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2010年9月

ダイエットの誤算

うちの運動施設で生活改善プログラムに取り組んでいる人たちの中に、ちょっと気になる男性が2人居ます。若い運動指導士さんが悩んで相談にきました。とにかく短時間でガッツリ痩せようとしている様子なのです。「とりあえず最初に頑張ってガンと減らして、あとはそれをキープするのが一番効率が良い」と思い込んでいる彼らは、一日の摂取カロリーを極端に抑えた上で毎日ガンガン運動しています。

「いいんじゃないの、本人がそうしたがっているんだから。」・・・似たようなことをしてきたわたしは、そう答えました。たぶん周りが何を云っても彼らは聞かないでしょう。特に今は目に見えて減量できている最中なのですから。栄養バランスが壊れないように助言するようにだけ伝えました。たぶん彼らはリバウンドします。まあ、これまでに10kg前後のダイエットとリバウンドを繰り返してきているそうですから、さもありなんとすぐ納得できましたが、これだけ経験してきてもその考え方を変えないというのは、毎回マゾヒストのような自分に快感を感じているのでしょうか?

彼らの誤算はただひとつ、今10kg減量できたとして、それをキープするためには今の生活パターンをずっと続けなければならないということです。それができなければリバウンドする。「ヨーヨーダイエット」として以前紹介しました。極めて簡単な理屈です。今減量できているのはインアウトのバランスが負に転じているからで、それが一定線に安定したらそこが平衡点です。そこでキープするためにはそのバランスをキープさせる以外に方法はありません。「一旦ガッツリ痩せてしまえば生活を少し緩めても維持できる」と考えること自体に無理があることくらい簡単に分かりそうなものですが・・・。

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いらだち(後)

最近、小中学生のお母さん、お父さんが我が子に対してすぐに切れてしまう話を聞きます。「甘やかしたらつけあがるから」「それが躾だから」と云い、自分の思う通りに動かない我が子に苛立ち、虐待を加えたり家から閉め出したり食事を与えなかったり・・・。

「まるでそれと同じじゃないか?」・・・先日、とうとう1時間以上夜中の庭で老犬と闘うことになったとき、そんな天の声が聞こえてきました。イヌであれ子どもであれ、自分の決めたルールに従わない姿に勝手に腹を立て、「負けたくない」という感情が前に立つ時、少なくともその刹那には相手に対する愛情は存在しません。<所有物感覚>が知らない間に自分を支配していることに気付かねばなりません。

ただ、そんな夜中の闘いの中で、もうひとつ強く感じたことは、「孤独感」。すでに世間は静寂となり、あきれた家人もすっかり夢の中。自分だけが、この云うことを聞かないわがまま娘と対峙し、お互いに退くに退けないにらみ合いをしている。「どうして自分だけがこんな苦労をしなければならないの?」と思う。イヌと人間を一緒にして申し訳ないけれど、きっと虐待を繰り返すお母さんの心境も同じようなものなのだろうと思います。結局は、自分を認めてもらいたい・・・当人がまだまだ子どもなのかもしれません。

そう考えると妙に我が老犬が愛おしくなり、目的を済ませていない彼女を呼び入れました。オドオドした動きでわたしの足元をすり抜けていった彼女に対して、ため息をつく私のココロはまだまだ落ち着くことはできません。頑固オヤジです。

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いらだち(前)

「ベル、おしっこに行くよ」

我が家の老犬を夜中に庭に連れ出します。寝る前におしっこをさせておかないと彼女は必ずおねしょをするのです。覚束(おぼつか)ない足取りで階段から降りてきた彼女は何の躊躇もなく庭に出て、辺りをグルグルと回り始め、気に入った場所を定めておもむろにおしっこを始めます。ところが決していつもそうスムーズにいくわけではありません。何が気に入らないのか、何度もグルグル回った挙げ句にちょっと屈んだフリをして、何もしないで澄まし顔で家の中に入ろうとするのです。「まだおしっこ終わってないでしょ!」と強く叱って追い返しますが、またひとしきり庭をうろうろしてから顔色を伺って帰ってきます。「誤魔化してもダメだよ!」・・・入口前に仁王立ちになったわたしは腕を組みながら彼女とにらめっこです。出ないはずはないのです。散歩に連れ出したら家を出た瞬間に大量のおしっこをするのですから・・・。

夜中ににらめっこを続けるうちに、自分の中のいらだち度が急激に増すのがわかります。同じ事を繰り返し、闇の中で何をするでもなくボーっとしている姿を見ているうちに「早よせんか!」と口調まで厳しくなり「なにしよんのか!いい加減にしろよ!」と夜中であることを忘れて大声を張り上げたり、叩いたり・・・。「その気がないのならあきらめて中に入ったら?」とか「庭じゃなくて表に連れ出したらすぐするんじゃない?」という妻の声に対して「そんなことをしたらつけあがるから絶対おしっこするまで入れない!」と頑なに拒んで庭で老犬とにらめっこする自分は、何と了見の狭い男だこと。

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健康川柳

職場で健康川柳を募集しました。一応、このイベントの実行委員長のわたしも、〆切り最終日に遅れ馳せながらいくつか投稿してみました。

●腹ゆすり トレッドミルで 床ゆすり。

●フィットネス 通いつめても太っとらす!

●同窓会 話題は孫と病気自慢。

●もう要らぬ お腹の脂肪と 歳の数。

●たこ(高)ついたぁ!糖尿なのに食べ放題。

どれもなかなか良い出来だと自画自賛しながら投稿しましたが、投稿されている他の川柳と並べてみたら、あまり目立ちません。まだまだ修行が足りないな、と思いました。しかも、わたしの投稿句は徐々に川柳というよりも肥後狂句の体(てい)。来年はもうちょっとセンスのあるものを考えよう!

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あなたもですよ!

わたしの知人のだんなさんが急に足のふらつきを覚えたため、だんなさんをすぐさまうちの病院の救急外来に連れてきたのだそうです。幸い、症状は病院に到着したときにはほぼ改善しており、診察に問題はなく、CTやMRIなどの検査でも古い脳梗塞所見以外には大きな異常は見当たらなかったようです。

そのときに、担当した脳外科医(脳神経内科医かもしれません)は、「今日は何も問題はなかったから良かったものの、今のままでは脳梗塞か脳出血で倒れますよ。死にたくなかったら、体重を10kg減量して、タバコを止めてお酒もしっかり減らさないといけません!」と厳しく忠告したのだそうです。その先生の名前は聞けませんでしたが、超忙しい救急外来で、初対面の一見(いちげん)の患者さんに対してそこまで厳しい忠告をしてくれる先生はそうは居ません。「良い先生が担当でよかったですね」と云いましたら、彼女は興奮したようにすかさずこう云いました。

「わたしは『ほら、わたしがいつも云ってるでしょ!』と横からだんなに云ってやったのよ。そしたらその先生がわたしに向かって『奥さん、あなたもですよ!あなたもだんなさんと一緒に10kg痩せなさい』って云うの。わたしまで叱られちゃったわよ!」

「死にたくなかったら頑張りなさい」と、怖い顔して厳しい話をしてくれた先生。そしてそれをきっかけにタバコを止めただんなさん・・・ちょっといい話にちょっと感動しました。

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一番と1番

先日、「今、1番したいことは・・・」という文字をネットのニュース記事で見かけて、ちょっと気になりました。文字にするなら、「今、一番したいこと・・・」じゃないんだろうか、と。

「一番したいこと」と「第1番目にしたいこと」とは、きっと意味が違うし内容も違う・・・日本語表記はとても難しいのだけれど、「一番したいこと」の「一番」=「最も」なのだから、1番、2番、3番・・・の「1番」とごちゃ混ぜにしちゃ、元も子もないんじゃないんだろうか?それとも、現代社会ではどっちでも良いようになったのだろうか?わたしが細かいことにこだわりすぎるのだろうか?といろんなことを考えてしまいました。

ただ、実社会ではこの使い分けは本当はとてつもなく難しい気がします。どういう規則に従っているのかご存知でしょうか?こういうことがさりげなく分別できる人って、日本人としてちょっとあこがれです。少なくとも「一生に一度」と「気温が1度下がった」の使い分けくらいはわたしにもわかります・・・あれ、これも考えれば考えるほどに何だかあやふや・・・ほんとうに違いはあるんだろうか。

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印象

あるひとりの人物に対して、最初に受けた<印象>を拭い去るのはなかなか至難の業です。

患者さんや受診者の方から名指しでクレームを受けた人について、その後お褒めのことばがいくつ続いても、その人は「問題行動を起こした人」というイメージが消えません。逆に、知り合いから「あの人はすばらしいね」という評価をもらった人がその後に何度か苦情の投書を受けたとしても、意外に悪い印象は残らないものです。そんなことを考えると、ヒトが他人に対して抱く<印象>というものは、ほとんど最初で決まるものなのだと思わずにはおれません。

わたし自身はどうかと考えたとき、きっと病院幹部には<頼りなく、時々問題行動を起こす人間>というイメージが最初にインプットされてあまり良い印象を持たれていない気がして、暗澹(あんたん)たる気持ちになります。もっとも、クレームというものはほとんどすべてが上の方まで報告されるものであるのに対して、褒めことばは現場レベルで終わるのが常です。そう考えると、よほどのことがない限り自分に有利な内容は広がりにくいと考えておいた方が良さそうです。

だからこそ、自分が上に立つ立場である場合は、そういう<印象>による人間評価をしないように意識したいものです。なかなか難しいことではありますけれど・・・。

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モチベーション

わたしたちの施設には生活習慣病改善のためのプログラムがあります。それに参加している方は、6ヵ月後のデータ改善を目指して運動や食事習慣の見直しをすることになります。もちろん真面目に取り組めば当然のことのように何らかのデータ改善は得られますが、それを維持させるためには常に自分なりの高いモチベーションが必要です。

先日、あるブライダル関連の事業を経営している女性と最終チェックの結果を説明しながらお話をしました。入会はしたものの、仕事の忙しさのためにフィットネスジムには数えるほどしか来館できませんでしたし、出張だらけで外食続きの生活も変えることができませんでした。でも、それでもデータはさほど悪化はしませんでした。おそらく生活に対する考え方に何らかの意識の違いが出来た成果なのでしょう。ただ、「これからは自分の力で頑張りたい」という彼女にわたしはひと言だけ忠告しました。「たぶん、かなり高いモチベーションを維持させないと難しいでしょう。それは、『健康のため』などという陳腐なものではなく、『半年後までに2号小さなドレスを着なければならない』みたいな純粋な強い願望を持つことが一番大切です」と。そのとき、彼女が自分の口から「そうですね。わたしはずっと女を捨てて生きてきました。これから、もう一度女であることを意識して女を取り戻せと云うことですね」と答えました。いいことばだな、と思いました。そうです。他人をキレイにさせる前に自分がキレイになることの方が大切です。世の妙齢の女性の皆さま、社会に出ている方も家庭に入っている方も、もっと自分を取り戻すことを考えてください。それがモチベーションというものです。

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人生をセーブする

先日、胃がんの内視鏡治療を受けた友人は、退院するなり忙しく日本中を飛び回っています。今は週末にある熊本での公演のためにずっとホテル住まいを続けているようです。「何やってるんかいな。『そんな生活を続けてちゃいかんぞ!もう一度人生を見直してごらん!』という神様の思し召しで胃がんになったんとちゃうんかいな!」・・・彼の姿を彼のブログでこっそり眺めながら、ついため息をついてしまいます。

でも、遠い昔、ある先輩が云ったことをふと思い出しました。今は大分で高校教師をしているIさんが、東京の放送局で働いていたときのことです。毎日まともな食事も取らずに頑張っていた彼をみて、後輩の多くが「カラダを壊したら元も子もないから、自分をもっと大事にしてください!」と忠告しました。それに対してIさんは、「健康でいるために人生をセーブして、したいことを自粛するなんてことは無意味だ」と云うのです。まだ大学生で、特段何か目標を持っているわけでもなかったわたしには、「社会人とは、そんなものなんかなあ」と感心した記憶があります。

芝居をするために上京し、演出の仕事と執筆の仕事に明け暮れて、最近新たに劇団を立ち上げて再出発し、常にクリエイティブな人生を送っているくだんの友人もまた、自分の健康を気遣って人生をセーブできる立場にはありません。「勘弁してくれよ」と云いながらも、自由にやりたいことが出来る今の自分のカラダに感謝し、出来る限りの力で走り続けているのでしょうから、それを止めさせることに意味はないのかもしれません。そんな彼も、病気を機に禁煙をはじめ(ついネオシーダーに手を出してしまうと懺悔はしていますが)、時間をみつけてジョギングを心がけている様子です。

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死とは闘わない

地元の新聞に連載されている「お~い がんよ」というがん医療の記事に、東京に住む木下義高さんと云う方のブログ「膵臓がんサバイバーへの挑戦」の紹介がありましたので、すぐに覗いてみました。たしかに書かれている内容が厳しくかつ優しく、人生を達観するでもなく悲観するでもない生き方が、ちょっと拾い読みしただけでも伝わってきました。

「がんとは闘うが、死とは闘わない」という方針を貫き、「死と闘って勝った人間は一人としていません。負けると分かっている相手と闘おうとするから悩み、迷い、混乱が生じます」というコメントは確信に満ちています。がんや病気に関するカテゴリー記事は素直に勉強になりますが、わたしは「下手なチェロ好き」「文化・芸術」「趣味」などの記事の方がつい読み耽ってしまいました。この人生の懐の深さが告知3年を超えてなお生き生きとした人生を送っている所以(ゆえん)なのかもしれません。

「がんは、自分の全人格が問われますね。命って何か、人って何か、自分なりにケリをつけるしかないでしょ。僕は、頑張らない、欲張らない、生かされるままに生きることにしています」

「がんと闘うために捧げた人生なんてばかばかしいじゃないですか。そんなのを美談とするようなドラマはつまらん、と思います。人生の目的って、生きることじゃないですよ。幸せを実感することなんですよ」

そんな発言が、妙に心地よく感じました。

なお、「私のオフィシャルWeb」からオンラインアルバムへ進むと、湯布院・阿蘇のきれいな写真があります。

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穴が埋まる

先日、メンタル失調の休職のあとに復職をしている若者の相談を受けました。仕事に戻っては居ますが、ちょっとしたことで(特に疲れが溜まると)昔のことが鮮明に思い出されて眠れなくなるのだと云います。ですからこれまでも何度か時間を作って話を聞きました。

今回は夕方から2時間近くゆっくりと話を聞く時間が取れました。今の心情と納得のできない内容の説明から始まって、昔の経緯になるに従って説明はどんどん細かくなっていきました。2時間のうちに何度も同じフレーズがでてきます。わたしは時々自分の意見は云いますが基本的にじっと彼の話を聞きました。これらの流れは程度の差こそあれほとんどいつもと同じです。ただ、今回は少しだけ違っていました。そのことに彼自身が気付きました。

「ずっと自分を苦しめていた理不尽さや不満の原因は『自分をこんなカラダにさせた上司の○○と△△』だと思っていました。だから彼らが何ら処罰もされずにのほほんとのさばっているのが納得行かず恨んでいました。でも今日先生に話していたら、自分の頭の中が少し整理されてきたような気がします。わたしの不満は、自分のせいでもないのに病気になりそのために休職を余儀なくされた期間の『失われた自分を返してもらっていない』ということに対してなのだということがわかってきたんです!」・・・自分をこんなカラダに追いやった連中のことは許せないけれど、でも彼らがどうなろうと本当はどうでもいい。ただ、失われた自分の数ヶ月間の穴埋めができていないこと、ここに誰も触れてくれないことへの不満が自分を苦しめているのだということに気付いたというのです。

彼の言葉はそれだけに留まりませんでした。昨年入院したことは自分を見つめる時間をもらったのでとても良かった。最近は自分をスタッフの中の1人として数に入れてもらっていることには感謝している。・・・初めて言葉の端々に肯定的な内容が出始めているのです。少しずつ自分の力で穴埋めを始めることができてきたことを物語っているのだと思います。実習生に指導する機会をもらい、「常に愛情を持って指導することが大切なのだ」という彼の表情がとても嬉々としていたのが印象的でした。

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「軽度異常」の功罪

健診では結果の判定に「軽度異常」ということばがあります。「異常なし」ではないけれど「経過観察」ほどではないレベルの結果に対して使われます。先日、「『軽度異常』はほとんど『異常なし』と同じなのだから説明しなくても良いのではないか?」というニュアンスの意見が出て、わたしは断固反対しました。「軽度異常」には、たとえば<基準値が47以下なのにそれが47.1だった>などという、ほとんどコンピューターの嫌がらせのような無意味な「軽度異常」もあれば、血圧138/88mmHgなどの<正常高値>判定としての「軽度異常」もあります。あるいは腹部エコーの「腎のう胞」や心電図の「洞性徐脈」など、異常の意味合いはまったくないけれど所見を書いたから「異常なし」にできない、という統計的な事情の「軽度異常」も含まれます。

わたしは結果説明の7割方を「軽度異常」の説明に費やします。「要精密検査」や「要治療」は病院受診させれば良いだけの話だから時間をかけるのはもったいない。むしろ「軽度血糖高値」にかくれた糖代謝異常や「軽度腎機能低下」の抱えている意味をきちんと理解してもらい、今から生活を変えることの重要性を理解してもらうために時間を費やすのが、健診医の最大の義務だと信じているからです。

「この『軽度異常』の『異常』ということばがおかしい。異常じゃないのだったらこのことばを消すべきだ!」と強く主張されたこともあります。健診結果は、試験の成績発表を聞くのと同じようなものですから、「異常なし」が「軽度異常」になるのは受診者本人にとっては不本意極まりないことのようです。

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定形文

職場で、部下から公文書や案内文の確認を依頼されることがよくあります。

「拝啓、ますますご健勝のこととお慶び申し上げます。」
紋切り型の決まり文句で始まったその簡易な<かがみ文>を読みながら、「相手はきちんと読みはしないよ、こんな文章」と内心思うわけです。以前誰かが書いたもののコピーだったり、文例集からそのまま引っぱってきたであろう定型文のわずかな隙間に、ちょろっとだけ今回の趣旨が忍び込んでいるだけの文章です。どの<かがみ文>も同じような文調と形態ですので、遠目ではほとんど区別が付かないそのワープロ文字の書類を並べてみたとき、これを同じようにデスクに並べて読む相手の心情を考えると、ちょっとうんざりします。

相手を不快にさせず、大きな間違いを起こさないように・・・どうせ事務的な文章で、相手だってそんな経緯を承知で読むのだから・・・そう思うのですが、でも、強調したい内容までもが文章の中に「さりげなく」織り込ませてあるこの文章、「だれも理解なんかせんぞ!」「そんなことになんか気付くもんか!」と吠えたくなるのは、歳のせいか?猛暑のせいか?睡眠不足のせいか?「もっと読みやすくてわかりやすい平易な文章にしてもいいんじゃないの?」と助言はしてみるものの、若い皆さんにとっては、そんな文章を考えることの方がはるかに難しくて面倒くさいのかもしれません。

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記憶

子どもの頃や学生の頃のできごとを事細かに覚えている友人が居ます。
「小学校4年生の○月○日に、クラスの△さんがこんなことをしでかした!」などというあまりにも細かすぎる記憶。「なんでそんなことを覚えているの?」と聞くと、彼はこともなげに「何か、覚えてるんだよね」と答えるのです。記憶の加算ではないか?と勘ぐりたくなりますが、状況証拠からして大筋に間違いはないだろうと思います。何しろ他に覚えている人が居ないから、確認できません(名指しされた△さんもきっと覚えていないでしょう)が。

一方、TVの高校生クイズでマニアックな問題をこともなげに解いていく彼らの記憶力もまたすさまじいと思います。授業中の先生の一言やテレビで観た何かの画面がそのまま頭に画像として残るらしい。でも彼らが、冒頭のような友人の記憶を持っているかというと、おそらくノーでしょう。彼らは無意識のうちに必要か必要でないかの選択をして、意図的に記憶を整理しながら仕舞い込むのだと思いますから、覚えておいてもメリットがなさそうな記憶は最初に切り捨てるような気がします。「記憶」は人間の持つとても素晴らしい機能のように思います。パソコンや写真の方が正確に記憶できるのかもしれませんが、人間の記憶にはそれ以上の魅力があるのです。それは「記憶」に限らず目にも耳にも云えることですね。

「・・・人間の記憶は、カメラで写真を撮るように正確なものではありません。記憶は事実ではないストーリーを作ることも行ないます。記憶の断片を引っ付けたり、他人に誘導尋問をされて本当は起こっていないことを起こったことと思い込んだり、希望を作ったりして記憶を想起したりもします。脳は自分が望む記憶を編集することも多いのです。つまり、記憶とは記録ではなく思い込みともいえるのではないのでしょうか。・・・」(記憶のメカニズム

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表情

健診の診察や結果説明で、毎日多くの方を診察室にお呼びします。名前を呼ばれて立ち上がるときから、各々の表情は千差万別です。大きな返事をして緊張気味の方、何も云わずに立ち上がる方、走るようにやってくる方、ゆっくりな足取りの方、眉間に皺を寄せて無表情な顔の方、対照的にニコニコして会釈される方・・・。名前をお呼びして明るく穏やかな表情で部屋に入ってこられる方をみるとホッとします。これからの作業(診察や説明)がスムーズに進みそうだからです。ブスッとした顔の方にはどうしても構えてしまいます。

苦虫を噛み潰したような顔つきの方は、それだけで損をしています。不満がある方や会社の重役でつい上から目線になってしまう人だけではなく、結果が不安な方やプライベートで心配事がある方、体調がすぐれない方、あるいは元々そんな顔だという人も居ます。でも、やっぱり表情は絶対明るい方が良い。明るい表情の方を見ていると、きっと健診結果も良いだろうなと感じます。それだけではありません。昨日、わたしは機械的に診察をしながら頭の中では全く違うことを考えていました。「あのバカ部長!勝手にごり押ししやがって!何様のつもりだ!許せん!後で抗議しに行ってやる!」 ・・・考えれば考えるほどムカムカしていました。そんなとき、とても穏やかで明るい表情の初老の男性が診察室に入ってきました。簡単な会話をしながら診察を続けているうちに、わたしは自分が不思議な気持ちになっていくのがわかりました。さっき自分が考えていたこと(=「バカ部長!」)なんて、何かどうでも良いことのように思えてきたのです。彼の和やかな表情が、わたしの荒んだココロを癒し始めたのだと思いました。

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膵のう胞

わたしの膵臓に小さなのう胞がみつかりました。今年の冬の職員健診では指摘されていませんが、春になって入った新人検査技師さんの練習台になってあげていたら、1時間近くこねくり回される途中で見つけてくれました。

本来、肝臓や腎臓にできたのう胞と違って、膵臓にのう胞が1つでも発見された場合は、専門医受診を勧めるのが健診の決まりです。肝臓や腎臓にできるのう胞のほとんどは良性で、「組織の老化現象だから『シミ』だと思ってください」と話していますが、膵臓の場合は、中に悪性腫瘍に発展するものが少なくないからです。真性だとか仮性だとか、漿液性だとか粘液性だとか、それはそれは何かとうるさいことになります。うちの義母も何年も前から膵のう胞症のために通院中で、大きくなった小さくなった、腫瘍マーカーが上がった下がったと一喜一憂しています。ですからわたしも消化器内科受診をすべきなのですが、5mmΦ程度の小さなのう胞なのでちょっと面倒くさくて、「エコーで3ヵ月後に再検査」と勝手に決めてしまいました。その3ヵ月後チェックを先週受けましたら、7mmΦでしたが、検査した器械が違うメーカー(解像力の差)だったからという理由でさらに「1ヵ月後再検査」ということにして逃げています。消化器内科を受診してもいいのですが、必要ならERCP(内視鏡的逆行性胆管膵管造影)検査を受けても良いのですが、ただただ「お酒をやめたら?」と妻に云われるのがイヤで逃げています。だから、この事実を妻は知りません。そこいらの我儘なオヤジと何ら変わりがありません。

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喫煙者受験できず

熊本の某私立大学の薬学部で、来年度から入試要綱に「非喫煙者」の条件をつけることが決まったというニュースが先日テレビに出ていました。

入学者は「非喫煙者」に 崇城大薬学部で実施へ(熊本日日新聞)
~学生の多くが将来、医療機関などで禁煙を指導する立場になることが考えられることから、喫煙者にならないようにすることが狙い。教職員の間からは「受験者数が減るのでは」と危ぐする声も出たが、最終的に2月の薬学部教授会で「健康にかかわる学問をする場として、喫煙しないのは当然という雰囲気をつくるのが第一」と全会一致で決めた。~

他の新聞に<決して受験資格としての義務ではなく、また入学後の非喫煙を宣言させるものではない>と但し書きしていたのが残念でしたが、それでもこういう大英断はとても面白いと思います。一般社会では、男女雇用機会均等法のおかげで、若い女子社員を1名募集するときにも「年齢性別は不問」と書かなければならない昨今、わたしが産業医をしている会社で「入社条件に『非喫煙者』とつけたらどうですか?」と云ったら、失笑されました。「国が認めている以上、合法だからムリでしょう」と、やんわりと否定されました。

そんな中で、私立大学だからだとはいえ、私たちが望んでいる思いを形にしてくれたことにエールを送ります。確かに現役受験者は未成年なんだから喫煙自体が非合法(そう考えると世間の大学生喫煙者諸君はその半数が犯罪者だよ!ちなみにわたしが吸い始めたのは22歳)で、浪人生を除けば至極当たり前の条件ですけど・・・。これからいろいろとバッシングを受けるのかしら?それだったら悲しい限り。

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JTの対策

10月1日からのたばこ税値上げに関連したニュースが連日取り上げられています。

「値上げしたらたばこをやめる?やめない?」のインタビュー、コンビニの駆け込み予約、禁煙商品の売れ行き良好、禁煙外来の患者数増加など、近年にない大幅値上げ(本当はもっと上げてほしいのですが)の波紋を取材して特集していました。たばこ屋のおばちゃんが「たばこ離れが進んだら開店休業にならないか心配」というのは良く分かります。売り上げの22%がたばこだという某コンビニも死活問題でちょっと同情しました。

ただ、最後に出てきたJTの話題が何か変な感じでした。「これに対して、JTも対策に抜かりありません。香りやデザインをもっと工夫して、『これ以上たばこ離れが進まないようにしたい』と、JTの担当者の方は云っています。」・・・JTにとっては<営業努力>なわけで、国が認めている事業である以上は、企業存続のために堂々と売り上げ増加を検討するというのは当たり前だと思います。でも、<たばこ離れをさせないための工夫>というところを、テレビニュースが当然の行為のように淡々と報道しているのが不思議です。その後のコメンテーターと司会者の会話・・・「わたしはたばこを吸わないので実感が湧きませんが、たばこ離れが進むとかえって税収減になりはしませんか?」「はい。わたしも吸いませんが、この施策が吉と出るか凶と出るかはやってみないとわかりませんね」・・・どこかの政治家が堂々と話していた内容です。金を集めるためにたばこ中毒患者を減らさないようにする施策にどんな矛盾があるかは十分承知の上で、あちこちに気を遣いながら報道しなければならないマスコミ社会ではこれが限界なのですかね。「わたしは吸いませんけど・・・」という無意味なフレーズは、「自分は関係ないんだよ」と主張しているのでしょうか。

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自信

若い先生が研修のために健診センターに配属になりました。何もかもを吸収したい!という意欲がみなぎっています。わたしが研修医だったころはもっといい加減だったなあ、とつい自己反省。

この機会に、健診医のための独自の研修カリキュラムが検討されており、心電図判定や生活習慣病指導はわたしの仕事になりそうです。でも、実はハタと困っています。自分に自信がないのです。心電図の判読自体、割といい加減です。自分の<読みグセ>があることを心得ています。他の施設なら「精査」かもしれない所見を「軽度異常」と判定したり、まったくその逆だったりすることは多々あります。それはわたしがこの施設に来て9年の間に自然にできた<経験則>なわけですが、その判定基準自体にはっきりとしたEBMがあるわけではありません。わたしにとって今や循環器学自体が<雑学>であり、昔第一線でやっていたカテーテル治療や不整脈治療の実際は医学雑誌を読んだ勝手な知識に過ぎません。

生活習慣病に関する知見はどうか?ここに偉そうな文章を書き並べていてこんなことを書くのも恐縮ですが、まったくもって医学雑誌の受け売りで、かといって具体的なデータをきちんと覚えているわけではありません(忘れてしまうからここに書いておくわけで)。循環器や健診の学会に参加してみると、周りが皆学研的で、わたしよりはるかに賢そうに見えます。毎日しっかり勉強しているんだろうな、医者としての頭がいつもフル稼働しているんだろうなとつくづく思います。そんなことを考えると、自分の医者としての自信がなくなる一方です。ハッタリ8割、開き直り1割、聞きかじり知識1割で誤魔化していることを、若い先生に簡単に見透かされそうでヒヤヒヤしています。

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運動中毒

約1ヶ月前から昼休みの運動を再開しました。

わたしが自施設のフィットネスセンターで運動を始めたのは、センターが出来たときでした。センターを開く前に大阪の某病院に見学に行ったとき、簡単な運動体験でヘトヘトになったことはとても屈辱的でしたが、だから始めたくなったわけではありません。「この歳になって忙しくて運動などしてないのだから当たり前だ」と嘯(うそぶ)いていました。もちろん、これから指導する立場になるから自分もやっておかなければ、などという殊勝な考えでもありません。始まりは「講演のネタ」でした。1ヶ月後の生活習慣病講話の話のネタ・・・「自分でやってみた」のデータを並べてみたかっただけです。だから1ヶ月限定の企画でした。始めて3日目から血圧が下がり始めました。晩酌にちょっと手を加えたら体重が直線的に減っていきました。この成果は想定の範囲を超えていました。「やれば減る」と確信して毎日通いました。昼休みと夕方に1時間ずつ、さらに帰って夕食後にイヌの散歩・・・マニアックでした。「毎日やらねば戻る」という考えは理論的に否定していましたが、やはりその強迫観念はどこかにありました。「先生、やせましたね!」・・・この一言は誰から云われても効果的でしたが、逆に自分の日常を厳しく制御する言葉にもなりました。

運動中毒か?と問われれば、「運動中毒です」と答えていましたが、大したことはしていません。時間も短時間で、アスリートとはかけ離れたオヤジ体形です。一時は夢見る体形に近付いたこともありましたが今は諦めました。でもやはり「運動中毒」だったと自負します。運動中毒とは、どんな内容であれ、いつも運動をしていなければ落ち着かない、運動できないと一気にカラダが悪化するのではないか?と不安になる。まさにこんな状態を云うのだろうと思います。糖尿病の運動療法をきっかけに歩こう会や走ろう会に入って日本中を動きまわっているひとがたくさんいますが、あれはまさしく「運動中毒」です。

ただ、今回はココロはかなり脆(もろ)く、言い訳してすぐにでも中断してしまいそうです。「昔は中毒のために自分を自制できないこともありましたが、今は克服しましたからもうそう簡単には中毒にならないで自制できると思います!」・・・まるで麻薬中毒から離脱できたひとと同じように自慢してもいいものなのかしら?

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ペース

インターネットの指示通りに電車を乗り継いだのに予定よりはるかに遅くなって、空港到着がギリギリになった!とブログでぼやいていた東京に住むわたしの友人がおります。空港で待ち合わせていた同僚をかなりヤキモキさせたようです。

その話を読みながら、たぶんわたしには一生ないことだな、と思いました。東京に住んでいたときから、ホームが混んでいるかもしれない、踏切事故があるかもしれない、トイレに行きたくなるかもしれないと、乗り継ぎ毎に5分程度の余裕を持たせて計画するわたしは、いつも予定の30分以上前に目的地に着きます。もともと1時間近く前に着くように考えた計画ですから、途方もなく早く着くことになります。その点うちの妻は予定時間を遅れることをあまり苦にしません。待ち合わせ時間に間に合えば良いわけですから。だから二人が待ち合わせをすると到着時間に大きなギャップが生まれます。でもそれはそれぞれのペース・・・そういうものだと考えるようになってからは待つことはあまり苦痛ではありません。

職場のいろいろな会合は、まず時間どおりに始まりません。下手をすると20分近く遅れることもあります。そうなると出席者も「どうせ始まらないから」ともう一仕事済ませて来るようになり、さらに開始が遅くなる始末。わたしはそれでも意地で時間どおりに行きます。ずっとわたしひとりのこともありますが、読みかけの本や内職仕事を持っていけば良いので最近はあまり苦にならなくなりました。

「先生と旅行するのは良いですけど、たぶん先生は付いて来れないと思いますよ、わたしのマイペースに!」・・・ある知人がそんなことを云ったと人伝に聞きました。大丈夫ですよ、Nさん。もう20年以上のつき合いです。あなたがそんな人だということは百も承知ですよ。

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どんより

「笑い転げるから一度読んでみなよ!」・・・そう云って、ある友人が紹介してくれたのが、「爆笑テストの珍回答500連発!」(別冊裏モノJAPAN)でした。

「『どんより』という語句を使い、適切な文章を作成せよ。」の問いに、うちの姪っ子も甥っ子も、どんよりとした空気だの雰囲気だの天気などとちゃんとそれらしく答えてくれたのでひと安心。本の中の福岡県の中学生は、「ぼくはカツ丼より、てん丼が好きです。」だって・・・。確かに、「どんより」・・・。

実は、このメールをもらったとき、問いだけを読んでわたしが最初に思いついたのは、「『どんより、証拠』・・・違うか!」。某お笑い芸人のネタをパクッたようなドン引きな発想でした。この中学生の書いた珍回答にはなるほどと感心しましたが、それよりも、『どんより』を見て、「ど」ではなくて「よ」にアクセントがあることを全然思いつかなかった自分の頭の固さに、この上もなく落ち込みました。情けない・・・。

この本「爆笑テストの珍回答500連発!」を早速買って読みました。冒頭から、私の想定の範囲をはるかに超えた回答が並んでいて、それはそれはカルチャーショックでした。こういう発想は、大好きです。これを「くだらない」とか「作為を感じる」とか意味なく批判するような人が居ますが、なんかかわいそうでなりません。作為を感じようが感じまいが、それでも「負けた!」とばかりに笑い転げてしまいました。心身ともに疲れ切った今日このごろ、久しぶりに腹から笑いました。心から感謝!です。

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いつまでも続く猛暑のために今年の秋はサンマが不作なのだと云います。代わりにイワシではどうか?と。ところが、「てやんでぇ!イワシは5月から8月までが旬!8月から10月まではサンマが旬なんだから、旬の魚を食べられないなんて世も末だ!」と、世間のお魚通の御仁たちはごねるのであります。

そんなとき、ふと「旬」って何?と考えました。Wikipediaによると、「旬(しゅん)とは、ある特定の食材について、他の時期よりも新鮮で美味しく食べられる時期」なのだそうです。だから人は旬のものを好む。あるいは、旬のものは人間のカラダを安定した方向に修正してくれる力があって、だから夏はカラダを冷やしてくれる夏野菜を食べ冬はカラダを暖めてくれる冬野菜を食べるのが良いのだと聞いたことがあります。ということは、サンマがたとえ秋の魚の代表だとしても、暦上は秋でも実際は真夏な昨今、決して今はサンマに旬な季節ではないということになります。単に季節自体がずれているだけですから、これからは頭をもっと柔軟にさせなければなりますまい。

人生にも旬があります。各々の人生には各々の旬があります。年齢を考えると今が旬なはずなのに自分はまだ何もできていない、と焦ったことがわたしにもあります。「サンマが一番おいしい時期になってないのに暦だけ見て『サンマがない』と嘆く世間」を眺めていると、そんな焦り自体にあまり意味がないのだ、と考えを変えることができます。

今年は、暑すぎて蚊も少ないのだそうです。

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LDLコレステロールの対立

「LDLコレステロール高値、脳卒中の危険因子とならない?」
という題名で、対立する見解の解説が2010.8.6付けで出ていました。会員制のページですが内容はしっかりしているので、こっそりコピペしてみます。この論争はこれからもっと白熱するのでしょうが、各々に第一人者のことばだから面白いです。長いですが、どうぞ。

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2010年8月26日 伊藤 淳(m3.com編集部)
LDLコレステロールはアテローム性動脈硬化の原因とされる一方、細胞膜の構造を維持するために必須なコレステロールの運搬役を果たすタンパク質がLDLだ。生体にとって、その高値が危険因子となるかどうか、対立する二つの見解がある。

●賛成●~高値は危険因子ではない
「LDL高値よりもむしろ低値への対処が必要」と強調する東海大学・大櫛陽一氏

「コレステロールは細胞膜の構造を維持するために必要不可欠なもの。その高値はリスクとならず、むしろ低値への対処が必要」。東海大学医学部基礎医学系医学教育情報学教授の大櫛陽一氏はこう言い切る。大櫛氏らが行った日本人2万6121人を平均8.1年間追跡したコホート調査では、男性においてLDLコレステロール100mg/dL未満の集団で肺炎や悪性新生物などによる死亡が増え、総死亡率が悪化した(脂質栄養学.2009;18:21-32)。一方、LDLコレステロール160mg/dL以上でも総死亡率の上昇を認めたが、その上昇率は100mg/dL未満に比べるとわずかだった。女性ではLDLコレステロール高値で総死亡率の上昇は見られなかった。

このLDLコレステロール高値でも総死亡率が上昇することについて、大櫛氏は、家族性コレステロール血症(FH)の存在を指摘する。FHは常染色体優性遺伝の疾患であり、若年のうちから著明なコレステロール高値を認め、高率に冠動脈疾患を合併する。大櫛氏の指摘は、このFHの患者がLDLコレステロール高値のグループに多く含まれ、その結果、このグループの総死亡率上昇を招いたという意味だ。このFHという患者集団が、今まで国内外で行われてきた多くのコホート試験の結果に影響を与えていると大櫛氏は強調する。

ではFH患者において、LDLコレステロール高値がリスクとなるかと言えば、「そうではない」と大櫛氏。その根拠として、2008年にNEJMに発表されたENHANCE試験では、FH患者を対象に強力な脂質低下療法を行ったところ、LDLコレステロールは低下したが、主要評価項目とした頸動脈内膜中膜肥厚には有意差を認めなかった(N Engl J Med. 2008;358(14):1431-43)。「FHの中に血液凝固能の亢進を示す集団があり、その集団では冠動脈疾患の発症率が高いと考えられる。しかし、それ以外のFH患者ではむしろ長生きの可能性もある。つまり、FH患者でもLDLコレステロール高値はリスクではなく、疾患の特徴の一つ」と大櫛氏は解説する。

<高脂血症ありで退院時死亡のオッズ比低下>
LDLコレステロールは、血管壁にプラークを形成し、動脈硬化を促進するとされている。これに対し、大櫛氏は「血管の炎症が起これば修復する必要があり、その補修材料がアミノ酸とコレステロール。LDLコレステロールは炎症部位にコレステロールを運ぶために集積している。特に脳細胞、神経細胞では電気信号を伝える際の絶縁体の役目も果たし、非常に大事な物質」と、LDLコレステロールのプラス面を強調する。

大櫛氏らは、1998-2007年までに脳卒中データバンク(JSSRS)に登録された症例の中から、高脂血症、高血圧、糖尿病の薬物治療をしていない脳卒中による入院患者1万6850人を対象に、高脂血症(判断は主治医に依存)の有無と退院時死亡の関係を検討(脳卒中. 2010;32(3):242-253)。その結果、心原性脳梗塞を除いたすべての脳卒中(ラクナ脳梗塞、アテローム血栓性脳梗塞、脳出血、くも膜下出血)患者で、高脂血症「あり」の方が「なし」に比べ、有意に退院時死亡のオッズ比が低下していた(性・年齢で調整)。また、高脂血症を有する方が脳卒中の臨床症状が軽度であることも示された。

これらの結果を受けて、日本脂質栄養学会では、今年9月に開催される大会において、脂質低下療法への注意を喚起した独自の「ガイドライン」を発表する予定だ。

●反対●~高値は危険因子である
「低値と低下の区別が必要」と注意を促す帝京大学・寺本民生氏

「コレステロールのリスクを考えるとき、低値と低下を区別することが必要。低値の人に注意するのは当たり前のこと」。帝京大学医学部内科学主任教授の寺本民生氏はこう強調する。各種のコホート研究から、研究開始時にコレステロールがもともと低い集団では癌や肝疾患など、結果的にコレステロール低値を招く疾患の有病率が高いことが知られている。つまりコレステロール低値の場合そのような疾患が既に存在している可能性を考慮することが必要であり、これはコレステロール高値を低下させることとは全く別の話という指摘だ。

コレステロール高値で冠動脈疾患の発症率が高いことは、MRFITやNIPPON DATA80といった国内外のコホート研究で示されている。その一方、総死亡への影響に関して寺本氏は「冠動脈疾患は死因の一つとなり得るにすぎず、コレステロール高値が総死亡全体へ与える影響は限定的」と説明しつつ、「コホート研究はバイアス(例えば潜在的な疾患の有無など)の排除が難しい」とコホート研究に基づいた知見の限界も指摘。最終的にコレステロール高値を下げた場合の影響を判断するには、無作為化試験(RCT)が必要という認識だ。

LDLコレステロールは、その低下薬であるスタチンの臨床試験を通して、危険因子として位置づけられてきた。2005年にLancetに発表されたスタチンを用いたRCTのメタ解析では、LDLコレステロール低下に伴い総死亡、冠動脈疾患等の減少を認め、癌への影響は存在しないことが示された(Lancet. 2005;366(9493):1267-78)。2009年にはBMJにスタチンの一次予防効果を検証したメタ解析の結果が発表され、同様に総死亡、冠動脈疾患等が減少し、癌には影響がないと報告されている(BMJ. 2009;338:b2376)。「バイアスが入り込む余地が少ないRCTのメタ解析によって、LDLコレステロール低下の有用性が証明されている」と寺本氏。

<脳卒中は病型別に検討する必要も>
ただし、脳卒中に関しては、寺本氏も議論の余地があることを認める。「動脈硬化性疾患予防ガイドライン」の2007年版では、LDLコレステロール高値を脳梗塞の危険因子としながらも、エビデンスレベルは一段階低いBとしている。これはまず、コレステロール高値で脳卒中発症の上昇を明確に示した疫学研究が存在しないことに起因する。また、スタチンでLDLコレステロールを低下させると脳卒中発症率が低下することは、CARDS試験や日本のMEGA試験などで示されているが、その低下率は冠動脈疾患と比べると少ない。スタチンの脳卒中二次予防効果を検証したSPARCL試験では脳梗塞の再発は減少するものの、脳出血の再発はやや増加する傾向を示し、脳卒中の病型別に検討する必要性も示唆された。これを踏まえ寺本氏は「エビデンスレベルAとするには、まだ課題が残っている」と説明した。

2007年版のガイドラインではLDLコレステロール140mg/dLを脂質異常症の診断基準としているが、同時に薬物治療開始の基準ではないと強調している。薬物治療開始の基準について寺本氏は、「私自身はコレステロールが高いだけであれば、薬物治療は躊躇する。個々の患者さんでその他のリスクも含めて評価することが大事。次のガイドライン改訂では、冠動脈疾患発症リスクを細かく示せるチャートに基づいて、リスク層別化を行いたい」と語った。

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コレステロール論争

新聞にこんな記事が出ました。

コレステロール「高めが長生き」…日本脂質栄養学会(2010年9月3日:読売新聞)
コレステロール値 「高い方が死亡率低い」 日本脂質栄養学会で研究成果発表(2010年9月3日:毎日新聞社)

今月3日から開催された第19回日本脂質栄養学会(愛知県犬山市)で「長寿のためのコレステロールガイドライン」がまとめられ、「総コレステロールやLDL(悪玉)コレステロール値は高い方が総死亡率が低かった」という神奈川県伊勢原市の研究成果などを元に、「高コレステロール血症は心臓病や脳卒中の危険因子だから下げるべきだ」とする現在の医療は不適切で多くの場合内服治療は要らないと結論付けています。

単に総コレステロール値だけが高いとか、女性の更年期以降のLDLコレステロール高値とかに内服治療が要らないということに異論はないのでしょうが、男性の高LDLコレステロール血症の取り扱いについてはこれから一騒動あるかもしれません。おそらく動脈硬化や心疾患に関連する諸学会では来年あちこちでディベート論争が企画されるでしょうが、先日書いた「小太りは長生き?」などよりももっと結論が出ないのではないかと推測します。どちらにも主張の根拠はたしかにあるようですから。ただ、この話題が大手新聞に報道され、一般の皆さんがその情報を知りました。特にLDLコレステロール高値のために内服をするかどうか悩んでいる、あるいは内服を始めている患者さんにとっては心中穏やかではないでしょう。単なる高LDLコレステロール血症の方はともかく、糖尿病や高血圧を一緒に持っている人にとっては必ずしもこの理論は成立しないだろうと思うのですが・・・。

先日の健診結果説明のときにこの報道の話をしたら、記事を読んだ人が居ました。少なくとも、わたし達は今回のような情報が世間に流れていることだけはきちんと知っておかねばなりませんね。

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「違和感」

「足に違和感がある」というので今日はスタメンから外しました。
「膝に違和感を覚える」人にグルコサミンが有効。
「ノドの違和感」が風邪の前兆。

最近よく耳にするようになった「違和感」という言葉・・・そんな報道やCMを見ながら、何か妙な感じがしています・・・「違和感」って何なんだろう?どんな状態のことを「違和感」と云っているのだろう? ・・・先日、テレビを観ながらふとそんな疑問が湧きました。

「違和感」=「しっくりこない感じ」「調和がとれない感じ」「ちぐはぐな感じ」と辞書には載っていました。何と比べて「しっくりこない」のだろう。いつもと違うなら何でも良いのだろうか?こういう使い方のむずかしい単語は、以前は一般社会ではあまり出てこなかったような気がします。「痛い」とか「だるい」とかだけでなく、「痒い」とか「冷たい」とかも同じ「違和感」なのだとすると、「いつもと何か違う」というだけで何でも「違和感がある」と云っているのかもしれません。それは言い得て妙ではありますが、逆に相手にはほとんど真意は伝わらない感じがします。病院に来て「カラダに違和感があります」という主訴が書かれていると、わたしたちも途方に暮れます。あえてわかりにくくさせるのが目的の1つ・・・もしかして、単なる「はやり言葉」でしかないのかしら。何かこういう曖昧な言い回しは、外国から流れてきた云い方のような気がしますが・・・。

たぶん、わたしは自らの口から積極的には使うことができない単語の1つです。

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小太りは長生きできる(後)

おそらく人類の歴史の中に超肥満が長く生存した事実はないでしょうから、超肥満状態は種の保存の観点からも<病気>の範疇だと考えます。病的な肥満は減らした方が良い、ということについては異論はなさそうです。

ただ、小太りが長生きだからと云って痩せ型の人が必死で太る努力をするのはナンセンスですし、小太りは長生きできないと云って、何十年も同じ体型のおばさんが突然CRを試みてもメリットはあるのだろうかと考えてしまいます。人種や性別のみでなく、各人各々の持って生まれた体質というものがあって、痩せ型(エネルギー消費型)と小太り型(エネルギー蓄積型)の各々はそれがその人に適している最適の体型があるのではないかしらと思います。それを平均点の統計学に当てはめて、BMI22が理想だとか24が良いとか、あるいは内臓脂肪がどれが良いとか、そんな一点に集中させようとするからムリが出てくる。もしかしたら各々の体質が一律ではないからこそ、人類は生き延びてこれたのではないかとも思います。飽食の時代にはエネルギー消費型が生き延び、飢餓の時代にはエネルギー蓄積型が力を発揮する・・・それは人類にとって最大の優先事項である種の保存のために初めから作られている秩序なのではないかしら、と。

食事や運動に対して高い意識を持ったとき、どんな人でも必ずプラトーになる体重があります。その値が平均点より高くても低くても、それはそれで良いのだと思います。頑張ってもなかなか標準体重になれないと悩む必要はありませんし、食の細い人がムリして食べる意味もありません。そう信じて、生活指導をしています。

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小太りは長生きできる(前)

日本抗加齢医学会の学会誌には毎回<誌上ディベート>の企画があります。Vol.6No.2のテーマは「小太りは長生きできるかできないか」。この場合の「小太り」の定義は、BMI25~29.9です。この領域は日本では「I度肥満」ですが欧米では「過体重」と云われているレベルです。ちなみに、わたしもしっかりこの範囲内のカラダ持ちです。

「日本人はちょっと小太りの方が長生きだ」というのは15年以上前から云われている事実ですし、最近はダイエットした方が短命だというデータが欧米でも日本でも認められるようになり、わたしが尊敬する鎌田實先生も「ちょい太でだいじょうぶ」(集英社)と主張してこられました。だから、東海大学の大櫛陽一先生が論じる「小太りは長生きできる」で繰り出されるデータのひとつひとつが納得できて、なるほどと感心して読み続けました。

ところが、次に「小太りは長生きできない」の立場で書かれた慶應義塾大学の新村健先生の理論展開。CR理論はあるものの、これまでなかった「小太り」が長生きできないことを証明する論文が最近発表されたということ、百寿者に小太りが居ないこと、などの説明が始まると、これまた納得してしまいました。

ディベートだからそれでいいのでしょうが、わたしはすぐに権威ある人を信用するタイプのようだから気をつけなきゃいけないな、と思った次第です。そんなことよりも、どっちが正解なの?やせた方がいいの?悪いの?と答を求めている世のメタボお腹の皆さん ・・・まあ、これからも悩んでください。きっとどっちの理論も正解なのだと思いますから。

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ヨレヨレのTシャツ

「まだそんなヨレヨレのTシャツを着ているの?みっともないからそろそろ処分してくれない?」 ・・・風呂上がりに首の辺りがベロベロになったTシャツを着ていると決まって妻が怒ります。これを着てどこかに行くと云うじゃなし、寝ている間だけ着るんだから何だって良いじゃない?と思いながら、「うん、そうね。」と気のない生返事。

昔、初めて彼女に出会った頃、彼女はスヌーピーの絵柄の赤いトレーナーをよく着ていました。襟元がかなり伸びてしまったそのトレーナーはよく着込んでいて、一番のお気に入りなんだろうなと思いました。結婚して東京に住んでいたときにも彼女のお気に入りのトレーナーがありました。それを着るとモコモコに膨らんでしまうのだけれど、それを着て新宿や銀座に出かけました。わたしにも子どものころからお気に入りがあります。気に入ってる分だけ着る回数が増えて洗濯の回数も増えるので、他の服より明らかに早くヨレヨレになります。それでも、大事なデートのときにはそのヨレヨレのシャツを選んでしまうのでした。一張羅と勝負服は全然別物でした。

あのころに比べると、お互い贅沢になりました。洋服ダンスが衣装で溢れています。貧乏性のわたしはTシャツもバスタオルもなかなか捨てきりませんが、それでも入れるところがなくて泣く泣く処分せざるを得ません。お気に入りの服も、ヨレヨレになってちょっと汚れが目立ち始めると後ろ髪を引かれながらもタンスの隅に追いやられます。昔だったらそれでも普段着に着ていたかもしれないのに・・・。これは年齢なのか?時代なのか?物が溢れているということが良いことか悪いことか。

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手書き

   8月27日
  ○○○○様

 お誕生日おめでとうございます。
 ○○様の益々のご健勝を心より
 お祈り申し上げます。
              担当 △△△△

先日、妻の誕生日に、彼女の車のディーラーから手書きのバースディカードが送られてきました。「今日は何の日?」と「今日生まれた有名人」のリストと一緒に。

偉いねえ。さすがにちゃんとしている会社だよね。手書きだものね。封を開けてそんな会話をしましたが、「でも、△△さんってこんな字だったっけ?」・・・我が家にカレンダーを持ってきてくれたりしたときに名刺の裏に書き添えたメモの字を思い浮かべました。まあ、当たり前なのかもしれませんけど、この整ったきれいな文字を書いたのは、会社の違う部署の若いお嬢さんなのでしょう。だからこんな紋切り型の文章しか書いていないのだな、と合点がいきました。ただ・・・うちの職場も同じような手書きのハガキをよくアテンダントのお嬢さん方が書いていますけれど、彼女たちはわたしの代筆をすることはありません。わざわざ担当者の名前まで手書きのカードで書き込むのなら、ほんのひと言だけでも本人が書き足したら良かったのに。そうじゃないなら有り難味はワープロ文字とほとんど変わらないかな。・・・こういう受け手の気持ちって、送り手の目ではわからないところがあります。良い経験をしたなと思いました。

「今年あなたが違うところで新車を買わなかったら、違ったかもしれないわよ。」と妻が冷静に分析しました。そういえば、△△さん、2年前の誕生日にはワインを持ってきました。

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