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2011年12月

アディポネクチンと骨密度

『高齢男性で血清アディポネクチン高値が脆弱性と関係し、死亡を予測』(Medical tribune 2011.12.22号)

脂肪細胞が単なるエネルギーの貯蔵庫ではなくてホルモンを生産する巨大臓器だということはここで何度も書いてきました。そんな中の善玉ホルモンの親玉が「アディポネクチン」で、アディポネクチンが動脈硬化を抑えて、糖尿病や脂質代謝を改善させる作用をしている張本人だということ、メタボになると内臓脂肪が増えてこのアディポネクチンの働きが落ちるのだと云うこと、肥満や運動不足やタバコがアディポネクチンを低下させるのだということ、だからアディポネクチンが多いほど良い!毎日アディポネクチンを増やす努力をしましょう!と語ってきたわけです。

ところが、ここに書かれているのはどうも逆のこと。高齢男性でアディポネクチンが高値だと骨が弱くなって死亡リスクが上がる、というのです。さりげなく、さも当たり前のことのように書かれているその学会(第33回米国骨代謝学会)報告記事を読みながら、ちょっと不安になってきました。でも、調べてみるとどうも整形外科の世界では周知の事実のようで、アディポネクチンは年齢とともに上昇し、高値なほど体重や握力や骨密度が低いそうです。脂肪代謝と骨代謝は切っても切れない関係にあることは理解していましたが・・・わたしのアタマの中が久しぶりにパニックに陥っています。

結局、高齢者はアディポネクチンを増やす努力をした方が良いの?それとも増えないようにした方が良いの?現実にはきっと悩む人が増えると思います。ちなみに、「アディポネクチン高値が呼吸器系関連死亡率増加」なんて論文もあります。

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年賀状

講演準備や原稿書きと同じく、年賀状書きにとりかかるのが年々遅くなっていきます。今年も年の瀬になってやっと取り掛かりました。

「最近は、『億劫』で『臆病』な自分のココロにどんどん流されていく気がして反省しきりです。来年は、毎日がスペシャルデーになれるようにがんばってみようと思います」と印刷しようとしました。ここ2週間ぐらいずっと考えていたフレーズです。

ところが、パソコンに、昨年出した年賀状の原稿が保存されていたのを見つけて、ちょっと落ち込みました。そこには、「なにかと面倒くさがりになった自分を反省し『原点回帰』を宣言します。同じスローガンの若い大分トリニータに負けない生き方を、私もしたいと思います。今年もどうぞよろしくお願いします」と書いてあったのです。

1年前にも同じようなことを考え、結局何も変われなかった自分がちょっと恥ずかしくなりました。来年は、公私ともに明らかに変わりゆく年になります。年賀状の文章は少々無難な表現に変えましたが、やはり自分としては毎日をスペシャルデーにできるようにがんばってみようとは思っています。毎日何事もなく無事に過ごせることも幸せですが、それは結果として云えること。自分を鼓舞しないと前に進めない歳になってきたこと、ちゃんと分かっています。「まあ、どうでもいいや」とついつい云ってしまいそうな自分に絶えず鞭打つなんて、かなり険しい道ですけど・・・。

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「サッカーのポジションに例えるなら」

以前、ニフティのブログネタとしてそんなお題が提示されたことがあります。あのときは面倒くさかったので流しましたが、最近ふと、そんなことをマジメに考えてみました。

自分は今の職場というチームの中でどこのポジションなんだろう?決して監督やGKでありたいとは思いません。わたしは正直云って組織全体のマネージメントに興味はありません。それに適任の方はたくさんいます。それでは、最前線で攻めていくFWはどうか?それはそれで楽しいと思います。自分の一挙手一投足が組織の明暗を左右する、○○に●●あり!と云わしめるのは良いことだと思います。舞台人であるわたしは、そうしろと云われればしないでもない。でも、きっとわたしのタイプではない、と思います。全員がわたしを見つめた瞬間にドーッと汗が噴き出る性格だからです。わたしって、隠れ目立ちたがりですけどすごい小心者なのです。では、最後の守りの要になるDFタイプか?おそらく中学高校時代の担任は皆が皆、わたしをそう評していることでしょう。でも、きっと違うな。自分の人生はともかく、仕事では「守りに入るなんて敗北と同じだ」と思っている『陳腐』が大嫌いなわたしの居場所ではないと思う。

本当は、要所要所でFWにキラーパスを出し、気付いたらDFのうしろで「ダメー!」と半端な意見を跳ね返しているMFを目指しているのだろうけれど・・・どうだろう。何か今の職場ではそれはもはやわたしの居場所ではないかもしれない。今のMFは縁の下の力持ちタイプではなく、自分の存在をアピールしまくるタイプでないと務まらないポジションですから。

ひゃあ。わし、居場所がないじゃない?自由契約選手になっちゃう!

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4年

とうとうこのブログも丸4年になりました。

もうやめよう、もうやめよう!と思いながら毎日更新を続けてしまいました。「書きたいことができた時だけ」としてしまったら、急に敷居が高くなって内容の高そうなものしか書けなくなるのがわかっているから、あえて毎日更新を貫いていますが、それがいいことなのかどうか悩むこともあります。

でも、無理やり何かを書く、ということには意味はあるのだろうと思うようになりました。「書きたいものがあるから書く」ではなく、「続けるために書く」・・・邪道かもしれませんし、内容の質や文章の質も開設当初ほど吟味しなくなったので落ちたと思いますが、あまり重い足かせをせずにつぶやきオヤジに徹しながら5年目に入っていこうと思います。

またよろしくお付き合いください。

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腰痛と付き合う

「結局この腰痛の原因がわからないままなんだよね。何かあるはずなんだけど・・・。」

ロッカールームで会うたびに浮かない顔でそんなグチをこぼしている同僚がおりました。わたしも周期的な腰痛と足のしびれと付き合うようになって10年以上になります。大きな交通事故で頸椎・腰椎ヘルニアを起こして以降だからあれのせいにしていますが、しびれはともかく、痛みの犯人がそれかどうかは本当のところ定かではありません。実際のところ、慢性腰痛の90%は原因不明であることと腰痛の原因にストレスが大きく関与していることが『腰痛のナゼとナゾ』(菊地臣一著 Medical Tribune)に書かれていましたが、読みながらとても納得できる内容でした。たしかに大好きなゴルフを前に腰痛が邪魔をすることはありませんが、練習は腰痛がひどくなってサボることが良くあります。出たくない会議の日はどうしたことか朝から腰もアタマも冴えません。痛みのメカニズムというのは本当によくできていると思います。痛みを感じるとその痛みを和らげる物質が分泌されます。ところがストレスや不安が強くなるとその物質の分泌が抑えられるのだそうです。さらに「痛み」はそれによって他の場所の異常を伝えている場合もよくあります。

わたしはもうすっかり慣れっこになりました。最近は滅多に手術はしないということが書かれていてとても気が楽になりました。原因がわからないとか痛みがスッキリ取れないとか、そういうことはあまり不安の対象になっていません。痛ければ休めば良い。そのうち時が解決させてくれる。原因が分からないということは重症ではないという証なのだから、少なくともこの状態よりひどくなった経験はないのだから、とそう思うと意外に付き合えるものです。

冒頭の彼はその後新しい職場で働いています。たまに出会うととてもニコニコしています。腰痛のはなしを聞かなくなりました。治ったのかもしれません。

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下向きのグチ、上向きのグチ

忘年会。今年はプライベートを除くと職場の忘年会は1つだけ参加しました。年々出向く宴会数が減ってきています(誘われてないんじゃないんです。億劫なんです。いけませんね~)。

そんな忘年会の二次会で、若いスタッフの皆さんからホンネのグチをたくさん聞きました。「もう許せないんですよね!」・・・段々と語気が荒くなります。そんな彼らを眺めながら、わたしの研修医時代を思っていました。怖いもの知らずのわたしはいつもとんがっていて、どんな上司に向かってでも食って掛かっていました。そのせいか、酒飲んでグチを云うような経験はあまりなかったような気がします。

グチは好きではありません。あまり建設的なことに発展しないと思うから。そして、本当にストレス発散になるのならいいけれど、一層不満が大きくなるのではないか?と懸念されるからです。彼らのはなしを聞きながら、「下向きのグチ」と「上向きのグチ」というものを、何となく思いました。ほんの少しでも下向きにグチを吐くとそれはどんなに反射していっても絶対に下向きにしか増幅させることはできません。「上向きのグチ」というのがあるのかどうかわかりませんが、わずかでも上向きにグチるときっとそのうち上向きに増幅されていって何かが変わる可能性があるのじゃないかしら。

そんなことを思いながら、それでも組織についていろいろ考えて頑張ろうとしている彼らをとても頼もしく思いました。

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だから作りすぎなんだってば!

「こどもが残したものまで全部食べるから太るんでしょうね。」

この2週間の間に3回、このことばを聞きました。男性(お父さん)2人、女性(お母さん)1人。ちょっとため息をつきながらわたしは答えることになります。「いやだから、残すほど作ったこと自体が作りすぎなんだから作らんでください!」・・・お子さんのために作ったおかずをお子さんが残すというんだから、残さない量作ればいいんじゃないんかい?と、そう語るわけです。

でも実は、その陰でいろんな想いが見え隠れします。残すと分かっているのになぜ作りすぎるのか?「これくらいは食べて欲しいから」という親心であれば、それはもっと子どもに無理強いしなければなりません。量が多いから食べないのではなくて嫌いだから食べない、というただの偏食なら、親が代わりに食っちゃいかんでしょう。少なく作るのが面倒くさいのだろうか?何人前という材料を買ってくるからまとめてガッツリ作るのが簡単だから?・・・いや、たぶん違うでしょう。「これは子ども用に」とか云いながら、最終的にお父さんかお母さんが食べることを初めから念頭に置いて作っている、確信犯なんじゃないですか?それを作らなかったら、足りなくて他に手を出すだけじゃないか、と思うのですがいかがでしょうか?単に「子どもが食べ残すから、もったいないし、しょうがないな~」という言い訳をしながら、嫌々を演出するためのスケープゴートなんじゃないのでしょうか?

だとしたら、こりゃ、これからも余るほど作り続けるだろうな。

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書きかけでやめる

先日、ラジオを聴いていたら、ミステリー作家の道尾秀介氏が語っていました。

「ふつう、一区切りついたところで書きやめるのではないのですか?」と女性アナウンサーが質問したら、「ぼくは、区切りがつく前にやめることが多いです。作家の中にはそういう人が多いみたいですよ。区切りが良いところでやめてしまうと、翌日に続きを書くときに大変なんです」と。「たしかにそうだ」と皆の合点がいきました。わたしも聞きながら「そうだな」と相槌をうちました。文章はその日にそのまま書き上げてしまうのでなければ、段落の途中でやめて翌日に残しておいた方が、翌日再び書き始めるときに頭が昨日の状態に戻りやすい、というのです。やりかけたところから、助走をつけて続けた方が、その次の段への本格運転にスムーズに移れるという感覚、なんか良く分かります。

書き物を生業(なりわい)にしている人たちには、それぞれにそれなりの工夫があるのですね。

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父ちゃんの権威?

わたしが産業医をしている企業に、とても気になる男性がおります。40代半ばを越えた彼は年々体重が増加し、採血するたびに値が跳ね上がっています。中性脂肪の上昇や脂肪肝の悪化ももちろんですが、LDLコレステロールの値が下がらないどころか直線的に上昇しています。HDLが高くないので数年前から早く医療機関に行くように話していますが、いつも煮え切らない対応になります。

もともとアスリート系の彼は、小学校の息子を連れてプールに通っていました。いつも父さんの背中を見せて「オレに付いてこい」的な姿を見せてきました。息子とプールに行った話をしている彼の顔はいつも嬉々としています。きっと彼にとって、息子にはいつまでも颯爽とした憧れの父親像でありたいと思っているのだろうと思います。

だったら、早く病院に行って早くくすりをもらって健全な姿になった方が良いのじゃないか?彼は運動で何とかしようとしているけれどLDLは運動では下がらないし、むしろどんどん悪化しているのだから、今のやり方ではどうしようもないことくらい分かっているのではないか?そんな話を担当の保健師さんとしていたら、彼女が静かにこう云いました。
「きっと父親としてのプライドがあるからこそ、病院に行けないのだと思います。くすりを飲むことは敗北!と思っているのかもしれません。『ずっと尊敬していたお父さんが病院に行ってくすりなんか飲むような病人に成り下がってしまった』・・・息子にだけはそんな無様な姿を見せたくないと思っているのではないでしょうか。」

今のままではいつ心筋梗塞か脳梗塞になってもおかしくないような状況なのですが、どうしたものでしょう?

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残る者

時々襲ってくる、この将来への不安感。

考えないように考えないようにと思うけれど、つい考えてしまうこと。

仕事のことや経済的なことはたしかに不安です。手に職があるようでないに等しいわたしの老後は年金が出るまでどうやって生きていこうかとか、年金が出たとしても生きていけるのだろうかとか、たしかにときどき考えるようになりました。

でもそれよりももっと不安なことは、必ず夫婦二人のどちらか一方が先に亡くなるということ。相手を看取ったあとにひとり残ることへの不安が日に日に強くなります。子どもが居ないだけでなく、親しい身内が徐々に減っていき、社会との深いつながりを持つのがあまり得意でないわたしたち夫婦にとって、ひとり残ったときにどうやって生きていこうか?などと考える歳になりました。墓や葬儀の手はずなど考えたら、妻が残るよりもわたしが後に残った方が良いのだろうな。彼女が残ったら自分の処遇について他人だらけの中にいて不安で潰れてしまうかもしれない。そうだな、やっぱり私が後に残ることにしよう。「自分が死んだら大分の墓ではなくて南の海に散骨してほしい」というのが口癖の妻・・・それを実行してあげるためにも、私が残らなけりゃ。

でも、わたしが残ったとしたら、どんどん内に籠もってしまって実社会との関係をシャットアウトするかもしれないな。ブログやツイッターやインターネットに一日中没頭して、でもそのうちそんなことにも興味がわかなくなって、何日も一言もしゃべらない日が続いて、いつの間にか成仏する・・・それではいかん、と思って足掻くのだろうな。夢だったお遍路周りをするだけの意欲が残るだろうか。

「でも、きっとあなたの方が先に死ぬと思うよ」・・・冷たく語る妻の表情が一番暗くなる瞬間・・・こうやってわたしはまたうつの周期に入っていくのであります。

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腹部触診

ある保険団体の健診契約の中に、「医師による診察は腹部触診を含む」という内容があります。これが先日話題になりました。これをしていない施設があるので注意してほしい、という旨の文書は配布されたのです。うちの施設でも数年前に問題になったことがあります。人間ドックを受診する人たちにとって短時間の診察で腹部触診をする意味があるのかどうか、という議論です。そのために履き物を脱いでベッドに横になり、ズボンを下げて腹を出してもらう・・・そこまで手間を掛けることが腹部エコーで得られる情報を凌駕できるのか?胸部の聴診は違います。心臓の雑音や肺の雑音の有無は心電図検査や胸部レントゲン検査では得られない重要な情報です。それに匹敵する情報が腹部からは得られないのではないか?わたしは昔から習慣としてやっていましたから実際にはそう大したことではありませんが、受診者の手間を考えると、なくても良いのじゃないか?というのが本音です。

病院を受診した場合は別物です。症状があるから受診している患者さんに対してあらゆる方向から情報を得る必要があります。最近は消化器内科専門医のくせに腹部触診をしない医者や循環器内科専門医のくせに聴診器を持たない医者がたくさんいて、困ったものだと思います。触らないドクター、聴かないドクターは社会問題です。でも一方で、「健診の診察はセレモニーみたいなものだから形だけやっておいたら受診者は満足する」などと堂々と云っていた事務員や医者が昔はおりました。今回のことも、たとえ腹部エコーを受ける人であっても、形だけやっているという事実が欲しいから必ず医師の腹部触診はすべきである、というのであれば、疑問符だらけのような気がします。

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がん宣告

「わたしががんになってもわたしには教えないでね。」

むかしからあなたはわたしにそう云ってきました。「たぶんがんを告知されたらパニックになると思うから・・・それが手遅れのがんでなくても、絶対ウソついてごまかしてほしい。あなたは役者さんだったんだから、それくらいできるでしょ?」・・・真面目な顔をしていつもそう云っていました。お義母さんががんになっても教えてもらいたくないくらいなのだ、と。もちろん、わたしはあなたの期待に添えるようにがんばってみようと思います。

わたしは自分ががんになっていたら告知はきちんとしてほしいと思っています。健診医だから早期がんを見つけられるでしょうし、うちでやった検査は自分でこっそり見てしまいますから、疑心暗鬼にまるくらいだったらきちんと教えてもらいたいと思います。たとえ手遅れであっても教えてもらわないと、整理しなければならないことが人生にはたくさんあるのだから。いつもそう云ってきましたよね。

で、あなたに聞き忘れていたことがひとつあります。もし、わたしががんを宣告されたときには、あなたにそれを教えない方がいいのかしら?その場合も隠し通さなければならないのかしら?それはさすがに、ちょっと辛いかもしれないのだけれど・・・。

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それは酒のせい?

「それは、おととい宴会でかなり深酒したせいじゃないですかね?」

この季節は、こういうことばが帰ってくる頻度が多くなります。健診結果の説明をしている途中、いつになく上昇した肝機能の値や尿酸値、あるいは中性脂肪の値を目の前にして発せられる自己分析です。

「おとといですか?」
「はい。昨日は健診前だけん静かにしといたけど、おとといはかなり飲んだんですよね。おとといの影響の可能性はないですかね?」
「いや・・・あるとは思うのですが」・・・わたしは思わずことばを濁してしまいました。
「おとといの影響を受けているのだとすると、酒はあなたのカラダに合わん!と引導を渡されたようなものなんですよね~。」

それは酒のせいだからしょうがない、という結論を期待していたであろうその40歳半ばの男性は、ちょっと驚いたような顔をしました。「普通は、おととい飲み過ぎても今日はほぼ正常値に戻っているはずなんです。それなのにまだ高いのだとすると、あなたのカラダが酒に対する処理能力を持っていない、ということになるんですよね。アタマは『ほしい』と云ってるけど、カラダは『ムリ』と答えてる。『勘弁してください』と懇願していることになります。その点を悟ってやってください」・・・何しろ酒だけは止めきらんわたしとしては、これ以上ないオブラートの包み方でそうアドバイスをいたしました。

でも、悟れないだろうな~。少なくともわたしだったら、悟れないな~。

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「般若心経 新訳」の衝撃

友人のfacebookで紹介されていました。Facebookの世界では有名らしいです。般若心経を理解するというのがわたしの人生の最大の目標なので、こういうのはズンと来ます。マンマにコピーしてみました。

「般若心経 新訳」の衝撃

超スゲェ楽になれる方法を知りたいか?
誰でも幸せに生きる方法のヒントだ
もっと力を抜いて楽になるんだ。
苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ、安心しろよ。

この世は空しいモンだ、
痛みも悲しみも最初から空っぽなのさ。
この世は変わり行くモンだ。
苦を楽に変える事だって出来る。
汚れることもありゃ背負い込む事だってある
だから抱え込んだモンを捨てちまう事も出来るはずだ。

この世がどれだけいい加減か分ったか?
苦しみとか病とか、そんなモンにこだわるなよ。

見えてるものにこだわるな。
聞こえるものにしがみつくな。

味や香りなんて人それぞれだろ?
何のアテにもなりゃしない。

揺らぐ心にこだわっちゃダメさ。
それが『無』ってやつさ。
生きてりゃ色々あるさ。
辛いモノを見ないようにするのは難しい。
でも、そんなもんその場に置いていけよ。

先の事は誰にも見えねぇ。
無理して照らそうとしなくていいのさ。
見えない事を愉しめばいいだろ。
それが生きてる実感ってヤツなんだよ。
正しく生きるのは確かに難しいかもな。
でも、明るく生きるのは誰にだって出来るんだよ。

菩薩として生きるコツがあるんだ、苦しんで生きる必要なんてねえよ。
愉しんで生きる菩薩になれよ。
全く恐れを知らなくなったらロクな事にならねえけどな
適度な恐怖だって生きていくのに役立つモンさ。

勘違いするなよ。
非情になれって言ってるんじゃねえ。
夢や空想や慈悲の心を忘れるな、
それができりゃ涅槃はどこにだってある。

生き方は何も変わらねえ、ただ受け止め方が変わるのさ。
心の余裕を持てば誰でもブッダになれるんだぜ。

この般若を覚えとけ。短い言葉だ。
意味なんて知らなくていい、細けぇことはいいんだよ。
苦しみが小さくなったらそれで上等だろ。
嘘もデタラメも全て認めちまえば苦しみは無くなる、そういうモンなのさ。
今までの前置きは全部忘れても良いぜ。
でも、これだけは覚えとけ。
気が向いたら呟いてみろ。
心の中で唱えるだけでもいいんだぜ。
いいか、耳かっぽじってよく聞けよ?

『唱えよ、心は消え、魂は静まり、全ては此処にあり、全てを越えたものなり。』
『悟りはその時叶うだろう。全てはこの真言に成就する。』

心配すんな。大丈夫だ。

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フィットネスの効果

先日のCareNetに「男性では心肺フィットネスの維持・向上が死亡リスクを軽減させる」というアメリカの報告が紹介されていました(Duck-chul Leeら、サウスカロライナ大学アーノルド公衆衛生学部運動科学部)。健康的な中年男性14000人を11年追跡した結果として、体重が減らなかったとしてもフィットネスを続けると心血管疾患か全死因の死亡リスクが30%減少し、心肺機能が向上した男性では40%も減少したのに対して、フィットネスが低下した人は死亡率が高くなったというのです。「フィットネスの維持または向上が死亡リスク低減に関与し、フィットネスを失った男性は体重の変化に関わらず死亡リスクがあがる。体重の変化にあまりこだわらず、単に運動を続けること自体が大切だ」という結論です。

これはまあ最近わたしも良く説明に使っていることです。とかく体重が増えたの減ったのにばかり皆の目が行ってますし、「検査データを改善させるために運動する」という世の考え方をダメだとは云いませんが、中年以降の人生にとって重要なのは細かい数値データの改善よりもアンチエイジングです。筋肉がなくなれば一気に歳を取ります。内臓脂肪を減らすために運動するよりも、若さを保つために毎日散歩をする方が、明らかに健康的だと思います。今回、それに加えて健康長寿のためには動き続けることが有効であるという客観的な事実を知ったことは、鬼に金棒です。

で、男性に絞って調査したということは、女性はそんな単純なものではないっていうことでしょうかしらん?

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たまたま?

先日、昼休みに職場の男子トイレで大便をしていました。その後に小便のために入ってきた誰か(ドアで隔てられているのでわかりませんがすぐに用をたす音がしたからあれは若い人だな)が、出ていくときに電灯のスイッチを全部切って行ってしまいました。彼(きっと彼女ではない)が用を済ませるより前にわたしがウォシュレットを作動させたから、あんな狭い空間で個室に人がいることに気づかなかったとは云わせないぞ!節電のためにスイッチを切ることは良いことだけど、自分で点けたのではないのだから、一つしかない個室のドアが使用中になっていないかどうかを確認して切るのが当たり前だぞ!

「あ、すいませ~ん。いつもはちゃんと人がいないか確認してからスイッチを切るんですけど、たまたま考え事をしてまして・・・」とかなんとか言い訳をするんだろうな。でもあれだよ、そんな人間は、絶対いつもそうやってるんだ。たまたまなんてことは絶対ないよ。自信を持ってそう言ってあげる。それはトイレだけの事じゃないよ。きっといろんなシーンで似たようなことやってるよ。こういう気配りは教えられてできるようになるものじゃないからね。

ドアの向こうにいた人間が誰だったのかわからないまま、暗闇でそんなことを考えながらズボンを直している私って・・・。そしてそのままこうやって文章にしてしまっている私って・・・。

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eGFR(後)

CKDやeGFRの意味をくわしく説明し、現時点で新たな精密検査は必要ないし、これまで通り主治医の先生に時々採血してもらってアドバイスをもらうだけで大丈夫だと思うと伝えましたが、結局最後まで彼の表情は明るくなりませんでした。あの様子では、その足で腎臓内科の専門医を受診するかもしれません。

糖尿病の診断のための75g経口ブドウ糖負荷検査もそうですが、わたしたち健診に関わる人間はこれらの値に対してやや強すぎる予防意識を持っています。だから、受診者の皆さんにかなり厳しい説明をしがちです。でもそれによってこの男性のように無用な不安感を持たせてしまうことが世に少なくないことも忘れてはなりません。健診で予備群の評価をして生活療法の必要性を説くのは、その段階から生活を見直せば将来病気を発現させずに済むかもしれないからです。生活が乱れているからこんな状態になったと云いたいのではなく、こんな状態の臓器だから大事に扱いましょうと伝えたいのです。この男性の場合はおそらく年齢相応の普通の腎機能であり、きちんとした生活管理ができていますから人生を全うするまでに人工透析になることはないと思います。なのにこんなに心配してさらなる戒律を自分に課そうとしているのはやはり本末転倒のような気がしてなりません。甘く考えると危ないことを話しながらも逆に心配しすぎても良くないことを、うまいさじ加減で説明するのがわたしたち健診に関わる医療スタッフの仕事であると自負して、日々がんばりたいと思います。

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eGFR(前)

「ちょっと聞きたいことがあります。」

すでに宿泊ドックの結果説明を他のドクターにしてもらった方がそう云って戻ってこられました、とアテンダントのお嬢さんがわたしの診察室に69歳の男性を連れてきました。「これが年々悪化しているのですが、どうしたらいいのですか?」・・・診察室の椅子に座るなり神妙な表情をした彼はそう切り出しました。彼が指差したのはeGFRの項目です。腎機能の新しい指標であるeGFRはやっと少しずつ市民権を得るようになりました。数ヶ月前には「ためしてガッテン(NHK)」でやっていたと誰かが云ってました。健診で正常だと判定されているのに人工透析になっていく人がいます。そんな人を早めに見つけ出して早めに生活改善を促したいという発想から「慢性腎臓病(CKD)」の概念が生まれました。それを数値で表すのがeGFR(糸球体ろ過量推算値)です。正式には24時間尿を溜めて測定する検査を健診で得られる数値だけで簡単に導き出そうという、とてもザックリとした計算式の値です。この男性のeGFRは54.7でした。昨年が57.2、一昨年が61.2・・・60未満を中等度CKDと診断して意識的な生活療法(主に食事療法)を促すことになります。そして50未満は一度専門医のもとで正式な検査を受けるように指示する、というのが熊本市のマニュアルです。

さて、彼の健診結果です。たしかに数値が徐々に減って、特に昨年から60を切ったので評価も厳しいものに変えられていますから、気になるのはよくわかります。でも、すでに糖尿病と高血圧と弁膜症の治療を受けている彼の場合、日々の食事療法もほぼ完璧にこなしているようで、コントロールもきわめて良好です。今以上のストイックな生活を強いる必要はまったくない様に思われます。しかもeGFRが計算され始めるよりはるか前(うちの健診を受けるようになった7年前)から、クレアチニン値はまったく変わっていませんから、変化したのは年齢だけです。 (つづく)

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気づく力

10歳までの子育ての教科書』を題材に引っぱるのは今回までにしておきます。

辰巳渚先生の「しつけ編 育ちのいい子の作り方」から、「『自分がしてほしいことをする、されたらイヤなことはしない』のが基本。昔からよく言われていることなのに、なぜか、今のこどもはできないようです。その理由は『気づく力』がないからです。(後略)」・・・説明したらちゃんとできるのに、自分からは実行できないというのは、それをした方がいいということに気づかないからだ!ということ、蓋し正論であり、とてもよく理解できます。

「なんでそんなこともわからないの?そんな常識なんてちょっと考えたら分かりそうなものでしょ!」と思うことは社会の中にはたくさん転がっています。でもおそらく、その人はわからないのです。なぜなら、それに気づくような教育を受けてきていないから・・・。気づくことのトレーニングは大人になって始めようとしても到底不可能だと思います。何が気づくべきことなのか、それ自体がわからないはずです。それこそがお母さんお父さんから子どものころにきちんとされてきている「しつけ」。常識があり思いやりがある、それは人間として最低限持っているべきこと・・・どうか、もう一度それが当たり前になれるように、世のお母さんお父さん方は頑張っていただきたい。そのために、是非ともこの本を読んでいただきたいと切に願っております。

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国語力

「自分なりの答え」が出せる子どもに育てよう~国語に必要なのは、文章力、表現力、考える力の3つですが、中でも「考える力」は欠かせないものです。(後略)・・・『10歳までの子育ての教科書』の「『国語力』の育て方編」(芦永奈雄先生)P94~を読みながら、わたしの高校時代のことを思い出しました。

夏休みの読書感想文の宿題に開高健のなんたらいう短編小説を選びました。基本的に陳腐なことがキライなので指定図書を読んで分かりきったことを書きたくなかったがための選択でした。ありがちな、後ろの解説文を引用して感想文を書くような姑息なことはせず、きちんと読んできちんと感想文を書きました。ところが、2学期の国語のテストにこの開高健の小説の一部が出題されていました。ラッキーと思いました。良く覚えているフレーズです。すいすいすいっと回答しました。ところが、半分以上が×でした。「傍線の部分の主人公の心情に合うのはどれか?」「傍線部分の言葉を主人公はどういう気持ちで言っていると思うか?」などの設問でした。赤いペケ印ばかりついた答案用紙を返してもらってもう一度考え直したけれど、どう考えても自分の方が合っている、いや百歩譲って模範解答が合っているとしても自分の答えも間違いではないはず・・・面倒くさいので国語の担当のS先生に文句を云いに行くことはしませんでしたが、あのときの理不尽なやるせなさは今でも忘れません。

それ以降も変わらずに国語は大好きでしたが、あのときから国語のテストは大嫌いになりました。

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算数脳

試験で、難しい問題にぶつかったとき、明らかに何も考えずに時が過ぎるのを待つ人がいます。対照的に、なりふり構わず何かを書いてみる人もいます。その違いはどこにあるのか?

『10歳までの子育ての教科書』で、高濱正伸先生が書いた「算数脳」の育て方という文章を読みながら、そんなことを思いました。目の前の答案用紙に向かって(あるいは回答者の席で)、考えようとする努力自体を放棄しているわけだけれど、心の中では諦めているくせに、何かを考えているフリをする習慣の若者をみていると、きっと子どもの頃からそうやって切り抜けてきたのだろうなと想像できます。自分のプライドが傷つかないように無意識の自己防衛でやっているかのように見えますが、彼らは、知識がなくて答えられないのではなく、おそらく「考える習慣」を子どもの頃につけてもらえなかったのだろうと思います。テレビのバラエティ番組で、少ない知識でもそれを何とか駆使して答えを導き出そうとする”おバカタレント”のみなさんの姿を見ていると、その違いがよく分かります。

「『算数脳』とは、目に見えない部分もイメージすることができる『見える力』と、その力を活かして解答にたどりつくための『詰める力』のことです。」(P78)・・・この脳が、小学校の頃に作られているかどうかの違いなのだろうなと思うわけです。それは決して算数や計算が得意、不得意という話ではなく、最後までやりとげる力や相手をおもんばかる力を養うことに他なりません。

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10歳までの子育て(後)

この本の冒頭にある篠原菊紀先生の「頭の使い方の基礎は前頭葉がほぼ完成する10歳で決まります。」ということばが、その小学校の方針と合致していて、とても感動しました。「人間は一般的に、9歳か10歳を境にしてものの見方がガラリと変わる」のだそうです。「脳を育てる時期に結果を求めてはいけない」(P17)の章に書かれているように、「10歳までの教育で大切なのは知識の詰め込みなどではなく、『前頭葉が10歳以降にうまく働いてくれるようにいかにいい刺激を与え、上手に成長させるか』」なのだということ・・・「小学校低学年の場合、使いやすい前頭葉を作ることが目的ですから、必ずしもすべてをしっかり覚える必要はない」ということ・・・世間で<英才教育>がもてはやされている今だからこそ、きちんとできることよりも脳の習慣付けを最優先させるべき時期だということを、世の指導者やお父さんお母さんはしっかり理解してあげてほしいと思いました。

そしてその前頭葉の成長のために学習面以上に重要なのが「安定した生活リズムが脳を成長させる」(P19)ことだということ、これが今のお母さん方にはまったくもって理解されていないのであります。神経系の発達がきちんと行われるために重要なこと=「規則正しい睡眠」「規則正しい食事」「適度な運動」・・・自分たちの生活リズムに我が子を巻き込んでいる限り絶対に達成できないこの3原則をどうやったら世の若いお母さんお父さん方は分かってくれるでしょうか?どれだけ朝寝坊しても、夜更かしがもたらす弊害は解決しません。成長過程にあるホルモン・神経系がすべてに影響を受けるのだから、是非、神山潤先生の文章を読んで目を覚ましていただいきたいと思います(P54~P63)。

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10歳までの子育て(前)

最近面白い本をみつけて一気に読みました。小説以外で最後まで読みきったのは久しぶりです。

10歳までの子育ての教科書』(アスコム)

「先生なんでそんなの読んでるんですか?」とスタッフに云われました。たしかにわたしにとってまったく縁のない、これからもたぶん縁のない内容です。でも、10歳までの子どもたちを持つ親御さんやそのご両親(じいちゃんばあちゃん)にとってはため息が出るほど腑に落ちる解説書ですので、機会があったら是非お読みください。

この本を読みながら、つい1週間ほど前にテレビのニュースで紹介されていた関東のある小学校のユニークな授業のことを思い出していました。小学校1年生から4年生までは振り仮名のない漢文や百人一首を覚えたりする時間や手本どおりの図形の組合わせを裏から見た図として完成させる時間などさまざまなことを子どもたちにさせていました。詰め込み授業だと思われがちだけれどそうではない。成長過程の彼らが幅広くいろんなことを吸収できる時期がその年頃までだから、可能性のある限りいろんなことを経験させてあげることが重要だ、と校長が語っていました。考えるということと覚えるということの両方を見事に両立させた教育だと思いました。5、6年生にはそんな授業はありません。彼らは自分の興味をもったことを自分でしっかり掘り下げる作業をします。明らかに4年生までと5年生からではその成長段階が違うのだということを意識したやり方でした。

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運動のメタボ改善効果

第66回日本体力医学会のシンポジウム記事で示された、「内臓脂肪減少効果は食事制限でも運動でも同等であるがその機序が異なる」ということについての検討結果はちょっと面白かったので書いてみます。

メタボ系男女を、食事制限群(D群)=標準体重×25kcal×3ヶ月と運動療法群(E群)=合計300分/週×3ヶ月とに分けて、何もしない対照群(C群)とデータを比較したものです(ある意味C群が存在することが一番すごいかも)。体重減少とBMIの低下はD>E>C、内臓脂肪量・皮下脂肪量減少はD=E>C、骨格筋内脂肪減少もD≧E。有酸素能(peakVO2)の改善と大腿筋量肥大はE群で認められD群ではむしろ有意に減少(除脂肪量もDだけ減少)しました。臨床データでは、血圧と中性脂肪、血糖、インスリン値がD、E群ともに低下しましたがHDL-CはE群でのみ増加しています。アディポネクチンはE群で不変でD群で増加、レプチンは両方とも減少でした。

結局、理屈通りの結果が実際に示された感じですが、これを見ていると、運動は心肺機能の改善や筋力アップによる基礎代謝の増加とHDL-Cの増加をもたらすものの、メタボを改善するのにより有効なのは明らかに食事療法である、という結論のように見えてなりません。食事療法では筋肉がなくなっていくので運動が補っているだけだ、と云いた気な感じ。やはり対照群(C群)を、「何もしない群」ではなくて「両方ともしている群」にして、両者の相乗効果の程度を検討しないといけなかったのではないでしょうか。

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体力医学

Medical Tribuneに日本体力医学会のプロジェクト研究『メタボリックシンドロームの予防・治療のための運動療法:体力医学的評価に基づく運動指針』の報告が書かれていました。

考えてみると、臨床医をしていたころ、循環器内科という、運動には縁の深い領域を専門にしていた割には「体力」などという学問にほとんど興味がありませんでした。自分がスポーツをするという点で、若さを保つバロメーターとしての「体力」には興味がありましたが、医療としては、あくまでも病気のリハビリとしての「体力」であり、アスリート的な筋肉作りや生活習慣病予防のための体力作りは医療者としては邪道だと真面目に思っていました。どうでもいいこと。それよりも病気の治療をする方がはるかに大事だと信じていました。ですから、いつの間にかそっち側の立場にすっかり入り込んでしまった自分の姿を眺めるにつけ、人生なんて不思議なものだなと思います。

記事を読んでみると、この学会、見事に痒いところに手が届くような絶妙なポイントを突く研究をしていて、とても参考になりました。とかくアカデミックさを追求するあまり机上の空論的になりがちなこういう理論ですが、たとえば「太りすぎで運動できない人や運動嫌いな人に、ジョーバ(乗馬用運動機器)やらくらくウォーク(椅子に座って自重で踏み込む脚部運動機器)やシェイキングボード(往復するプレート上に立つ水平揺運動機器)の利用でもインスリン抵抗性は改善するのか」とか、「メタボ対策は運動しなくても内臓脂肪減少効果があれば食事療法だけでもいいのか」とか、実際の現場で使えるきわめて具体的な検討を行っているところが「いいな」と思いました。

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ストレッチジーンズ

数年前、義母がわたしの誕生日祝いにジーンズを買ってくれました。ずっと穿いていたスキニー系のジーンズが古くなって穿き伸びてしまったとぼやいていたからです。でも、いただいたジーンズはストレッチタイプであるにも関わらずちょっと大きめだったので、シルエットが若干野暮ったく見えて、つい穿かないことが多くなっていました。

それを数週間前に久しぶりに穿いてみました。最近ちょっと太ももが太くなったためにスキニー系ジーンズが穿き辛くなったこともあります。ところが、これが(残念なことに)とっても穿きやすく、シルエットも意外に良い感じなんです。ピッタリ合っている、と云えば聞こえは良いですが・・・。

それで、しばらく毎日それを穿いていましたが、先日また元のジーンズに穿き替えました。以前他人に忠告していたことを思い出したからです。「服は大きくて楽なものを着ると必ずそれにフィットするカラダに成長していくから、カラダが大きくなっても新しく新調しませんように!」・・・たしかに鏡に映る姿が別の意味でちょっと野暮ったくなった気がしました。くわばら、くわばら。

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首輪

毎日、仕事から帰ってから我が家のワンコたちを散歩に連れて行きます。

「わーい!散歩だ散歩だぁ!早よ行こぃ♪早く早くぅ~♪」と云っているであろうはしゃぎ方をしながら、家中を走り回ります。そうやって散歩準備をするわたしたちをもどかし気に囃し立てるのがいつもの我が家の風景です。

ただ、そんな彼女たちが一瞬顔を曇らせて顔を反らす瞬間があります。首に散歩用のリードを巻くときです。大きな輪っかを作って後ろから首に巻きつけるわけですが、まるで首を絞めようとしているかのような恰好になります。以前はそのひもに噛みついたり首を振ったりして抵抗していましたが、最近は何もせずじっと耐えているように見えます。怖いというよりどこか屈辱感を感じているのではないか・・・彼女たちを見ながらふとそんなことを思いました。

「お父さん、どうしてもそれを巻かなければいけないの?わたしはそれがなくてもちゃんとできるよ!」・・・そんなことを訴えているように見えます。先日観た映画『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』で、首輪を付けられるシーザーが「ぼくはあのペットの犬と同じなの?」と聞いた姿を思い出しました。そのペットの犬だって、同じような屈辱を感じているに違いない。主従関係とか所有物的な関係とかとは全く違うもの・・・できたら引き綱などなして一緒に遊んでいたい、と思っているような気がしました。

ごめんな。引き綱なしでは散歩ができないんだ。もっとも、君たちは繋いでおかないと走る車に向かって飛びかかって行くから、ここでは自由にはしてあげられないんだけど。

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「生活習慣病」の治療(後)

(昨日からのつづき)

3)禁煙:喫煙は税収以外に何の価値もない物質であり、特に動脈硬化に関しては、すべてのリスクを倍増させます。正常血圧の喫煙者の心筋梗塞発症リスクは高血圧症の非喫煙者のそれとほぼ同等ですし、脂質異常のない喫煙者のリスクは脂質異常症の非喫煙者と同じです。最近は、禁煙補助薬を使用する禁煙外来の禁煙成績がかなり良くなっています。少しでも禁煙を考えている方は、迷うことなくまず禁煙外来を受診してください。

4)治療ガイドライン:糖尿病(糖代謝異常)、脂質異常症、高血圧症、肥満症などは、それぞれで「この値を超えると病気として診断します」という基準が設けられています。これを診断基準といいます。しかし、実際の治療を考慮する場合、特に薬物治療開始のタイミングを考える場合には、その病気の程度だけではなく、他にどんな病気を合併しているか、すでに生活療法をどの程度の期間取り組んでいるか、などをあわせて考えなければなりません。そのために各病気を専門とする学会が中心となって「治療ガイドライン」や「予防ガイドライン」という基準を作っています。代表として高血圧症のガイドラインの概要を図(省略)で示します。たとえば軽度の高血圧であっても糖尿病や心疾患を合併しているならただちに薬物治療を検討することになります。ガイドラインは数年ごとに改正され、新しい考え方が反映されていきます。医者が治療を考えるときには、基本的にはこのガイドラインを考慮して行いますので、参考にしてください。

(12/1「『生活習慣病』の予防(前)」につづく)

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「生活習慣病」の治療(前)

さらに調子に乗って、もういっちょ前の章・・・。ここまでが限界かしら。

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3.生活習慣病」の治療

冒頭から書いてきたように、糖尿病、脂質異常症、高血圧症などの生活習慣病は根元が同じなので、薬物治療を除けばその治療法は共通するものが多く、治療の基本はあくまでも生活療法です。またお互いがどの程度合併しているかで治療そのものの厳しさが変わっていきます。その組み合わせを系統的に示したものが各々の疾患に対する「治療ガイドライン」「予防ガイドライン」です。

1)生活療法:生活習慣病の治療の主体は運動療法・食事療法・禁煙、および十分な睡眠やストレス解除といったものであることは周知のとおりです。どんなに良いくすりが発明されても、この原則はくつがえりません。ですから、雑誌や通販などで促されている付け刃的な極端な方法に走らず、地道な生活修正を行ってください。最後の章でも述べますが、生活療法は決して戒律厳しいストイックな生き方を求めているのではなく、現代社会がいつの間にか忘れてしまった人間本来の健康的な生き方を再確認する作業ですから、この機会に自分の身体がそれに慣れるように工夫してください。紙面の都合で具体的なアドバイスは省略しますが、生活療法に王道はありません。各々が各々に合った方法を見つけだすために、いろいろ試行錯誤してみましょう。

2)薬物治療:「くすりは飲み始めるとやめられなくなるから飲みたくない」という言い方をいまだに耳にします。それは大きな間違いです。くすりをやめられる人は、適正な時期にきちんとくすりを飲み始めた人だけですし、ギリギリまで引っぱって飲み始める時期を逸すると動脈が元に戻れない状態になりますから、それからくすりを始めても増えることはあれ減ることはありません。ですから、「飲み始めるとやめられない」人は、早く飲まないと危ない人だともいえます。薬物はたしかに毒物ですので副作用などが気にはなりますが、生活療法を自分なりにがんばってもあまり改善しない人はできるだけ早くきちんとした医療機関に受診することをお勧めします。

(明日へつづく)

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「生活習慣病」の予防(後)

(昨日からのつづき)

●禁欲的にならない:何のために食事制限をして定期的な運動をしているのか考えてみてください。生活習慣病を克服するために、食べたいものをじっとがまんして、したくもない運動をやむを得ず続けている人がいますが、それは正しいやり方ではありません。世の健康ブームと国を挙げての特定保健指導のおかげで、日本全体ががまんを強いられている気がします。元気で長生きをするために、あれはダメ、これはダメ、あれをしなさい、それをやめなさい、そんな禁欲的なことばかりをやってはいませんか?自分の楽しみを取り上げて長生きを目指すのではなく、もっとおいしく食べて楽しく運動する方法を見つけ出してください。そして、生活療法そのものが楽しくなるように工夫してください。やってみると意外に面白いものです。それを続けることが「生活習慣」です。

●健診を受ける:生活習慣病の多くは「サイレントキラー」と呼ばれ、まったく自覚症状がないままに病気を進めていくのが特徴です。ですから、初めての症状が脳卒中や心筋梗塞だったり、神経障害や腎障害といった糖尿病の末期症状で事の重大さに気付くこともめずらしくありません。それはもうひとつの生活習慣病である「がん」でも同様です。「生活習慣病」の予防として重要なことは、日頃から健康に自信がある人でも、きちんと定期健診を受けることです。日頃の生活療法の成果を体重や自覚症状だけで判断することはできません。特に企業で働いていない自営業の方や主婦のみなさんは、1年に1回は必ず健診を受けましょう。

(終わり)

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「生活習慣病」の予防(前)

せっかく書いたから、一部を勝手にコピペしちゃいましょう。『健康本』に著作権が発生する前に!

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4.「生活習慣病」の予防~健康とは何か?

 生活習慣病にならないために、あるいは生活習慣病を治すために、毎日運動や食事の改善に取り組んでいる人はとても多いと思いますが、下記の4点にも是非ご留意ください。

●病気とうまく付き合う:「病気にならないこと」「病気を治すこと」が健康のための必須条件ではありません。生活習慣病は体質の病気ですから、生活療法を精一杯がんばっても糖尿病や高血圧になる人は少なくありません。それはやり方が間違っているからではありません。生活習慣病の生活療法をがんばっても生活習慣病になる場合やあまり良くならない場合は、きちんと内服治療を受けるのが一番健康的な選択です。くすりを飲んでいても、いつも活き活きとして前向きに生きている人はとても健康的に輝いています。生活習慣病は一生付き合う病気ですから、くすりを飲む、飲まないにかかわらず、病気とうまく付き合うことが肝要です。

●かかりつけ医(ホームドクター)を作る:「くすりを飲みたくないから病院に行かない」「病人扱いされるから病院に行かない」という人がいます。医療者も「この程度ならまだ病院に行かずにまず生活療法から始めましょう」という言い方をよくします。でも、わたしは「まずかかりつけ医を作りましょう」と言っています。かかりつけ医(ホームドクター)は、健康づくりのアドバイザーであり、日頃のあなたの身体の管理人です。生活習慣病の治療は基本が運動療法と食事療法ですが、動脈硬化のリスクが重積している状態では、まず本当に運動をしていい心機能かどうかの検査をしなければ危険です。またやり方が間違っていたり結果が返って悪化したりしないかは定期的に採血検査を受けてみないと分かりません。あるいはくすりを飲む時期を逸していないかとか他の病気が隠れていないかとかをいつも監視してくれる人が必要です。それがかかりつけ医(ホームドクター)です。病気のことだけでなく何でも相談できるウマの合う医者を早くみつけてください。

(明日へつづく)

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