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2010年5月

思いやりの重荷

むかし、とても仕事のできる看護師さんがおりました。病棟の看護業務にあたっていました。とても細かいことに気が回り、仕事もテキパキとこなし、しかもとても優しいので、患者さんにもスタッフにも人気がありました。同僚の人望も厚い人でした。

ただ、あるナースがそっと教えてくれたことがあります。深夜勤務の組み合わせが彼女と一緒なると、正直、ちょっと憂鬱になるのだそうです。そのナースだけでなく、他の多くのスタッフも同じ意見なのだと云います。

「どうして?夜中は2~3人で全部をしないといけないのだから、彼女のような人と一緒の方が何かと心強いんじゃないの?少なくとも当直をしている医者にとってはこんな有り難いことはないのに・・・。」
合点がいかないわたしは、その理由を聞いてみました。するとすぐに答えが返ってきました。
「だって先生、彼女のような人は自分で率先してテキパキ仕事をするんですよ。そして休憩時間になると、『いいよ。わたしが後やっておくから先に休んでおいて!』って必ず云うんです。・・・できるわけないじゃないですか、先輩である彼女に仕事を任せて自分たちだけ休むなんて!結局自分たちも一緒に起きて仕事をしてしまうから、疲れるんですよ。」・・・深夜勤務は体力が勝負です。休めるときにしっかり休んでおかないと救急病院の深夜勤務は務まりません。ほどほどにいい加減でいてくれた方が、後輩たちは心身ともに余裕ができるのだそうです。

そんなものなんですね。

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おしっこがにごる

保健師さんに相談されました。

「今日の人間ドック受診者の方で、『最近おしっこがにごるのが心配』ということで、今日うちの病院の泌尿器科受診の予約もされている人がいます。でも健診のために出した今朝の尿検査結果をみたら問題なかったようなのです。症状も特にないですし、もう泌尿器科受診をする必要はないですよね。」

わたしの答えは「ノー」です。いろいろな考え方があるでしょうけれど、尿検査の結果が正常だったのなら尚のこと専門医の受診をしてもらった方が良いと思っています。健診で行う<尿検査結果が正常>ということが、「おしっこがにごる」は問題がない、ということを示しているわけではないからです。膀胱炎や血尿ではないことはわかりましたが、それ以外の病気を何も否定できていません。むしろ普通の尿検査が正常だからこそ、あとは経験豊富な専門医の診察を受けて、必要なら追加の検査を受けて、きちんと結論を出してもらうのがベストだと考えています。

「おしっこがにごるのが気になるから人間ドックを受ける」という発想はそもそもおかしなことであって、当然行くべきところはまず泌尿器科か腎臓内科です(この受診者の方がそうなのではありません。この方はたまたまた健診を受けるから一緒に外来も予約しただけです)。健診の尿検査や腹部超音波検査で異常がなかったということで、その後にごりがひどくなっていってもそのまま放ったらかしてしまう人が少なくないので心配です。もしかしたら婦人科の病気だったかもしれないのに・・・。

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批判報道

いつの頃から、こんなに批判報道が多くなってきたのでしょう。

スポーツひとつにしても、勝ったときに褒め称える記事よりも負けたときにあれこれと批判する記事のトーンの方がはるかに強いのは、何とかならないものでしょうか?

世の「有識者」や「コメンテーター」と称する人たちが、寄って集って各々が考える敗因の分析を書き並べ、ああすべきだった、こうすべきだったと、戦犯探しをしながら責め立てて持論を展開します。彼らがそんなことを云うのが悪いというのではありません。意見を聞かれるから書くのでしょう。そんな記事を載せると皆が読むから依頼するのでしょう。「まあ、こんな日もありますよ。敗因はわたしたちがわざわざ云わなくても当事者が良くわかっているはずだから、皆で次を期待しましょうよ!」なんて呑気なことをコメントしたら、きっと使ってはもらえないのでしょうね。

政治批判、社会批判、教育批判、はたまた料理批判や家庭批判・・・。批判する側は痛快なのかもしれませんが、それを読み聞きする側はあまりすっきりはしませんね。それでなくても暗い話題ばかりなのだから、それをマスコミが助長しすぎてさらにわたしたちを暗くさせるのはほどほどにしてもらいたいもの。もっと褒め殺しの報道番組や記事とか出てきてもいいんじゃないかしらね~。

ま、これもれっきとしたわたしのマスコミ批判なんでしょうけれど。

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復職に当たって

メンタル失調のために休職していた職員の復職面談がありました。これは、産業医の大事な仕事です。

復職するに当たって、当人と会社側の当面の心配事は、きちんと起きてきちんと時間通りに通勤・勤務できるかどうか、それで疲れが溜まり、徐々に元の木阿弥にならないかどうかということでしょう。でもこれは始めてみないとわからないところがあって、だからどの会社にもリハビリ出勤とか仮出勤とかいう準備期間を設けているわけです。

ただ、最近のメンタル失調は仕事内容の過重負荷がきっかけというよりも職場の人間関係がきっかけになることの方が多いように思います。そうなると、復職する当人が一番気にしていることは、本当は、直接のきっかけになった上司や同僚とどう接したら良いのだろうかという不安です。それは相手もまた同じでしょう。悪意がなかったとしても自分のとった態度がきっかけで休職した職員が復職するとなると、これからどう接したら良いのかさっぱり分かりません。

先日面談した復職者の場合は、きっかけになった上司と直接会って話をする場が前もって設けられたそうです。「仕事の注意以外に、日常生活に対する誹謗中傷まがいのことを云って傷つけたのは本当に悪かったと思うので謝る。ただし、仕事の内容についてはこれからも厳しく指導するつもりだから覚悟して出てこい!」・・・そのとき上司が云ったそのことばは、ちょっと乱暴ではあったけれど真意が分かり、返ってお互いの間にあった大きな壁が取り除かれた気がした、と当事者である復職予定の職員さんが語ってくれました。・・・「自分はあの人のせいでこんな虚しくて辛い人生を歩むことになったのだ!」と恨み節ばかりが頭から離れない人も少なくないでしょう。それを考えると、お互いに直接話す場をあえて作るのは、意外に悪くない方法かもしれないと思いました。

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自分が好き

最近やっと、自分のことが<好き>になってきました。子どものころからずっと<大嫌い>でした。でっかい頭や低い鼻や田舎坊特有の顔かたち、長いとは云えないずんぐりむっくりの脚、他人に心を開けない上に何でも分かったフリをする性格、そのためにすぐに自分にも他人にもウソをつく習性・・・そんな自分の存在自体がイヤでたまりませんでした。異常に自信があった大学時代の自分の姿もまた<大嫌い>でした。

そんな自分を少しずつ認めるようになってきたのはここ10年くらいだと思います。ありのままの自分を肩肘張らずに表に出せるようになってきてからでしょうか。公私ともにとても楽になりました。最近は、なかなか理想通りにいかない自分も、「他人には厳しいけど自分には甘い」自分も、ひっくるめてなかなか可愛いヤツだと思えるようになりました。

昨日、久方ぶりに「えとうのひとりごと」を読みました。心理カウンセラーの衛藤信之先生のコラムです。知らない間にホームページがリニューアルされていました。まとめて読みあさりましたが、その中で2010.4.14の記事「『I Love me !』~本当の味方~」が今のわたしのココロに止まりました。・・・「セルフ・ラブ療法」~僕たちはいつも外の世界に気を遣って、自分を愛することを忘れています。自分の最高のパートナーは、配偶者や恋人ではありません。それは、自分自身です。自分が自分自身の最大のパートナーです。子どものころから、どんなに孤独なときや寂しい夜でも決して見捨てず見守ってくれた、自分の最大の味方は自分自身。いつもそばに居てくれた、そしてこれからもずっと一緒に居てくれる、自分の最高のサポーター・・・I love me!  I CAN LOVE ME !

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ビギッ

顔を洗うためにちょっと屈んだら、左の腰の辺りが「ビギッ」と音を立てました。強くはなかったのだけれど、芯の方から響く痛み~痛いというよりも<カラダの力がフッと抜ける>感じでした。

「何だこれは?」・・・これまで経験したことがない症状のために、わたしのココロは明らかに怯(ひる)みました。
<これがぎっくり腰になる前の前駆症状かしら?>
<もしや結石がまた出来てきたのだろうか?>
<これも腰椎ヘルニアの影響なのかしら?>
<何か得体の知れない腫瘍でもできていないかしら?>
・・・中途半端な医学知識がかえって邪魔をして、まるで「ヒポクラテスたち」の医学生のようです。

健診結果を説明していると、ほんのわずかに基準値からずれたり小さな良性のイボができただけでとても心配する人がいます。「一定以上の項目数を検査して、完全に<異常なし>なのは若い人の中のほんの一部だけです。歳とともにこの程度のズレは出てきて当たり前ですよ。」・・・そう云っても彼らはなかなか納得しません。気になることがあって外来を受診したのに異常が見つからなかった場合はさらに厄介です。どうしても、ひとつの症状にひとつの原因を求めて来ていますから、症状のメカニズムをきちんと説明できないと心配は消えないようなのです。そこで、わたしたちのような<医者もどき>は無い知識をふりしぼって屁理屈をこねまわすわけですが・・・<ヒトのカラダは機械じゃないんだから、歳をとればそれなりのガタは来るさ!そりゃ『本当は怖い家庭の医学』の可能性はないわけじゃないけれど、それくらいの開き直りの方が前向きに生きていけるんじゃないか?>・・・内心そんなことを思ったりするわけです。

ということで、わたしの「ビギッ」も、とりあえず静観することにいたしました。「歳」による症状には慣れてきたつもりでしたが、まだまだ奥は深いようです。

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偏屈と頑固

「うちの職場に今度入った女性が、ボクのことを『偏屈者』と云ったんだ。初めは『失礼なヤツ』と思ったけど、なんか良く考えたら<言い得て妙>かなと思うようになってきたんだよね。」

先日、高校時代からの友人がそんな話をしてくれました。「自分のことを表すなら普通『頑固者』だろう。しかも、若い女性が今どき『偏屈』なんてことばはなかなか使わないでしょ?それにまず驚いた。」と彼は云うのです。

<偏屈>:[名・形動]性質がかたくなで、素直でないこと。ひねくれていること。また、そのさま。「―な人」
<頑固>:[名・形動]かたくなで、なかなか自分の態度や考えを改めようとしないこと。また、そのさま。「―な職人」「―おやじ」

Yahoo辞書にはこう書かれていました。ほとんど同じ意味ですが、<偏屈>にちょっと蔑(さげす)んだ悪意のニュアンスを感じます。確かに<偏屈>は目上の人に使うには失礼な単語です。それを考えないとしても、彼を客観的に表現するなら<頑固>の方が当を得ているような気がします。でも、彼は冷静に自分のことを分析して<偏屈>の方が自分を表すには当たっているかもしれない、と云いました。「自己分析をするいい機会になったとは思うけど、たぶんその人はそんなに深いことを考えていない気がする。ただ思いついたから『偏屈』を使っただけで、『頑固』が頭に浮かばなかっただけじゃないの?」 ・・・わたしはついつい水をさすようなことを云ってしまいましたが、こういうことばの違いを考える良い機会にはなりました。

偉そうななことを書いていますが、きっとわたしこそが<偏屈者>だと思います。

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明るい警察官

「将来の夢は何ですか?」
「明るい警察官になることです!」

先日、朝のラジオ番組で小学生へのインタビューに対して返ってきた答えです。「明るい」警察官?・・・そんな<形容詞>をつけた答えは予想だにしませんでしたので、つい拍手をしてしまいました。もしかしたら、プロデューサーか担任の先生がそうするように(何かの形容詞を必ずつけるように)指示したのかもしれませんが、それでも警察官の頭につける<形容詞>として「明るい」を選んだのがすばらしい!と思いました。警察官に付けるのだから、「強い」とか「素敵な」とか「かっこいい」とか・・・残念ながらわたしにはこの程度しか浮かびません・・・そうじゃありませんか、普通?

わたしが小学校の卒業文集に書いた「将来の夢」は<パイロット>でした。もちろん何の形容詞も付いていません。<パイロット>というのが飛行機の操縦士であることくらいしか知りませんでしたから取り立てて思い入れはありませんでしたけれど、「男の子だから、あなたにはパイロットになってほしいな。」・・・当時、大好きなわたしの母がいつもそう云っていたのです。子どものころから超高所恐怖症のわたしにとって、それは到底実現不可能な職業でしたが、子どもながらに母を喜ばせたかったのでしょう。

「子どものころの夢は何でしか?」
「前向きなパイロットになることでした」

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お肉

「肉食いてぇ~!」と思うことがほとんどなくなりました。

先週は、職場の歓送迎会が肉の直売店でありましたし、週末にはホールインワン祝賀会に呼ばれて焼き肉をいただきました。どちらもとてもおいしいお肉料理でしたが、ただ「同じ料金なら食べられるだけ食わなきゃ損!」と思っていた昔と違って、ほどほどに戴きました(傍から見たら「まだ多い」と云うのかもしれませんが)。少なくとも自分から肉料理の店を選んで入ることはなくなりました・・・「もう、いいかな。」という感じ。歳を取った証拠なのでしょうか。

でも、お肉は本当は理想の食材です。メタボを含む生活習慣病の食事指導をみていると、必ず「肉を減らしましょう」ということばが出てきます。「肉をやめて野菜を食べれば良いんですね?」・・・できもしないことを復唱している受診者さんもよく見かけます。でも本当は肉は一番良質のタンパク質でありミネラルやビタミンも豊富で、是非とも積極的に口にしてほしいモノです。ただ、「肉の脂がいけない」だけ。・・・これ以降は以前全く同じ事を書いたので止めておきます(「国産豚肉」(2008.6.23))。肉の脂は飽和脂肪酸の代表で、LDL(悪玉)コレステロールの値を上げる張本人だから、まあ肉が好きなのではなくて「肉の脂」が好きなのであればやっぱり食べない方がいいのだろうなとは思いますけど、せっかく美味しい料理を食べているときはそんな野暮な薀蓄は要りません。・・・若い頃に大好きだったそのとろけるような肉の脂を口にすると、今はすぐに胸焼けしてしまうんです、わたし。何か、もったいない気もしますなあ。

でもやっぱり、焼き魚が一番旨い。だって、日本人ですもの。なんて・・・実は高血圧だから、塩好きなだけかも。

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背中を押す

元同僚だったK先生が今勤務している市中の病院を辞して、7月から新しい病院に移ることになりました。熊本の心臓リハビリの世界ではなくてはならない存在の先生です。

新しい病院への誘いの話が出た直後くらいにバッタリ出会って、そこで昼食を取りながら初めてその話を聞かされました。当時彼はまだ迷っていました。自分のこれまで築いてきた実績と努力をリセットさせて、新天地で新しいものを作り出すことへの期待と不安・・・そんな葛藤の時期だったのだろうと思いました。でも、そんな話をする彼の表情は喜々としていました。不安よりもはやる気持ちの方が上に行っていると感じました。その後、多くの諸先輩にも相談をしたそうですが、最終的に転職を決めたのはわたしの一言だったのだそうです。なぜならば、相談をした相手のことごとくから「やめておけ」と反対されたのだとか。今の地位を捨ててわざわざ苦労しに行くことはないと。

「『頼まれ事は試され事』・・・私の友人が口癖のように云っていることばです。自分を見込んで頼まれたときには、それに対してどういう選択をしてどう行動するかを神様が試しているのだと。見込まれたことに対して、先生の心でほぼ決まっていることに対して、冷却期間をおいた上での今だと思いますので、是非前向きに頑張ってみてはいかがでしょうか。」・・・最初に相談を受けて約2ヶ月後に、わたしはメールを送りました。

他人の背中は簡単に押してあげられるものです。決して無責任に押したわけではありません。押してもらいたそうな背中だったから軽く押してあげただけです。でも自分の背中はなかなか押せません。痒くても手が届かないくらいですから・・・。K先生のご活躍をお祈りいたします。

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カーナビ

1ヶ月前に車を換えました。遅ればせながら生まれて初めて「カーナビ」を付けました。

まだ2000kmしか走っていませんし、たぶんカーナビ機能のほとんどを使っていない(知らない)に違いないと思いますが、ただ、目の前で動く地図を眺めながら運転しているといろいろなことを発見して面白いものです。

我が家のすぐ近くの交差点の、その向こうにある小さな公園の名前なんて、今まで考えたこともありませんでした。その前に、そこがただの「広場」ではなくてちゃんと名前の付いた「公園」であること自体に驚きました。国道57号線を阿蘇経由で大分まで行く道中でも新しい発見はありました。これまでずっとお食事処の駐車場だと思っていたところに地図ではJRの駅の名前・・・ちょっと徐行してよく見たら、たしかに垣根の向こうに小さな無人駅がありました。あるいは、この大きな旧家のひとつ裏通りにはどうも大きな池があるらしい。これまで何度も通ってきたのに初めて知った・・・みたいな発見。

カーナビのおかげでヒトは地図を見なくなりました。どちらが北かと聞いてもピンと来ないし、今、町全体の中のどの辺にいるの?と聞いても分からないヒトが増えてきたのはカーナビの弊害だと思います。どこかに行くときには拡大地図と詳細地図を駆使しながら東西南北の位置関係などを前もってしっかり確認するのが習慣だったわたしは、カーナビなんて<無用の長物>と切り捨てていましたが・・・こりゃなかなかいい。新しい発見をしたいから、行ったことのないところにわざと迷い込んでみたりして・・・。

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街並み

勤務している病院が今の地に移転する前にあった場所を久しぶりに通りました。

この界隈は九州新幹線の用地となったため、わたしが初めて赴任したときにあった病院の建物はすでに影も形もなく、高架していた道路は大きな交差点として様変わりし、裏の公園もなくなっていました。そこからJR駅に続く道沿いにはコンビニやファミリーレストランのチェーン店やマンションが立ち並び・・・・まるで知らない街になっていました。その中にポツポツと昔の喫茶店や床屋が残っているのをみるとホッとする一方で、かえって寂しくなります。結婚前の懐かしい思い出の地だというのに、久しぶりに旧知の知り合いに会いにいったらシカトをされたような、まるで知らない土地のような余所行きの顔になってしまった気がして、ちょっと切なくなる瞬間でした。

一方、我が家の近くでは、このゴールデンウィーク明けに新しい眼科クリニックが開業しました。わたしの通勤途中にあるその建物は、いつの間にかできあがりました。知らない間に出来上がり、内覧会の通知があり、そして開業し、もうすでに1週間以上が過ぎました。先日、そのクリニックの前を通るときに、「ここには前は何があったかしら?」・・・職場にたどり着くまで必死で記憶を辿ってみましたが、結局思い出せませんでした。つい先日、「あらこんなところに眼科ができたんだ!」と驚いたのに、もうすでに自分の頭の中はこのクリニックを当たり前の存在として書換えをしている・・・まるで新しいナビのデータ更新のようなそんな感覚を覚えました。

子どもの頃、学校まで行った道程は時々夢に出てくるので辿ることができます。それでも現実はまったく別の街並みで、そこには当時の面影は一切ありません。そんなパラレルワールドの仕打ちに異常な郷愁を覚える今日この頃です。

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人格

今年も哲学者の皆さんが利用している知的障がい者施設の健診に行きました。見馴れた顔ぶればかりでしたが、年々、現場の喧噪は落ち着いてきている気がします。わたしが慣れてきたというよりも、彼らが年2回の恒例行事として頭にインプットされて慣れてきたのだろうと思います。

「は~い、もしもししますよ~。」「はい、こっちに入るよ~。」・・・この日、ある医療者が発したこういうことば遣いにわたしは異常な違和感を感じました。わたしは、一緒に健診を受けている施設職員さんに対するのと基本的に同じことば遣いで対応をすることにしています。「それでは失礼します。」「少し首の辺りを触らせていただきます。」「はいけっこうです。お疲れさまでした。」・・・別に意図的にそうしているわけではありません。むかしからどうしてもタメ口をたたけないのです。それはお年寄りに接するときも同じです。

彼らにタメ口や幼児ことばを使うのは、「彼らの社会的な知能レベルが低い」と思っているからでしょうか?それとももっと親愛を込めてのことでしょうか?彼らは立派な大人であり、長い人生の経験者です。彼らを一人の人間として対峙するとき、やはりわたしはその年齢の人間としての人格を尊重したいと考えています。

もっとも、哲学者である彼らにとって、そんな些細な問題は取るに足らないものなのかもしれませんけれど。

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サクセスフルエイジング

定期的に送られてくるMedical Tribuneの中から、今回気になったのはこの記事でした。

「高齢者の日常身体活動と健康~運動によらない新しい健康支援システムの提案へ」(Medical Tribune 2010.5.13号,P52)

東京都老人研の青柳幸利氏らが、「高齢者の日常身体活動と健康に関する縦断的・学際的研究(中之条研究)」の結果をもとにして、新しい健康支援システムを提案しようというお話です。これは、現在もてはやされている高齢者への筋トレなどの積極的運動介入ではなく、もっと自然に誰にでも行える日常身体活動で、もっと普遍的な健康増進を図れる基準を見出そうというものです。

高齢者の日常を調べてみると、日頃から良く歩くか中等度(3Mets)以上の活動時間が多い人は、魚介類、大豆製品、乳製品などを良く取り、血清アルブミン値が高値であるなどの傾向がみられました。また、うつ病予防には歩数が4000~5000歩/日か中等度以上の活動が5~7.5分/日あれば十分であることも分かりました。結局、「心身の別を問わず、健康度は身体活動の量と質のバランスがよい人ほど高く、中等度以上の活動が相対的に少ない人ほど低い傾向」と結論付け、「基本的に毎日の身体活動が足りている場合、余分な運動は必要がない。その十分条件は歩数8000歩/日か中等度以上の活動時間が20分/日で、健康増進や疾病予防のための活動所要量の上限が歩数10000歩/日か中等度以上の活動時間30分/日ではないか」との指摘でした。

スポーツジムや健康教室で積極的に筋トレに励むのに、家に帰ると全く動かないご老人がたくさん居ると聞きます。あるいは、筋トレは大の苦手と云うご老人はむしろ多数派かもしれません。おそらく、「健康長寿のためにいやいや運動をする」という本末転倒のやり方ではない、もっと自然な真の健康法があるに違いないと、わたしも常々思っていたところです。

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いぬの話

伊藤比呂美著: 読み解き「般若心経」(朝日新聞出版)を読みました。

わたしの願いは「般若心経を理解すること」。そのためにこれまでにもいろいろな本を読みましたがまだしっくり来ません。仏教学を学ぶでもなく、高僧のお説法を聞くでもなく、座禅を組むでもなく、写経をするでもなく・・・何の努力もせずに悟ろうなんて甘いわ!と喝を入れられそうですが。そんな中、地元新聞に紹介されていたこの本を買ってみました。最初は<失敗した>と思いました。文章のリズムというかカルチャーというか、何かがわたしのそれとズレていた感じがしたのです。でも読み進めるにつれてそのリズムのズレがだんだん合ってくるのがわかりました。著者ももともと仏教に造詣が深くなかったからかもしれません。母や父の法事の度に、叔母たちに促されて見よう見まねで読経していた、その経本と同じ文字をいくつも発見し、声に出して読むとまさしくあの足のしびれに耐えながら唱えた懐かしい音(おん)が蘇りました。ぎゃーてい。ぎゃーてい。はらぎゃーてい。はらそーぎゃーてい。ぼじそわか。

この本の中に、<読み解き「ひじりたちのことば」いぬの話>という章があります。著者の家にいるジャーマンシェパードが自我を捨てて人間に服従する、凄まじいほどの無我を誇っていたのに、10歳になり、歳とともに頑固な因業老人のごとくに何事にもこだわり始めて自我丸出しになったという話から、安楽死、人間の死と話題が移っていきました。・・・「老いる」姿をその描写にみながら、同じ変化を見せる我が家の老犬たちのことが頭の中によぎりました。イヌに癒されてきた者にとってそれは切ないことですが、同時に自分たちの老いの姿をも物語っている気がします。

最後に並べられた、法然や親鸞の「死」に対することばが、とてもスムーズにこころに入ってきました。

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イヌの寿命

イヌの時間の流れ方はヒトのそれとは根本が違う、という記事を読みながら、妙に納得しました(「犬の時間の流れ方」)。

「ヒトの一日が24時間でリズムが刻まれる一方で、犬は7時間のリズムで生きている。」

・・・たしかに、「おまえいつも寝ているなあ」と思うほどに気付けばわたしたちの傍らで寝息を立てて眠っている我が家の愛犬たちですが、夜中になるとベッドサイドの寝床(といっても床ですが)を定期的に替えてうろうろしています。それが、我が家のいつもの光景です。

「犬にとって一日は長い。7時間のリズムを当てはめるならばヒトの一日は犬にとっては3日に相当することになる。だから朝から晩まで出歩いたりあるいは長時間留守番をさせるなど、私たちのペースで日常の物事を押し進めてしまうと犬にはとても辛い。でも犬は言葉を話すことができないから、飼い主が気が付くしかないのである。」・・・とても耳の痛いおことばでございます。

同じシリーズにイヌの寿命のはなしも出ていました(「寿命にも影響する、犬の個性」)。イヌの寿命はカラダの大きさだけでなく個性や代謝に大きく影響を受けているというカナダの研究が報告されていました。従順でシャイなイヌの方が攻撃性の高いイヌより長生きであり、縄張り意識の強いイヌより穏和で御しやすいイヌの方が長生きだというのです。我が家の愛犬(ビアデッドコリー)たちは、犬種的には長生きしやすいタイプだということのようです。まあ、家の中できままな日々を送っている彼らをみていると、そうかもしれないな、と思わないでもありません。きっと人間にもそのまま当てはめられる真理なのだろうなと思う今日この頃です。長生きしたいとは決して思いませんが、彼らのような穏和な生き方はちょっとあこがれです。

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健康法

健康ブームに乗って、最近、テレビでも芸能人の方々が「私の健康法」を披露する番組が増えています。その方法がなぜ良いのか、作用機序の蘊蓄を交えながらビデオで堂々と解説しているのを見ながら、「よくあんなことを断言する自信があるなあ」と感心してしまいます。番組制作者としても、裏付けをするためにその筋の専門医とやらにフォローの解説をしてもらったりしています。それでも、この手の理論には必ず反対方向の理論(逆説)が存在します。その存在を知っているからこそ、わたしはなかなかこんな公の場で「自分の健康法」などと大胆に蘊蓄を公開する自信は湧いてきません。

良く元気なお年寄りのみなさんに「健康長寿の秘訣は何ですか?」と質問する光景をテレビなどで見ます。そのときに彼らが口にする<健康法>は、長い経験とその結果を証明した本人の弁ですので、とても深いものであり説得力があります。その代わり内容はあまり特殊なことではなく、意外に好き勝手な人生を歩んでいるため、万人に参考になるとは限りません。「百寿者の定理」でも紹介したように、健康長寿の最大の秘訣は<人生を前向きに生きる>ということであり、また<自分の好きなように生きる>ということなのだろうと思っています。どちらも簡単なようで、実行しようとするととても大変だということがわかります。

芸能人の方々の発言は影響力が強く、<○○さんの△△健康法>としてすぐに巷に広がりますから、実際に健康長寿を達成した人たちの発言とは全く異質です。これらは、自分もやっている最中でまだ最終結果が出ていない『自分を使った人体実験』の途中だ、というものなので、それに賛同する専門家が後押しをしてくれたとしても、あくまでも自分も一緒に<人体実験>をするのだと割り切って試してほしいものです。

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内部障害

先日、熊本心臓リハビリテーション研究会に参加してきました。

今回の特別講演は、東北大学大学院医学系研究科内部障害学分野教授の上月正博先生でした。この「内部障害」という聞き慣れないことば、みなさんはご存知だったでしょうか?いわゆる<肢体不自由>ではなく、<聴覚障害・言語障害・視覚障害>でもないもの、つまり心臓病や肺疾患、腎機能障害などの内臓の病気によって障害を受けているものを云うようです。心機能障害・肺機能障害・腎機能障害・膀胱/直腸障害・小腸機能障害・免疫不全(AIDS)に、今年4月から肝機能障害も加わるとか、ものの本には書いてありました。

医学的に派生した分類ではなく、基本的には身体障害者福祉法に則って障害者手帳を発行するお役所の視点からの分類のような気がしますが、たしかに内臓の障害は相当ひどくても外見からは理解してもらえないことが多く、駐車場や電車の中で肩身の狭い思いをする人は多いのではないかと思いますので、この概念が広く普及することはとても大切だと思います。

障害者の患者数として<肢体不自由>が全体の50%を占めていますが、ここ5年間あまり増えていません。脳卒中が激減したわけではないので、再発者が増えたと考えるべきだ、と上月先生は指摘していました。<内部障害>は約30%ですが、今これが明らかに増えているのだそうです。そしてもう一つの特徴は<重複障害>が増えている、ということだそうです。

※今回は、あえて「障碍」や「障がい」ではなく「障害」を使いました。

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階段

エレベーターを使わなくなって何年になるでしょうか。

今朝、出勤したら、一階でエレベーターを待っている若い男性職員さんを見かけました。二階の更衣室に行くためのようです。先日は、新入ナースの一団が同じように一階でエレベーターを待っていました。「おはようございます」と声を掛けてその横を通り抜けて、階段で三階まで上ったら、ちょうど彼女たちがエレベーターから降りてくるところでした。特にバツの悪そうな顔をするでもなく、若い皆さんは楽しそうに話しながらわたしの前を颯爽と通り過ぎて行きました。

むかしはわたしもそうだったなあ、と思いました。今は、基本に<エレベーターが存在する>という発想がありませんから階段を選択することをしごく当たり前だと感じていますが、若い頃はそこにエレベーターやエスカレーターがあるのにわざわざ階段を選ぶのは変人か単なる健康オタクだと思っていました。今でも階段を上っていると「先生は偉いですねえ。健康のために階段を使っているんですね。」と声を掛けられることが少なくありません。「全然違うんだけどなあ」と思いつつ、面倒くさいので「はい、どうも。」というあいさつで返すことにしています。

エレベーターに乗るのが当たり前、と思っている現代の若者たちに特段の不満はありません。それでも、いつの日か当然な顔をして階段を選ぶようになってくれたらカッコいいんだけどなと思いながら、わたしは当たり前に今日も階段を使っています。

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植木鉢

今年のゴールデンウイークは毎日晴れ続きでした。しかも真夏のような暑さ。さすがに放っておけずに庭に水を撒きました。我が家の庭にはバラの鉢植えとクリスマスローズの鉢植えが多数並んでいます。地植えのバラやクリスマスローズもあって、それらが他の植物と一緒くたになって鬱蒼としています。ここ2週間くらいで一気に草木が生い茂ってきました。

以前、植木鉢の中の雑草の話を書きました(2009.9.29)。植木鉢の中は保護されていて恵まれているという内容でした。でも、先日の夕方、水撒きをしながら、まったく逆のことを考えていました。地面に生えた植物はよほどの日照り続きでない限りは何らかの方法で水や養分を地面から得ることができます。でも、植木鉢の中の植物は、意図的に与えない限り水も養分も得る術(すべ)がありません。雨が降らず朝露もなく、さらに人間が水を与えなければ、数日で枯れてしまうことでしょう。いつも割とアバウトな水撒きをしていますが、さすがに花壇の中に地植えの植物に混じって並んでいる植木鉢のひとつひとつにきちんと水を与えなければならないな、と思った次第です。5つ並んだ鉢のたまたま1つだけに水が届けられなければ、その鉢だけが落ちこぼれていく。・・・これは、なかなか厳しい現実だと思いました。

鉢に意図的に分けられている花は別格なわけでしょう。過保護にされている代わりに他力本願・・・何となく自分の人生に置き換えてみたりなんかして、ちょっとしんみり。

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昭和の歌

ゴールデンウイークの4日と5日、連日でゴルフに行った帰りの車の中で地元FM曲の放送を聴いていました。流れてくる音楽は、歌謡曲も、演歌も、ポップスもアトランダムでしたが、夫婦二人して普通に歌えるところをみると、これはきっと「80年代の音楽」というくくりではないかと思いました。

まだバブルになる前の日本でした。友人が初めて<オートマチック車>を買いました。「オートマってどう?あれって、ムダにガソリンを食うんじゃないの?」などと訝しげに彼の車を眺めていました。他の友人は、自家用車にクーラーを付けたらバッテリーが上がってしまいました。「やっぱ、軽自動車にクーラーはムリかな」などと云っていた時代でした。でも、私のカローラも冬場によくバッテリーが上がりました。

高度成長の時代、何をするのも呑気に明るかったような気がします。ラジオから流れてくる音楽は、まさしくそんな時代の空気を一緒に漂わせてきました。その後にバブル期が来てバブルが弾けました。何をするにも暗い昨今です。将来が見えない、何の希望もない、そう世間が嘆いていますが、先日5年ローンで買った新車は絶対にバッテリーが上がることはなさそうです。ナビだとかキーレスエントリー(私のは違いますけど)だとか、当時では想像すらできなかった夢の未来カーです。故障もほとんどしなくなり、「1年後までは点検も要りません」と断言されました。

そう考えると、「当時はいい時代だったなあ」なんて云ってるのはたしかに見当違いかもしれません。ただ・・・やっぱり、確実に歳は取りました。

今日は東京の友人が手術を受ける日です。無事に成功することを祈ります。

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皆勤賞

先日、ある小学校で「皆勤賞」の2人の子が表彰された、というニュースが車のラジオから流れてきました。

「小学生の皆勤賞なんて当たり前なんじゃない?1学年で2人しか居ないなんて、少なくない?」と一瞬思いましたが、たしかに、藁半紙のプリントで包まれた給食のコッペパンを友だちが持ってきてくれた記憶があるので、「6年間ずっと元気で学校に行った!」と自負するわたしですら皆勤賞はもらえなかったことになります。小学生が、6年間、完全なる皆勤賞を達成するのは、鉄人衣笠(今なら金本か)の偉業よりももしかしたら大変なことかもしれません。

小学校の教師をしていた母が、あのいつも温和な母が、父兄からの電話のことで怒っていたのを覚えています。
「『今日は休ませます』とは何事か!『休ませてもいいでしょうか?』とか『休ませてもらえませんか?』と言うべきだ!義務教育を何と心得おるか!」と。昨今のように、「家族でディズニーランドに行くのでこの日は休ませます」が普通に通用するようになった現代社会に母が生きていたら、嘆くこといかばかりかと察します。そして教育方針の度重なる変更~「ゆとり教育」の失敗と「つめこみ教育」の復活~学校も教師も凄まじく権威が落ちたものだなと思います。

学校大好きだったであろう、皆勤賞受賞の2名の小学校卒業生に拍手を送ります。そして、彼らが中学に行っても学校大好きであり続けてほしいと願って止みません。

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姪浜

遠いむかし。わたしは大学受験に失敗して、福岡にあるK予備校に通いました。

予備校入学の手続きと下宿の申し込みなどのために、母と二人で博多天神のど真ん中に佇みました。「でっけえ街だなあ」と思いました(それでも今とは全く比べものになならない一地方都市でしたが)。予備校と提携していた下宿屋さんはバスを使って1時間近くかかるところにありました。母は通りすがりの人にそこへの行き方を聞きました。
「『ひるのはま』にはどこに行ったら乗れますか?」
「『ひるのはま』?そんなところないですよ!」
通行人はとても怪訝そうな顔をしながらそう云って、申し訳なさそうに去っていきました。

「だってそこに一杯書いてあるのにね。」と、母は目の前を何台も通過して行く赤い西鉄バスの表示をみて明らかに戸惑っていました。天神のバスセンターの窓口で、文字を指差しながら「『ひるのはま』は?」と聞いたとき、「もしかして、『めいのはま』のことですか?」と聞き返されて、母はやっと合点した様子でした。

「おんなへんか~姪(めい)ね~。蛭(ひる)と思い込んでたわぁ。」・・・どちらの字も知らなかったわたしは、「さすが漢字と文法の先生、物知りな人だなあ」とひとり感心していましたが、きっと本人は目から火が出るほど恥ずかしかったでしょうね。

ふとそんなことを思い出した、今日は母の日です。ちょっと墓参りをしてきましょうか。

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イノベーションと真摯さ

もし高校野球の女子マネージャーが・・・」(岩崎夏海)を一気に読み上げた後、わたしの頭の中に強く焼き付いて離れないことばは、「イノベーション」と「真摯さ」。企業のマネジメントを支えるものは突き詰めるとこの2つだと読み解きました。上田惇生氏翻訳のことばでいくつか羅列してみます。興味が出たら、是非読んでみてください。

● 「マネジャーの資質」 ・・・人を管理する能力、議長役や面接の能力を学ぶことはできる。管理体制、昇進制度、報奨制度を通じて人材開発に有効な方策を講ずることもできる。だがそれだけでは十分ではない。根本的な資質が必要である。真摯さである。

● 企業の目的は、顧客の創造である。したがって、企業は二つの、そして二つだけの基本的な機能を持つ。それがマーケティングとイノベーションである。マーケティングとイノベーションだけが成果をもたらす。

● 人のマネジメントとは、人の強みを発揮させることである。(中略)人が雇われるのは、強みのゆえであり能力のゆえである。組織の目的は、人の強みを生産に結びつけ、人の弱みを中和することにある。

● マーケティングだけでは企業としての成功はない。静的な経済には、企業は存在しえない。(中略) 企業が存在しうるのは、成長する経済のみである。あるいは少なくとも、変化を当然とする経済においてのみである。そして企業こそ、この成長と変化のための機関である。したがって企業の第二の機能は、イノベーションすなわち新しい満足を生み出すことである。(中略) 企業そのものはより大きくなる必要はないが、常によりよくならなければならない。

● イノベーションとは、科学や技術そのものではなく価値である。組織のなかではなく、組織の外にもたらす変化である。イノベーションの尺度は、外の世界への影響である。

● イノベーションの戦略は、既存のものはすべて陳腐化すると仮定する。(中略) イノベーションの戦略の一歩は、古いもの、死につつあるもの、陳腐化したものを計画的かつ体系的に捨てることである。イノベーションを行う組織は、昨日を守るために時間と資源を使わない。昨日を捨ててこそ、資源、特に人材という貴重な資源を新しいもののために解放できる。

● 成果とは百発百中のことではない。百発百中は曲芸である。成果とは長期のものである。すなわち、まちがいや失敗をしない者を信用してはならないということである。それは、見せかけか、無難なこと、下らないことにしか手をつけない者である。成果とは打率である。弱みがないことを評価してはならない。そのようなことでは、意欲を失わせ、士気を損なう。人は、優れているほど多くのまちがいをおかす。優れているほど新しいことを試みる。

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ドラッカー

もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」(岩崎夏海著、ダイアモンド社)

女子高生のイラストが爽やかだけどオジサンにはちょっと恥ずかしい、そんな表紙の本を買いました。わざと「カバーは要りません」などと答えて。書店で本を買うとき、わたしは読みやすさで選びます。興味のある題名でも、手にとってパラパラと読んでみたときなかなか頭に入ってこない場合はおそらく最後まで読みません。ですから新聞の書評や雑誌の記事をもとにAmazonで買い物をすると、半分も読まないままになることがよくあります。この本は、新宿の紀伊国屋書店で人を待っているときにたまたま手にとったのですが、気付いたら3ページも進んでいたので、思い切って買いました。

ドラッカーって何?ヤクをやっている人?などと思いながら、その周辺に「ドラッカー」特集の雑誌や単行本が集められていたので、「もしや今ブームなのかも?形だけでも知っておかないと恥ずかしいかも・・・」という気持ちでその本を手にとったのが本音です。「マネージャー」と「マネジャー」の表記区別の意味すら分かりませんでした。

ストーリーは、まさしくマンガのような青春小説で、きっとアニメかアイドルたちを使ったドラマにすることを想定しているのだろう(作者自らがAKB48をモデルにしていると書いているくらいですから)というものです。現実にはそんなことはあるまい!と思うような明らかにミーハーなストーリーですが、それでも超ミーハーなわたしは<川島みなみ>とその仲間たちの素直な生き方に涙をボロボロ流して感動するわけでございます。

マネジメントに興味を持っているわけでもないわたしが、ドラッカーの本を手に取る可能性はきわめて低く、ここでドラッカーの『マネジメント』を買っていたらきっと数ページで投げ出していたかもしれませんが、この<みなみ>ちゃんとその仲間たちのおかげで、マネジメントの何たるかがちょっと分かった気がしました。うちの組織のFさんにこれを渡して読んでもらおう。読み終えたら次に読ませたいと思う人に手渡してもらおう・・・あとがきを読みながらそんなことを考えておりました。

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喫煙者のCTスクリーニング

「CTによる肺がんスクリーニング~喫煙者への推奨は慎重に」

うちの施設でも行っているCTによる肺がんスクリーニングに関するドイツからの記事に目が留まりました(Medical Tribune 2010.4.29)。「肺がん患者の家族から『私は喫煙者ですが、定期的に肺のCT検査を受けたほうがよいでしょうか』と相談されたらどうアドバイスすべきでしょうか?」という質問の答として、「現在進行中の試験の結果が明らかになるまでは、無症候の喫煙者に対し、一概にCTによるスクリーニングを勧めるべきではない」というわけです(Dr.Martin Kohlhaufl:ゲルリンゲン)。

喫煙者と元喫煙者3642名を対象としたスクリーニング試験で、被験者の40%(1472名)に非石灰化結節が認められ、そのうちの40例だけが悪性度高度だった。5mm未満の結節像ならさらなる精査は控えるように推奨しているのに、実際にはその40%以上が追加検査を受けた。でもその中に肺がんは1例も発見されなかった。1年後にCT再検査をしたところ、1年前にあった非石灰化結節の約97%は変化がないか退縮、新たな結節が発見されたのが7.5%、さらに再検査後2年間で肺がんと診断されたのは80例に過ぎなかった、という結果でした。つまり「高リスクの被験者の97%に肺がんはなく、発見された直径1cm未満の小病巣の圧倒的多数が良性だった。CTスクリーニングでがんの診断件数と手術件数は増加するのは事実だが、それががんによる死亡の減少につながるかどうかはまだ評価できる段階ではない」という見解です。

この事実は以前にも書きました。でも、だからといって100%ではない確率論を信じて検査を受けないか?と云えば、おそらく、圧倒的少数派に入るかもしれない確率がある以上、定期検査は受けたいと思うのが人間の心情だろうと思います。なぜならば、「喫煙者である」という負目があるから。やっぱり、どう考えても「肺がん患者の家族が喫煙者で・・・」というそこのところに間違いがあることをまずアドバイスしてあげるべきではないのかしら?

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給食

「こんなご時世なんだから、小中学校の給食なんか止めた方がいいんだ!」

先日、産業医先に行くのに乗ったタクシーの運転手さんがそう吐き捨てました。
たしか、「赤字財政の中で、ご機嫌取りのための<子ども手当て>なんか愚の骨頂ですよね」「そうそう、どうせもらった金を子どものために使わない親がたくさん居るんだから、いっそのこと手当て支給じゃなくて、不払いが多いと云われている給食費を全部タダにしてしまえば良いんですよ」・・・などと話していた流れで出てきたことばでした。

学校給食は、もともと戦後の栄養失調の子どもたちに成長期に必要な栄養素をきちんとバランス良く摂らせることを目的にしていました。これによって日本の子どもたちは欧米並みの体格と体力を獲得したと云えましょう。もはや現代社会の多くの子どもたちには必要ないもの、むしろ最近は「食べたくなかったら残しても良い」なんてことが通用する時代です(これも、もともとはアレルギー対策だったはずなのにいつの間にか普通に好き嫌いを容認する風潮になりました)から、まったくもって本末転倒の状態なわけです。今どき、コンビニ弁当だって栄養バランスを十分考えられている時代なのですから、運転手さんが云うことはとてもリーゾナブルな考え方だと思いました。

もちろん、現代社会にも、ワーキングプアの家庭で、食事は学校の給食だけという子どもたちは少なからず居ります。彼らにとって学校の給食は命綱です。だからこそ、<子ども手当て>の代わりに<学校給食の無料化>・・・何の問題もない一番の解決策だと思うのです。

なんて、子ども手当てとは何の縁もないわたしとご高齢の運転手さんの無責任な会話ではありました。

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病室の花

「病院では花を禁止すべきか」

先日届いたMedical Tribuneに載っていたロンドン(インペリアルカレッジ)からの報告です(BMJ 2009;339:b5257)。ちょっと面白い記事だなと思って、読んでしまいました。

イギリスでは多くの病院でベッドサイドに花を飾ることを禁止されているというのにはちょっと驚きました。たしかに花の水や土から持ち込まれる細菌によってもたらされる感染は、抵抗力が落ちている患者さんにとっては命に関わる場合も少なくありません。以前、枕もとの鉢植えの花から破傷風に罹った患者さんの報告例を読んだことがあります。でも、「ベッドサイドに飾られた花が患者の酸素を奪う」とか、「医療機器に影響を与える」とか云うのはちょっと考えすぎ、あるいは置き方の問題という気がします。「花の管理は日々の仕事量を増やすという実質的な影響を懸念する」というナースの意見の方は良く理解できました。

お見舞いに花はつき物です。病院の横や病院内の売店には必ず花屋さんがあります。この報告には、花が飾られている病室の患者さんは術後の鎮痛剤の使用量が少なかったとか、血圧や心拍数が少なかったなどという研究結果も紹介されていますが、無機質な何もない病室よりも花や植物などが存在する病室の方が心が癒される気がします。それはきっと、つい最近この空間で人と人の心の交流があった証であり(患者さんが花屋で自ら花を買ってくることは稀です)、「生きているもの」が存在することによって生気が部屋中を包み込んでくれるからではないかと思います。

もっとも、病室のドアを開けると咽(むせ)て咳き込むほどに花だらけになっていて、まるで<棺桶の中>か<祭壇の中>かのように患者さんが花に埋もれている状態は、さすがにやりすぎでしょうけれど・・・。

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アメニティ

新宿のシティホテルに泊まりました。数年前にリニューアルした老舗ホテルです。部屋に入ると、そのモダンでシックなデザインに製作者の強いこだわりを感じました。ホテルにありがちな無粋な出っ張りや引き出しが一切なく、備品類をすべて陰に隠して、生活感を感じさせないスマートさと都会のセンスを強くアピールしているのがわかりました。

ただ、「スリッパはどこにあるの?」・・・入ってすぐに靴を脱ごうとしてハタと困りました。残念ながら、部屋に入って最初にしたことは、必死で部屋中のお宝探しを始めることでした。さらに夜だったのでブラインドを降ろそうとして、「これどうやったら降りるの?」とまたまた困惑。・・・入室後の試行錯誤で疲れ果てながらやっと一段落したところで、初めてデスクの上にあるインフォメーションブックに目が留まりました。勝手知ったるマンションの一室ではないのだから、初めて来た人が最初にすることはインフォメーションブックを開けることではないんじゃないのかな、とため息をつきながらそう呟きました。

最近は、トイレの水を流す方法やトイレットペーパーの場所や、あるいは玄関ノブや水道の蛇口など、本当にデザインが懲りすぎて、まるで知能テストでも受けているような錯覚に陥ることがあります。人生経験の記憶をいろいろ駆使しながらやり方を考えないとトイレの水すら流せません。これはご高齢の方々にはちょっと難しすぎるんじゃないかしら?と思うことが多々あります。デザイナーさんのこだわりと使用目的とのギャップ・・・スマートさと不便さの天秤をいつも利用者の目線で押さえておいてほしいなと思います。

うちの施設でも同様です。でも、さすがに大腸検査の前の便チェック用のトイレ照明が間接照明なのは何とかしてほしいと要望を出しました。こんな薄暗いトイレで便の色と形を確認するなんて、本末転倒も甚だしい!ということで。

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歩く。

先日、私用で上京しました。二泊三日の旅程はかなりの過密スケジュールでした。本当に東京という街は歩きます。とことん歩きます。エレベーターやエスカレータを可能な限り使わないことにしているわたしにとっては、さらに階段も途方もなく多い街です。

羽田空港の端っこに着いてからいくら歩いてもなかなか空港の出口が現れず、都営地下鉄のホームはとことん深く、新宿駅から地上に出てみたらホテルはJR新宿駅のちょうど反対側でした。翌日以降もそんな調子で、とことんムダ(?)に歩きました。ただ、ちょっと不思議なことに気付きました。約一ヶ月前のゴルフ中にひどくした左膝痛・・・回復が芳しくなく、仕事場や自宅の階段を上るときにいまだに関節が軋むような痛みに見舞われていたのですが、そんな膝の痛みを上京中は一度も感じなかったのです。ついつい膝痛のことを忘れて、重い荷物を抱えて長い階段を駆け上がったり横断歩道を走ったり・・・そんな繰り返しだったのに、です。ところが、そんな忙しい旅から帰ってきて、そのまま仕事場に行きましたら、最初の階段でまた軋みが再発しました。つまりは、東京に居た間だけ治っていたことになります。「気圧の問題か何か?」と妻は実(まこと)しやかに云いましたが、そんなことはありますまい。たまたまなのかしら?でも、なあ。

何でなのかわかりませんが、今となっては膝痛の恐怖が全くなかった上京中に帰れるものなら帰りたいところです。膝を気にしていない(忘れていた)ために、かえってムリに庇(かば)わなかったのが良かったのかもしれません。

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大丈夫?

ちょっと風邪をひいて咳が止まらないことがありました。あるいは、持病の頸椎ヘルニアのために時々背中が痛くなったり、腰椎ヘルニアの影響で腰が伸ばせなかったり・・・病気博士のわたしのカラダは、大きく軋んで音を上げることもしばしばあります。

そんな時、「大丈夫か?」とか「先生、大丈夫ですか?」とか、そんな気遣いの声を掛けてもらうのですが・・・ありがたいことばではありますが、どうせ「大丈夫じゃない!」とは云えません。「ありがとう。でも、大丈夫だから・・・」と気丈な返事をいたします。そしたら、「ホントに大丈夫なの?」ってさらに追い打ちを掛けられることがあります。

いらん世話じゃわ!本当に大丈夫か?って、そりゃ大丈夫じゃないよ。でも「大丈夫じゃない」って答えたところで何か改善するわけじゃないし、仕事を替わってもらえるわけでもないのだから、そのまま放っといてくれまいかなあ?「大丈夫、大丈夫!」と面倒くさいからそう答えていると、それはそのままわたしの首を絞めることにもなるのですよ。「大丈夫なら頑張ってもらいましょうか」という囁きが聞こえてくるのですよ。

うっわあぁ~、この苛立ち感・・・病んでる、病んでる~!

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