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2009年10月

医療者の良識

先日は、新型インフルの予防接種に病院スタッフが大勢押し寄せてきました。

「あんたら、その気になったらちゃんと来れるやないか!」・・・日頃の予防接種のときには電話で催促しても「忙しい」と云ってなかなか来ない連中がこぞって顔を並べているのをみて笑ってしまいました。でも、医療者でありながら、なぜそんなに右往左往するんだろう?と、不思議にも思います。

そんな中で、感染対策の部長が怒っていました。「医療者の優先接種対象者を最低限にしてくれというから、うちは必死に絞って希望を出したのに、大学病院なんて面倒くさいから全職員数を希望者として出して、その5割が許可されたんそうだ。県の担当者は一体何を考えてるんだ?」と。ラジオを聞いていたら、ある県では「医療者の希望が予定より多くて、妊婦や重症患者に回すワクチンがかなり遅れそうだ」とか。呆れてしまいます。大学病院に新型インフルの患者なんか来るもんか!こっそり当直のバイトでもしない限り、もし罹(かか)るとしたら自分の子どもから移るのだから、それなら世間で一番後回しにされている健康なサラリーマンや主婦と同じです。そんな医者に打つなら、もっと早く打ってあげたいのに待たされている人はたくさん居ます。これじゃ、何のための優先接種かわかりません。サーズや映画の「20世紀少年」に出てくるような殺人ウイルスなら、医者も人間、まずは自分が生き延びよう!もわからないでもありませんが・・・。しかもワクチンを打ったら罹らないのではありません。罹るかもしれないけど軽い、という普通の季節性インフルワクチンと同じです。なんかとても情けない気分です。

やはり最初の水際作戦のころに煽りすぎたせいでしょう。魔女狩り的なあの騒動は、今さら「今回の新型インフルは怖れなくてよい」と声高に宣言しても、一旦植え付けられた恐怖を消し去る力にはならなかったということですね。

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迅速診断キット

新型インフルワクチンの医療従事者への優先接種がうちの病院でも始まりましたが、わたしたち健診センタースタッフは医者も含めて誰もその対象者リストには入れてもらえません。「臨床現場で実際に直接患者さんと接する者」という条件に当てはまらないからです。今年は、品薄の季節性インフルの予防接種も受けさせてはもらえません。

「バカな話やな!」と陰口を叩いています。うちの病院は基本的に一般の方にインフル治療をしない方針なのですから、インフルに罹った人はうちの病院を受診しません。むしろちょっと発熱したり咳をしていても受診することが多い健診現場の方がはるかに危険性が高いでしょう。若い人と接することの多い学校の先生たちや市職員などが毎日大勢やってくるのです。ちなみに、厚労省の資料によると「ワクチン優先接種対象者」の「医療従事者」とは「新型インフルエンザ患者の診療に直接従事する医療従事者」と定義されています。てことは、うちの病院は基本的には対象じゃないんじゃ?

さて、グチはこれくらいにして、先日産業医研修会で新型インフルに対する具体的な対策講習を受けてきました。予防の原則はあくまでも<手洗いとうがい>であり、無意味に人混みに入って行かないこと、です。発熱者や咳が出ている人はマスクをするのがエチケット・・・結局いつもの季節性インフルの対策と何ら変わりません。そんな中、新型インフルには特殊な事情があります。実は迅速診断キットの陽性率が低いのです。発症早期には40~60%しか陽性反応が出ません。なので検査結果にとらわれず(検査は必須ではありません)、臨床的にインフルを疑ったらすぐに内服を始めるように指導されています。つまり熱が出たので病院に行って、「検査したら陰性だったからインフルじゃない!」というのはまったくナンセンスだということを知っておいて下さい。もっとも、これだけタミフルを予防投与されていたら、耐性株ができるのは時間の問題のような気がしないでもありません。

とにかく流水だけで良いのでこまめに手洗いをいたしましょう。

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あ~忙しい

朝のトイレの中で、「えーと今日しなければならないことは・・・」と頭の中でスケジュールを整理するのがわたしの毎朝の日課です。通勤途中にも、「あ、あれもしておかなきゃ!」とか「あれを検索して、あれをプリントアウトして・・・」とかいう内容が突然思い浮かんだりします。もっとも、職場に着くころには内容を忘れていて、結局思い出せないということもめずらしくありません。

ふと、循環器内科の医師として救急現場で働いていたころのことを思い出しました。毎日持って歩いていた手帳に、その日にしなければならない内容を箇条書きしていました。入院サマリーが誰と誰と誰とが残っていて、退院のムンテラ(退院にあたっての入院中の総括やこれからの注意点などを説明)が誰と誰で、誰々の紹介状を書いて、検査の説明が誰で、入院する予定の人が何人で、ルーチンの検査担当が何時からで、検査結果の読影が何件あって、学会の資料チェックがいくつあって、何時からは医師会の勉強会で・・・若い頭ではあっても、さすがに覚えるのは不可能なほどのボリュームでした。手帳に書き並べた一覧はできた順に消していくのですが、後ろの方にどんどん新しい仕事が継ぎ足され、結局し終えられないままに翌日に繰越しになるのが常でした。よくもまあ、あれでうつ病にもならずに頑張ってこれたものだと、我ながら感心します。

先日、うちのスタッフが上半期の仕事の進捗説明をするのを聞いていましたが、ガマンしきれず途中でアドバイスをしました。あまりにも多くのタスクが秩序なく並んでいて、話があっちに行きこっちに行きするのを聞いていると、きっとこの人は自分の抱えている仕事の全容を把握できていないに違いないと感じたのです。まずは仕事を箇条書きにして整理して、その各々に進捗のグラフでも書いて、何よりもあなたの頭の中をスッキリさせないと、何も前に進まないと思いますよ、と。

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あ~腹減った!

「あ~腹減った!」・・・来月の講演会で使おうと思ってスライドにした標語です。

最近、きちんとお腹が空いていますか?「あ~腹減った!」・・・実は、ここ1、2ヶ月、こころからこんな気持ちになることがなくなった気がしているのです。そしてそれに平行するように、どうも最近お腹や背中に無意味におニクが付いてきて、妙にカラダが重くなった気がします。みなさんはいかがでしょうか?

実は最近、朝起きてからも、昼食前も、そして夕食前も、あまりお腹が減らないのです。気持ちよく空腹感を感じることができていたころ、体調だけでなく、こころもとてもスッキリしていたように思います。少しぐらい心配事があっても気にならず、何をするにも快調でした。わたしは、そんなときにはいつも腹が減っています。「腹が減った」という実感があり、その実感がまた充実感をもたらしていました。あまり腹が減らないときに限って、「そろそろ昼だから何か食べなけりゃ」と思います。何かに熱中しているときは気にもならないのに。腹が減ってもいないのに、時間が来たからモノを食う、というのは決して健康的なことではありません。最近、何をするにも億劫なのは、この空腹感のない毎日と何か関連があるのかもしれません。

いつもユニークな文章でわたしを感動させてくれる石蔵文信先生の最新作「できる男は2食主義」(メディカルトリビューン)にもあるように、食事にこだわらない生活、食事が生活のリズムの基調を作っているのではない生き方が、一番生きがいのある生き方をしているときのリズムなのだろうな、と思うようになりました。

あれ?最初に書きたかったこととは全然違う内容になってしまいました。ま、いいか。・・・今日はこの辺で。

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とりあえずビール

仕事から帰り着く。服を着替えて一息。・・・何はともあれ、とりあえずビール!・・・冷蔵庫から缶ビールを取り出して開ける。「シュパ~」・・・いつ聞いてもいい音である。

この習慣が止められません。いや、ここまでは良いのですが、「とりあえず」のその次に手を出したところから泥沼な夜が始まっていくのです。それも毎晩。どうして、次を取りに行ってしまうのだろう?飲む前は「今夜はこの1缶で止めよう」と思っているのに・・・。それが2缶めのビールのこともあれば、日本酒のこともあり、焼酎ロックのこともあり・・・そんなものがいつも家にあるからいけないのでしょうことは重々分かっているのです。でも・・・最近、煩悩に負けることが頓(とみ)に多くなってきました。

昔、コップ1杯運動をしてみたことがあります。酒の内容も濃度も問わず、とにかく晩酌としてコップ1杯だけアルコールを口にします。飲み終えたら、そのコップにお茶をつぎ込むのです。すると、心は物足りないのだけれどとりあえずカラダはアルコールから離れることができました。なんと数週間後に体重が10kg減りました。脅威のダイエット法です。酒が減ったから酒の肴も一緒に減った結果でしょう。凄いな!と思いました。減ったことに驚いたのではなく、そんなにたくさんの飲み食いが隠れていたことに驚いたのです。

わかってるんですよね~。でも今は、日々のことごとくに負けてしまう自分がいるのです。「おとこはなかなか『する』と云わない。」・・・どうやったらモチベーションが上がるのでしょうか。

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降格

わたしが入れ込んでいるサッカーJ1の某チームが、健闘空しくJ2へ降格することになりました。昇格して7年、今年が一番充実した試合を繰り広げて、観ていても面白い試合展開ばかり。上手くなったなあと感動しました。でも、勝てなかった。勝てないと、いろいろな軋轢が生じ、社会的な批判にさらされ、金の問題云々のウワサや疑念が先行し、純粋に選手たちに夢を託して応援を続けるサポーターを重い気持ちにさせました。もっと本来のプロスポーツ選手のパフォーマンスだけを観ていたいのですが、現代社会はそれを許さないのだなと痛感しました。

J1に昇格した年、スターのいない田舎チームは最終節に引き分けてやっと残留を決めました。3年目は夏の段階で降格100%決定と覚悟しました。あのときが一番寂しくて辛かった気がします。救世主の監督が天から降ってきて奇跡の残留を果たしました。5年目も夏の時点で降格濃厚でしたが、今度は救世主の3選手が風とともにやってきて残留を決めました。そして7年目の今年。・・・2年ごとに危機と奇跡がやってくるこのチームには本当に心配を掛けされ通しでしたが、必ず救世主がやってきてミラクルを起してくれるのでした。・・・でも、今年はダメでした。いつかは来ることなのでしょうが、それが来てしまうとやはりずっしり重いものがあります。

自分が何をするでもなく、自分が資金投資した会社が潰れたのでもなく、日常生活は変わりなく進んでいくものなのに、まったく新しい世界への不安が押し寄せてきます。きっとこれもまたわたしには意味を持った大きなご縁なのだと思うことにしました。そういう経験のない人にはまったく縁のないことでしょうが、サポをしていて良かったと思える日が必ず来ることを心から祈念して、これからも応援を続けたいと思います。

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くだもの嫌い

深まりゆく秋、真っただ中です。食欲の秋、美味しいくだものが巷にあふれています。ついつい食べ過ぎてしまう季節です。

先日ゴルフに行ったら、お土産として帰りに地元産のみかん一箱(10kg)をいただきました。さすがに夫婦二人で処理するには多すぎるので、「いつも戴き物をするお隣さんにおすそ分けしたら?」と提案しました。そうしたら、「あそこのお嬢さんたち、くだものがあまり好きじゃないのよね」と妻の連れない返事が返ってきました。

子どもというものは、やさいは嫌いだけれど総じてくだものは大好きなんだと思い込んでいましたが、最近の子どもたちはくだもの嫌いの子が少なくないのだそうです。うちの職場で、この話をしてみましたが、「確かにあまりくだものは食べませんね」と云われました。もらい物があったら勿体ないから食べるかもしれないけれど、わざわざ買ってまで食べないかもしれない、と。

どうしてなんだろうと考えました。味が云々というのではなくて、単に皮をむいたりするのが面倒くさいからじゃないかしらと思いました。しかも、手はべちゃべちゃになるし・・・。その前にまずお母さんたちがりんごや梨の皮をむく作業自体を面倒くさがっているのではないしょうか。もしそうだとしたら、何と勿体ないことか。アイスクリームやケーキなんかより、味覚を刺激する力ははるかに強いはずなのに・・・。ビタミン類や食物繊維を補充するのに、くだものに勝るものはないはずなのに・・・。結局、お母さんやお父さんがくだものを食べず、子どもたちは初めからお菓子やジュースから漂ってくるフルーツの匂いと味を本物と思っているのではないかと思うと、とても空恐ろしくなってきます。

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格言集

健康の講演をするときにわたしはよく標語を作ります。

「三つ子の魂、いつまでも。」とか、「食べない努力より作らない勇気!」とか、「ゾウはネズミを食わない。」とか・・・。このブログタイトル「やせればいいってもんじゃない」もそんな中のひとつです。以前、そんな標語に挿絵を描いてくれないか?と、あるスタッフに話を持ちかけたことがありました。色紙のように絵標語にしてスライドを作ろうかと思ったのです。わたしは彼女を「画伯」と呼びます。絵が上手いとか下手とかいうのではなく、その感性がわたしにないものなのです。それでそんな依頼をしたのですが、お互いに忙しくてそのままになっていました。

「先生、あの挿絵を描いてみようという気がしてきたんですけど、格言集はまだありますか?」・・・突然、彼女からそんなメールが届きました。わたしもすっかり忘れていたことですが、画伯が閃いたときに描いてもらわないと次はいつになるかわからないので、標語を集めた「格言集」のファイルを昔のフォルダから何とか見つけ出してきました。

ただ、それをあらためて眺めてみて、何か心がときめかないのです。「どうです?いいことばでしょ?」・・・当時はかなり気に入っていたのに・・・時がことばをそんなに色褪せさせてしまったのでしょうか。それとも自分の心が色褪せてしまったのでしょうか。どちらにせよ、わたしは到底「相田みつを」にはなれないな、と思いました。

でも、彼女に挿絵は描いてもらいたい。何か健康のための簡単な読本が作れたらいいな、と思うから。大急ぎで、それ用に新しい標語を考えてみましょう。

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慈しむ姿

我が家にいる2匹のワンコは、なんかちょっとしっくりいってません。11歳半のオババと来月やっと1歳になる子犬の2匹ですが、この子犬(といってもすでにオババよりはるかにデカイ)が跳ね回って遊びたがるのを、オババが<ウザイ!>と感じているようです。自分が一番でありたいのに負けるのが癪にさわるのかもしれません。彼女も機嫌がいいときには一緒に遊んでいるので、仲が悪いわけでもなさそうです。

我が家には、昨年秋に14歳弱で亡くなったインディという名の雄イヌがいました。彼は、本当に心やさしい男の子でした。せっかく冒険家インディ=ジョーンズにちなんで名前を付けたのに、男の子のクセにいつも弱気で(冒険するのは、若い人間のお姉ちゃんに尻尾を振るときだけでした)、できる限り争いを嫌いました。オババは彼の娘です。彼女は、今自分がやられているような、あるいはそれ以上の仕打ちをインディくんにしていましたし、なんでも自分が一番!と主張していましたが、彼はそれを全部許していました。彼女を見るインディくんの眼差しのなんと柔らかいことか。父だ、娘だ、なんてわからないと思うのだけれど・・・。

「インディはやさしかったよね」・・・毎日くりひろげられるオンナの闘いを眺めながら、よくインディくんのことを思い出します。

昔はそんな弱虫インディくんをちょっとバカにしていましたが、彼のやさしさをずっと眺めるうちに、自分も「インディくんになりたい」と思うようになりました。彼の姿には神々しささえ感じます。きっと彼が我が家に来たのには意味がある・・・それは、本当の慈しみの心をわたしたちも持てるようになりなさい、ということだと思うのです。居なくなって1年が経ち、やっとそのことに気付いてきたような気がします。

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星占い

新聞やテレビの星占いはそれなりに好きです(雑誌のは月極めですが、新聞や雑誌は毎日なので)。・・・星占いなんて信じない、という人は今日は読まないでください。

最近は携帯サイトでも毎日占い結果が出てきます。そこで、もし自分の占い結果が、テレビと新聞でまったく正反対だったらどうしますか?

1.良い内容の方を信じる
2.悪い内容に影響を受けやすい
3.結局、可もなく不可もなくの日だと思う
4.今日は、何も信じられない日だと思う

どれでしょうね。むかし、地元新聞の新聞記者をしていた友人が「中央から配給されてきた占い結果の掲載すべき日付けを時々間違えることあるんだよね」と云っていた姿が、妙にトラウマのようにわたしの脳裏に焼きついています(20年以上前の話ですのであしからず)。それを考えると、どうせ占いを信じるなら良いことだけ信じたらいいんじゃん?という気はしますが、そう単純ではないのがわたしたちの心理です。

何でも影響を受けやすいわたしは、たぶん、ゆらゆら揺れる一日を過ごすのだろうと思います。もちろん、自信に満ちていた大学生のころは何でも1.でした。自信がなくなっていたころは2.でした。で、今のわたしは日によって違う心理状態の中で、結局無難な形でほどほどに意識しようとしているような気がします。自分が、できるだけ傷つかないように工面する経験値が上がったのでしょう。

やはり占いはうまく使わないと損。勝負の日(わたしにもいろいろあるんです)の朝に悪い運勢を見かけたときは、普通のことが普通に起きてもラッキーと思うようにしています。そう思っているだけで、その日の運勢自体があまり気にならなくなるものです。

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得な生き方

民主党政権に代わって、これからどうなるわからないメタボ健診ではありますが、これの普及のおかげで多くの人たちにメタボリックシンドロームの考え方が広がってくれたことは良いことだと思います(まだまだ間違った理解の人も多いことが悩みの種ですが)。

こうなると、生活習慣病に関連するいくつかの異常を持った人たちに対して、わたしたち医療従事者は、「このまま行ったらとんでもないことになりますよ!」「今、運動不足や間違った食事の仕方を正さないと手遅れになりますよ!」と、ほとんど脅しのような<生活指導>をしがちになります。でも、それは基本的に大きな間違いだと思います。「生活習慣病は、乱れた生活習慣をしているあなたの責任で起きた病気ですよ」・・・内心、そういう気持ちで指導していないでしょうか?でも、本当はそうではありません。生活習慣病はあくまでも「体質の病気」なのであり、同じ食生活や運動量でも病気になりにくい人となりやすい人の差が歴然と存在するのです。

生まれもってに何も食べなくても生き延びていける体質を持っている。なのに現代社会はその体質が生かせない時代。だから、そんな体質の人は現代社会を生きるのに向かないタイプだ、というだけにすぎません。そんな体質を持っていることを本人に教えてあげて、これからの人生を生きていく上では、今のうちに生活を変えておいた方が断然得だ!ということをアドバイスしてあげればいいことです。本人だけではなく、家族の多くが関係する体質だから、若いうちに習慣づけてやった方がみんなが楽な人生を送れるんだ、ということをわかってもらえるように話すことが大切だと思います。

わたしはいつもそういう気持ちでお話しています。

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初心を想う

機会があって、古い友人にわたしのブログを紹介しましたら、ありがたいことにヒマを見つけてバックナンバーを読み耽ってくださっていると聞きました。

「最初から読みたいんだけれど、どうしたらいいんですか?ワンクリックくらいの簡単な操作でむかしの記事が見れますか?」・・・先日、そんな質問をいただきました。そんな複雑な操作は要りません。単なる一枚の巻物になっているだけですから、トップページを一番下まで引っ張ってスクロールすれば2007.12.28の第一回目が出てきます。

せっかく思いついたことばを文字に留めておくだけでなく、多くの人に読んでいただきたいと思ってブログを始めました。もともとは年4回の広報誌の投稿だけでは書きこなせない思いを、忘れないうちに書き留めようと焦っていましたので、こぼれ落ちるように書きました。そのうち医者であることを忘れて自分の人生のカミングアウトを始めるうちに自分や家族をみつめる機会ができました。今、この文章を読んでいただいている皆様はなにかのご縁でたまたまたどり着いた方も多いはずです。そんなとき、できたらブログを始めたころの想いを読んでいただきたくて、わざわざ重くなるのを覚悟で999件までトップページに載せられるように設定しました。

久しぶりに、初めから読み直してみました。最近は若干惰性で書いている感が否めず、そんな自分にときどき自己嫌悪し、ときどきこっそり過去記事を推敲したりしているのですが、当時の文章を読むと自分でも心が深くなっていきます。自分がむかし書いた文章を読んで思わず涙するって、どうよ?退(ひ)いちゃうよね~と云われそうですが、でも是非最初のころのわたしの思いも、時間があったら読んでみてください。

もう一度、初心に戻って、感じるままの文章をこれからも続けることにいたします。

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静かな夜

わたしがテレビを点けなくなったのはいつ頃からでしょうか。最近、ひとりのときには、よほど見たいスポーツ番組がない限り、ほとんどスイッチを入れません。一方、うちの妻は、起きたらすぐにテレビのスイッチを入れます。だから、家に居る間中必ずテレビが点いています。テレビ番組に面白いものがないと思ったときには、録画していた韓流ドラマを観ています。音がしないと落ち着かないのだそうです。

先日、妻が数日間旅に出ました。わたしは我が家のワンたちと一緒にひとりで留守番をしました。・・・それは、とても静かな日々でした。<ブーン>という熱帯魚の水槽の音が家に響きます。ソファの陰で居眠りをしている老犬の溜息と寝返りをする音が聞こえてきました。空気清浄機が突然動き始めたりします。日頃聞きとることのないそんな音をバックに、ときがゆっくりと流れていく気がしました。

若いときはまったく気になりませんでした。まるで聖徳太子のように(は、ちょっと言い過ぎか)テレビを見ながら、論文や手紙を書き、本を読むこともできました。でも、今はダメです。テレビの音が流れている限り、読んでいる本は字面だけ追いながら何度も同じページを行ったり来たり・・・まったくアタマの中に入ってきません。ブログの文章ですらグチャグチャです。作家が執筆活動のために温泉宿に缶詰になるという話を昔から良く聞きますが、そりゃきっと捗(はかど)るだろうな!と思わないでもありません。

ただ・・・玉に瑕なのは、ゆったりとした時間は、眠くなる。微睡(まどろ)みの時間を楽しみながら、結局読みかけの本のページは前に進まず、書きかけの原稿は始めたときのまま・・・だったりするのです。「それもまた楽し!」と自己弁護。

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糸井重里

先日あったゴルフコンペで、一緒に廻ってくれたキャディさんが、私を見ながら云うのです。

「お客さんは『糸井重里』さんに似ていますね!」

「へ?」・・・一瞬、耳を疑いました。そんなこと初めて云われたからです。わたしは若いときからずっと『ベンガル(東京乾電池)』似だと、思っていました。それは自他ともに認める事実でした。他にも『小錦』だとか『石原裕次郎』だとか『若貴のお兄ちゃん』だとか『風間杜夫』だとか云われてきましたが(全然統一感がないといえばないんですが)、でも『糸井重里』は初めてでした。

予想だにしない名前だったのに、「ねえ、『糸井重里』に似てますよねえ?」と同じ組のメンバーにキャディさんが聞いた返事は、「・・・ああ、ホントねぇ。確かに似ちょる!」・・・その返事にまたまた驚きました。納得いきません。帰ってから妻に聞いてみました。「あ、なるほど。それ、何となく分かるわ」げな。若いときからずっと顔を合わせてきた人に云われるとなると、そりゃ認めざるを得ないのでしょうが、でも、そうなんかなぁと、まだまだ不満です。別に糸井さんが萎(しお)れたジジイだとか、嫌いだとか云う話ではありません。彼は、ジャンルがまったく違う(と思われる)骨格の御仁なのです。

考えました。しゃべり方かな?とか、胡麻塩頭になったからかな?とか。・・・でも、単にわたしが歳をとってきて、カラダ全体が萎(しぼ)んできたからなんじゃなか、という結論に達しました。そう思うと、返って妙に感心しました。この際、あの文化人的コピーライトの発想も一緒に似るようにならないかなぁ、と思うのであります。

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女郎蜘蛛

庭の落ち葉を掃いていたら、あちこちで蜘蛛の糸があたまに絡んできました。

鬱陶しいなあと思いつつ、目を上げてみたら、驚くほどあちこちに蜘蛛の巣が張られています。庭中の木々に糸が絡まっています。冬が近づいたせいなのでしょうか?「うちは蜘蛛屋敷か!?」と慄(おのの)いた次第です。

ものすごく繊細に張られた大きな巣の真ん中には女郎蜘蛛のような大きくて鮮やかな色をした蜘蛛が鎮座しています。腕を組んで胡坐(あぐら)をかいているように見えます。そのすぐ横には、形が中途半端ながら曲がりなりにも獲物は捕まえられそうな巣を構えた、ちょっと不器用な小さな蜘蛛もおりました。ちょっとオドオドしているように見えます。よくみると、庭木の枝の先から電線にまで糸を伸ばした蜘蛛の巣もできています。我が家の二階のベランダの壁にも伸びています。ああいう上向きに伸びた蜘蛛の巣はどうやってできるんだろうな?などと考えながら眺めました。

電線や家の壁にまで広げた蜘蛛の巣の方がダイナミックで、新境地を切り開いているんだろうな、などと最初は考えていましたが、もしかしたら逆?天空に糸を伸ばしていった連中は実ははぐれ者で、一番の特等席をあの女郎蜘蛛が奪い取り、その周辺から場所取りが始まり、最後に弾き出されて行き場がなかった連中が、上に伸びるしかなかったのでは?第一、あんな天空にか細い糸を張っても、獲物は簡単には捕まらないっしょ。

なんとなく弾かれ者が不憫になって、特等席の女郎蜘蛛の芸術的な巣を端から全部切ってやりました。さすがに慌てているようでしたが、やはりチンピラの動きとは違って、それなりに落ち着いておりました。

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星の王子さま

先日阿蘇に行った帰り、2つのコブ状になった小さな丘が車窓から見えました。

「まるで、サン・テグジュペリの『星の王子さま』みたいやね」・・・ふと思いついてそう云いました。
「それって、あの帽子の話?大蛇(うわばみ)が象を呑み込んだ姿ってやつ?すごいもの連想したねぇ」と、助手席の妻が答えました。

「そうそう。『星の王子さま』といえば、盲目の人たちと象の話だよね」
「え?何それ?『星の王子さま』は砂漠に飛行機が墜落する話だよ」
「目の見えない人が各々象の違う場所を触って、各々違う意見を云うんだよ。これは壁のようなものだとか、これは木の幹だとか、これはロープだとか・・・」
「そんな話全然知らないよ。『星の王子さま』といえば、バオバブの木とバラでしょ?星を離れるとなると我儘なバラの世話をできない。でも「わたしは大丈夫だから行っておいで」ってバラが云うんだよ・・・」

「全然知らない、そんな話」
「私こそ、あなたの云ってるような話聞いたこともないよ~」

その話題はそれで終わりました。『星の王子さま』(サン・テグジュペリ)・・・有名なお話なのに、たくさんの翻訳本がでているというのに、どんな話か実は全然知らないのでございます。今度、文庫本を一冊買って読んでみよう、と誓いました。

わたしの思い出した「象と盲人の話」は『星の王子さま』とは全く関係ないみたいです。あれは仏教の話。「群盲象を評す」というやつです。でもわたしは、<サン・テグジュペリ><星の王子さま>で必ず連想してしまいます。一体、わたしの頭はどこで混線したのでしょう?

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ちょっとだけ違うことば、まったく違うニュアンス

ある健康番組に出ていた若いお母さんが云いました。その日のテーマは、クーラーの中のカビの健康被害について、でした。

「うちの子のお友達がよく我が家に遊びに来るんですけど、そのお友達がうちでよく変な咳をするんです。だから、大丈夫かなと思って・・・」

そのお友達がうちのクーラーのカビを吸い込んだんじゃないか?と、そのお友達の健康を気遣っているのかと思いきや、全然違うんですね。たまに来るお友達があんなだから、ずっと住んでいるわが子は大丈夫だろうか?・・・そういう「大丈夫かな」なんですって。「今どきのお母さんはみんなそんな感覚なんだよ。他人よりまずわが子!」と吐き捨てるように横から補足するのは小児科クリニックに勤めるわたしの妻。

「ルック!○○、いつも見てま~す。毎晩、○○を見ると一日が終わった気がしま~す!」・・・ある若者がテレビ番組のPRインタビューで答えていました。後ろ向きに座ってうちのイヌのブラッシングをしながら聴いていたわたしは、思わず「ぷっ!」と吹き出してしまいました。

「それを云うなら、『○○を見ないと、一日が終わった気がしません!』だろ!」

おまえ、全然違うこと云いよるんぞ、分かっちょるんかしら?・・・というか、本人が恥をかくことなのだから、インタビューを収録したテレビ局の人、なんで誰も注意しなかったんだろう?「それもまた面白し!」っていう、逆手の意図なんだろうか?

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エコナ騒動に思うこと

特定保健用食品(特保)として有名な花王の「エコナ」に含まれる「グリシドール脂肪酸エステル」が「グリシドール」という発がん性物質に分解される可能性がある、ということがヨーロッパで指摘されたために販売を中止しています。「安全性に問題はないとみているが消費者の健康意識も考慮して販売を自粛します」と花王側は説明しているとか。

体内に脂肪を溜めにくい調理用油としてお国がお墨付きを出した食品のこの騒動は、基本的にあまり興味のない話なのですが、それでもいろいろと考えさせられます。

「○○に良い物質!」・・・学者さんたちは、そういう物質をみつけてうまく抽出し、そうやって<無駄のない理想的な食品>を作り上げるのに躍起ですが、美味いところだけ取り出して返ってバランスを壊すということは間々あることです。むかし、塩イコール塩化ナトリウムだと云って工場で化学反応を起させて作った食卓塩が蔓延りましたが、それが間違いだということを多くの文化人は知るようになりました。あるいは、毒物Aと無毒物B、Cが共存していて、毒物Aを取り除いたら、B+Cで毒物Dができてしまった、ということもよくあることです。つまり、自然界で複雑に入り組みながら出来上がっている物質を妙に弄(いじ)ると予想だにしないものができあがることもある、ということです。自然界のものには絶対に「無駄」がない、というのはとても大事な事実です。

その一方で、もうひとつの思いが浮かんできます。「発ガン性」ということばに過敏すぎるのではないでしょうか?。必ずがんになるとは云ってないし、必ず発がん性物質になるとも断言していないのです。どうせ食用油なんて使わなくても困らないのだから、気になるならあまり使わなきゃ良いことです。あるいは初めからオリーブオイルにすればいいこと。「こんなものを食べると動脈硬化を起して心筋梗塞になるよ!」と注意しても無視するくせに、「微量の発ガン性物質が入っている」と云った途端に食べるのをやめる、ってホントに現実が分かってないよな!と、ついグチりたくなります。

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不安。

我が家もまた、ワンコ2匹と熱帯魚とバラの鉢植え群を除けば、妻と二人暮らしです。

ときどき不安になることがあります。それは突然襲ってきて、アタマとカラダの中をザワザワとかき乱していきます。「ひとりぼっちになること」の不安です。二度の流産を経て、結局私たち夫婦には子どもができませんでした。わたしの姉一家は三重県に住み、妻はひとりっ子です。妻とわたし、旅行中の事故か大天災にでも遭わない限り、どちらかが先に逝くでしょう。「自分が後に残ったとき、独りで生きていくことの強い不安感がときどき押し寄せてくるのよ」と、あるとき妻がわたしと同じような心を明かしました。わたしを実家の墓に葬った後、自分はどうなるのだろう?とも思うのだと云います。

理想はやはりわたしが少しでも後まで生きていることなのでしょう。彼女の希望である南の島への散骨も、わたしが残っていないとうまくいかないかもしれませんし・・・。あの狭い墓の下で、わたしの両親に見張られながら四面楚歌のような状態になるのは死ぬほど(?)辛い。だから散骨してくれ!と彼女が云うのです。

こういうことを考えていると、あるいはそんな話を夫婦で冗談交じりに話していると、本当にいたたまれなくなることがあります。それぞれに仲の良い友人は居ますが、それぞれの生活の中で友人は友人でしかなく、きっとわたしたちは友人に頼ろうとしないでしょう。だからもっと助け合いの仲間を作るべく社会に出ましょう!そんな打算的な生き方を要領よくできるタイプが夫婦のどちらにもないのが、また悩みの種なのです。

で、結局、まあ何とかなるさ~ケ・セラセラ~ということで、時が過ぎていくのでありましょう。そのときが来たら、どなたかどうぞお助けの手を!

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残された人生

「夫は、去年の12月26日に亡くなりました。」

毎年、寄り添うようにして人間ドックを受診してくれるある開業医のご夫婦がおられましたが、今年は奥様だけが受診されました。やつれきった奥様の姿が、この半年間いかに大変だったかを物語っていました。個人開業の院長が亡くなったのですから、最愛の夫を亡くしたことに打ちひしがれている余裕はありません。今まで何も知らなかった膨大な事務処理のために不眠不休の日々を送ったのだと、受診結果の説明の時間に切々と語ってくれました。

「何しろ、いつも一緒でした。しかも毎月のように二人で山に登りました。お正月は外国の山に二人で行くのが決まりでした。彼はいつもタフで、しかもとても物知りで心から尊敬できる人した。・・・だから、一人残されて途方に暮れています。それでも感傷に浸るヒマもありませんでした。地獄のような日々でした・・・。」

頼もしい伴侶にすっかり頼り切っていたこれまでの人生が伺えます。そして一人残りました。一人で山歩きをする気にもなれず、食べたくもない食事を無理矢理口に押し込んでいいる日々だったと云います。

幸い、健診結果はほとんど問題ありませんでした。軽い弁膜症も耐糖能異常も昔と変わっていませんでした。彼女もその結果を聞いて、ちょっとニコッとしました。でも、彼女の人生はこれからなのだと思います。やっとすべての処理が一段落した今、急に気が抜けて何をする気力も湧かなくなるかもしれません。喪失感と不安感はこれから押し寄せてくるのかもしれません。わたしたちは相談をしました。「もう一度だんなさんと歩いた思い出の山に登ることにしませんか。でも、今の体力ではムリです。来年の春に登ることを目標にして、これから少しずつ体力をつけましょう。」・・・これからは、すべて自分の力で生きていく人生ですが、きっとだんなさんが見守ってくれるから大丈夫です。来年、いい知らせをお待ちしていますね。・・・そう云って別れました。

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健診の使命

くどいようですが(文頭から<くどい>もないもんですが、これまで何度も書いてきたこのなのでこうしてみました=蛇足)、健診は病院受診とはまったく違います。もともと「自分は病気ではない(と思っている)」人が受けるものが健診です。

同じ採血結果であっても病院でする採血と健診で受ける採血は違うものです。病院の採血は、「異常がない」ことを確認することが目的です。一方、健診のそれは「正常である」ことの確認です。「結局同じことじゃないか!」と云う人がいます。全然違います。主眼がどっちにあるかで結果の評価は全然違うものになるのです。

たとえば、動脈硬化に加速度を増させる「食後高血糖」はどうでしょう。「異常か?」と云われれば異常ではありません。だから病院では下手をするとOKと云われます。でも「正常か?」と云われればまったくもって正常ではありません。だから健診ではこれを問題にして生活改善を促すのです。

「がん」の場合は、健診の目的はあくまでも早期発見です。進行がんになったら健診の負けです。でも、それ以外の生活習慣病では早期発見が目的ではありません。どんなに軽くても、病気になってしまったらすでに健診の負けです。グレイゾーンを白色にするのが健診の使命だからです。

どんなに「くどい!」と云われようとも、何度も何度も強調したいことなのです。受診者も医療者もどうしても納得してくれようとしないじれったさに、最近ちょっと自嘲気味ですが・・・。でもグレイはそのまま放っておいても白色にはならないものなのです。

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左右対称はキライ

実家の墓参りに行きました。生憎(あいにく)熊本から花を持っていく余裕がなく、墓の近くのスーパーの花屋で調達しました。こういうとき、わたしは対になる花の種類を必ず違うものにします。一方にピンクの花を選んだら片方は紫だったり黄色だったり・・・。

きっちりと左右に同じものが填(はま)ってないと落ち着かない性格だったわたしが、いつからそうなったのかは忘れてしまいました。ただ、左右対称は面白くない。こじんまりと安定するけれど特徴が出にくいと思うようになったころ、そんな面白くない、特徴のない自分がイヤになって、何とか自分を変えてみたいと思ったことを思い出します。決して奇をてらうのではなく、「こう落ち着くのが当たり前」と思われている既成概念を、本当は変えられるのではないか?もっと面白く活かせるものができるのではないか?いちいちそう考えるようにしてみたのです。いつも一度は必ず違う角度からもモノをみてみようという姿勢をとるようになったら、見えてくる世界がどんどん大きくなってきました。

陳腐はキライ!

シャイなわたしは、決して目立ちたいとは思いません。でも、「当たり前」のものを「当たり前」で終わらせるのはイヤなのです。

だって、お墓にお供えする花は、左右対称じゃなくてもちゃんと落ち着くものなのですから。

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言い訳

ある日、福岡の親戚が訪ねてきたので、近くの寿司屋に出前を注文しました。熊本では有名は老舗の寿司屋です。

20分ほどして持ってこられた料理は一品だけ足りませんでした。早急に持ってきてくれるようにその場で連絡してもらいました。その品が親戚の注文したものだったのです。ところが待てど暮らせどやってきません。電話をしても文字通りそば屋の出前状態のつれない返事です。お客さんの料理が来ないのにわたしたちだけ食べるわけにはいきません。さすがに堪忍袋の緒が切れました。「もういい!バカにしているのか?もう持ってこんでいい!」といって電話を切りました。家の中に重い空気が充満しました。状況から想像するに、バイトのお兄さんが近くまできて場所がよく分からずうろうろした挙句に戻っただけだと思うのです。それらしいバイクの音が家の横を通り抜けましたから。

小一時間してから店の人が菓子折りを持って詫びにやってきました。ただ只管(ひたすら)頭を下げます。
「遅くなった理由を教えてください。」と切り出すと
「何も言い訳は申しません。全く私どものミスでございます。」
「怒っているのではありません。ただ理由を知りたいだけですから本当のところを教えてください。持ってきた人が道がわからなかったのではないのですか?うちは道が入組んでわかりにくいから・・・。」
「何も言い訳は申しません。どうも申し訳ありませんでした!」

・・・この異常なまでの一点張りの返事はなんなのでしょう?これがこの店のマニュアルなのでしょうか?それとも経験上頭だけ下げておくのが一番丸く収まるという考えなのでしょうか?誰が考えてもこの対応はまとまるものをまとまらない方向に向かわせるだけだと思うのですが・・・。もちろんわたしは、持ってきた菓子折りをつき返して追い返しました。その後一度もこの店から寿司はとっていません。

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ボスのメモ

休憩室でナースが話しているのを、弁当を食べながら聴くでもなく聴いていました。

学会の発表原稿のチェックを上司にお願いしたらいくつか訂正の指示が返ってきた。帰ってから訂正しようとしたら、どこだったかわからなくなったので全然違うところを変えてしまった。でも、上司の方もどこの訂正を指示したか良く覚えていなかったらしく、結局そのまま合格になった。

というものです。聴きながら、先日13回忌を迎えたわたしの元上司のことを思い出しました。忙しい職場でしたが学会活動も盛んで、大きな学会に毎年各自必ず2演題以上を出すのがルーチンでした。ボスとその打ち合わせをするのはいつも早朝です。7時からのカンファレンスの前なので5時半ころに約束をさせられたりしました。

今回はどんなテーマにする?どうアプローチする?こういうのはどうかと思うんだけど・・・「アイデアが勝手に湧き出てくるんだ」と云っていた彼らしく、研究テーマのアイデアは次々と出されてきました。彼の最大の特徴は、具体的に話し合いながら自らの考えをまとめていくかのように事細かに原稿用紙にメモをすることでした。目的や対象、その方法、そしてこれからのスケジュールなど・・・この限られた時間の中でそんな細かいことまで書かなくても、と思うようなレベルまで書きました。そして最後に「1部コピーしてボクに頂戴」と云って、その数ページに及ぶ厚いメモを渡してくれるのです。

ところがこのメモがすぐに本領発揮しはじめます。いざ始めようとしたとき、「さて何を何のためにするんだったか?」ちょっと不安になります。なにしろ似通った内容の研究を同時進行で複数進めていくのです。そんなときにこのボスの書いたメモを読み直します。即座にスッキリと頭の中が整理されます。ときどき行う中間報告のときにもそのメモを基に話しますので、冒頭に書いたナースのようなことは起きません。

彼のあの手書きメモこそが、わたしたちの学会発表の原動力になっていました。

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紹介状の行き先

健診結果でさらなる精密検査を勧めたり早く治療を受ける方がよいと判断したときに、医療機関への紹介状(診療情報提供書)を発行します。

もともとかかりつけのクリニックや病院がある人は、割と気軽にその紹介状を持って受診してくれます。ところが、日頃あまり病院にかかったことのない人にとって、「病院を受診する」という行為は想像以上に敷居の高いことのようです。

まず、「どこに行ったらいいか?」・・・わたしたちは受診する病院名を指定しません。「専門医ならどこでもいいですよ。お近くでその科を標榜しているところを探すか口コミで聞いてください」・・・この「どこでもいい」ということばほど不親切で厄介なことばはないな、とたしかに思います。「そんなこと云われたってわかんねえよ」と思案しているうちに、時は過ぎていきます。で、いざ行ったとして「受付で何と云ったらいいの?」・・・わたしたちは病院受診を簡単に考えています。「受付にこの紹介状を出せばいいだけだろ」と思っています。ところが、勝手を知らない未知の場所に、自分のカラダを人質にしてもらいに行くような行為ですから、それは一大決心がいるのだ、ということもよく分かります。なぜなら、かく云うわたしも病院受診は苦手だからです。

「○○病院に△月●日に行ってください。予約を取っておきましたから」・・・こう云ってもらったらどれだけ気が楽か。行かないで済むなら行きたくないところなのですから。現在そんなことができるのは自施設の病院があるところだけでしょうけれど、これから地域のクリニックや個人病院と連携してそういう手厚いフォローができるようになれば、健診後の精密検査受診率は大幅にアップするのではないでしょうか。

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主観の入る検査

人間ドックの検査には、判定に担当医の主観が入るものが少なくありません。例えば、眼底検査・・・昨年は「軽度動脈硬化あり」だったのに今年は「異常なし」になったとか、あるいはその逆だとかいうことはよくあります。判定の定義そのものが半定量的(つまりは主観的)な上に、年齢や他の病気の有無や喫煙の有無などを考えて判断することになれば、判定する医者各々の経験や医療観が絡んでくるのは当然といえば当然です。

それは胸部レントゲン検査や胃内視鏡検査、あるいはわたしが担当している心電図検査にも云えることです。そこにある所見が出たり消えたりするわけではありません。そこに見えている絵(所見)に意味があるかないかの考え方の差が出るのです。

それを「いい加減だから信用できない」と云う人もいます。たしかに何も変わっていないのに「異常なし」だったり「異常あり」だったりするのは困惑するでしょう。心電図検査などは数学的な判定基準があるのだから機械が勝手に所見を出します。それをそのまま答にするならそんなバラツキはないはずだ!これは医者の見落としではないか?と疑念を持たれたこともあります。

検査結果の判定が機械的ではないからこそ良いのだとわたしは思っています。機械的な評価をすれば良いのであれば機械メーカーが作ったロボットが白黒つければ良いでしょう(世の中に「異常」ということばが大量に溢れてくるでしょうけれど)。でも、そこに専門医の経験値が加わるからこそ、その検査の「絵」に実体(命)が生まれるのではないかと思うのです。もちろん、がんの見落としがあったのでは本末転倒ですし、「異常なし」が一転して「要精密検査」になるのはあまりに考え方が違いすぎますが・・・。

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肝油ドロップ

「肝油(かんゆ)ドロップを知っている人?」・・・中村丁次先生がセミナーの講話中に左手を上げながらそう聞きました。

「意外に居ますね。これを知っているかどうかで、歳が知れてしまいますね~」・・・先生はニヤリと笑って話を続けました。もちろんわたしもしっかり手を挙げました。

わたしが子どものころ、夏休みになると必ず肝油の缶を買わされました。真面目なわたしは、それが何のために必要なのかなど何も知らずに、それでも毎朝きちんと食べていました。もちろん、肝油は<サプリメント>です。学校が有無も云わさずに買わせて食べさせた<サプリメント>です。メインはビタミンA・・・不足すると「夜盲症(とり目)」になります。この肝油のおかげで、日本人には一人も夜盲症が居なかったのだと、中村先生は強調しておりました。ビタミンD欠乏症の「くる病」の予防効果も肝油にはあると聞いています。おぼろげな記憶では、「一日2粒を推奨するが1粒でも可」ということで、金に余裕がある家はたくさん買っていたような気がします。

栄養状態の良くなった現在では、もちろん学校が一律に斡旋することはなくなっていることでしょう。ただ、<サプリメント>が普及しています(ご他聞に漏れずわたしもいくつか飲んでいます)ので、ちょっと注意してください。現在、すべての栄養素に「欠乏症」と「過剰症」があることがわかっています。「すべての栄養素」です。「これは摂りすぎても余ったものは出て行くから心配ない」と思って、<サプリメント>を一度に大量に取りすぎることのないように、指定された用法用量を必ず守るようにしてください。

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<食べること>の雑学

先日、あるセミナーで中村丁次先生(神奈川県立福祉大学)のお話を聴きました。面白いと思ったことを書き並べてみます。

「人間は、生きていくための栄養素を摂るためにモノを食べているのではない!」

   栄養学者の究極の目標は、「朝1つだけ摂ればもう後は1日何も食べなくても大丈夫で、無駄なものが一切ないから便も出ない」という食物を作り上げることでした。そして、それは現実に出来上がりました。アポロ宇宙船の乗組員が摂った「宇宙食」です。ところが、その完全食は不評でした。こんなものを食べていたら「食事がストレスになる」といって乗組員の間から反対運動が起きたのです。つまり、人間が食事を摂る最大の目的は、「おいしく楽しい食行動」そのものであって、「栄養を摂って健康に生きる」ことではないのだということがはっきりしたのです。

「『モノを噛めば噛むほど胃液がたくさん出て消化が良くなる』というのは本当ではない!」

   味も何もないチューブをひたすら噛んでみても、出てくる消化酵素はほとんど増えてきませんが、味(特に好きなものの味)がついたものを噛んだら、途端に大量の消化酵素が出てくるのだそうです。つまり、ただ「噛む」という物理的な行為だけではダメだということになります。また、口から食べることができずに胃チューブを入れたり胃ろうを造って栄養を摂っている患者さんたちの場合、味覚を刺激することのない限り、たとえ十分な栄養素が入ってきたとしても体内は消化吸収の準備(キャッチアップ)をしないのだということを知っておきましょう。

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こんなにがんばっているのに!

メタボの健診が進む中で、多くのマジメな皆さんが悩んでいることがあります。以前もここに書いたことです。

「食事は野菜から食べ、ごはんはできるだけ時間をかけて良く噛んで、夜9時以降にはできるだけものを食べないのが大事です。」
「わたしはここ2年以上、毎日そうやってきましたし、朝夕の散歩も欠かしません。なのにどうして糖尿病と脂質異常症が良くならないのでしょうか?」

マジメな人ほどこのジレンマに悩まされます。でも、それは「『病気になるのは自分の生活態度が悪いからだ』と思い込んでいるところに根本的な誤りがあるのだ」ということを理解していただかなくてはなりません。よっぽど乱れた人生を送ってきたのであれば自業自得ですが、生活習慣病は体質の病気ですから、模範的な人生を送っていても罹る人は罹るのです。むしろ、そういう人生を送っているから今より悪化しなくてすんでいるんだ、と自分を納得させていただく必要があります。そういう方々のかかえている問題は、「やせれば治る」というメタボの問題とはまったく違う次元のもので、いうならば、「太ると悪化するけれど、やせても治るとは限らない」ということなのです。一言で云ってしまえば<現代社会に向かないタイプ>・・・だから、やることをやってもうまくいかないなら早いとこ病院に行って薬をもらった方が、ずっと質の良い人生を送れる権利を持っている、といえましょう。

ここのところを割り切れるかどうかが、思いの外大変な様子ではありますが・・・。

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芸術家と職人

東京に居たころ、妻が通っていた新大久保のステンドグラス教室では、とても繊細な小さなパーツと小さなノリしろ(というのかしら)でとても細かい作品を作っていました。熊本に帰ってきて、自宅近くにあったステンドグラス教室に行き始めたら、作風がガラッと変わりました。のりしろも大きいしパーツも大小さまざま。結果として大味だけれどダイナミックな作品が増えてきました。「そんな細かいことにこだわっててもしょうがないよ」とその教室の女先生は豪快に笑っていたと聞きます。

「まあ、性格だけじゃなくて、同じような芸術作品でも、職人としてこなすか、芸術家にこだわるか、その差が出てくるんだと思う」と云うのが妻の分析でした。どっちが職人で、どっちが芸術家なのか良く分からないといえば分からないのですが・・・何となく<言い得て妙>という感じで聞いていました。わたしは、相手が満足できる仕事をする(作品を作り上げる)人が「職人」で、まず自分が満足できる仕事をする(作品を作る)人が「芸術家」だと区別しています。

そう考えると、医療の場はまさしく職人の集まりです。うちの病院のような高度先進医療を積極的に追求している現場では、<ゴッドハンド>のような名人芸の医者はたくさんいます。患者さんの命を救うという作業をするのですから、「職人の中の職人」といえるでしょう。それなのに、現場はとかく自分の満足を満たそうとしすぎているのではないか、ということが問題になりました。患者さんにとって、そこまでする必要性はないと思えるところまで手を出しているというのです。そういう反省から、現在ではそこに病変があっても臓器に大きな影響を受けない限り簡単には手を出さない、という考え方が主流になっています。

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ムリっ!

最近流れている、ある住宅会社のCMが気に入っています。部屋でうたた寝している女性(上野樹里)の前に、テレビの中から羊の子どもが飛び出てきます。

「ひろ~い、人間にはもったいなくない?」
「もったいなくない・・・。」
「あ、そうだ、親を呼ぼう!」と携帯を取り出す彼。
「なんで?」
「心配するから。呼んでいい?」
「・・・ムリっ!」

この、「・・・ムリっ!」が好きなんです。元々準備された台詞であれ、アドリブであれ、全くわたしの発想の中に存在しないことばだったので、ビビンと響いてしまいました。一般のオヤジであるわたしが考えるなら、それが日常会話であれ、脚本家として書くのであれ、「呼んでいい?」の答えは「ダメ!」か「勘弁して!」であって、「・・・ムリっ!」は絶対出てこないなと思うのです。これが今の若い子たちのことばの発想なんだろうな、と素直に感心します。ここで上野樹里に云わせるなら、やっぱり「ダメ!」より「ムリ!」の方が良いよな。

もう少し、ボキャブラリーを増やす心の旅に出かけたいものだな、などと思いながらこのCMを見ているのであります。

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