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2011年3月

読むかなあ。

4月に入ると、いろいろな新しい試みが始まります。変更になったことについては、受診者の皆さまの受診案内を郵送するときに書類を入れて通知するのだそうです。

そんな通知文の原案をながめながら、ふと自分が受診者だったらどうだろうなと考えてみました。読めば、何が変わり、どんなメリットがあり、何を注意しなければならないかがわかりやすく書かれていますし、重要なところには下線も引かれて強調されています。でも・・・読むかな?少なくとも今年の職員健診のために渡された受診セットの中身をわたしはまったく読んでいません。「いつもとおんなじだから」と思っていますので、サインが必要なところも何も読まずに署名しました。改めてその受診セット内の文書をながめて見ましたが、重要下線がたくさんあります。そのどれが新しいのか新しくないのか、意外によくわかりませんが、まあ全体的に新しくなった感じがしないので、読み直さないまま仕舞いました。

おそらく世の中はそんなものなんじゃないんでしょうか。意外にこちらから伝えたいことは相手に伝わっていません。「こっちは伝えたのだから読まなかったのは相手の落ち度」的な権利義務論争は別にして、わかってもらいたいことを伝える文書は、それ自体をわかりやすくてシンプルなものにしたとしても、それがたくさんあればその時点でインパクトのない紙切れとして埋もれていき、相手が読んでくれるかどうかは運任せ・・・とあいなりましょう。そんなパンフレットばかり袋の中から出てきても・・・読まないだろうなあ。

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出てくる出てくるメタボ対策

黒豆がメタボ対策に有効:黒豆の種皮には黄大豆にはない特有の色素成分であるアントシアニンや、プロアントシアニジンに代表されるポリフェノール類が多く含まれており、これらの成分にメタボリックシンドロームを改善する効果がある、という報告が豆菓子会社からありました。先日は、牛乳やチーズなどの乳製品は日本人でも食べれば食べるほどメタボ改善効果がある、と乳製品推進の某協会が座談会を開いて発表していました(「牛乳・乳製品摂取とメタボリックシンドロームに関する横断的研究」)。

世の中のターゲットは何でも「メタボ」。有効な情報が続々と発表されるのは良いことですが、こういうときこそいつも考え方の基本を原点に戻しておいた方がいいと思います。
つまり、
※「カラダに良いモノ」は、そればかりを選んで食っていると、ただの「偏食」である。
※「メタボに良いモノ」は必ずしも「ガンに良いモノ」とは限らず、またその逆もある。

基本として、「理屈で食事するべからず」という感じが最近徐々にわたしのアタマを支配し始めました。ま、「だから細かいことに気にせず、何事もバランス良く食べましょう!」というのが、一番理屈っぽい気がしないでもありませんが。

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身体科医師

線維筋痛症診断ガイドライン2009の解説を遅ればせながら読んでいます。

「繊維筋痛症」はその存在は知っていますが、私自身がその診断を下した(あるいは下された)患者さんに会ったことがないのできわめてあやふやな知識に留まっている、というのが現状です。これは比較的頻度が高いリウマチ性疾患であるにもかかわらず、器質性ではなくて機能性疾患であるがために、自覚症状としての痛み症状が広くて強い割に理学所見や検査所見が軽いかほとんどないところに最大の厄介さがあります。だから、「身体科医師には扱いにくい疾患です」と書かれていました。

この「身体科」という使い方を最近よく目にするようになりました。どうも精神科や心療内科(一緒にするな!と云われそうですが)と対抗する表現なのかしら。臨床医療の主体をなす(と本人たちが信じている)具体的な体内臓器を扱う医療と精神的な現象を扱う医療とが区別されるのは何となく分かるけれど、内科や外科と並列で精神科、では何がいけないのかしら?

ところで、この繊維筋痛症の治療はあくまでも対症療法(抗うつ剤と抗けいれん剤)や有酸素運動、認知行動療法だそうなので、これまた「原因と結果が一対一でなければ科学ではない」と教わっている身体科医師にとっては屈辱的であり、馴染めない主因のような気がします。

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わかっているんだけれど。

Medical Tribune(2011.3.17)で、「~医師による減量指導~患者への接し方で効果に差」という記事を読みました。昨年アメリカで発表された報告です(American J. of Preventive Medicine, 2010;39:321-328)。

肥満や減量に関して医者が診察時に患者にどの程度のアプローチをしているか、診察中の録音テープから解析したモノです。その結果、69%の患者と体重についての話し合いがあり、その会話に費やされた時間は約3.5分だったとか。ところが、減量指導を受けた患者と受けなかった患者で体重減少度に差が生じなかったという結果も同時に分かったそうです。どうも「~しなさい」的な手厳しい指導が悪の根元で、患者の立場になって共感をする指導を受けた患者に減量効果は有意に高かったそうです。

これはまあ、行動変容を促す場合の王道であり、常識です。職場の上司より保健師、保健師より医師がアプローチする方が効果が高いことと供に、相手とのコミュニケーション力・その話し方や聞き方が効果に大きく差をもたらすということは、遠い昔から分かっています。そんな研修会を何度も受けたことのあるわたしも、以前に比べからかなり聞き上手、勧め上手になったと自負していますが、それでもつい、限られた時間に伝えなければならないことがこんなにたくさん!とか、相手が詭弁を使って逃げ道作りしているのに加担しているのではないか?とか思ってしまう。・・・まだまだ悟りを開けません。

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低血糖?

問診の時に気分不良になる、ある女性が今年も受診されました。顔面蒼白になり血圧も低下します。しばらく横になって安静にしていると気分は改善し、その後は何をしても問題ありません。本人は、「たぶん、朝食を取っていないからだと思います」と自己分析・・・たしか一年前にも同じことが起きてわたしが診察したことを思い出しました。昨年も同様で、不思議なことに、一回倒れると別に食事や飲み物でエネルギー補充をしなくてもその後は普通に振舞うことができるのです。

さては、これは、停電のときに自家発電に替わる前の一瞬の暗転みたいなものかしら。日頃回してるエネルギー(普通預金)が少ないので、朝食を抜くと有事の際のために蓄えておいたエネルギー(定期預金)への切り替え作業が思いの他早めに必要になるということでしょう。わたしの場合は、定期預金もたくさん貯め込んでいますが普通預金も良く使うからいつも準備を怠りません(本物のお金の話だったら云うことないのですが)。だから朝食を抜いたくらいでカラダが堪えることはまずありません。

さて、彼女、どう対処してあげたらいいのでしょう?健診なので、朝食を摂ってくるわけにはいきません。前夜の食事を遅くしてみたら?と提案したら、今回は22時に食べてみたのだ、と。婦人科健診の前だったから過度に緊張した可能性もあるでしょう。婦人科だけ別日にするというのも方法かもしれませんが・・・根本の解決にはなっていません。

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弔辞

Kさん。

いくらなんでも、急ぎすぎですよ。
まだ、富士山の頂上まで連れて行ってもらう約束も熊本で一緒にゴルフする約束も
果たしてもらってませんよ。

私の前ではいつもニコニコした笑顔でした。
でも、仕事はとても厳しかったこと、知ってます。
頑固者で、決めたことは簡単には曲げない性格だということ、知ってます。
「酒を止めるくらいなら死んだ方がマシだ!」が口癖で、
ベロンベロンになりながらもきっちり血糖コントロールしていた話、
時々こっちで患者さんの指導に使ってます。
でも、毎晩呑みすぎて、帰りの電車は乗り過ごしの常習犯だったことは伏せてます。

ダメでしょ、勝手に悟りを開いて逝ってしまっちゃ!
ずっと迷惑掛けた奥さんや娘さんたちにまだ恩返しが終わってないじゃないですか。

Kさん、人生の総括をするヒマがありませんでしたね。
きっと、「いい人生だった。後悔することはなかった!」って云うんでしょうけれど、
奥さんとゆっくりあいさつできなかったんじゃないですか。
「いや、そんなの関係ないですよ」とか照れながら云っちゃってないで、
これから奥さんと娘さんたちとお孫さんたちと、しっかり見守ってあげてください。

わたしが云うのもなんですが、あっちではあまり呑みすぎませんように。

さようなら。 合掌。

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なんかとっても情けないです。

東京の放射性の水騒動。

震災の復興が始まった大事な時期に、報道はどうしてこんなくだらいことで無意味な煽り方をするのだろうか?マスコミはどうせ全く素人のバカ集団だからしょうがないけれど(この云い方が気になる人がいたらゴメンナサイ。頭にきているので訂正する気はありません)、どうして専門家の医療者連中がこんな中途半端な云い方をするのだろう(テレビを見ていると、専門家はもっといろいろ話していたのに、報道側が興味あるところだけ切り取ったのではないかという気もしないでもありません)?違うでしょ。乳児も含めて、まだ普通に飲んだってほぼ100%何も起きないでしょ?「これを何日続けたら」という仮説そのものが現実的ではないことも分かっているでしょ?そんなこと、放射線の知識があるなら当然分かっているはずなのに、みんな単に責任逃れするための発言ばかり。

総理!総理!頼むから「大したことないから気にするな!何かあったらオレが責任を取る!」って、云ってくれんか?どうせあんたはもうすぐ失脚するんだから怖いものなしだ。・・・あまりにも情けなくて、わたしは本当に泣きそうです。

そんなことよりも、危険なのは昨日施設内で被曝した3人の職員さん。ヘタをすると命にも関わるのではないかと心配です。そしてさらに、原発施設内で働いている多くの人身御供のような職員の皆さんが一番心配なのに、どうして彼らの報道がほとんどないのでしょうか。日本を救う、唯一最大の英雄は間違いなく彼らなんだよ!

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治療について考えること(後)

医師は、目の前の症状を何とか治してあげたい、改善させたいと必死になって、そのために処方するくすりを自然と上乗せしていきます。飲んでいても悪化するなら違う機序のくすりを足していきます。ところが、命綱のように大事にしていた、もし止めたら途端に大変なことになると自他共に思い込んでいたくすりを不可抗力で止めてしまったとき・・・時限爆弾は爆発するでもなく、むしろ前よりはるかに調子良くなることがある、ということを多くの医師は経験として承知しています。結果として、良くするために使っていたくすりが悪化に一役買っていたということです。

「薬物は毒物」・・・本来カラダの中に存在しないものが入ればそれを排除する力が生じるのは至極当然です。クスリの主作用に対して副作用は必ずついて廻りますが、吐き気があったり検査データを悪化させる副作用でもない限り、世間はあまり気にしていないようです。でも「くすりを止めてみたら体調が良くなった」ということは、それが副作用だったことになります。ただ、だからといって「くすりを減らす」という行為には理論的な根拠があるわけではないので多大な勇気が要ります。多くの知識人が自分の経験からあるいは知人の経験から、「今すぐその薬を止めなさい」と指示されることがあり、それが良い結果をもたらすことが少なくないことをわたしは知っています。でも本当にそれが致命傷になることの方が多いことも知っています。

結局はケースバイケースなのでしょう。ただ医療者は、EBMがどうだとか、その機序がどうだとか、そういう理論ですべてを解決させようとせず、代替療法や健康食品を眉唾的奇異な目で決め付けずに、広い大きな目で治療に当たってほしいと切に願います。理屈がどうであれ、自分に納得がいこうがいくまいが、目の前の患者さんが元気な人生を全うできればそれで良いのだから。

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治療について考えること(前)

心臓病で加療中の女性が今年も健診を受けに来られました。健診のときしかお会いしませんがもう10年以上のおつき合いになります。以前、患者の会の旅行に同行したことがありましたが、当時は周期的なカラダのむくみと息切れでいつもきつそうにしていました。根が明るい性格なのに、あまりにきつそうで返って声を掛け辛かった記憶があります。重症の心臓病のために徐々に増えていったくすりが日々の食事量より多いのではないかと心配になるほどでした。そんな彼女が数年前からとても元気で明るくなって来られます。「毎年、若返っていってませんか?」と尋ねると、「はい。そうです♪」と。今は足のむくみもなく息切れもほとんどなくなったそうです。「週に3回くらい、近くの健康教室に通うようになってから調子が良くなった気がします」・・・健康教室といってもとても簡単な体操をするくらいだと本人の弁。当時より内服薬の量はかなり減っていました。

以前、循環器内科の医師をしていたころ、重症心不全を何度も繰り返す女性がいました。重症の糖尿病もありました。心臓を栄養する血管(冠動脈)を広げる手術を何度も繰り返しましたが、狭心症発作は毎日のように襲ってきて風呂にもまともに入れないような状態でした。他の病気を患ったために担当から離れましたが、彼女も年に1回はわたしのところを訪ねてきてくれます。とてもお元気です。狭心症発作や心不全発作はほとんどなくなったそうで、当時より10歳以上は若返った気がします。彼女の調子が良くなったきっかけは、出血をしたために飲んでいたくすりの大半を中止せざるを得なくなったことでした。

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日本人はすごいぞ!でも・・・。

未曾有の大災害から10日。まだ全貌が分かってない上に進行している部分も少なくない中で、少しずつ復興の兆しが見え始めてきました。たくましい姿にただただ感動です。

「日本では、こんな極限状態でもどうして暴動や略奪が起きないのか?」・・・避難所であれだけ過酷な生活を強いられても冷静で秩序正しく振舞っている被災者の皆さんの姿が、多くの外国人には極めて奇異に映るのだというニュースを読みました。日本人としては至極当たり前のことだとは思いましたが、自分が被災しているにもかかわらず周りを気遣い、自分のものをまず周りに回そうとする姿はやっぱりスゴイと思います。それが日本人。日本人はいつも周りのことばかり気にして、いつも道徳的で決して周りを出し抜くようなことはしない。だからそれが「優柔不断で自分では何も決められない人種」というレッテルを貼られていたわけで、その汚名が返上されたことを嬉しく思いました。

ただ・・・やはり気になります。「本当に苦しくて辛い生活をしています。でも、私だけがこんな思いをしているのではなくて、むしろ私よりも大変な人がたくさんいることを思うと甘えてはいけないなと思います。」「私はおかげさまで生き伸びることができました。不幸にして亡くなった方のことを思うと、私は弱音なんか吐いてはいけないんだと思って、頑張っています。」・・・「東北の人は我慢強いよね。」と妻は云いますが、それが本心であれ本心でないのであれ、危ないと思うのです。無意識に自分のストレスを抑え込んで、とにかく今は「頑張らなけりゃ!」と云って聞かせているわけです、自分に。強いな!と思うのだけれど、そのままだと絶対壊れる!一段落してから、落ち着いてから、気持ちが緩んだ瞬間にうつ病や自殺が増えるのはそのせいかもしれないのです。

今からが、勝負です。

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運動する気になれんです。

先日労災二次健診を受けに来られた男性は、太る一方の健診結果を反省してエアロバイクを購入して、毎晩30分間だけ運動を始めました。その成果は素晴らしく、検査結果が見違えるように良くなっていました。ただ、「この1週間は運動する気になれんかった。やっと昨日から再開したところです。」と苦しい胸の内を語ってくれました。

東日本大震災のことです。「見てたら虚しくてたまらんごとなってですね。」・・・彼はそう云いました。こんなことしている場合か?という思いもあったのでしょうが、あの未曾有の大災害の映像は見ている人間のすべてを絶望の淵に追いやるものでした。あれを繰り返し見ていると、自分の人生もすべて否定されたような気持ちになります。

先日のコンさんの書き込みにも通じますが、ダイエットの何たるかを毎日説明しているわたしですら、本当に悩みました。「こんなことして何の意味があるのか?こんな天災に会ったらそんなことはどうでも良い事ではないか?むしろ如何に食べるか、如何にエネルギーを使わないかが生き延びるための最低限の条件なのに、『無駄に動け!無駄に食うな(作るな)!食ってすぐ寝るな!』と平和ボケしたことを云っていていいのか?もっとやりたい人生を歩んだ方が後悔しないのではないか?」・・・それは現代社会の中で贅沢三昧をやっている人間たちの自己満足の話であり、人間が人生の究極の選択を考えるときには取るに足らないことなのではないか、と。

一方で、「健康になるために食事を我慢する」という考え方を捨てさせたことは間違いではないと確信しました。食べられるときに、「食べること」を楽しまなければ生きている意味がない! ・・・それで押し通しても大丈夫ですね?

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「想定外」は「想定内」へ

被災された皆さんのニュースの中で、「電話回線がつながったのに電話番号がわからずに掛けられない」という話がありました。最近はみんな携帯電話に登録しているので覚えていないのだとか。その携帯電話の電源が入らない限り全く情報がないという。

たしかに、いつの間にかわたしもそんな生活になりました。若い頃は10件くらいなら、少なくとも親せきや親しい友人の番号くらいは覚えていました。今は妻の実家の電話番号すら自信がありません。家にある住所録も5年前まではプリントアウトしていましたがやめました。パソコンが壊れるとパーなので記憶媒体へのバックアップはしていますが、どっちにしても電源がない限りただの不燃ゴミ・・・。全くもってどうしようもありません。

いつの間にかわたしの情報の大多数が本当にコンピューター支配下になりました。「電気がある」は大前提です。先日、職場環境を眺めてみたら、停電が続く限りまったくもって無力だということを痛感しました。膨大なデータベースも何の意味もありません。それは存在しないに等しい状態です。今、一生懸命頑張っている『電子カルテ』って、意味があるのか?先日開発担当者はサラッと流しましたが、今回の大震災のようなときに最低限でも対応できるだけのバックアップ方法は「設定済み」と信じていいのか?こんな時期だからこそ、もはやそれを「想定外」のできごとと云って済ますわけにはいきません。

くだんのテレビで語っていた通り、昔の電話機(黒電話)は停電でも使えたし、巷に公衆電話はたくさんありましたが、どちらも今はほとんど存在しません。使われないものは無駄だから排除されるのはやむを得ません。だからアナログ世界へ後戻りすべきだ!というわけにはいきません。ただ、今回の出来事があった以上は、こんな有事の際に対応できる<代わりの何か>を準備するのは「最低限の義務」になりました。みんなの知恵の集結が必要です。

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慣れ

まだちょっと肌寒い朝、いつものように出勤前に『燃えるゴミ』を指定のゴミ収集場所に持っていきました。そういえばこの熊本市指定の有料ゴミ袋が採用されて早1年半、いつの間にか至極当たり前の制度になってしまいました。ゴミ袋が有料になると家計に響く!とか、ゴミ袋が有料になったらゴミの量が減る、とか喧々囂々の論議があったのがウソのようです。我が家も、最初のころに比べたら若干ゴミの量がリバウンドした気もします。これをひっくるめて「慣れ」というのでしょうか。

職場のパソコンには何重にもセキュリティが施され、何度も何度もパスワードの入力をしないと目的のページにたどり着けなくなりました。新しくこのシステムが採用されたときは、気が遠くなるような作業にめまいを覚え、真面目に「職場改善の意識はあるのか?」などと批判して担当者に詰め寄ったりしましたが、今や当たり前のように入力しています。毎回ため息などつくことはありません。

これから半年の間に電子カルテが導入されるとかで、今は病院中がすったもんだの大騒動ですが、どんな形のものができあがるにせよ、きっと2年後には全職員が当たり前のように使っていることでしょう。「慣れ」という作用は、たしかに感動と慎重さを奪ってしまいますが、でもそれがあるおかげでわたしたちは曲がりなりにも器用に生きてきたのだと痛感しています。

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「理想的な心血管の健康」

米国心臓病協会(AHA)が「2020インパクトゴール」というのを発表しました。全米国人の心血管の健康度を20%改善させ、心血管疾患と脳卒中による死亡を20%減らす、という目標設定です。日本にも「健康日本21」という同じような目標設定がありますがご存知でしょうか(中間発表であまりにも理想からかけ離れていたのであわてて強力な介入を始めたのが今の特定健診・特定保健指導です)。

その中でAHAが提唱した「理想的な心血管の健康」という概念は、昔で云えば「Breslowの7つの健康習慣(1972年)」みたいなものでしょうか。
<理想的な健康行動(4項目)>
  (1)非喫煙
  (2)BMI<25
  (3)目標レベルの身体活動(非常に活発)
  (4)ガイドライン推奨に合致した食事(果物・野菜を3品/日以上)
<理想的な健康因子(3項目)>
  (5)未治療の総コレステロール<200mg/dL
  (6)未治療で血圧<120/80mmHg
  (7)未治療で空腹時血糖<100mg/dL

先日のMT Proに載った米国からの報告(Circulation 2010;121:586-613)は、地域住民1933人中、理想的な健康行動(4項目)すべて合致が39人、理想的な健康因子(3項目)すべて合致が27人、そして7項目全部を満たした人は1人しか居なかった、というものです。自発的な参加型の研究なだけに、登録者は健康志向の高い人が多く含まれていることを期待したにもかかわらずこんなものだった、というのは、これこそが今のアメリカ(日本も似たようなものでしょうが)の現状なのでしょう。一般住民の「健康」に対する考えが甘いか、提唱された「健康」の概念が厳しすぎるか・・・。

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本当に減らさなきゃ?

「半年前からジムに通っているのに体重が減りません。」

アラフォーの女性が、健診結果を説明しているときにそう訴えました。たしかに体重は昨年より2kgほど増えていました。典型的な皮下脂肪蓄積型肥満の体形で丸みを帯びたカラダです。まだ若いこともあって動脈硬化のリスクファクターは特にありません。

「運動に目覚めることによって蓄えておいたエネルギーが減ると飢餓状態になるので、カラダは前よりむしろ貯めようとします。だから運動を始めたら食事量も減らしてやらない限り体重は減りません。むしろ食欲が増すので油断すると前より太ったりします。」・・・とりあえず順当なアドバイスをしました。実際わたしも食事量をちょっと減らしただけで一気に体重が減った経験があります。

ただ、どうなのでしょう。やせなきゃいけないのでしょうか?彼女は分類上は「肥満」になりますし、体重は増えているのですからせめて歯止めを!という指導になるのですが、健康的に運動を楽しみ始めて食事もおいしくて、それで良いのじゃないかしら?彼女を見る限り、これからも直線的に太っていくとは思えません。本人が「やせなけりゃ」と思い詰めさえしなければ、今のままで良いような気がしてなりません。

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本能に素直に

「それ、食べないんですか?」・・・ある女性スタッフの小さな弁当箱の片隅に残ったごくわずかのご飯のことを同僚が指摘しました。「うん。もう、これ以上食べれないから。」

”えらいなあ、ぼくにはその行動ができないんだ” 横でご飯を頬張りながら見るでもなくその光景をながめていたわたしは、ひとりで小さくつぶやきました。「こんなの後一口じゃない!もったいないから無理してでも食べてしまってよ!」・・・妻にもそんなことを良く云われます。カラダから「もう腹一杯!」警告を出していても、目の前にもの(特に大好物)がある限り、「あなたにまだ働く余地があるのなら、今はそれを処理してほしいな」とアタマに命令されたなら、カラダは渋々働くことになります。カラダは工場長、アタマは経営者(社長)・・・この力関係を壊さないとなかなか現状打破はできません。

”食べたいときに食べ、食べたくないときに食べないようにすれば、あなたの身体は勝手に理想的な形に向かっていきます”

ダイエットの極意であるこのことばにわたしのカラダは大賛成なのです。アタマも理解はしているのですが・・・腹一杯だと分かっていても「今そこにあるのなら食べなきゃ損」と考えてしまいます。ちなみに、「きらいなものは食べない」を『偏食』と云いますが、この場合の主語は「アタマが」であって「カラダが」ではありません。「カラダが」食べたくないというものは食べない方が良いに決まっています。まあつまり、カラダの訴えに素直に生きることが人間の理想の生き方なのだけれど、カラダからの情報をアタマが翻訳する段階で、何らかの手を加えてしまうのでしょう、きっと。

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チェーンメール

「チェーンメールとは、連鎖的に(チェーン)不特定多数への配布をするように求める手紙である」(Wikipedia)。最近では事実に反することが伝わるのをそう云うようになった気がしますが、もともと悪意で作為的だったものだけでなく、良かれと思って出したのに事実と違っていた、あるいはそういうものに変わってしまったというものも少なくありません。

今回の大震災の中で生まれたあるチェーンメールがあります。「関東の電気が底をつき、九州電力(あるいは関西電力・中部電力)などから送電を行うらしい。1人が節電をするだけで、関東の方が携帯の充電をできたり、病院が医療機器を使えるようになります。」というものです。土曜日の段階からツイッターを中心にかなりの量が流れました。芸能人のリツイ-トも拡散の役割を果たしました。さらに日曜になったら携帯メールとしても複数の知人から流れてきました。でもこれは事実に反します。「送電は設備能力などの理由で20万キロ・ワットしか送っていない。これは予備電力で十分まかなえる量という。九電は『節電はありがたいが、被災地への支援にはならない』としている。」(読売新聞)。昨夜、熊本のローカルニュースでも同じ内容が流れました。

でも・・・だからどうだと云うの?という気分にもなるのです。たしかに事実に反する内容だけれど、でも「遠くにいて何もできない自分に何かできないか?」と考えたときにできること、この節電の努力によって現地で頑張る皆さんにささやかながら自分でもエールを送れるかもしれない、と思うからこそ広がるチェーンメール。そして、結局は日本全体、地球全体で一丸となってやらなければならない節電、エコに、今皆が取り組もうとしている事実があります。その思いが高まることに一体何の問題がると云うのだろうか?「ウソのメール」であっても、それが「ウソのメール」だということさえ分かって広がるものであれば、むしろ良いこともある、という典型的な出来事だったのではないか、と思いました。

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災害報道

未曾有の大惨事が起きました。日本中の国民が、被災者のために何かできないかと思い、電力を回すために節電しよう!とか、血液を確保するために日赤に輸血しに行こう!とか、大騒動です。たしかにこれらはチェーンメール系ではありますが、それでも皆が何とか力になりたいと純粋に思った結果だと云えましょう。九州電力は残念ながら供給量に限度がありますが、関東圏の計画停電は想像以上の生活への負担になること必至です。

そんなことを考えたとき、現地に居る報道陣が最低限を残して機材を抱えて速やかに退散することも重要なのではないかと思い始めました。全く同じことを伝えるのに何で5社も6社も居なければならないのか?共同通信の形でもっと報道を整理したり、地域分担したりできるのではないかと思わずにはいられません。彼らが日没と共に電気を消してテントで野宿しながら朝を待つとは思えませんし、当然食料品も必要です。もし自家発電の方法があるのなら、それを暖房器具のない被災地に貸し出して欲しいとすら思います。銀座のデパートが閉店を早めるよりも放送局が順番に23時で放送を終える方が効果があったりしないのかとも思いますし、もっと云うならば、各社が何台もチャーターしているヘリは、この原油高騰の折にガソリンを撒きながら呑気に遊覧しているようなものではないのか?その資源と金をそのまま義援に回せないものか、とも。

報道の義務とは何か?あるべき姿とは何か?知識人であり良識人である各社のトップたちが一同に会せば、もうちょっと建設的な取り組みが一致団結してできるのではないか?今こそ柔軟な姿勢で大英断してもらえないか、と思うことしきりです。

いずれにせよ、日本中の経済活動が一気に縮小されることは必至ですが、皆で一致団結して頑張りましょう。

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特定保健指導

食べなくても生きていけるサバイバル体質のみなさん、毎日がんばって戦っていますか?生まれてくる時代を間違えた以上、もはや悟りを開くしか手はありますまい。毎年、毎年、健診の度に居残りさせられ、保健師さんの補習講義をうけていることでしょう。相手は強者(つわもの)です。今どきの保健師さんや栄養士さんは、毎年決まり切った形だけの助言なんていたしません。メタボブームの中で、敵も常に新しいツールを見つけだしてきて、何とか今度こそ自宅学習をして成果を出してもらえるように情熱のある指導をしたいと思って待ちかまえているのです。

特定保健指導は世間では割と悪名高く、「あんなもので良くなるもんか!」と批判タラタラの医者もたくさん居ます。でも、どうせしなけりゃならないことなら、脇でうるさい人がいつもブツブツ云ってくれた方が絶対に得ですし、やり甲斐があると思いますので、もし引っかかったら、是非この制度をうまく使ってください。

ご健闘を祈ります。

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批判

毎日なにがしかの文章を1つずつしたためるようになって、もう3年以上経ちます。定期的に依頼されている広報誌の随筆ネタを書き記すことや、書きたいと思ったことを忘れないうちに記録することなどのために始めたブログです。せっかく時間を作って書く文章だから、できるだけ世の中の明るい話題を見つけだして紹介したい、何の変哲もないできごとに何とか明るい解説を付けてみたい、そんな思いを持っておりました。

それなのに、何となく、最近批判的な文章が多くなっている。これまでも、時々立ち止まっては反省しきりで軌道修正を!と叫んできたのだけれど、どこか文章に陰が・・・ありますよね、最近。そういうものだからネタになる・・・それって、ヤダね。何とかしよう!

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日本語

職場のロッカーに張り紙が貼られています。

『ロッカーの上に私物をおかないで下さい。
掃除に邪魔になります。』

クリーニングから返ってきた白衣などを載せたままにしているロッカーのすべてに、一つずつ同じ張り紙が貼られていました。服を着替えるとき、となりのロッカーのその文章をながめながら、毎回思ってしまうんです。

「これは『掃除に』じゃなくて、『掃除の』の方がいいんじゃないかな。」

「掃除をするのに邪魔になります。」が正式な日本語だと思うから、「に」でも「の」でも意味は通じるのだけれど、きっと「の」の方が素直に耳に入ってくるんじゃないかな、と。昔は、こういう助詞の選択にはみんながかなり気を遣っていました。特に今回のように活字で文章印刷する場合は、公の文書になるので話し言葉のようにはいきません。でも、最近は本人だけでなくそれを許可する上司も、「内容さえ伝われば文章の善し悪しはどうでも良い」と思っている人が多くなったようで(というより、その判断能力がないのかもしれませんが)、ちょっと寂しい気がします。

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人生の終わり方

俳優の入川保則さんが、「芝居をしたいから」と直腸がん転移に対する延命治療を断り、「余命6ヶ月を元気のまま終わりたい。役者としてやりかけたことを全うさせることに費やしたい」とコメントしました。すでに葬儀の準備やケアハウス入所の予約もすませた姿には、いろいろな意見があるでしょうが、これからこういう生き方(死に方)が増えてくるかもしれないな、と思いました。もちろん、これだけ達観した発言をするまでにはいろいろな葛藤はあったと思いますし、今でも本心とは違うかもしれないけれど、人生の区切りの付け方を自分で考えてそう決めたのでしょう。

同じように、病名告知を受けたその日に葬儀のときに流すコメントを自分で録音したわたしの上司を思い出しますが、彼はその準備をした上で、「最後まで病気と闘う」という選択をしました。再発が分かったとき、「手術をすると半身不随になるかもしれない。そうなると第一線の救急医として生きていくことができなくなる。それは、わたしの美学に反するから手術は受けない。」と彼は語りました。「先生は、わたしたちにとって、『生きて存在している』ということに意義があるのですから、わたしたちのために手術を受けてください!」・・・部下であるわたしたちが彼の生き方を変えさせてしまいました。

まさしく人生という舞台の最後の役どころをどういう演技でしめくくれるか。自分の人生の中では、誰もがみな皆主人公!(さだまさし「主人公」)

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八分目

「つまり、『食事は腹八分目が良い』ってことですかね。」

健診結果を見ながら、受診者の男性がつぶやきました。それを聞きながら、「ん~どうですかね~」・・・ついそう答えてしまいました。理屈だけで食事を取ると、「おいしい」という食事で一番大事な事が疎かになってしまいます。「そこに10あるものを8で我慢する」ということを『腹八分目』と云うのであれば、それは決していい方法ではありません。全体を初めから8~5しか作らなくても、それをじっくり味わって食べると、おいしく食べられます。そして何よりも、ゆっくり噛んで食べているうちに腹は十分満たされてきます。食事の量やカロリーが『八分目』かそれ以下であっても、満たされた腹は『腹いっぱい』になれます。これを『腹八分目』というのは、何かちょっと違うような気がしたのです。

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ほんとうは?

注意されても叱られても、いつもニコニコしている人がいます。

だから一層逆鱗に触れ、何かがあるとすぐに「またあいつか!」と目を付けられている人がいます。傍からみているとヒヤヒヤするのですが、そんな人にはきっと2つのタイプがあるはずです。本当にその重大さの意味が分かっていない未熟者と、分かっていてもあえて顔に出さない性格の人とです。そして後者には、意図的にしないようにしているのではなくて単にそういう意思表示をするのが苦手な人がいます。

彼らは、にやにや笑っているように見えるけれど、「何笑ってるんだ!」と怒られて「あいつは器ではない」と過小評価されていることをきっと分かっているのに、できないもどかしさがあるのだろうと察します。「その通りです。申し訳ありません。」と恐縮すればするほど顔が緩んでしまう、そういう人は居るのです。毎日そんな自分に自己嫌悪しているかもしれません。そのうち上司として部下を指導する立場になるかもしれないので、結局は自分で修正していくしかないのですが、今上司である人たちも、どうかそんな彼らの本心を洞察する力を養って、何か良い助言をしてあげていただきたい。

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我が身をながめて反省する

先日、職員健診を受けました。時々自ら自施設の健診を客観的な目で受診してみることによって気づくことは少なくありません。オーラをできるだ消して(意識しなくてももともとありませんけど)一受診者として日帰りドックを受けてみました。

待合いの椅子に座って何をするでもなくボーっとテレビモニターを眺めていたら、画面はエンドレスに健診センターのご案内ビデオを流していました。かなり前に作ったプロモーションビデオ・・・あ、わたしだ!なんであんなに猫背なんだろう?面白くなさそうに説明しているなあ。受診者さんの顔すら一度も見ないし、だから聞いている受診者はまるでお説教を食らっているみたいに神妙にしている。こんなんじゃいかんなあ。・・・次のシーンで出てくる保健師さんの姿勢と笑顔があまりにも対照的でした。

以前このPVを観たときには、思っていたよりはるかにゴマ塩頭になっている髪や頬のシミばかりが目に止まっていたのだけれど、今回はその健診医としての態度そのものがものすごく気になりました。・・・成長したのかな。

もっと明るい診察室にしなきゃな、と反省した日でした。

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アスリートの思い込み

健康スポーツ医学再研修会で、至学館大学の杉島先生の講義内容は「アスリートのための栄養学」でした。日頃わたしたちが考える栄養学とは次元の違う話で逆に楽しく拝聴できました。

何しろ、<如何にカロリーを減らしてやせさせるか>を考える臨床医学の食事療法は、<如何にバランス良く体重を増やしてハイパフォーマンスを維持させるか>を考える栄養管理学とは、バランスというキーワードでは似ていても、やはり明らかに対極にあります。その中で面白かったのは、

●一般人で問題になっているカルシウムと鉄の摂取量は、トップアスリートでもやはり少ない。意外に乳製品や果物を食べる習慣がないからではないか。
●とかく筋肉を付けるためにたんぱく質だけを増やしたがるが、三大栄養素の比率は一般成人と同じであるべきであり、たんぱく質だけでなく脂質と糖質も同様に増やさなければならない。
●アスリートが減量するときに注意することは、「糖質の必要量は必ず確保する」ことと「豆・果物類を取りすぎないこと」。
●たんぱく質を十分とっているのに体重が増えないのは、エネルギー源の糖質が足りないためであることが多い。
●アスリートには『サプリ依存症』が多い。日常の食事で十分なのにサプリがないと力が出ないと思い込んでいる選手は多い。サプリでパフォーマンスが飛躍的に向上することはあり得ない!と杉島先生は強調しました。サプリに頼る選手は心身共に弱いとも。

先日、プロ野球のダルビッシュ投手の栄養管理のはなしをテレビで見ましたが、やはりわたしたちには別次元のおはなしです。そして、アスリートが運動を止めた途端にメタボや生活習慣病に陥る理由がよくわかります。

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どっちが先か?

一週間前に、『健康スポーツ医学再研修会』に行ってきました。今年のテーマは「スポーツと栄養」・・・名古屋経済大学の鈴木公(いさお)教授と至学館大学の杉島有希助教のお話でした。

栄養学の観点から、「朝食欠食は絶対あってはならない」と断言された鈴木先生の話自体はまあ、朝抜き推奨のわたしでも別に否定はしません。小学6年生と中学3年生で試した結果として、朝飯を食べないと国語の平均点数も算数(数学)の平均点数も明らかに低下したとか、医学生たちに朝食を抜かせたら社会科の点数が下がったとか、そういうEBMデータを見せていただきました。

でも、座長が質問したのと同じことをアンチ朝食派のわたしも考えたのです。朝食を食べた子の成績が良かったのは、単に「栄養バランスが脳に良い」という意味なのか、それとも朝食を食べるために生活全体の改善がなされるためなのか?・・・鈴木先生はそれの答えになるべき明確なEBMはない、と答えられました。栄養学の先生方は何でも朝食バランスの重要性だけを強調されますが、わたしが以前ここでも書いたように、朝食をきちんと食べるためには早朝からきちんと頭とカラダを起こさなければなりません。そのためには前夜に夜更かしせずに早く寝る習慣が必須であり、そのためには家族のみんなが夜更かししない必要があります。つまり、そういう生活全体の改善が脳活性や勉強意欲につながっているのではないか、と考えることは極めて自然です。寝ぼけた頭で朝飯を食っても簡単には頭は起きません。

鈴木先生は自身の実体験から、「まず朝食の習慣をつけさせればできるようになります」と云われました。これはまたこれで真理なのかもしれません。朝早くに起して無理矢理食べさせようとするなら、こどもたちは堪らず早寝するんだろうな!と。

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ADHD

精神科医の和田秀樹先生のメルマガ『和田秀樹のこころも体も元気になるマガジン』を購入しています。先日(2011/2/25号)の記事にこんな下りがありました(一部抜粋変更して転載します~そんなことしても・・・たぶん大丈夫だろう)。

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(前略)・・・一つのことに集中できず、普通の子供より多動であることを特徴とする注意欠陥多動性障害(ADHD)にしても、多い統計では、なんと子供の18%がそれに当てはまるというものがある。(中略) この手のことが起こるのは、診断基準というものがあって、それに当てはまる子供は、その病気だと診断していいということがある。

たとえばADHDの場合、学業に綿密に集中できないとか、課題や遊びの活動で注意を持続することが困難である、などという項目のうち6個以上が6カ月以上続き、手足をそわそわと動かし、またはいすの上でもじもじする、教室などで席を離れるなどの項目のうち6個以上が6カ月以上続き、それが学校でも家でもおこるというような場合に、この診断を受ける。(中略) 小児精神医学の原則では、これらの子どもは病気のせいで多動だったり、席を立ったり、人のものを取ったりするので、叱ってはいけないという。もちろん、叱ると却って悪くなる本当に病気の子どももいるだろう。しかし、昔だったら発症しなかった子供が発症しているということは昔流の厳しい子育てで、病気にならないで済む子供がたくさんいることも意味している。

専門外のことで、これ以上、治療方針に介入するつもりはないが、たとえば子供がちょっと落ち着きがなかったというだけでADHDなのではと決めつけるより、しつけも含めて、その子供がまともに育つように親があれこれトライすることは決して悪いことではないと私は信じている。(後略)

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「わたしもまさしくその通りだと思う」と妻は云いました。アスペルガーも同様だけれど、たしかに境界線でADHDの診断名をもらってそのことで安堵してしまうのではなく、わが子を何とか社会に適応できる存在になれるように試行錯誤することが、親御さんの重要な仕事のような気がします。

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新しい生活の空気

ある知人の娘さんがこの春から大学生になります。入学試験の発表と同時に新しい生活を始める自分のお城(アパート)を探しに親子で大学のある街に出向くのだそうです。この季節になると漂ってくる甘酸っぱい空気は、新しい生活への期待と不安を当時のままに包み込みながら、この歳になっても、わたしの遠い昔を思い出させてくれます。

思い出されるのは新婚時代の東京だけではありません。初めての一人暮らしは姪浜。予備校の下宿屋さんでした。「こんなニワトリ小屋みたいな部屋で良いの?」と心配する母を後目に、誰からも干渉されない新しい生活にちょっとワクワクしていました。部屋の裏には筑肥線の線路が走っており、その向こう側の田園の先には女子高、そして九州場所の季節にはその界隈に若いお相撲さんがたくさん闊歩しました。私服なんて自分で買ったこともなく、時々ダイエーで買ってきたそのころ”流行り”の服は、いつもチンチクリンでした。あの町並みもあのお相撲さん風景ももう無くなっているのでしょうね。

大学は熊本でした。ここも下宿屋さんでした。先輩に安く分けていただいた自転車はブレーキパッドがほとんど擦り切れていましたが、これによって行動範囲は格段に広がりました。アパート住まいの自炊生活をする同僚の自由気ままな生活に憧れながらも、風呂も飯もきちんと出してもらえる「下宿屋さん」というのはとてもありがたい存在だったなと思いますが、今ではほとんどなくなったらしいのが残念です。

研修医になってからはずっとアパートか官舎住まいでしたし、新たに自家用車が行動の中心になりました。初月給で最初にミニコンポとLPレコードを買ったとき、コーヒーメーカーを買ったとき・・・何しろ箱入り息子だったわたしにとっては、新しい生活のオンパレードでした。

なんて、意味もなく思い出と一緒に人生の総括をしたくなるような、そんな季節なんでしょうか、今どきは。

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視力

わたしもそうですが、最近、左右の視力に大きな差があるひとが多くなった気がします。わたしは、中学に進学したころなかなか寝付けないためにベッドで横になったまま本を読んだのが悪化のきっかけでした。ひとは左右の目を使うことでアタマに映る画像を立体化させることができます。いわゆる3D映像を日常で作っているわけです。ところが、その原因が何であれ、視力に左右差があると悪い方の目は使いません。見える方の目だけでモノをみることになるので立体感覚がずれてしまって、肩こりのもとを作ります。また、そういう生活を続けていると、見えない方の目は使わないので退化し、見える方の目は使いすぎて過労になり、結果として左右ともに視力が進行性に低下するのだ、と教わりました。だからできるだけメガネやコンタクトレンズで矯正するのが良い(固定レンズであるメガネの場合は差を残しますが)と。

ところが、最近の眼科医は必ずしも矯正を強要しないようです。遠くが見える方の目で遠くをみて、近くしか見えない方の目で近くをみるから、とくにわたしたちのような老眼が絡む目ではその方が実用的だ、とまでいう先生がおられます。それって、本当なんですかね?わたしが教わった理論とまったく逆なので、さっぱり理解できないのですが・・・。それでも、健診受診者の中にはそう云われた方が少なくないので、最近はあまり自分の教わった理屈を展開させないように気を遣っています。

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カラダがキズモノになった感覚

ある旧知の職員さんの健診結果を説明していました。アラフォーの女性です。

「だれだったか、師長さんがこないだ、『健診を受ける度に異常の項目が増えていく!』ってぼやいてましたけど、わたしもそろそろガタが来始めました。」
「・・・そうですか?○○さん。たしかに受ける検査項目が若い頃より増えた分だけ、異常を見つける機会は増えましたけど、○○さんの場合は問題になるような所見はまったくありませんよ。『異常なし』の判定が『軽度異常』に変わるのは、単に『少し歳をとった』という意味でしかないので、気にしない方が良いですよ。」・・・こともなげにわたしは説明しましたが、でも相槌を打ちながらも彼女はとても複雑な表情をしていました。

「そういえば、わたしもそうだったな」と若い頃を思い出しました。当時は健診結果なんかにまったく興味がありませんでした。それはもらった結果表が全部『異常なし』なのが当たり前だったからです。普通の人間がまっとうに生きていれば、健診結果は『異常なし』のはずだ!と確信していました。なのに最初に腎のう胞を指摘された日、矯正視力が思いの外低値だった日、萎縮性胃炎を指摘された日、そして採血結果も少しずつ基準範囲を外れはじめてきたとき、自分はもう取り返しの付かないカラダになったのだと感じました。もはや無傷の状態のカラダには戻りようがないのだ!と、そして二流・三流のカラダに成り下がったのだと・・・大げさに云えばそんな感じでした。

それが、今はすっかり慣れました。「シミみたいなもんですよ」と説明しながら、組織の老化なんて来ない方がおかしいのだと割り切っています。「老化」などという単語は遠い先まで無縁のものと思って居ましたが、意外に身近なモノでした。「老化」に慣れることは老化の近道になるから良いことではありませんが、悪あがきする彼女をながめながら、そんな区切りの世代になったんだなと思いました。

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