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2011年6月

プール

約1ヶ月ほど前、仕事が一段落して診察室を出たとき、ふと窓の外を見ると、重い雲の下で見慣れない光景が繰り広げられていました。

職場の4階の窓の向こうには、となりの中学校のプールが見えます。ドス黒かった水(どんな色だったのか実はまったく思い出せません)が抜かれ、コケで薄汚れた水色のプールの底がむき出しになっていました。その上を、夏の制服を着た生徒たちがデッキブラシでゴシゴシ擦っている光景です。「そうか、もうすぐプール開きか!」・・・つい独り言を口にしました。

毎日、例年にないほどの大量の雨が降り続いていましたが、窓の外のプールはいつも鮮やかな水色に輝いて見えます。プールの底は薄い水色・・・これは日本の学校の決まりごとなのでしょうか。ピンクやミドリに塗ったプールは見たことがありませんが。雨が降ってもいつも鮮やかな水色になっているのは、水の管理がよろしいからなんでしょう。ここ2週間はそのプールの中で生徒たちのあげる水しぶきが絶えません。「夏だな」と思います。彼らの泳ぐ姿を眺めながら、カルキで目が真っ赤になったことや水を鼻から吸い込んでずっと痛かったことや、あと少しでゴールだ!と必死にもがいて苦しかった思い出や、水泳授業のあとの心地よい眠気や・・・子どものころのプールの思い出がこんな歳になっても蘇ってくるから不思議です。そんな当たり前の夏の風物詩。関東以北の今年の夏には、そんな「当たり前」が見られない寂しさが報じられています。「当たり前」を当たり前に見られることに感謝させていただきます。

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糖尿病は治せる?

<2型糖尿病は可逆的か?短期厳格カロリー制限食による検証>(MTPro 2011/6/23)

「2型糖尿病や高血圧症のような体質の病気には"治った"という概念はなく、うまくコントロールしながら一生付き合っていく病気です。」・・・わたしはずっと、受診者の方にも患者さんにもそう話してきました。ですから英国のニューキャッスル大学から発表されたこの検証(Diabetologia)の記事にとても興味が湧きました。

初期の2型糖尿病の患者さんに8週間超低カロリー食(600Kcal)を食べさせ、さらに普通の身体活動をさせると、なんとインスリン抵抗性の改善(肝臓での糖産生低下)が1週間後に見られ始め、体質のものだと思われていたインスリン分泌不全も8週間後にはコントロールレベルに改善したというのです。

その現象がなぜ起きるのかという機序の考察は専門家たちで喧々囂々やっていただくとして、発症後間もない患者さんに対して食事療法を厳しくやればインスリン抵抗性が良くなるのは分かりますが、それだけでなくインスリン分泌不全も消失するのだとすればそれは素晴らしいことです。それと同時に、わたしたちの健診や人間ドックの果たすべき責任がとても重いことになります。ただ、これが英国人のデータであるということは気になりますし、この超低カロリー食療法を一体いつまで続けると良いのかという実用段階で一番重要なポイントの検討をきちんと行っていただきたいと思います。

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成功法則

ダイエットのハウツー本はたくさんあります。わたしも仕事上、自分でいろいろ試してみたので、わたしなりにこうやったらたぶん上手くいくという考えはあります。これからダイエットに取り組もうと考えている人、あるいはいろいろなダイエット法をやってみたけど上手くいかなかったりリバウンドを繰り返したりした人たちは、そんなサクセスストーリーを参考にしながら何かやてみようとすることでしょう。

「どうせ試すなら、効率よく、無駄なく最短距離で成功させるのが良い」・・・どの本にも大体そう書いてあります。でも、どうなのでしょう。自分なりにいろいろ試行錯誤して工夫してみたり、普遍的な王道から外れても自分なりのマイ・メソッドをみつけていくプロセス自体が、本当は一番大切なのかもしれないと思うようになりました。特に、その後の継続のためには、試行錯誤の中に生じた自信の実感が一番重要な気がします。

たしかに自分が自分なりにトライをしようと思うとき、「初めは失敗してもしょうがない」と思って始める人はいません。できるだけ一発で上手くいきたい。そのためには理論的な裏付けや成功確率の実績がほしいのだと思います。それでもやはり、成功法則というのは各人で違うものだから、参考文献がいくつあっても良いけれど、自分の成功法則は自分で作り上げてほしいと思います。ですから、わたしは自分の試したやり方をあまり他人には押し付けません。わたしはしっくり来たから理論など気にせずやってみただけで、他の人にも上手くいくとは限らないから。・・・美味しいラーメン屋を薦めたら「ちっとも美味しくなかった」とグチられたなんてことは良くあることです。

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失敗へのアドバイス

   理屈で食うと、ため息しか出ない。
   理屈で動くと、長続きしない。
   だから自分の気持ちに素直に、
   ”習慣”になれる努力を。

最近わたしが到達した生活習慣病対策への結論がこれです。「好きなものほど少なく作る。」「少ないほど味わって、あり難く食べる。」・・・だから、「好きなものほど美味しくいただける。」・・・夕飯が少なくて、腹が減って夜中に目覚めることは必ず経験します(それがなかったら、「減らした」うちに入りませんから)。「オレは一体何をやってるんだろ?」とかボヤキながら夜中にお茶を飲むことがあるとしても、それはすぐに慣れます。

これが10年近く試行錯誤しながら達したわたしの結論なわけですが、実はそれがうまくいかなかった人へのアドバイスの仕方が思い浮かびません。自分がうまくいったから、空腹への葛藤をほとんど経験していない(と思っているだけかもしれませんが)ので、逆に失敗へのアドバイスが難しいのです。たぶんわたしの場合は、まず昼休みに自施設のフィットネスジムに行くようになり、次に講演のネタのために『晩酌はコップ一杯』を試し、さらに『健康のために朝食を抜く』の理論が気に入って実行し、次に『夕食全半宣言』・・・それぞれを系統的に計画して試したわけではなく、たまたま上手くいっただけのことです。

成功への道筋は実体験だから何と云っても強いけれど、失敗へのアドバイスは残念ながら机上の空論にしかならないので、いい加減なことが云えません。

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好きな物ほど少なく

健康のために「腹八分め」にする、という意味で、お茶碗に一旦盛ったごはんを少しだけ元の釜に戻すCMがあります。

このCMを見ると、わたしがここでも何度も書いてきた「腹八分目」についての思いが再び蘇ってしまいます。あのCMはつまり、「食べたい欲求をほんのちょっとだけガマンしましょう。それが健康への近道なのだから・・・」と云いたいのだろうけれど、「腹八分目」とはそういうことではないと思うのです。「腹八分目」は、”食べたいものを少しだけ少な目に食べましょう”というのではなくて、本当は十分なのにさらに目一杯詰め込もうとしている今の食生活を見直して、”もう少し自分の気持ちに素直に食べる習慣にしましょう”という意味。

奇しくも、先日紹介した『考えない練習』(小池龍之介著・小学館)の中にも「食べる」という項目があり、その中に、「『足るを知る』訓練で自分の適量を知る」ということばを見つけました。自分の食べているものの味を確認しながら、「味がしている」ではなく「味わう」という食べ方ができれば、おのずと食べ過ぎたりしなくなるようにわたしも思います。ただ、そこまで悟るのはなかなか大変です。わたしが試してみて一番実感があったのは、「好きな物ほど少なく作ってもらう」という方法でした。最初は物足りないかもしれませんが、自分の大好物がこれだけの量しかないと分かったら、本当に大事に味わって食べます。大量にあるものをガサガサ掻き込んでいた時には「味さえ付いていれば石ころ食っても一緒なんじゃない?」みたいな食べ方だったものが、本当に味を楽しむことができるようになると、返って本当のおいしさがわかって嬉しくなります。

この域に達するまでは、やはり年季と試行錯誤の歴史が居るのでしょう。きっと、あのCMを考えたのは、バキューム食いのメタボ兄ちゃんか若い栄養士さんの発想のような気がします。

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10年後

「この未曾有の大震災と終わりが見えない原発の放射能漏れ事故によって、世界はどう変わるか?どう変われるか?それは、5年後、10年後に答えが出ることだろうね。」 
「変わるよ、絶対!当たり前じゃないか!そこまで人間は愚かじゃないよ!」
「今は世界中の皆がそう思っている。でも、すぐに社会は落ち着くんだ。今ですら、『原発は廃止すべき』という意見が全員ではないんだから、どの程度の修正がなされるかは全く分からないじゃないか。」・・・先日、中学の同窓会の宴席で、友人とそんな会話をしました。

やれ『脱原発だ!』『エコの推進だ!』と騒いで、今180度の軌道修正をしたつもりでいたとしても、その角度が徐々に引き戻され、いつの間にか今まで通りの方向に向いてしまうということは歴史の中には良くあること。最終的にどうなったかは、やはり5年、10年後にならないと分からないと思っています。

『あの時あんな事件が起きたおかげで、今、世界は救われたんだよ』・・・5年後、10年後にそんなことが語れるような、世界中の歴史教科書に載るような、そんな大きな変換点になってくれることを、大多数の犠牲者の冥福を祈りながら願っています。

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またけさんへ

またけさん、お久しぶりです。お元気で日々頑張っていますか?昨日のご質問に対して一言書いて見ますが、とても不勉強で、わたしも遠州病院の橋本先生の発表内容については日経メディカルオンラインの学会ダイジェストを読んだくらいの情報しか知りません。あまりきちんとお返事できないかもしれませんけど。

たしかに体内を循環する水分量や重さの負荷量が違う小柄な男性と大男とが同じ塩分制限量の指標ではおかしいだろうという感覚的なことは理解できますし、その仮説を検討して実際に証明されたということにも理解できます。もっとも、「総摂取量に相関がなくて、体重10kgあたりの摂取量にだけ相関があった」と云っているわけではないので、極端に体重の軽い例を除けば、あまり塩分指導現場で考え方を変える必要はないように思います。

むしろこの発表を読みながら思ったことは、メタボが絡む高血圧とそうではない高血圧の病態は基本的に違うものだと考えるべきだろうということです。高血圧治療薬のメタボサルタンの考え方が現代社会では重要になってきていますが、これはメタボを合併した高血圧の治療の考え方です。メタボ系の肥満になると内臓脂肪が肥大し、そのためにインスリン抵抗性が進行して一気に高血圧が助長されますし、その過程においてはナトリウムと水分吸収の増加を招いてさらに高血圧になります。でも、それと元々の家系的な(ナトリウム感受性の)高血圧とは区別して考えないと、指導が混乱するのではないかという懸念があります。メタボに伴う高血圧は減塩より減量の方が明らかに有効なはずですが、メタボではない高血圧は厳重な減塩が奏功するはず・・・今回の研究でも、単なる体重で分けてしまうからあまり強くない相関係数になるけれど、同じ体重でも内臓脂肪量によって振り分けたら、その差がもっと明確になったのではないか、などと考えたりもしました。

ん?これ、まったくもって質問の答えになっていませんね。今度、意味が分かったら、わたしにも是非教えてください(笑)。

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演劇×医学教育

わたしの大学時代の演劇部の後輩が4月に某国立大学の教授に就任しました。さすがに、わたしのようないい加減な”医者もどき”と違い、ずっと研究一途に研鑽を積んできた結果が実を結んだことを、心から嬉しく思いました。

先日彼からいただいた就任あいさつの書面の中に、「私にしかできない仕事を手がけてみたいと考え、演劇的手法を用いた医学教育を立ち上げようと考えております。」と記されていたのに驚きましたが、すでに「医学教育における演劇的コミュニケーションワークショップ」「医学教育に対して演劇的手法を応用したコミュニケーション教育の有用性」などの企画を打ち出している様子です。

こういう発想と実行力のある人をみると、本当に尊敬します。昨年、地域医療学センターの教授に研修医時代の同輩が就任しましたが、これと同じように、これからは医者としての人間性を培うことが、医学知識を教えること以上に医学教育に必須であると思いますので、是非とも成果を上げてもらいたいものです。

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リズム

企業の健診や地域の健診で、ひとりの医者が診察する人数が100人を超えると、スタッフの皆さんは気を遣って心配してくれます。

でも面白いもので、疲れを感じるのは忙しく働いている時ではありません。怒濤のごとく患者さんや受診者さんが押し寄せて、息つく暇もなく診察しているときに別にめんどくさいなあとは思いませんし、割とリズム良く仕事をこなしています。溜息などついているヒマもありませんし、「お茶でもどうぞ」と持ってこられたところで、並んでいる人が居るのに茶など飲むような気にはなれません。むしろ、7、8割方の診察が終わった後、一旦ピタッと誰も来なくなったあとにパラッバラッと来るのを診察するときに、どどっと疲れが出てくるものです。「めんどくさい」と思うことが確かにあります。ドックの結果説明でも同様に、並んで待っている受診者の方々に息つく暇もなく説明をしているときよりも、他の検査を受けてきた後に遅れてきた1人に説明するときのめんどくささときたら・・・。

こんな本音をこんなところでカミングアウトするのも変ですが、やはりリズムは大事だなと思います。

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骨髄異形成症候群

先日ここで紹介した慶應義塾大学の宮川義隆先生の「血液疾患」のレクチャーの中で、<骨髄異形成症候群>という病名が出てきました。

この病名を聞くと、もう15年以上前、ある地方の病院に出向していたころのことを思い出します。循環器内科医として外来をしていたわたしは2人の<骨髄異形成症候群>の患者さんを受け持っていました。どちらも女性で、一方は60歳代でもう一方は30歳代のまだまだ若い方でした。循環器内科医が受け持っていた理由は、先天性心疾患や高血圧症などを合併していたからでしたが、当時のわたしは<骨髄異形成症候群>の名前すら初めて聞くようなもので、今のようにインターネット検索ができるわけでもなく、古い内科学の教科書に書かれているわずかな知識しか知らないままに、恐る恐るに見よう見まねの治療をしていた記憶があります。定期的な輸血を余儀なくされていた60歳代の女性が、「先生、わたしはこれからどうなるのですか?」と遠慮がちに質問したときのあの寂しそうな顔が忘れられません。30歳代の女性からは合併していた先天性心疾患のせいで何度か心不全を繰り返したあと、「こんな生殺しのような人生はイヤだから一か八か心臓手術を受けさせてください。」と懇願されました。

宮川先生のレクチャーで、この予後不良だと思われてきた疾患に画期的な治療法が出てきたことを知りました。<骨髄異形成症候群>だけでなく、以前は診断されただけで死の病と思われてきた、再生不良性貧血や急性前骨髄性白血病(格闘家のアンディフグが罹患して有名になった)や慢性骨髄性白血病などなどの疾患もウソのような生存率に改善していて、隔世の感があります。若いころの知識がここまで通用しなくなるほどに医学は進歩しているのだなと実感しながら、たとえあんな片田舎であっても、今ならあの2人の女性の人生はまったく違うものになっただろう、としみじみ思いました。

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ビジネスホテル

先日の学会で泊まった京都のビジネスホテルは、昨年末に出来たばかりの全国チェーンのホテルでした。普通は朝食を摂らないわたしですが、旅行会社の朝食券付きパックだったのと夜の宴会が皆無だったので、2回ほど朝食バイキングを利用しました。

正直、ちょっと驚きました。朝の6時半から、レストランのスタッフの皆さんは、チーフらしい女性から就職したばかりのような初々しいスタッフまで、とても教育された立ち振る舞いだったのです。それは、まるで一流レストランと見紛うほどでした。特にチーフの方の凛とした態度には、サービス業としてのプライドが漲(みなぎ)っていて朝から軽い感動を覚えました。こんな書き方をすると失礼かもしれませんが、わたしたちは割安のビジネスホテルの朝食バイキングに、あまり多くを期待していません。味は美味しいほど良いし、それでいて安いほどうれしい。時間が限られているのであまり待たずにスムーズに朝食を終えられると気分良く出発できる。そんなくらいではないでしょうか。スタッフに一流レストラン並の対応を望むならばそれなりのホテルを選べばいいだけのことだから(もしや朝食を摂る習慣のないわたしだからそう思っているだけ?)。経営側もその程度の割り切りをしているからこそ効率のいいバイキング形式なのだろうと思っていました。

でも逆に、そんなビジネスホテルのレストランだからこそ、このプライドが重要なのかもしれません。ここのレストランの印象が良かったから次もこのホテルを選ぼう、と思ってくれるお客さんが一人でもいたら、スタッフ教育の賜物です。是非これからも早朝から爽やかなおもてなしを続けていただきたいと思います。

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恥ずかしかっですよ

「わたしの父は重症の糖尿病で、そのためにわたしは子どもの頃からかなりしっかりと食事の管理をさせられてきました。運動も積極的にやってきたし体重管理もしっかりしてきました。・・・なのにこの結果で、わたし本人だけでなく、親もとても落胆しています。何が悪いのでしょうか?」

それは38歳になる糖尿病の男性で、健診結果説明のときにしみじみと語り始めました。筋骨隆々としたがっしりとした体格の好男子でした。空腹時血糖が144、75g糖負荷検査2時間値も250近く完全なる糖尿病ですけれど、2~3ヶ月の平均点であるヘモグロビンA1cは5.8%で、ここ数年ほとんど変化はありません。

わたしは冷静に糖尿病体質の方の自然経過について説明しました。ヘモグロビンA1c5.8%をキープできているということは「とても素晴らしいコントロールの糖尿病」ということになります。それだけの管理をきちんとしてきたからこそこんな良いコントロールなのだから自信を持ってください、と励ましました。「ただ、今後年齢とともに生活療法だけではうまくいかなくなる可能性があります。そろそろかかりつけ医を作っておくことをお勧めします。あなたの家の近くにはHクリニックがありますよね。H先生はとても良いアドバイスをしてくれますよ。」・・・わたしの話を理解してはくれましたが、彼の返事がすっきりしません。「病院にはかかりたいけど、だらしないと思われるのがイヤで・・・。H先生もクリニックのスタッフも良く知っているので、自分がこんな病気だというのを知られるのは恥ずかしかっですよね~。」

やはり、まだまだ偏見の多い病気のようです(彼は子どもの頃から教育を受けているので返って昔の概念のままでいるのかもしれません)が、医療者はその原因も病態もわかっています。しっかり頑張っていることはデータを見れば一目瞭然ですので、もっと胸を張って病院を受診してほしい、と後押ししておきました。

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あがり症

『考えない練習』(小池龍之介著、小学館)を読んでいるところです。「笑い」は煩悩、慢の欲だ!ストレスがあるから笑うのだ!とか、「ブログ」も慢の欲だ!とか、悟りを開くって思っていたよりずっと大変なんだな、と思いながら読んでいます。

その中に「あがり症」の人の対処の仕方が書かれていました。実はわたし、もの凄い「あがり症」なんです。会議などで何かを云うときだけでなく、講演をしていても、上ずった震える声でしゃべったあとになって、どどっと汗が吹き出てきます。ハンカチが一瞬にしてびしょびしょになります。子どものときから変わることなく今でも汗をかきながら話しています。思い付きではなくて、頭の中できっちりシュミレーションをし、何度も下準備をして自信を持ってから事に臨むのです。ところが、その場の全員がわたしに注目していることに気付いた瞬間、カラダの隅々まで行き渡った全交感神経が緊張し始め、同時にアタマが真っ白になっていくのがわかります。静かな空間の中でわたしの声だけが響いているのに気付くと、自分の声だけが空回りしているような気がして一層落ち着かなくなります。聴衆の顔をみてみると、表情一つ変えずにわたしを見ています。息遣いが溜息に聞こえます。「面白くないと思っているのかな?そんなこと分かってるって思ってるのかな?わたしがそれなりの歳をとった医者だから気を遣って、時が過ぎるのを待ってるのかな?」・・・もともと後ろ向きなわたしのアタマはどんどん巡り始めて、それにしたがってまたまたどんどん思考が空回りしていくのです。

小池某の書いてあること、試してみますけど・・・聴衆の顔色を細かく観察すればするほどそんな感じになって、「感情にはフィードバックさせない」というところがクリアできないのです。

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遮断

人間には、補聴器と同じだけの音を情報として聞き取りながらも、その中から興味のあるものだけを選んで聴く(脳に伝える)能力があります。だから心安らかに生きていけるわけです。

『考えない練習』(小池龍之介著)の中に「聞く」の操り方を記したところがあります。そこに書かれているように、最近、道を歩いたり電車の中の多くの若者が聞いているi-Podなどは、自分の脳を刺激してくれる大好きな音楽以外の雑音を物理的に完全に遮断する防御壁となってくれます。ずっと気になっていたのですが、人間が無意識のうちに音を取捨選択できる能力があるというのは、それが勝手に聞こえてくるのではなく、意図的に聴こうとする意識を持つからできることです。そうやって日ごろから集中する訓練を勝手にしているからこそ、人の話も集中して聴くことができるのだと思うのです。ところが、家を出てから職場や学校に行くまでの間、物理的に遮断されるに任せて、意識的に聴くという作業のために脳を使わなくなってる現代人は、聴きたくない雑音を除外する能力をどんどん退化させているのではないでしょうか。たしかに好きな音楽でリラクゼーションできて精神集中に良く、スポーツ選手などが高いパフォーマンスを生み出す原動力になるだろうこともよく分かるのですが、仕事の直前までi-Podの環境下に身を任せている人間が、イヤホンを外した途端に大事な音(相手の言葉)や情報とそうでない雑音との区別をきちんとできるとは到底思えないのです。

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巳已己

『巳(み)は上に、已(すで)に半ばを過ぎたれば、己(おのれ)は下と心得(こころう)べし』~「己は下だぞ。自分以外はすべて先生だ。赤ん坊からだって教わることはある。」「天狗になるな。頭を下げて教えてもらえ。稲穂は実るほど頭を下げる。」

****************
Medical Tribune2011.6.9号のリレーエッセイ<続・時間の風景>で浜松の皮膚科医五十嵐晴巳先生のエッセイの中にあった、五十嵐先生のおじいさんの口癖だったという一節をそのまま抜き出しました。医者として給料もらっているのに、どんどん医者らしくなくなっていくわたしは、こういう医学情報誌を見ても、新しい医療の知見より直接医療に関係ない文章に興味が向いてしまったりします。

わたしたちの世代ではとってもベタな教訓です。儒教色プンプンの倫理ですが、「おい、○○、ちょっとここに来い」と手招きしながら、じいちゃんだったり父ちゃんだったりが、あぐらをかいた股の間にわたしをちょこんと乗せるのです。そして、人生哲学としてのこういうベタなお説教を何度も聞かされながら、額の後ろから漂うタバコの臭いや妙な暖かさとともに、潜在意識にしっかりと植え付けられるのです。・・・最近の父ちゃんもじいちゃんも、そんなことしないんでしょうね。

ちなみに、上まで突き抜ける(巳)か、途中まで(已)か、下まで(己)かで、意味の違う3つの漢字が存在することを国語教師の母から教わったのは、わたしが中学生のときでした(中学2年のときの担任の先生の名前が利巳だったから)。変なの!と思いました。・・・蛇足です。

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自己嫌悪

「今日は久しぶりにいい天気になりましたね。」
という問いかけに、
「でも、また明日から雨が続くらしいですよ。鬱陶しいですね。」
と答えてしまうわたし。

どうして、
「そうですね。やっぱり梅雨の晴れ間は気分がいいですね。」
「今日のうちにしっかり洗濯しておこうと思います。」
などという前向きな表現の引き継ぎ方ができないのだろうか?と自己嫌悪。

などと考えて落ち込んでしまう、そんな自分の後ろ向きな思考回路自体にまたまた自己嫌悪し、そんなことをここに書き記しておきたくなる自分もまたイヤになる。

そんなときって、ありますよね~。

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慮(おもんばか)るココロ

仕事帰りにKARAを口ずさみながら職員用の通用口を出ようと歩いていたら、出口近くにたくさんの人が佇んでいました。霊安室の入り口の前です。わたしは慌てて鼻唄をやめ、少しアタマを下げながら足早にその場を通り過ぎました。

昔、心臓カテーテル検査室で緊急治療を受けていた患者さんのご家族から苦情を云われたことがあります。生死をさまよう家族の治療を祈るような思いで待っていたとき、彼らの前を数名の若いスタッフが談笑しながら通り過ぎた、というのです。その中のひとりとはたしかに目が合ったのに、彼はただ笑って過ぎ去った、と。「毎日、毎晩、命に関わる救急救命の現場に居ながら、この病院のスタッフは患者や患者家族の心を慮(おもんばか)ろうという気持ちがまったくない。どんな高度医療をして、日本で有数の優秀な病院なのか知らないけれど、とても悲しかった・・・。」

「前を通ったスタッフはそんな気持ちで歩いたのではなくごく普通に話していたのに、見る方の心が普通じゃなかったから、笑っていたと誤解しただけだろう。」「緊張し続けた仕事からやっと解放されて帰ろうとしていたのだろうから、表情が緩んでいても仕方ないだろう。」・・・あのときいろいろな反応があったのを覚えています。

救急医療の現場では、病院中が戦場です。スタッフのすべてが、油断することを許されず緊迫し通しで仕事をしています。たとえ勤務時間が終わったとはいえ、患者さんやその家族の前で、彼らの心を慮らずに高笑いするような非常識なスタッフはうちには居ないと思っています。でも、ずっと緊迫した環境の中で、救急とか生死とか命とかと常に隣り合わせで生活していると、どこか無意識のうちに感覚がマヒしてしまうところがないだろうか?と、ふと不安になることはあります。

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敬意の観察力

一昨日、第28回人間ドック健診認定医・専門医研修会に行ってきました。もちろん必須単位をもらうのが最大の目的で参加したのですが、この研修会の講師の先生方はただ単にその筋の第一人者というだけでなく、話に切れ味があって分かりやすいので、いつも楽しみにしています。

今回、血液疾患のレクチャーをしていただいた宮川義隆先生(慶応大学血液内科)にちょっと感動しました。レクチャーそのものも程よいトーンと速度で腹いっぱいな内容をきっちり教えていただきましたが、レクチャー後のフロアからの質問がいくつかあったときの先生の答え方が好きでした。「昔血液学をやっていた開業医ですが・・・」「ありがとうございます。血液学の大先輩をここで発見できたことに心から感謝します」・・・この言葉、出ないなあ、わたしには。その前の女医さんの質問にも、「ありがとうございます。先生に出会ったおかげで患者さんの命が救われました。」という言葉から始まりました。

何か仏門に関わる方のような慈しみを感じる光景でした。言葉の力は思いのほか大きなものです。単に質問に答えるだけで何ら問題のない場面で発せられる相手に敬意を表する言葉は、二人の関係だけでなく、それを見守る空気全体を優しくしてくれます。この先生は、いつもしっかりと相手の話を聴きながら、相手のいいところを見つけ出す習慣があるのだろうなと思いました。最前列で質問を繰り返していた方も、話の始まりがいつも細かい謝辞から始まりましたが、社交辞令の接頭語(「興味深いお話をありがとうございました」)ではなく、「時間がないのに鬱陶しい」とは感じない心地良さがありました。こういう方々に診てもらっている患者さん方もきっと優しい人生を送れるのだろうな・・・あこがれます。

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時間感覚

わたしたちの施設は業務開始が8:00です。宿泊ドックの結果説明をその時間から集中的に行います。ところが、時々8:10になっても誰もフロアに来ないときがあります。それが数日続くとさすがに「何で?」という気持ちになります。下手をすると1人の説明が終われる時間分をムダに遊ぶ羽目になったりするわけで、それが早朝のことだから一層ストレスを溜めてしまいます。

諸事情があって、たとえば宿泊室から皆が集まるのに手間取ったとか、事前説明に手間取ったとかいう不測の事態はありえます。ただ、どうもその日その日の担当者の性格が出てきてしまうところがありそうな気がします。8:00という数字はわたしたちが仕事を始める時刻、つまり受診者の方を診察室に呼び入れる時刻と設定されているわけですが、それを、違うフロアで事前説明を始める時刻だと勘違いしたり、"8:00ころ"に連れて行けばいいと勝手に思ったりするのは、やはり性格でしょう。待っている医者のイライラについてはまあ大した問題ではありませんが、受診者の中に「時間を守らないルーズな組織」というレッテルを貼る人が出てくる可能性は否めませんし、そのまま午前中の全体の業務進行が遅れてしまうこともあります。

始業開始から10分も遅れてタイムカードに打刻したら、間違いなく始末書ものです。トラブル報告書やインシデントレポートを書け!とは云いませんが、どうして足並みが揃わなくなるのか、開始遅れが数日続いたらやはり何らかの形でフィードバックして修正させる風土作りは必要な気がしています。

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オーディコロン

「あなたは最近はコロンか何かを付けないの?」

お気に入りのL'OCCITANEの化粧瓶を手にしながら妻が突然そんなことを呟きました。
「付けないよ。もう長いこと香水の類はまったく付けてないし~!」・・・おしゃれに縁のない青春時代を送った私は、香水に妙におしゃれな憧れを感じて、微香性のコロンをそっと付けてみたりなんかしていた時期もありましたが、鼻の粘膜から吸収される物質も皮膚から吸収される物質もあまりカラダに良くないのでは?という感じがして、いつの間にか何も付けなくなりました。

「なんで突然そんなこと聞くわけ?」・・・ちょっとたじろぎながら聞き返してみました。

「そろそろ付けた方が良い年頃になってきたのかな~と思って・・・。」
「それって、加齢臭がする、っていう意味?」
「いや、そろそろ加齢臭で悩んだりするんじゃないかな~と思っただけ・・・。」

妙に歯切れの悪い云い方をしながら言葉に気を遣っているところをみると、自分では気付かなかったけれど、周りはかなりしっかりと加齢臭を感じているんだろうかしら。
・・・不安。

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庶民の食事

「日本の食事の様子を絵画にしたものは数少ないのですが、この中で描かれているのは、左手にご飯のお茶碗を持って、右手のはしでおかずをつまみながらご飯を食べるという、いわば日本人の食事の原点ともいえる食べ方です。このようにおかずをつまみながらご飯を食べるというスタイルの時代には、糖尿病などの生活習慣病はほとんどありませんでした・・・」

神奈川県立保健福祉大の中村丁次先生が書かれた文章の一部です(「けんこうぶんか」No.45)。たしかに片手にパンを握りながら肉を食う姿はあまり見ないなとか思いながら、何かこの一文が気になったので書き写してみました。中村先生が云われるとおり、江戸時代の庶民の生活や食事はどうだったのかきちんと記録されたものがないので本当のところはわからないのでしょうが、少なくとも長い年月続いた質素な食生活に合うように進化してきた民族なのだから、理屈以上のものがあるような気がします。

もちろん、今の栄養指導では、「おかずを食べるときは持ち上げたご飯茶碗は一旦置きなさい!」と云います。きちんと噛ませるためです。口をもぐもぐさせながら、もう次のおかずを箸で摘んでいる連中は、皆太っているからです。でも、おそらく江戸時代や第二次世界大戦までの日本の庶民の生活では、噛もうが噛むまいが、絶対メタボにはならなかったはずです。当時のようなヨレヨレのたんぱく質と少しの野菜をわずかな玄米で掻き込むしかなかった食生活にあこがれなど全くありませんし、日本人が寿命を延ばして昔より若々しくなったのは、戦後の食生活が劇的に良くなったおかげだということは歴然たる事実です。それでも、歳とともに何となく日本古来の食生活に安心感を覚えるようになるのは、日本国民の遺伝子なのかもしれないななどと思ってしまう今日この頃です。

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なきがら

先日、車で阿蘇路を走っていたら、国道の対向車線に仔犬が横たわっていました。とても物静かで眠っているかのような安らかな姿にみえました(遠いのであまり詳しくはわかりませんでしたが)。とはいえ、そんなところで寝ているわけでもなく、突然そこで病死したわけでもないことは明白です。国道を渡ろうとして車にはねられたのでしょう。

儚(はかな)い命です。突然抜け出た魂は、やはり、自分が今どこにいるのかわからずに自らのなきがらの周りをくるくる回っていたのでしょうか。ノラかもしれませんが、それでもまだ仔犬ですから、楽しい思い出が多かったことでしょう。人間社会の勝手な秩序と開発の犠牲になったなどと人間を恨むことはなかったでしょう。というか、彼らに「恨み」とか「憎しみ」とか、そういう感情がもともと持ち合わせられていたのでしょうか(嬉しいとか悲しいとかはあるのでしょうが)。かわいそうに、とは思うのだけれど、その姿があまりにきれいでかわいかったものだから、妙に見入ってしまいました。

仏教では、イヌのことは「犬畜生」と云われて、極端に蔑まれています。もっと徳を積むことで上の層に上がれるからとにかく念じなさい!と。でも、彼らの方がはるかに徳が上で、人間どもがしっかり徳を重ねたときにだけ初めて彼らの徳層に到達できる、と云った方が正解なのではないか?と思ったりする昨今の荒んだ人間社会です。

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心配性

いっしょに車で家を出て、1分もたたないうちに「ガスの元栓を閉めたかな」「玄関のカギを掛けたかな」「電気を消したかな」と、妻が云い始めます。「わたし、病気なのよ」と自分で云うとおり、不安神経症の彼女は、コンロの火をつけたまま外出しようとしたり庭のガラス戸を開けたまま仕事に行ったりする経験をして以降、自分の行動にまったく自信が持てないのだそうです。

そんな彼女をわたしも笑えません。日頃自分で戸締まりして出かけることがないわたしは、時々妻が旅行したり先に出勤したりした日には、彼女と同じことを独りでやっています。家を出る前にひとつひとつ確認しながら「オッケー!」などと声を出して派手にパフォーマンスするにも関わらず、運転する車が路地をひとつ曲がったあたりで、<もしかしたらあれは昨日の朝の出来事だったのでは?>などと思った瞬間から自分の行動に一切自信が持てなくなるのです。さらに「今日に限って熱帯魚の水槽につながるコンセントで漏電が起きるかもしれない」「消えたと思っていた仏壇の線香がわずかにくすぶっていてまた発火するかも」・・・こういうことを考え始めたら、妄想力に歯止めは利きません。

家の中にいつも家を守る人が居るということが、どれだけ心を安定させてくれることか。夕方、自宅が燃えずに原型を留めていることが見えたときの安堵感、カギを開けてうれしそうにシッポを振って出迎えるイヌたちのいつもの姿をみたときの幸福感ときたら・・・病気だ!

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笑い顔

わたしの写った写真はほとんどが笑い顔です。スナップ写真や施設のホームページの写真だけでなく、スタッフカードの写真まで笑っています。運転免許証も笑って写ろうと目論見ましたがダメといわれて断念しました。わたしの顔は、とてもかわいらしい配置ではあるのですが、どうも普通にしていると不機嫌で怒っているように見えるらしいので、写真に写るときは意図的に笑うようにしています。

若い頃は、自分の笑った顔がとても嫌いでした。何かニヤケてだらしなく見えるからです。とってもありふれた九州の田舎坊のモンゴル系の顔立ちだから、級友のような目元パッチリなアイドル系にはなれないものの、少しでも凛々しくカッコよく見られるように工夫しました(まあ知れていますが)。だから若いころの写真は、少し眩しげに細めた目をして、唇をギュッとかみ締めている写真ばかりです。

それがいつの間にか自分の顔で一番好きなのは「笑い顔」と云うようになったのは、もしや「年輪」でしょうか?広報誌の写真を撮るのに「笑い顔じゃないと何度でも撮り直させるぞ!」と嫌がる若いスタッフを無理矢理笑わせたことがありますが、あれは嫌だったでしょうね。いつもとっても良い笑い顔をしているのに、絶対に笑い顔の方が可愛くて素敵だと思うのに、彼らにカメラを向けたら急に笑うのを止めて嫌がるのは、きっと全く無防備な自分をさらけ出すことが、化粧のないスッピンの肌を見せるのと同じくらい「恥ずかしい」と感じているからなのかな、と分析しています。ステテコ一枚でウロウロできる歳になれば、そりゃ何だってできますでしょうけれど・・・。

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座席

学会場で座る席が最近だんだん前の方になってきました。引っ込み思案なわたしは、滅多にマイクの前で質問することはありません(若いころは「必ず手を挙げて質問しなさい」とボスに云われて凄いプレッシャーでしたが、最近はとても呑気に聴けています)が、それでも前から数列めのマイクの横辺りに座ることが多くなりました。単に、目が悪くなってきたからです。中途半端な(遠くも近くもほどほどにしか見えない)コンタクトレンズを入れているもので、スライドの文字が微妙に読めないのです。双眼鏡を使えば読めますがそれはそれで億劫ですし、文明の利器であるデジカメや携帯を高く構える勇気もありません。前の方に座ると、スライドが読めるだけでなく、意外に眠くならずに集中できます。以前は部屋の中間辺りにそっと存在を消して座っていました。前の人の頭が気にならず、途中退席しても人に迷惑をかけない程度のほどほどの位置を探して・・・。

「外国の学会や講演会は必ず最前列から埋まるのに、日本は中段より後ろ側から埋まり始める」と日本文化の特徴を指摘された先生が以前おられましたが、たしかにそれは事実です。だから、人気のシンポジウムで聴衆が入り口近くに溢れていても、人混みをかき分けて前に出て行けば意外に最前列付近にポツンと席は空いているものです。

恥ずかしささえ取り除けば、最前列で時々居眠りをしたり席を立ったりする無礼ができる勇気さえあれば、そして高い座高のために後ろが見えないのじゃないかしらなどという無用な心配さえしなければ、目が悪くなったという老化現象を認めるのはとてもシャクではありますが、前の方はこれがそれなりに居心地の良い快適な空間です。経験のない方は是非お試しあれ。

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京料理

三泊四日の京都の学会・・・2月に沖縄の研究会に行ったときに沖縄料理三昧だったのと同様、今回もどっぷり京料理を堪能しました。今回はきままな一人旅でしたが、それでもホテルの朝食バイキングと学会のランチョンの弁当が全部「京料理」でした。

京料理の特徴を一言で云うなら、「噛む」だな、と思いました。小鉢に入った焚き合わせも佃煮もつけものもかき揚げも、理屈抜きで噛むしかないものばかり・・・。海から遠い京都伝統の食材は自ずと自然のめぐみの根菜や豆が多く、ずっとボリボリやってました。急いでいようが静寂の中であろうがかなり噛み込まない限り飲み込めませんから。味付けが薄味なのもわたしの食欲を刺激しましたし、こういう食材には、白米ではないお米(雑穀米や玄米や発芽米や)の方が絶対に合うなあと実感した次第です。朝食バイキングでは、わたしの食欲をくすぐる小鉢の品揃えが多すぎて、一品ずつ取っているにも関わらず気付けば盆は山盛り・・・毎朝後悔ばかりで、結局一日中まったく空腹感を感じない京都旅行になりました。でも、きっと京都人のプライドが、質素で素朴な自然素材を上品な食感に生まれ変らせたのだろうなと感動しながら、ありがたくいただきました。

沖縄料理は正直なところ胃が疲れて最後はあまり食べ切れませんでしたが、京料理は食べ過ぎて返ってちょっと胃が疲れたかもしれません。「○○料理」と云われる、その土地に昔から伝わる郷土の料理は、やはりその土地その土地の先人が歴史の中で伝え続けてきた健康への智慧が詰まっているのだということを実感しながら、今回の旅も、それをいただけたことに感謝しております。

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自治医大コホート研究

数日前に配信されたMedicalTribuneの中に、コレステロール治療に関する話題がありました。自治医大コホート研究の報告として、しっかりと調整してもなお低コレステロール値が高死亡率と関連していた、という発表(J. Epidermiol 2011;21:67-74)に対して北里研究所病院糖尿病センターの山田悟先生がコメントしたものです。

この研究は、日本の12地域12334人の健常者を1992年から約12年間観察したもので、コレステロール値で4群に分けて追跡調査した結果、男性では一番死亡率が高いのが<160の低コレステロール群であり、女性に至ってはコレステロール値が高い方が正常群より死亡率が低く、コレステロール値が低くなるほど死亡率が高くなった、というのです。日本の疫学のバイブル的に扱われてきたNIPPON DATA80でもコレステロール最低値群(<160)と最高値群(>260)で死亡率が上昇したが、最低値群は肝疾患を除けると有意でなくなったので、「コレステロールは高いほど悪い」と結論付けたのに対して、今回の自治医大コホート研究では肝疾患の補正をしてもこの傾向に変化はなく、特に女性の場合は「コレステロールは低いほど悪い」という結果になった、というのです。

でも、わたしも山田先生の書かれているように、NIPPON DATA 80の結果と自治医大コホート研究の結果にはあまり大きな差がないという印象を受けます。もともと「低すぎる総コレステロール値の人は危ない」というのは大多数の医療者が認める事実であり、悪性疾患や甲状腺異常がないか精査すべきとされてきています。またNIPPON DATA 80でも女性の場合はコレステロール値が260以上になって初めて死亡率があがりはじめています。自治医大コホート研究が240以上を全部一緒にしているので超高値の行く末を評価していないだけかもしれません。

云えることは、コレステロールが極端に低すぎる人と極端に高すぎる人は要注意!ということ・・・でしょうか。あとは、この結果をマスコミがどう扱うか、に掛かっています。自治医大コホート研究結果がこれまでと全く逆の結論を出した!と煽って論争を始めると、またまた当事者の患者さんだけが右往左往するのではないかと心配になります。

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動脈硬化とコレステロール

高齢者に対する脂質管理、および閉経後女性の脂質管理、この2つの問題に対する議論は、集約されるどころかかえって混沌としてきている印象があります。

第11回日本抗加齢医学会総会のランチョンセミナーで、東京大学の秋下雅弘先生が、高齢者に対する脂質管理の重要性をレクチャーしてくれました。高齢者ほど動脈硬化の高リスク群であるにもかかわらず、しかも多くの人が健診後などに内科を受診するにもかかわらず、その約半数の人は薬剤治療を受けていないのだそうです。たしかに、たとえわが国の大規模臨床試験であるMEGA Studyが「日本人の高齢者ほど、特に閉経後女性ほど心筋梗塞になりやすい」という事実を示していても、あるいは内服治療がそのリスクを有意に減らしてくれたという結果が示されても、やはり内科医の薬剤使用に対する意見は半々のままだという印象があります。「『生活習慣の改善だけしておけば良い』という間違った考え方を正して、より多くの人にきちんと薬剤治療を受けさせてほしい!」と力説する秋下先生の話を聴きながらも、ちょっと複雑な心境です。

わたしたちは健診医であり、直接治療する立場にないので、「薬をもらうべき」という云い方はなかなかできません。逆の考え方や根拠を持って積極的に薬剤を否定している医者も少なくないことも知っています。ですから、「病院やお医者さんをウロウロせず、この先生の云うことは信用できると感じたら、その先生の意見に従うのが一番良い方法なんじゃないかしら」としかアドバイスしないことにしています。やはり、米飯論争と同様に、高齢者や女性のコレステロールに対する内服治療の要否についても、何とかもう少し明確な決着がついてほしいものだと思っています。

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「受動喫煙に閾値なし」

5月31日はWHOの定める世界禁煙デー(うちの病院でも講演会が行われました)ですが、5月28日に東京で行われた「2011年世界禁煙デー記念シンポジウム」の模様が、MedicalTribuneに載っていました。

テーマである「たばこの規制に関する世界保健機関枠組条約」(FCTC)とか、「たばこの煙にさらされることからの保護に関するガイドライン」とか、初めて耳にする人は多いのではないでしょうか(少なくともわたしは、耳にしたかどうかは定かではありませんが、初めてアタマに入りました)。座長の望月氏が「過去100年にわたってたばこ産業を保護してきたが、FCTCに批准したことで、初めて国民の命を保護するというスタンスに変わった」と国を持ち上げたのは、厚労省が共催だったからかしら。タバコのパッケージに諸外国のようなえげつない写真を載せる気がないのも、「データの詳しくは厚労省HPへ」ということばで絶対アクセスしないように逃げているのも、タバコの税収は莫大なのだからタバコの売り上げが落ちると困るんだ!と国はことある事にそう言い切っています。

このシンポジウムのパネルディスカッションでも話題になった「受動喫煙」についてだけは、もっと主張しなければならない時代になったように思います。「分煙させるために店に改修工事を強いるのは不公平だから全面禁煙にすればその金は要らない」と云うのはちょっと無理がある気がしますが、それでもレストランの全面禁煙を行ってみたら心筋梗塞の入院患者数が明らかに減ったという外国のデータは、そのままタバコを吸わない人が影響を受けていることを示しています。受動喫煙で関係ない人の遺伝子にまで傷をつけることになる可能性があるなどという研究も始まろうとしているそうです。

原発事故で大気が微量放射能に汚染されていると云って、いまだにテレビのワイドショーで意味の分からない数字を毎日並べて騒いでいるのに、どうしてタバコの煙で充満している空気の中でタバコを吸わない人が侵されていることに異議を唱えて騒ぎ立てする人が少ないのか、不思議というよりも、ちょっと奇異な国民だと思います。

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抗加齢医学会in京都

京都で行われた第11回日本抗加齢医学会総会は、あいにく3日間とも雨でした。おかげで市内観光をする気にもなれず、めずらしくサボることなくずっと学会場におりました。

とはいえ、あまりに多岐に渡りすぎていて、わたしのアタマは最後までパンク状態でした。学会が終わった時点で完璧なまでにアタマが真っ白になった(白髪のことではありません)のは、初めての経験だったかもしれません。畑違い感を感じた分野も少なくなく、「抗加齢(アンチエイジング)のキーワードは『たべる』『うごく』『生き甲斐』である」ということ・・・わたしが理解できたのはここまででした。各臓器のアンチエイジング、動脈硬化の予防としての薬剤やサプリ、カロリーリストリクション(CR)、サルコペニア、サーティワン、マイオカイン、酸化ストレス、アクロメディカル(医農連携)、オートファジー、マニアックなまでのベーシックサイエンスと運動生化学、遺伝子解析やアミノ酸解析、ホルモン補充療法、見た目のアンチエイジング、メタボサルタン、ERK、DHEA、テロメア短縮 ・・・びっちり詰まったセッションの中で聴いたものをこれだけ書き並べられただけでも凄いな!と思うのですが、でも書き並べるまでが限界でした。アンチエイジングという「怪しい」概念を如何に「サイエンス」として確立させるか、そんな強い意気込みがみなぎっているがために、わたしたちのような未熟者は跳ね除けられそうな威圧感がありました。ただ・・・面白い。来年はもう少し付いていけるように勉強しましょう。

最終日にあった「アンチエイジングドックの最前線」で、「老化度判定をするドック」ではなく「老化に抗うための適切なアドバイスをするためのドック」でなければならないと、お話いただいた先生方が口を揃えて云われたことにとても救われた感じがしました。それはそのまま人間ドックや健診にも当てはめられることだからです。また、「○○年齢」という数字は医学的なコンセンサスとしては使うべきではない、という提言もとても重要なポイントだと思いました。

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