死の迎え方
内藤いずみ先生の『最高に幸せな生き方死の迎え方』(講談社)の話でもうひとつ書いておきたかったことがあります。
往診先の患者さんに死期が近づいてきたころ、とても穏やかないい顔になっていました。声をかければしっかり返事をするけれど一日中うとうとしている状態です。モルヒネの使用量から考えても、それは薬のせいではなく命の炎が小さくなってきていることだということを家族に告げます。 『・・・いま「死」は日常生活から隔離されたところで起きていて、間近で人がどんなふうに亡くなっていくのかをみんな見ていないから、そこまで言わないとわかってもらえない。・・・(以下略)』
身近で死に行く人を見たことがないから、在宅で最愛の人たちを看取るのを怖がるというのも理解できます。実をいうと、医者や看護師ならそんなことはないかというとそうでもありません。若い医者たち、とくに大きな病院や大学病院で研鑽を積む医者たちは、かえって自然の流れとして死んでいく姿を見たことがないかもしれません。できる限りの点滴をし最期までできる限りの蘇生医療を施すからです。病院に居合わせた以上はそうすることが義務だからです。人生の中で死に方を考える機会が本当に少なくなったなと思います。
『・・・人間は誰しも生まれたときから、死に向かって歩んでいる。末期がんの患者さんは迫ってくる死を見つめながら生きているが、私自身、死への途上を歩いているという意味では患者さんと同じ立場にいる。これは世界中の誰一人、例外のないことだ。 平等に死にゆく存在として、人間は誰もがどう生きるか、生ききるかということを問われている。最期まで人間の尊厳を失わず、誇りを持って生きるためには何が必要か、それを考えていったときに、おのずとホスピスの考え方が生まれてくるのだと思う。』<「痛みのないことが幸せ」>より転載
| 固定リンク
« 内藤先生 | トップページ | 誰の満足が大切なのか »
コメント