃろう」

**************

先日あった研究会で、ある先生が知人の医者の話としてこう云いました。「子どもは、親の云うことは聞かないが親のすることはマネをする。子どもは、先生の云うことは聞かないが、先生のすることはマネをする。」~これまた蓋し名言!

| | コメント (0)

指紋認証

会員登録をしているある医療ページを開けようとしたら、ログインパスワードを聞かれました。覚えてねえぞ、そんなもん!と思いました。クレジットカードの暗証番号を入れるときも、ハタと手が止まることが多くなってきました。

セキュリティの重要性がさけばれるようになり、いろいろな登録をするたびに暗証番号やパスワードを決めさせられます。いろいろ思いつきで決めているとそのうちどれがどれだったか分からなくなりそうで、全部を同じものにすると危険だと云われ、やむを得ず会員番号とパスワードの一覧表を作ったら本末転倒だとおこられました。さらにいつも同じだと何かのはずみで盗まれるから、クレジットカードやキャッシュカードの番号は定期的に変えるように勧告されています。それは理論的には大変良く分かります。そして、そんな勧告をしたのにもかかわらず変えずに事件が起きたらそれは本人の責任だからね!と云うための策だということも一目瞭然です。でも、とてもとても。それでなくても覚えられないのに、ちょこちょこ変えていたのでは、必要なときにどれがどれだったか思い出せる自信などありません。

その点、最近でてきた「指紋認証」や「声紋認証」はなかなかありがたいかもしれませんね。これだと何も覚えなくてもいいし・・・。あ、いかん!こんなものが普及したら、一層何も覚えなくなって、ボケの始まってきたわたしなんか一気にボケボケになっちゃうかも!今や、携帯電話のおかげで、他人どころか自分の電話番号すら覚えていませんもの。

| | コメント (4)

自分の生き方

林田正光氏は48歳で胆管狭窄症に黄疸を併発し、治療に時間がかかったために、前に勤務していたホテルでずっと築き上げていた地位を剥奪されました。大学も出ず英語もパソコンも得意でない彼は、「世の中ってそういうものだと割り切ることができた」と云います。でもそれは諦めでもへこたれでもなかったのです。彼には叩き上げのホテルマンとして顧客サービスをていねいにやってきた自信がありました。それが彼のその後を決めたのだと思います。

何年か前、当時の上司がわたしに云ったことばはショックでした。「わたしは、キミが今以上の役職につけるように推薦することができない。なぜなら、キミには何の肩書きも専門医資格もないからだ。今の病院のトップは、まず客観的な肩書きを評価基準として求めるようになったのだ。」・・・「それではしょうがないですね。」と笑いながら部屋を後にしましたが、その日の自分の行動をあまりよく覚えていません。わたしが若かったころ、「つまらぬ肩書きや地位ではなく、いかに切磋琢磨して患者治療に取り組んだかが評価されるべきだ!他でどれだけ偉かったかなど意味のないことだ!」と云い切った病院トップの意気込みに「ここは凄いところだなあ」と感動したことを、なつかしく思い出していました。

その後、意外にもろかったわたしのこころとカラダは、ご他聞にもれず不眠症からうつ病へ、胃潰瘍や円形脱毛症やと起しました。自分はこの組織に必要な存在なのか?自分はここにいる意義があるのか?夜中まで考え込んでいたそんなころ、ふっと「自分は何のために医者になったのか?」を思いました。「そうだった。自分はただ患者さんを良くしたいと思ったから医者になった。わたしほど患者さんのこころを代弁しようとする医者はそうはいなかったはず。・・・組織の管理者なんかにならないで済む分、自分のやりたかった医療をこれからも好きにやれるのではないか?それはラッキーなことではないか?どうせ道が限られているのなら、怖いものはないから気兼ねなくやらせてもらおうか。」

とても楽になりました。もちろん今でも周期的にうつの嵐がやってきます。それでも、昔よりずっと余裕のある人生を送れているような気がしています。

| | コメント (0)

断らない救急

開業前のリッツ・カールトン大阪に営業支配人として採用され、その後営業総括支配人になった林田正光氏のくだりも好きです。林田氏は、今もそのころの経験を生かして全国を飛び回って活躍しているそうです。

ホテルの評価が上がると満室のことが多くなる。お客様の予約を受けられないとき、「あいにくご予約は一杯でございます」といって切るのでは普通のホテルであり、彼は、「私どものホテルは一杯ですが、明日のご予約ですから、もしお困りでしたら、近くの同ランクのホテルの空き状況と料金を調べてご連絡いたします。いかがしましょうか。よろしければ、私どものほうでご予約の手配もさせていただきます。同業ですので割引できないかも伺ってみます」と答えるようにしているといいます。

何もそこまでする必要はないだろう、と思いますか?彼のモットウである「NOといわないホスピタリティ」を常に念頭に置き、実践していたヒトを他にも知っています。わたしを今の職場に引っ張ってきてくれたわたしの恩師です。「断らない救急」をモットウに、救急患者依頼の電話はどんなものでも必ず受けなさいと云われました。今ではめずらしくありませんが、20数年前の異端児の発想は、病院の中でもかなりの軋轢がありました。今は「断らない救急」の申し子のような顔をしている病院管理者の先生方も当時は「スタンドプレイだ!」と云って目くじら立てて反対していました。「相手の先生は困っている。助けを求めている。それを門前払いするな。それがたとえ心臓に関係なかったり大したものじゃなかったとしても良いじゃないか。それは患者さんにとってはありがたいことだ。紹介してくれた先生に恥をかかすな。すべてを受けることで信用が生まれる。困ったときには頼りになる病院として、先生にも患者さんにも信頼のつながりが出来るんだ」~それが彼の口癖でした。そうやって評判があがると、とうとうベッドが足りなくなってきました。急性心筋梗塞を始め、循環器救急の病気はどれも命に関わる重大なものばかりですから時間との勝負です。うちに空きがないから、と断るわけにはいきません。わたしたちは、近くの心臓救急を行っている病院に連絡を取りました。わたし自身、病院のドクターカーで患者さんを迎えに行き、それをまだ余裕のあった大学病院に連れて行ったこともあります。今はたくさんの高度医療をする病院ができましたからそんなことはなくなりましたが、信用と信頼というものはそんなこころからやっと生まれてくるものなのだということを、わたしは今は亡き恩師からそのときに教わりました。

| | コメント (0)

『へこたれない』

人は悩んで悩んで悩んで生きる。/精いっぱい悩み終わったら、ふっ切っていい。/悩んできた自分を褒めてあげよう。そして、自分に言い聞かせる。/もう、これからは、悩まない。

少し時間ができたので、敬愛する鎌田實先生の『なげださない』(PHP研究所)を読みました。またまた書き留めておきたいこころに残ることばがたくさんありました。二分脊椎症を患い、将来神経障害を起すことを覚悟したときから心の準備を始め、車椅子生活になってからも旅行をしながら前向きに生きているある女性を紹介した文章の一節です。ここまで達観できる人はそう多くないのではないかと思います。でも、こう生きれたら良いなと、きっと皆が思っていると思います。そう生きれるように、前向きに生きましょうよ。と、そう云っているように思いました。

もうひとり。生存率5%の肺小細胞がんを克服したある男性のことばも良い。

「外へ出て人と話をすることと、笑うことを心がけました。もちろんタバコも止めましたが、タバコが肺がんの原因だなんて思わないようにしました。今まで吸ってしまったタバコのことを悔やんでも仕方がない。自分の生き方が原因だと思いました。生き方を変えました」~過ぎ去ったことはクヨクヨ考えない。悩まなくていいのだ。・・・(略)

過去を後悔するのではなく、病気をきっかかけに、これからの行き方を考える前向きな生き方ができるようになる人たちには、一体何があるのだろう。わたしもいつか、そんな生き方が出来るようになるのでしょうか。

| | コメント (0)

« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »