ツイッターの存在意義
ツイッターと云うのはどうも苦手です。一般小市民にとっての存在意義がわかりません。有名人でもないのに不特定多数の人間に「今何してる」と小まめにつぶやく意味があるのか?ブログのレベルが限界ではないか?むしろモラルが問われ、無責任なつぶやきで必要もなく不愉快にさせられる人も少なくないのではないか?・・・だから、必要な情報を得るために登録はしているものの自らツイートすることはありませんでした。
たしかにフェイスブックの存在が独裁政権をひっくり返したことは大きな社会現象ですし、今回の東日本大震災では、日本中に飛び交ったツイッター情報のおかげで多くの人が恩恵を受けたと聞いています。「『皆さんの情報のおかげで、やっと家にたどり着くことができました』だって。良かった。」・・・いつもツイッターとmixiを駆使している妻が3.11の夜にそうつぶやいたのを覚えています。今回のような状況で一番怖いのは情報がないことと不安を煽るデマが流れることだそうで、現地で錯綜する情報の中から数人が協議して、今どこに向かうのが一番得策かを考え、行動する。群衆の中にはさらに情報を得るすべのないご高齢の方も多く、彼らはそんな皆さんへも正確な情報を伝える。とても良い連携だったのだろうなと思います。その後も含めて、今回の状況をみていると、ツイッターやフェイスブックの存在のおかげで阪神大震災のときとは比べものにならない情報量と多様性を得ることができていることを実感しました。
ただ、それでもやはりわたしは手を出せません。何もない日常の片田舎の生活の中で、思い立ったことをあえて携帯を出してつぶやくとしたら、わたしならやはり特定の相手であるメールを選ぶことになるでしょう。「そうまでしてつながってなくてもいいわ」みたいな。これが<若くない>ってことなのかしら。
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