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「時刻」

うちの施設の広報誌が一向に発行されません。2月中旬に出るから正月早々に原稿を出しなさいと云われて頑張ったというのに、いまだに発行されないって、どういうことよ?わたしが編集委員長をしていたころには絶対そんなことはなかったぞ。こうなると、日の目を見るかどうか、それ自体も怪しいものなので、フライングで公開してしまいます。

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   時刻

うちの職場にある大小さまざまな掛け時計は、指している時刻が微妙に違います。意図的に進めているものもあれば、勝手にずれてきているものもあるようですが、同じフロアでも時計によってまったく違っていたりします。正確な時刻を指す時計がどれなのか、実はよく知りません。

ほんの数年前まで、こういういい加減さがたまらなくイヤでした。目に止まる時計の時刻が全部違ったら何を基準にしたらいいのか?会議に集まるのに各々が自分の基準とする時計を目安にしたのでは、定刻に始められないのは必定。集団行動をする上では、このいい加減さがムダな時間を生み出し、人間をだらしなくさせ、結局は生産効率の悪い仕事場になるのだ!<時刻>は数字だから真実はひとつ。『電波時計』というものがあるのだからすべてをそれにしてしまえばいいではないか!正しいものは「正しい」、それ以外はすべて「間違い」なのだ!・・・そう思って生きてきました。

ところが最近、逆にこの曖昧さ加減が重要なのかもしれないと思い始めてきました。もちろん、正確な時刻を指す時計はたくさんあります。先日、我が家の電波時計の電池を入れ替えたら突然勝手に針がグルグル動き始めて、明確な一点で止まりました。携帯電話や電波時計は毎日きちんと標準時刻に修正してくれますから、一分一秒たりとも狂いのない正確な時刻を表示してくれます。でも、わたしたちのような一般庶民の日常生活の中で、数分の違いに目くじらを立てるほどの意味はないのではないかと考えるようになりました。それは決してだらしない生活を薦めているのではありません。そっちの方が、むしろ時間を有効に使える気がするのです。時刻はあくまでも<生活の目安>という程度に思っておくと、時間に追い回されて時刻を気にしていた頃よりも、返って行動や心に余裕が生じることに気づきました。わたしは定刻より前に会場に行くことにしています。この曖昧な時計環境だからメンバーが揃うのはもっと先だと分かっていても早めに行きます。待っている間に本を読んだり書類書きしたりできるからです。他に邪魔されずに短期集中できるのは魅力です。だから時計は文字盤の上を長針と短針が回るやつがいい。できたら、時刻が正確でも「まだ2分前だ!」と言い張れるような、文字盤に数字が書かれていないアバウトなやつがいい。ちなみに、わたしが5年間使っている自動巻きの腕時計は、現在本当の時刻から何分遅れているのかよく分かりません。・・・何とも無責任です。

私たちの職場の始業時刻は8時です。8時は「8:00:00」であって、「7:59:59」でも「8:00:01」でもない。「そんなことは当たり前だ!」と思っているタイムカードのような方へ・・・試しにちょっとだけいい加減になってみると、「8時」が気にならなくなってきます。いつの間にかそれよりもはるか前から行動し始めるようになっていくんです。これがなかなか面白いんです。

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