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2011年5月

配信停止

月2回配信されてきていたメルマガ、『和田秀樹のこころも体も元気になるマガジン』~"うつ"になっても生き延びろ!~が、5月27日号をもって廃刊になりました。精神科医、和田秀樹先生の「『がまん』するから老化する」(PHP新書)を読んで以来、早速メルマガ購読の申し込みをして、隔週送られてくるメルマガを読むのを楽しみにしていましたので、廃刊はとても残念です。

廃刊の理由のひとつとして、
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バラエティ豊かなものにしようとした4種類のコラムが、なんとなくこれまで言ってきた(知らない人にはそれでも十分新奇な話なのだろうが)話が多く、書いているほうもつまらない感じがするし、私の本を何冊も読んで下さっている方にはもっとつまらないものと思われるような気がしているのだ。
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とあったのが、妙に共感できました。ひょんなきっかけで定期購読をするようになったメルマガが購読手続き後数ヶ月以内に廃刊になったケースはこれで3件めです。それが多いのか少ないのかはわかりませんが、わたしが興味を持った方々の文章は皆魅力的でした。考え方が独自で面白く、文章が分かりやすくて読みやすく、次を期待して待てる、そんなメルマガなのです。勝手気ままなブログやホームページと違って、有料メルマガとなるとそれなりの内容と量を定期的に生み出さなければなりません。文筆が生業(なりわい)ではない人たちにとって、それはかなりの重荷とストレスになることが想像できます。先生が云うとおり、読む側も書く側も「つまらない」と思ったときが止め時なのかもしれません。ただ、和田先生の場合は、毎回の内容が多すぎたんじゃないかと思います。もっと気ままに呟いてくれるだけでも読者は大満足だったのに・・・残念です。

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練習

「練習は練習でしかない。芝居は練習の段階で完成させてはいけない。本番の舞台でその日の客の反応に合わせて完成させるのが芝居だ。そうじゃなければテレビと何ら変わらないことになる。だから日頃の練習で目一杯なことはやらない。」

先日ラジオ放送で、ある有名な歌舞伎役者さんがそんなことを話しているのを、「なるほどな」と感心して聴いていました。舞台でスポットライトを浴びる点では芝居も講演も同じです。むかし役者として舞台に立っていたときだけでなく、仕事で講演をしているときにも、毎回違う聴衆の違う反応に呼応して話し方を変化させるのは大いなる楽しみのひとつです。だから、わたしの講演は本番の完成作品が毎日違うものになってしまいます。

でも・・・こころの奥深くで、実はわたしはこっそり反論しています。練習で「完璧」にできあがるなら、やはりその方が理想・・・そうなるまでとことん突き詰めていくのが「練習」だろう。そこに聴衆やお客さんの反応が加わり、さらに自分の言葉が共鳴してできあがる最終完成品は、「超完璧」になるだけのことではないだろうか、と。・・・毎日のことだから練習で力一杯やっていたらココロもカラダも持ちませんよ・・・ということばは、プロなら云っちゃいけないことばなんじゃないのかしら。

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高尿酸血症

「ちょっと痛風の調子が危なっかしいので、今日はビールは控えておこうかな。」・・・ある年齢以上になってくると、オヤジ仲間の間ではこんな会話を当たり前のようにします。以前は、痛風は金持ちや美食家にしか罹らない『ぜいたく病』でしたが、皆さんが金持ちで美食家になった今では普通に庶民の病気になりました。血液中に存在する尿酸という物質の量が一定量を超えると血液から少しずつ血管の外に滲み出始めます。それが徐々に関節包内にトゲトゲの結晶として溜まってくると炎症を起こして、「風が吹いても痛い」=痛風となるわけですが、高尿酸血症はその他に腎結石や動脈硬化の原因にもなりますので、今は痛風になってから治療するのでは遅いという時代になりました。

「『酒を飲まずに精進料理だけ食べるのがあなたのカラダに一番合っています』とカラダの中からメッセージを発しているのですから、まあそれに耳を傾けてやってください。」と、やや冷ややかにアドバイスするのがわたしの常ですが、食事に関連するのは三割、残り七割は「体質」だという事実も歴然と存在していますから、現代社会の中でストイックに修行僧のような人生を続けようとするよりも「ほどほどのところで病院に行って早くくすりをもらった方が身のためだ」とも説明しております。

ただし、内臓脂肪が増えると尿酸がたくさん作られるのに加えて体内から出ていくのを抑えるようにもなりますから、メタボ対策はそのまま高尿酸血症対策になります。「体質だからしょうがねえよ」と云わんばかりに好きなものを食いまくるメタボ腹のオジサンには、残念ながら「禁欲」が避けて通れない治療であります。

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レコード盤

「芸能界という世界は速い速度で回っているレコード盤みたいなものだから、端の方に居てはダメ。端にいると遠心力で振り落とされてしまうから。できるだけ中央に居れるように頑張りなさい。」・・・先日亡くなった俳優の長門裕之さんの語録として、あるテレビ番組でキャスターをしていた男性タレントが話していたのを見ました。

「なるほど、これは何事にも当てはまることだな」と思って、すぐさまメモを取っておきました。ここの世界で生きていきたいと思ったら、常に中へ中へと進んでいくこと・・・それは決してその世界の中で出世するとか有名人になるとか云うことを指しているのではないと思います。常に切磋琢磨して研鑽を重ねることで前へ進んでいくこと・・・。そうやって基本をきちんと固めていないと、一時的な勢いだけではすぐにメッキが剥げて、振り落とされずに付いていくのは難しいということは、芸能界という別次元の世界を眺めていても明白です。

でも、そう思う一方で、そんな激しく回るレコード盤の上で必死に走り続けて生きることが、本当に神様が今世の修行としてわたしたちに与えたもうた使命なのだろうか?と疑う歳にもなってきました。立ち止まったときにだけ見える真理(しんり)もある・・・なんて。これはきっと、初めから走っていない者には到達できない真理なのでしょうね。わたしもちょっとひと休み期間が長すぎたから、もう一度走り初めてみましょうかしら。

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糖尿病と炭水化物

<「日本人には日本人の体質にあった食生活を!」~ごはんを中心とした日本型食生活のすすめ>という見出しが妙に気になって、一枚のチラシをもらってきました。日本糖尿病対策推進会議が作成した資料を元にしているようです。簡単にまとめれば、太りやすい上にもともとインスリンの分泌能が低下している人が多い日本人の体質には、欧米型の食事ではなくて、”糖質が多く含まれた”ごはんを中心とした日本型食生活がよい。栄養バランスにも優れていて、糖尿病予防にも理想的な食事である、というものでした。

以前から云われてきているこの理論ですが、食後高血糖を回避する視点から炭水化物制限の方が脂肪制限より重要だという考え方も幅を利かせ始めている最近ですので、「結局ごはんは食わない方が良いのか食った方が良いのか?」という質問が沸き上がってきて当然でしょう。Amazonで検索しても、「主食を抜けば糖尿病は良くなる!」(江部康二)「糖尿病はご飯よりステーキを食べなさい」(牧田善二)などに対して「米と糖尿病 日本人は炭水化物(糖質)を制限してはならない」(佐藤章夫)など、当事者はとても困ります。

現在の栄養士学会の意向はどうなの?とうちの管理栄養士さんに質問したら、糖質が全体の60%、最低でも100g/日以上は摂るべき、というのが基本だという風に教えてくれました。肉食文化のアメリカと違って農耕民族の日本人気質の、短期的なダイエット効果ではなくて長期的な血糖予防効果は、どっちが良いのか?健診受診者が質問したときにどう答えたらいいものか、どなたか早く正式な見解を出していただきたいものです。

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老化

これからの予防医学は、二次予防でも一次予防でもなくて、『アンチエイジング』だ!そういう思いで、明日から始まる第11回日本抗加齢医学会総会に初めて参加することにしました。明日から三日間、どっぷりとアンチエイジング漬けになるつもりでいます。

でも、最近少しわたしのココロに変化が出てきているのを感じます。『老化』は、神が森羅万象の生物のためにあえて造りたもうた精巧なシステムなのではないか?人が老いることは必然なのであり、それに逆らうように『アンチエイジング』を唱えることは、生物に、あるいは地球全体に大きな歪(ひず)みをもたらそうとしているのではないか?という思いがどうしても払拭できません。人類の最大の理想は、「不老不死」ではなく、準備されたとおりに老いて、準備されたとおりに死に行くことなのではないか?と。

今の世は、寿命が延びたように見えて、実は準備された寿命よりどんどん短くなってきているのかもしれません。衛生環境や科学・医療の進歩は、命という点では長さを驚異的に伸ばしましたが、環境の破壊や薬剤・化学物質などの毒物の体内注入により、ミクロの世界では破壊と変性を繰りえさざるを得ない状況に追いやられている気がします。『アンチエイジング』とは、結局そんな破壊されたものの修復作業を必死に繰り返しているに過ぎないのではないか?本来準備されていた環境下では必要のなかった作業ばかりなのではないか・・・?

・・・屁理屈オヤジの頭の中にはこんな疑念が消えるどころか深まるばかりですが、そんな思いを抱きながらもしっかりと勉強して参ります。

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あなたが怖いからよ。

わたしが新車を某ディーラーで購入して一年が過ぎました。Kさんという人がわたしの担当ですが、彼はわたしに全く連絡をしてきません。年末年始のあいさつもなく、年賀状は会社の事務員のお嬢さんが書いた文字でした。1年め点検の通知が送られてきたので会社に電話をしましたがKさんは不在で、結局整備担当の方と相談して日程を決めました。そのことは帰社してからKさんも聞いたであろうに、結局彼からの折り返しの連絡はありませんでした。

購入する際にわたしたち夫婦に細かい説明をしてくれた男性はたまたま他支店から応援に来ていた人でしたが、彼からは車の購入後も何度も車の調子確認の電話がありました(自分の担当でもないのに)から、一層その差が目立ってしまって、「ハズレくじ引いたな」とか「この支店は『釣った魚に餌はやらない』が経営方針なのかな」とか、皮肉交じりにグチってしまいました。そうしたら、妻がポツリとつぶやきました。

「あなたが怖いからだと思うよ。最初のトラブルのときに叱られたから。」
「仕事なんだから、それでも最低限のコンタクトは取らないとダメでしょ?わたしだって気乗りしない受診者でもちゃんとすべき連絡はするよ。」
「いやいや、そのままで済ませるものなら、わざわざ必要もなく怖いものに関わろうとはしないでしょ。それが人間というものよ。」

・・・腑に落ちない話だけれど、わたしが負のオーラを出しながら勝手に会社と担当者を否定しているのであれば、よろしくありません。反省です。

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あなたが変わらなければ

ある企業のある若い女性がうつ病で休んでいました。復職にあたり、彼女の上司が悩んでいるのは、その女性が休むようになった理由を彼女自身がきちんと理解していないのではないか?・・・たとえば、人に迷惑を掛けておきながら友人と遊びに行く有給休暇は予定通りに取りたいなどということを主張する~そんな態度を同僚は良い顔をしないだろうことは、ちょっと考えれば分かるだろうに・・・ということです。だから、彼女の考え方が変わらなければ復職してもうまくいかないのではないか?という思いです。

でも、その話を聞きながらわたしが懸念したのは、彼女ではなく、むしろその上司のことでした。その上司が、彼女の考え方に「100%非常識」のレッテルを貼ってしまっていることが気になったのです。「彼女の考え方が変わらないと!」と思うのと同時に、「でも、その考え方も一理あるかな」という思いを彼が少しでも持てるようになれないと、今回の問題は解決しないのではないか、と強く思うのです。彼女が体調を壊したきっかけは、そんな理解してもらえない上司との人間関係だったのですから。

当事者ではないので詳しいことは分かりませんが、彼女の感じていることも、彼女が主張していることも、わたしは良く理解できます。それを主張するのは有りかな、とも思います。それを同僚がよしとするかどうかは分かりませんが、彼女の取った行動を「非常識」と言い切っている間は彼女も変われないでしょう。頑なな彼女の上司の石アタマが少しだけ柔軟になることを祈っています。

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云いたいことが増えてきた?

うちの施設で検査の手助けをしてくれている学生さん。とても優秀だというはなしを昨年書きました。今年も毎週来てくれていてとても助かっています。そんな彼の大きな声がわたしの診察室にも聞こえてきますが、ちょっと変わってきたのに気づきました。明らかに単語の数が多くなっています。以前はもっとシンプルだったのに、受診者の皆さんひとりひとりに説明することば数が多くなり、その分流れるように早口になって、そのために昔より少し聞き辛くなってきたかな、という印象です。きっと、現場で仕事をしているうちに、こう云った方がわかりやすいだろう、これも云ってあげた方が相手はうれしいだろう、と気づくことが増えてきて、それを限られた時間内に云ってしまうためにはどうしても無駄なく早口に詰め込むしかなくなったのでしょう。

わたしがよく依頼される生活習慣病の講演も然りです。初めて依頼を受けた当時から比べたら内容が倍増しています。せっかくならもっと分かってもらいたいこと、理解してもらいたいこと、新しい提案などが講演をするごとに増えていきます。パワーポイントのスライドは倍増しているのに講演時間は限られていますから、早口になってしまって・・・毎回反省しきりなのです。

シンプル・イズ・ベスト!きっと、云いたいこと、云うべきことの倉庫の中からさらに選び抜いた最低限の材料で話すことこそが重要で、その域に達して初めて聴衆の多くがきちんと感銘を受けて理解してくれるのでしょう。まだまだ修行が足りません。

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話題

トイレで小便をするとき、となりに同僚や上司が用を足していることがあります。イベントや宴会の帰りに電車で職場のスタッフと隣り合わせになることもあります。

「おつかれさま」とあいさつをしたあと、妙な気まずい沈黙から逃れるために、二人の共通の話題がないかアタマを巡らせるのが常です。仕事の話があればラッキーですが、いつもそううまくは行きません。「どうです?最近のゴルフの調子は?」「風邪は治りました?」「お子さんは何年生になったの?」・・・どうせ短時間の場つなぎではありますが、そんな話題すら浮かばないことの方が実は多いように思います。特にそれが上司だったりすると、一層沈黙の時間が長く感られます。

以前、電車の中やタクシーで同席したときに、「ワンちゃんは最近どう?うちのイヌはだいぶ歳取っちゃってね・・・」と毎回同じ話題で話しかけてくれる上司がおりました。他の人と熱く仕事の話をしていてもわたしには必ずイヌの話でした。・・・「話題がないんだろうな」と思いながらわたしも毎回同じ答えを返しておりました。仕事の話をしてくれないのが、ちょっと寂しかったりしましたが、たしかに「じゃあ何を話す?」と考えたら・・・特にないな、と納得する自分もまたちょっと悲しかったものです。

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飽和

「ハズレの文章を書きたくない」・・・たまたまこのブログに遭遇した人がたまたま読んだ文章が、魂の込められていない面白くなくていい加減な文章だったら、申し訳ないというかとても悔しいので、毎日毎日何度も文章を推敲して研ぎ澄ませたものに仕上げてから公開してきました。一度アップされた文章でも読んでみて気に入らなければ早朝から何度も書き直してみたり。

でも、それにちょっと疲れてきて、最近少々手抜きです。もっといい表現があるのじゃないか?これでは冗長すぎないか?などと考えてはいるのですが、昔のように代替のいい表現がアタマにまったく浮かんで来ません。それどころか何かどんどんアタマの中が飽和状態になっていく感じで・・・真っ白になってしまうのです。きっとアタマが疲れているんだなと思う一方で、呆けてきているのかもな、とも・・・。

じゃあ、良い文章が書けたときにだけアップすればいいじゃない、と何度思ったことか。でも、きっとそうなると一層敷居が高くなり、かなり満足しない限りアップできなくなって、きっとこのブログも終わりだな、などと後ろ向きな発想にたどり着くのであります。文章の質は落ちたけど、別にこれで金をもらっているわけじゃなし、これがランキング入りをねらっているブログでもなし、ボケ防止のためにアタマを働かせるリハビリだと思えば恥ずかし気もなく続けることもできるだろうと、そう思うことにしました。・・・でも、やっぱりプライドがちょっとジャマをする・・・。

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左室肥大

わたしは心電図判読をするときに、明確な「陰性T波」所見でもない限り、『左室肥大』の診断はつけないようにしています。左室肥大・・・心臓という筋肉の塊の中で一番厚い心筋の袋が左室です。この袋が異常に大きくなっているか、心筋が基準以上に厚くなっている状態が『左室肥大』です。『左室肥大』の心電図所見は「陰性T波」だけでなく、「高電位(R波増高)」とか「ST低下」とか他にもいろいろあるのですが、別に心筋に異常がなくても、たとえば「高電位(R波増高)」というのは心電図の丈が高い状態を指しますが、これは痩せ型の体格の人には簡単に認められる所見です。

あくまでも心電図診断なのだから、他の因子(年齢や性別や身長・体重など)を判断基準にすべきではない、心電図所見が『左室肥大』に合致するなら、『左室肥大』と書くべきだ、という先生はたくさん居ます。でも、本当はまったくの濡れ衣(単に体格の問題)かもしれないのに、「自分は健診で『左室肥大』と云われているから心臓が悪い!」と強く思い込んでいる人が少なくないのです。実際には、心臓超音波検査(心エコー検査)を受ければ、それが正解なのか濡れ衣なのかすぐに分かるわけですが、そういう検査を受けない人の方が大多数です。だから、定義に当てはまるからというだけで、あえてそのすべてに『左室肥大』のレッテルを貼る必要はない、というのがわたしの考えです。

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受診ボード

「どうぞここにおかけになってお待ちください。ボードはボックスに入れておりますのでね。呼ばれるまでそのままお待ちください。」・・・フロアアテンダントの女性が受診者の方に説明している声が診察室に居るわたしの耳にも入ってきました。

わたしたちにとってはごく普通に聞こえるフレーズですが、冷静に客観的に聞いてみると、ちょっと理解しにくい場所がありました。「ボードはボックスに・・・」の行(くだり)です。『受診ボード』のことをわたしたちはいつの間にか当たり前のように『ボード』と呼ぶ習慣になっていますが、そもそも『受診ボード』ということば自体がおそらく業界用語のはずです。『ボード』=板という発想そのものがなければ、あるいは自分たちが持たされている受診票を挟んでいる小さなプラスチックの板のことを『(受診)ボード』というのだと認識していなければ、おそらく彼女の云っていることばは聴き取れないままに流れてしまっただろうな、と思って聞いていました。よく分からなかったけど、とにかくここに座って名前を呼ばれるのを待っておけばいいんだな・・・きっとわたしが受診者なら、そんな感じで少しだけ不安に感じながら座って待っていることになるでしょう。

他の病院を受診したり、役場とか企業とかを訪問したときに一番アタフタするのが、その職場でのみ使われている用語です。おそらく使っているスタッフの皆さんはそれが世間一般の共通用語だと思って、<知ってて当然>みたいな顔をして使っているようですが、自分の目の前にあるものを自分が思っているのと全く違う名前で呼ばれたら、きっと何も気づかないことでしょう。

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飛距離

「最近、急に体力が落ちました。」・・・先日、人間ドックを受診された75歳の男性がつぶやきました。

「ゴルフの飛距離が100ヤードは落ちてしまって。」
「あまり練習しなくなりました。すぐ飽きるんです。若い頃は一日中やってても飽きなかったのに・・・。」
「ラウンドもあまりしなくなりましたね。友人が誘いの電話をしてくれるけど断ることも増えました。」
「みんなシングルプレーヤーばかりだから、気を遣って誘ってくれよるんでしょうね・・・。」
「とうとう、今年は一番前のゴールド(寿)のティーグランドから回るようになってしまいました。去年は1回も70台を出せなかったし・・・。」

毎回、スコア100を切るか切らないか汲々としているわたしが、シングルプレーヤーの紳士に偉そうにアドバイスするようなことでもありませんが、話を聴きながら、一気に衰えてしまった自分のカラダへの苛立ちが伝わってきます。ずっと一緒だった友人は相変わらず飛ばして良いスコアをキープしているのに自分はそれがままならなくなった、そのプライドが大好きなゴルフを遠ざけつつあるように感じます。それでも、だからこそ、なんとかゴルフへの情熱だけは失わないでほしいと思いました。そうでないと一気に歳を取りそうです。あるいはうつ病にもなりかねない表情なのです。

「ドライバーで100ヤード置いて行かれてもスコアで負けない方法を考えましょうよ。エイジシュートを何回達成できるかが目標ですね!」・・・わたしとは全然違うレベルの方におこがましい意見ではありますが、あえてそうアドバイスさせていただきました。

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福澤心訓

ある人から送られてきたメールに書かれていたものです。
たまにはこういう人生訓を大きな声で読んでみることは大切なことだと思います。

「福澤心訓」(ふくざわしんくん):福澤諭吉が作成したとされる7則からなる教訓である(実際は作者不明)。

▼世の中で一番楽しく立派な事は、一生涯を貫く仕事を持つという事です。

▼世の中で一番みじめな事は、人間として教養のない事です。

▼世の中で一番さびしい事は、する仕事のない事です。

▼世の中で一番みにくい事は、他人の生活をうらやむ事です。

▼世の中で一番尊い事は、人の為に奉仕して決して恩にきせない事です。

▼世の中で一番美しい事は、全ての物に愛情を持つ事です。

▼世の中で一番悲しい事は、うそをつく事です。

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脚を組む

気になって、以前にも一度書いたことがあるような気がします。

若い女性が脚を組む姿をよく見かけます。うちの職場でも机に座って事務仕事をしている状態でもきっちり脚を組んで必死に書き物をしているお嬢さんがたくさんいます。スカートをはいているからとか、脚を開いているのがみっともないからとか、あるいは長い脚を組んでいる姿がカッコいいからとか、理由はたくさんあるのでしょうが、常にカラダ(特に骨盤)を歪ませている状態がカラダに良いはずがありません。カラダ全体の身体的なバランスを壊すだけでなく、骨盤の歪みはそのまま女性ホルモンや自律神経にまで大きく影響を与えてしまうと云われています。

脚を組んでいるとどこか身が引き締まり、魅力的な女性になっている気がするのかもしれませんが、よほど必要な場合(電車の座席にミニスカートで座るとか、座り姿で強くアピールしたい素敵な男性が目の前に居るとか)でない限り、特に若いお嬢さん方は脚を組まないように常に意識した方が良いと思いますよ。

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だから今、「健診」!

別の団体の広報紙に連載寄稿の依頼がありました。すぐ安請け合いしてしまう八方美人の性格のわたしは、ついついいいカッコばかりして自分の首を絞めていくのであります。

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「健診とは何か?」と聞かれたら、あなたはどう返答しますか?「自分のカラダが健康かどうか、あるいは異常がないかどうかを調べること」ですか?・・・ノー!です。私なら、「健診とは、『これから生きていく上での健康に関する戦略設計をすること』」と答えます。少し大げさですが、おそらくこれが現代の健診の定義です。ところが、そこのところを臨床の医療者はもちろんのこと、健診に従事するスタッフですら勘違いしています。「健診受診率が上がらない」とか「健診が重要だということが分かってもらえない」とか騒ぐ前に、「健診は検査を受けることだ」という古い考え方を、する側もされる側もしっかり払拭することからやり直しましょう。

以前は、「検査を受けること」に重きが置かれ、「何人が受診したか」「受診率が何%か」が評価されていました。できるだけ多くの人間に検査を受けてもらい、その中からガンや結核を始めとする多くの病気を早期発見することを目的にしていました。つまり「検診」が主流でした。文字通り、<病気がないかどうかを検査する>という意味です。でも、「健診(健康診査)」は「検診」ではありません。「健診」は、健康度の確認であって異常度の評価ではありません。特定健診・特定保健指導の解説書には<健診≒保健指導>と書かれており、検査は保健指導の重きを分けるための前準備として存在するに過ぎません。ふつうの健診やドックでも基本は同様です。つまり検査を受けることだけではなく、あるいは検査で異常を見つけることだけでもなく、その結果を基にして自分がこれからどう生きていくかの具体的な目標をつくり、それを家族や社会や健診スタッフと一緒に考えて実行すること・・・ここまでを全部ひっくるめて「健診」と定義しているわけですから、まずはそういう意識をみんなが共有する努力が要ります。

(後略)

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音痴

歌っていて、どうしても音程の違いを把握できずにずれてしまう状態を「音痴」と称します。わたしは小学校低学年のころまでは両親から「おまえは音痴だ」と云われ続けてきましたが、何となく人並みになりました。中学校のときには合唱部に入らないかと誘われましたから、「音痴」には当てはまらなかったのだろうと思います(どうも子どものころは息を吸いながら声を出そうとしていたらしいです)。

先日のテレビで、ある人の声を録音するとその人の声を使って音程の狂わない歌声を作れるマシンの紹介がありました。音痴で有名なあるタレントさんが、作られた自分の歌声を聞いて感動していました。でも、彼は本当にその違いがわかるのかな?という大きな疑問をいだきました。もともと自分の声を聞いても音が外れていることがわからないから音程が取れないのだから、自分の生歌の歌声と機械で作った歌声とを並べて聞いても、違いはわからないのじゃないのか?と。

実は、熊本の人はイントネーションがわかりません。端(橋)と箸や、柿と牡蠣を使い分けられませんし、聴いても区別できません。もともと県民みんなに聞き分ける耳力がないのだと聞いています。「これがわからないの?」とバカにしたら、「文章の前後の繋がり方を考えればイントネーションが違っても意味を間違う人なんか居ないでしょ!」と切り返されました。「何が悪いの?」と強気です。

「音程」や「イントネーション」を聞き分ける力があるから優れているとか、ないから劣っているとか、なんかそういう評価にあまり意味がないような気がいたします。

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この理不尽さが面白い。

ダイエットを始めた初日の体重が78.4kg、翌朝の体重が78.6kg、そしてその翌朝には78.8kg・・・笑ってしまうほどに、嫌味なほどに、順調に重くなっていきます。もうすぐ1週間ですがいまだに78.4~78.6kgをウロウロしています。運動量を増やしたわけではありませんが、毎日イヌの散歩を小一時間し、ダイエット初日はゴルフを1ラウンドしました。間食はまったくせず、晩酌はビール350mlか焼酎ロック1杯かどちらかになり・・・。

「減らないどころかむしろ毎日増えていくってどういうことですか?」・・・なんて良く聞かれますが、「それは、食べていないつもりでどっかで絶対食べているんです。あるいは1回の食事量が気づかないうちに少しずつ増えているんですよ!だからもっと食べる量を減らしてください!」って、答えていませんか?わたしも良くそう答えてきました。でも、自分で試してみてわかりました。ホントに、食べる量はまったく増えていません。それは確信を持って云えます。そう簡単に理屈通りにはいかないのです。

自分のこれまでの経験からすると、おそらくこのまま続けておけばもうすぐ減少に転ずると思っています。転じないとしたら、カラダにとって今が一番理想的なわけでしょう。運動するとLDLコレステロールが増えたり、減量すると中性脂肪が増えたりすることも良く起きますが、これはカラダの防衛反応ではないかと思っています。予定していた材料の入庫が前触れもなく突然減ったのです。それを元にして通常通りの商品を作る計画だった工場長としては一大事です。とにかく流通が前のように回復するまで、とりあえず今まで簡単に捨てていたものをギリギリまで溜めて材料にする算段をします。緊急避難です。それでも回復しないとき、初めて最後の手段として在庫を切り崩すことを考えるわけです。

あとは、その状態になるまで、わたしが焦れずに今の食べ方を続けることができるかどうか・・・ですね。

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自分の感覚に素直に食べる。

「理屈で食べるな!」「食べたいときに食べる。食べたくないとき食べない。それが、一番自然!」などと、いつも熱く語っているわりに、ほとんど実践できていなかったわたし・・・。

ゴールデンウィークの間、毎日しっかりカラダを動かしたつもりのわたしのお腹が急に膨らんだのはなぜだろう?たしかに最近、まったくお腹が空かなくなってきました。「1日に1回は必ず本当にお腹が空いた状態を作りましょう!」と提案し、それを実践していたころ、わたしのカラダはそれなりに理想的でした。でも、特にお腹が空いているわけではないのに何となく菓子を買って食べるようになり、そんなことをしても何も変わらなかったので、そのうち徐々に惰性になってきました。それが突然体重に加速度が加わり始めたころから、何度もウンチに行くようになりました。食べたら出す。食べたら出す。・・・快便ではありますが、これはある意味「便秘」なのだと聞きました。

久しぶりに自分自身と会話してみました。
「今、お腹はすいているか?」「いや、それほどでも・・・。」
「それ、食べたいか?」「いや、それほどでも・・・。」

ここ数週間、冗談抜きで一気にカラダ全体が膨らんだので、良い機会ですから自分のカラダで試してみることにしました・・・「自分の感覚に素直に食べる」。<がまんする>とか<頑張る>とか、そういうものではないので、ちょっと続けてみようと思います。

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「相手のなまりをまねると理解深まる」?!

イギリスから面白い論文が発表されました(Psychological Science 2010:21:1903-1909)。「地方なまりあるいは外国語なまりで話す人との会話では、その人のアクセントをまねることで、相手が話す言葉の理解がいっそう深まる」という報告です。

「人は誰かと会話する際、自分の話し方を相手の話し方に近づけようとする傾向がある。」「話す際の姿勢も無意識のうちにまねる傾向があり、相手が腕組みをして話しているときには自分も腕を組む人が多い。」などのお話は、たしかに「なるほどな」と思います。外人さんと話していると、ついつい「ニホンゴ、ワカリマスカァ~?」とカタコトになってみたり、妙に大げさな手振り身振りになってみたりします。熊本生まれではないわたしが長年熊本に住む間に熊本弁を話すようにはなりましたが、やはり根本は違います。それでも、標準語や大分弁で話している間はやはり「よそ者」で、自然と熊本弁が出るようになってやっと地元の考え方に少し近づけた気がしたのは事実です。

もっとも、これを発表したPatti Adank博士も云っているように、ニセのなまりをまねされて「友好的だ」なんて思う人はそう多くはありますまい。云われる側からするとちょっと上から目線で見下されているような気がしたり、いじめに使われそう・・・「おまえ、オレをバカにしているのか?」と逆効果になる可能性が高いでしょう。それでも、「気付かれない程度に話し方を相手にわずかに近づければ、より理解が深まるであろう」というコメントが、いかにも心理学者らしいと思いました。「相手を分かりたい!」と強く思うような魅力的な相手に迎合するのでもない限りそんなことはしないだろうな、と思いながら読みました。大きな人間になれないわけだ。

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無理をする

久しぶりに血圧を測ったら、下の血圧(拡張期血圧)が90mmHgを越えるようになっていました。まあ、大した数字でもないな、と思う反面、明らかに上がってきた血圧に慄(おのの)いています。わたしはもうすでに何年も前から内服薬を飲み続けている高血圧症患者であります。

若いときには特に何も思わなかったことが、妙に不安になったりします。ジョギングをあと10分続けたいけど、大丈夫だろうか?脳出血や心筋梗塞にならないかしら?庭の草刈りを最後まで一気に仕上げるのに汗だく・・・少しめまいがするけど大丈夫かな?動悸もするな。脱水になっているんじゃないかしら?低血糖?脳梗塞にならないかしら?などと。自分はもっと無理ができるカラダのはずだ!どうもないのだから全然大丈夫さ!と根拠はないけれどいつもしっかり自信を持って生きてきたのです。それが、どうしてこんなに弱気になったのでしょう。他人にはいつも、「症状がなくてもきちんと管理をしてコントロールをしておかないと突然何が起きるかわからないぞ!」と脅しまくっているのだから、今の自分の方が本来あるべき姿なのだろうけれど・・・認めたくない、そんなこと。

<無理を無理だとは思わないでやってしまう>というのが若さの証しだという気がして、いつも軽いフットワークで生きてきました。だから今の自分の変化に、こんなに落ち込んでいるのでしょうか。・・・ちょっと大人げない、かな。

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「時刻」

うちの施設の広報誌が一向に発行されません。2月中旬に出るから正月早々に原稿を出しなさいと云われて頑張ったというのに、いまだに発行されないって、どういうことよ?わたしが編集委員長をしていたころには絶対そんなことはなかったぞ。こうなると、日の目を見るかどうか、それ自体も怪しいものなので、フライングで公開してしまいます。

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   時刻

うちの職場にある大小さまざまな掛け時計は、指している時刻が微妙に違います。意図的に進めているものもあれば、勝手にずれてきているものもあるようですが、同じフロアでも時計によってまったく違っていたりします。正確な時刻を指す時計がどれなのか、実はよく知りません。

ほんの数年前まで、こういういい加減さがたまらなくイヤでした。目に止まる時計の時刻が全部違ったら何を基準にしたらいいのか?会議に集まるのに各々が自分の基準とする時計を目安にしたのでは、定刻に始められないのは必定。集団行動をする上では、このいい加減さがムダな時間を生み出し、人間をだらしなくさせ、結局は生産効率の悪い仕事場になるのだ!<時刻>は数字だから真実はひとつ。『電波時計』というものがあるのだからすべてをそれにしてしまえばいいではないか!正しいものは「正しい」、それ以外はすべて「間違い」なのだ!・・・そう思って生きてきました。

ところが最近、逆にこの曖昧さ加減が重要なのかもしれないと思い始めてきました。もちろん、正確な時刻を指す時計はたくさんあります。先日、我が家の電波時計の電池を入れ替えたら突然勝手に針がグルグル動き始めて、明確な一点で止まりました。携帯電話や電波時計は毎日きちんと標準時刻に修正してくれますから、一分一秒たりとも狂いのない正確な時刻を表示してくれます。でも、わたしたちのような一般庶民の日常生活の中で、数分の違いに目くじらを立てるほどの意味はないのではないかと考えるようになりました。それは決してだらしない生活を薦めているのではありません。そっちの方が、むしろ時間を有効に使える気がするのです。時刻はあくまでも<生活の目安>という程度に思っておくと、時間に追い回されて時刻を気にしていた頃よりも、返って行動や心に余裕が生じることに気づきました。わたしは定刻より前に会場に行くことにしています。この曖昧な時計環境だからメンバーが揃うのはもっと先だと分かっていても早めに行きます。待っている間に本を読んだり書類書きしたりできるからです。他に邪魔されずに短期集中できるのは魅力です。だから時計は文字盤の上を長針と短針が回るやつがいい。できたら、時刻が正確でも「まだ2分前だ!」と言い張れるような、文字盤に数字が書かれていないアバウトなやつがいい。ちなみに、わたしが5年間使っている自動巻きの腕時計は、現在本当の時刻から何分遅れているのかよく分かりません。・・・何とも無責任です。

私たちの職場の始業時刻は8時です。8時は「8:00:00」であって、「7:59:59」でも「8:00:01」でもない。「そんなことは当たり前だ!」と思っているタイムカードのような方へ・・・試しにちょっとだけいい加減になってみると、「8時」が気にならなくなってきます。いつの間にかそれよりもはるか前から行動し始めるようになっていくんです。これがなかなか面白いんです。

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晩酌

「別に酒が好きなわけじゃありません。飲めといわれれば飲みますけど。」

妻の飲み仲間(彼女は全く酒の飲まないので『飲み仲間』という云い方はおかしいですが)のTさんが、いつもそう云いながら飲むのだそうです。それも底なしで・・・。彼女曰く、「他のいわゆる『酒好き』の連中と違い、Tさんは『ザル』。」

遠い昔、若い頃にわたしも全く同じことを云っていたなあ、と、その話を聞いて思いました。そうです。わたしはもともと酒好きではありませんでした。「酒飲みの家系だから、飲めないわけじゃないから飲めといわれればいつまででも飲むけれど、特別『酒が好き』というわけではない。『毎晩晩酌をする』という行為そのものが全く理解できない。」と、いつも云っていました。妻もそれを何度も聞いた口です。

わたしがアル中になったのは妻のせい。いや、妻のお母さんのせいです。結婚するまで、宴会以外で酒を飲むなんてことはなかったわたしだったのに、結婚したとき、「男は仕事から帰ったら夕飯の前に晩酌するのが当たり前だ」と入れ知恵したのは義母であり、全く酒を飲めないのに毎晩酒と酒の肴の準備をしてくれたのは妻ですから・・・。

「あなたね、何でも他人のせいにしたらダメよ。要らないって云えばそれでいいことなんだから。あなたが呑んべなのは血筋!お酒呑んでる姿なんか、お義父さんそっくりになっちゃったよ。」・・・最近になってわたしがそんなことを云ったら、即、妻から一瞥(いちべつ)されました。そりゃ、そうだっ!

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ツイッターの存在意義

ツイッターと云うのはどうも苦手です。一般小市民にとっての存在意義がわかりません。有名人でもないのに不特定多数の人間に「今何してる」と小まめにつぶやく意味があるのか?ブログのレベルが限界ではないか?むしろモラルが問われ、無責任なつぶやきで必要もなく不愉快にさせられる人も少なくないのではないか?・・・だから、必要な情報を得るために登録はしているものの自らツイートすることはありませんでした。

たしかにフェイスブックの存在が独裁政権をひっくり返したことは大きな社会現象ですし、今回の東日本大震災では、日本中に飛び交ったツイッター情報のおかげで多くの人が恩恵を受けたと聞いています。「『皆さんの情報のおかげで、やっと家にたどり着くことができました』だって。良かった。」・・・いつもツイッターとmixiを駆使している妻が3.11の夜にそうつぶやいたのを覚えています。今回のような状況で一番怖いのは情報がないことと不安を煽るデマが流れることだそうで、現地で錯綜する情報の中から数人が協議して、今どこに向かうのが一番得策かを考え、行動する。群衆の中にはさらに情報を得るすべのないご高齢の方も多く、彼らはそんな皆さんへも正確な情報を伝える。とても良い連携だったのだろうなと思います。その後も含めて、今回の状況をみていると、ツイッターやフェイスブックの存在のおかげで阪神大震災のときとは比べものにならない情報量と多様性を得ることができていることを実感しました。

ただ、それでもやはりわたしは手を出せません。何もない日常の片田舎の生活の中で、思い立ったことをあえて携帯を出してつぶやくとしたら、わたしならやはり特定の相手であるメールを選ぶことになるでしょう。「そうまでしてつながってなくてもいいわ」みたいな。これが<若くない>ってことなのかしら。

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ブログの恩恵

なんかやっぱりブログっていいな、って思います。ツイッターやフェイスブック全盛のご時勢だけれど、でもやっぱりブログの方が断然良いな、って思います。

たとえば、東京で頑張っている劇団の演出家ブログ
古城十忍の老い日記
昨年の3月19日に始まったこのブログは、「胃がんが見つかった」話から始まっています。旧知の友人でありながら、学生時代は一緒に舞台に明け暮れていた仲でありながら、上京して芝居を観た日は一緒に酒を飲み交わす間柄でありながら、今回は医学的なアドバイスをちょこっとしただけ。もともと彼は他人を頼らないし、わたしも相手が欲しないものを深入りしようとすることを善しとしないもので・・・この淡白な関係は時にはとてもじれったいもの。そんな彼が始めたブログは1年経った今でも綴られています。決して自分のことの多くを語らない彼が思いの内を書きなぐっている日記を読むことで無事を確認しています。手術の後の方がもっと殺人的に自分を苛めているようにみえて、「せっかく神様が<人生を見直せ>と云ってくれたのに」と批判しながら読んでいます。

たとえば、うちのワンたちの生まれ故郷である町田のブリーダーさんのブログ
ビアデッド・コリー(ゴールデンバットン飛鳥犬舎)
犬舎のホームページが一時期まったく動かなくなったときがあって、すでにそう若くはない飛鳥父さんと飛鳥母さんに何かがあったのではないかと危惧しました。インディくんを戴きに飛行機に乗って犬舎に初めてお伺いしたのはもう15年以上前のこと。ホームページが出来てからはときどき仔犬のビアディの写真を眺めに伺っていました。子どもたちはみんな飛鳥父さんのことばかりが好きだから、いつもちょっとスネ気味の、でもいつもとっても優しい目で文章を綴っている飛鳥母さんの文章をときどき読みに行きながら、内容よりも新しい文章が更新されていることで安堵する日々です。

そんなものを読んでいると、自分もブログを始めて3年半。決して多くはないブログの読者の皆さんに、とりあえずわたしは元気だよと云う事を伝えたくて、今日も仕事をそっちのけで文章を書いている次第でございます。

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雑草

若葉の季節になりました。庭の木の葉や花壇の草木が一晩で突然別物のように生い茂ってしまう、そんな季節です。

庭先に立ってみると、先週草刈りをしたばかりだというのにすでにたくさんの雑草がたくましく生え出ていました。気になりだしたら放っておけないわたしは、早速くつを履き替えて草取りを始めました。端から順に、生え出ている一本一本の雑草を抜く・・・草刈り機や枝切りバサミで全体を短く刈ってしまうのは云わば床屋のようなものですが、それと違って、明らかに意図的に抜く草を選んで抜いていると、<雑草ってなんだろう?>などという哲学的なことが浮かんでみたりする。「雑草と云う名の草はない」と口にしてみる。「主(=わたし)の意思に反して生まれた草を雑草と称し、それが気に入らなければ排除する権利が主にはある」などというのは人間の勝手な理屈である。<自分の意に反するものをすべて排除する>というのは暴君の悪政の如くであり、民主主義の崩壊ではないのか?本来、雑草には雑草の理屈があり、雑草にとってはそこが誰の土地だとか、そこが花壇の仕切りの内か外かなどということは知ったことではないではないか?何より、勝手に種が飛んできただけのことで、そこに生えたくて生えてきたわけではないのだ!・・・黙々とひとりで作業を続けながらそんなことを考えているうちに、何となく自らの人生を雑草に置き換えてみている自分に気付いて苦笑いをしてしまうわけです。

ところが、そんな思いとは裏腹に立ち上がって振り返ってみると草抜きしてきた庭は想像以上にきれいになっていました。「これが秩序というものさ」・・・雑多で混沌としたものから、自分の基準で気に入らないものを切り捨てるからこそ、そこに秩序が生まれるわけで、そうでなければ物事は効率的に前には進まないのだ、ということも痛感するわけです。

ま、我が家の草抜きごときで哲学を論じること自体に無理がありますね。

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テロ

世界中を震撼させたテロリスト集団の指導者が殺害されました。

そのことを淡々とテレビの前で告げるアメリカ合衆国大統領。

集会で気炎を上げるたくさんのアメリカ国民たちと、対照的に「うれしいです」と云いながらも、笑うでも泣くでもない犠牲者の遺族たち。

そんなテレビ報道を眺めながら何か複雑な気持ちになって、わたしにとってそれが他人事だからなのかもしれませんが、いいんだろうかそれで?という重い感情を払拭できません。「暴力に正義はない」という思いは、アメリカには通用しないのだということを、どの番組でも報じています。「やられたらやり返す」・・・それが正義に反するものであるという大義名分さえあればどんなことがあっても必ず報復する、というのが彼らの基本的な考え方。キリスト教の国とは思えんな・・・ついそんなつぶやきをしてしまいました。

前アメリカ合衆国大統領とは違って、今の大統領が今回の事実を「正義」として誇らしげに宣言している姿はあまり似合わない。「力の理論」は彼が否定し続けていたことなのではないか?そう感じているのはわたしだけなのでしょうか?何か、国民感情をうまく政治に利用している感じがして、ちょっと残念です。・・・単なるわたしの私見です。

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うちの姫様(後)

何か、彼女をみていると、これが生き物の本来あるべき姿なんじゃないかなと思うようになりました。

<野生の動物は食べられるときに食べておかなければ生き残れない>という歴史が遺伝子に刷り込まれているからこそ、オオカミの流れのイヌたちは食べ物を見れば必ずすべて食べるのでしょう。何事も理屈で考えてしまう人間ですら同様で、だから生活習慣病が急増しているわけです。でもそれは、現代社会には当てはまりません。健康のために腹八分目にしましょう!などという指導がまことしやかに行われるのも平和な社会のおかげです。

最近、「食事に関する一番理想的な食べ方は、自分の感覚に素直になって、食べたいときに食べたいだけの量を食べること」と主張する専門家の意見を多く聴くようになりました。わたしもそれに賛成派のひとりなのですが、人間に限らず生きとし生けるものはすべて、いつでも食べられる条件であれば、この方法が一番自然で無理のないやり方。そうすることで自分にとって一番理想的な体型と体調になり、一番健康的になるはずです。人間はすぐに欲と煩悩が表にでてきてしまうから、「食べなきゃ損!」とか「腹一杯だけどだってこれ好きなんだもん」とか、そう簡単にはカラダの要求に素直な反応は取れないものですが、彼女は自分の感覚にとても素直。たくさん盛られたフードを見ると食べたくならなかったのに、ちょっと減って自分に適量になったというだけで食欲を刺激した様子。最近は、朝早くから「腹減った!」と騒ぐようになって、嬉しい反面、主人はちょっと迷惑ですが。

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うちの姫様(前)

我が家の3歳のワン(ビアデッドコリー)が、最近きちんとフードを食べるようになりました。「イヌというものはたとえ腹一杯でも目の前に食べ物があったらなくなるまで食う習性である」と、多くの皆さんが思っているに違いありません。わたしもずっとそう思っていましたし、事実、歴代の我が家のワンたちは皆そうでした。現在我が家にいるもう一匹のワン(13歳)もフードの準備をしているだけで大量のヨダレを垂らして待っています。わたしが目の前のものを何でも残さず食べる卑しい性格なのは「戌年生まれだからだ」と皆に云うと、多くの人は合点がいっているように見えます。ワンのしつけに食べ物を褒美として使うのもその習性を利用したものです。

なのに、この子は仔犬の頃から気が向かないと全く食べない子でした。「ちゃんとしつけなきゃダメよ!」と云われますが、だって食べないんだもの。フードを取り上げて1日何も食べさせなくても平気で飛び回って遊びますし次の食事のときに狂ったように食うわけでもありません。フードが嫌いなのかと思いきや、食べるときには一気に食べ尽くしますので食わず嫌いや偏食なのでもなさそう。きまぐれなんだな、と思っていましたが、最近1回に与えるフードの量を少なめにしてみてから毎日朝晩きちんと食べるようになりました。餌を与えてからひとしきり遊んでいた昔と違って、与えた端から一気に食べ終わっています。

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割り込み

九州を東西につなぐ国道の一本道は、休日ともなるとたくさんの車が通ります。その国道沿いにあるゴルフ場から帰路に付くためには、一番交通量が多い夕方に、その国道を横切って右折する必要があります。

本当に、いつ切れるともなく等間隔に左右から車が流れてきます。一方が切れたかと思ったら反対側が流れ始め、それが切れそうになったら再びもう一方の道から車が見えてきます。この流れの中にスムーズに入り込むには、無理して道路の中央まで出て待っておくしかありません。こういう強引さがわたしはとっても苦手です。だから、右折を断念して反対方向にしばらく国道を走った後でUターンしたこともあります。

ただ、先日は、後続車も居なかったので、ぼーっと2つの流れが切れるのを眺めて待っていました。いつまでたっても切れません。ず~っと無理なんじゃないかな?とちょっと不安になりかけましたが、でもまあ、「いつかは切れるさ」と開き直りました。そう思った途端、ウソのように意外に早く切れました。いつもは、出れない状況が一生続くのではないかという不安感が続々と連なってくる自分の後ろの車の数に比例して強くなり、そのストレスに潰されそうになるというのに、実際は自分で思うほど大した時間を待たなくてもちゃんと右折はできることを実感しました。そうでなかったら、きっと信号機くらい作るでしょうし・・・。

自分に余裕がないだけで見えなくなる真実がある。そんなことを学んだ日でした。ゴルフ自体は散々でしたが・・・まあ、いつかは上手くなるさ(なるかな?)。

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