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2010年1月

よい医者(後編)

わたしは<技術=デジタル、人格(人柄)=アナログ>と考えています。

「医療の標準化」という言葉に化けて、いかに科学としての質の向上ができるかを追求するあまり、アナログ(人間性)を疎かにしてもやむを得ないと考える時代はもう終わろうとしていると思いたいところです。若い医師が早く一人前の医師としての技量を磨きたいと思い、より医療レベルの高い研修をしたいという気持ちは良く分かります。自分のことを思い出しても、自分の技術が身につかないと医師としての自信は生まれないものです。ただ、自分が医者になろうと志したとき、「いい医者」になりたいと考えたであろう「いい医者」のモデルはどんな医者だったのか?忙しくて寝る時間もない日々の中で、それを見失わないでほしいと願わずにはおれません。世間の多くが求めているものは、スマートなデジタルドクターであるよりも人間くさいアナログドクターであることを忘れないでほしいと思います。

「きょうは先生のとてもわかり易い説明を聞けて良かったです。何か頑張れるような気がしてきました。」「先生に会えて本当にうれしかったです。ありがとうございました。」
・・・ときどきではありますが、帰り際にそう云ってもらえることがあります。「感動していただくのはありがたいですが、分かった気分になるだけでは行動に移れません。絶対今日何かを変えてくださいよ!」・・・わたしは平静を装ってそんなイケズなことを云いますが、受診者の方からそんな言葉をいただくのは本当は涙が出るほどうれしいことです。そんなことに感動できる医者でもあってほしいと思います。

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よい医者(前編)

ときどき病棟で働いている夢を見ます。ナースセンターの棚には受け持ち患者さんのカルテがずらっと並んでいますが、知らない名前がいくつかあります。ナースに聞くともう入院して何日も経つと云います。そういえば最近回診をした記憶がありません。「忙しいからなあ。夕方に一回顔を出すか。でもずっと行ってないから顔を合わせたくないなあ。」などと思っていると、目が覚めます。自分のいや~な人間性を見た気がして、しばらく気分が晴れません。

鎌田實先生の「言葉で治療する」(朝日新聞出版)に、がん患者の会「どんぐりの会」でがんで亡くなった患者さんの遺族に行ったアンケート調査のことがありました。それによると、主治医の良い点の1番は「毎日病室を訪問してくれる」で、2番が「よく説明してくれる」だったそうです。少なくとも家族は、腕が良いとか有名だとかいうことに大した意味はなかったと思っていることがわかります。

「よい病院」「腕のよい医者のいる病院」などの本や特集が氾濫しています。藁にもすがりたい気持ちの患者さんやご家族はこんな情報をみて受診を決心するのでしょう。でも「やさしくて、親身になって一緒に考えてくれて、いつもベッドサイドに居てくれる主治医がいる」・・・多くが求めているそんな理想の主治医が居るかどうかを教えてはくれません。くだんの特集に「評判の良い医者が多い病院」というのをみたことはありません。病院の人事考課の場でも、「患者の評判」に重きを置いた給料査定をする病院がどれだけあるでしょうか。腕の良さや手術件数で「医療の質」を語る時代からそろそろ卒業しても良いころではないかと思います。そうでないと、若い医者たちがただ忙しさに潰されて人間らしい医療の意義を感じられなくなる気がして心配です。

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心脳蘇生

第38回日本総合健診学会の教育講演で、日大の長尾建先生の「心肺蘇生から心脳蘇生へ」というお話を聴きました。健診医や健診スタッフには興味がなかったのか、あまり聴衆が多くなかったのが残念でした。そういえば長尾先生には20年以上前に一度声をかけていただいた記憶があります。・・・お互いに歳をとりました。

救急をやってきた人間にとってCPR(心肺蘇生術)は基本手技ですので、目の前に意識なく倒れている人がいたらカラダが勝手に動き出します。でも、そんな世界から離れて8年以上、AEDのみならず、救急蘇生のやり方は大きく変わってしまいました。今は心臓マッサージ(胸骨圧迫心臓マッサージ)のみを行う方法でも、口対口の人工呼吸を行う従来型の方法と蘇生率に有意な差がなく、むしろ心臓マッサージのみの方が社会復帰率が高かったという報告もありました。肺に少しでも空気を入れたいからといって赤の他人の口に息を吹き込む行為は、気が重いものです。長尾先生によると、人工呼吸をしている間心臓が止まっている(その間はマッサージをしていない)ことが問題なのかもしれないということでした。

今年は国際ガイドライン改訂の年だそうですから、またやり方が変わるかもしれません。とにかく意識のない方をみつけたら「Call & Push」~人を呼び、とにかく心臓マッサージ(胸をpush)100回/分×2~3分、次にAEDのボタンをpush、そしてもう一度すぐに心臓マッサージをします。心電図の確認はその後です。単純だから覚えやすいですね。

最後にフロアから出た意見・・・「止まっていた心臓が電気ショックで戻ってもすぐには動き出しません。だから『AEDの後にもすぐに心臓マッサージ』なのですが、最近テレビを見ているとよく電気ショックで心電図が戻ったら医者たちは何もせずボーっと立ってモニターに見とれています。あれではまた止まってしまいます。ああいう番組は影響が大きいから大切です。是非先生からテレビ局にアドバイスしてください」・・・やっぱりここは東京だなと思いました。

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割りが合わない

劇作家のつかこうへいさんが肺がんになりました。彼が喫煙家だったかどうかは忘れましたが、このニュースでふと頭に浮かべたのは、ヘビースモーカーだった劇作家の友人です。練習場に行くと空き缶いっぱいの吸い殻がいつもありました。

世間の喫煙者の皆さん、やっぱりタバコは止めた方がいい。紫煙を燻(くゆ)らせる姿をカッコいいと思っている人間は、もうきわめて特殊な感性の少数派になってしまいました。国は、税収を確実に確保できるように麻薬中毒患者を計画的かつおおっぴらに培養して泳がせているわけですが、だからといって培養されていたひと(喫煙者)が肺がんや肺気腫になっても、自業自得だ!と突っぱねるだけで慰労の見舞金ひとつ出してはくれません。一方で保険料を納めている一般市民からは泥棒扱いされます。どう考えても割りが合いません。

「止める意義を感じないから止めない!」っていう人は世にたくさんいますが、きちんと止めた人の中に「止めたことを後悔している」人や「もう一度生まれ変われるなら次は絶対吸い続ける」という人は皆無なのですから、やっぱり吸わない状態の方が断然面白いんだと云い切っていいんじゃないでしょうか。「健康志向も長生き志向もないから禁煙に意義を感じない」と云って吸っていたわたしが云うのもなんですが・・・。「オレはいつでもタバコを再開できるんだぞ」と主張するために(でもありませんが)、年に1、2回もらいタバコをしてみることがあります。久しぶりの一吸いで心筋梗塞になった患者さんのことを思い出しながらドキドキして吸ったら目眩はひどいし二日酔いはひどいし・・・とんでもないお仕置きをその都度自分自身のカラダから受けます。絶対に割りが合わない!

禁煙を考えたときはどうぞ禁煙外来へ!日本禁煙学会のHPや熊本禁煙推進フォーラムのHPから禁煙外来の情報も公開されていますのでご利用ください。

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「言葉で治療する」

学会のために上京したとき、やっと読み終えることができました・・・「言葉で治療する」(鎌田實 朝日新聞出版)・・・飛行機の中で泣き、ホテルでひとり嗚咽しました。最近、<泣くこと>が気にならなくなりました。悲しくて泣くのではないからだと思います。

でも、書いてある内容は悲しい現実ばかりでした。「医者選びに失敗した!」などと吐き捨てる気持ちはどんなに辛いものなのだろう。書いてあることは本当なんだろうか?世間では本当に医療者の言葉がこんなに冷酷で荒んでいるのだろうか?真意がきちんと伝わらなかったとか患者さんのひとりよがりな勘違いとかではなくて、本当にこんなひどいことを云う医者が存在するのだろうか?どうしてもわたしには信じられない投稿が続いていました。医者というよりも社会人としてありえないことばかり・・・。

でもそれに匹敵するほどの数のあたたかい言葉があったことに感動し涙しました。励ましや親身になったほんのひとことが患者さんやご家族にはどれだけの癒しになり救いになるか計り知れません。荒んだ言葉の羅列の隙間に記されたあたたかい言葉だから読んでいて感動し同感するのだけれど、普通の社会人であれば当たり前の言葉がもっと普通に溢れていて当たり前なのに・・・と思うと、暗い気持ちになります。

たしかに、自分の気にも留めなかった一言で、話していた相手の表情が急変して驚くことがあります。「何を怒ってるの?」と面食らうことがある一方で、突然感動してくれることもあります。自分に心当たりがないだけに対処に困ります。わたしたち医療者はどうしても上の立場になりがちです。よほど自分の言葉のひとつひとつに意識を持たないといけないのだ、ということを胆に命じたいと思いました。

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健やか加齢

先日、第38回日本総合健診学会に行ってきました。

最近はメイン会場に居座って特別講演やシンポジウムを聴くことが多くなりました。ただ、今回はあまり新しい感動はありませんでした。内容が陳腐だったというのではなく、彼らが示してくれたスライドの多くは、<変わり者>で<ワサモノ>のわたしの中ではすでに理解し終わっていた知識だったからです。

健診学会や人間ドック学会に行くと、心が休まります。自分の求めている健診医像が間違っていないことを確認できるからです。病気の早期発見ではなく、病気にならない体作り、さらに未病状態での人間らしい健康づくり~従来「医療者の仕事」ではないと思われていたそんなことを率先して行うのが今の健診であるということを、世間はまだあまり認識していないと感じています。正常高域の血圧を至適血圧に下げるために努力することよりも早期がんを発見する方がはるかに大事だと、多くの医療者や受診者が思っています。それがもどかしくてたまらないのですが、学会の中に身を置くと、「自分の考え方で良いんだ」と安堵できるのです。

今回は「高齢者の健康」がテーマでした。当たり前ですが、ご高齢の方ほど健康づくりに一生懸命です。でもかえってそれでカラダを壊していく人が居ます。年配の女性はやせない方がいい、コレステロールの値をあまり気にしない方がいい~日々の食事や運動のポイントと目標が若い人たちとは全く違うにもかかわらず、検査の「基準値」は同じです。歳をとればとるほどに「健康」の定義が変わっていくことを、ご本人もアドバイスする医療者もきちんとわきまえなければなりません。老いに対する不安-高齢者特有のメンタルフォローはちゃんとできているだろうか?・・・反省の良い機会になりました。

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時計の音

ベッドの枕元に目覚まし時計が3個あります。

カチッカチッカチッカチッカチッカチッ・・・

ある日、夜中にベッドに入ったら、どこからともなく時計のタイムを刻む音が聞こえます。

カチッカチッカチッカチッカチッカチッ・・・

妙に気になってしょうがありません。・・・なんで?なんで聞こえるの?昨日は聞こえたか?一昨日は聞こえたか?・・・ノーだ!なのに、なんで今夜はこんなに聞こえるの?

聞こえて当たり前なのに、それが気になるときと気にならないときがあります。この音が気になると、夜中の静寂の中で、どうしてもわたしの心の中を大きく占めてしまいます。寝たいのに気になって寝れなくなります。わたしは病んでいるのでしょうか?

そのうち、変なことを考え始めます。なぜ音がする必要があるのだろうか?今どき、置時計のほとんどが電池時計です。音がするのはアナログ時計で、アナログ時計は歯車が回るから音がするのだとしても、でも今どき音を立てる必要なんか全然ないのだから、その気になったら、音を出さないように作ることは簡単なんじゃないだろうか?夜中の静寂だとはいえ、こんなに大きな存在感を示す必要なんかないんじゃないだろうか?

なんてことを考えたりするものだから、一層寝れなくなるのです。

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日本の風土(3)

ケアリング・クラウンの活動を続けている後輩の文章は、最後に「現場に働くものの変化」という見出しに続いて、彼女が活動を続けていく中で確信を持ったクラウンの存在価値を書き記して終わっています。これも納得のいく内容でした。

介護やケアの現場は本当に疲弊していると思います。効率と採算性重視の職場は働く者の体力と精神力を奪い、こころざしと現実の大きなギャップの中で、事故やトラブルが起きないように起きないようにとどうしても逃げ腰の管理を余儀なくされます。そんなときにクラウンたちの訪問を受けると、たしかに大きな変化がもたらされるだろうなと思います。皆がやりたくてもやらせてもらえなかったこと、やることがタブーだったこと、それらを赤鼻の訪問者はいとも簡単に壊していきます。赤鼻さんたちだから許してもらえたことだとしても、当事者とその家族とケアする職員のすべてが同等にその行為のケアにもたらす効果を知ってしまえば、共通の既成事実として、自ずとタブーの掟が薄らいでいくことでしょう。

彼女の原稿を読んでいると、一番癒されて救われているのは、介護や福祉の現場の職員たちなのかもしれないとつくづく思います。彼らが報われ、彼らのやっていることに生きがいを求められるシステム作りというのは、現実には絵に描いた餅のようです。わたしにもケアに頑張る数人の知人がいます。かれらの生き様は賞賛に値します。もしかしたら彼らは、自分のリアルな仕事の中に彼らなりのケアリング・クラウンを生み出そうとしていつも頑張っているのかもしれません。<おわり>

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日本の風土(2)

彼女の文章を読みながらふと思ったことは、歴史と伝統のあるケアリング・クラウンはどうしても赤鼻の道化師でなきゃいけないのだろうか?クラウンは道化師なのだから当たり前なのですけれど、赤鼻の道化師であることの心理的、社会的メリットは十分分かるのだけれど、相手が高齢者ではなく子どもたちだとしても、欧米の子どもたちにとっての道化師は日本人の子どもたちにとっての道化師とは何か根本が違うのではないか?ということです。日本人の感性と風土に合った表現型にあえて変えてしまったクラウンはいないのだろうか?他の妖精や座敷童子では格が下がるのだろうか?確立していないと効果が半減してうまくいかないのだろうか?同じようにコトバを必要としない世界なのに、何かアニマルセラピーと根本的に違うものを感じてしまうのは、道化師の文化が万国共通なようで実はそうでもないからなのかもしれません。

最近「グローバルスタンダード(世界基準)」というコトバが良く使われます。島国ニッポンはもっと世界に出ていき、世界に通用するものにならなければならない。日本の風土に馴染むか馴染まないかではなく、世界基準に合わせることによって広く大きく展開できる。もともと経営や金融システムから出てきたコトバですが、日常のいろいろなところでその考え方は普及しています。その重要性は重々承知の上で、でも最近何となくこのコトバが好きになれなくなってきています。「グローバルスタンダード」の方が本当に格や次元が上なのだろうか?もっと日本独自にアレンジしたものが、オリジナルには絶対真似できないものが、そのつもりで研究していくならもっと進化したものができるのではないのだろうか。それだったらそれの方が、少なくとも日本人にとっては、次元が上なのではないのだろうか?

何となくそんな思いと疑問が浮かんでくるのです。

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日本の風土(1)

先日紹介したケアリング・クラウンをしている後輩から長い文章が届きました。ある機関誌に掲載したクラウンとしての活動に関する思いを綴った原稿でした。

クラウン(道化師)の歴史を解説した後、「日本にクラウンは必要なのか」という小見出しで日本の現場で働く彼女の日々の苦労と苦悩が書かれていました。もともとクラウンの活動は病院にいる子どもたちが対象でしたが、徐々に範囲が広くなり、障碍者や老健施設の訪問も行うようになってきました。そんな中で生じるジレンマなのでしょう。
「・・・日本の高齢者にはクラウンという歴史が存在しない。彼らにとって、赤い鼻に派手な格好のクラウンは未知なる存在で、全く新しい存在なのである。つまり、実際には、私たちクラウンは高齢者にとって受け入れられにくい存在なのではないかと思う。・・・」
という、彼女の意見を読みながら、わたしは深くうなずきました。たしかに・・・わたしの世代ですらピエロは馴染み深いものではありません。子どものころ、生のサーカスを観に行った経験もありませんし彼らが活躍する映画や絵本を見た記憶がわずかにあるだけです。「彼らは目の奥で何を考えているかわからないから怖い」・・・うちの妻がそう云って着ぐるみ人形に近寄らないのと同じように、ピエロに対してもそんな恐怖心を正直なところわたしは持っています。異次元の得体の知れない存在が笑いながら向かってきたら、もし手に拳銃でも持っていたら怖くて発砲するかも知れません。彼らを見て喜んでいる顔をしながらも、そこにはあきらかな戸惑いの笑みがあることを否めないように思います。

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満足感の実感

仕事も一段落だ。あ~腹が減った~!やっとメシだ、メシだぁ~!
コンビニで買ってきた弁当を一気にほおばる昼休み。

美味い!・・・バサバサバサっと口にしながらバキューム食いで胃の中がみるみる満たされていく実感。しあわせだぁ~!

でも、気付いたら一気に残りが少なくなっている。それに従って、なんか妙に不安になる自分がある。もうすぐこの幸福感が終わろうとしている。イヤだイヤだ!できるならもうしばらく続いていたい。止めることなく食べ続けながら、でもその感情はどんどん大きくなっていく。・・・結局食べ終わっても満足感がない。明らかに満腹になっているのに何か満たされない。だからつい、他に菓子でもないか辺りを探したくなる。

*************

そんな感覚、ありませんか?わたしは、あります。しかも、最近かなり減りはしましたが、まだまだチョクチョクあります。先日も書いたとおり(「噛んだらたくさん食べてもいいですか?」)、「満腹感と満足感の違い」を感じることはとても簡単なことです。でもそれは、自らが感じてみないと周りから何を云われてもわからないでしょう。ちょうど禁煙できたときの爽快感と同じものがあります。経験して実感してみない限り、何も変わらないでしょう。勿体ないことですけれど。

だからこそ、是非とも大好きな料理をほんの少しだけ目の前に置いて食べてみてください。好きなものほど少なくすることをお薦めします。本当に料理の美味さが味わえる唯一無二の方法だと確信しています。

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外食の心得(後編)

外食に行って、好きなものを注文してしっかりと味を楽しむことは本当に素晴らしいことです。でも最近は「食を楽しむ」ことができないひとが多くなってきました。バブル時代のような「贅沢な食材をたらふく食べ尽くすこと」が「食を楽しむ」ことだと勘違いしてしまっているからかもしれません。

話を戻します。外食をするときの注意点ははっきりしています。「自分に正直であれ!」~美味しいなと思っても、腹いっぱいになったら無理して食べない勇気は必要です。できたら美味しい料理は少なく盛られるに限る。ちょっと物足りないけどな、と思う程度の上品な量を盛られると、もう虜だ。というかこれはもう虜になりきっても大丈夫です。

もうひとつの注意点は、明日になったら日頃に戻ることです。「昨日ついつい誘惑に駆られてカロリーの高いものばかり食べたから1kgも太っちゃった!」などと云うひとがいますが、勘違いです。朝1kgアップしていても、昼下がりにはかなり元に戻っているはずです。たとえ1kg食べてもそのまま身になることはありえません。一晩の美味しい夢は自分への褒美だと思い、また庶民の生活に戻ってしまうなら、数日もかからずにちゃんと元のカラダに戻れます。

どうか、食べることに意味のない足枷をつけないでください。もっともっと食べることを楽しみましょう。でも、くどいようですが、いつも自分の感覚に素直であってください。食べすぎも食べなさすぎも自分の素直な感情ではありませんから。

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外食の心得(前編)

先日久しぶりに旧友に会いまして、昼食をごちそうしてくれると云うのでそのままランチに行きました。

メニューを眺めていたら、彼が「これおいしそうだけど、カロリー高いのかなあ。まずいかなあ。」と腹をさすりながらつぶやきましたので、わたしはすかさず「外で食事するときにカロリーなんか考えちゃダメよ!」と忠告しておきました。

メタボ健診が確立し、世間みんながダイエットに目覚め、居酒屋メニューや外食メニューのカロリー本が出版され、あるいはお店のメニュー表に堂々とカロリー表示があると、ついつい自分が食べたいと思う料理のカロリーの多さにため息をつき、ガマンしてあまり美味しそうではないけれどほどほどのカロリーの料理を選んでしまう。そんなことやってませんか?それを続けていると、これから一生食べたい料理を口に出来ず、食べる楽しみを味わえないまま中途半端な食生活で終わる可能性があります。美味しいものを食べる権利を放棄する必要はありません。どうぞ、外に食べに出たら、食べたいものを注文してください。シェフが腕によりをかけて自信を持って作った料理のはずです。毒を盛ってやろうなんて考えているシェフは居るはずがありません。是非ともそんな逸品に舌鼓して、食べることの楽しみと嬉しさを存分に味わってほしいと思います。(つづく)

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くまもと禁煙推進フォーラム

昨日は、昨年発足した「くまもと禁煙推進フォーラム」の講演会に初めて参加しました。

熊本県は、学校の敷地内禁煙の取り組みが全国ワーストグループ、禁煙外来普及率も全国最下位グループ、そして葉タバコ生産全国一位です。同じように葉タバコ生産一位を争う宮崎県の現状とは雲泥の差があることは以前(『病気にならない本』2009.7.30)ここでも書いた江藤敏治先生から聞いていました。

今日のメインの特別講演は全国に先駆けてこの4月から「受動喫煙防止条例」を制定した神奈川県議の関口正俊さんの話でした。いろいろな反対分子をすり抜けながら制定に至った秘話はとても面白く、「ほかの県でできたことが熊本県でできないはずはない。ほかの自治体でできたことがその他の自治体でできないはずはない」という世話人の高野先生のスライドを実証するようなお話でした。

この日、実はわたしが一番感動したのは、冒頭で行われたシンボルロゴマークの発表と表彰式でした。地元にある崇城大学の学生が考えたそれは、なるほどなあ!と合点が行く出来でした。最優秀賞は、ひらがなの「く」の字がモチーフですが、良く見るとその頭の部分がタバコの吸い口になっています。くまもとの「く」と、タバコを折り曲げた形を掛けた、シンプルかつ明解なメッセージだと思いました。基本色調が赤などの厳しい色ではなく、うぐいす色(黄緑色)だったことも好感が持てました。特別賞(ポスター用のロゴ)の作品は「キツエンからキンエンへ」というキャッチコピーとともに、大きなカタカナの「ツ」の点々部分をくっつけて「ン」に変換したデザインでした。こういう発想は、やはり若い柔らか頭でないと考え付かないものでしょう。もちろん彼らと競う気はありませんが、心から「負けた」と脱帽しました。このロゴがあちこちに溢れることを期待しています。

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妊婦の喫煙

<児の行動障害リスクが上昇~妊娠中の母親の喫煙>

新年号のMedical Tribuneの見出しに出ていた記事です。ロンドンのある大学から、「妊娠中に喫煙していた母親の子供では、多動などの行動障害を3歳までに発現するするリスクが高まる」「男児は女児よりも行動障害リスクが高い」という報告があったそうです(Journal of Epidemiology and Community Hearth 2009;64:82-88)。

妊娠中の母親の喫煙が、キレやすい子どもや知能指数の低い子どもを生みやすいことは以前から云われてきましたし、親が喫煙者だと成長障害(背が低い)や肺炎・気管支喘息・中耳炎を起こしやすいというデータも周知の事実として発表されてきています。

先日の結婚披露宴では、多くの若い男女の吸うタバコの煙がもうもうとしていました。最近わたしの周りでは喫煙者が急激に減り、特に宴席ではほとんどの場合「喫煙所で喫煙」というのが場の常識になってきたので、ちょっと違和感を感じました。気になるのは、やはり若い人の喫煙です。オジサン以上が自分の健康を気にするのに対して、若い人たちはまだまだ他人事です。ところが、実は逆なのです。わたしも喫煙歴のある人間ですが、わたしが20代の頃と今では、喫煙以外の酸化ストレスが比べものにならないくらい増加しています。現代社会の環境で生まれてきた若者は吸い初めの時期が早いほど、若くして動脈硬化の進行を招くことになるのは一目瞭然です。若い人ほどタバコの世界を知らないでほしい。かなり大きな危機感を持ってそう思うのですが、若い人の喫煙が目についてなりません。

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木がかわいそう。

先日、伯父の一周忌に行きました。外の沁みるような寒さとは裏腹に穏やかな陽射しをたっぷりと受ける縁側のまどろみの中で、おば(故人の妻)と2時間ほどゆっくりと世間話をしました。大きな旧家のそのお宅の縁側からは広い庭が見えます。

その庭の中央にある松の木を眺めながら、「あなたのお父さんは良くここの庭木の剪定をしてくれたのよ。うちの夫は何でもかんでも丸裸に切ってしまうからね、お父さんが来て『かわいそうだ。そんなに切ったら木がかわいそうだ』って云うのよ。今年は上半分、来年が下半分、そういう風にして枝を残してあげないと『かわいそうだ』って。何度も何度も『かわいそうだ、かわいそうだ』って云ってたのよ。」とおばが云いました。

あの父の口からそんなことばが出たのは、とても意外でした。わたしもどちらかというと伯父さん型で、<鬱陶しい>と思ってバシバシ切り落とす口です。昨年の冬に初めて庭師さんに入ってもらいました。夏の前にお願いしたら「今頃刈ったらダメですよ。植物は夏に生い茂るのが当たり前なんですから」と窘(たしな)められました。

本来あるべき自然の姿と自分たちが鑑賞するに堪えられる姿との板ばさみの中で、生きとし生けるものを慈しむこころがないといけないんだなと思いつつ、わたしは夏の間隣りのお宅まで入り込んで茂っているうちの庭の梅の木の茂みに近づくのがとても負目でした。

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結婚披露宴

先日、職場の若いスタッフの結婚披露宴に行ってきました。

最後のあいさつで、感極まった新郎が声を詰まらせました。しゃくり上げながらポツリポツリと話す姿を眺めながら、遠い昔の自分の結婚式のことを思い出してしまいました。

父親の反対を押し切る形で籍を入れましたので、披露宴にはどちらの親族も呼びませんでした。一生に一度のことなのに、妻とお義母さんには本当に申し訳なかったと今でも思っています。俄かクリスチャンになったわたしたち夫婦は、6月の土曜日に教会で式を挙げました。前日まで降り続いていた雨がウソのように上がった初夏の昼下がりでした。当時、病院の写真室にいたプロカメラマンMさんが撮ってくれた写真パネルは今でも我が家に大きく飾られています。賛美歌も書き入れた式次第のしおりを切り貼りしながら手書きで作ったことを妙に鮮明に思い出します。

その後にNホテルで催した結婚披露宴は、職場の同僚や友人だけをお呼びしたこぢんまりした宴席でした。自分たちだけでなく、何とか皆さんの思い出に残っていただきたいと作ったメッセージ文集は、今では考えられないような貧相なワープロ文字でした。最後のあいさつを始めようとしたとき、一気にこみ上げる感情はいかんともし難く、小さな子どものように顔をくしゃくしゃにして泣きました。最前列のベテラン看護師さんが「がんばれ~」と云いながらハンカチを持ってきてくれたことしか覚えていません。

・・・「こういうときは男の子の方が感激屋なのよね」・・・来賓席のテーブルで、くだんの新郎の姿を眺めていた新郎の勤務する会社の社長夫人が、微笑みながらそうつぶやくのを耳にして我に返りました。良い結婚披露宴でした。

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先走り

わたしがちょっと椅子から立ち上がると、すぐに階段をバタバタバタと先に降りていくのは、1歳と2ヶ月になった我が家のメスのワン<セイラ>です。でも、だれも降りてこないとわかると即座にまたバタバタバタと駆け上がって、わたしの後ろにまとわり付いてきます。「せわしないなあ」とつぶやきつつ、このムダをムダと思わない軽いフットワークこそが<若さ>なんだろうな、と感じます。

我が家にいるもう一方のメスワン<ベル>11歳9ヶ月はほとんどムダがなくなってきました。確実に庭に出してくれる、散歩に連れ出してくれると確信が付くまでは、呼んでも聞こえない振りをして階上で佇んでいます。そんな彼女も、ほんの1年前までは<セイラ>同様にムダな先走りをしていたのですが・・・。歳取ったんだなあ、とつくづく思います。

転じて、わたしのフットワークも徐々に軽さを失ってきました。この歳にしてこの心身とものフットワークの軽さは自慢していいものだなと思っていたのは、つい2、3年前だった気がします。最近急に何をするのも億劫になり、新しいことに手を出すこと自体が面倒くさくなっています。<セイラ>のせわしない若さをマネようとは思いませんが、せめて億劫だからムダに動かない<ベル>のようにはならないように、思い立ったことには素直に動いてみようかなと思います。

と、云ってみてもすぐに第一歩に繋がるとは限らなくなった・・・これこそがココロの老化なのかしら。

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存在

わたしをこの病院に誘ってくれた元ボスは15年近く前に脳腫瘍で亡くなりました(「恩師の遺言」2008.2.18)。

ガンマナイフ>という当時は超先進的な治療を受けて(彼が自分で調べて自分で手続きしてそれをやっている病院に入院しました。現在うちの病院にガンマナイフ治療室があるのは、彼の影響です)、一旦は現場復帰しましたが、残念ながら腫瘍の質(たち)が悪く再発をしてしまいました。手術を受けるべく大学病院に入院した彼は、ある日、わたしたちスタッフを全員呼び寄せました。

「腫瘍の場所が悪く、手術によって麻痺が残るかもしれないと云われた。わたしは、わたしの人生観として、あるいはポリシーとして、カテーテル治療を自らの手で行えないようなカラダになるのであれば自分の医師としての存在意味が見いだせない。生き恥をさらすような姿になってまで生きていたいとは思わないので、手術を受けないことにしようと思う。」

静かに、しかしキッパリと、彼はわたしたちにそう語りました。でも、わたしたちの意見はほぼ一致していましたので、誰からともなくこう訴えました。

「先生は大きな考え違いをしている。先生が『存在している』という事実がいかに重要で大きなことかをわかっていない。何もしなくて座っているだけでも十分なのです。先生がそこに存在しているということがわたしたちの支えなのです。先生の人生観を変えてもらって、ポリシーを曲げてもらって、できる限りの生きる努力をしてほしいのです。」

その場での即答を避けましたが、結局彼は、わたしたちの懇願を聞いてくれました。再びカテーテルを握ることはありませんでしたが、幸い麻痺は残りませんでした。

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奇跡

<コード・ブルードクターヘリ緊急救命2nd>を不覚にも見てしまいました。

救急の世界から足を洗ったあとは、できるだけこの手のドラマは見ないようにしてきました。別に<胸が騒ぐから>ではなく、常に厳しい選択と緊張を必要とする世界のことを考えると重い気分になるからであり、知らない世界ではないだけに、現場はそんなキレイ事では済まされないぞ!と反発してしまうからでしょうか。

主人公の若いドクターのことば、「奇跡を祈らない医者はいない」・・・考えてみたら、わたしもいつもそうだった気がします。心肺停止の患者さんが救急車で到着すると、逸早く無意識に心臓マッサージをし始めるのは循環器科医のサガ。その横で、「これだから循環器科医は・・・」という顔でみるのは脳外科医や脳内科医。「これだけの時間が経ったら、止まっていた心臓はたとえきちんと戻っても脳はまず戻らない。心肺蘇生の成功は時としてすべてのヒトを不幸にさせる。」と、当時のわたしの同僚医師は冷たく言い放っていました。「それでも、奇跡的に回復した症例はある」・・・そう反論すると、「ほとんどない可能性のそんな超奇跡状態を、残された家族に無責任に期待させることは、ほんとうに良いことなのか?」と問い返されるのでした。

救急現場の医療者にとっての勝負は<生きるか死ぬか>の結果ですが、患者さんに関わるすべてのヒトに重要なのは<退院してから先のこと>であることは、きっと皆が分かっていることなのです。でもわたしにはその奇跡を諦めることはどうしてもできなかった、そんなことを思い出しました。

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スリムアップ

先日、ある消化器外科の先生からコメントをいただいて、はじめてそのドクターのブログを知りました。

短い文節でつづられたその文章は、真摯に医療と患者さんをみつめるやさしい内容で、リズムがとても心地よいので、初めて訪れた日から毎日覗きに行くのが日課になってしまいました(Dr.鼻メガネの「健康で行こう!」 )。

気に入ったブログを知ってしまったときにまずやってみたいことは、ブログの一番始まりを読んでみること=2006年1月4日の記事にたどり着いてみると、このころの文調は今と全く違っていました。長さも違っていました。4年の間に、いつの間にかことばに無駄がなく、単語が洗練されてきていると感じました。これは<センス>なのだと思います。

わたしのブログで、ずっと気にしていることがあります。それは、だんだん文章が冗長になってきたことです。Hanameganeさんのブログを拝見しながら、わたしもそろそろもっとスリムアップした中に素直なメッセージを託せる文章を書いていきたいな、と思いました。

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正常眼圧緑内障

「緑内障」という病気があります。似たような名前ですが「白内障」とはまったく違うものです。「緑内障」は、徐々に視野が狭くなって失明する恐れがある病気で、日本緑内障学会のガイドライン(2006)によると、40歳以上の日本人の20~28人に1人が罹っているのだそうです。

目の玉は、硝子体というゲル状の水分で満たされた大きなふくろです。目の中の圧力と大気圧とが同じになるように交通路があるのですが、それが詰まってしまうと目の中の圧力(眼圧)が高くなって視神経を圧迫します。人間ドックで「眼圧」を測定するのはそれがないか確認するためです。ところが、健診でずっと正常眼圧なのに緑内障になるヒトがいます。特に日本人は欧米人より多いのだそうです。正常眼圧であるにも関わらず、視神経の傷害を受けて緑内障を起こすものを「正常眼圧緑内障」といいます。

最近は健診や人間ドックで眼底検査をします。動脈硬化がないかをチェックするのが目的の検査ですが、このときに視神経乳頭という凹みを確認します。視神経が出てきているところです。正常眼圧緑内障のヒトは、眼圧が正常であるにもかかわらず、この凹みが大きくなっていることが多いので、健診でそんな所見をみたら濡れ衣でもいいから眼科を受診して視野検査を受けてほしい、と云われるようになりました。どうもないのに「眼科で要精査」という指示が出たら、めんどうでも一度眼科を受診してください。15分くらいですむ簡易型の視野検査をしてくれると思います。緑内障は進行すると元に戻らない病気ですので、早めに確認してみましょう。

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テレビ討論

最近、テレビ討論の番組が妙に多くなったような気がします。

わたしはあの手の番組が苦手です。論題が政治であれ超常現象であれ、あるいは諸般の事件についてであれ、相手の話を最後まで聞くこともなく、けなしあうだけの騒がしい番組には建設的な内容がほとんどないからです。ただ、番組制作者としてはどうもそれが狙いのように見えます。単なる口げんかを、「本音のトーク」と勘違いしている気がしますが、たしかに出演者が皆で互いを肯定しあって相手の話を聞きながら温和に建設的な話し合いをするのでは番組が成り立たない、というか視聴率がとれない、とうことなのでしょうか。

<ディベート>というのがあります。あるひとつの論題に対して、肯定の立場と否定の立場に分かれて、ある一定のルールに従って議論しあうやり方です。医療の現場でも、最近は学術大会などでよく行われるようになりました。「低炭水化物ダイエットは良いか悪いか?」とか、「やせることは是か非か?」とかいうのが良い例です。これも一見テレビ討論と同じように見えますが、大きく違っています。何よりも、ディベートにはきちんとしたルールがありますし、相手の主張をきちんと最後まで聞き取ってから反論をするのが基本ですから、相手に敬意を示しながら論議しあう礼儀というものが存在しています。

相手を褒め殺すある芸人さんがいます。些細なことでもとことん褒めまくります。何か最近、あれが一番いいなと思うようになりました。

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クラウンからの年賀状

「私は最近、ケアリング・クラウンをしています。」

大学時代の演劇部の後輩H嬢から、今年も年賀状の返事が届きました。このブログを始めてすぐの頃、彼女から「ケアリングクラウンの修行を始めました!」という年賀状が届いたときに、はじめてこのことばを知りました(年賀状「ケアリングクラウン」2008.1.4)。そんな彼女が昨年も年賀状に「最近caring crownの修行を始めました」と書いていましたから、なかなか修行は大変なんだろうなと想像して、陰ながら応援しておりました(「ピエロが病院にやってきた」2009.1.11)。

今年は、その文面が変わりました。仕事として活動できていると推測します。紹介してもらったブログには、グローバルに活躍している彼女の様子が見て取れました。わたしが感じたとおり、この仕事は彼女の天職に違いないと思いました。ブラボーです!

先日は、大学の演劇部の後輩Y嬢とも出会いました。うちの施設に健診を受けにきてくれたのです。今は知的障がいの子がいる施設で教師をしているのだと話してくれました。
「毎日が戦いですよ!楽しいこともあるけど疲れますよ。」「あの子たちといったらね・・・」
グチばかりを語る彼女の表情には、毎日充実した生活を送っている姿が歴然と表れていました。

二人と、それに関わるすべての人に、幸多かれと祈ります。

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噛んだらたくさん食べてもいいですか?

「わたしはごはんが大好きなんですが、先生の云うように、しっかりと噛んで食べるならごはんをたくさん食べてもいいでしょうか?」

先日、健診結果の説明をしているときに、ある男性から質問されました。内臓脂肪蓄積型肥満、境界型糖尿病、高中性脂肪血症、脂肪肝などが認められる結果報告書を二人で眺めながら、「炭水化物であるごはんは、噛まないと血糖値が跳ね上がるけれど、噛めば噛むほどゆっくり上がるようになるから、ごはんは噛んだ者勝ちなんですよ!」とわたしが説明したのです。一通りの説明が終わった後、最後に席を立つ寸前に、意を決したように彼がそう聞いてきました。

「大丈夫です。心配しなくても、ほんとうにしっかり噛んだら、そんなにたくさん食べれなくなります。」・・・即座にわたしはそう答えました。

食べることに関して、多くのみなさんが同じような心配をされています。大好きなものを減らすなんて耐えられるだろうか・・・。最近わたしはかなり確信をもって減食を進言しています。目の前にたくさんある限り噛みはしませんし、味なんか分かません。バサバサバサと口に投げ込むだけです。でも、大好きなものが日頃の半分しか目の前になければ、これしかないとなったら、自ずと噛みますし、いつもよりはるかに良く味わえて、本当の意味で<食べること>を楽しむことができます。いつも書いているように、案ずる必要はありません。とりあえず自分で試してみればよいことだと思います。

「ああ・・・なるほど。たしかに考えてみるとそうですね。」~彼はそう答えましたが、まだ納得できていないんだろうなと感じました。きっと彼は、ごはんがどんなに甘く美味しい食べ物かをまだ経験したことがないんでしょうね。

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HPVワクチン

子宮頚がんのほとんどの原因になると云われている、ヒト乳頭腫(パピローマ)ウイルス(HPV)感染の予防ワクチンが厚労省によって承認されました。

がんで死亡した女性の10人に一人は婦人科がんです。検診が浸透してきて子宮頚がん自体は減少してきているのに、二十代、三十代の若年層の発症が増えているという事実、さらにその世代のほとんどが検診を受けていないという現実があります。性交渉の開始年齢や相手数など、ライフスタイルが変化したため、日本人のHPV感染はおそろしいほど広く若年者の間で蔓延しています(二十代の30%以上、十代の40%以上が感染)。HPVは感染しても他の性感染症のような症状がありません。しかも不潔で乱暴な性交渉で起きるというわけでもないので、若い女性が子宮がんで子どもを生めないカラダにならないようにする方法は、予防と早期発見しかないのです。

<早期発見>はがん検診しかありません。だから若い女性に積極的に検診を受けるように啓蒙するわけです。そしてもうひとつの<予防>がHPVワクチン接種になります。ところがこのワクチンは一度感染してしまってから打っても意味がありませんから、接種するならまず12歳前後にしなければなりません。ここに大きなネックがあります。日本のワクチン接種の大半は任意接種(希望者が自己負担で接種する)で、おそらくこれもそうなるでしょう。それでなくても日本では非道徳的だと非難される若年女性の性交渉を小学生のときから是認するかのような誤解を招き、保護者が金を出し渋るのではないかと心配です。ワクチンは1回の接種で6年以上は効果がありますから、せめて最初だけは無料接種にしてあげられるといいのですが・・・。

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半そでの白衣

わたしは仕事中にいつも半そでの白衣を着ています。

寒いからといってその上から長白衣を羽織ることもありましたが、寒いと室内の空調が妙に強く効いていることが多く、暑くてすぐに脱いでしまってジャマになるので、いつの間にか羽織らなくなりました。

でも仕事初めだった昨日は、外を歩く用事が朝から多かったこともあり、さすがに寒さが身に沁みました。そのために、久々に長白衣を引っ張り出して一日中羽織っておりました。寒さのためについつい背中を丸めて腕を抱え、前屈みになってうつむいて歩いている自分の姿が窓ガラスに映ったとき、ふと面白いことに気付きました。・・・たぶん、半そでのときの方がもっと胸を張って歩いています。傍から「先生、寒そうですね」と云われ、ちょっと鳥肌を立てながらも、まるで寒さに立ち向かうかのように堂々と前を向いて大股で歩いている自分の姿はちょっとカッコいいなと思っています。少々マゾっ気があることを否定はしません。

寒いことを承知の上で半そでを着ているからこそ、気合が入っているのでしょう。単にそれだけのことですが、このことに気付いてちょっと勝手に感動しています。何でも人生訓にして総括しようとするのは最近のわたしの悪いクセですが、いろいろなことに立ち向かう姿勢としてはこれはとても大事なことなのではないかと思うのです。

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いろいろな腹

ときどき温泉センターに行きます。

湯船に浸かってボーっと辺りを眺めていると、目の前をいろいろなお腹が通り過ぎていきます。超メタボな堂々たるお腹、引き締まって縦割れの線が見えるお腹、貧相なお腹、若いお腹、年寄りのお腹、毛むくじゃらなお腹、真っ白なお腹、うつむき加減に歩くお腹、胸を張って上向きなお腹・・・。同じ日本人でありながら、遺伝因子や環境因子は千差万別なお腹を作り上げていくんだなあ、とちょっとばかり感動しながら眺めるのが習慣でした。

先日、新年早々に阿蘇にある温泉センターに行ってきました。ちょっと温(ぬる)めの湯に浸かりながらいつものように他人のハダカを眺めていましたが、ふと気付いたことがあります。なにか明らかに大きなお腹の人間が減ってきた気がします。もちろんこの日がたまたまなのかも知れませんが、中肉中背のいわゆる<日本人的体格>の人が増えているように感じたのです。ただ痩せて貧相なだけのそれではなく、それなりに「均整の取れたカラダ」という意味です。これはきっと、国を挙げてのメタボ対策が、何のかんのと云われながらも、それなりに奏功している証拠なんだろうなと実感した次第です。

流行(はや)りというのはそれなりに重要なことです。女性の胸が流行りによって豊満になったりこじんまりしたりするのは男性にとっては摩訶不思議な現象ですが、同様に男性もメタボ対策が流行りになってくれると健康的なハダカが多くなっていくのだろうなと思いました。わたしも、どっかのCMのように、ふと自分のお腹を隣りのお兄さんのお腹と比較して、ついつい引っ込めて見栄を張ってしまいました。

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選択肢

先日、職場のゴルフコンペがありました。

あるミドルホールで同じ組で廻っていた同僚がめずらしくティショットを左に引っ掛けました。幸い木に当たってフェアウエイに出てきましたが、それでもまだ残りが200ヤード以上残っています。ここで、シングルプレーヤーの彼が選んだ手段は、フェアウエイウッドで2オンを狙うことでした。前の組がグリーン上から居なくなるのを待って、遼ちゃんよろしく豪快にスイング・・・でも、ボールは無常にも左の林の奥深くに消えていきました。OB!もう一度チャレンジしましたがこれも同じ方向にOB!結局このホール+5とスコアを崩しました。一方、わたしも同じような位置から第2打でした。わたしの場合はここまで飛ばすのが精いっぱいですから、もちろんグリーンまで残り200ヤードを1打で乗せる力はありません。着実にグリーン手前に落として3オン・・・無難に+1で上がれました。

わたしは下手くそなので手段に選択の余地がありませんが、彼の場合は実力がある分だけ選択肢が多く、その中から最適なものを探さなければなりません。結果として失敗しましたが、どこかのトーナメントに出ている訳ではないのですから、ナイストライでしたし、後悔するのもまた面白し、だったことでしょう。選択肢が多い分だけ失敗もあるでしょうが、きっと何通りもやり方を考えられるのは楽しいだろうなと思いました。まさしく昨日の<数I>の概念と似ています。

こういうことは人生の中に間々あります。ゴルフや数学はセンスと才能ですから今さらいかんともし難いですが、生きていく上ではできるだけ選択肢の多い人生でありたいと思います。そのためには何をしたらいいのでしょう。何事にも怖気づかずにトライすること、固定観念にとらわれないこと、そして日々勉強と精進・・・「云うは易し、行うは難し」の典型ですが、まあ努力しましょ。

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数I

「必ず解ける」といえば、数学です。算数の教師をしていた父の影響からか、数学はわりと好きな教科でした。

今はどうなっているのか知りませんが、わたしが高校生のころの数学には、数I、数IIB、数IIIがありました。一般的には数Iが1年生、数IIBが2年生、数IIIが3年生(ただし理系大学を受験する人だけ)で教わるものと認識していましたが、この中で一番むずかしいのはどれだかご存知でしょうか?理系の人だけが教わる数IIIが一番むずかしそうに思われがちですが、実は、むずかしいのは群を抜いて<数I>だと思います。

数IIIはとても高度で緻密な計算を短時間にしなければなりません。でも、地道にきちんと展開していけば、必ず解けるのです。この事実にはほとんど例外がありません。焦らず計算間違いしないようにすれば絶対に解けます。まさしく、先日書いた<だごコード>を解くのと同じ世界です。これに対して<数I>は、そうは行きません。一言で云えば「ひらめき」です。高校1年生の授業中に教わるのは基礎の基礎ですから一見簡単に見えますが、この基礎の基礎の世界には大きな落とし穴があるのです。解くための考え方が何通りもありながら、そのいずれもが「ひらめき」であり「センス」なので、何もひらめかないとまったく解く糸口がつかめないままタイムアップになります。屈辱的な敗北となり、まったくお手上げです。

基本的にセンスのないわたしにとって、<数I>は難攻不落の大きな壁でした。試験では数IIBや数IIIで泥臭く点数を稼いでいましたが、実は<数I>をスマートに解けるのが昔から憧れでした。

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必ず解ける。

それは、年末にいつになくしっかりした大掃除をしている最中でした。デジタルTVの大画面の裏でこんがらがった電気コードの整理にひとりで悶絶していたとき、ふと大学時代のことを思い出しました。

演劇部員だった大学時代、よく電気コードの配線や撤収作業をしました。学内でやる自前の芝居公演も然(しか)り、学園祭や学内の音楽イベント(コンサートやダンスパーティ)も然り。小さな劇団ですのでもちろん役者だけやっていたわけではありません。無数の電気コードを巻き取っているとき、端から巻いていくうちに必ずと云っていいほど電気コードの絡まりに遭遇します。超だご(だんご)状態のそれを目の前にして、ただただ途方にくれるのが常でした。とにかく疲れているのです。さっさと終わらせて帰りたいのです。あるいは早く済ませて打ち上げに参加したいのです。そこに立ちふさがる<だご>の塊に向かって、もちろんわたしはトライをするのです。だんだんイライラしてきて、「んんんんんんー!」と叫びたくなり、癇癪を起した挙句に乱暴に扱って、必ず絶望感に苛まれるのです。

そんなとき、ある先輩がやってきて、ゆっくりとその呪縛を解いていきました。「元が別々なものは、焦りさえしなければ必ず解けるよ。」・・・事もなげにそういいながら、彼は一本ずつ手繰り寄せて地道にはずしていくのです。複雑な<だご>はすぐに単純なものの集まりに変わり、彼が扱ったら何事もなかったように仕事は終わるのでした。絡み合った日常で問題を起したとき、この先輩がいうように、ひとつひとつ順番に解決させていけば、そしてとにかく焦らなければ、必ず最後には解けていくものなのだという摂理を、わたしは大学2年の夏に初めて教わりました。

あの先輩は、今頃何をしているのでしょうかしら。

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