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2010年2月

聞き取る力、伝える力

「他の部署からこういうクレームがきたですが、どうしましょう?」
「なんで?どういう意味かわからんぞ!」
「はい。わたしも良く分かりません。」
「『わたしも分かりません』じゃあどうしようもないでしょ!誰に電話したらいいの?」
こうして、煮え切らない部下に連絡先を聞いて直接クレーム内容を聞くことがあります。

あるいは会議で決まったことを上司に伝えた担当者が、いろいろ注文をつけられて帰ってきて、「『これじゃダメだ』と云われました」と云うことがあります。
「なに云ってんだ?ここまで話し込んで決めたことを『ダメ』なんてあるか!直接文句云ってくる!」・・・何しろ研修医のときから部長に食って掛かっていたわたしですので、納得いかないことに対しては相手が上司かどうかにかかわらず声を震わせて突進していくことがあります(だから出世しないんだなと思います)。

こんな場合、わたしが直接話した相手からはほとんど同じ返事が返ってきます。
「わたしはそんな言い方をしてませんよ。第一、彼がわたしに伝えてくれた内容と先生が今話している内容とでは全くニュアンスが違いますし・・・。」~結局内容以前の問題のようです。しっかりと内容を聞き取る力とそれをきちんと伝える力・・・最近それが低下しているように思います。話を頭でまとめるときに<考える>という作業領域(パソコンでいうところのメモリー領域)が小さすぎるんじゃないんでしょうか。自分で理解できないモノは伝えようがありません。こういう力はどうやったら復活するものなのでしょうか?

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マニュアルの弊害

先日、外来から問い合わせがありました。

「健診と外来の取り決め表によると、『心電図異常』で二次検査をするときには○と●と△との検査をすることになっていますが、健診からの予約の時にそれに従っていないことが多いようです。なぜでしょうか?」

「・・・わたしがこの部署に来て8年、一度もそんな取り決めをしたことはないし、第一、『心電図異常』にはいろいろなものがあるのに一律に同じ検査をオーダーするはずがありません。受診者さんにムダな検査やムダな支払いをさせるわけにはいきません。」
「でも、この表によると・・・」
「だから、その表が間違ってるんでしょ?それを書いた人は誰?」
「さあ。当時の担当者はもういないので・・・。」

また違う日に、「ブルガダ型心電図波形」で精密検査依頼票を出す人にだけ同封する説明書が<経過観察>対象者に送られるトラブルがありました。なぜ精密検査が必要かを書いてある文書を精密検査指示を受けていない人に送られたのですから明らかなミスです。ところが、結果報告書送付の手順書(マニュアル)をみると、「ブルガダ型心電図の人には文書を添付する」となっていました。明らかなマニュアルの間違いです。

大きな組織になればなるほど、職員の出入りが多い職場ほど、誰がしても同じことができるようにマニュアルが作られます。内容を確認したらおかしいことぐらいすぐ分かるでしょ?と思うようなマニュアルのミスでも、以前何らかの形でこう決まったのだろうからそれに従うべき・・・そんな威嚇に似た拠り所の顔がマニュアルにはあります。「だって、マニュアルがそうなってるんだもん!」・・・段々と<考える>という作業をしなくなるのがとても怖い気がしました。

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マジョリティ

アメリカでは肥満者が過半数を超え、とうとう<異常者>がマジョリティ(多数派)になったということが社会問題になっています。

日本でも、メタボ判定基準の腹囲85cmを導入したときに「40歳以上の男性なら半数以上ひっかかってしまう・・・だからおかしい!」という論調が出たことがあります。うちの健診では、「慢性腎臓病(CKD)の基準であるeGFRが90未満の人を<異常>とすると受診者の80~90%が<異常>になる。そんな判定っておかしいのではないか?」ということが話題になりました。

このマジョリティ(多数派)・マイノリティ(少数派)の関係は以前から議論の的になってきました。異常値の者が過半数を占めると、そっちが正常になるのかどうか?という議論です。人間の脂肪細胞の平均サイズは70~90μmですが以前は30μm以下であり、おそらくこれが本来あるべき人間の脂肪細胞の大きさなのだろうと云われています。「あなた食べ過ぎですよ」「戦時中ならともかく、今ならこの量は普通だよ!」・・・そんな会話を普通に交わしています。食べ過ぎの人が多くなると結局それが標準量になるというのは、わかるようなわからないような・・・。

たとえば国民の半数以上がインフルエンザに罹ったら、罹ってない人が隔離される世の中になるのでしょうか(なるかもしれませんね)?WHOは「現代の肥満の増加はパンデミックだ!」と宣言しています。マジョリティが<異常者>となり、<正常>がマイノリティになると、そこに突然変異が生じ、<異常>でも生き延びていける者が生まれて自然淘汰していく・・・そうやって生き延びてきたのが糖尿病や高血圧の家系です。<異常>は何とか<正常>になるように努力すべきだという考えに間違いはないと思いますが、努力をしても大きな潮流に流されてしまったとき、「もはや人類滅亡?」は杞憂に終わり、そこに新人類が誕生して強(したた)かに生きて行くのかもしれません。

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続けることのおぼつかなさ

続ければ必ず劇的に良くなる。しかも内容はとても簡単・・・ただ、続けることが必須・・・スロージョギングの話題を受けて、もう少し引っぱってみます。

わたしの知り合いに、数ヶ月で体重を20kg落としたドクターがいます。「先生、すごいですね~。何をするとそんなにやせられるんですか?」と周りが聞くので、彼はその都度そのノウハウを話してくれます。彼の場合はいわゆる単品ダイエット+ジョギングのオリジナルアレンジでしたが、「そんなにきついとも思わずに続けられたから、これが意外に楽でね!」と楽しげでした。そんな彼も今は何事もなかったかのように、むしろ前以上に太っています。スーツに不釣り合いなアップシューズを履いてリュックサックを背負って新幹線に乗る田中宏暁先生のようにマラソン中毒になるか、運動療法を始めたのをきっかけに歩こう会にどっぷりはまり込むかした人を除けば、世間はこういうリバウンド・パターンの人の方が多いのではないでしょうか(わたしもその中のひとりですが)。だからこそどんな簡単なことでも<続ける行為>はことのほか大変なんだということがわかります。同じことの繰り返しに飽きる(することが簡単なだけに)のか、簡単だからこそいつでも再開できるという慢心が生じるのか。

一方、そんな簡単なことだから試しに一度始めてみたら?と勧めても、何かと理由付けしてなかなか踏み切らない人がいます(というかそっちの方が多いかも)。「やってみたらいいのに!」と云うと「一生続けるのに自信がないから」と拒まれます。田中先生のようなマニアになる可能性はあるのだから、続けられないかどうかはやってみないとわからないだろうになあ、と他人事ながらもったいなく思う次第です。

<女は、「する、する」云いながらなかなかしない。男は、なかなか「する」と云わない。>・・・ひさしぶりにこのことばを思い出しました。

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スロージョギング

先日の日曜日に、「ニコニコペース」や「ステップ運動」でおなじみの田中宏暁先生(福岡大学スポーツ科学部)のスロージョギングについての講演があるというので、八代まで行ってきました。

運動は、生活習慣病を改善させるだけでなく、老化を防止し、脳を鍛えることができる。高齢者の介護予防にもなり、がんになりにくいカラダができる・・・良いことだらけです。一番有効な運動量はAT値(無酸素性閾値)やLT値(乳酸性作業閾値)で表されるレベル~これが、隣りの人と楽しくしゃべりながら、しかもいつまででも続けられる運動レベル(「ニコニコペース」)~ですが、さらに同じような運動でニコニコペースの倍以上の効果をもたらす運動として確立させたのが、「ためしてガッテン!」で一気に有名になった「スロージョギング」なわけです。詳細は、ネットや成書に委ねますが、歩く速度より遅く走るこの方法で皆が痩せて多くがホノルルマラソンを完走するようになるようだから、本当にすごいのだと思います。

先生のデータを眺めながら、明確な事実を2つ見つけました。「続ければ必ずできる」ということと「やめれば必ず戻る」ということです。スロージョギングは今までのジョギングの概念を覆すほど楽な運動だそうです。きつくない運動なのに、続けておけば体力はキープできるし病気も予防できるのです。運動に興味もなかったのに、続けておけばマラソンを完走できるようになるのです。・・・こんなに画期的な方法だと分かっているのに、じゃあ今すぐ誰もがスロージョギングを始めるでしょうか?朝昼晩の短時間運動を毎日続ければ良い、でも続けなければダメ・・・そんな行動を誰に強要されるわけでもなく一人で続けるのは、それはそれなりにかなりむずかしいのではないか・・・そんなことを考えてしまいました。

ま、それが真理かどうか、とりあえず自分でやってみて試すしかないのですが・・・ちょっと面倒くさい。

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DCM

毎年うちの人間ドックを受けに来られるTさんは、お父さまがわたしの循環器科医師時代の受け持ち患者さんでしたので、もう15年以上のおつきあいになります。数年前に拡張型心筋症(DCM)による心不全で入院されましたが、その後はまずまずの人生を送っています。お父さまも最初は心筋梗塞の疑いで入院しましたが、最終的な診断名はむすこさんと同じDCMでした。

Tさんは、お父さまの跡を継いで、ある食品会社の社長をしています。もう70歳を超えてそろそろ長男さんに引き継ごうと思っているという話を先日聞きました。その45歳近くになった長男さんは大丈夫なんだろうか?ふと心配になりました。「長男さんは心臓の検査を受けたことがあるのですか?」と聞いてみたら「たぶんないだろう」とのことでした。DCMは肥大型心筋症(HCM)に比べれば遺伝の影響は少ないと云われていますが、それでも明確な家族歴がある場合もあります。Tさんの家系はその可能性があるように思います。HCMと違って健診などでする安静時心電図にはほとんどの場合は異常がでてきませんしかなり進行しないと症状もないので、つい発見が遅れます。

話を聞くと、つい先日、海外出張直前に胸の調子がおかしくなったので出張を取りやめたことがあると云います。これから後継者として責任ある立場になるのだから、今のうちに循環器専門の医者のところで心エコー検査をしてもらうことを、強くお勧めしました。

「募金」(2009.3.22)
http://satoritorinita.cocolog-nifty.com/satoritorinita/2009/03/post-182a.html

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競輪選手の死

先日、「スピードスケートでメダル獲得!」のニュースで日本中が沸きかえっていた日、あるプロ競輪選手がレース中に突然死をしたニュースも流れていました。

死因は「虚血性心疾患」。「レース前日の医師問診では異常がなかったのに・・・」とアナウンサーが半ば興味本位な雰囲気の云い方をし、「かわいそうに、何が起きたんだろうね」と見ていた妻がつぶやいていましたが、「突然死ちゃあ、そんなもんでしょ」といたって冷静なわたしがおりました。鍛え抜かれたアスリートが試合中に突然倒れて帰らぬ人になるということは時々聞かれます。一般の人と同じように、若い人なら不整脈死(心筋症の場合も少なくない)やクモ膜下出血、中年以降は虚血性心疾患(心筋梗塞)や動脈瘤が多いのだと思います。そりゃ、日頃から不摂生で、タバコを吸うは、酒は浴びるように飲むは、肉や脂料理ばかり食うわ、夜更かしするはの人生だったのなら自業自得ですが、プロ選手として日々のケアに神経を使っていても、召されるときは召されるのだということを、わたしたち循環器科医はわかっています。そして、健診の問診や血圧測定や安静時心電図にはそれを予測する力がほとんどないこともわかっています。だからこそ、少なくとも安静時心電図や健診の血圧測定で精密検査を指示されたら、どうもなくても、面倒くさくても、必ず循環器科専門医を受診することをお勧めします。

亡くなったN選手の生活がどうだったか知りませんし、もしかしたら気になる症状があったけど黙っていたかもしれません。でも、そんなことがなくても何の前ぶれもなく突然死は起きます。そんな召され方をするのを「天命」あるいは「寿命」というのだ、とわたしは理解しています。

ふと、突然死した元同僚Kのことを思い出しました。

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Healthy City

先日、第11回九州予防医学研究会に行ってきました。内容が豊富すぎてちょっと疲れましたが、特別講演の松田晋哉先生(産業医大)のお話に聴き入りながらいろいろなことを考えました。

先生のお話の中で印象深かったのは「国は『医療費の適正化』を目的にかかげて医療制度改革をすすめようとしているが、国民はそんなことを目指して健康づくりに取り組むはずがない!」と強調されたことでした。まさしくその通りだと思います。「他人」の医療費が上がらないように「自分」の健康管理をするような人がいるはずがありません。それは自分のことを考えても容易に推測できます。「自分が健やかな良い人生を送るために健康づくりをする」のであって、それを一番の目標にかかげない限り、人間は動かないということは皆がしっかり認識しておくべきでしょう。

国をあてにしていても解決しそうにありません。わたしたちのような健診機関の人間がべったり張り付いて半年間生活指導をしたところで、1年後に再会したら元の黙阿弥になっている人だらけなのも現実です。それではどうしたらいいのか?この答えとして松田先生が準備したのが「Healthy Cityデザイン=健康な街づくり」でした。これこそが<予防医学の新しいミッション>なのだと。つまりは街全体で住民の健康づくりに取り組むコミュニティを力を合わせて作っていくということです。お年寄りが元気な街(=お年寄りをお年寄りとして扱わない社会)つくりをしながら、かかりつけの町医者が人生の管理をし、隣り同士が助け合う社会つくり・・・考えてみれば日本の町はどこをみてもそんなところしかなかったのに・・・そのために予防医学が先導しなければならないと云いたいのだと理解しました。閑散とした商店街を後目になぜにとげ抜き地蔵前商店街はあんなにジジババだらけで溢れているのか?ありふれた普通の商店街なのに何が違うのか?それは「コミュニケーション」だ!あの町では店の人との会話がいつも誰に対してもあるからだ!と云われたことばがとても印象に残りました。ハードよりもハート・・・ここでもこのことばを思い出しました。

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脳卒中の人生

「脳卒中」というのは、脳血管障害によって脳出血・脳梗塞・クモ膜下出血などが急に起きた状態を総称した云い方です。

医療技術の進歩のおかげで、最近の脳卒中死亡率は徐々に減少しています。でも勘違いしてはなりません。<死亡率>が減少しているということがそのまま<罹患率(脳卒中に罹る人の割合)>が減少しているということを示しているわけではないのです。実は罹患率はそんなに減ってはいません。しっかりと血圧の管理をするようになったので脳出血に罹る人は減ったかもしれませんが、代わりに糖尿病や脂質異常症などの増加で脳梗塞が増えているからです。脳卒中に罹るけれど死なない・・・つまり、障害を抱えながら何十年も生きていかなければならない人がかえって増えている、ということに他なりません。それを「幸せな時代になった」と云ってしまっていいのだろうか?医療者としてのジレンマはいつもついて廻ります。

心臓病でもほとんど同じことが云えます。医療の進歩がどんなにめざましくても、結局は自分の日々の生き方をみつめて、自分で自分を律して管理しない限り、<健やかな人生>を得られるとは限らない、というのが現実のように思われます。

<悟り>の中に<健やか>がある・・・考えれば考えるほどにむずかしい命題です。

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完全右脚ブロック

完全右脚ブロック」・・・病的な意義がほとんどないので健診の説明でもさらっと流されやすい所見のひとつですが、そんな病名をつけられた本人は意外にこれを気にしています。それは説明しないからだと最近わかりました。健診結果は正常でも異常でも全部説明する習慣のわたしは、「説明を省略」ということがまったく念頭にありませんでした。

完全右脚ブロックの頻度は約3%程度と云われています。加齢とともに増えてくるものではありますが高校生やアスリートにも見られる所見で、もっとポピュラーなものだと思っていました。心臓には刺激伝導系という線維が走っており、そこに電気信号が流れているときにだけ心臓の筋肉が動きます。その線維が最終的に1本の右脚と2本の左脚に分かれるわけですが、太い線維の束でできあがっている左脚に対して右脚は細い1本の線維ですのですぐ断線します。「神様はなぜこんなものを作ったの?」と云いたくなる不平等さです。で、その右脚が完全に断線した状態が「完全右脚ブロック」です。では断線したらどうなるか?実はすぐに左脚から電気信号が廻ってきますから心臓はほとんど正常と同じ動きをすることができます。特に生活の制限はありません。

そういうわけで、完全左脚ブロックと違って完全右脚ブロックは単独ではあまり問題になりません。最初にこれに変わった時には原因がないか(たとえば狭心症など)精査をする場合もあります。また、これにプラスαの所見(左脚が切れ始めたことを示す所見)が加わったら一気に管理区分があがることになります。つまり、健診で説明を省略されている間は「心臓に大した問題はない」と思ってもらって大丈夫です。

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無理をしている満足感

働きながら好きな<芝居>を続けている知り合いがいます。メンバーのみなさんの仕事が忙しくてなかなか人数が集まらずに十分な練習ができないのが悩みのようです。

本業は仕事なのだから、生活を犠牲にしてまでがんばるのは本末転倒だし、そんなことをしてると続けるのがむずかしくなるから、あまり無理をしないようにして続けよう・・・これが社会人としてのこういう活動の基本的な考え方のように思います。

ただ・・・ふと自分のこれまでの人生のいろいろと重ね合わせながら考えてみるのですが・・・本当は、無理をするから頑張れるんじゃないのだろうか?「無理をしながら何とかできた。もうこんな思いはまっぴらだ!」と思いながら、そんな頑張った自分の中に漂ってくる満足感がたまらなく快感で、ドッとドーパミンが溢れ出てくるのにまかせて、「ど~れ、また次も頑張るか!」という気持ちになる。これを「中毒」と云い、「リセット禁煙」の磯村毅先生が書いた『二重洗脳』(東洋経済新報社)に出てくる、タバコ・酒・ギャンブル・セックスにおぼれるメカニズムとまったく同じことだと云える気がします。

だとすると、「無理しない程度に続けよう」は本当に楽しいのだろうか?というか、そんなことで続けられるのだろうか?そんな疑問が最近急に強くなってきました。「それが趣味であり、だからこそいつまでも続けられるんだよ」・・・そんなことを良く聞きますが、本当にそうなのだろうか?

<人間は報酬系と懲罰系のバランスで生きている>・・・そのギャップが大きいほどに<快感>が生まれ、さらに刺激を求めてマゾのように懲罰系を探していく動物なのだと思っているのは、わたしだけでしょうか?

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はなむけのことば

今週末に職場の若いスタッフが結婚式を挙げます。

うちの職場では、結婚をするスタッフや退職するスタッフに対して「なにか一言書いてください」とメッセージカードが配られます。若い女性が多い職場ならではの良い風習だといつも思っています。ただ、メッセージを考えるのはそれなりになかなか骨が折れます。昔は割と<湧いてくるように>気の利いたことばが浮かんできたような気がしますが、最近は一生懸命考えても気に入ったフレーズは簡単には出てきません。無理やりに絞り出すと、冗長で陳腐な文章になるのがオチですし・・・。

もらっても、親しい友人からのものではないのだから、きっともらったときしか読まないメッセージカードに違いありません。どっかの格言か何かの紋切り型の決まり文句で「ぼくはいつもこれを書くことにしてるんだ」とかなんとか主張しておけば誰もが納得するのでしょうけれど、一度は読んでくれるのだから、それだったらその刹那だけニヤッと微笑んでくれる一言を書いてみたい・・・こういうところでついつい「ええ格好しー」の血が騒いでしまうのですが、これはサガですのでどうしようもないことです。できたら「うまい!先生に座布団一枚!」と唸らせてみたいのですが・・・。

それでも、最近は陳腐な頭になってきたことを悟り、時間をかけずにその場で浮かんだことばを素直に書くことにしています。こういうときに書くことばは、下書きをするわけでもなく結局自分もすぐ忘れてしまいます。せっかく生まれさせたフレーズなのだから、どこかに記録に残しておけば良かったかしら。

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テロミアの短縮

今日はちょっとだけむずかしい、でもちょっと夢のあるお話です。

テロミアと酵素のテロミラーゼは、染色体末端にあってDNAを損傷から保護する仕事をしており、細胞分裂のたびに短縮するので、これによって細胞分裂の回数が制限されるしくみになっています。つまりテロミアは「生物学的時計」で、細胞分裂のたびに徐々に短縮する状態が<細胞の老化>であり、限界に達すると<細胞死>、これで<寿命>が決定されることになります。

この研究が進む中で、アンチエイジングにおけるテロミアとの関連がいくつか報告されるようになりました。たとえば運動との関連:一般にプロスポーツ選手のテロミアは長く、これを定期的に運動しない健常人(非喫煙)と比べてみると、運動選手の方が明らかにテロミラーゼが活性化してテロミア短縮を抑えることがわかりました。「運動に老化予防の効果がある」ということの証明になります(Circulation 2009;120:2438-2447)。

あるいは脂肪酸との関連:魚由来のω-3脂肪酸がテロミア短縮を抑制できる可能性も別の医学誌で報告されました(JAMA 2010;303:250-257)。これによると、冠動脈疾患の患者さんにドコヘキサエン酸(DHA)とエイコサペンタエン酸(EPA)を食べさせて6年間追跡しているのです。するとDHAやEPAをたくさん食べた人の方が白血球のテロミア長の短縮率が小さくて済んだというものです。

これからは、テロミア関連の研究・報告がもっともっと多くなるだろうと察します。

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「できる男は2食主義」

大阪大学の石蔵文信先生の「できる男は2食主義」。買ってから読むまでにかなり時間がかかりましたが、一気に読み終えました。以前、先生の代表的著書、『巨人性うつと阪神性不安』をここで紹介したことがあります(「人間は定位置にいないと落ち着かない」2009.2.2)。

書いてあることは、「腹も減っていないのに『昼だから昼メシ』という発想をやめて、朝夕2食+気が向いたときの間食が良い」という提案を通して、「ねばならない」の固定観念に縛られないようにすることが大切だ、と訴えているようです。男性更年期外来を担当している変り種の先生だけのことはあるな、と感心する発想です。

ただ、この本を読んでいくうちに、書いてあることは何もかも私の主張と同じじゃないか、という確信に似た感覚に見舞われました。まるでわたしのブログを覗きながら書いたんじゃないかと思うくらい・・・わたしと違うのは、わたしは朝食抜きの2食主義だということくらいでしょうか。

「・・・常識というものは、時代とともに揺れ動くものである。しかし、そんなつかみどころのないものでありながら、常識や思い込みは時に人を盲目的にしてしまう。またそういったものを無意識に受け入れてしまったがために、人はその常識の意味するところを、自分なりに考えて咀嚼することをやめてしまうのだ。だから、空腹ではなくても慣例に則(のっと)って食事をとり、楽しくなくても運動をする。・・・」

例えば、「常識からの解放」(「その『常識』は非常識?」(2008.3.5)
「食べたくないのに食べる必要はない」(「朝食」2008.2.28)
「間食とおやつ」(「おやつと間食」2008.5.31)
「体にいいことも楽しくなかったらやらない」(「特定保健指導」(2009.8.9)
「自分の食欲に正直なる」「必要以上に我慢をしない」(「外食の心得」2010.1.20)
「空腹時間をつくろう」(「心地よい空腹感」2009.5.21)(「あ~腹減った」2009.11.24)
「体型に合った服を着よう」(「ズボンの補正」2008.1.18)

時間があったら、わたしのむかしの世界に足を運んでみてください。ついでに、もっと時間があったら(失礼かな)石蔵先生の本も手にとってみてください。・・・二日続けて自画自賛の記事になってしまいました。

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何度も書くのも大切かも。

「あ、今度ブログに書こうかな」と思うことが、日常生活の中でよくあります。閃いた話題をその場でメモしておかないとすぐ忘れるので、小まめに書いて準備しています。

最近そろそろきちんと書いておきたいなと思った話題がいくつかありまして、記事にしようと書き始めたのですが、何か前に同じ文章を書いた気がしてなりませんでした。調べてみましたら、わたしの勘は大当たりでした。同じ話題を1~2年前にこのブログの中できちんと書いてありました。<凹む>を通り過ぎてすっかり笑っちゃいました。以前のものを読み返してみたらとても良いことを書いてありました。今回書きたかったことと少しばかり論旨はズレていますが、これはやっぱり、今もう一度きちんと皆さんに伝えるべきものだということだと思いました。

ということで、今回は以前書いたものの読み直しをお願いする、ということいたしました。よろしくお願いいたします。

●レガシーエフェクトについて
 「糖の細胞記憶」(2009.6.4)
http://satoritorinita.cocolog-nifty.com/satoritorinita/2009/06/post-a5cd.html

●アンチエイジングの考え方
→ 「アンチエイジング」(2008.10.17)
http://satoritorinita.cocolog-nifty.com/satoritorinita/2008/10/post-bcc7.html

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寝過ごした~?

「ゴメン、寝過ごした~」と云いながら妻が眠い目をこすりこすり起きてくることがあります。寒くなってちょっと増えたかもしれません。

健康のためにできるだけ朝飯を食べないように心がけているわたしですので、朝、出勤までの間に妻が起きるかどうかにさほど意味はありません。むしろ、朝からいくつかのブログを書くので邪魔者がいない方が筆は進みます。弊害を探すなら、お弁当を持っていけないことくらいでしょうか。わたしの朝はせわしいです。ブログ書きのあと、仏壇に手を合わせ、ゴミをまとめ、ワンを庭に出し、おしっこシートの処理をし、新聞を入れ、そしてトイレ・洗面・・・長年の共同生活の中で作業の棲み分けはきちんとできています。

それなのに、「寝過ごした~」のことばに時々カチンとくることがあります。「あんた、日本語の使い方を間違うちょるぞ!」とこころの中でつぶやくのです。「寝過ごす」というのは元々起きなければいけない時間に起きる努力を講じたにもかかわらず起きれなかったときに使うことばであって、元々朝が弱い上に目覚まし時計をかけているわけでもなく、「たまたま運が良ければ起きるかもね~」的なベッドライフを送っている人が使うことばじゃないわ!とこれまたこころの中で思うのであります。

夫婦の間のことをここでグチりたかったわけではありません。この彼女の一言に、<カチンとくるときがある>ということに目を向けてみたかったのです。普段、そのことばはまったく気になりません。でも時々ムカッとする・・・ここに自分の精神的な余裕の有りなしが浮き彫りになるような気がします。昨日はそんな日でした。ちょっと病みの周期が来つつあるようです。要注意です。

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「高齢者」の定義

日本の場合、「高齢者」は<65歳以上>と定義されています。

ところが、「自分は高齢者だと思うか?」という問いに「Yes」と答えた人は60歳~64歳では20%にも満たないのだそうです。65歳以上になると50%くらいになりますが、これは法律的な定義に社会が従っている(「定年」という風習が一番大きい)から<やむを得ず>ではないかと考察されています。でも一方で、「高齢者」の体力や知力は、「高齢者」が定義された当時より10~15歳以上若返っていると云われています。つまり今の「高齢者」は主観的にも客観的にも(社会的にも)「お年寄り」ではありません。

こんな中、先の第38回日本総合健診学会の特別講演で「高齢者の膝痛とその対応」というお話をしていただいたのは駿河台日大病院の斎藤明義先生でした。お年寄りは教科書的な運動を真面目にこなそうとします。若いときの体力がないからこそ運動力を維持して若さを保ちたいと焦っている印象です。斎藤先生のご講演の中でも、「運動機能のクオリティを下げたくないと考えているご高齢が世にたくさんいて、彼らの希望をかなえるためにどうしたらいいのかをいつも考えている」という話を興味深く聴かせていただきました。「まだまだ若い頃の体力のままだし、いつまでもゴルフやバスケができるカラダのままで居たい」と思っているわたしも決して例外ではありません。自分のことを「中年」と呼ばれること自体を許せないと思っているのだから、これから先もそう簡単に「自分は高齢者」なんて認めはしません。

ただ、現代社会の生活パターンを考えれば若い人ほど年寄りになるのは早いでしょう。だからこそ整形外科学会が提唱している「ロコモティブ・シンドローム」はとても大切なんだと思います。「メタボリック・シンドローム」は定着するのに何年もかかりました。ロコモもまだまだ時間はかかるでしょうが、今の若い人たちに早々に「動かないと歳をとる」ということを気付いてもらいたいものです。

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低LDLは流行(はや)り?

最近、わたしが産業医をしている企業の職員健診や採用健診を見ていて気になっていることがあります。LDL(悪玉)コレステロールの値が低い人が多い気がするのです。先日、そんなことを保健師さんに話したら「そうでしょ。わたしも気になっていたんです。」という返事でした。そういう目で見てみると、日常の人間ドック受診者の皆さんの検査結果も、以前よりLDLコレステロール低値の人が増えた気がします。これで総コレステロール値も低いと問題ですが、むしろ逆にHDLコレステロールも高いという感じを持ちます。特に若い子にはHDL>LDLの人が多い印象がありますが、これは気のせいでしょうか。

もちろん、「総コレステロールが低すぎるわけではない上に悪玉コレステロールが低くて善玉コレステロールが高い」のですから、これはわたしたちが求めている理想のパターンなわけで、喜ばしいことなのです。でも、どうしてなんだろう?とつい考えずにはいられません。サプリや食事療法を深刻に気にしている世代ではないでしょう。ただ、若い子たちほど高カロリー・高脂肪食にまみれているからもっと質が悪いだろう、と考えること自体がナンセンスなのかもしれません。まさか、流行(はや)りってことはないでしょうが、でもカラダはいつの間にかこうやって自然に理想方向に流れさせていく力を持っているのかもしれない、と考えることも強(あなが)ち間違いではないように思います。

そんな中で、高LDLコレステロール血症に悩み苦しんでいるおじさんやおばさんは今でもたくさんおります。頑張っていただきましょう。

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コレステロールって何?

講演の準備中に、7、8年前に作ったスライドをみつけました。分かっているようで意外に理解されていない「コレステロール」。目の敵にされていますが、実はなくてはならない重要なものだということを説明するために、一生懸命作画した傑作スライド(自称)です。

コレステロールは、生きていく上で大切な物質=細胞膜やホルモン(特に性ホルモン)を作るのに必要不可欠な材料です。その70~80%は肝臓で作られており、食品から直接入るコレステロールは残りの20~30%にすぎないことを世間は意外に知りません。肝臓は砂糖や脂肪やタンパク質を材料にしてコレステロールを合成しますから、たとえコレステロールの多い食べ物を控えたとしても、食べ過ぎたり甘いものを取りすぎるとコレステロール値は上昇するのです。多すぎると胆汁酸として胆汁になりますが、これが多くなると胆石や胆嚢がんの元になることも事実です。

さて、コレステロールはアブラです。アブラはそのままでは水(血液)に溶けません。ですから、コレステロールは中性脂肪やタンパク質(アポ蛋白)と併わさって<リポ蛋白>という形で血液中に安定した状態で溶けています。この<リポ蛋白>の中に比重の高いリポ蛋白(高比重リポ蛋白=HDL)や比重の低いリポ蛋白(低比重リポ蛋白=LDL)があるわけです。HDLの方がコレステロールの含有量が少なくリン脂質が多いために比重が高くなり、逆にLDLはコレステロールの含有量が多くてリン脂質が少ないので、HDLよりも大きいけれど比重は低くなるのです。って、もう頭がこんがらがってきてますか?善玉(HDL)と悪玉(LDL)はコレステロール自体の質の差ではなくて、コレステロールの含まれる量の差だということくらいはこの機会に覚えておきましょう。

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アンケートのお返事

先日、東京の大きなホテルから一通の手紙が届きました。そこは、先日上京したときに二泊滞在したホテルです。

一枚の便箋には、総支配人のサイン入りで、宿泊利用とアンケートに答えた意見へのお礼が書かれていました。別にクレームを投稿したわけではありません。とても教育された従業員の対応にはとても満足でしたし、部屋でもゆったりとくつろげました。次にこの界隈に来るときにもここを選ぶだろうなと思いました。「気付いたところ」の欄に、パソコン貸し出しをする割には部屋の灯りが暗すぎる感じがすることと、シャワーの使用方法の絵の蛇口の矢印が実際と逆向きになっていることを書いただけです。

でも、このホテルならきっとこの手紙が来るだろうと思っていました。以前、神戸のホテルで食堂の対応ミスを指摘したらお詫び文と宿泊割引券が届きました。これは、アンケートを求めているホテルなら当たり前です。でも、クレームでないときには必ずしも返信は必要ありませんし、書いた方もそれを求めていません。それでもこのホテルはきっと返信を出すだろうと、従業員の対応を見たときにそう思いました。文面はワープロ文字ではありますが、内容は具体的で、オリジナルに書かれていることは明白でした。

サービス業の世界では、この日々の気遣いの有無が質の高さでありリピーターを作る唯一無二の手段なのだということを、実は今の職場に移動して知りました。病院に勤務していたころ、この病院はサービスについては日本でもトップレベルだと思っていましたが、今の部署に移動して、人を相手にする仕事にはもっと上があることを知りました。

うちのセンターの担当者も、無記名でない限り必ずすべての利用者に返事を書いています。これは決して先日書いたような紋切り型のデジタル文章ではありません。

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胃ポリープ

あやのさん、昨日のご質問のお返事です。

医学用語は漢字ばかりで何のことかわかりませんよね。「胃体上部後壁隆起」も「胃体上部小弯陰影欠損」も、どちらも同じことを示していますが、あやのさんにそれを読んでもらうためのものではなく、医療者が見たときにどこにどんな異常があるかを理解してもらうために書いてあるものです。

胃透視は胃の溝や凹みにバリウムを埋め込んでそれをレントゲンで映す検査です。ポジとネガの関係になります。つまり、「バリウムが欠損している(バリウムが入らない)」=「何か飛び出たもの(隆起)がある」=「ポリープか粘膜下腫瘍がある(時々食べたものや錠剤が残っている場合もあります)」という関係です。逆に胃潰瘍などの凹みがあると、そこにバリウムが入って陰影が大きくなります。・・・この説明で理解できますかね?

結局「胃に小さなポリープがあるけれど心配いらない(ガン化する可能性は低い)」ということで良いと思いますのでこの所見については放って置いてもかまいません。口の悪い消化器科医が「おばちゃんポリープ」と称する良くある良性のポリープだと想像します。ただ、精査依頼書が届いているのであれば一昨年胃カメラをしてもらった病院に行ってそれを見せて相談してくれると助かります。その手紙が健診機関に届かないと、「放置」のレッテルが貼られるものですから。なお、胃透視をする限り、このポリープは毎年絶対指摘されます。来年から、問診の時に「精査で小さなポリープを指摘されたけれど問題ないといわれた」ことと「昨年も同じことを書かれたので精査をしなかった」ことを告げてください。「それでも受けなければならないのか?」と食って掛かって、ちょっとうるさい奴という印象を与えておくと有利です。一番良いのは、胃透視ではなくて最初から胃カメラを受けることですが、会社の保険者指定の健診機関は別料金や予約が要るんでしょうね、きっと。

ところで、「異常を感じたら受診」の「異常」ってどんなことだかわかりますか?ちゃんと具体的に聞きましたか?

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タンパク分画

先日、受診者さんからかなり強いクレームをいただきました。

採血検査で「蛋白分画異常」のために<要精査>となり、ある公立病院を受診した。「肝機能異常→内科受診」と印字された精査依頼書は当然のように受付から消化器内科に回され、CT検査などの消化器的な精査が行われて「異常なし」と結論された。「血液のことを調べるように云われた」と云ったら初めて血液内科に紹介され、結局今は免疫グロブリン異常で定期受診している。不親切なこの精査依頼書のために必要もない検査を受けさせられ無駄な時間と金を使わされた。しかも、もし自分が云わなかったら重大な病気が見落とされたかもしれない・・・かいつまんで書くと、そういう訴えです。

もしわたしが外来を担当していたとしたらどうしただろう。精査依頼書をみても何が問題で紹介されたのか実はよくわかりません。肝機能異常と書かれているが、そこには大した異常のないデータが並んでいます。エコー結果に脾臓云々とあるからこれのことだろうか?と思い、とりあえずCTを撮ってみた。想像していたとおり何ら異常はなかった。一体健診は何でこんな人を受診させたのだろう?わたしはきっとそう考えます。

「蛋白分画:異常あり」・・・健診に携わっている人間は「当然これのための精査だろ!」と簡単に考えますが、外来医はそんなことだけのために精査を依頼するとは思っていません。なのに精査依頼書には<肝機能異常→内科受診>とだけ書かれています。・・・これもまたアナログを廃してコンピューター処理だけで済ませようするシステムの欠点でしょう。機械で打ち出された依頼書に手書きで「蛋白分画異常について念のために精査をお願いします」と書いておけばおそらく問題なかったことでしょうに。・・・むかし似たようなことを書いたのを思い出しました(「デジタル時代のアナログ」2008.12.6)。

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自転車通勤

立春を過ぎましたが、まだまだ寒い日が続きます。

仕事の合間にトイレに立っていたら、遅れて同僚の技師さんが隣りにやって来ました。

「先生、自転車通勤人続けていますか?」 彼はおもむろにそう聞きました。
「いや、続けてない。寒いもん!」
「僕はまた始めましたよ。2月1日からこころを入れ替えて。」
「へえ偉いなあ。だってまだまだ寒いでしょ。なかなか再開する勇気がなくてね~。」
「職員健診が始まりましたからね。チャリで運動しないと、もう背に腹は替えられませんから。」
「そうね。だから僕も酒を控えようと思ってるけどね。」
「そりゃいいですね。でも、酒と一緒にチャリも始めると鬼に金棒ですよ!」
「・・・なんかね、こんな寒いときに若者のフリして無理すると、心筋梗塞か脳卒中になるんじゃないか?って心配になるのよ。なんか最近弱気でねえ。」
「あっはっは。でも先生、絶対自転車通勤再開すべきですよ!」

わたしの苦しい言い訳を、わざと無視するかのように軽く笑って彼は出て行きました。先に始めていたわたしの小便はまだまだ終わらないというのに・・・。

いつの間にかオブジェ化している自転車の埃を払っておきましょうかね。

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悟れない悟り

煩悩に負けてしまったことを棚に上げて、わたしはいつも偉そうに講釈をたれるのです。

「わたしの理論からすると、『人間は悟りをひらけないと死なせてはもらえない』のです。つまり悟りをひらいたらその時点で死にますもんね。だから、煩悩だらけのわたしはまだまだ当分は死ねないみたいですね~♪」

「なかなか悟りをひらけません!」・・・別のところで同名のブログを立ち上げていますが、これはわたしの本音です。生活習慣病についてはもっと悟れません。「ムダに動け、ムダに食うな、食ってすぐ寝るな!」・・・ヒトには毎日毎日念仏のようにそう語っていますが、自分はなかなか実行できません。「他人には厳しく、自分には甘く!」を別にわたしのモットーにしているわけではありませんが、「だって、悟りを開いてしまったらその時点で死んでしまいますもの」などと嘯(うそぶ)いていること自体、ある意味しっかり悟りをひらいていることになりはしますまいか?・・・そんな屁理屈なわたしって、どうよ?などと考えている今日この頃です。

<人生なんてそんなものですよね。あまり肩肘張らずにぼちぼち行きましょう!>・・・な~んて妙に達観しているような顔をして、やっぱり妙に悟りの境地に近くて、本当はそろそろヤバいのかもしれないことを悟ろうとしているわたしでございます。

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前途多難

今年も職員健診が始まりました。わたしの受診日は1ヶ月半後です。

いつの間にか(本当は「いつの間にか」ではないけど気付かなかったふり)プヨプヨしてしまったこのお腹に喝を入れるためには、そろそろ行動を開始しないと間に合わない歳になってきました。「とりあえず、まずビール(酒)!」でしょうね、やっぱり。・・・そんなわかりきった事実に今回は素直にわたしのココロも従おうとしています。ただ、カラダが従うかどうか?何しろ彼(彼女かな?)は超保守派ですから・・・。

一昨日の朝、出勤途中にココロに念じました。「今夜のビールは1缶(350ml)でやめる!オレは意志の強い男だ!」~ココロに暗示をかけます・・・できそうな気がしました。でも、昼飯前の仕事中に「今日は寒いから焼酎のお湯割りか日本酒の熱燗でもいいな」などという想いが突然浮かんできました。「ビールか焼酎か熱燗か、とにかくどれかひとつだけんね!」・・・自分自身に念を押します。夕方は「さて帰ったら今宵も酒だよん♪でも今日から頑張るんだよん!」・・・こう書くと、わたしってなんかほとんどアル中。

家に帰り着くと、妻が夕食の料理を作り始めました。もちろんわたしは、「とりあえずビール」。いつもは手を出すピーナッツをガマンし、メール確認をしながらチビチビと飲んでみました。このまま夕飯が始まりさえすれば酒は終われるぞ~と思ったら、妻はソファでテレビを観始めました。小休止だそうです。「ダメ~!」・・・わたしのココロとカラダが別行動を始める瞬間です。2缶めを冷蔵庫から連れ出し、何かつまみはないかと物色を始めるわたし。「ちょっと待って。少しはガマンできないの?」と妻。「そんなこと、オレのカラダに聞いてくれ!」とわたしのココロ。・・・気付いたら夕食前にベロンベロンになっていました。「人間は煩悩の生き物である」・・・前途多難です。

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「アナログの復権」(後編)

「うちのように忙しいところはしょうがないのかな」と思っていましたが、鎌田實先生の諏訪中央病院看護部の「ありがとうカード」の話を知って、ちょっと考えさせられました。

臨床現場の忙しさの中、ちょっと無理をお願いしたとき、救急現場のテンヤワンヤの中で無理に入院をお願いしたとき、あるいは新人ナースが良いケアをして患者さんが問題を起さなくなったとき、すかさず恩恵を受けたところから素直に「ありがとうカード」が届くのです。救急外来から気持ちよく救急患者を受け入れてくれた病棟へ、あるいはベテラン看護師から新人ナースにそれは届けられ、ボードに貼られてみんなが見る。病院が少しずつ優しくなっていきました。トップ同士の形だけのあいさつに終わっていないのが大事だと思いました。

「・・・『ありがとう』が優しい質のいいケアをつくるための連鎖反応を起している。」

というくだりが好きです。手書きのアナログが心を癒す。その事実にホッとしながら、スマートに電子化された検査オーダーシステムと自らが探しに行けばどこでもきちんと見れるようにオンラインで結ばれた検査結果報告、待合室の掲示板にはきれいに加工された活字だけが並び、報告書のみならず細かな日々の伝言や勤怠管理までパソコンの世界で解決できるという現実の世界の中に立ってみると、問題はハードではないんだろうなということに気付きます。仕事がいかに効率化されても決して心身の疲れは軽くならず、ハード面の整備は必ずしも心を癒してはくれないだろうことを痛感します。

<ハードよりもハート>~そのことに職員の多くが気付き、大きなモーションが起きるにはもう少し時間がかかりそうな気がしますが、でもそんなうちの病院でも少しずつ何かが変わろうとしている空気は感じ取れます。

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「アナログの復権」(前編)

学会帰りに乗った飛行機の中の雑誌にこんなタイトルのエッセイをみつけました(文=麻田浩、ANA翼の王国1月号)。ちょうどアナログとデジタルのことを考えていたときでしたので、「最近またアナログ・レコードを聴く人が増えていると聞く。・・・」という書き出しにつられてついつい読み耽(ふけ)ってしまいました。なぜ今アナログなのか?

「・・・その余分な音が聞こえない”アナログの音”にふたたび感動したのだ。CDの音はたしかに”かゆいところに手が届く”くらい、いろいろな音が入っているし、低音、高音も人間が聴ける限界まで収録されている。でも僕はそういう音が聞こえない”アナログ・レコードの音”にふたたび感動した。言ってみれば、僕にとって”すべてが聞こえる音”がかならずしも”よい”ということではなかったのだ。ある程度の音が聞こえなくても、そのバランスさえとれていればよい。誤解を恐れずに言うなら、”余分な音は聞こえないほうがよい”と思ってしまったのだ。・・・」

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最近、うちの病院職員のメンタル障害が増えてきています。復職もスムーズにいかない若者もたくさん居ます。忙しさの中で燃え尽き症候群になるからだと思われていましたが、それだけでもないように思います。ただ云えることは職員全体で年月をかけて作り上げてきた無駄のない仕事の効率化と研ぎ澄まされた研修システムは、明らかに働く者の余裕を失わせているように思います。無駄口を叩くヒマすらない、完璧なる究極の理想システムなのかもしれませんが、みんな疲れています。でも疲れていることを自分で分かっていないように見えます。だから自分が病んで行くことにも他人がおかしくなっていくことにも気付かないのではないかという危機感を感じます。

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主治医の携帯電話

諏訪中央病院の緩和ケアの医師が学会出張するときには自分の携帯番号を患者さんの家族に教えることがある、と「言葉で治療する」に書かれていました。それは「安心」を与えることができるから~実際にはしょっちゅう電話がかかることはほとんどなく、ただいつでも見てもらっているという安心感を持ってもらうことが大事なんだ、と。

先日、親せきの法事に行ったときに同じ話を聞きました。おととし、わたしと同い年のいとこが末期の大腸がんになりました。手術はしましたが残念ながらすぐに再発し、最後は在宅の緩和ケアを受けることになりました。ご縁があって担当になってくれた主治医は、まず携帯の番号を家族に教えました。「何かあったらいつでも連絡してください」と。
「先生も大変ですね。プライベートの携帯番号なんか教えたら休まる時がないでしょう?」と患者の兄が素直な感想を告げたら、先生は笑いながら「結局は人間関係なんです。きちんと日頃から十分なコミュニケーションが取れていたら信頼関係ができてるからそう簡単に電話はかかって来ません。いつでもつなげられるという安心感を持ってもらうためのツールなんです」と答えたそうです。たしかに、彼女が家族に囲まれて静かに人生の幕を閉じるまで、先生の携帯電話をかけたことはなかったそうです。それは、日頃から訪問するナースがこと細かに指示をしてくれたからだと兄は云っていました。こういうことがあったらまずこうしてあげると楽になる。こういう訴えが出たらこの処置をしてあげるといいかもしれない・・・医療者の目ではなく患者や家族の目からみた指示をしてくれたのです。先生の考え方がすばらしいというだけでなく、スタッフ全員が身内のように見守ってくれているという安心感。本当にいいご縁をいただいたんだなと思いました。

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