« 2010年12月 | トップページ | 2011年2月 »

2011年1月

すすめる

パソコンで文章を書く機会が多くなって、自分で文字を書かなくなった分だけ急速に漢字を忘れてきているのは事実です。でもその一方で、ワープロ辞書は漢字の選択肢を示してくれます。これは意外に勉強になります。

最近わたしが使い方に悩んでいる単語に「すすめる」があります。<前にすすめる>という意味の「進める」はわたしにも分かりますが、「この商品はおすすめです」とか「○○することをおすすめします」とか云う場合の「すすめる」にどの字を充てるのか。「勧」「薦」「奨」・・・正直なところ、どれもほとんど同じだと思っていました。

これをワープロ辞書の選択肢で見てみると、
 勧める→相手に誘い促す。勧誘、勧奨、勧告。
 薦める→人や物の良い点を挙げて採用を促す。推薦、自薦、他薦。
 奨める→=勧める
とあります。「なるほど~」と一旦は唸ってみるものの、何かあやふやで結局自分が使うときに今ひとつ自信が持てません。こういうときにはネット検索・・・なんと「薦める、勧める、奨めるの違いは?」というテーマでYahoo知恵袋に毎年出ていました。

(前略)~「入会(転地・旅行・出席)を勧める。 食事(たばこ・座ぶとん)を勧める。のように、『他人に働きかけて、何かをするように説く』『他人の意志を動かすように説く』意では、『勧める』が使われる。さらに、クラス委員(候補者)として薦める。 恩師の薦めによって就職できた。 良書を薦める。のように、『ある人や物事が採用されることを望ましいとして、他人に説く』意では、『薦める』が使われる。」(文化庁「『ことば』シリーズ」から)・・・つまり、「勧誘する」という場合には「勧める」を、「推薦する」という場合には「薦める」を使うということですね。~

・・・ん~。「推薦したいから勧誘する」場合はどっちなのかなあ?

ちなみに同書によると、「『おすすめの+名詞』という場合は、一般に『お勧め』を使う(例「お勧めの映画」「お勧めのレストラン」)」そうです。これはクリアカットでうれしいけれど、上記の理屈が完全無視なのはなぜかしら?

| | コメント (0)

長時間視聴

(運動中の心拍数)-(運動後の心拍数)を「心拍数回復(HRR)」といいます。HRRが低いほど運動後に心拍数の戻りが悪いことを示しており、死亡や心血管疾患の予測因子とされています。これが「テレビやインターネットなどの長時間画面視聴で障害される」という報告がありました(Jien-Jiun Chen,et al.: Heart Asia, Emmanuel Stamakakis, et al.: JACC) 。

さらに女性の場合は、視聴時間が長いほど腹囲が大きく、HDLコレステロール値が低く、CRPが高いなどの代謝リスクも高くなるらしいのですが、この手のデータは以前からありました。ただ、これが<長時間視聴=運動不足>という意味ではなく、ずっと座っていることで自律神経機能に影響を及ぼす結果だと推測されているところが面白いと思いました。だから定期的にきちんと中~高程度の運動をしろ!とか、あるいは余暇に長時間座らないようにしようとか、そんなことを推奨するわけですが・・・まあ、云わずもがなの真理=「人間は運動欲はないくせに動かない限り生きてはいけない」ということでしょうか。もしもし、定期的にフィットネスジムに通っているけれど、それ以外は暇さえあれば撮り貯めしておいた韓流ドラマを一日中見ているそこの某奥さま・・・!

ちなみに、この手の研究はついつい「余暇の時間」と思い込み勝ちですが、デスクに1人1台のパソコンが置かれて勤務の間中小さなノートパソコン画面に向かって猫背でキーを打っているサラリーマン諸氏こそ、何とかしなければならないのではありますまいか?

| | コメント (0)

冬眠中

「この1年で、えらくまあ体重が増えましたね~!」

ある女性の健診結果を説明していて、つい大声を出してしまいました。1年で5kgはやっぱり大きい。「はい。今年はえらい寒かったけんですね~。今年の冬は運動をまったくしなくなったんです。冬眠中で~す♪」・・・明るく屈託ない声で答えてくれました。

「冬眠」か・・・冬眠する動物たちは総じて長生きで、冬眠中に大量の細菌や発ガン性物質にさらされても死なない~この期間に脳が働いて悪い方向に向いた細胞の修復作業をするからなのだ、という話を以前ここに書きました(「眠らない冬眠」(前編)2008.12.3)。冬眠環境は究極の健康管理の場なのだそうです。ドラクエやドラゴンボールのように、死んだものが生き返るというのはまんざら空想の世界だけの話ではないのです。ちなみにクマがするのは冬眠ではなくて「冬ごもり」・・・冬ごもりをしている間に体重は減るけれど皮下脂肪だけ減って筋肉や骨はそのまま維持されるのだ、ということも書きました(「眠らない冬眠」(後編)2008.12.4)。あまりに奥の深いメカニズム・・・。

「でも、冬眠している動物は冬眠中に何も食べませんけどね~。だから絶対に太りませんけどね~。」・・・さりげなく皮肉を云ったら、「はいはい、おっしゃるとおり♪」と返されました。かなり手強いので、早々にその話題から離れました。

| | コメント (0)

新型うつ

先週末に「産業医に対するメンタルヘルス対策等に関する研修会」(熊本産業保健推進センター主催)に行ってきました。企業の産業医をやっているためか、内容にあまり新しい知見はありませんでしたが、わりと居眠りもせず充実した研修会でした。その中で、弓削病院の岡田修治先生が雑談として新型うつについて話されました。

・・・日本では「新型うつ病」が最近良く取り沙汰されますが、欧米ではそれほどでもない。そうれが何故なのだろうかとずっと不思議でした。先日欧米の精神医療に詳しい先生に聞いてみましたが、どうも、欧米ではずっと昔から「新型うつ=社会適応がうまくできない人」という存在は一定の割合で居るのが当たり前だったようです。当たり前のこととして折込み済みなので、こういう人たちが社会できちんと構成員になるべき場が作られているのではないかとのことです。一方、日本の社会は昔からそういう人たちを切り捨てていました。ですから、「新型うつ」として市民権を得てきたこと自体が、やっと日本も欧米型になろうとしているのかもしれません。・・・そんな内容でした。

「そんな奴は『新型うつ』ってやつだからどうしようもないよ!」「そいつはもうどうせダメだから・・・」「あいつらはいつまでたっても人のせいばかりにするから見てるとイライラする」「君はまだそんなやつの相手をしているのか?良く続くもんだなぁ、えらいなあぁ!」・・・企業の産業医として受け持っている若者のことについて医療的な相談をしたくて同僚や知人に彼の話をするとすぐにこんな云い方をされます。わたしはその時点で話を止めます。わたしの周りだけなのかもしれませんが、初めからこういう決め込み型の考え方の人がまだまだ多いのが現実のように思います。

| | コメント (2)

厄明け

先日、知人4人の厄明け祝いのパーティに行きました。

『最近、ちまたでは男の25歳、42歳、61歳、女の19歳、33歳、37歳を厄年だといい、男の42歳と女の33歳は大厄だという。しかしその由来は不明である。男性41歳を前厄、43を挑厄といい、41~43歳の前後3年は注意して過ごさなければならないらしい』と江戸時代の文献にありますが、どうも平安時代からの風習のようです。

「男は厄の歳よりも厄明けしてからいろんなことが起きるんですよ。カラダの代謝も一気に変わってしまって大病を患うし、事故やら身内の災難やらいろんなことが起きるのはこれからですよ。」・・・酒を注ぎながら、自分の経験をもとに知人たちにそんな脅し文句を云ったら、その中の一人が口を開きました。「今までそんな話は聞いても全然興味がなかった。なのに妙に周りにがんや突然死の人が増えて、あんなに強気だった人が『早く死にたい』って云うのを見ていたら、なんか初めて自分のこれからや健康や死ぬことの意味や、そんなことを考えるようになった。」・・・日頃の顔とは違って神妙な表情でした。

陰陽道で<男の25歳、42歳、女の19歳、33歳が厄年であるという理由は、2は陰数であり、5は陽数であり、つまり陰が上に、陽が下にあるから25歳を恐れ、42歳は4も2も陰数であり、読んで「死」、男性は最もこれを恐れる。19歳は10は陰数であり、9は陽数であり、陰が上に、陽が下にあり、したがって女性はこれを恐れ、33は陽数が重なり、事の敗続するのを「散々」といい、いずれも「サンザン」と同訓であるから最も恐れるとしている>などと極めていい加減な理由のようです。その頃が一番公私共に疲れが出てくる年頃だから・・・なんてまことしやかなことを信じていましたがどうも統計上はそんな事実もないみたい。

単なる迷信であれ、単なる風習であれ、厄明けをはるか前に終えた身として人生を考えると、人生の節目として、自分を考えるきっかけとして、厄という風習はやはりとても意味のある大事な儀式だなと思います。

| | コメント (0)

「まず人の話を聞け」

「(前略)・・・そして子供たちにも言ってる。『人の話は聞け。ちゃんと聞いたうえで、それを自分が判断すればいい。だから、まずは人の話を聞け』と。(中略)・・・とにかく自分の価値観だけでやってたら、それだけの人間にしかなれないから。」

先日読んだ、元サッカー日本代表の田坂和昭氏の『負けずじゃけん』(枻出版社)の中に出てきた一節です。これを読んだ瞬間から自己反省・・・自分は人の話を最後まで聞いているか?人が話しているのを横取りしていないか?聞いているフリをして聞き流していないか?人が話している間、ずっと頭の中はその反論や持論の構築で一杯になっていないか?初めから否定するために聞いていないか?初めから人の話を全否定するつもりで聞いている人がよく発することば=「でもね。」~最近頻繁に使っていないか?

「そんなものは科学的じゃないから信用しない。俺は自分の目で見て確認できたものしか信用しない」と云い切る人が居ます。だから理屈に合わないことや見たことのない話は「聞く耳を持たない」という態度です。そういう人は認める認めないに関わらずほとんど人の話を聞く気がありません。自分に自信があるというか自分しか信じられない様子で、たしかに彼らの姿を傍から見ていると、裸の王様的で、人間としてののびしろが全くない人だと思わざるを得ません。

偉そうなことを書き並べながら、自分もまた凝り固まった人間になっているのではないか?と自問自答しています。

| | コメント (2)

タオ

<第三章 飯だけはたっぷり喰う>

世間が
頭のいいやつを褒めるもんだから
ひとはみんな
利口になろうとあくせくする。
金や宝石を大事にするから
盗人がふえる。
世の中が
生きるのに必要のないものまで
やたらに欲しがらせるから
みんなの心がうわずってしまうんだ。

だから道(タオ)につながる人は
あれこれ欲しがる心を抑えて
飯だけはたっぷり喰う。
野心のほうは止めにして
骨をしっかりこしらえるんだ。

みんなが
無用な情報や余計な欲を持たなければ
ずるい政治家や実業家だって
つけいる隙がないのさ。
そうなんだ、
無用な心配と余計な欲をふりすてりゃあ
けっこう道はつくもんだ、
行き詰まっても-。

『タオ-老子』(加島祥造 ちくま文庫)の一節です。「タオ」は「道」のこと。中国語でdaoかtao・・・daoが日本で「ドウ」と発音され、Taoは英語では「老子の教える道=道教」のことだ、などということをこの本のあとがきを読んで初めて知りました。般若心経こそ命!と思っていたわたしに、老子が、タオが、突然割り込んできました。嵌るかもしれません。

| | コメント (0)

「オリックス大震災からの奇跡」

NHK-BS「スポーツ大陸」を見ました。16年前の阪神淡路大震災の年に優勝したプロ野球のオリックスブルーウェーブの話です。

あの時、私は単身赴任中の上天草の病院に早朝から向かっていました。あの年、大震災があったあの地で「野球どころではない!」という意見が出ても何もおかしくなかったはずです。昨年、口蹄疫禍でスポーツイベントが軒並み中止になったのとはちょっと違いますが、やはり「こんな時に野球なんて」と考えるのが上に立つ人間の常識でしょう。

でも、球団の判断は違っていました。「こんなときだからこそホームゲームをやらなければならない、やるべきだ!」・・・全く前例がない事件を前にしてのそんな大英断は、ワンマン社長の下ならいざ知らず、合議制の大企業では一筋縄ではいきません。そういう発想をする人が居ても、上にあがるうちには必ず反対する「常識人」が居ます。うちの職場でもそうです。若いみんなのいろいろな新しい発想の提案も上がるうちにいつの間にかポシャります。何故だか教えてもらえないうちに・・・。だからこそ、オリックス本社の大英断はすごいことだと思いました。関西企業だからなのかもしれません。そして、選手たちの予想に反して、4月1日の開幕戦に球場は観客で一杯になることになります。

ユニフォームに喪章を付けるのではなく「がんばろうKOBE」のワッペンを貼りつけるという発想もまた良い。今でこそ普通だけれど、当時の社会でそれは「ふざけている」と云われかねないことです。復興のために神戸市民に元気を与えようと必死に頑張る選手たちと、戦ううちにいつの間にか市民に選手が励まされる関係になっていた事実・・・そんな一体となった関係が羨ましくて、しゃくりあげながら感動して番組を見ていました。

| | コメント (2)

運動の効果

「こんだけ毎日頑張って運動しているけど、ちゃんと成果はあってるんだろうか?」

夫婦で夕方のワンコの散歩をしているときに、ふとわたしはそんなことを口にしました。堕落した生活の修正のために、一念発起して1月5日から毎日昼休みに職場のフィットネスセンターに通っています。夕方帰宅してからは1時間ほどのワンコの散歩、さらに夜は妻に付き合ってモムチャンダイエットのエクササイズ15分とレッグマジック・・・。

「あってるでしょ?そんだけ毎日やってるんだから!」
「でも、シルエットは今ひとつなんよね~。」
「思ったほど痩せんね?まあ、強いて云えば、ナッツと酒を止めたらもっと成果があるんじゃない?」
「うん、それは分かっちょる。前に試してみたことがあるけん。ナッツを食べなくても、あるいは晩酌をコップ1杯にしても、それだけで一気に体重が10kgも減った。それはもう試し済み。だから今回はそれをがまんせずに効果がある方法がないかな、と思って。」

「・・・ふ~ん・・・そうね・・・まあ、頑張ったら?」・・・あきれたような顔をした妻が鼻で笑いました。

| | コメント (2)

腎機能と運動

Medical Tribune(2011.1.13)にはわたしの興味を引いた記事がもうひとつありました。
第21回日本臨床スポーツ医学会(http://www.rinspo.jp/)の報告のページにあった『~腎機能障害者~運動は予後改善に有用』という記事です。

仙台社会保険病院高血圧・糖尿病内科の金澤雅之主任部長の報告です。たしかに腎機能障害の方、とくに透析患者さんにいたってはほとんど運動をしていません。腎機能障害者の体力が予測値の60~70%しかないというのも理解できますし、そのまま要介護状態になることも容易に想像できます。実はわたしは、腎機能が悪いひと(とくに透析者ならなおのこと)が運動すると腎機能をさらに悪化させるのではないか、と何となくそう思っていました。わたしのような医療者ですらそう思うのですから、世間の皆さんはもっと思っていたかもしれません。金澤先生は外来で維持透析を受けている慢性腎不全の患者さんに運動を促し(なんと自宅では続けてやりたがらないので透析中に下肢エルゴメーターをこがせたりしたというからなかなかアグレッシブ)、筋肉量や骨量が増えただけでなく腎機能や予後リスクまで改善したことを示したのです。

QOLの改善や精神心理学的なメリットだけでなく、実際に予後が改善する因子になるのだとすると、これはたしかに心臓リハビリと同レベルの画期的な事実だと云う気がします。ただし心臓リハビリと同様、やり方がまずいと逆効果になる危険性もはらんでいるように思いますので、早く系統だった腎機能障害者のスポーツ参加に関するガイドラインを作り出していただきたいものです。

| | コメント (2)

無煙たばこの行く末

Medical tribune(2011.1.13)で、『無煙たばこは禁煙に役立たない』という題名の記事が目に止まりました。

AHA(米国心臓教会)が「無煙たばこには中毒となるリスクや喫煙を再開するリスクを伴うため、たばこの代替あるいは禁煙手段として使用すべきではない」という声明を発表した(Circulation,2010;122:1520-1544)というものです。~「たばこに安全な製品はない」。筆頭著者のイリノイ大学生物行動保健科学科Mariann R.Piano教授が、近年の無煙たばこが通常のたばこに比べて安全な代替品になりうるか否かの議論に明確な姿勢を示した。~と書かれていました。

これを読みながら思い出したのは、昨年5月に日本で発売された無煙たばこ「ゼロスタイル」です。<火を使わず煙が出ないまったく新しいスタイルの無煙たばこ>として東京限定発売されたところまでは知っていましたが、その後どうなったのかを実はよく知りません。当時、煙が出ないから飛行機で吸っても良いのか?とか喫煙室でなくても吸って良いのか?とかいう論議になって、わたしも受診者経由で保健師から質問されたことがあります。日本禁煙学会も強く反発し(嗅ぎたばこの口腔癌発症率の異常な高さと、吸ったひとの吐く息に含まれるニコチンの間接喫煙の問題など、まったく普通のたばこと同等の有害さ)声明文を発表したようですが・・・今回検索してみたら、なんと東京で品薄状態になるほどの人気で、今月から全国発売されるようになる(なった?)とか。

相変わらず強気な展開をするJTはやはりお国のお墨付きが後ろ盾なのでしょう。悲しいことですが・・・。さらに悲しく思うのは、税収以外にまったく存在価値のない麻薬「たばこ」を売ることへの<批判>が相変わらずこの手の公の記事にまったく見られないことです。検閲でもあるのではないかと疑いたくなるほど不可解な事実です。

※ちなみに、禁煙を続けるわたしの友人が手放せないでいる「ネオシーダー」は<のど飴>ですが、それでも一本あたりの吸入量はニコチンがライトタバコの5分の1・タールはセブンスターより多く、依存性があることも判明しています。

| | コメント (0)

悪文

公文書に無意味な改行があったり、いつまでも切れない長文に主語述語関係がさっぱり成立していなかったり、何か「相変わらず」というよりも徐々にひどくなってきているような気がします。それを受ける側がそれを許すようになっているからではないかと思います。あるいはそれを許可する上司がその文章を書き換える能力がないからスルーさせるのか・・・「文学小説ではないのだから、最低限の意味さえ伝わればいいんじゃないの」ということでしょうか。

でも、文章を書くときに、どう書いたら自分の意図がわかりやすく伝わるかを考えた文章とそうでない文章の違いは、書いた人についての印象を大きく変えることになるのは事実です。「AよりBへ」と「AからBへ」・・・どちらも同じ意味だからどっちでも良いではないか!と思っている人は多いかもしれませんが、その文章の中でしっくり来るのは必ずどちらか一方なのです。わたしはそのくだりを何度も何度も読み返してみて、どちらを使うかを慎重に決めます。単なる事務的な公文書だとしても、自分の書いた文章を納得できるまで何度も読み返して訂正しながら提出するのがやはり礼儀だと思っています。

ちなみに、有名な医学雑誌や学会誌に医学論文を提出する場合、研究内容がいかに素晴らしくても、誤字があったり文法がおかしかったりしたらその時点で落とされます。それは他人にものを伝える場合の最低限の常識だからです。

| | コメント (0)

『落葉樹と常緑樹』

コラムを依頼されていた機関誌の新年号が発行されましたので転載します。例によってこのブログの繋ぎあわせです。

****************

いつまでも暑かった今季の秋は例年と少々様相が違いました。それでもこの原稿を書いている頃には我が家の庭のハナミズキの紅い葉は一気に落ちていきました。来る日も来る日も落ち葉を掃き集めるのが大変でずっと舌打ちをしていましたが、なくなってしまうと途端に寂しくなります。街路樹の銀杏も公園の紅葉も今季は色づきに足並みが揃いませんでしたが、それでも普通に落葉しました。「落葉樹」~日本に四季があるのと同じように(四季があるために)、落葉樹の一年はとても華やかです。その大きな葉は、光合成を行う重要な部分であるにもかかわらず、華々しく色づいたら辛い寒さを乗り切るためにさっさと切り離されます。冬眠の季節になって寒さにじっと耐える姿もまた健気です。

それに対して、華やかさはないけれど年間を通していつも青々とした葉をつけているのが「常緑樹」。秋の頃、職場から見える小学校の校庭には紅葉した見事な街路樹が何本もあり、その手前の空き地では緑の葉をたわわに付けた大きな常緑樹が元気に繁っていました。その不思議なコントラストを眺めながら、落葉樹と常緑樹の違いを考えてみました。若い頃、常に青々としている木の方が優れていると思っていました。自分も常に若く活気に満ちている常緑樹のようでありたいと願っていました。でも、ふと、落葉樹の方が生き方に余裕があるのではないかと思い始めました。環境に合わせるかのように姿を変えながら、でも華やかな時をきちんとアピールする落葉樹は、与える印象もその生き方もとても鮮烈で魅力的に見えたからです。そう考えると、落葉樹にも常緑樹にも、違った形で各々に逞しく生きていく姿が見て取れます。

人間はどうでしょう。人間のカラダにも環境に合わせて各々の持って生まれた体質というものがあります。痩せ型(エネルギー消費型)と小太り型(エネルギー蓄積型)の各々はそれがその人に適している最適の体型なのではないかしらと思います。小太りが長生きだからといって痩せ型の人が必死に太る努力をするのはナンセンスですし、小太りは長生きできないといって何十年も同じ体型のおばさんが突然断食を試みてもメリットがあるとは思えません。それを平均点の統計学に当てはめて、BMI22が理想だとか24が良いとか、あるいは内臓脂肪はどれくらいが良いとか、何でもひとつにまとめようとするから無理が出てくる。もしかしたら各々の体質が一律ではないからこそ、人類は生き延びてこられたのかもしれません。飽食の時代にはエネルギー消費型が生き延び、飢餓の時代にはエネルギー蓄積型が力を発揮する・・・それは人類にとって最大の優先事項である『種の保存』のために初めから備わっている秩序なのではないでしょうか。

| | コメント (0)

突発性と特発性

医学用語について、あれ?と思うことがあります。

「35歳のときに『突発性心筋症』と云われた」と問診票に書かれていました。本人と面談して、「本当に『突発性』ですか?」と聞くと「はいそうです。」と答えるので、ナースの入力ミスではないようです。でも「そういう診断名は聞いたことがないぞ!それを云うなら『特発性心筋症』だろ!誰がそんないい加減な用語を教えたのだろう?あるいは本人が聞き間違えただけだろうか?」などと考えました。ところが先日インターネットで検索をしたところ、「特発性心筋症」も「突発性心筋症」もほぼ同じくらいのヒット数なのです。これにはとても驚きました。

「特発性」とは医学の世界以外ではほとんど使われない言葉ですが、「原因不明の」という意味です。一方「突発性」とは文字通り、「突然起きる」という意味です。拡張型心筋症や肥大型心筋症は、「原因不明」の心筋症であって「突然起きる」ものではないはず、どうしてこんな使い方が混在するのでしょう。思うに、元々の病名表記「Idiopathic Cardiomyopathy」の「idiopathic」の日本語訳として、研究社の新英和中辞典では、<【医学】 突発性疾患,原因不明の疾患>とあることから、日本語訳の段階で二つの言葉が生まれたのではないでしょうか?これからは無碍に否定的な云い方はしないようにしますが、それでもやっぱりわたしには「突発性心筋症」の表現は違和感だらけです。

| | コメント (0)

異常値

「ここの異常値ですけど・・・。」
「ああそれはずっと前からです。もう若い時からいつもH(high)の印が付いています。体質だろうと云われています。」

健診結果を説明する時に、話の腰を折ってこういう返答で総括しようとする人がいます。きっとずっと前から同じ検査値に同じような説明を受けてきているのでしょう。ただ、「体質だろう」では終われないものは多々あります。悪玉(LDL)コレステロール高値の男性や高血圧症・高尿酸血症など、「体質なら、早いうちに内服するしか手がないよ」と思うようなものもあります。これまでずっと同様だったのに、「運動と食事と酒に注意しましょう」としか云われてこなかったとしたら、それは医療者の怠慢です。毎年云われているのだから、本人はそれなりに生活療法を頑張っているはずだから、もうそれ以上修行僧の道を極めさせる指示をしてもムダだし酷というものです。かといって、やっても良くならないのが「体質」というものだから、しょうがありませんという理論は江戸時代までの概念。やっぱり、さっさと観念させて病院受診を強く勧めていただきたい。

少々話が脱線しました。健診の現場では、得られた検査値が高いか低いか、異常か異常でないか、を評価しているのではありません(そう思っている医者や保健師さんはナンセンス極まりない)。悪化してきているか、改善してきているかを評価しているのです。残念ながら機械は変化の有無やその変化に意味のあるものかどうかの評価が苦手です。1年間の取り組みでもの凄く改善していてもまだまだ正常にほど遠ければ酷な判定をします。そんなときに成果を褒めながらその機械判定に手心を加えて修正するのが健診医の仕事です。世の中には「だんだん正常に近付いている異常と、だんだん異常に近付いている正常があり、後者は判定が良くても要注意なのだ」ということもしっかりと説明してあげてほしいと思います。

健診結果の説明に10分以上費やせる理由がわからない!と云っていた○○先生、わかりました?

| | コメント (0)

コタツと試験勉強

「センター試験の日はいつも雪ですね!」とテレビのコメンテーターが云っていました。今年の大学入試センター試験も、日本中が大寒波に見舞われる中で粛々と遂行されています。受験生の皆さんが、この日に勉強の成果を十分発揮できるようお祈りいたします。幸せなことに、わたしは入学試験で実力を発揮できずに終わった経験がありません。大学入試に落ちて予備校に通ったのは、単に実力がなかったから・・・。そういえば、医師国家試験は絶対落ちたと思いましたから、もしかしたらマークシートを埋めるときにめちゃくちゃ勘が当たっただけだったりして(オソロシヤオソロシヤ)。

わたしたちの大学入試はセンター試験でも共通一次でもなく、一期校・二期校に分散した各々一発勝負の試験でした。国立大学の一期校の試験日は3月の初め、その日もいつも季節外れの雪が舞う寒い日でした。当時から<大学入試=雪>が定番だったのかもしれません。試験勉強で思い出すのは、いつもコタツ。あの中に入り込んで、机の上に必要なテキストとノートを並べて、自分の周りにも必要な参考書を並べて要塞を作って・・・あの温もりは天国でした。頭寒足熱・・・ふと気付くといつもそのまま肩までコタツ布団に包まれて爆睡していましたっけ(汗)。受験生の諸君、頑張ってくれたまえ~!

歳をとってきて、寒いとエネルギーを使うのだということがやっと体感としてわかるようになりました。寒い日に妙に眠くなるのも、寒いときに十分な食事をとるとくじけずにすむのも、そのせいなのでしょう。・・・そりゃ太るわ。

| | コメント (0)

「先生も太りましたよね!」

「この年代になってくると年々基礎代謝が落ちてきますから、どうしてもデータが悪化しがちになります。日々煩悩との闘いですけど、カラダをいじり始めた以上は『今世の修行』だと思って頑張るしかありませんよ。」・・・1年ぶりに人間ドックにこられた50歳の男性にドックの結果説明をしました。1年前には一念発起して頑張って良くなっていた検査データが、わずかずつですが悪化してきていたのです。腹部CT検査による内臓脂肪面積も、今回初めて増加に転じました。だから、叱咤激励の意味をこめて説明をしたのですが、そのときに思わぬ反撃を受けました。

「先生も少し太りましたよね!」・・・ぐ~!あなた去年のわたしを知っているのね~。でも思っていても口にしちゃいけないのよ、そういうこと~(汗)!

<いや、これはむくんでいるですよ。昨日の夜飲み過ぎたから。体重は変わっていませんよ。>・・・そんな答えも考え付きましたが、そんなみっともないことは申しません。「はい、太りました。なかなかうまく行きませんね。でもこれはいかんなと思って、正月から毎日運動を再開しましたよ。だからもうすぐ絞れると思います。ま、お互い頑張りましょう!来年の成果を楽しみにしています!」・・・潔く認めながら話を区切りました。われながら上手くまとめたな!とちょっと満足。でも、生活習慣病の指導をする立場としては厳しいものがあります。別に自分が模範を示さなくてもいいのだけれど、『痩せられるかどうか自分で試してみたら、大してむずかしいことではなかった』なんて強気に豪語していた身としては、可能な限り悪あがきをしないといけないみたいです。

| | コメント (0)

トラブル?

先日、ご遠方から来られた70歳の男性が、脳MRI検査を受けました。

「何か金属を身につけていませんか?」という問いに、「特に何もありません」と答えたので検査を始めましたが、画像に明らかに歪みが見られたため、すぐに中断させました。あわてて確認したところ補聴器を付けたままである事がわかり、それを外して再開したら、その後は順調に検査を終えることができました。ただ、そのためにどうも補聴器の調子がおかしくなった可能性がありました。

「きちんとやるべき確認はしたのだから、こちらに何の落ち度もないのだから、特に補聴器の弁償はしない」・・・何のクレームも出ていない段階から、上層部でそんな結論を出したようです。昔、初めて健診センターに来たころ、「そこまで謙(へりくだ)らなくても」と思うほどに、何でも菓子箱を持って謝りに行っていた時代を目の当たりにしていたわたしにとっては、その変り身にちょっと違和感を感じました。以前がやりすぎだったのか?それともそれだけ世知辛い時代になったのか?

何の落ち度もないのだけれど、「どうもありがとうございました」と皆が玄関先に並んで頭を下げている姿を想像しながら、これを危機管理能力と云ってもいいのかしらと、ちょっと複雑な気持ちになりました。

| | コメント (2)

時刻

うちの職場の掛け時計の指す時刻が時計によって微妙に違います。意図的に進めているものもあれば、勝手にずれてきているものもあります。正確な時刻を指す時計がどれなのか、実はよく分かりません。

こういういい加減さが最近とても好きになりました。もちろん、正確な時刻を指す時計はたくさんあります。先日、止まっていた我が家の目覚まし時計の電池を入れ替えたら突然勝手に針がグルグル動き始めて、明確な一点で止まりました。電波時計です。携帯電話や電波時計は毎日きちんと標準時刻に修正してくれますから、一分一秒たりとも狂いのない正確な時刻を表示してくれます。でも、わたしたちのような一般庶民の日常生活において、数分の違いに大した意味がないように感じるようになってきました。時刻は、あくまでも<目安>であればよいのではないか、と。だから、わたしの周りにはできるだけデジタル表示の時計を置かないようにしています。

うちの施設の始業時刻は朝8時。この「8時」の表示を、あえて「8:00」にしないようにこだわりました。デジタル表示の時計では、「7:59:59」と「8:00:00」は明らかに別のものです。もちろん、出勤簿の打刻なら後者は赤字になります。これを当たり前のことだ!と思っているあなたへ・・・疲れませんか?「8時」=「8:00:00」と思って時計確認をしている人は世の中にどれだけいるのでしょうか?というか、そういう人は時計を少し遅らせた方が楽なのではないでしょうか?ちなみに、わたしの腕時計は、今本当の時刻から何分ズレているのか知りません。・・・無責任な医者です♪

| | コメント (0)

しなくてもいいこと

運動中毒のように毎日職場のフィットネスに通っていた習慣が、ここ半年ほど皆無になっていました。職場のスタッフに気を遣ったり、しなければならない仕事が増えたり・・・できなくなった理由を挙げると切りがありませんが、まあどれも『言い訳』です。毎晩小一時間イヌの散歩をしていることを考えれば、フィットネスなど<別にしなくてもいいこと>なわけで、ちょっと休んでしまうと<面倒くさい行動>の代表になります。

それを今年の正月から一念発起してもう一度再開させてみることにしたわけですが、これが思いの他エネルギーを要します。<しなくてもいいこと>を続けるには何が必要なのでしょう?麻薬やセックスのような媚薬的なものであれば簡単に続けられるのでしょうが、「人間には運動欲がない」らしいので、運動後の快感や運動によるダイエット効果などのレベルではなかなか運動は習慣化されません。結局、運動中毒になって歯磨きや洗顔のように「毎日これをしないと気持ちが悪い」状態にならないと、継続はむずかしいということになりましょう。

でも、運動中毒になるにはそれをするだけの「時間の余裕」が必須です。「時間の余裕」は、あるかどうかではなくて作る気があるかどうかですから、忙しくても捻出すれば必ずできます。ただ、「昼休みを使って商店街を歩いていると『昼間から暇そうで、優雅な生活しとるなあ』と皮肉を云われるから、その気があっても世間の目が気になってむずかしい」とぼやく、ある自営業の店主が居りました。たしかに、皆が働いているのに昼休みを運動に費やすことへの気後れが、わたしの場合も続けられない最大の誘因になりました。別に仕事をさぼっているのではないのだから、という厚顔無恥な開き直りも大切なんだ!と自分に云って聞かせています。

| | コメント (0)

寒い

「先生、寒くないですか?」・・・相変わらず半そでの白衣だけ着て歩いていると、今年の冬もスタッフによく聞かれます。
「寒いさ。だって冬だもん♪」・・・わざと笑いながらそう答えます。この天邪鬼のようなマゾヒスティックな行動が相変わらず好きです。

ことしの寒さは尋常ではありません(と、毎年思うのですが)。奥歯を噛み締めて、沁みるような寒さに耐えています。自宅でも、我が家の暖房装置はあまり充実していません(天井が高いのでエアコンはあまり用を成しませんし、結局ガスファンヒーターの近くに身を屈めて生活しています)ので、「暖かい」と感じられるのはふとんの中だけかもしれません。でも、九州熊本の市街地の生活であることを考えると、「寒いさ。だって冬だもん♪」・・・それで良いのじゃないかしら?先日宿泊ドックを受診された方が「いつも我が家は3℃以下なので宿泊室の室温が暑くて朝から窓を開けてしまいました」とぼやいていたのと同じように、わたしたちは子どものころから冬は寒い!冬だから寒いのはやむを得ない!と思って生きてきました。皆がコタツやストーブの周りに集まって身を寄せ合って冬を過ごしてきました。ところが<エアコン><暖房>という文明の利器が一般住宅に普及して家中を暖かい空気が包み込むようになったときから、「冬は暖かいのが当たり前だ」と自分のカラダが思い込むようになった気がします。「暖かくできるはずなのに寒いのは、何かがおかしい」とカラダのセンサーが主張します。ドアを開けて建物の中に入ったら暖かい空気に満たされているはずなのに、空調を切られていたために予想に反してヒヤッとしたときの落胆ときたら・・・。

白い息をはきながらグイグイひもを引っ張って寒い公園を嬉々として散歩している我が家のイヌたちを見ていると、やせ我慢して、「寒い、寒い!」と云って回っている方が自然なのではないかと思うようになった今日このごろです。

| | コメント (0)

精のつくもの

「太るために精のつくものを必死で食べているのに、なかなか太れません。」

世のメタボの皆さんには信じられない発言ですが、当事者にとってはそれなりに深刻な問題のようです(もちろん放っておけば簡単に太れる私にも関係のない悩みです)。まあ『体質』なのでやむを得ません。胃がんの手術のように大きな手術をした後に体重が戻らないとか、大病を患って体重が減った後にそのまま変化しないとか、そういう経験のある方は、本人も周りの家族も何とか早く元の姿に戻りたくて藻掻いておられます。

でも、その行為はあまり意味がありません。『太るために精のつくもの』とは高カロリー食であったり高脂肪食であったり、あるいは炭水化物のオンパレードであったり・・・それで太ったとしたらムダに脂肪が付くだけ。滋養強壮に良いという謳い文句のサプリや健康食品も、下手をするとカロリーがコーティングされているものが多く、「ふっくらしてきましたね」などと喜んでいたら糖尿病になっていたり脂肪肝だったりして、無意味に生活習慣病を作り出している人が多いのです。

必要なのはビタミンとミネラル、それとわずかな良質のたんぱく質。大量にモノを食べて太る必要はありません。普通に食べておけば、カラダが太る必要があると判断すれば勝手に太ってきます。今は太る必要がないと判断するからこそ太らないのであって、焦らずに自然の流れに従っておけば良いことです。自分のカラダに初めから備わっている『再生能力』を見くびってはいけません。

| | コメント (0)

健診前の努力

冬の職員健診が始まりました。この季節には突然職場のフィットネスジムが混雑し始めます。健診前に努力を始める方が増えるからでしょう。

「健診前に急に頑張って、そのまま続ければいいけれど、結局健診が終わったらやめちゃうんだ。そして1年後にまたジタバタするんだ。それは長い人生を考えたら意味がないどころか返って健康を害するんじゃない?」・・・そう批判する人もいますが、わたしはこのジタバタ努力にもそれなりの意義があるように思っています。たしかに試験の時だけいい成績を出したところで日常を反映しないのであれば本当の客観的な自分を見ることができないわけだし、返ってリバウンドする危険性もあります。でも、定期健診がなければ何もしなかったであろう生活の努力を、少なくとも年に1回は形振り構わず「やってみよう」と思うわけですから、「定期試験だけでもいい成績を出したい」「自分の名誉のためにも検査結果で保健師に鬱陶しい文句を言われたくない」という想いが生じて行動に移すということはとても大切なことだと思います。

人間ドックを受けに来る企業の皆さんも同様に、健診前数週間にだけちょっと頑張ってみたという人がいます。その努力自体は、自他共にきちんと認めてあげてほしいと思います。そんな『頑張っている自分』はしっかり褒めてあげましょう。「やればできるのさ、自分♪」と自己満足することも重要なことだと思います。「止めたら意味ないさ!」とか「やればできるのだからこれからも続けましょう!」とか、野暮な助言はほどほどにして、とりあえず今の努力を褒めてあげてくださいな、保健師さん方も・・・。

| | コメント (0)

正月明けの健診

仕事始めの1月4日から健診センターは大にぎわいでした。何も正月明けから受けなくても、とも思いますが、「この日しか空いている日がない」という忙し屋さんが勤勉な日本人には多いということなのかもしれません。

毎年1月4日に受けると決めている人もいるようですが、決まってデータが悪化しています。中性脂肪値、肝機能、尿酸値、さらに血糖値や血圧、脂肪肝などなど・・・それを「年末年始に暴飲暴食してしまったから」という言い訳に使っているように見えます。あえて年末年始に暴飲暴食負荷をかけているとも云えるのかもしれませんが、わたしは冷たくあしらいます。年末年始に暴飲暴食をしても、普通、1月4日の検査データは悪化しません。つまり、検査データが悪いということは、毎年やっているであろう年末年始の過ごし方が自分のカラダにまったく合っていない!ということに他ならないのです。

とりあえず、その異常値がきちんと落ち着くものなのかどうかを数ヶ月後に近くの内科で採血検査を受けて確認することをお勧めしています。もしかしてずっと悪いままなのかもしれませんし・・・。どうせ高い金を払うのなら、あまり「年末年始」を隠れ蓑にしない方が得策ではないでしょうか。

| | コメント (2)

迷惑(後)

『技術の研鑽は大事だけれど、それ以上にここでは医者として人間としての研鑽を積みなさい!』・・・わたしが今の病院の研修医として勤務したとき、わたしのボスはいつもそう云っていました。

うちの科だけが<断らない救急>の先駆的なことをしていたあの頃、「胸が痛い」ということばだけでいろいろな人が紹介されて来ました。転んで肋骨を痛めた人、腎臓結石の人、あるいは心電図の器械判定が「心筋梗塞」と読んだだけの正常心電図の人・・・。でも、それを普通に診るのが救急外来では当たり前のことだと教わりました。

「どんなことがあっても必ずきちんと診察をし、絶対に紹介していただいた医療機関の悪口を云ってはならない。なぜならば、紹介していただいた先生は診断に困ったときにわたしたちを選んでくれたのだから。わたしたちはその信頼に答える義務がある。そうすることによって初めて信頼関係が生まれ次にもわたしたちを信じて紹介していただける」・・・まだ医者になったばかりの駆け出しのわたしは、そのときに医療連携における信頼関係の何たるかを叩き込まれました。

「○○先生は重大な病気ではないかと心配してあなたをここに紹介してくれました。今いろいろ調べてみましたが幸い大きな病気ではなさそうで良かったです。応急の処置だけはしておきますが、あとは○○先生にお任せします。何かあったときはまた何時でも診させていただきますが、たぶん大丈夫だと思います。親身になって心配してくれるかかりつけの先生がおられて幸せですね。」・・・そう云ってその場で紹介状の返信を書いて渡すところまでが救急外来でのわたしたちの仕事でした。それがごく当たり前にできるように指導をいただいたことに、今、心から感謝しています。

| | コメント (4)

迷惑(前)

「ボクら病棟にも患者が居て忙しいんだよね。この程度の患者、送ってこられたら迷惑なんだよね」・・・先日、どうしても心配だからという家族の要求で訪問看護先のご老人を公立の某救急病院に連れて行ったわたしの友人が、家族と待合室で待っていたときに、皆に聞こえるような大きな声で担当の医者にそう云われたのだそうです。「こんな悔しい気持ちになったことはなかった」と、宴席で彼女が吐き捨てました。

こんな地方都市でも、そんなことを云う若い医者は本当に居るんだ!・・・鎌田先生の「言葉で治療する」にあるように今の荒んだ医療情勢を理屈では知っていましたが、それは大都市の話だと思っていました。「そんなバカ医者はどうせ大した人間ではないのだから殴り倒してやればよい。でもそれは結局そのバカ医者よりも、そのバカ医者の指導医が大バカなんだよ!」・・・ちょっと酔ってきていたわたしは声を震わせてそう叫びました。うしろの席のお客さんがちょっとこっちを振り返ったのが分かりました。

その病院は地域の中心となって若い医者たちが研鑽のために集まっているような基幹病院です。指導医は一体何を教えているのでしょうか?「信頼」は高度医療の提供だけでは絶対に生まれないし、こんなことを平気で云う人間が今後「医者」という名札を付けて世に出回ることの重大さを分かっているのだろうか?

何とも暗澹たる気分になって、ちょっと久しぶりに熱くなりました。

| | コメント (2)

年賀状の返事

今年も、年賀状の返事を書きながら考えることがあります。

「年賀状をありがとうございました。」・・・小学校のころから、返事を書くときにはそのお礼のことばを必ず書き足していました。それが人としての礼儀だと思っていたからです。でもそれは、自分が前もって「この人には出さない」と決めたことに他ならず、返事であることを明記するのがかえって失礼に当たるのではないか?と考えるようになりました。ですから、最近はあえて「これが返事である」という書き方はしません。以前のように12月半ばには投函を済ませていたときは何か誤魔化しているような罪の意識がありましたが、最近は御用納めの頃にやっと書きますから、あまり差を感じなくなりました。

前にも書いたように、年賀状は本当はすべてが返事として正月に書くのが理想だと思うのですが、一方で、なかなか付き合いを切れない腐れ縁の方々がおります。ここ数年いつも返信の形で届くから、相手は縁を切りたいのだなと思って、今年はあえてリストから外しておいたのに、そんな年に限って元旦に相手から届いてあわてて返事を書くのです。あるいはその逆のこともあり、お互いがリストから削除するタイミングを外したままチグハグな関係を続けている・・・これはむしろ縁を切ってはいけない人たちなのかもしれません。また、年賀状の返事が来るかどうかで、まだご存命かどうかの確認ができている学生時代の恩師もおり、毎年お元気そうな一言で安堵したりもします。

たかが年賀状、されど年賀状・・・最近暑中見舞いはまったく書かなくなりましたが、正月のこの行事だけはとても重要な習慣だと思います。

| | コメント (0)

仕事始め

早いもので、もう今日は仕事始めです。

ほんの1週間前に「今年もお世話になりました」「良いお年を!」とあちこちで頭を下げ合ったというのに、今日は「あけましておめでとうございます」「本年もよろしくお願いします」とまたまた同じ相手と頭を下げ合う日です。

私はこの白々しいほどの変わり身が好きです。数年前までは、「そんなの意味ねえし!」と吠えていました。ヘタをすると大晦日の夜に頭を下げた相手と翌朝早々に握手する。ブログでも一年間のお礼を書いた数時間後に『謹賀新年~!』と叫びまくる。たかが<年を越す>ということに何の意味があるか!と。でも、今はこの節目を楽しんでいます。御用納めのときには挨拶の後に三々五々慌しく家庭に消えていく同僚を眺めながらちょっとうら寂しい気持ちになったというのに、今日は華やいだ新春の活気に溢れるのです。別れと再会が立て続けにやってきますが、その間に何もかもがリセットされているのが良い。去年の何やかやのシガラミがすべて遠い昔の出来事のような感覚になれる一週間、一週間前はとても重苦しかったけれど何か今日から明るい人生が始まるような根拠のない自信が湧いてくる日・・・これは物理的なただの一週間とはまったく違う魔法の一週間です。

ということで、師走に次いで仕事始めの日が好きです。1年前にも似たようなことを書いている<2009.12.30「区切り」>のに、若干ニュアンスが変わってきているのが面白い。

| | コメント (0)

降る雪と
   いつしか積る我が欲は
      積るにつれて道を失う

先日、山道でこんな詠み人知らずの句が書かれた道標を発見して、感動して早速わたしのもうひとつのブログに紹介しました。欲を捨て無になることを良しとする般若心経の教えを会得することこそが人生最大の憧れだと考えるわたしにとって、この句はわたしの心の奥深くにゆっくりと染み入るように侵入してきました。

でも、それに対して厳しい意見をいただきました。降り積もるほどの欲を持たなければ、人間努力もしないし何も成長しない。人間を成長させるためにはできるだけ大きな夢とたくさんの欲を持たなければ!道がなくなれば自分で作ればいい!まだ若いのに、ただの抜け殻のように悟りを開こうとするのは早すぎる!と。まさしく成功哲学の基本理念だなと、熱く語るその知人を眺めながら、これまたえらく感動した次第です。

でもやっぱりわたしは、この句が好き。

| | コメント (0)

元旦

一月一日は仲間とゴルフをする、というのがもう10年近く前からのわたしの元旦の過ごし方でした。ところが、今年は大晦日から降り続いた雪でまだ夜が明ける前にゴルフ場のクローズが決まり、ポッカリと予定が空いてしまいました。思えば、去年の元旦も一昨年の元旦も雪でした。始めた当初も雪が舞ったり雨が降ったりしたことはありましたが、それでも曲がりなりにもプレイはできましたから、本当に初めての「中止」です。

とても残念ですが、いたし方ありません。不思議なことに、こんなとき、「新年早々からついてない。今年は前途多難だ!」と思う人と、「最近にはないパターンだから今年は何か新しい良いことが起きるかもしれない!」と思う人とに必ず分かれます。自分はどっちだろう?と考えてみました。若い頃には明らかに前者だったわたしのこころが、いつの間にか後者に近いこころに変わってしまっているのに気付きました。とても面白い!と思います。ネガティブ思考がポジティブ思考に変わったというのとはちょっと違いますが、これが年齢というか年輪でしょうか。

予定外にぽっかり空いた元旦の早朝、テレビでは場違いな高いテンションの若手お笑い芸人たちのコントが流れていました。それを見ながらついつい高笑い・・・これもまたなんか得した気分で、思いがけない初笑いのお年玉となりました。

| | コメント (0)

しらしんけん

大分の方言で、とても一生懸命な様を『しらしんけん』といいます。「一生懸命=真剣」の最上級です。

何にでも『しらしんけん』頑張る姿が好きです。だから、下手くそでも必死に頑張る若者たちを応援したくて某弱小Jリーグチームのサポーターを9年続けています。だからわたし自身も、たかが宴会の余興でも出来る限り完成品を見せるために毎晩頑張るのです。そんなわたしにも、人前で一生懸命な姿を見せるのはカッコ悪いと思っていた時期があります。頑張るのが当たり前と思ってアタフタしていたとき、ふと周りを見たら友人たちが皆で白けた顔をして「かったるいんだよ」といわんばかりの冷たい視線を浴びせてきたのです。それでなくても引っ込み思案のわたしにとって、あのときの周りの目はあまりにもショックで、ご他聞に漏れずわたしも熱い連中に「白けたオーラ」を浴びせてみたりしました。わたしに<真面目ではじけたことはしない冷静な男>のレッテルを貼っている皆さん。すみません、それは大きな間違いです。ただ、不器用なために意思表示の仕方が下手なだけです。下手だから、自分から手を挙げることができないのです。本当は誘ってくれることをいつも待っているのです。

最近、それが自分だけではないことを確信しはじめました。きっと、元々人間のすべてが『しらしんけん』で快感を得るように作られているのだと思います。だから、面倒くさそうにしている連中がいたら、それでも誘ってやってください。無理矢理『しらしんけん』を求める必要はありません。「よだきいのう」とか云いながら、みんなが『しらしんけん』なら勝手に引っ張られて、結局一番『しらしんけん』になったりします。どうせ『しらしんけん』に生きるならできるだけ多くの『しらしんけん』が揃った方が快感が倍増します。

一年の計は元旦にあり。わたしは今年も『しらしんけん』に走っていくことを宣言いたします♪

| | コメント (0)

« 2010年12月 | トップページ | 2011年2月 »