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2011年9月

「食べるのが好きだから」

天高く、馬肥える秋(で、良いんでしたっけ?)

「わたしは食べることが三度の飯よりも好き(その表現、おもしろい!)なので、ほんとに大変です。でも頑張らなきゃいけませんね!」と、大きなため息をつきながら食事療法に取り組む決意を固めた妙齢の女性。

最近、自分の発想の中に「好きなものは少ない方がおいしい」が実感として定着してしまっているので、こういうことばを聞くと、まったくもって理解できません。考え方の基本が間違っているんだよ!食事は理屈で食っちゃダメよ!食事療法は食べるのをがまんすることじゃないんだよ!好きなものを好きな量だけ食うのが食事療法なんだよ!と思うのだけれど、そんな社会の流れと逆行していそうな話し振りに対して、受診者の皆さんから怪訝そうに苦笑いされる毎日なわけで、それがとってももどかしいです。どうやったら、それが分かってもらえるのか?これから続く秋の辻説法行脚(あんぎゃ)の中で、試行錯誤しながらもっともがいてみようかしらと思っております。

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「腹が出た」?

腹が出た!

ここ半年の間に、仕事とは無関係に、プライベートで何回このことばを口にしたことでしょう。ここにも何度も書いて、いろいろな方に何度も叱られて・・・でも、事実なんだもの。

「やせる、やせない」のはなしを、若い指導者の皆さんはよくしたがります。体重が増えたの減ったの、カロリーが増えたの減ったの、あるいは血糖が上がったの下がったの・・・。「部分やせ」は基本的にはできないしそれを目指すのは邪道だ!とも云われてきました。とにかく全身運動で全身をシェイプアップしましょう!

でもね、歳をとると、単に「腹が出た」が最大の悩みになるのですよ。別にメタボの腹じゃないんです。内臓脂肪じゃなくて皮下脂肪・・・腰のくびれ辺りに住み着いて立ち退く気のまったくない、不法侵入の住人たちのことですよ。特段体重が増えたというわけでもなく、顔や手足には若い頃ほどニクは付きません(むしろ萎んでしまって)のに、代わりに腰にだけ付くわけですよ。だからざっくりとした上着を着たり背広を羽織ったりすると、「最近やせましたか?」などと自分の心と裏腹なことを云われて、それはそれなりに傷つくのです。

別に全身がやせなくていいんです。単に腰ぎんちゃくの不法侵入者さえ排除できればいいんですよ。ねえ、そこの若い指導者のおねえさん方。そこんところじっくり教えてくれんですか。

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あるべきもの

健診の診察をしていて思うことがあります。

健診着のズボンをヘソの上まで引き上げて穿く人は少なくありません。おなかを冷やさないようにという子どもの頃からの習慣なのでしょうか。ただ、その姿を見ていると何かがおかしい。何かのバランスが壊れていて・・・若くてスタイルのよい美人女性でも妙におなかが大きくて不恰好に見えるのです。

あるとき思いがけずその理由がわかりました。それは、その女性がズボンをヘソの下まで下ろしてくれたときです。ヘソが見えた瞬間、突然彼女のおなかが引き締まって格好よいものに変わったのです。あるべきものがあるべき位置にあって初めて、全体の姿を頭の中で立体構築できるのだなと悟りました。ヘソがあるからそこがカラダの中心だということが分かり、それより上がおなかだと分かるけれど、ヘソが隠れた瞬間、おなかがどこまで続いていて、今見えている部分が全体のどの程度なのかということまで見えなくなってしまう・・・そんなことを感じたことはありませんか?ヘソは単なる目印なのかもしれないけれど、ヘソがあるから人のカラダの位置が認識できます。マンガを描いても、人形を想像しても、ヘソのないカラダはどこかしっくりしませんが、どこでもいいのでヘソとして×印をつけた瞬間に急に落ち着くのです。

わたし、できたらそんな存在になりたいんだな・・・とか、思ったりするわけです。

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厳格治療への反省

Nikkei Medical 9月号で<厳格管理vs.緩徐管理>を面白く読みました。『厳格な治療に再考の動き』という序論から始まり、高血圧・糖尿病・脂質異常の治療基準について、その「The lower the better(低ければ低いほど良い)」の考え方が、本当にそれでいいのか?という問題提起です。血圧を「140mmHg未満にすべき」ということに本当はきちんとした根拠はなく、厳格に治療してもしなくても心血管イベントに差がなかった(JATOS試験)とか、糖尿病に対する厳格治療は低血糖の弊害がある一方で心血管イベント抑制効果が示されない試験が相次いだ(ACCORD試験、AVDANCE試験、VADT試験)とかいうデータが示されました。高コレステロール血症でも、リスクの高い人は別にして、脂質以外のリスクがない人まで厳格管理する必要があるのか?という問題点、さらに女性の目標値はどうなるのか?など。

面白いなと思って読んだ後、コピーしてスタッフにも回しました。・・・ただ、わたし的にはどっちが正しいか、ということにはあまり興味がありません。要するに「数字」の問題でしかなく、ただ単に薬を使うべきかどうかを論じているに過ぎないからです。わたしたちのように生活改善への介入を仕事にしている者たちにとっては、どっちにしろ「生活の見直しが必要な連中」なのであり、アドバイザーとしてのかかりつけ医を作ってほしいというスタンスに何ら変わりはないのです。

ただ、あえて云えば、わたし自身です。高血圧症に対してカルシウム拮抗剤を服用していますが、拡張期血圧が最近高め(>90mmHg)なのです。さて、わたしは薬を替えるべきか?あるいは追加すべきか? 早く、だれか、教えてくれんかしら?

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余暇時間の身体活動と糖尿病の予防

リスボンで行われていた第47回欧州糖尿病学会(EASD2011)の報告が配信されてきました。やはり予防医学の世界にいるわたしの興味は、「新薬の効果」ではなく、たとえば「余暇時間の身体活動が2型糖尿病を予防する可能性示す」などといった報告に偏ってしまいます。

「耐糖能異常(IGT)例では炎症が亢進していることが分かっているが、身体活動度が炎症にどのような影響を及ぼすか明らかにされていなかった。今回、スウェーデンUniversity of GottenburgのMargareta Hellgren氏は、この疑問に答えるためにIGT例の余暇時間における身体活動度を調べ、CRP値との関連を検討し、その結果を9月12~16日にポルトガル、リスボン市で開催された第47回欧州糖尿病学会(EASD)で報告した。」というものです。

現在、動脈硬化=炎症という考え方が主流です。ですから、動脈硬化を予防するということは体内の炎症を如何に抑えるかということに他なりません。「余暇時間に身体活動をすると炎症反応(CRP)が低値になり、身体活動度の高さがIGT例の炎症を抑制して2型糖尿病への進展を予防する可能性があるから、IGT例には身体活動度を高めるように積極的に働き掛ける必要がある」と Hellgren氏は結論付けているわけです。

ま、客観的に見てこれは分かりきったこと。ただ、こうやって理論がデータとして裏付けられることによって、糖尿病の予防のために運動しましょう!と促しやすくなることは確かです。もっとも、当事者は当然のようにそんなことは分かっており、分かっているけどできないから糖尿病になるのであり、この結果が出ても当事者の行動変容に寄与する力は微々たるものだろうと思います。でも、わたしたちが強気になれると云う点でとても心強い報告だと思います。

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歩く

10kg超の体重減少の経験がこれまでに何度かありました。予備校のときに20kg近く減ったのは下宿屋さんの料理が質素だったからであり、研修医時代に10kg減ったのは忙しかったからですが、東京から帰ってきて山の中の病院に出向していたときに10kg減ったときの経験は現在の仕事をする上でとても役に立っています。

私たち夫婦が数匹のムカデや2人の幽霊たちと一緒に住んでいた古い借家は、当時の病院から車で5分ほどのところにありました。今でこそ街中から10kmの自宅まで歩いて帰ることを苦とも思いませんが、当時は病院まで車で通勤すること以外考えたこともありませんでした。それまでの忙しい生活と違って、昼休みが丸々1時間もあるので昼食は家に帰って摂ることにしましたが、着替えて駐車場に行って車で大回りして帰って食べたらすぐにまた車を走らせて帰院するという時間の使い方がとても勿体なく感じました。直接歩いて裏門を出れば医局からすぐに道に出れるのです。ということで、試しに歩いて帰ってみたら10分・・・10分弱で家に着きました。ゆっくり昼食を食い、ちょっとくつろいでからまた10分で帰院。なかなか良いリズム。そうなると朝夕の通勤も歩くようになり、結局毎日2往復する生活が日課になりました。実は、カラダを引き締めるために町営グランドを歩く計画を立てて、わざわざ新しいジャージとシューズを買って行ったのですが、1年間結局一度も使いませんでした。なのに、体重は勝手にどんどん減っていきました。ダイエットのために無理をして行動を変えようとしても長続きはしない。生活に入り込んだ習慣になれば勝手にカラダにあった形に改善される・・・それがそのときに得たわたしの結論でした。

ただし、その後またリバウンドすることになります。習慣にすることの大切さ、習慣をやめることの容易(たやす)さ、そして、習慣をもう一度再開させることの面倒くささ・・・「人間には運動欲はない」というのは、やっぱり究極の真理だと思います。

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彼岸花

墓参りに行く途中にたくさんの彼岸花が咲いている風景を見ました。

毎年、思うことです。たしかに台風15号が過ぎた後に急に秋らしくなりましたが、それでもこんな時期まで熱中症がどうだこうだと云われてきたことはあまりに異常です。だというのに、どんなに異常気象だろうとも、彼岸になれば「彼岸花」が咲く・・・この愚直なまでに開花時期を守る「彼岸花」って、どこかおかしい!を通り越して、やっぱり凄い。

彼岸花の開花に影響を与えるのは気温の変化だと云われていますが、若干のズレがあろうとも必ずこの季節には咲き始める植物です。こういう、決められたことを万難を排して遂行しようとする姿、たしかに日付はそうだけれど気候は違うのだからとかいう、理屈や言い訳にほとんど動じない姿を、うだつの上がらないオヤジのような『融通が利かない』偏屈と揶揄されるのは昔からです。でも、そういう意味ではずっと彼岸花的な不器用な生き方をしてきたわたしとしては、そんな彼岸花の姿が愛おしく感じられ、これからももっともっと頑張れ!とつい応援してしまう次第です。若い頃にはそれがめちゃくちゃ格好悪いと感じて「オレは違うぞ!」と云い張っていましたが・・・。

社会の変化や地球の変化に動ずることなく、決められたときに決められた仕事をする。生き延びていくためには環境の変化に対応できる適応力が重要だ、と数年前にうちの病院幹部が語っていました。でも、これからはむしろそんなことに右往左往しない愚直さが返って重要なのではないかしら?・・・そんなことを、阿蘇路に咲く彼岸花を見ながら思った次第です。

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墓掃除

今年も墓参りに行ってきました。わたしの父母の墓は大分にあります。実家はすでに遠い親族が住んでいて立ち寄れませんので、不謹慎ながら、サッカー観戦に行った日だけ墓参りします。前回参ったのはもう1ヶ月も前でしたので、草を抜き、線香入れにたまった水を捨て、熱で曲がったロウソクを切り、スーパーで買った便乗値上げの花を供えたころには、身体中が汗びっしょりになりました。

びしょびしょになったタオルで汗を拭きながら線香に火をつけようとしたとき、墓に向かって左隣りで雑草が伸び放題なのが目に入り、思わずわたしはその雑草を抜き始めてしまいました。隣りの墓の敷地に敷かれた玉砂利のスペース。抜くのは大して大変ではないのだけれど、「他人んちの草だから」・・・汗が顎や額からボトボト落ちるにまかせて、一心不乱に草を抜きながら、そんなことが少しだけ気になりました。まさか伸ばしたくて伸ばしていたということはないでしょうが、他人の土地に入り込んでまで草抜きするのは、やっぱり賛否両論あるんだろうな、と。でも、どれだけ自分の家の墓をきれいにしても目に入る部分が荒れていると全部が荒れて見えてしまうわたしですから、邪魔者が消えたおかげですっきりとお参りすることができました。

普通なら見なかったフリをします。毎日見るものでもなく、次に来たらまた伸びているであろうもので、別に今日汗だくになってやらなくても良かったことなのですから。そして、誰も見ていないのですから。誰の得でもなく、皆が幸せならばそれで良し・・・そんな心境になれたらいいのですが・・・今回は心身ともに余裕があったのでしょう。悟ったわけではないけれど、ちょっとだけ成長はしたかな。

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ブログの目的

時々自分で確認しておかなければなりません。
何のためにこんな日記を始めたのか?

   ・頼まれエッセイのネタ帳代わり
   ・文章を考えることでボケ防止
   ・医学ネタの覚え書き

それと同時に決めたこと。一緒に始めたもうひとつのブログともども、グチを書かずにいつも"何かいいこと"を探すこと。

朝から"何かいいこと"ないかな?という目で日常を眺めていると、どんな小さな事でも、"何かいいこと"のひとつはみつかるもの。そんなものを見つけて記すと、自分も読んでくれる人も少しだけ幸せになれるかな、と。

そんな目で探しているつもりなのに"いいこと"を何もみつけられなくなったなあ・・・そう思いながら昨日も帰路につきました。ないはずはないのだけれど・・・なあ。

   そこにあるのに、見えない
   そこに居るのに、気づかない

って、さびしいなあ。

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葉タバコ

昨日の今日ですが、今日もタバコの話題です。

9月15日の@niftyニュースに「葉タバコ農家、3割が廃作の意向」という記事があって、思わず読んでしまいました。

葉タバコ生産量全国1位は熊本県なのですが、その葉タバコ農家の中に、来年以降の作付けを止める意向を示しているところが3割も出てきているのだそうです(全国2位の宮崎県では約半数)。熊本は葉タバコ生産の農家が多いから健康講話のときに禁煙指導を自粛させられたなどということも以前はありましたが、今はそんな時代ではありません。健康志向と増税で販売数量が減ったことが廃作に踏み切らせた要因だとのことなので、地道な禁煙活動は重要なことだと痛感します。ただ、生活のために大英断をすることに決めたタバコ農家に対して、もともと国策としてタバコを植えさせたのは国家なのだから、国はもっと責任を持って生活保障してあげるべだ!と強く思う次第です。特に東北の被災地にも葉タバコ農家がおり、復興支援を考えるなら彼らを刺激するようなことを今は云うべきでない、などとたわごとをいう輩・・・違うやろ?

先日MedicalTribune(2011.8.25号)に、「米国のたばこ会社は、アフリカ系の学生が多数を占めるカリフォルニア州の高校付近でメントールたばこの広告を増やしたり、価格を下げるなどのマーケティング戦略を取っている」と指摘されたという記事が載っていました(Nicotine & Tobacco Research)。真偽のほどは分からないとしても、少なくとも禁煙先進国でありながら大きなたばこ産業が経済を担っているアメリカの場合、たばこは日本を含むアジアやアフリカのような禁煙後進国に積極的に売り出すことで潤っていると聞きます(軍事産業と同等に)。おそろしや、おそろしや。

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アっタマにきた!

いいかげんにしろ!

福島県産の花火だけ使用中止だぁ?

バカタレー!
何が不安だ!何が拡散だ!
何にも入ってねえよ。被曝被曝って、バカじゃねえのか?
花火の拡散より、隣りで吸ってる親父のタバコの伏流煙の方がはるかに発がん性が高いんじゃ!猛毒のタバコをプカプカ吸ってる横で口開けて花火見てる限り、どこの花火使ったって同じだ、バカ!

いい加減にしてくれんか?
どこかでどこかの主催者が、勇気を持って強行してくれんか?無知が発する不安投書は誰かが無視してくれんと、いつまでもみんな右に倣えだ!どうせ国は何もせん。健康よりも税収を確保したいというだけで「タバコは売れないと困る」と言いきるような連中だ。自分を当選させてくれたから疑問があっても黙っている連中だ。その理屈が通るのなら、国が強く強行を迫る責任があるんじゃねえのか?とは思うけど、彼らに求めてもムダ。どうせ「ご愁傷様」と頭を下げて陰で舌出しながら時が過ぎるのを待ってる。

良識あるマスコミの皆さん。そろそろ、真っ向から反論するキャンペーンを張ってくれませんか?「同情します」みたいな言い方で、「おいしいニュース」的報道をするような下品なやり方は、もうそろそろいいんじゃないんですか?良識人的なスタンスでまことしやかに風評報道させるのには、もう耐えられんぞ!

(昨夜テレビを見ていてアタマにきたので、あちこちに同じものをアップしました。今朝、冷静になって読み直したけれど、やっぱりこのまま公開したいと思います)

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一からやり直~し♪

敬老の日を前に、「99歳のハイカラおばあちゃん」という見出しで美里町の吉田百(もも)さんという女性のことが紹介されました。アメリカ生まれの帰国子女(という云い方でいいのかわかりませんが)で、子どものころ使っていた英語が好きだからとのことで歳をとってから勉強した英語ノートが何十冊もあるとか。99歳と云っても肌もきれいだし話し振りはしっかりされているし何十歳も若く見えます(わたしは「歳の割に」という云い方があまり好きになれません。「おじちゃん」とか「おばあちゃん」とかいうことばも、自分の祖父母でない限り使わないことにしています。他人が評価する尺度ではないと思うから)。

そんなニコニコ顔の百さんのインタビューの中で、「人に感謝することが長生きの秘訣」ということばも好きでしたが、「これからの人生の目標は?」の質問に、「わたしは百歳までは元気で生きたいと思って来ましたので来年までしっかり全うします。そして百歳になったら何をしましょうか?そらまた『一からやり直~し』、はっはっは♪」と答えた、その『一からやり直~し』という熊本弁のイントネーションの明るいことば遣いが、深くてとても輝いて聞こえました。

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「専門家」に指導してほしい

日本医師会認定健康スポーツ医の5年に一度の更新手続きを済ませました。この手続きをするのももう2回目です。この資格を取り、うちの施設の運動に関連する指導の責任者をしているせいで、いつの間にかわたしは「運動のプロ」と目されています。その前に15年もの循環器救急医をやっていたために「心臓のプロ」とも目されていますし、さらに「心臓リハビリテーション指導士」の資格まで持っています。

でも・・・アスリートとして何かをしてきたわけでも、スポーツドクターとして運動選手のケアを実際にしてきたわけでもなく、臨床現場から10年離れてしまった自分が今一番困っているのは、実は自分に対する処方です。CT検査で動脈硬化があることを自覚してしまった高血圧症オヤジのわたしは、どこかで怖がっていて、どうもむかしほどガンガン自分を苛めてみるなどという無謀さを出せなくなっています。一体わたしの場合はどの程度の運動までならしても大丈夫なのか?誰かわたしに教えてくれないものでしょうか?今のうちの施設にはそれを論じてくれる人は居ません。「あんたこそがプロなんだから・・・」と云われます。循環器内科の医者に聞いたら教えてくれる?とも思ったけれど、結局「先生の方が詳しいでしょ?」と云われて逃げられるのがオチだということは分かっています。病気持ちの人間への運動処方は、他人事ならマニュアル通りに指導できるけれど、自分のこととなるとそうもいかない・・・これは偽らざる本音です。

特定保健指導の対象にも今なら当てはまるわたし、一度保健師さんや運動指導士さんに適切なご指導を受けてみたいのだけれど・・・だれもがイヤがって苦笑いされるのです。困ったなあ・・・。

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夜は食いません。

「これはもう、勇気を持って夕飯を少なく作るしかないですよ」と云うと、かなり高い確率で戻ってくる答えは、「わしゃ、夕飯はほとんど食わんもんな~」というもの。「そりゃ、食ってないつもりでいるけどそれでも多いってことですよ」などと苦しい説明をしながら話を進めていると、どうも話がかみ合わないことに気付きます。

「ほら、わしゃ夜は酒を飲むでしょうが。だけん酒のつまみがどうしても多くなりますもんな!」 ・・・おいおい、「夜はほとんど食べない」って云ってたんじゃないんかい? ・・・ここで初めて真実を理解することになるのです。「夕飯」とは「ごはん」という意味で、「夕飯を食わない」とは「晩酌するから米の飯は食わない」という意味。これは熊本だけではなく全国共通の呑み助の言い訳専門用語(ちなみに、わたしはアル中ですが、そんな言い訳はしません)のようです。

「それ、『酒を呑む』って意味でしょ?わたしたちにとって夕飯とは夜に口にする食べ物の意味ですから、酒呑んでも立派に夕飯です。むしろ、酒の方が米の飯食うよりはるかに悪影響なんですよ!」・・・わたしは最初からそう云って機先を制することにしています。

「飯食った方が良いんですか?ばってん、酒呑んだ上にさらに飯食うと、食い過ぎにはなりまっせんか?」
「・・・(ア、アホか)。」

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日頃は正常だ?

連載中のシリーズVol.3(9月号)です。
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日頃は正常だ? ~高血圧には縁がないと思っている皆さまへ~

「健診の時には”血圧が高い”と言われるけれど、家や病院では正常なんだ!ここの血圧計がおかしいんじゃないの?」と食い下がる人がたくさんいます。”オレは高血圧じゃないんだから、こんなレッテル貼られると迷惑なんだよ!”と顔全体が訴えています。そんなに怒ると血圧が上がりますよ、とつい声を掛けたくなるほどです。「深呼吸してから測り直しましょう」と、納得いく値が出るまで測ってあげる優しい健診スタッフを見ますが、本当はナンセンスです。「私は最初に測った値以外に興味はありません。深呼吸して下がったことは良いことですが、日常生活を反映しているのは最初の値です。あとはご本人の自己満足用ですね。」・・・ちょっと冷たいかなと思いながら、私はそう説明します。高血圧は、それが脳卒中や心血管疾患の直接の危険因子なだけでなく、心不全をもたらすという重大な問題点を併せ持ちます。長い期間の圧力負荷が心臓をボディブローのように打ち続けて徐々にへばらせるのです。高血圧も潜在性の心不全も自覚症状がないのが何より厄介です。そんな高血圧に関わる最近の話題をこの機会に再確認してみましょう。

●仮面高血圧

病院や健診では正常値なのに家庭や職場では血圧が上がる状態を「仮面高血圧」といいます。高血圧治療ガイドラインに示されたのは2004年ですが、最近やっと世間の皆さんや先生方が意識し始めた感じがします。仮面高血圧の人が心筋梗塞や脳卒中になる危険性は、いつも高い(持続性高血圧)人と同等かそれ以上だということがわかっています。さらに頚動脈の壁の厚さや心筋肥大の程度も持続性高血圧と同じです。つまり、仮面高血圧は自分の知らない間に持続性高血圧と同程度以上の危険性をはらんでいるわけです。一番問題になるのは早朝高血圧と職場高血圧ですので、朝起きて1時間以内の血圧や昼休みの血圧などを測ってみてください。高血圧の内服治療を受けている人は内服前の血圧を測ります。高くても内服したら下がるから大丈夫と思っている人がおりますが、それでは治療の意味がありません。高くなっている時に脳卒中になるからです。「血圧はいつも正常でなければならない」というのが、現在の考え方です。ちなみに、白衣高血圧(日頃は正常なのに病院や健診の時だけ高い)の危険性は正常血圧の人と同等だからあまり心配ないと言われてきましたが、最近、白衣高血圧は将来持続性高血圧になることが少なくないので、やはり早期からきちんとした生活管理をすべきだと考えられるようになりました。

●「ちょい悪血圧」~正常高値血圧

メタボの基準の設定に合わせて、高血圧治療ガイドライン2009に「正常高値血圧(130-139/85-89mmHg)」が加わりました。「血圧がちょっと高めなので今のうちに注意しよう」という値です。『ちょい悪血圧、ご用心』という見出しの記事が2008.9.19に朝日新聞に載りました。国立循環器病センターと大阪市医師会が共同で17年間追跡調査した結果、男性の場合、血圧がたとえ正常範囲内でも120/80mmHg(至適血圧)を越えると心筋梗塞・脳卒中になる人が2倍に増えたという報告です。血圧は常に血管壁に圧力を加えているので血管内皮に小キズが絶えません。その小キズを通して酸化したコレステロールが入り込んでいくと動脈硬化になります。食後高血糖ではさらにコレステロールを吸い込みやすくします。ですから正常高値血圧であっても、それにメタボ系の危険因子が加わると1ヶ月の内服開始猶予しか与えられませんし、糖尿病などを併発していたらまだ高血圧症でもないのに直ちに降圧剤治療を開始しなさい、とガイドラインは強く主張します。血圧の基準値はどんどん下げられているのです。

日本人は、医者も含めて高血圧に妙に寛大です。ガイドライン上は明らかに内服管理が必要な値なのに、塩を控えてやせればまだ大丈夫、などと容易く言う医者がたくさんいます。私が健診の世界に移ってきたころ、140/90mmHgを「ちょっと血圧が高めだから注意しないと高血圧になりますよ」などと説明する保健師さんが多くいました。140/90mmHgは立派な高血圧症でしょ!「あなたは病人だから今すぐ治療しなさい」という意味だよ!・・・必死にそう叫びながら、その温度差に閉口したものです。血圧はいつも変化しています。活動中に上昇するのは当たり前です。数字に躍らされてはいけませんが、症状がないからといって数字を無視してはもっといけません。おそるるなかれ、されどあなどるなかれ高血圧!・・・もう少し自分の血圧に興味を持つことをお勧めします。

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SMAP

SMAPの20周年記念コンサートの模様をテレビのワイドショーで見ながら、当時彼らが西武園でデビューした当時のことを思い出しておりました(妻はあれは「豊島園」だったと云うのですが、絶対あれは「西武園」だった!)。土曜の昼下がりに、今度デビュー予定だという若者(というよりほとんど子ども)たちの元気に飛び跳ねる姿とそれをキャーキャー云って見守る大量のファンの皆さんの姿を、テレビで観ました。「やっぱ、ここは東京だな!」と思いました(実際は埼玉=所沢でしたけれど)。

当時熱烈な西武ライオンズファンだった私たち夫婦は(だから西武池袋線沿線に住んだのですが)、「やんごとなき理由」という言い訳で何度か仕事を早退して清原や秋山やデストラーデを観に行ったものです。当時無名だった二軍の新人選手たちの練習に駆けつけるおばちゃん達が「この子は絶対大物になる!」とツバをつけていたのを見て、また妙に感動したものです。「すげえ!こんなおばちゃん達が追っかけしながら後押ししてるんだ!」と。・・・これはちょうど、今わたしが応援している大分のJリーグチームを支えるおばちゃん達のパワーと同じものでしょうが、そんな世界を見たこともない当時は、東京ってすごいところだ(所沢なんですけど)!と思ったものです。100%西武応援のNAK5(今は大宮アルディジャのホームスタジアム名ですけど)のラジオ実況で、7点負けている9回裏でも、「まだ全くわかりません!ここで満塁ホームランが2本出たら、なんと逆転サヨナラで~す!」と平気で言っていた、あのアナウンサーの前向きさが好きでした。

妙に懐古してばかりいるのはちょっと考え物ですが、ま、たまには良いでしょう。

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自然の摂理

13歳半になる我が家の愛犬は、最近急に食が細くなりました。先日も朝のフードを半分以上残してしまい、残りを夜に食べる始末。昼間はほとんど寝ていますし、夏バテなのかなぁと心配する私たち夫婦を後目に、涼しい夕方になると「散歩だ!散歩だ!」と跳ね回り、相変わらずリードをグイグイ引っぱって散歩コースを1メートルたりとも端折らせまいと脇目も振らずに歩きます。その姿をみていると、ほとんど何も食べてないのに、その活力はどこから生まれるの?と不思議になります。

そんなときにふとサーテュイン遺伝子のことを思い出しました。生物は3割、4割のカロリー制限をすると長寿遺伝子サーテュインのスイッチがオンになる。もしや、人間も含めた生きとし生けるものは本来歳をとれば自然と食べなくなり、そのことによって勝手にサーテュイン遺伝子のスイッチを入れるように仕組まれているのではないか?種の保存のためなどという高尚な目的があるかどうかは別にして、生体が生きながらえるシステムは勝手に作動するようになっていたのではないか?そんな思いが湧き上がってきたのです。それを、「かわいそうに食べれなくなって弱っていく一方!」と高カロリーのお菓子を与えたり、「食べられないと衰弱するから病院で点滴しましょう」などといって、元気に生きようとする自然の若返り力を奪い取っているのではないのかしら?などと思ったりするわけです。

仔犬のころから食にムラがあって食べたいときにしか食べないくせにいつも無意味に跳ね回ってばかりいる、まだ3歳のワンコが我が家には居ますが、もしや彼女は人間なら百寿者になる素因をもっているということなのかも?

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ヘアカラーとPPD

わたしの仲間から『ヘアカラーの危険性』というメール文章が転送されてきました。

ヘアカラーに含まれているパラフェニレンジアミン(PPD)という物質が致死性の化学物質で、皮膚や肺から速やかに吸収される物質だということ、染毛剤ヘアダイに含まれるPPDのアナフィラキシーショックの事例やメトヘモグロビン血症の事例などが記載され、現在の毛染め剤がいかに危険かを紹介してくれています。

彼らは10年以上前から『経皮毒』について警鐘を鳴らし続けてきました。現在巷で普通に使われている化学製品のほぼすべてに毒性の強いものや発ガン性の強いものが含まれています。製品の効果を強めて効果を長持ちさせるために、あるいはコストを抑えて普及させるために必要な物質で、体内に入っても「微量」だから大丈夫!が言い訳ですし、お上のお墨付きもいただいているという後ろ盾を元に、企業はそんな批判などモノともしません。

そんな現状に今さら文句を云おうとは思いません。自己防衛するしか手だてがないこともわきまえています。ただ、「微量」だから大丈夫!と云いながら現在の福島原発関連の農作物や土壌・空気の騒動に比べてあまりに無防備ではありますまいか?もはやほとんど何も含まれていないことが確認されていても「福島から届いた品物はノー!」と叫ぶ輩は、シャンプーや毛染め剤や歯磨き粉や、あるいはタバコにもっと何十倍も「ノーーー!」と騒がなけりゃいかんのじゃないのか?やはりすべてはマスコミなのか。彼らが意図的に扇動しない限り何も騒がない・・・いや、騒いでもすぐに抑え込める企業の政治力が上か・・・悲しい話ですが、ひとりで苛つくだけ損なのかもしれません。

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完成すると伝わらなくなること

今年も生活習慣病に関する講演をいくつか引き受けていますが、何か話していてもしっくりきません。「分かりやすくて良かったです」とは云ってくれますが、これは基本的に社交辞令なので・・・。というか、「もっときちんと伝えられるはず」という歯痒い思いでモヤモヤしています。毎年同じような題材での講演を依頼されるので、内容とスライドを少し更新するとはいえ基本は同じです。同じなのに、毎回同じことを話しているつもりなのに、何か年々しっくりこなくなっていく気がしてなりません。

以前、初めて某ネットビジネスのセミナーに参加したとき、とてもダイナミックに熱く健康を語ってくれる女性がおりました。同じ説法仕事の立場として、凄いな!と感動しました。精力的に全国を飛び回って、その筋ではカリスマ的になったその方の話を再度聞く機会を得たのはそれから1年後でした。とても楽しみにしていましたが、実は思ったほどの感動がありませんでしたし何か伝わってくるものが消えている感じがして残念に思ったことを思い出します。彼女の情熱が枯れてきたのでも、彼女が疲れていたのでもなく、むしろ最初よりはるかにバージョンアップされた内容でした。しっかりとした科学的データも織り交ぜ、ほぼ完成品に近い内容でしたし、当初は白板によく見えない走り書きだったのに、きちんとパワーポイントで整理されたスライドとして作り直され、話もとてもスムーズでした。

きっと、何度も話すうちに徐々にムダが省かれ必要な内容が増えて重厚で内容の濃い完成品ができあがっていったのだと思うのです。なのに・・・?内容を完璧なものに近づければ近づけるほど、受け手へのインパクトが弱くなり、「伝えたい」という思いが空回りしてしまうような感覚なのかしらと、おぼろげに考えています。それでももっとココロの奥に伝える工夫をしなければならない・・・それが伝道師としての使命ですかね。

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性善説

わたしは、世の中のすべての生きとし生けるものが「善」で動いていると思っています。

「あんたは『お坊ちゃま育ち』で何も苦労しないで大きくなったからね、甘いねえ」と皮肉られ、「世の中は良い人だけじゃない。少なくとも根っからの『悪(ワル)』は存在するんだ!」と断言されながら半世紀生きてきました。

でも、それでもわたしは性善説に立って世の中を眺めてきましたし、これからもそうやって生きていくだろうと思います。世に生まれつきの悪人や悪の生き物は存在し得ない・・・日本に近い某国の人間などは、ウソをついて当たり前、叱られたらしらばっくれておけばよい、という生き方を実践している人が主流だと聞いています。日本も、戦後に人を騙し、蹴落としてのし上がった人たちが今の経済界を作り上げたことは周知の事実です。凶悪事件を起こして刑務所生活の後にまた事件を起こす人も居ます。でも、それでも彼らもまた、少なくとも元々は「善」で生きてきたはずだと思って疑いません。そうせざるを得なかったから悪を選んだか、その選択が今でも善であると信じているか・・・。

人間は甘いことを云うと必ず付け上がるから、厳しく躾けないといけないとか云う人は居ますが、そのこと自体もあまり賛同できないわたしです。今日は、10年前に世界中を震撼させた9・11アメリカ同時多発テロの日。あれもまた、何が善で、何が悪か、いまだに解明されていませんが、だからこそ今も色褪せずにもめているのだと思います。おそらく多くの善人は、あの事件に関わるだれにも悪人がいないことをわかっているはずです。

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脳が一段と壊れていく

ヒマを見つけて文章を考え、最近は職場のパソコンでは書き込みができなくなったので、メールでメモ書きしたり手書きで紙にメモしたりと、ブログ維持のために努力を惜しみません。もともとボケ防止の意味も込めて始めたブログです。

できるだけ気付かないフリをしていますが、やっぱりわたしの脳細胞は明らかに壊れていってますね。第一にキーの打ち間違いが急に増えました。「m」のつもりで指を出しているのに「n」になり、「k」「u」と打ったつもりが「u」「k」となり、「sa」と打ったつもりが「a」だけだったり・・・やり直してもやり直しても何度も同じことを繰り返すことにいつの間にか慣れっこになってきた自分が情けない。そして手書きのときに実感するのは「漢字が浮かばない」。本当に浮かばない。根性で思い出そうとしていた時期を過ぎて、今やすぐさま携帯を取り出して入力してみる(一応まだ、どの漢字が正解なのかどうかの判断力は残っているようです)ようになりました。

あ~情けない。そして一番情けないのは、手書きで書いたこの文章をパソコンに打ち直しながら気づいたこと・・・この文章とほぼ同じことを間違いなくこれまでに何度もここに書いている、という事実。

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運動療法は個別か集団か

生活習慣病の生活改善に欠かせないのものが運動ですが、何しろ人間には運動欲がないわけですから、「適当な運動はした方が良い」ということは百も承知であってもなかなか続かないものです。それをどうやったら続けられるのか?と現場は日夜試行錯誤しています。

そんな中でいつも悩まされるのが、個別指導と集団指導はどちらが有効なのかということです。コスト面を考えに入れなければ当然個々人に合ったプログラムを組んで個人的に付きっ切りで指導をしてもらえる個別指導の方が圧倒的に効果がある!と信じていましたが、個別にいつまでも黙々とトレーニングを続けるということは、指導者との相性がたとえ合っていたとしても、かなりの忍耐力を必要とする感じがします。また、個人での達成感というのは周りが認め、賞賛してくれて初めて満たされるものだということを考えると、社会の中に生きる上では何か中途半端な感じがするのは否めませんし、どこか孤独な自己満足感に苛(さいな)まれるかもしれません。

集団形式の指導は、もちろん向き不向きはありますが、周りが居るから続けられるという人間心理にとてもマッチしています。この程度で良いのか、この程度なら続けられるという自信を生じさせ、「面倒くさい」と思ったときも周りがしているから行こうか!という気になるもの。また、初めは赤の他人だった人たちとのコミュニケーションが生まれることが、それ以降の人生に運動効果以上のものをもたらしてくれます。ただし、一律の集団の中のひとりという位置づけに返って不安や孤独感を持つ人は必ず居り、他人のペースに合わせるのが煩わしく感じる人は、おそらくその場から去っていくでしょう。

結局、「効果は個人差」という結論なのでしょうが、運動療法というものは単に運動による身体的効果というだけでなく、社会人としての心理的な満足感の有無を考えることも重要な因子だと思います。

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がん検診啓発

九州予防医学研修会オータムディスカッションの今年のテーマは『がん検診』でした。

基調講演の境健爾先生にフロアから質問がありました。「がん検診の受診率がまだまだとても低いのですが、先生は、検診受診率を高めるためにどんな啓発をしたら良いと思いますか?」
「わたしが住民のみなさんにお話をするときには、もちろんまず早期がんで見つかると根治できる率が異常に高い、ということを強調します。でもそれと同時に、進行がんになっても今は良くなる治療がたくさんあることと、不幸にして末期がんだったとしても今の緩和ケアは決して苦しく辛いものではないことを、さらに強調します。それは、『自分ががんかもしれないし、がんだったら怖いから受けたくない』という人が意外に多いからです。」

検診後の精査指示に対して「おれはどうもないから行かない」とか云っている人の多くは、「がんだったら怖いから」が本音なのだと聞いた事があります。わたしに気になる症状の相談をしてくる知人に、「そんなに心配だったら早く病院に行ったら?」と云うと、「こわい」と軽く拒否されます。「こわいから早く行った方が良いんじゃない!」と云うと、「うん、考えとく」と気のない返事・・・医療者はそんなことナンセンスだと思いがちですが、でも境先生の云う通りだと、わたしも思います。より人間的な人生をすべての人に送ってもらうことを考えるならば、「検診で早期発見しないと大変なことになりますよ」と脅すような啓発活動だけでなく、不安になっている人たちに検査を受けることのメリットを分かってもらうことの重要性を、境先生のお話から痛感することができました。

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延命的治療

第11回九州予防医学研究会オータムディスカッションの基調講演で済生会熊本病院腫瘍内科の境健爾先生のお話を聴きました。緩和ケアのプロでもある境先生の話しぶりはとても穏やかで、スムーズに頭に入ってくるその話の中から気になったことをいくつかメモして帰りました。

がん治療は、「積極的治療(根治治療)」→「延命的治療」→「ホスピス(緩和ケア)」に分かれます。大体どこでも1:8:1の割合で、「不幸にしてして根治ができなかった人たちに『延命的治療』を一生続けることになります・・・」と説明されましたが、その『延命的治療』ということばがわたしのアタマにひっかかりました。

がんでは『延命的治療』という云い方をして、まるで治らなかった人への敗戦処理のイメージだけれど、高血圧や糖尿病やあるいは狭心症や脳梗塞や、がん以外の生活習慣病の治療に『完治』なんてことばは存在し得ません。すべてが一生『延命的治療』なのです。なのに、まるでがん治療だけが重篤な病気だといわんばかりの、その用語は何とかならないのか?がんは、そんな前時代的な病気ではなくなったのではないのか?裏を返せば、世の生活習慣病患者の皆さんは、がん治療で云うところの『延命的治療』を自分が受けているという自覚はちゃんと持っているのだろうか?

そんなことを想いました。

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残暑見舞い

先日、大分に住むいとこから残暑見舞いが届きました。9月に残暑見舞いもないもんだ!とか思いながらも、わざわざハガキを出してくれたことを嬉しく思いました。

そういえば、長いこと暑中見舞いや残暑見舞いは書かないなあと思います。学生時代は夏休みの恒例でしたし、社会人になってからもわたしはかなりの期間必ず出していました。結婚して、石神井に住んでいた頃にも、たしかプリントごっこを駆使して書いていた記憶があります。当時、妻が手書きの夏のイラストを何枚も書いていたのを思い出しますので、わたしだけでなく妻も、当たり前のこととして暑中見舞いを書いていました。

年賀状ほど期間にうるさくなく、前もって書いて出す行事でもないので、年賀状よりもはるかに近況報告の色が濃く、当然書く内容は年賀状より手紙的でした。その代わり、期間が長い分だけ書くタイミングを失うとつい書き損じてしまうこともあります。立秋を過ぎて慌てて残暑見舞いに書き直したり・・・。いつから書かなくなったのでしょう?「あれ、もう世間は夏休み?あれ、いつの間に盆が過ぎたの?」・・・忙しい生活の中で、季節の変化すら気づかなくなり、いつの間にか暑中見舞い用のハガキを買うことすら忘れていったのでしょう。そして近況はメールや携帯電話で済ますようになり、年賀状ほど儀式的ではない暑中見舞いはわたしの環境から消えていったのだろうなと分析してみました。

夏の夜や日曜日に、風鈴の音をバックに夏の便りをしたためる、なんて風情をもう一度取り戻してみたいものです。それがまた、自分の人生に余裕を導ける手段のような気もします。まあ、そんなことを夏の終わりに思っても後の祭りなのでしょうが・・・。

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知ってもらっている

廊下の遠い先から、ニコニコ顔で「おはようございま~す!」と大きな声をかけてくれたのは病院幹部のK先生でした。わたしが臨床現場を離れた後に赴任された先生なので、ほとんどお話したことはありませんし、同じ委員会に所属したこともありません。せいぜい、たまに病院全体のセミナーやゴルフ大会などで顔を見かける程度です。そんな先生が、きちんとわたしを「わたし」として認識した上で声をかけてくれている感じがしたので、何かとても嬉しくなりました。ですから、「おはようございます!」・・・わたしの返事も自ずと大きな弾んだ声になってしまいました。

こういうのって、良いな♪と思いました。相手があいさつしたから返事をするというのではなく、自分が目上だとか目下だとかではなく、自らがあいさつをしたいから発するのです。せっかくあいさつしたのに相手が返事しないとか無視したとか、そんなことに一喜一憂してても何の得もありません。たとえ名前も部署も知らなくても毎朝出会う若いスタッフに、自分たちの仲間として「今日も一日頑張ろうな!」という声をかけること・・・自分がやってもらって嬉しかったことはきっと自分がしてあげても嬉しいだろうなと思うから、これからはK先生のような元気な空気の溢れた朝の廊下にしたいものだと思いました。

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執着心

明らかに不器用な人がいます。脳外科医や心臓外科医を目指してとても熱心に技術修得のために頑張っているのだけれど、でも根本的に不器用なのは如何ともしがたく、「そんな細かい作業には向かない」と上司に引導を渡される人は、確かにいます。世のため人のために、やはり他の道に進んだ方が良いと思う人です。

でも、ブラックジャック張りの神の手の持ち主を除くと、月並みな技術の医者が大多数です。わたしもきっとこの部類に入ると思います。そんな集団の中に、とにかく技術修得のためには誰でも彼でも辺り構わず患者さんをかき集めて自分で全てをやってしまいたがる人がいます。なかなか上手くいかなくても自分なりに工夫し、うまくいくまで試行錯誤を繰り返す人。相手は生身の人間なのだから、実験台に使うなんてもってのほか・・・そんな内外の非難・干渉など目もくれずに汗びっしょりになりながら頑張る人たちがいます。心臓カテーテル治療もその代表的な手技ですが、針穴に糸を通すよりも難しいような作業を1時間も2時間も続けてとうとう成功させる人たちの執着心をみていると、敬服せずにはおれません(もちろん患者さんにとっては被曝のしすぎですけど)。わたしのようにすぐにギブアップして「何ごとも宿命だからしょうがない!」と投げ出してしまう医者には考えられない集中力です。「医療の発展のためには少しの犠牲はやむを得ない」という考え方に、わたし自身は付いていけませんが、人非人扱いされながらも”症例”を重ねて工夫している彼らが居るからこそ、医療は進歩していくのだろうと思います。昔のタブーが今や当たり前になっていることについて、パイオニアとしてその医療常識を覆すために努力した医者達の多くはブラックジャックでも赤髭でもなく、ただのしつこい凡人だったことは間違いありません。

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「。」

先日、定期的にコラムを書いている機関誌の担当者から連絡が入りました。

「 ○○○ 。」の最後の"。"を「 」の外に出しても良いか?という打診でした。何云ってんの?「  」内の文の終わりの"。"を外に出したら全然別のものになるじゃない?バカじゃない?と思いましたが、それが新聞などの表記法の慣例だと云います。んなバカな!ここは日本だぜ!といきまいてググってみましたら、どうもわたしの方が分が悪いみたい。

**************
句点は文の終わりに打つ、という一応の決まりはあるものの、これ以上の細かい決まりはない。出版業界で採用されている打ち方は、
・会話の場合は「 」の外側に句点を打たない
・会話以外の場合で、「 」で文が終わるときは句点を打つ
・「 」や( )などのなかに入る最後の文については句点を打たない
・「――」や「……」で終わる文には句点を打つ
・箇条書きには句点を打たない
**************
とあります。ん~、納得いかねえ!

じゃあ、文末にくる(  )と"。"の扱い方はどうなるか?
**************
・文末に部分的に註釈をつける場合は( )の後に"。"
・文章全体の註釈や、引用文の元本の題名や作者などをつける場合は( )の前に"。"
・箇条書きの場合(箇条書きは、括弧の有無にかかわらず、文末の句点を省略する場合が多い)は"。"を付けない
**************
そんな宙ぶらりんな(  )なんか、存在しちゃダメだ!といつも文句をたれていたのだけれど、そして今でも絶対納得していないのだけれど、本当はどれでも良いから決め事を作った、というニュアンスで『記者ハンドブック』(共同通信社発行)などに書かれてしまうと、くやしいのだけれど従わざるを得ませんか・・・。

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病人になりたくない

「病院に行ったら自分を病人扱いするから、だからわたしは病院には行かない!」「わたしは病人にはなりたくないんだ!」・・・高血圧症や脂質異常症で『要治療』の判定を受けて毎年紹介状をもらっているにも関わらず絶対に受診しない方の中には、こういう理屈を理由にする人が意外にたくさんいます。

「あんたは立派な病人なんだから病人扱いされて何が悪い?」と医療関係者は十人が十人そう思うはずですが、「痛くも痒くもなく日常生活はおろか運動や旅行や、何不自由なく健康的にやれている自分のどこが病人なのか?」と一般の方は大なり小なりどこかでそう思っているように思います。くすりにしても同様であり、早々にくすりを飲んで健康体を維持できた方がはるかに健康的だ!と考えるのが医療従事者・・・くすりをもらった時点で病人になり下がったことになるから頑なにそれを拒み続けるという感覚をどうしても理解できないのです。

この埋まりそうで埋まらない絶対的なミゾ・・・「病人」とは何か?「病気」とは何か?これは医療に携わる仕事をしている限りずっと付いて回る難問のような気がします。ただ、それが病人であれ健康人であれ、最後に「良い人生だった」と思って死ぬためのプロセスなのだということには反論はないところでしょう。

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「申し訳ありませんでした~ぁ♪」

わたしは大好きなお酒をいつも国東の酒屋Tさんに注文しています。

8月30日の20~21時に送っていただける様に振込みをして待っていたのですが、とうとう届きませんでした。不安になって夜に確認メールを出したところ、どうも宅配してくれる予定の大手Y社に手違いがあったようです。「詳しい説明をY社さんから電話して貰うようにしました」との返信・・・酒屋のTさんには本当にお世話をかけてしまいました。

ブツは31日の午前中に何事もなかったかのように届いたのですが、「何事もなかったかのよう」だったのにちょこっとカチン。夕方帰ってきたら、Y社の担当の女性から留守電が入っていました。「30日20~21時予約だった品物の件です。実はこちらの不注意で指定時間の見落としをしてしまったみたいです。ご迷惑をおかけしました。申し訳ありませんでした~ぁ」・・・ちょっと弾んだフェイドアウトで留守電は切れていきました。

「また後でご連絡いたします」ということばがなかったところを見ると、これ、きっとこのままだな、と諦めました。「ラッキー、留守電だった。わたしはちゃんと伝えたからこれでOKよね。わたしが見落としたんじゃないんだし・・・」なんて云ってる顔が浮かんできてシャクだけど、まあその程度の会社なんだろうな。Y社は全国チェーンの大手なのに、残念だなと思います。うちの職場なら間違いなくトラブル報告書がトップまで上げられ、担当者かその上司が直接会いに来て謝罪するパターン。この営業所、この手のミスは2回目なんだ・・・これからも変わらないんだろうな。

グチの公開でちっとすっきりした、小市民な、わたし。

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