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2010年7月

うつ?

先日、職場のスタッフから仕事のことで相談を受けました。組織の部下たちにまとまりがなくなっているのではないか、仕事がうまくいかなくなっていることで、自分はどうしたらいいのだろうか?といった悩みです。

「先生、もう最近はものすごく頭が痛くてですね。こないだの週末なんか下痢がシャーシャーだったんですよ。」
「・・・それって、うつ病なんじゃないの?」
「いえいえ、まだそんなんじゃありません。うつになり始めたらすぐに先生に相談に行きますから!」

笑いながらそう答えていましたが、いままで企業の産業医を務めてきた数少ない経験からすると、うつ病の始まりはみんなそんなものでした。だから「疲れているのだろう」と思ってやり過ごしながら徐々に悪化させるのが常でした。
「あまり甘く考えない方がいいですよ。いつまでも今の状態が続くならメンタルケアの相談をした方がいいかもしれませんからね。」・・・一応、そう助言しておきました。

そういえば、数ヶ月前に下痢嘔吐した事務方の若者に先日久しぶりに会いました。「お腹は治った?」と聞いたら、「まだ今ひとつなんですよ」と浮かない返事が返ってきました。新しいプロジェクトのためにかなり忙しい日々を送っている彼も、なんか危なっかしい印象だったのを覚えています。

みんな、ちょっと頑張りすぎなんじゃないかしら?

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喀痰検査

肺がんや肺感染症の検診をするために、シャーレに痰を出してもらって顕微鏡で確認する検査があります。これを喀痰検査といいます。

この検体に痰が入っていないことがよくあります。出したつもりでも唾(つば)だけだったりするわけです。この場合、「検体不適切」などのコメントが入り、<再検査>や<経過観察>の判定になるのが普通です。でも、この扱いは間違っているのではないか?ということが、先日うちの施設で問題になりました。「痰や血痰が出る」とか「咳が止まらない」とかいう症状があって病院を受診して、そこで肺炎やがん、結核などの心配がないか調べるために痰を取るのとは違います。もともとどうもない人が検査を受けるのが検診です。<どうもない人>は痰が出ないのが当たり前です。「無理矢理出してもらった検体が唾だらけで痰が入っていないからもう一度出し直してください」という発想は、もともとが病院の検査の発想だと云えましょう。何の異常もないのに、痰が出せなかったから、検査が不成立だったから「不適」という云い方はよろしくありません。

ということで、唾しかない検体は「痰が入っていませんでした」とだけコメントすることにしました。そのコメントがあったからといって、自分の検体の出し方が悪かったのだろうか?とか悩まないでください。くどいようですが、「痰が出ない」のが正常なのですから。

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赤血球のはさみ

~血液が流れ始める一番最初は、心臓が動き始めたときではなく、「はさみ」の役割をする蛋白分解酵素(ADAM8)によって血管壁にくっついている赤血球が切り離されたときである。~

Current Biology(2010:20:1110-1116)という雑誌に発表された京都大学(瀬原淳子教授)の研究結果にとても興味が湧きました。生命が発生する過程で<赤血球が流れ出す瞬間>・・・そんなことを考えたこともありませんでした。生命は生きている限り赤血球は他の血球と一緒に血管内を流れているものであり、流れが止まれば細胞が死ぬ(あるいは「細胞が死ねば流れが止まる」)のである、ということしか頭にありませんでした。

瀬原教授らのゼブラフィッシュ胚を使った研究では、「まず心臓の拍動が始まり動脈や静脈が形成されるころ、赤血球が次々に血管内に侵入する様子が確認できた。ところが、しばらくの間、赤血球は血管壁に付着したまま待機状態を取り、大血管形成後、ほとんどの血球が血管侵入を終えたころ、血球はいっせいに循環を始めた。」(Medical Tribune circulation today 2010.7.22 P71)・・・この、<血管から赤血球を切り離す>仕事をするのがADAM8という物質なのだそうですが、生命体の神秘として、こういう「臓器がきちんとできあがるまで<その場で待機する>」などということを規律正しく監視して実行しているシステムが存在すること。それがきわめて緻密に作用するから生命体が動くこと。そして、そんなメカニズムが21世紀なった今でもまだきちんと解明されていないのだということを考えると、何かワクワクする気持ちになります。

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てんぷら

「わたしは、てんぷらが大好きなんですけど、やっぱりこれを止めんとダメでしょうね。」

44歳の公務員の男性に健診結果の説明をしていたら、ポツリと呟きました。もう何年も続いている境界型糖尿病と脂質異常症と高尿酸血症に喫煙習慣があり、オプションで検査した低線量肺CT検査ではそれなりの肺気腫(タバコのために肺胞が破壊されている)と冠動脈(心筋を栄養する血管)の石灰化が認められました。典型的な動脈硬化体質の方・・・わたしの説明で顔色を変えているところをみると、今まで甘いことしか云われていなかったのか、あるいは甘いことしか考えていなかったのか・・・。

「止めるのが一番良いですけど、でもてんぷら、お好きなんでしょう?」
「はい。好きです。」
「たぶん、作り過ぎなんだと思いますよ。お店でてんぷらを注文したときの料理一人前と比べてみてください。おそらくその何倍も多く作って食卓に並べられているはずです。『てんぷらを止める』というストレスより、『少ししか作らない』という勇気の方がこれからの人生のためには良いんじゃないですか?」
「なるほど。それはありかもしれません。」

結局彼は、特定保健指導を受ける手続きをして帰りましたが、本当はその前に脂質異常に対する内服を早々に受けてほしい人です。もう何年もこの状態が続いている上に、44歳で冠動脈にりっぱな石灰化(動脈硬化)ができているのですから。そして、「てんぷらを止める」とか「減らす」とか、そんなことくらいでこの値が正常値になるとは到底思えないからです。

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和温療法

鹿児島で行われた第16回日本心臓リハビリテーション学会に行ってきました。

学会長を務められた鹿児島大学の鄭忠和教授といえば、やはり「温熱療法」が最初に頭に浮かびます。鄭先生が<カラダを適温で温めると万病が治る>と学会で発表し始めたのは、わたしがまだ医者になってすぐのころでした。医局の先輩諸氏はそんな研究を「まゆつばものの怪しい研究」という云い方で冷ややかに傍観していた印象があります。おそらく日本中、世界中が似たような反応だったので先生の研究はなかなか世に認められなかったのだと想像します。医学界が大好きな「EBM」や「作用発現のメカニズム」という点で「万病に効く」が受け入れられなかったのではないかと推測します。

それでも信念を持って研究を続けた情熱の先には、きっと常に患者さんがあったのだと思います。2007年4月に「和温療法」(和ませ温めるという造語)と改名して以降、一気に脚光を浴びました。世が「臓器よりも人間」「スペシャリストよりもジェネラリスト」の考え方に移り始めたことも後押ししたのではないでしょうか。スペシャリストになりたかった若いころのわたしは興味すら湧きませんでしたが、徐々にカラダ全体を診る医療に意識が移り始めるにつれて妙に気になってきました。ただ、昔の先輩諸氏の批判がずっと頭から離れず、こころのどこかで敬遠していたように思います。今回の学会で、多くの和温療法のセッションに参加できて、とてもすっきりした気分です。

和温療法:「心身を和ませる温度で全身を15分間均等加温室(器)で保温し、深部体温を約1.0 ℃ ~1.2 ℃上昇させた後、さらに30分間の安静保温で和温効果を持続させ、終了時に発汗に見合う水分を補給する治療法である」と定義。ちなみに、この「心身を和ませる温度」というのは41℃以下のいわゆる<ぬるま湯>の温度です。

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目は口ほどに・・・

職場の広報誌の発行が最近若干不定期すぎる気がします。毎回発行を楽しみにしていただいている方は意外に多いらしいのですが・・・。内容は以前書いた「マスク小僧たち」が原型です。

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「マスク小僧たち~目は口ほどには物言わず。」

世の中、花粉症でもないのにマスクで顔を覆っている人がたくさんいます。新型インフルが流行した昨年の今頃ほどではありませんが、今でも病院やクリニックは妙に大きなマスクをしたスタッフで溢れています。うちの病院でも、医者や看護師だけでなく、技師や薬剤師、受付の事務職員までもが顔の半分以上を覆い隠しているのをよく見かけます。

感染予防の考え方がしっかりしている証し!ではあるのですが、「他人にことばを伝える」という点においてマスクはとても大きな障害です。先日、救急外来の待合い椅子のところで、若い看護師さんがご年輩の男性の横に跪(ひざまず)いて熱心にクスリの説明をしていました。たまたまその横を通りながら盗み聞きしましたが、もしやこの方は彼女が何を言っているのかさっぱり聴き取れていないのではないか、と気になりました。マスクで口を覆っているために音が籠もってよく聴こえていません。そしてそれ以上に、彼女の表情がまったくわからないのです。人は耳からだけではなく、相手の口の動きや顔の表情を見て言葉を聴き取ります。そのすべてがマスクで覆われて見えません。顔の表情が見えないと、話す人の心の内も見えません。目が深刻そうでもマスクの下では舌を出しているかもしれませんし、せっかく明るく微笑んでいても目が鋭いと叱られているように感じます。昨年、新型インフルが猛威を奮った頃、学会場や会議場では入口に消毒液が置かれるのと同時にマスクも配られました。発表者も質問者も司会者も全員がマスクをしている異様な密室の中で、多くの出席者が痛感したことは、「大きな声で会話しても、マスクは想像以上に意思の疎通の邪魔をする」ということだった、という記事を読んだことがあります。

私も受診者の方々に説明をしている時、結果表や写真を指さす私の手元ではなく口元を見つめている人をよく経験します。何度も私の顔を覗き込むのです。咳のためにやむを得ずマスクをすることがありますが、すると相手はわたしの目の奥に本意を探ろうと凝視し、それでも意味を量りかねて戸惑った顔をみせるので、結局はマスクをずらして顔全体をみせることになります。

目は口ほどには物を言わず!マスクは口と顔を隠します。でも本当に見えにくくなるのは「心」~だから、聞き手が無意識に不安になるのだと思います。重要な伝達手段の大半を自ら放棄している以上、伝える者はいつも大きなハンディを負っていることを意識した伝達者であっていただきたいと、世間の「マスク小僧たち」を眺めながら思っています。

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スプーン

最近、50%カロリーオフ商品を気に入っている妻は、そんなカレーライスをよく作ります。普通のカレールーではお腹をこわす彼女も、これはまったく大丈夫だそうです。

いい匂いのために口の中をつばで一杯にしながら「待て」をされているわたしに向かって、「はいこれ」と妻が無造作に手渡してくれたスプーン・・・「ん?なんかこれ、小さくない?」・・・カレーライスと云えば口一杯にはまり込むような大きなスプーンで、豪快に食うのが定番!カレー用のスプーンはどこのレストランに行っても必ず一番大きなものが準備されるものと決まっています。「なんでこんな小さな、しかも浅いスプーンなの?」「別に。」・・・妻はあまり頓着していない様子。わたしも食べることに関しては割に淡白なので<ま、良いか>とばかりに大好きなカレーを頬張り始めました。ちなみに、カレーに目のないわたしは、夕食で大皿2杯を食べた後、鍋の中のカレーが空になるまで朝昼晩毎食カレーが続いてもまったく苦になりません。おかげでついつい食べ過ぎて太ってしまうので、長い間、妻から「家ではカレーは作らない!」宣言をされていたのです。

食べ始めたら、すぐに気付きました、この小さなスプーンの効用・・・早食いができない!1回1回のスプーンに乗る量が思いの外少なく、大きなスプーンの1杯分を食べるためには3杯口に運ぶのと同じだったりします。これが箸だったら掻き込めるのかもしれませんが、大きな皿を持ち上げるわけにもいかず、そうなるとスプーンというものは意外に面倒な代物です。一塊りを口に入れたらそれなりに噛まないと次が入れられず、自ずと<味わい食い>が成立します。こんな<バキューム食いforカレーライス>のわたしが、普通盛りのカレーライス1杯で「ごちそうさま」をしてしまうなんて・・・。恐るべし、小浅スプーン!たかがスプーン、されどスプーン!

この話を妻にしたら重い口を開きました。「『信じられないくらい、カレーが食べやすいスプーン』っていうから買ったけど、何が<食べやすい>のか良く分からないのよ。」

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アルバイト

先月から、放射線技師のアルバイトの若者が数名働きに来ています。大学院生なのだそうですが、そのいずれもがとても切れ味の良い仕事ぶりです。
「○○さま、おはようございます」「大きく息を吸って、止めてくださいっ」「○○さま、お疲れさまでした。次の検査は・・・」
云っていることは決まり切ったことばばかりなのですが、今どきの若者とは思えないような(ちょっと失礼か)ハキハキとした歯切れの良さ、受診者を顧客として扱う目線やエスコートの仕方など、どこかでみっちりと接遇研修を受けてきた者か、あるいは熟練した社会人のような様相で、彼らの仕事ぶりをみるにつけちょっと驚いています。

「お前ら、本当に若者かぁ?歳をサバ読んでないか?」なんて云いたくなる感じです。もしや、初めてアルバイトに派遣するので粗相のないように選び抜かれた代表選手ばかりなのかもしれませんが、それにしても粒ぞろいすぎます。

もっとも、わたしも、「研修医で、受け持った患者全員に手書きの年賀状を出すような医者は今までみたこともない。先生は本当はもっと年寄りなんじゃないの?フレッシュさが感じられないよ!」と、若い頃に近くの開業医の先生に云われたことがあります(「かけ出し医者の年賀状」(2008.12.15)。

そんなことを思い出しながら、彼らの立ち振る舞いに「若さがない」と云われようとも、やはりプロとして生きて行こうとするなら忘れて欲しくない何より大切なことだと思いました。これが、正式に臨床現場に入って忙しさに追われ、殺伐とした先輩たちに鍛えられるうちに、絶対に褪せてしまわないでほしいと切に祈ります。

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チェーン店

「すみません。ちゃんぽんのエビとイカを抜いてもらえませんか?それと、エビのエキスも除いてください。」

食品アレルギーが強いわたしの妻が、あるちゃんぽんの専門店で、慣れた口調でそう注文しました。「エキスまで除いたりできるの?」・・・何か不安そうなウェイトレスさんの表情を覗き見ながらわたしがわざと確認しました。「たぶん、このチェーン店は大丈夫だと思うよ」・・・いつもは違う店に行くのですが、今はどこの店もきちんと対応してくれるようになったのだそうです。「でも、必ず担当者が確認に来るよ。そして云うの。『ホタテは大丈夫ですか?』って。」・・・彼女の云うように、ウェイトレスのお嬢さんと入れ替わるようにして大慌てで担当者がやってきました。

細かい注文ができるようになりました。それだけ食品アレルギーの人が増えてきたのでしょう。アレルギーは命に関わるのでもの凄く神経質になっていきます。でも、結局この店では「エビのエキス抜き」はムリだと云われました。それでもよろしいでしょうか?と。・・・○○店ではできて、△△店ではできない、というのはどういうことなのだろう?ちゃんぽんのスープに入れるエキスです。スープを作るときにエビを使えばエキスは出ますから、根本から別行程で作らないと「エキス抜き」は不可能のように思えます。○○店はあえてそのムダになりそうな行程をしているのでしょうか?だとしたら、凄いことだなと、今注文をしている店に対する苦情より、日頃彼女が行っている店に感心するばかりです。でも、チェーン店のちゃんぽんの基本調理行程をいじってもいいのだろうか?味は変わらないのだろうか?もし別行程のマニュアルがあるのなら、「できない」△△店に非があることになるわけで・・・まあ、そうまでしてもこの店のちゃんぽんを食いたい!というそのこと自体に一番の無理があるようにも思えるのですが・・・食物アレルギーのほとんどないわたしには理解できないことではございます。

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どこに行く?(後)

実は、健診センターで相談を受けるとき、多くの受診者の方が悩んでいるのは、「どこ(何科)に行ったらいいのかが分からない」ということの様なのです。

病院に行くべきかもしれないとは思うものの、次の行動の取り方が分からないと云うのです。たしかに現代は、患者さん自身が専門医を選択し、自己責任で受診するのが当たり前になっています。この症状なら何科に行くべきだと自分で考えて受診したのに、ヘタをすると「うちに何しに来たの?」とまで云われることもあると聞きます(これは医者の資質の問題ですけれど)。そうなると、医療機関を受診すること自体、つい敷居が高くなるのも分からないではありません。

いつからそうなったのでしょう?昔から、そういう医学的なアレンジと助言と道先案内をしてくれる人こそが「かかりつけ医」(家庭医)だったではありませんか?自分が通院している医院があるのに相談しないのは、「だってあの先生は消化器が専門だから心臓はわからない」「整形外科だから内科のことは聞いてもしょうがない」からだと、そういう云い方をするのです。自分のかかっている医者は、臓器の専門家ではあっても自分のカラダの主治医だとは思ってない・・・そんな風潮になってしまった最初は、医療者が「自分は専門じゃないから」とかいうエクスキューズだったかもしれません。でも、今こそもう一度、<人生の主治医>としての「かかりつけ医」の原点に戻るべきときではないかと思います。患者さんをひとりで抱え込むことは、クリニックのドクターでも大病院のドクターでも通用しない時代になっており、作業分担はかなりきちんとしています。是非とも何でも気軽に相談できる「かかりつけ医」を一生懸命見つける努力を惜しまないでいただきたいと思う今日この頃です。

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どこに行く?(前)

先日「で、どうしたらいい?」(2010.7.17)に対するharuchさんの書き込みへの返信を書きながら、考えました。

悩みをもってわたしの前にやってきた以上、何らかの答を出してあげなければならない、という思いは医者になったときからありました。ただ、おそらく若い頃と今ではまったく違うことを云うだろうことは容易に想像できます。医学知識という点では若い頃の方が優れているのは間違いありませんが、今の方が助言としては当を得ている自信があります。

それは<経験値>と<共感>です。若い頃、相手の悩みを自分は経験したことがないから実感がない・・・そんな自分が助言できるのは、あくまでも教科書に載っていた想像上の「総論」でしかありませんでした。でも、長い間医者の仕事をしているうちに、専門領域以外の内容でも同じような病気の実例を何度か経験し、さらには似たような経験を自分自身がするようになり、実感としての体験を考えれば助言は自ずと細かい所にまで立ち入った「各論」になる・・・当たり前と云えばしごく当たり前のことです。自分がその立場だったら、自分だったらどうするか?具体的にシュミレーションできる今だからこそ、現実に即した素晴らしい助言ができているのだと自負しながらも、ただただ、どんどん医学的でなくなっていってるかもしれないのが申し訳なかったりします。

健診の保健指導で、若い保健師さんが受診者の皆さんに話している内容を傍から聞いていて不満に感じるのは、それが「机上の空論」ぽいパターン化した内容に聞こえることなのですが、それはそれでやむを得ないのかもしれない、と思うようになりました。

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生活習慣病放置病~健診結果のながめ方

新連載を始めた広報誌の新しい号が発行されました。新年度を迎えて職員健診が始まりましたので、ちょっと厳しく戒める文章にしてみました。

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「『まだ予備群だから治療をするほどじゃない』などと指導しているあなた方の行為は自殺教唆です!」・・・健診医になって1年め、ある医療者向けセミナーに参加した時に講師の先生が言ったことばに一瞬緊張が走りました。「せっかく健診で異常を見つけておきながら、そのまま放置して病気を悪化させて、どうしようもなくなってから私たちの元にやってくる。私たちがどんなに悔しい思いをしているかわかりますか?その状態にさせたのは、あなた方ですよ!」・・・糖尿病の日本の第一人者である彼の声は、とても重く厳しく私の心に響き渡りました。

ここ数年、病気の考え方は大きく変わりました。<予備群>や<未病>を、「まだ大丈夫だけれど、”備えあれば憂いなし”だから注意しておこう」程度に考えていたら、もはや現実はそんな甘いものではないという事実が次々とベールを脱ぎました。食後高血糖、慢性腎臓病(CKD)、メタボリックシンドローム・・・今まで<ちょいワル>くらいに悠長に構えていたこれらの状態が、すでに今すぐ流れを変えないと悪化の勢いを止められなくなる『最終警告だ!』というのです。それはちょうど大きな艦船のカジ取りをするようなものだと思っています。遠くに障害物を発見したら、その時点ですぐに進路変更を企てないと大きな艦船は衝突を回避できません。現代人は、自分が小回りの利く小さなボートに乗っていると錯覚していて、乗っている船がいつの間にか大きな艦船に変わってしまったことに気付いていません。

いかがですか?皆さんは受け取った自分の健診の結果報告書を、きちんと見直していますか?「どうもないから」と、封を開けずに放っている人はいませんか?「紹介状がついてなければ大丈夫」と油断していませんか?同じ検査をしても、病院と健診では見ているものが違います。何か心配なところがあって受診する病院の検査は、それが「異常」ではないかを調べるためにあります。一方、健診では「異常」でなくても徐々に「正常」から外れてきているものがあるとそれは大問題です。気付かないうちに予定航路から外れていこうとしていることを示しているからです。健診の目的は病気の早期発見ではなく、病気にならないよう監視することだと心得ましょう。

カジ取り方向をほんのちょっとずらすだけで、最終的に何百メートルも位置が変わります。カジを持つ手にちょっと力を加える勇気があるかどうかです。軽いうちは何をやっても意外に面白いので、試した者勝ちです。自分でもいろいろ試して楽しんでみている私としては、健診で思いの外厳しい結果を言い渡されたおかげで、せっかく日々の生活をいじってみるチャンスをもらったのに、重い腰をなかなか上げないのが勿体なくてたまりません。

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姿勢

「先生、しばらく診ないうちにえらい姿勢が悪くなっていますね。」

先日、首の痛みが超ピンチで、ほとんど寝られず仕事にも支障を来すようになったので、かかりつけの(といってももう半年以上ご無沙汰だった)整骨院に駆け込みました。その時に、院長から開口一番そう云われました。

「そうなんですよ。最近本当に姿勢が悪いな、と自分でも思います。」

・・・日頃から意識して背筋を伸ばし、腹を引っ込めるようにして歩いているのです。風呂に入る前に洗面所の大鏡の前でマッチョポーズをとってみて、「まだ捨てたモンじゃないナ」などとちょっとナルシストになったりします。ところが、風呂上がりにバスタオルで身体を拭きながらふっと鏡を見ると、そこには別人の身体があります。肩が落ち、猫背になり、重心がズコンと下に落ちているからお腹がほっこりと出っ張っています。ゲッゲー!まるで、人間に化けたタヌキが窓ガラスに映る本当の自分の姿を見て慌てる時みたい!・・・気を抜くと、ちょっと油断すると、すぐこんな年寄りお腹になるんだ~。最近は運動なんか全然やってないもの・・・現実を目の当たりにして凹む毎日なのであります。

院長は軽く笑いながら、わたしの右腕の張りを取り除き、テーピングをしてくれました。おかげさまでわたしの首はウソのように楽になりました。ところが・・・翌日、仕事をしているとまた首が痛くなりました。これもまた姿勢のせい?受診者さんと一緒に猫背でパソコンをのぞき込んでいるからだ、と気付きました。整形外科のHaruch先生に教わったようにいつもより椅子の高さを上げて見下ろすようにしたら、少し楽になりました。でもHaruch先生、うちの職場の椅子は一番上まで上げても肘掛の位置が机の高さより高くはなりませんでした。

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ムカデ

むかし、山の中の公立病院に出向していたころ、我が家には普通にムカデやゲジゲジが出没していました。

「そんなものは、お友達だよ~。慣れたら可愛いもんだよぉ。」と地元の職員さんによく云われました。幽霊や座敷童さえ住んでいた家(妻のお友達ばかりですけど)ですから、ムカデにさほどの恐怖心はありませんが、朝、枕元のガサガサガサっという音で目を覚ますのは、さすがになかなか慣れませんでした。

「あれはね、ムカデさんの方が先住民なんだよ。」・・・その病院への出向が始まったとき最初に出向いた同僚の先生が笑いながら解説してくれていたのを思い出します。彼が家族と一緒に入った宿舎は、そこに出向することが決まってから大急ぎで建てられた平屋建ての一軒家です。「もともと単なる山の斜面だったところに急に家が建ったんだもの。もともとムカデさんたちの通路か散歩コースだったところに後から人間が障害物を作ったわけだから、彼らはやむを得ずそこを横断するしかないわけでしょ?それを、『彼らが迂回しないのがおかしい』と云うのは、人間のわがままだよね。」・・・そう云って、当時まだ小さかったわが子に生き物との共存を教育したのだろうなと思います。わたしたち夫婦が住んだ宿舎はそれよりちょっと古い建物でしたが、まあ考え方の基本は同じでしょう。車にはねられて道路に無残な姿を曝け出したイタチや小動物を見かけることがありますが、あれも同じことだと思います。

とはいえ、目を開けたら目の前でゲジゲジさんがこちらを見ているのです。分かっていても、やはり枕元に置いておいた殺虫剤でシューっとやってしまいます。そしたら、のたうち廻りながらあの長い足でこっちに突進してくるのです。目をつぶってさらに殺虫剤!・・・頻繁に殺生してしまう罪人(つみびと)でございました。

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で、どうしたらいい?

「先日、病院を受診されたと聞きましたが、どうでしたか?」・・・頑固な肩こりと背中の痛みが続いていた会員さんにそう聞いてみました。
「○○整形外科病院で詳しく調べてもらったのですが、特に問題はない、と云われました。」
「それは良かったですね。で、どうしろと云われました?」
「いや、そこまではおっしゃられませんでしたけど、とにかくあまり心配は要らないと聞いて帰りました。」

こういう話は良く聞きます。どうせ腰痛や肩こりの大部分ははっきりした原因がわからないものだということは分かっています。整形外科だけでなく、内科でもその他の科でも、多くの医者は問題があるかないか、クスリや処置の必要があるかないか、というところで診療作業を終わってしまっているように思います。興味がないのかもしれません。あるいは自分ではしているつもりでも患者さんに十分伝わっていないのではないか?と思うことが多くあります。症状があって病院を受診した患者さんが一番ほしいものは、「問題はない」という診断の保証ではなくて、「この症状がよくなるにはどうしたらいいか」という問いの答えです。きちんと分からなくても、次のステップへの助言を、その筋の専門家から話してもらえるのが一番であり、それがあって初めて受診したことに意味が出るのだと思います。

ですから、わたしは健診結果で紹介状が発行されたときには、「もし、『問題ない』と云われたら、必ず、『で、次はどうしたらいいですか?』と聞いてくださいよ。」と念を押すことにしています。

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「まだ」と「もう」(part2)

毎日150~160人程度の心電図を判読するのは、わたしの大事な日課です。オンラインのシステム上で判読していきます。診察や結果説明の合間をぬってやります。レントゲンの読影に比べたらはるかに楽ですが、それでも毎日となるとちょっとうんざりします。黙々と判読をしていると、50人前後を判読したあたりでフッとため息が出ます。

「は~、まだこれで1/3かぁ!」と思うときもあれば、「あれ?もう1/3も読んだのか!」と感じるときもあります。

一体何が違うのだろうかと考えてみました。週の初めだとか終わりだとか、睡眠不足があるとかないとか、忙しいとかヒマだとか、カラダが疲れているとかいないとか、いろいろな理由は想像できるのですが、必ずしもそんなことがすべてを左右するわけでもないことは実感としてわかります。たとえば気が大きく張っているとき、あるいはしなければならないことをまだたくさん抱えているときの方が、十分な時間と体力の余裕があるときよりも、得てして「もう・・・」の感じになるような気がします。

かつて、昼休みの時間の使い方で、「もうあと20分しかない」と思うか、「まだあと20分もある」と思うかで大きな差が生まれる、という話を書いたことがあります(2008.10.18)。これは自分の気の持ちようだ!と云いたかったわけですが、心電図判読の時の感想はそのまま自分の心身の充実度の表れだと考えられます。

ですから、「まだ1/3か~」のため息がでるときは、あえてその場を離れて小休止することにしています。

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負けず嫌いと記憶

先日、知り合いの社長さんとゴルフをしていて、昼食を取りながら交わした会話です。

「最近、本当にいろいろな言葉をすぐに思い出せなくなりました。」
「先生はだいたい5分以内には思い出せますか?」
「5分?いや、それはムリです。しかもやっと思い出したと思っても、ちょっと違うことを考えた途端にまた消え失せて一からやり直しになることも少なくありません。」
「わたしは、全部思い出すのに最近20分もかかることがあるんですよね。先生はそんなことはないでしょ?」
「20分ですか?それは絶対わたしにはないです。」
「ですよね。わたしは年取ったなあとつくづく思います。」
「いやそうじゃなくて、私は20分も考える前にさっさと諦めますから、絶対それはあり得ません。どれだけかかっても必ず思い出す社長さんはやっぱり偉いですね。」

たしかにゴルフで一緒に回るメンバーのスコアやパット数まできちんと覚えている人ですから、「思い出せない」ということがイヤなのは良く分かります。分からないまま放っておくこと自体ができない性格なのでしょう。この<負けず嫌い>の性格だからこそ会社を大きくできたのだと思います。

脳は使わなければ必ず衰える(呆ける)というのは今や常識です。思い出せようが思い出せまいが、とにかく思い出せるように頑張って考える行為が一番重要なのだと、脳科学者が口を揃えて云います。必ず100%思い出すこの社長さんとさっさと考えることを諦めるわたしとでは、老化の速度に歴然とした差が出てきてもしょうがありませんね。

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電子化

「○○さま、どうぞ。」・・・診察室のドアの前に立って受診者を呼び入れます。
「△△と申します。今日はよろしくお願いします。」
「さて、それでは健診結果をご説明します。」
結果報告書の小さな文字を指さしながら、ときどき目の前のパソコン画面で胃カメラ画像やエコー画像をお見せしながら、ああだこうだと蘊蓄をたれます。
「まとめますと、『無駄に動け、無駄に食うな』ということになりますね。それではどうぞ今日から頑張ってください。」
・・・考えてみると、この一連の流れの中で、受診者の方ときちんと目を合わせるのは、相手が何かの質問をしない限り、最初のあいさつ(説明前のあいさつもだいぶ板に付いてきました)のときだけ、ということになりかねません。

外来の診察室ではどうでしょう。「先日精密検査で受診した病院では、診てくれた先生は、何かを書き込むためにずっとパソコンに向かっていて、わたしと一度も目を合わせてくれませんでした」という不満を受診者の方から聞きます。カルテが電子化され、データも診察結果もパソコン管理になるにつけ、データ管理が効率的で客観的になる代わりに、登録作業に忙殺される医師はどんどん患者さん自身から離れていくのではないか、という心配は杞憂なのでしょうか。

以前、「カルテはメモではない」と当局から叱られた話を書きました(「カルテメモ」2008.1.27)。今日の文章と同様の懸念を書いたこともあります(「電子化の波」2009.11.5)。でも、この思いは何度も何度もわたしの頭の中に押し寄せてくるのです。医療記録をできるだけ客観的なもの、曖昧さのないものにしていくことを良しとし、受診する側も「そこに異常があるかないかの事実だけを教えてもらえればよい」と云って大病院を希望する人が少なくない現状の中で、「医者は病気を相手にするのではなく、人間を相手にするのだ」という気持ちを持ち続けるには、本当にしっかりした強い意思が必要なのだと痛感しています。

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口笛と階段

1階の医局から4階の診察室まで、非常階段を上るのがわたしの朝一番の日課です。

その日の気分に合わせて、口笛を吹きながら一段飛ばしで一気に上っていたら、わたしの前を歩いていた女性スタッフから、「先生、今の曲が今日一日わたしの耳から離れなくなるんですよ!」と、苦情紛いのことを笑いながら云われました。
「それは、申し訳ありません。」と答えましたが、わたしの日課が何か変わるわけではありません。第一、そう云われて考えてみたけれど、すでに今何の曲を吹いていたかも思い出せないのです。

電車に乗っていたり、待合室で待っていたりしているときに、となりの人たちの会話が勝手に耳に入ってきて、聴きたくもないのに聴き入ってしまうことは良くあります。「・・・ほら、あのドラマに出てきた、イケメンの、何て云う名前だったかなあ、ほら・・・」という会話を聴きながら、「○○○じゃろぉ!」と云いたくなる、モヤモヤとした気持ち(いつもなかなか名前が出てこないボケおやじのわたしが、そういうときにだけはすぐに浮かんでくるから不思議)。あるいは、「おいおい、全然間違ってるよ、それ!」という内容でその場が収められそうになってイライラする感じ。・・・わたしの口笛を聴いていた彼女の場合も同じシチュエーションなのでしょうから、一ヶ所だけ音程を間違えたりしたら、めちゃくちゃ気になるでしょうね♪

「先生、今日は機嫌がいいですね」と云われるけれど、本当は口笛を吹きながら歩いているときはあまり気分の良いときではありません。何か考え事をしているときだとか、憂鬱な会議に向かうときだとか、眠いときだとか・・・わたしには、無意識にでてくる貧乏揺すりみたいなものです。

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サラリーマン川柳

先日、人間ドック健診情報管理指導士ブラッシュアップ研修会に行きました。とても楽しい研修会でしたが、そのテキストの中にあったサラリーマン川柳(第一生命のコンクール作品の抜粋)がなかなかわたしのツボに嵌ったので、そのままご紹介します。

みんな肥満を気にしている

痩せようと 願うだけでは 痩せられない

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1. 脳トレを やるなら先に 脂肪トレ
2. たまったなぁ お金じゃなくて 体脂肪
3. リバウンド 痩せる前から 気に懸ける
4. 俺だって 診断結果は チョイ悪だ
5. 妻タンゴ 息子はスノボ 俺メタボ
6. なつかしや 妻のエクボが いまメタボ
7. 飲み仲間 ついた名前が メタボの会
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がんばれば 必ず脂肪は 離れてく

減量が だめでもめざせ アクティブメタボ

先日5月には今年のベスト10<第23回サラリーマン川柳ベスト10>も発表されました。さすがにこっちを眺めていると、もっともっと唸る作品がたくさんありました。

ねづっちの「整いました!」もそうですが、こういう表現がさらさらっと浮かんでくる、柔らかい頭がわたしにもあるといいなあ。

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理屈で食う

「私も本を読んで、朝を食べないようにしてみたのですが、いつまで頑張ってもひもじい感じが取れないんです。友人も一緒に始めたのだけれど、同じように辛いと云います。何かやり方が悪いのでしょうか?」

先日ある講演をしたあとにひとりの女性からそんな相談を受けました。「朝食を摂らなくなってわかったこと」「夕食を半分にしてみてわかったこと」という内容の話をしたら、健康のために食事はどうあるべきか?という質問も受けました。

<食欲>は人間にとって基本になる欲求です。わたしは、そんな基本欲求に理屈を付けることが好きではありません。「~すべきだ」、「~するのが健康に良い」、「~は食べない方が良い/食べた方が良い」・・・そんな<理屈>でものを食べている限り、食べたものも食べるという行為自体も、どちらも自分のためにならないと思っています。

もっと自分の感覚に素直になれる訓練をしていただきたいのです。「朝ごはんを食べる」べきとかべきでないとか、そんな細かいことにこだわる必要はないと思うのです。朝になって、腹が減ってなければ食べなければよい。ちょっと腹が減っていれば少し食べればよい(たぶん少し食べるだけでそれなりに腹は満たされます)。そんな軽い気持ちで<食欲>と付き合えばいいのではないでしょうか。

なお、冒頭の女性と話してましたら、「1週間も頑張ったのに・・・」と云われました。大変恐縮ですが、1週間は短かすぎだと思いますよ。頑張るんだったらせめて1ヶ月はやってみないと。1週間は何をするにも一番きついとき・・・禁煙もそうですものね。

ちなみに、7月6日付けの夕刊フジの記事に進行を抑えるには朝フルーツがカギ 『朝食と老化』>というのがありました。
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朝食を摂らないと老化が進む。秒単位で進む老化を抑えるには、食べ物に含まれる抗酸化物質を摂ることが大切。朝を抜くと半日分老化するのでちゃんと朝飯を摂るべきだ。脳のエネルギーとして朝はブドウ糖を補わなければならない。疲労を回復させるための夕食の摂り方のコツは・・・。
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こんな理屈に右往左往しながらものを食べるのって、疲れませんかしら?

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ながらウンチ

学生時代、先輩に本を持ってトイレに入る人がいました。トイレで読むのが一番落ち着くというのです。

わたしにはどうしてもそのマネができません。読むことに一生懸命になるとウンチをする行為自体を忘れてしまうのです。当時は和式トイレだったから、しゃがむ分だけ腹圧がかかってまだ良いですが、今どきのように洋式トイレが普通になると、もういけません。座っているだけではウンチは出ません。踏ん張らないと出ません。でも本を読んでいると意識がそっちに飛んでしまうので踏ん張ることを忘れてしまいますし、踏ん張っているときには小説の文字を頭に運ぶ作業を放棄するみたいです、わたしの頭は。

携帯メールも同様です。朝のトイレの間に必要なメールを打とうと思って持って入ることが時々ありますが、結局一文字も打てずに出てくるのが常です。

トイレで本や新聞を読む人は世間に少なくないと思うのですが、そんな世間の皆さんは、スムーズに排便ができているのでしょうか? ・・・不思議だ。

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ピンポイントの運命

日本中を襲った今回の大雨は各地に大きな被害をもたらしました。

こういう時に、たまたま通りかかって鉄砲水や土砂崩れに遭ってしまう人と、逆にいつも通るのにたまたまこの日だけ用事があって難を逃れる人とが居ます。以前にも書いたことがありますが、基本的にこれは「前者の運が悪く、後者の運が良い」のではなく、起きるべくして起きる宿命的に選び抜かれた人なのだと思うことにしています。前者はこの世の卒業者であり、後者は今世の修行が残っているひと・・・別に宗教家ではありませんが、わたしはこの考え方に共感しているもののひとりです。

以前、救急病棟で働いていたときに、忘れられないひとりの男性患者さんがおりました。急性心筋梗塞でERに担ぎ込まれる直前に心停止・呼吸停止になった彼は、すぐさま緊急カテーテル治療を受けてこの世に生還してきました。心筋梗塞のリハビリも順調に進み、退院の日を迎えました。家族が会計手続きをするために部屋を離れ、個室にひとりで待っているとき、今まで一度も起きなかった突然の不整脈発作で心停止を起し、彼は意識を失って倒れました。・・・個室で、周りにだれもいなかったにも関わらず彼が生き返ったのにはわけがあります。たまたま倒れた時に足首より先が部屋のドアから廊下側にほんのちょっとだけ出たのです。そして、ふだんほとんど誰も通らないその廊下をたまたまた隣の部屋に行く予定だったナースが通りかかったのです。「あれ?あの部屋は今日退院予定の○○さんの部屋。あれ、あの脚は何!?」・・・そんなピンポイントの「たまたま」がいくつも重ならない限り、「九死に一生」は起こりえません。それは単なる「たまたま」であるはずがない、と思っても不思議ではありますまい。

もう70歳を有に超えたこの老人もまた、まだまだ生かされる必要があったのでしょう。

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音楽とうんこ

ミュージシャンの谷村新司さんがテレビのトーク番組で
「わたしは他人の音楽は原則的にほとんど聴きません。聴いてしまうと自分で曲を作る時にどこかでその影響を受けてしまうと思うからです。その代わり、音楽以外の情報をできるだけ多方面から吸収するようにしています。他からたくさんの栄養を補給して出てくる音楽は、いわばうんこみたいなもんです。他人の音楽を聴くのはうんこを食べるようなものなんです。」と云っていた、という話を、先日妻がしていました。

「わたしもそれがとても良く分かるのよね。」・・・芸術家でありクリエイターである彼女は自分でいろいろな作品を作り上げてきました。そんな彼女もまた、同じ世界の作品はできるだけ見ないようにしていたと云います。「その世界の第一人者の作品や展覧会の入選作品などを見てしまうと、どうしてもどこかにその影響が出てしまうから怖いの」・・・彼女もまた同じことを云いました。

わたしは、掃除好きですが基本的にクリエイターではありません。そんなわたしでも谷村さんや妻の云っていることは良く分かります。ただ、わたしは見ます。聴きます。参考にします。なぜなら、わたしは「陳腐なモノ」は作りたくない!という想いが強いので、世間にない発想は何かを考える参考として見るようにしています。有名な作家の作品も世に出てしまえば<陳腐の極み>・・・そんなものを作らない!そんなものから一番対極にある発想は何か?と考えることから創作が始まる、というのがわたしのスタンスです。

わたしは他人のうんこを食べながら如何に違う色の自分のうんこをするか考えるのが好きです。

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要再検

健診の結果報告書をきちんと読んだことはありますか?

健診の結果の判定は、ほぼどの健診機関でも同じで、「異常なし」「軽度異常」「経過観察」「要再検」「要精査」「要治療」「治療継続」に分けられます。ふつうは「要精査」と「要治療」には医療機関宛の紹介状(診療情報提供書)が同封されることになりますが、「要再検」にはそれが付きません。付かないのに「1~3ヵ月後にはどこかの医療機関で再検査をしなさい」と云っています。そんな健診界の常識が、どうも皆さんにうまく伝わっていないように思います。

「『再検してください』とは書いてあるけど、どこでどうしたらいいか指示されていないし、紹介状をくれるわけでもないので、病院に行きようがない。」「手紙が付いていないのだからそんなに悪くないのだろう。そんなに気にしていない。」・・・受診者の方からそんな意見をよく聞きます。「要再検」というのは、<今すぐ精密検査や治療をする必要はないけれど半年や1年後ではもしかしたら手遅れになるかもしれない>もの、あるいは<これからまず運動や食事に注意して生活の改善をしてみてそれでデータの改善が得られるかどうか3ヵ月後に確認してもらいたい(それで改善がなかったら薬の治療を始めてほしい)>ものなどが多く、どうしてもこの中間的な振り分けが必要になるのです。もっとも、健診施設側としても、どっちつかずの中途半端な結果に対して、責任逃れ的な逃げ道に使っている部分も否定できません。どうせ「3ヶ月後に再検」と判定しながらも「来年の職員健診まではこのままだろう」と確信犯的に判定しているところが正直あります。

このような玉虫色の部分を払拭できるように、うちの施設では「要再検」の一部を「要精査(3ヵ月後)」として紹介状を発行するようにし始めました。

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平均余命

世間で良く使われる「平均寿命」と「平均余命」の違いをご存知でしょうか?

以前にここで偉そうに書いた内容が、ちょっと間違っていたことに最近やっと気付きました。今の年齢で、今の社会水準や医療水準が同じと考えたときにあと何年生きれるか、というのが「平均余命」です。ですから、今0歳の子の平均余命が「平均寿命」です。

そんな平均余命を生み出す生命表を眺めていると、すぐに気付くことがあります。各年齢の平均余命を年齢に加えると、ことごとくが平均寿命(0歳の平均余命)に比べて長生きになるのです。たとえば、平成18年の生命表を見ると、平均寿命79歳に対して、35歳の男性の平均余命は45.02歳ですから80歳以上生きる計算になります。今80歳の人は88歳超、今90歳の人は94歳超です。つまり、若くなればなるほどに寿命(余命)は短くなる、ということを純粋に示しているといえましょう。

まとめると、平均寿命は平均余命とは別物であり、世界で一番長寿だといわれている日本人の平均寿命は、おそらくこれから徐々に短くなるのだろうと推測できます。もちろん他の国の国民の寿命も短くなっていくのかもしれませんけれど。ただ、この数字を眺めていると、その低下の程度が思ったほどではないような気もします。「若くなればなるほど、寿命は著しく低下してくるだろう」というのは20年近く前から云われてきました。確かに短くなってはいますが、当時脅されたほどのことではないんじゃないか?なんて ・・・それはやはり甘い考え方なのでしょうか。

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イラッとくる。

「ねえねえ、今日職場でこんなことがあったんだよ~!」「(テレビを見ながら)そんなことありえないわ、ねえ~!」

例えばこのブログを書いていたり持ち帰った原稿を考えているときに、目の前で妻がそんなトーンで話しかけてきます。「ちょっと黙っててくんないか?頭が働かないから!第一、ボクはテレビなんか観てないんだし、本当はテレビも切りたいくらいなんだ・・・。」と云いたいところを、ぐっとガマンして黙ってキーを叩きます。そんなこと口にしようものなら、ヘソを曲げて自室に籠もってしまうのでその後が何かと気まずくなります。それでも、さらにその状態が続いてしまうと、さすがに聞き流すのにも限界がやってきて、自分の作業を諦めるしかありません。

昼間ほとんど誰とも話してないのだろうから、申し訳ないと思っています。そして、良く考えたら、10年前とほとんど変わっていない我が家の光景なのです。でも、当時のわたしの対応は今と全く違っていたように思います。頭をフル回転させて文章を書きながら、妻の云うことにきちんと呼応し、さらにテレビの内容にも突っ込んでいる・・・まるで聖徳太子のようなことを普通にこなせていた気がします。ひとつのことしかできなくなったのは、これは絶対的に歳のせいなのでしょうかしら~。

先日、こんな話を直接妻にしたら、「・・・信じられん!」と怒られました(笑)。

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恥ずかしかったこと

ふっとそんなことを思い出しました。うれしかったことよりも恥ずかしかったことの方が妙に鮮明に覚えているモノで、何かのきっかけでどっかの記憶の引き出しの隅の方から顔を出します。かといってそれは、たとえば恋愛だとか公の場での失態だとかいう、人生に大きな影響を与えた類の経験でもありません。

たとえば、小学校のころ・・・高山先生が担任だったから2年生のときかしら。帰りのホームルーム前の喧噪の中で、わたしは一人遊びをしていました。両耳を塞いでヘッドホーンのつもり。戦闘機のパイロットのわたしは「こちらは○○、応答せよ、応答せよ。」・・・徐々にその世界に入り込みながら小さな声で呟き続けました。
「応答は後にしましょうか。」・・・そんな声に気付いて目を開けると(いつから目を閉じていたのだろう)、教壇から高山先生がにっこり笑いながらこっちを見ていました。教室中が一気に笑い声に包まれました。いつの間にか静かになった教室にわたしの小さな呟きだけが大きく響いていたのでした。

大学生のときにも、下宿の四畳半の小さな部屋で、買ったばかりのヘッドホンでガンガンに音楽を聴いていてやらかしました。一緒に大声で歌っていたら(たぶんあれは、さだまさし)、ドアの向こうから大家さんの声。
「うるさいよ~!○○さん!・・・聞こえんのかな、酔っぱらってるんだろうか、もう・・・」
もちろんわたしは聞こえません。すっかり気分はさだまさし。しばらくして部屋を訪ねてきた隣の部屋の先輩から経緯を聞きました。大家さんに会う時のバツの悪かったこと。

それから研修医時代の入局歓迎会。教授の真ん前で「酔ってませんよ~」とか云いながら突然吐いたこと。でもこれは周りが騒ぐほど自分のココロを凹ませませんでした。何故なら、酔っぱらっていたから。もともと上司に対して気を遣わない性格(だから出世しなかった)ではありますが、酔っていたときのことなんかいちいち覚えておられましょうか!一応表向きは恐縮した顔で翌日お詫びをしに行きましたけど、小学校や大学のときの恥ずかしさに比べたら、どうってことなかった。

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糖尿病の話題

先日配信された「日経メディカルオンライン」の第70回米国糖尿病学会の話題の中から、目に止まった2題を紹介します。

●低炭水化物食に男性の2型糖尿病リスクを高める可能性
<アメリカ・ハーバード大学Lawrence De Koningら>

糖尿病や心臓疾患のない男性41212人について1986年からアンケートと追跡調査をした結果、「動物性たんぱく質と脂質が多い低炭水化物食、特に大量の赤身肉や加工肉が含まれる食事は、2型糖尿病リスクを増加させる可能性があり、一方、植物性たんぱく質と脂質が多い低炭水化物食は、2型糖尿病リスクに関連しない」との結論です。

結局良く読んでみると、低炭水化物食の問題ではなく、「代償性に増やされたたんぱく質を動物性ではなく植物性で摂った方が良い」という結論のように思えます。・・・わたしには、糖尿病であるにもかかわらず、低炭水化物だからたんぱく質と脂肪を増やさなければならない、という発想そのものがおかしいと思えるのですが。

●2型糖尿病では塩分摂取が少ないほど死亡率が高い
<オーストラリア・メルボルン大学Elif Ekinciら>

多量の食塩摂取は高血圧リスクを高めるが死亡率を高めるとは限らない。2000年から10年近く追跡調査した638人を見てみると、175人が死亡し、うち75人が心血管死だったそうです。これを多変解析したところ、尿中ナトリウム排泄量が多いほど総死亡率を減少させるという結果を得たのです。2型糖尿病に関する限り、食塩摂取量は総死亡率や心血管死亡率と明確な負の相関があり、「すべての糖尿病患者に対して一律に減塩を促すのは避けるべきではないか」と主張しています。

結果は結果として受け入れますが、何か釈然としません。もっとも、平均食塩摂取量がはるかに多い日本人にも、この結果がそのまま通用するものなのかどうか・・・?

たまたま選んだこの2題。なぜか発表者はいずれもきれいなスキンヘッドの先生でした。国も施設も違う2人でしたので、今糖尿病学会ではスキンヘッドが旬?と思ってしまいました。

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ARB発がんリスク問題の波紋

高血圧治療薬として今一番もてはやされているアンジオテンシンII受容体拮抗薬(ARB)について、これを使うと発がんリスクが上昇する、というメタアナライシス(同じ目的の論文を複数解析して結論を導く方法)がアメリカで報告されました(Lancet Oncology 2010.6.14オンライン版)。

ARBを服用している患者さんは、新規にがんを発症するリスクが有意に高まり(ARB投与群7.2% vs 対照群6.0%)、特に新規の肺がんが発症するリスクは25%も上昇したというのです。「乳がんや前立腺がんには有意なリスク上昇がみられなかった」という項目より、「肺がんが増加した」ということばの方にウエイトが置かれているのはちょっと気になるところです。理論的な意味づけがはっきりしておらず、たまたまの結果の可能性がある、という反論も多々出ているようです。

その因果関係の真偽のほどが何であれ、一番懸念されることは、こんな報告が発表されると、ARB服用中の高血圧患者さんがあわてて服用を自己中止したり、異常に不安がったりする危険性があることです。それがクスリの副作用でも含有物の発がん性物質のせいでもないのに、たまたま飲んでいた薬ががんのリスクを少し高めるからといって高血圧の治療自体を放棄することは、「がんの方が怖い病気」と思っているということに他ならず、自分の病気(高血圧)を甘く見過ぎだと思います。

乳がん患者さんの中でARBを服用していた患者さんの方が乳がん再発率が低下したという報告もアメリカから発表されました。まだ何の因果関係もはっきりしていないのに、「乳がんの既往がある女性の高血圧症にはARBを用いるのが良い選択かもしれない」というコメントが付いてましたが、これもまたちょっと本末転倒な気がします。

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先に片付ける?

わたしの行きつけの床屋さんでは、一通り髪を切り終わったところで、洗髪や顔剃りを始める前に、必ず床に落ちた髪を箒で丹念に掃いてきれいにします。その間、客は放ったらかしです。先代の店主(今の店主の父ちゃん)のときからそうでしたから、この床屋さんの決め事(きっと先代の性格だと思います。息子はそれを教育されたと見ました)でしょう。今まで経験してきた床屋では、すべてが終わって客を送り出して次の客を呼ぶ前に掃くか、あるいはひげ剃り前にタオルを顔にかぶせている最中にそっと簡単に掃いていましたので、初めてここに来たときにはとても新鮮に映りました。

たしかに、ハサミの作業が終わった時点で床をきれいにしておくと、自分自身も客も靴裏に髪の毛が張り付きませんし、次のお客さんも良いタイミングで気持ちよく呼ぶことができます。とても理にかなっていると感心させられます。でも、面倒くさい人には本当に面倒くさいと感じるだろうなとも想像します。

わたしは、例えば旅行から帰ってきたら、旅行かばんに詰め込んだすべてのものを元の位置に戻したり汚れ物を洗濯籠に入れたりしてかばんを元の状態にするまで、一気に済ませないと座りません。疲れて帰ってきているので、後になると面倒くさくなってしまうと思うのです。正反対の性格の妻は、それをちょっとあきれた目で見ています。夏休みの宿題を先に済ませるか後でするかの考え方の違いですからそれはそれでしょうがないと思っていますが、くだんの床屋の先代の店主のことを「何事もきちんとしている真面目な人。でも融通のきかない頑固者」と思っているわたしは、きっとわたしをみる世間の目も全く同じなんだろうなと諦めることにしました。

でも、絶対この方が自分も周りも清清しいと思います。

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