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2010年10月

敗北宣言 ~「やめられないから始めない」の真意~Part2

結局は、こっちが掲載されました。内容はまったく同じですが、こっちの方が分かり良いからという理由で採用されたと聞いています。もしかしたらあっちは最後のタバコに関する記載がネックだったのかもしれない、とちょっと思っています。それにしても、脚本家や小説を脚色する方の才能はすばらしいなと今回は痛感しました。やっぱりわたしには向きません。

********

「そろそろ血圧のクスリを飲み始めませんか?」
「でも先生、クスリは飲み始めるとやめられなくなるんでしょ?」
「いまだにそんなことがまことしやかに言われているのですか?」
「はい。私はそう聞いています。」
「高血圧のクスリは早くからきちんと飲み始めると約30~40%の人がやめられると言われています。」
「え、そうなんですか?」
「でも、飲むべき時期に飲まずに、ギリギリまで引っ張って飲み始めたらやめられるわけがありませんし、むしろ大量に飲む羽目になります。早期のまだ弾力性のある血管であれば戻せますが、血管の壁に強い圧力が長期間加わって血管が硬くなってしまったらもう元には戻りません。何よりも『やめられない』ならむしろ早くから飲み始めないと危ないということでしょ?」

「わたしは毎日何万歩も歩いているし、塩分を控えて精進料理しか食べない人生をもう何年も送ってきました。タバコも吸っていません。こんなに頑張っているわたしが、なぜクスリなんか飲まなければならないのでしょうか?先生、何が悪いんですか?」
「体質とはそういうものですよ。」
「クスリじゃなくてテレビのCMでやってる健康食品じゃだめですか?」
「下げられるなら健康食品でも特保食品でも何でも構いません。でも、ずっと飲み続けるという点ではクスリと同じですよ。むしろクスリには血圧を下げること以外の効果も期待されています。」
「でもクスリはちょっと・・・。まだもうちょっと頑張れると思うんです。」
「たぶんこれ以上自分をいじめても、あまり下がらないと思うけどなあ。毎日辛くなりませんか?」

「ああ、とうとう、クスリを飲まなきゃならないくらい悪くなったのかぁ!」
「あなたを見ていると、クスリを飲むことは末期の『敗北宣言』で、<内服するのは重病人>~そんな人間にならないように頑張ったのに報われなかった、と嘆いているように見えます。私もクスリは毒物だと思います。飲まないですむなら飲むべきではありません。でもそんな毒物でも飲んだ方がかえって質の良い人生を送れる人はたくさん居ますよ。」
「どういうことですか?」
「考えてみてください。クスリを飲みたくないがために日夜修行僧のような人生を歩み、それでも下がらなかったと暗いため息混じりの日々を悶々と送るのと、さっさと毒物を受け入れて『明るい病人』としてもっと他のことにエネルギーを費やすのと、どっちが健康的でしょう?」

「ん~。・・・でも、もう少し考えさせてください。」
「・・・。」

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敗北宣言 ~「やめられないから始めない」の真意~Part1

コラムを掲載している広報誌の秋号が発行されました。今回は同じ話を2パターン書いてみました。まず今日は、採用されなかった方を記録の意味であえて掲載します。

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「飲み始めるとやめられなくなるらしいから、クスリは飲みたくない!」

私が医者になった頃によく聞いたこの言葉がいまだにまことしやかに語られていることに驚きます。たとえば高血圧症のクスリ。高血圧症に対して早期からきちんと適正な内服を始めると約30~40%はやめることができると言われています。でも、飲むべき時期に飲まずに、もう元に戻れないレベルまで引っ張って飲み始めたらやめられなくなるのは当然です。早期のまだ弾力性のある血管であれば戻せる可能性がありますが、血管の壁に強い圧力が長期間加わって血管に硬化が始まってからでは元には戻れません。何よりも「やめられない人」はむしろ早くから飲み始めないと危ない人、ということでしかないように思います。

高血圧症治療の基本は、運動療法であり食事療法であり禁煙であり十分な睡眠でありストレスを取り除くことです。これらを若いうちからきちんと行うと高血圧を改善できます。でも、それを行っても十分な降圧が得られないのであれば、更なる修行僧の人生をどんなに上乗せしてもおそらく血圧は下がりません。体質とはそういうものです。下げられるならそれが健康食品でも特保食品でも構いませんが、ずっと飲み続けるという点ではクスリと変わりはありません。

内服を嫌がる人はたくさん居ます。「何でもしますから内服だけは勘弁してください!」とかかりつけの内科医に懇願して処方を先延ばししたり、処方されたクスリをそのままゴミ箱行きにさせたり、あるいはそんな医者の元を勝手に去っていったり・・・。そんな、内服を嫌がる人たちの心理が何となくわかってきました。「わたしは毎日何万歩も歩いているし、精進料理しか食べない人生をもう何年も送ってきた。こんなに頑張っているわたしが、なぜクスリを飲まなければならないのか?何が悪いのか?」・・・彼らの心の底にあるのは、クスリを飲むことは『敗北宣言』という思いのような気がします。<内服するのは病人><内服は堕落人間の証し>~自分はそんな人間にはなりたくないから頑張ってきたのだ!と叫んでいるように見えます。だからクスリの弊害や<クスリを飲むと病気になる>という意見を楯にしてなんとか現状を逃れようとしています。私も<クスリは毒物>信者ですので、飲まないですむなら飲むべきでないと思っています。でも、そんな毒物でも飲んだ方がかえって明るい質の良い人生を送れるはずの人はたくさん居ます。勿体ないなと思います。早く『明るい病人』になって、もっと他のことにエネルギーを費やしませんか?

「飲み始めるとやめられなくなるから、始めない!」・・・どうせなら、その言葉はそのままタバコに置き換えて、タバコ撲滅の『勝利宣言』ができる社会になってほしいものです。

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「よくばらない」

少しだけですが
ダメな自分に気がつくと
人にやさしくなれました
少しだけですが
自分の中に獣がいることを知って
がまん強くなりました
(第一章/自分を見つめる~ダメな自分を見つめる)

よくばらなくなると
生きるのが楽になりました
よくばらなくなると
自由がふえました
(第一章/自分を見つめる~「サンキュー、グッドバイ」)

久しぶりに、本当に久しぶりに鎌田先生のブログにお伺いしましたら、ちょうど本の紹介がありました。「よくばらない」(鎌田實著 PHP研究所)・・・送料無料キャンペーンのamazonに頼んだら2日後には届きました。1000円の小さな本。1時間もかからずに一気に読み上げました。「ちょっぴり辛くなった時、手に取ってください。」と書かれているとおり、きっと人生に疲れた時のヒーリング本・・・そこにはこれまで鎌田先生があちこちで語ってきたお話が集められていました。つよい「カマタミノル」、がんばる「カマタミノル」が変わっていったプロセスが赤裸々に書かれた「カマタの物語」であり、それを読むうちに自分と重ね合わせてしまって、気づくと「わたしの物語」・・・鎌田本の集大成に近いのかもしれません。

ふんだんに織り込まれた写真家、前田真三・晃親子の写真もいい。眺めているだけで大自然の豊かさと優しさの中に引き込まれていきます。

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尻切れトンボ(後)

子どもの頃から絵を描いたりモノを作ったりするのは苦手でした。基本がクリエーターではないので発想の乏しいわたしはとりあえず堅実に写実的な写生や工作を始めます。とても微細なところまできちんと描き始めるので「細かいところまで丁寧」という評価を一旦受けるのですが、そのペースでは到底時間内に作品ができあがりません。クラスメートの多くが終わって遊んでいる中、少数派の未完成組に入ると、飽きて一気に嫌気がさしてきます。最後はどうでも良くなって、ついいい加減な仕上げをして提出・・・結局大した作品は残していません。わたしのことを「絵が得意だった」と記憶している同級生が割と多くいますが、それは図工時間の初めの方を記憶しているにすぎません。あるいは時間の間中ねっとりと静かに描いている姿しか記憶できていないからかもしれません。

緻密な計画をたてるのですが、その通りに行かない状況が続くうちにどうでも良くなったり、壮大な夢を語って取り組み始めるのに遅々として進まずポシャった企画だとか、わたしの人生にはそんな尻切れトンボの品が星の数ほどあります。

あれ。何を書くつもりだったかしら?このブログの文章も、だから冗長にならないように、興味があってもなくてもすぐ読み終わるように、そう思って始めたというのに今回も何をこんなに長く書いているのやら。

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尻切れトンボ(前)

わたしは、多くの本を読み始める割に最後まで読み終えていません。だから”読みかけの本”がたくさんあります。

本には二つの種類があるように思います。伝えたい想いを最後に持ってくるように文章構成しているタイプと、思いの丈をまず最初にはき出してから詳細を展開させるタイプです(その他にもあるのかもしれませんが、たぶんそれは最初から読んでいない)。前者は、書評やあらすじが魅力的、あるいは「はじめに」に含みの多い魅力的な文章が書かれているからこそ読み始めるのであり、途中からその勢いに巻き込まれるようになれば一気に最後まで読み上げられますが、そこにたどり着く前に飽きてしまうことが多くて、「いつになったら本題に入るの?」と痺れを切らし始めると読み進めなくなります。一方後者は、最初のインパクトが強くて強烈な吸引力で引きつけてくれますが、その後の詳細な解説や理論証明が異常にまどろっこしくて、ほぼ半分読んだ時点から端折り始めてしまうのが常。「大体わかりゃいいわ」という感覚になってしまいます。

几帳面で根が真面目と思われている割にこらえ性のないわたしは、こういう尻切れトンボの中途半端なことをする自分が大キライです。

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ぎっくり腰

”ぎっくり腰”になりました。

「急に重いモノを持ち上げたとか急に起き上がったとか、そんなエピソードではないのだからぎっくり腰ではない」と主張するのですが、職場の連中がこぞって、「ぎっくり腰はそういうものだ」と云って聞かないから、もう”ぎっくり腰”ということにしました。

”ぎっくり腰”とは何か?医療者でありながら意外に細かいことを知らないことに気付き、遅ればせながらネット検索(医療者なのに「医学書」なるものは紐解かない、というか、最近は紐解く「医学書」が手元にない)してみました。”ぎっくり腰”は医学用語ではない・・・それくらいは知っています。正式には「急性腰痛症」というんです。「筋膜性腰痛症」という云い方もあるのか? 「不用意に体をひねった、重いものを中腰で持ち上げた、前傾姿勢をとった時などに起こりやすいが、長時間同じ姿勢、無理な姿勢、筋肉疲労、女性では月経時に骨盤や背骨の靱帯が緩んで、腰痛が起こる事もある」と書いてあります。我が家のワンのブラッシングを済ませたあとに身体を伸ばせなくなったから、この「長時間同じ姿勢、無理な姿勢、筋肉疲労」というのに当てはまるのだろうか。なら、皆が云うとおりわたしのは”ぎっくり腰”だ。「運動不足やビタミン不足でもなる」とは書いてあるが、「アル中に多い」とは書いてなかったからちょっと安堵しました。

ブラッシングの後に腰を伸ばすと痛くて伸ばせないことはこれまでにも良くありましたが、こんなに重症になったのは初めてです。持病の腰椎ヘルニアのせいにしていましたが、これは単なる老化だと認めざるを得ない気もします。対処法は嵐が過ぎ去るまでじっと安静してがまん・・・要するに、こんな格好で腰掛けて長々とブログなど書いていることが一番いかんということか。

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「中腰力」

”「治らない」時代の医療者心得帳(春日武彦著 医学書院)”には「中腰で待つ援助論」の題名で内田樹先生(神戸女学院大学教授)と春日武彦先生の対談が載っています。

”中途半端さに耐える能力”が大切だと強調されていました。”医療界では「何もしない」「保留する」は敗北に値するとされてきた”と書かれていますが、外来では「様子をみましょう!」という云い方をよくします。「これは医者の逃げ口上で実際には何をするかよく分からないので、必ず具体的な対処法を直接質問してくださいね」・・・わたしは紹介状を渡すときに受診者にそんな助言をしてきましたが、本当は医者が困った顔をするだろうことを想定した上で意地悪な入れ知恵をしていることを自覚しています。

”僕は、「中途半端なところで時間が経過するのを我慢できるかどうか」ていうのが、援助者の実力のひとつだと思っています。”(P170)・・・時間が解決することはよくあります。「原因がわからないと不安だ!」「そんなことも分からないのはヤブだ!」と考えるのが当事者の当然の心理だと思いますが、「でも、今回はたまたま条件が重なったけど、こんなことは二度と起きないかもしれない。そんなことに神経を使いすぎてもしょうがないんじゃない?」と内心思っているわたし(医療者)が居るわけです。それを「さしより、様子をみましょう」と表現するのはリーゾナブルなのかもしれません。

「その現象が起こるメカニズムについて教えてください。」「その機序はどういうことだとお考えですか?」・・・医学学会で新しい知見を発表すると必ずこの質問が飛び出します。 ”数の確率論は偶然の産物であり、そこに納得のいく理論展開ができないものは科学ではない!”・・・学会場がそんな空気で重苦しくなると、わたしは迷わずその場を離れることにしています。

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強運

” 医師に必要なものとして、誠実さとか優しさとか、人間愛とか自己犠牲だとか、的確な判断力だとか冷徹な技術だとか、鬼手仏心だとかいろいろなことが言われます。しかしわたしが思いますに、医師として何よりも大事なのは運の強さです。
 強運-これに勝るものはありません。自分を守り相手をも守る強烈な運の強さ。必要なのはこれです。これさえあれば、死にかけの患者へ下手な処置をしても助かります。逆に運の悪い医者は、どれほど善人かつ技術に優れていても、「治療は見事だったが、患者は死んだ」といった結果になります。ひどい話です。”(”「治らない」時代の医療者心得帳” 春日武彦著 医学書院 P29)

考えてみるに、わたしはこの「運の強さ」だけで今”医者”の称号を曲がりなりにも振りかざすことができているのだと思います。世間はどうしてわたしをこうも買いかぶるのでしょう?わたしが尊敬する恩師H先生など、H先生の洞察力をもってすればわたしの実力などすべてお見通しに違いないと思うのに、「先生は優秀らしいねえ。H先生がいつも褒めていたよ」という異常にくすぐったいことばを他の病院の先生から聞くと、おだてられているに違いないと思いました。大した勉強もせずいい加減な自己流知識でハッタリかまして臨床医をしてきて、医者らしからぬ言動を繰り返し、最近では医学論文すらほとんど読まなくなった似非医者なのに、どうしてわたしを優秀な医者だと思うのか理解できませんでした。でもまあ、春日先生のこのことばを借りるなら、やはりわたしは”優れた医者”なのだと胸を張ってもいいのかなと思い直しました。この強運が続く限りはその筋斗雲のような雲に乗り続けておきましょう。

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重度

その珈琲店は狭い間口の小路を10メートルほど入ったところにありました。田舎町だとはいえそれなりの地方都市の繁華街の一角に、こんな空間が残っていることに驚かされます。昭和43年に建てられたという和風民家は、意外にも窓ガラスが頑丈な鉄の枠に包まれ太い柱に支えられた鉄筋の二階建てでした。梨木香歩の「家守綺譚」を読んだときに感じた空気がこの空間には溢れている感じがしました。

夏に作品展を案内してくれた知人から、別の小さな作品展の企画をご案内いただいていたので行ってきました。知的障害や自閉症の方々が表現した作品がこのふしぎな珈琲店に展示されているのです。

玄関で靴を脱いで座敷にあがると不思議なアシンメトリーの渦巻きの絵にまず目が止まりました。寄っていくとそれは圧倒的な数の小さな花の絵の集まりだということがわかります。その圧倒的な数の小さな花は、各々に色が違い、太さが違い、時々花以外の何か(たとえば自分の名前もだまし絵のように入り込んで居たり)だったりします。
「彼女が一番初めに書き始めたのはこれだったみたいです」
珈琲店のマスターが手渡してくれたのは『あかずきんちゃん』の塗り絵ノートでした。本来の塗り絵をすべき人物輪郭の外、下半分にその花の絵は敷き詰められていました。
「きっと土の部分という意味で書きはじめた花だと思います」
ところが、それが徐々に紙全体に広がっています。空いた空間を完全に埋め尽くしたくなる衝動に駆られたのだろうことが想像できます。この圧倒的な数の花柄の絵を描いたのは、40歳をちょっと過ぎた女性の方です。

「彼女は、『重度知的障がい者』の判定をもらっているんですが・・・『重度』って何なんでしょうね?」・・・この緻密な癒しの絵を眺めながら、マスターが呟いたことばにわたしも相槌を打ちました。

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クリーニング

以前、コンさんからご紹介いただいたハワイ伝承の問題解決法”ホ・オポノポノ”。すぐにHPを覗き、一冊の本「心が楽になる ホ・オポノポノの教え」(イハレアラカ・ヒューレン著 イーストプレス)を読み始めたのに、その後なかなか読み進める時間が取れませんでした。その間に奇遇にもケアリングクラウンUlalaさんからまったく違うときにホ・オポノポノのことばを聞き、なんか宿命的な出会いを直感した次第。

”人が思うように生きることができないのは、潜在意識の中にある記憶が原因であると考え、この記憶を消去する(クリーニング)ことで、Divinity(神聖なる存在=神様、宇宙、命の源、大いなる自然)からのインスピレーション(霊感=知恵や情報)が届き、それに従って生きることで、完璧な状態で物事が起きる(=問題は解決できる)””クリーニングする言葉はいつでも『ありがとう(Thank you)』『ごめんなさい(I'm sorry)』『許してください(Please forgive me)』『愛しています(I love you)』の4つのみ。クリーニングを続けることで、過去の記憶が消去され、やがてゼロの状態になる感覚を感じることができるでしょう””記憶を手放してゼロの状態になれば、奇跡が起こる!”

宗教といえば宗教だし、心理学といえば心理学かもしれませんが、理屈で行動させる理論とはまったく無縁なので、「怪しい」と感じる人たちにはまったく受け入れられない世界なのでしょう。一方で、この世界を知ってすばらしい人生になった!と賞賛する人が思いの外多いことに驚き、すばらしい!と思っていたけれど、突き詰めてみるとホ・オポノポノはいつもいつもクリーニングしていなければならないので息苦しくなったと云って離れていった人も少なくない様子。

Ulalaさんが云うように、鬱陶しい仲介者を介さなくても直接神(Divinity)と対話できるこの世界はなかなか面白そうだというのが、わたしの今の段階での感想です。奥深そうでまだまだ何も理解できていませんが、それでも毎朝毎晩「ありがとう」「ごめんなさい」「許してください」「愛しています」と唱えるのが習慣になってしまいました。

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衝立の乙女

今年は小泉八雲の生誕160年(来日120年)めだそうです。そんな小泉八雲の短編小説に「衝立の乙女」があります。先日、ラジオでこの「衝立の乙女」の話が出てきて妙に興味が湧きました。最近は本屋に行かなくてもこの程度の長さであればネット上で確認できます。いや電子本ではなくて、朗読で(「小金洋子の読み語り作品集」)。

ある書生が衝立に描かれた乙女の姿に恋をして、この乙女を衝立からひっぱり出すはなし。小泉八雲といえば「怪談」です。この作品は「影」という作品集に収められています。このはなしの何が怖いのかと申しますと、「名前をつけて毎日呼び続けていたら衝立から絵が現実のものになった」ということではありません。衝立から出てきてからのその乙女との会話が怖いのです。
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 「でも、じきにお飽きになるのではございませんの?」と彼女は尋ねた。
 「生きているあいだは、けっして」と、彼はきっぱりと言った。
 「それからあとは-?」と彼女は、かさねて尋ねた。
 「おたがいに誓いましょう」と彼は懇願した。「七生(しちしょう)のあいだ変らぬと」
 「あなたが、つれなくなさるようなことがありますれば」と彼女は言った。「わたしはまた
衝立へもどって行きますから」
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「今生の愛情」だけでは薄情だと云い、「何度生まれ変っても愛し続けると誓いなさい!」と迫られたら、わたしはそんな自信のないことなんか宣言できない!と尻込みしてしてしまいます。それでも、愛してやまない女性が目の前にいるのだから、欲情を抑えることはできるはずもなく、「ほいほい。いつまでも愛しますとも」と、口から出任せを云ってしまうかもしれません。・・・結局、衝立の絵は消えたままだったということなので、彼と彼女は七生の愛を貫いたのか・・・このオチが、一番怖いお話なのかも。

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かかりつけ医にいつ行く?

昔、必ずあった「かかりつけ医」。子どものころから診てもらっているから、何かあったら相談できる、そんなお医者さんが必ず居ました。核家族化したり知らない町に住む若者が増えたためだけではなく、国民の専門医志向、大病院志向の影響も受け、「何か町医者は信用できない」みたいな風潮が生まれてきたのはいつ頃からでしょう。

そんなかかりつけ医の復権がこれからの国民の健康を取り戻せるかどうかの大きなポイントになるだろうと考えられています。そこで、健診機関としても受診者の各々ができるだけ行き易いクリニックを推薦したいと思うわけですが、どこを紹介したらいいか、意外に悩むものです。職場に近いところで昼休みにちょっと行けるのがいいのか、自宅に近くて土曜日などの休みの日に行き易いのがいいのか、あるいは仕事から帰る途中にあるのが一番都合がいいのか・・・。わたしは勝手に、自宅近くの土曜日に開いているクリニックが理想なのかと思っていましたが、どうもそうでもないみたいです。たしかに、せっかくの休日を病院受診なんかで潰したくないと思う気持ち、自分に当てはめてみたら良く分かります。同様に病院受診のために有給休暇を取るのに躊躇する人も少なくなく、これにはその他に、「自分の私用で職場の人に迷惑をかけるのが申し訳なくて休めない」という理由をあげる人も多く居ます(現場は意外にそんなこと考えてないのに、自分で勝手に気を遣っている感じ)。

「『忙しい』と云って、平日に仕事を休んで病院に来るくらいのことができない性格だから心筋梗塞になるんだよ!一人くらい数時間居なくったって誰も困らないんだから!」・・・昔、循環器内科の同僚先生がいつもこう吠えていたのを思い出しました。

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適性

わたしが産業医として勤務する企業に、ある若者が居ます。昨年、入職してすぐに休職し、やっと復職したと思ったら最近また実家に帰っていると聞きました。彼は、大きな夢を抱いてこの企業に入りました。保険を扱っているこの企業で、いわゆる弱者になっている被害者にココロから力になってあげたいということでした。彼は真面目に仕事に取り組みましたが、すぐに壁に当たります。交通事故で、加害者も被害者も自分の権利を主張するのです。その各々の話を聞いているとどちらにも力になってあげたいと思い、その各々に良いことばかり約束してしまった結果として、当然のようにトラブることになります。悪気はないのだけれどその場しのぎのウソを付くようになり、さらに自分を追い詰めてしまうことになりました。

上司は、彼に退社を勧めるつもりだそうです。彼のやさしさは、この仕事には向かないけれど、きっと他に生かせるものがあると思います。そうであれば、この仕事にしがみつかずに早くに次のステップに取り掛かった方が良いと、きっと多くの人がそう思うことでしょう。あとは本人がこの選択を「挫折」だとか「敗北」だとか「逃避」だとか、思い込まなければ良いのですが。

一方、以前lここに紹介したわたしの甥っ子ですが、新人研修の段階で退社を選んだ彼は実はまだ今でも定職についていません。今は職業訓練校に通っているといううわさを叔母から聞きました。一回失敗しただけにどうしても慎重になるのかもしれませんが、どんな仕事でもいいからとりあえず続けてみたら?とつい要らない助言をしたくなったりします。

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ココロ躍ること

月曜の朝の出勤途中に、最近気付いたことがあります。

”何かココロが躍らない”

わたしは、昔から月曜日の朝が好きでした。週末の予定から先に決まってしまうほど毎週動き回っていて土日はほとんど家に居ないわたしですが、「サザエさん症候群」になったことはほとんど記憶にありません。それだけを自慢していましたのに、どうも最近今ひとつ月曜の朝がおもしろくないのです。

さあ今週も頑張るぞ!週末はゴルフだ!サッカーの応援だ!宴会だ!決して週末の遊びのために1週間頑張っているわけではありませんが、それでもリフレッシュした月曜の朝が一番元気良かったのは事実です。それが、ない。もちろん相変わらず仕事が楽しいわけではないけれど、別に仕事が憂鬱なわけでもないし、仕事に行きたくないと思うわけでもないのですけど・・・。

どうやったらココロが躍るのかしら?そんな月曜の朝がここ数ヶ月続いてしまうと、ちょっと考えてしまいますね。

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管理職と現場主義

ゴルフレッスンの時によく会う、ある病院の薬剤師さんが居ます。黙々と熱心にボールを打っているBさんの姿を見ると元気そうですが、うわさによると彼は最近すごく落ち込んでいるのだそうです。

その病院のスタッフの話では、彼はいつも真面目にきちんと仕事をし、患者さんにやさしい、とても信望の厚い若者なのだそうです。そんなBさんが、今年の春から畑違いの病院管理職としての仕事を任せられました。もともと現場が大好きだった彼から現場の仕事を取り上げた形になって、まさしく”陸(おか)に上がった河童”状態・・・完璧にモチベーションが落ちていると聞きます。

こういう話はよくあります。うちの病院にももちろんそういう経歴の管理者はたくさんいます。病院というところは、もともと専門職の集まりです。その専門職部門の管理職として後進を指導し組織を成長させる仕事をするというのであっても、現場を離れることに抵抗がある方は多いでしょう。もともと管理職をしたくて入職したのではないのですから。それでもまだこの場合は自分のやりたい仕事の延長です。ところが、大きな組織を運営するためには、専門職を離れて病院組織全体を管理する人たちが必要です。組織経営の専門職として若い事務員を入職させたとしても、彼だけでは病院という組織は動きようがありません。専門職経験者の中の誰かがその道を歩まなければならないのです。現場で人望の厚い人こそが、この場合は最適任者であることは、”火を見るより明らか”です。B先生が今の仕事に何らかの使命感と充実感を感じ、生き甲斐を見つけはじめたとき、きっとこの病院は進んでいけるのだろうなと思います。

「B先生の仕事を引き継いだ男の子がとにかく間違いの多い子で、種類や数や、ちょっと半端ない間違い方をするんです。B先生の時には絶対なかったことなので、現場もB先生に帰って来てもらいたいと思っているんですが・・・。」~くだんのスタッフはそうぼやいていましたが・・・組織としての成長を祈ります。

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味覚

先日コンペが行われた某ゴルフ場。高速道路を使ってはるばる出かけたのですが、そこの昼食が「とにかく不味い!」という噂でした。「申し訳ない」と、そこを選んだ幹事からはお詫びのメールが入ってきました・・・「なんとカレーさえアウトのようです」と。

私は意に介さずうわさのビーフカレーを注文しました。「えっ!先生はチャレンジャーですねえ!カレー食べるんですか?」と近付く人毎に驚いていましたが、注文と入れ違いのように速攻で持ってこられたそのカレーは、食べてみたらごく普通の味でした。まあ、基本的に私の辞書に「不味い」という日本語はないので、「先生の感想は当てにならない」というのが皆の評価ですが・・・。やれ牛丼がパサパサでふりかけみたいだとか、味噌汁は味噌にお湯をかけただけだとか、極めつけはお茶漬けを「もう勘弁して!」と言って半分残した輩まで・・・妙に大騒ぎになっていました。

「そうかなあ・・・。」
皆さん本当にグルメのようですが、正直な感想を云うと、「不味い」ということばを簡単に使いすぎじゃないかしら?・・・私はつくづく安物の舌で良かったと思います。料理の専門家が食したら口を揃えて「不味い」というのかもしれませんが、私はごく普通に美味しくいただけました。安くして満足感を得られるなんて、何と幸せなことか。「味覚」というものの価値は、高級食材の食感や有名料理人の作った料理の味をきちんと分かる(いわゆる「格付け番組」のあれ)ということよりも、たとえ[鈍感」と云われようとも、いかに何でも美味しくいただけるか?なんじゃないかと思います。「若いうちから良いものをたくさん食べさせて良い物の味を分からせる」ことより、「何でも美味しい」と感じられる前向きな味覚を養わさせることの方がずっと幸せな人生になるような気がします。

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危機管理

先日、ある催し事をうちの施設で企画しました。実行委員長をしていたわたしには、諸般のトラブルの判断を求められました。

たとえば、「無料検査の受付を9時半からします」と発表しました。大した検査ではないのですが、朝7時半くらいからそのために玄関前に集まってきて、もう8時頃にはその界隈に50人以上が溢れ始めました。だれかが「整理券を出してくれないか?」という要望を出します。当然の要求。これまでそれは出したことはないから「出せません」と答えたものの、見る見る増えていく。彼らは彼らなりに話し合って一列に並び始めました。自主統制を始めているのだからそれでいいんじゃないの?自己責任でしょ?と思うのだけれど、でも主催者としてはそれは無責任であり、何らかの事故があったらやはり非難は免れないでしょう。それを想定して対処を考えておくことこそが<危機管理能力なのだ>と管理者は常に指摘し、実際に対処しました。

これはまだ偏屈者のわたしでも理解できましたが、でもたとえば50人ほどが参加するウォーキング大会のコース選択で、内容はおもしろいけれど交通量が多くて危険なところがある<歴史探訪コース>と、安全だけど何の変哲もない田圃のあぜ道を歩く<田園散策コース>とどっちにする?となったとき、管理者の多くが「おもしろくなくても安全な方を選ぶべきだ」と答えたのには落胆しました。何のためにウォーキング大会はあるのか?別に軍隊の鍛錬ではないのだから、目的におもしろいものがなかったらわざわざ参加などしないのではないかしら?それを考えると、これはまったくもって本末転倒なナンセンスな選択に思えます。

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自律神経失調

昨日の朝、運転をしていて、何の前触れもなく急に気持ちが悪くなりました。何かを凝視した瞬間、ぐるぐる回るめまいではなく若干揺れる感じのめまいがし始めて、油断すると意識が遠のいてしまうのではないかという強い不安感に襲われるのです。

これまでにも、自動車専用道路の片道一車線の対面道路でよく経験していました。特に天空に上っていく道路では、それに気付いた瞬間から発作が起きて、運転を続けることが怖くてたまらなくなります。一般道なら路肩に停車して嵐の過ぎ去るのを待てますが、ハイウェイではそれもできません。「運転を止められない」というストレスがさらにその不安感を助長させて今にも発狂しそうになり、少しでも横を向くとバランスを壊して壁にぶつかる妄想に苛(さいな)まれ、大きな深呼吸を何度もしながら前屈みになってじっと前を凝視するのが常です。それでも延々と続く狭くて高いコンクリート壁・・・意識が遠のきそうな発作は周期的に襲ってくるのです。

「パニック障害」というのは、まさしくこんな感じなのだろうなと思いました。自分はこのまま狂ってしまうのではないか?このまま壁にぶつかって木っ端微塵になるのではないか?考えれば考えるほど周りの風景がこの世のものとは思えない歪み方をしてきます。同じ道でも、帰り道なら何も起こらないことがあるのを経験するうちに、睡眠不足や過労の条件が加わると起こりやすいことが分かってちょっと気が楽になりました。ところが今、この文章を書いている最中に発作が起こり始めました。これは新しいパターンです!

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早弁

11:45になったら、まだ仕事を続けているスタッフや同僚を後目に、わたしは家から持ってきた弁当を抱えてスタッフルームに行きます。別に腹が減っているわけではありませんが、仕事の区切りがいいからちょっと早めの昼食を取るのがわたしの日課になりました。一時そんな行動に後ろめたさもありましたが、用もないのに皆の仕事区切りまで待っている意味もないな、と割り切るようにしました。

遠いむかし、研修医をしていたころ、古い病院の地下に職員食堂がありました。私たち循環器の研修医は11:30になったら食堂が開くのを待ちきれないようにして走りました。「お前ら、今日ももう飯食っているんか?循環器はそんなにヒマなんか?」と他の科の先生からよく皮肉られたものです。冗談じゃない!朝6:30から始まった午前中の業務をバタバタと片付け、13:00前から始まる入退院セレモニーのラッシュの前の区切りが11:30にあるだけだわ!済ませられる用事は済ませられるうちに済ませておかないと、これから時間がいくらあっても足りないような戦場になるんだから。「今食っておくのが一日の仕事をこなす上で一番効率が良いんだよ!」・・・他の科の先輩医師に反論することもできずに、心の中で叫びながら、必死で早弁をしていたことを思い出します。

同じ金をもらっているのだから同じ時間に同じように昼休みを取らないと不公平だと、だれかが文句を云います。でも、大の大人がお互いを監視するかのように連んで昼食をとりに行く姿はわたしには理解できません。その点、医療現場は勝手に時差勤務にしてもさほど支障のない融通の利く仕事だから、さっさと早弁させていただいています。

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運動会

最近は運動会を春にするところが増えましたが、やはりクラスのまとまりができてきた秋の方がずっと充実するような気がします。お父さんが朝早くから場所取りをし、おじいちゃん、おばあちゃんが応援に駆けつけ、昼に家族とお弁当・・・この一大行事は、裸足の足の裏の感覚と一緒に、何十年もたった今でも財産としての思い出になっています。

でも、わたしの場合、そんな運動会の思い出は、実は小学校まででした。中学校は単なる<クラス対抗バレーボール大会>でしたし、高校の体育祭になると全く家族を呼ぶような催し物ではありませんでした。福岡の予備校にも運動会はありましたけど・・・。大学は他の学部の体育祭の手伝いをしましたっけ。

今の病院がまだ小さくて他の場所にあったころ、わたしが初めて赴任したころには、病院の運動会が必ずありました。近くの小学校の校庭を借りた運動会は病院を上げての一大行事でした。職員だけでなく、職員の家族がみんなでやってくるし、医者の奥さんたちはみんなお弁当を作って持ってきてくれたりしていました。アットホームな絆の証・・・若手の私たちはどちらかと云うとちょっと面倒くさい気持ちで参加しており、救急車出動で呼ばれると(どうしたわけかこの日はいつもにも増して救急車出動が多かったのを覚えています)ちょっとホッとしたりしていましたが、今になって、あのころの職員の家族的なつながりがとても懐かしい気がします。

家族のつながり、仲間同志のつながり、その各々のつながりの深さをしっかりと確かめ合う一年一回の国民的行事が、諸般の都合や間違った平等意識の中で形骸化しようとしているのが、さびしくてたまりません。

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考え方の違い

夜中に庭に出したのに結局昨夜もうちの老犬はおしっこをしませんでした。なのに彼女は、夕方散歩に出たらすぐに大量のおしっこをします。これがわたしのココロをいらだたせるわけで、「もうそろそろいい?」という困った顔で遠目からわたしを眺める老犬ベル・・・。

「冗談じゃないわよ。庭は、家の中と同じでしょ?家の中でおしっこやウンチするなんて、そんな野蛮なことわたしには出来ないわ!なのに、おとうさんもおかあさんも寝る前になったらわたしに庭でおしっこをしろ!と責め立てるの。勘弁して欲しいわよね。おしっこやウンチは外でするものなんだから、朝晩わたしを外に連れてってよ!」

きっと彼女はそう思っているんだろうな。・・・散歩をしながら、ふとそう思いつきました。夜中に庭でする躾をするよりも彼女の考え方にしたがってやった方がいいのかもしれません。一方、彼女と行動を共にしている2歳の幼犬セイラは外では決して排泄をしません。彼女のココロを代弁するなら、

「わたしは外でウンチやおしっこする方がよっぽど下品だと思うわ。人前でお尻を突き出すなんてレディのすることじゃないわ。そんなことわたしには到底堪えられない。だから、散歩中には絶対しないの。ウンチもおしっこも、するなら家に帰ってからおしっこシートの上にするのが当然のマナーよ!」

といったところでしょうか。「セイラちゃんも、そろそろ散歩中にしてくれるようにならないかしら?」と思っているわたしたちって・・・飼い主の勝手な理論なんて彼らにとっては迷惑極まりないでしょうね。

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経験主義(2)

春日先生はその数ページ前の「わたしならこう答える」にはこう書いています(P12)。
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リエゾンでがんの終末期患者の枕元を訪れたときに、「あんたみたいに健康な奴に、俺の苦しみや恐怖がわかってたまるか!」と怒鳴られたとしたら、わたしは答えるだろう。
「おっしゃる通りです。わたしは健康ですし、あなたではないのだからあなたの苦しみを体験することはできません。ただし、自分なりに過去のつらい経験をもとにあなたの気持ちを類推しようと努めていますし、もしわたしがあなたと同じくらいに苦しんでいたら、知恵を出す余裕もなくなってしまうでしょう。今のわたしは、あなたよりも苦痛が軽くなくては使命を果たせないのです」 偏狭な経験主義に屈する必要などないのである。(後略)
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あるいは本文「泣く医者」のくだり(P56)では、
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・・・なるほどこうしたロジックはある意味では正しい。がんの医者や統合失調の医者のほうが、患者の気持ちをよりリアルに理解することは可能でしょう。ただし、共感のみが医療のすべてではない。ひとごとだからこそ冷静に判断を下したり、多少なりともつらい手術や処置をきちんと行うことができる。偏狭な経験主義には、ある種の自己愛にも似た傲慢さがあるのです。
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「たばこを吸ったこともない人に禁煙の辛さなんかわかるものか!」とか、「恋愛経験も失恋経験もない人に<恋とは>など気軽に語ってほしくない!」とか、「受験浪人を経験したひとにだけその素晴らしさが分かる!」とか、そういうことは昔からよく云われます。でも、経験主義の是非を問いたくて書き写したのではありません。・・・「こういう屁理屈って、いいな」と思っただけです。まだ、「『治らない』時代の医療者心得帳-カスガ先生の答えのない悩み相談室」(春日武彦著、医学書院)は読み始めたばかりです。真の内容についてはまた改めて書きます。

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経験主義(1)

買っておきながらなかなか読み出せなかった「『治らない』時代の医療者心得帳-カスガ先生の答えのない悩み相談室」(春日武彦著、医学書院)をやっと読み始めました。帯にでっかく書かれたキャッチコピー、「きみに『中腰力』はあるか?~棚上げする度胸。矛盾に耐える知的肺活量。保留を重ねるツラの皮。タフな医療者は中腰だぜ!」に釣られて、つい買ってしまいました。

まだ「ちょっと長いまえがき」をやっと読み終えたところですが、その中に出てくる『焦熱の裁き』(DLロビンズ、村上和久訳、新潮文庫)の一節、アル中の牧師がスコッチ片手に語ることばを無性に書き写したくなりました。

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たぶん全能の神がたった一つ知らないのは、全能ではないというのがどういうものかということだろう。考えてもみろ、神は不死だから、死についてはなにも知らないのは明らかだ。神には欠点がないので、欠点や誘惑、欲望、貪欲、自責の念、猜疑心を持つというのがいったいどういうことなのか想像できない。神は万人に愛されているので、孤独や失望、怒りといった感情をまったく理解できない。神には天地を創造するだけの力があるので、当然ながら弱いというのが本当はどういうことなのかわからない。簡単にいえば、神は人間らしさというものがどういうものなのかわからないんだ。それがわれわれの仕事なんだ。無能なうえにちっぽけで、不道徳なうえに冷笑的で、限りある生命を持つことが。われわれは神の知識にブラックホールが一つあることを神に教えてやるのさ。・・・(後略)」

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夜の草刈り

先日のイベントで、他のスタッフと一緒にわたしの紹介パネルも貼り出されていました。

「勘弁してよ!」と云いたくなるような大きな顔写真の下に書かれた文字を見ていたら、『趣味:夜の草刈り』と印刷されているのを見つけました。「何じゃこりゃ?」と驚いて、早速、担当者に注意しに行きました。手書きで提出した調査票の私の字が汚かったのかもしれないけれど、私は『庭の草刈り』って書いたのよ!『庭』が『夜』になったら、全然違うことになるじゃない?第一、めちゃくちゃ<怪しいオヤジ>やん!・・・もしかしたら、『草刈り』を他の意味に考えたりする輩も居るかもしれないやん?

担当のお嬢さんはそれを聞くと、最初はキョトンとしていましたが、それから意味が分かってまずは大笑い!「私、勘違いしてました。いつも仕事が忙しくて草刈りの時間も取れないから、仕事から帰ってから暗闇の中で草刈りをするんだとばかり思い込んでたから、そのまま『夜の草刈り』で出しちゃいました。ああ、『庭』ですかぁ・・・あっはっはっはっ!」だそうな。あまりに屈託なく笑うのを見ていたら、「まあいいか!」という気分になりました。

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暗がりの怪奇

いつの間にか日が短くなりました。先日、足早に夕方のワンの散歩をしていたら、途中で日は見る見る暮れていきました。

「こんばんは」・・・いつも出会う人たちといつも通りにあいさつをしました。さらに黙々と歩いていると、薄暗がりの中でさまざまな人たちの姿が目に入りました。引き連れたワンが何をしているかなど興味がない様子で、ずっと大声で携帯電話で話し続ける異国の女性。あるいは歩きながら商談でもしているのか、突然大声で怒鳴りはじめる男性。暗闇に声だけが大きく響く公園では、姿が見えないだけにちょっと薄気味が悪く、自ずとさらに足早になります。方や、前方からは両耳から白いコードをたらした若い女性がランニングウエアで走り去り、それとすれ違うかのように後ろからわたしを抜き去った自転車の男性も同じようにイヤホーンをたらしながら無表情。

なんか、この異様な空間が怖くなりました。携帯電話で話しながら散歩している人たちも、イヤホーンで音楽を聴いている人たちも、皆目の前の空気を意図的に遮断して、自分の世界の中に浸っています。部屋の中で電話をしているのとは違います。車の中で音楽を聴いているのとも違います。多くの人間が暗闇の公園の中ですれ違っているにもかかわらず、その多くが全く関わりあっていない現実。これが現代社会なのだなあ。

「バイバ~イ!」・・・ついさっきまで草むらを走り回っていた陸上部の中学生たちが自転車に乗って四方八方に散っていきます。揺れるライトに照らされながら、きゃっきゃっと騒がしく笑う黄色い声が、この上なくわたしのこころを安堵させてくれました。

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ソース焼きそば

日曜日の朝、あるお笑いグループの談話をテレビで見ていました。

「妻がね、『今夜、何食べたい?』って聞いたんだよ。だから、『ソース焼きそばがいい』って答えたら、何て云ったと思う? 『え~、今日はお刺身にしようと思ったのに~』だってよ。これ、どう思う?」と、ちょと気色ばってOさんが話すと、
「『今夜はお刺身にしようと思うんだけど、それでいい?』って聞けばいいことだよね。」とKさんが極めて当たり前の答をし、
「オレだったら『あ、刺身も良いね~』って返すね。」とSさんが口を挟みました。「そうか、君だったらそうだよね。」と、なんか妙に納得するOさん。

この三人三様の会話・・・今は各々で活動している3人ですが、若い頃からこの3人は仲良しなんだろうなと思いました。基本、全然かみ合ってないこの3人の会話を聴きながら、この3人はそれぞれにこの関係が一番居心地がいいんだろうな、と感じました。傍目にはこのかみ合わない会話では、だれかがイライラするだろうと思う(わたしだったら、そう)のに、きっと当人たちは全然気にしていない関係・・・うらやましい限りです。

Oさんの話は、「そこでオレが『じゃあ、ソース焼きそばと刺身にすれないいじゃない?』って云ったんだよ。そしたら妻は『ふっ、ソース焼きそばと刺身は合わないわ』と笑って行っちゃったのよ。」と続きました。「で、結局どうなったかと云うと、出てきたのはソース焼きそばとさつま揚げだったんだけどね。」~たわいもない会話でした。

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子どもの塩分摂取

「日本人は3歳児でも塩分の過剰摂取例が多い」

先日送られてきた日経メディカルの記事の中に、こういう内容の学会報告が載っていました。第23回国際高血圧学会(バンクーバー)で国立病院機構九州医療センターの研究成果が報告されたものです。

2008年4月から1年間、3歳児健診にきた1424人の3歳児について尿中ナトリウム、カリウムなどの測定と食習慣に関する質問票の分析をしたところ、
・第一子の方が第二子以降より尿中ナトリウム排泄量が少ない。
・間食を食べる子は食べない子より尿中ナトリウム排泄量が多く、Kaup指数も高値。
・果物を食べる子は食べない子より尿中カリウム排泄量が多く、Kaup指数が高い。
・「塩分の取りすぎに注意している」保護者は注意していない保護者より年齢が高い。
・保護者が注意していてもしていなくても尿中ナトリウム排泄量に差はなかったが、尿中カリウム排泄量は注意している親の子の方が明らかに高い。
 注)Kaup指数:子どもの発育状態(肥満度)判定の目安になる値
 注)「尿中ナトリウム排泄量が多い」とはナトリウム(塩分)の摂取量が多いということ

世の若いお母さま方、自分の子どものころには気にもしていなかった食習慣のことを、自分のことは棚に上げて注意するのは大変ですけれど、わが子のため、ひいては自分の健康のため、一念発起して注意してはいかがでしょうか。ただ・・・現代の日本人は昔考えられていたほど<中庸>が得意ではなく、「ほどほど」というのが難しいようで、「注意する」と云えば極端に制限したりしますから、かえって心配ではありますけれど。

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粗食の誤解

「要するに、『粗食のすすめ』ですね。メタボになりたくなかったら、できる限り粗食にしなさい、ってことですよね。」・・・健診結果の説明を聞いてそんな総括をする人は女性(特に主婦)に多いように感じます。わたしは一応相づちを打ちながらも、「蛇足ながら・・・」と釘を刺すことにしています。

<粗食>とは何なのか?本来、「一汁一菜」で代表される穀物と野菜を中心にした日本古来の食事のことであって、決して<粗末な食事>という意味ではありません。たまたま見つけた料理のページ「プラチナレシピ」の中にこんな文章がありました。
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[粗食のソは粗末のソにあらず。]
昔はどこの家の朝ご飯も「ご飯、みそ汁、納豆、お漬け物」だった。それに魚と季節の野菜のお浸し、煮豆、野菜の煮物のどれかを足して夕ご飯。まり子ちゃんもエミちゃんもカズオ君も、みんなそうやって大きくなったのである。それがある日突然、それじゃいけない、そんな食事じゃダメなんだ!と、どなたかが仰るものだから、青天の霹靂!...昭和の主婦達は困惑してしまった。・・・(後略)
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世の若い主婦の皆さんにお伝えしておきたい。<粗食>は「安物の手抜き料理」という意味ではありません。今や安い食材ほど似非食材が多く、料理の手を抜けば抜けるほど質が悪くて高カロリー高脂肪の料理ができあがるようになっています。きちんと食材を選んできちんと料理をしないと<粗食>はできあがらないのだということを理解しておいてほしいと思います。

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にわか監督

世のプロスポーツ観戦の風景の中に必ず居るのが、<にわか監督>たちです。

「何やってるんだ!」「そこは左じゃなくて右だろ、バカ!」「遅い!」「おいおい、やる気はあるんか?」・・・彼らの厳しい指摘とヤジは後を絶ちません。必ずしも経験があるわけではない、むしろ本格的にやったことがない輩の方が多いような気がしますが、彼らにはどのスポーツの場合でもひとつの特徴があります。基本的に彼らは文句だけしか云いません。「プロなのだから上手くやるのは当たり前」というスタンスなのかもしれませんが、彼らのいらだちだけが観客席を包むので、場の全体が殺伐としていきます。

わたしが良く行くサッカーの観客席には、そんな<にわか監督>の他に必ず褒め殺しのサポーターも居ます。「うまい!さすが~」「やればできるじゃな~い!もうひとがんばりしよう!」「そこだっ!よっしゃー!」・・・別に技術的なアドバイスをしているわけではありませんし本当はかなり甘いのかもしれませんが、彼らの煽(おだ)て文句はそれでなくても沈みがちになっている(負けていることが多いから)観客席を一気に和ませてくれます。もし選手たちに聞こえているならば自らを鼓舞する力になれるだろうと感じます。

<にわか監督>もそんな褒め殺しサポーターも、求めていることはきっと一緒なのでしょう。どちらもチームを愛し、選手たちにできるだけ良いパフォーマンスをして欲しいと願う一心だと推測できます。それでも、全く逆の表現形になってしまうのはなぜなのだろう?そんなことを考えながら、自分自身に置き換えてみました。どうだろう?自分は部下たちや上司たちに対していつもどっちの表現形を選択しているだろうか?・・・ちょっと自信がありません。

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気を遣ってみる

いつも腰が低く、虫の居所が悪いわたしが何を云っても決して反論することなく、それでいて聞き流し(多くの人が私が壊れたときの対処法としている)ているわけでもなく、米つきバッタのような単なるイエスマンでもなく、きちんきちんと対応してくれる青年がいます。彼と話していると、いつの間にか自分も物腰が柔らかくなるから不思議です。

医者というものは多くの場合、その組織の中では高いところに位置するものだから、時として理不尽なことを強引に主張したりします。一国一城の重鎮であるから理不尽でも従わねばならない、という重い掟にじっと絶えているナースや事務員さんも居ますが、最近はわりと云いたいことをきちんと口にする若者が増えてきました。それが良いことか悪いことかわかりませんが、わたしは若い頃からどんな上司にでも理不尽と思ったら食ってかかっていましたから、そんな人たちの心情がわからないでもありません。

むしろ、冒頭の青年の心中がさっぱりわかりません。「そんなに周りに気を遣ってたら疲れないか?」などと思うのはきっと全くの見当外れなのでしょう。彼らには彼らなりの秩序があって、初めから気など遣っているわけではないのかもしれません。それでもわたしが彼らの心中を経験しようと思うなら、とりあえず「気を遣ってみる」しかないと思います。わたしにできることといえばせいぜい口を出さずに話を聞き流していくことくらいですが、「反論しないでじっと聞いておくだけ」という行動は、わたしにはおそらくもの凄いストレスです。

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なんちゃって禁煙外来

いよいよタバコ税大幅値上げの日を迎えました。

禁煙宣言する人、しない人、断固喫煙を続けると言い張る人、さまざまな表情を昨日は各テレビ局が追いかけていました。そんな中で、必ず報道されたのが禁煙外来です。有名俳優を使ったテレビCMの影響もあり、この機会に禁煙外来を受診する人が急増しているそうです。わたしたちも健診の説明のときにはことあるごとに禁煙を勧め、その気になったときには必ず禁煙外来を受診するように忠告しています。自分だけの力で禁煙を頑張るよりもはるかに楽ですし禁煙成功率も高いのです。

ただ、これから禁煙外来を受診しようと思っている人は、ご注意ください。世の中には、いわゆる「なんちゃって禁煙外来」をやっている医者が少なくありません。申請して認可されたから禁煙外来を標榜しているものの、あくまで形だけ取り組んでいるようなクリニックもあります。禁煙の現場では、それに取り組む医者の熱心さがそのまま禁煙成功率の上昇に繋がると云っても過言ではありません。形だけの診察と助言を受けるだけでは上手くいきませんし、単に禁煙パッチや内服薬をもらって飲めば止められるというような単純な話でもないことを十分理解してください。どうせ同じ金を払って受診するなら、「なんちゃって」ではない、禁煙の情熱に燃えた本物の先生が居る「禁煙外来」に行きたいものです。

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