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2012年8月

安静時心電図

「『心電図の説明だけ聞いて帰りたい』という受診者がいるのですが、連れてきていいですか?」

先日、アテンダントさんからそんな相談を受けました。あわててその方の安静時心電図をディスプレイに出してみましたが、特に何の変哲もない正常波形の心電図でした。問診内容を確認しても特に心臓を気にしているようなことは書いていません。「聞きたいのは本当に心電図のことで良いの?」と怪訝な顔をしながら、その初老の男性受診者を待ちました。

「えーと、心臓について何かご心配なことがあるのですか?」・・・探りを入れるような質問をしたところ、「今度山登りをするので、山登りをしても大丈夫な心臓かどうかを知りたいと思いまして」と。やっと合点がいきました。

ただ・・・「きょうのあなたの安静時心電図はまったく正常です。でも、これを見ただけでは、あなたの心臓が山登りをして問題ないかどうかを判断することはできません。安静時心電図には心臓の機能の情報はほとんどない、と云っても過言ではないのです。山登りやマラソンなどをしても問題ないか判断するためには、運動負荷心電図検査や心エコー検査をしてみないことにはわかりません」・・・わたしは素直にそう説明しました。

ちょっと胸がおかしくても、健診で心臓に異常がなかったから大丈夫だろうと病院を受診せずに様子を見る人が居ますが、大きな間違いです。狭心症発作を起こす人も、不整脈発作を起こす人も、安静時心電図には異常がないのが当たり前です。聴診や胸写も含めて、普通の健診では心機能はほとんどわからないと思ってください。

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決め事(後)

(つづき)

学問の世界でもそうですが、組織を系統だって大きなものに確立させるために必要なのが多くの決め事。わたしは若いころからどうもそういう”形”にこだわることが好きになれず、いつも反発してきました。

わたしの働く職場は、まだ組織が小さかったころはいつも全体を見ることができて、小回りが利いて皆が自由奔放な発想で助け合っていました。そんな活力の溢れる組織だったからこそ見る見る大きな組織に膨らんでいきました。ところが大きな組織になると、端々まで統制するためには何かと決め事が必要になります。「こんなときにはどうする」という決め事がないと皆が同じ方向をみれなくなります。うちの職場の場合は、それがとてもスムーズに移行できた方だと思います。ただ、決め事が確立すればするほど、どんどん窮屈になっていきました。「これどうしようかね」と聞けば、業務規定に則ると○○課の仕事だからその部署に行ってくれとか、ひとつの新しい発案をしたとしてもそれを皆に広げるためにはとても面倒な手続きを経なければ日の目を見ないとか、そういうことが日常茶飯事になりました。「もっとみんなで助け合うココロを持ちましょう」「そんなことくらい考えたらわかるでしょ」・・・最近になって急に耳にするようになったこれらのこと、”大のオトナなら常識”と思うようなそんなことも、大きな組織の決め事の中に当てはめてしまうとそう容易なことではなくなってしまうのです。

難儀です。わたしは”大のオトナ”ですから分別をわきまえてしまいましたが、「成熟」とはこんな窮屈な面白くない世界なのだな、と思うとココロが騒ぐことが少なくて当たり前なのかもしれません。組織の決め事の何もかもを全部左右逆に入れ替えてやりたい衝動に駆られることが、実はよくあります。

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決め事(前)

先日、家の掃除をしたときに、仏壇にあるもののほとんど全部を左右逆に並べ替えてやりました。わたしは、気分転換のためにこういうことをよくやります。仕事場の机の上だとか食卓だとか・・・何となく行き詰った感じになったとき、まったく違う目で世界を見直してみたいという衝動に駆られてよくそんなことをします。左右を逆にしただけで、目に入ってくる風景は全く違うものになって、ちょっとだけワクワクします。今回の仏壇の場合は、1年ほど前に逆にしたのを久々に元に戻しただけのことです。

仏事というものは何かと決め事が多く、うちの父方の本家などでは法事のたびに長男の嫁さんがメモを片手にあれがこっちでこれが奥でと神経質に悪戦苦闘しています。それでもご隠元さんがやってくると勝手に位置の修正を始めてしまって、彼女はこっそり落胆するのです。それを見ていると、我が家のいい加減な所作を本家のご隠元さんにみつけられたらしこたま怒鳴られるな、と思います。父の家系は浄土真宗・・・本当は仏教の中でも一番自由奔放な庶民派で、それだから日本国民の間に一番広く普及した宗派だったはずなのに、いつの間にか妙に格式を重んじてこれ見よがしの所作を奉るようになってしまいました。形なんか要らない、ココロの中で手を合わせて唱えておれば、いちいち仏前に座って畏(かしこ)まらなくてもご利益(りやく)に変わりはしない・・・我が家ではそう教わってきましたので、こんないい加減な似非門徒になってしまったのでしょう。      (「決め事(後)」につづく)

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痰が絡む

「先生、ここ何ヶ月かずっと痰が絡んで良くならないのですが何か良い方法はないですか?」

診察をしていて人間ドック受診者の方に相談されました。50歳くらいの女性の方です。「痰が絡む」ということはあまり痰が出ないのですから、とりあえず一般的な方法として口を開けて寝ない(マスクをして寝る)とか部屋を加湿するとかいうアドバイスはしました。

ただ、もっと根本的な問題があります。”本当は、絡むような痰は存在していない”可能性です。のどの奥のあたりに何かへばりついているような気がするが、咳払いをしてもなかなかすっきり取れない、というわけですが、すっきり取れない理由を、”痰が粘稠でへばりついているから”と思い込んでいるだけで、実はそこにはなにもなくて、ちょっと軽い炎症があるだけ。そこに空気が通ると刺激になって咳が出て咳払いを繰り返すのでずっと慢性的な炎症が取れないでいる、というのはそう珍しいことではありません。そうだとしたら、最良の方法は「咳払いをしないこと」なわけです。それ、できそうで当事者にとっては意外に難しい方法なのですが・・・。

夏風邪がずっと治らないままくすぶっているヒトは少なくありません。おとなの百日咳もこっそりはやっていると聞きます。いずれにせよ、すっきりしない症状があるなら専門医を受診して専門家の意見を早めに聞いてみるのが得策です。

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ことばの力

Facebookのウォールに「人生と経営に役立つ名言・格言・いい言葉」というのが送られてきます。

最近で一番気に入っているのは、元チェアマンの川淵三郎さんのことば。

「言葉で共感を得られなければ、決してリーダーにはなれない。いまの時代、黙っていても察してもらえるというのは、甘い考えだと思う。」

そんなことちょっと考えればわかるだろう。そんなことまで教えてやらないとわからないようでどうする?・・・若手スタッフに対していつもそんなこと怒鳴っている上司が居ます。なんか最近いつもイライラしているように見えますが、このフレーズを読んだときに最初に彼を思い浮かべました。”行間を読む”のナンセンスさは以前にここにも何度か書いてきましたが、熱く語るにしろクールに語るにしろ、自分の思いの丈はやはりきっちり明言してほしい。「黙って俺についてこい」も良いかもしれないけれど、でも語ってからの方がもっと確固たる成果になると思います。

PS)「情熱が強い日もあれば弱い日もある。ただ、強い日があるということは、ここで辞めてしまうと後悔につながる。サッカー選手であり続けたい。(中山雅史)」・・・サッカーに限らず、人生すべてにつながることばとして、このゴン中山のことばも、好き。

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慣れる

昨日は「掃除の日(我が家のみ)」でした。買っておきながらずっと放ったらかしていた100W裸電球を、トイレの天井に無事にハメることができました。明るくなりました。というか、電球が切れて約2か月、暗いなりに他の電気もあるのでなんとかなり、何となくそのままになっていたのです。明るくはなりましたが、今後この電灯を点けるかどうかわかりません。なくても困らなくなっているからです。

そういえば、風呂の電灯の1つが切れて、もう1年以上になります。電気屋さんが見積もりにも来ましたが何となくそのまま。2つのうちの1つが切れたのでとっても暗くなったけれど、慣れるものですね。昔がどれくらい明るかったかはすっかり忘れましたが、今の暗さで何も困りません。風呂なんてこれくらいで十分です。

人生、生きていく上で「慣れること」は大切なことです。というか、人間にはこの程度の適応力はみんな普通に備わっています。あまり、不便だ不便だと、騒がないことです。す~ぐ慣れますから。

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漢字

先日、facebookでシェアさせてもらった文章

   *************
    誰でも口から
    プラスのことも
    マイナスのことも吐く。

    だから【吐】という字は
    口と+と-で出来ている。

    マイナスのことを
    言わなくなると-が消えて、
    【叶】という字になる。
   *************

いい言葉遊びだなと思ったのですが、ある方が「でも、マイナスなことも吐かないとムリ」とコメント・・・蓋し正論。願いが叶うためにはいつも前向きに!という意味なのだと解釈しながら、弱音はたまには吐かないと生身の人間は持ちません。もしかしたらこれ、「マイナスなことを云わなくなると-が消えて【叶】になる」のではなくて、「吐くほど頑張ったらマイナスが消えて【叶】になる」ってことじゃないかな、とか思ったりする。

ふと、「口と+と-で【吉】にもなるさ!」と思いつきました。押せ押せだけでなく、強気のときも弱気のときもあるから人生はたのしい・・・だね。 

漢字は、それだけでいろいろ考えられておもしろい。

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ジャーナリスト

先日シリアで女性ジャーナリストが取材中に戦闘に巻き込まれて亡くなりました。最近は報道関係者だからといって保護してもらえるとは限らず、文字通り「命」を賭けての取材をされていたことになります。常に子どもや女性の視点から世界の現状を皆に伝えるために、という使命感で精力的に頑張っておられたと聞きます。 ご冥福を祈ります。

「少なくとも本人は覚悟の上で行ったのだから心残りはないだろうね」とニュースを見ながら妻は云いました。わたしはそれにうなずきながら、まったく違うことを考えていました。”ジャーナリスト”(ジャーナリストは事実に対する現状や意義、展望を正確にかつ客観的に報道する専門家である  by Wikipedia)~どう考えても、自分はジャーナリストにはなれないな~ということ。

まず、わたしには”使命感”がない。皆無に近い。医者としての使命感も年齢的な社会への使命感も、ない。「皆に伝えなければならない衝動に駆られる何か」が自分のこれまでの人生に一度も存在したことがない。そしてもうひとつ。真実を”客観的”に伝えきれる自信がない。使命感はないくせに、「ふざけんなよ!」という怒りの感覚が生まれるとカッカしてしまってすっかり冷静さを失ってしまう。まわりの多くの人はそれを意外がりますが、わたしは実はそんな人間です。

命をかけて使命感に駆られながら一生をジャーナリストとして生きていく姿は、すばらしいと思いますが、残念ながらわたしにとってのあこがれではありません。あまりにも自分に縁遠いジャンルの生き方だから。

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炭水化物騒動

先日、日本糖尿病学会が「極端な炭水化物制限が健康被害をもたらす危険性がある」と警鐘を鳴らしたという新聞記事が載って、またまた炭水化物制限の賛否の論議が始まりました。

活動するときの即座のエネルギー源として炭水化物に勝るものはないでしょうから、基本的に現代社会の人間が「動かない」生物だということを前提に考えられた理論だと云えます。そこが気に入らないので、ダイエットや糖尿病治療の基本としての炭水化物制限の是非論争に、実はあまり興味がありません。だから、この内容に対する意見云々をここで書きたいとは思いません。

『食欲』が動物の最大の欲求である以上、”食べ物”は理屈(栄養素)ではなく、カラダの欲するものを食べることが一番良いに決まっています。野生動物が、「カラダに良いから」という理由で獲物を探しているはずはなく、肉食動物が時々草を食(は)むのも、胃の調子が悪いからであって、栄養バランスを考えているからではないことは明白です。人間は、そこで選択肢がいろいろ得られ過ぎて、しかも欲求以上の食材を揃えるのが可能なために、気づけば偏食になっています。「健康のため」と云いながら、「バランス良く」と云いながら、どんどん偏っていっているのに気付かないのが現実です。この炭水化物騒動はまさにその最たるもののような気がします。肉食動物や草食動物が偏食か?という議論はナンセンスですが、少なくとも、カラダの欲求を根本から無視して理論で押し通そうとしている今の人間の方がはるかに不自然ではありますまいか。

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なんで?

「え、なんで? なんでなんで?」

最近のTVのマジックショーは神がかりです。まったくもって摩訶不思議の連続でタネがどうのこうのと想像できる次元ではありません。そんなマジック(手品)を見ながら、大騒ぎするタレントさんたちを見ながら、「なんででもいいじゃない!『スゴイ!』って感動しておけばそれでいいんじゃないの?」と思ってしまうのは、わたしがオヤジになった証拠でしょうか。と云いながらも、いつまでも何があっても、「なんでなんで」と大騒ぎしている若者たちのことが、ちょっと鬱陶しく感じることさえあります。

ただ、こういう場合にたとえ形だけであっても「なぜかわからない場合にはそれをそのまま放っておけない」というのは、日本の教育の成果なのかもしれません。たしかにこどものころから「物事は何にでも原因と結果がある」「何事にも『なぜ』と考える習慣をつけることはとても大切である」と、教わってきたような気がします。それがあるから、日本人の学力が高く維持できて来たのでしょう。・・・ただ、くだんの若者タレントの「なんでなんで」騒ぎは、取り立てて考えようとしているわけでもない、ただの感嘆符と同義語なのではないかとも感じます。

それは想定の範囲内かもしれませんが、やはりマジックをしている当事者にとっては、ちっとうんざりかも・・・「うんうん、そのコトバが快感!だからこそ、これやってるんだよね~」とほくそ笑むのはやっぱり「スゴイ」なんじゃないでしょうか。

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直感

朝、慌ただしい中で洗顔のために洗面所に行く。大きな鏡の前に立って自分の顔をちらっと見る。

「あれ?顔がちょっと太ったかな」と思う。

そんなとき、いつもなら気づかないふりをするためにすぐに目をそらすのだけれど、昨日は何か気になって凝視。ちょっと斜(はす)に構えたり、口をすぼめてみたり、あるいは腹を引っ込めてみたり・・・かなりしつこくやっているうちに、いつもと同じ顔に戻ってきました。「ま、こんなもんかな。きっと眼の錯覚かむくみだろ!」と結論づけて鏡から離れました。

こういうことって、ありますか?

それ、錯覚じゃありません。たぶんむくみでもありません。自分の目はわかっています。現場責任者が直感で「あれ?」と思ったことは、たとえ上司が確認しに来て「心配ない」と判定しても、絶対直感の方が正しいと思ってまちがいありません。アタマがどんなに必死に否定しても、カラダは真実を知っているものでございます。

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「ありがとう」

『ありがとう~77言語の「ありがとう」』(こたすぎ著、吉備人出版)

を、土曜日の昼下がりに、ゆっくりを読ませてもらいました。プレゼントでいただいた本です。ひとりの少女が生まれ、育ち、恋愛し、結婚し、晩年を迎えるまでに経験する多くの「ありがとう」を、穏やかな挿絵と77か国語の「ありがとう」の表現を添えて、プレゼントしてくれます。やっぱりわたしは「小雨」ちゃんの存在が好き。

  <きみに会えた ありがとう>

  雨の日に拾ったから「小雨」 
   でも食い意地がはってて
  すぐに「大雨」になりました

いつも友達で、いつも守ってくれていた小雨がだんだんと歳老いて逝ってしまいました。

  <いっしょにいてくれて ありがとう>のページを見た瞬間、なみだ。

「ありがとう」ということばの持つパワーを改めて確認できた気がします。わたしに娘がいたら絶対に持たせてあげたい本。 結婚する若者がいたらプレゼントしてあげたい本。最愛の母がまだ生きて居たら贈りたい本。とってもやわらかい優しさに満ちあふれた本です。せっかくいただいたけれど、これをわたしが持っているのは、何かとてももったいない気がしてなりません。 来週が誕生日の妻にプレゼントしてもいいかしら。

ずっとアタマの中で、”♪ありがとうって伝えたくて、あなたをみつめるけど…♪”といういきものがかりの曲(なぜか水谷千重子の演歌バージョンで)がリフレインしています。

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静止画像

「きのう○○さんが△△みたいな走り方で通り過ぎたので、みんなで大笑いした!」って話を聞いたとき、アタマの中に何が映ってる?あるいは、そんな内容を他人に話すとき、アタマの中はどうなってる? わたしの同僚2人は、「アタマの中にリアルな動画が見えて、それを見ながら説明する感じ」「他人の話を聞くとアタマの中にその光景が動画として浮かんでくる」って云うのよ。

・・・散歩の途中で妻がそう聞いてきました。彼女の友人2人はそうらしいけど、自分は「何も浮かばない」のだそうです。

「何も浮かばない、って何?」・・・思わず逆に聞き返してしまいました。わたしも当然、アタマには動画が浮かびます。目の前に映像があるからこそそれを解説できるし、他人の話を聞いて動画で想像するからこそ面白い。むしろ、妻の状況をまったく理解できませんし、彼女のアタマの中を想像することもできません。

「アタマの中に何も浮かばなくて、どうしてその光景を他人に説明できるの?文字で出てくるわけでもなし、何を見て説明するの?」~畳み掛けるように質問したので、彼女はちょっと不機嫌になりました。
「だって浮かばないんだもの。あえて云えば『静止画像』かな。一枚の止まった写真みたいなのが浮かぶことはある。でも、動画は絶対ない!」

そう聞いてもよく理解できないのだけれど、でも彼女が「静止画像を見ながら説明する」と云うのを聞いて、「だから、ときどき事実と違うことを云うのか。ちょっとだけ違うから『ウソだ』と指摘すると『そんなことない』と反論されるのは、元が一枚の静止画で情報量が少ないからだ」と、全然違うところに感動しました。

彼女のアタマの中には凡人の私たちとは違う何かが仕組まれているようです。

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お盆に帰ってくるもの

「やっとお盆が終わって落ち着いてきたようね」
薄暗くなった公園からの帰り道、ワンたちを連れての散歩中に、妻がぽつりとそう云いました。

職場が盆休みで1週間家にいた彼女はプライベートの用事で何かと忙しく動いていたので、そのことを云っているのかと思ったら、違っていました。
「わたしの周りが何かとザワザワしてうるさかったのだけれど、それがやっと静かになってきたの」
携帯やネット仲間に相談を受けることの多い彼女だから?
「そうじゃなくて・・・ほら、盆だから。あちこちの世界から帰ってきてたんじゃないの?まだいくつか残っているけど、ザワザワ騒がしかったのがなくなってきたの。わたしも何かと大変なのよ」

そのことばで、やっとピンときました。
「うちにも何人か来てたってこと?」

聞こえたのか聞こえなかったのか、その質問に答えることなく、妻は「盆が終わったねえ」と云いながら平然と歩いていきました。

父ちゃんと母ちゃん、インディくん、あるいは彼女の父さん・・・どうかな。きっともうみんな成仏してしまってるだろうと踏んでるんだけど、寄り道しにきたかな。今年が初盆の長崎の先輩はさすがに忙しいから熊本にはきてないだろうな。去年急逝した横浜のKさんとか。・・・我が家に来た来ないはどうでもいいけれど、妻のことばで皆のことを少しだけ思い出すことができました。 感謝して、合掌。

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食後高血圧

食後高血圧:見過ごしがちな動脈硬化マーカー

CareNet.comに掲載されていたこの話題。愛媛大の上谷英里氏らが報告したものですが、聞きなれない「食後高血圧」のことばに目が止まりました。食後高血糖や食後高脂血症と同様に食後高血圧が動脈硬化の指標になるのだそうです。

食後高血圧になるヒト(10mmHg以上上昇)と食後低血圧になるヒト(20mmHg以上低下)が各々10%弱みられ、どちらの場合も動脈硬化が高率に認められたそうですが、血圧の変動は食前の収縮期血圧値が高いほど大きくなるので、食前血圧で補正すると食後低血圧になるヒトの動脈硬化との関連はなくなりました。ということで、結局、食後高血圧が動脈硬化の独立した指標となる、と結論付けられています。

高血圧治療中の我が身としては聞き捨てなりませんが、さて、どうしろというのでしょう?起床時の血圧測定と同じように、時には食事をした後にも血圧を測ってみるのが、隠れた動脈硬化危険因子保有者を探し出すのに有効だ、という「ことだけなのでしょうか。食後高血糖になるヒトは高血糖にならない食べ方のコツを伝授できますけど、食後高血圧になるヒトはどうやったらそうならないようになるのか・・・前もって薬剤治療をするわけにもいかず、減塩するとよくなるとでもいうのでしょうか? もうちょっとそこのところに言及してほしいなと思った次第です。・・・あ、そうか。食後すぐに運動すると危ない、ということか!

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とにかく作る

大学時代の演劇部の先輩が、自分のブログで『脚本を書くための101の習慣』という本について言及しているのを読みました。「22人の脚本家による、書き続け、成功するための秘訣」とはつまり「とにかく書く」ことなのだそうです。

最近、講演用のスライド作りがとても面倒くさい。どうせ似たような内容しか依頼されないのだけれど、それでもまったく同じことはしたくないものだからいろいろ考える。アタマの中では、車の運転中やらゴルフの練習中やら風呂の中やらでいろいろ考える・・・このときはとてもいい案が次々と浮かぶのだけれど、パソコンの前に座って立ち上げている間にみるみる消えていきます。

むかしは、まず”おしながき”を書いていました。まるで企画書のような、話の進め方や骨子を作りあげて、時間配分まで細かく考えていました。でも今は面倒くさいので、とりあえず関連ありそうなスライドをひとつにまとめ、そこから削っていったり1枚ずつ加えていったりしなから、400枚→200枚→100枚と整理して、本番直前になんとか出来上がるという流れが常です。違う、どこか違う!と思いながらもそのまま本番を迎えるわけです。 ・・・結局、云いたいことをきちんと云えずに終わって欲求不満な日々です。わたしは「反省はするけれど学習はできない」タイプなのですが、最近は反省すらまともにする時間がとれず、終わり次第次の仕事にとりかかる・・・余裕がなくなったなあ。

そんな講演が、本日あります。”とにかく”作ったスライド192枚・・・スリムアップしきれませんでした。どうなることやら・・・。

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なでしこがくれたもの

ロンドンオリンピックが終わりました。始まる前は大して興味がなかったのに、気付いてみたら意外にも毎晩のように夜中のLIVEに釘づけでした。

このブログを始めて2回目のオリンピックです。今年の日本は過去最高のメダル獲得数だったとか。勝てるはずのヒトが勝てなかったり、予想だにしなかった選手がメダルを獲得したり・・・そんな中で、勝ったヒトも勝てなかったヒトも押し並べて清々しかったのは、4年前の北京オリンピックのときと同じ感じ(「有終の美」)かしら、と思ったけれど、どこか違っています。このオリンピックで最後の区切りをつける選手は今年もたくさんいたでしょうけれど、自分の「有終の美」のためのオリンピック、という印象があまり感じられません。

「今の自分があるのは、自分を支えて応援してくれたすべてのヒトのおかげです」とほとんどの選手が口にしました。それが妙にサマになっていました。勝負だから負けはココロから悔しいでしょう。でも終わったあとには、今自分かこの場に居れる幸せをかみしめ、その思いを日本中、世界中のひとたちに伝える術を心得ている、そんな印象でした。それが一番象徴されたのが、サッカー女子なでしこジャパンの表彰式・・・あんな楽しげな入場の仕方、初めてみたような気がして、試合の後の彼女たちの笑顔の方に返って涙腺がゆるんでしまいました。

国際的になったという感じよりも、選手のひとりひとりが「オトナになった」、そんな感じのオリンピックだった気がします。だからTVで観ていたわたしたちも「一緒に楽しんだ」感に勝手に浸ってしまうことができました。選手の皆さん、お疲れさまでした。そして多くの感動をありがとう。

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ひまわり

ぱみゅさん、きれいなひまわりの写真見させていただきました。

100万本のひまわり、おそらくあの写真ではまったく語り尽くせない壮観で雄大な風景なのでしょうね。前にも書きましたが、わたしもひまわりの花、好きです。子どものころから夏休みはひまわりが友達でした。ひまわりの、あの常に同じ方向に力強く上を向いている姿は、見る者のココロをふるいたたせ、力づけてくれますね。

でも、逆に気持ち悪くなるヒトもいます。「いくつもの目が一斉に自分をじろじろ見つめていて怖い」と感じるヒトもいるでしょう。逆の位置に立って、「皆がそっぽを向いて私から目を逸らしている、自分が無視されている」と感じるヒトもいるでしょう。ひまわりの花は集団になると、そのときの自分のカラダとココロの状態を素直に映し出してくれるのではないかと思います(100万本のひまわりに圧倒された経験がないからわかりませんが)。こっちを見る顔がニコニコ微笑みかけているように見えるか、はたまた嘲笑しているように見えるか? ココロが沈んだときに、押し上げてくれるか引きずりおろされるか。

わたしは後者のことが多い、というヒト。そういうタイプの人が最近は増えている気がしますが、そんなとき、傍らにいてそっと支えてくれるヒトが一人でもいたら・・・そしたらきっと無機質だったひまわりの花の真ん中にそっとニコニコマークが見え始めることでしょう(ちょうど最後の写真のように)。それは恋人や家族だけでなく、多くのサポートしてくれる存在・・・それは必ず居ます。ひとりぼっちだと思っているヒトたちには一時的に見えなくなっているだけ。必ずぱみゅさんのようなヒトがいますから、ココロを静かにしてゆっくりあたりを見回してほしいと思います。そしたら、ひまわり畑の中で、きっといつの間にか自分もひまわりたちと一緒に上を見ていることに気づくでしょう。となりには多くの仲間たち。

そんなことを思ってしまいました。

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経験値

今年も特定保健指導の実践スタッフ向け研修会の講師を依頼されまして、遅ればせながら今必死にスライド作りをしています。

参加者は例年、初めて健診に携わる新人スタッフや数年経験した程度の若手スタッフがほとんどです。とても熱心に聞いてくれます。必死にメモをする彼らを眺めながら、昨年の講演のときに感じたことをふと思い出しました。

みんな、若い。若いから情熱をもって保健指導や運動指導や栄養指導にあたってくれるわけですが、その情熱が有難迷惑になることもある、ということに気づくにはもう少し経験が必要です。彼らは、対象者に対して可能な限り理想的な生活を送ってもらいたいと思い、できることなら検査値をすべて正常に戻せるように努力してもらおうと働きかけますし、そのことに誇りを持っています。でも、どうでしょう。人生って、もっと幅のあるものではないかしら。彼らの理想にそぐう様にガンバル生活は思いの外大変です。本当にそんなことをする必要があるのだろうか?人生を楽しく暮らし、やりたいことをきちんとこなせるなら、別に理想にそぐわなくても問題ないのでは?・・・それを「堕落」と考えないで受け止めてほしい。わたしが循環器内科の医者として毎日張り切っていたころを思い出します。心臓病にならないために、あるいは心筋梗塞を発症した患者さんの今後のために、日々の生活はこうあるべき!と強く語ってきました。でも、ちょっと違う。自分自身が危険因子をたくさん持つ対象者になってみてわかること・・・教科書に書いてあるような理想を追い求めていると疲れ果てるし、そうしなくても人生はまあまあ支障なく平穏にいけるものです。くだんの若いスタッフもまた、自らが対象者の年齢になったころにはもっと多くの経験を積み(実生活でも指導者としても)、そのころには考え方も幅広くなっていてほしい、と願います。

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若年性高血圧

今度はCare Net.comに『高血圧の十代若者の多くが検査受けず』という記事が載りました(2012.8.8)。

アメリカからの報告で、十代の高血圧患者の増加に対してガイドラインが奨励している心エコーや腎機能検査などを行わず単に心電図検査だけを受けているだけの人が半数以上だというのです。

高血圧の影響で安静時心電図に変化が出るには長い歳月が必要です。若年性高血圧に対して心電図取ったって何も得るものはないことくらい、小児科の医者ならだれでもわかっていることだと思います。さらに若い世代の高血圧は単なる肥満だけでなく腎臓病やホルモンの病気が隠れていることは少なくなく、それからの人生が長いだけに、それを見逃すと大変なことになります。

こんな初歩的なことで報告されることを考えると、「安静時心電図を推奨しない」とわざわざ強く警告しなければならないアメリカの現状がかなり深刻であることが窺えて、ちょっとショックです。

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心電図は要らない?

先日配信されたMTPro(2012.8.3号)に載っていた記事

「低リスク者への心電図検査不要」を再表明,米指針~冠動脈疾患スクリーニングに関するステートメントをアップデート~(Ann Intern Med 2012.7.31オンライン版)

を読みました。米国予防医療サービス委員会の勧告として、虚血性心疾患イベントの10年リスクが10%未満の低リスク患者に対して、基本的にスクリーニングとしての安静時心電図あるいは運動負荷心電図は”意味がない”ではなく、”すべきでない”と云い切り、リスク中程度や高度の患者にもベネフィットがはっきりしないから”検査の推奨は行わない”と断言しているのです。つまり、症状がないときの心電図は百害あって一利なし!と吐き捨てたわけです。

たしかに住民健診などの安静時心電図が有用であるのは無症候性心筋梗塞の発見ぐらいで、ほとんど何も情報を与えてくれません。運動負荷心電図は重要ではありますが、無症候性虚血かもしれないとばかりに要精査指示を出しても、多くの場合は左室肥大や女性特有の変化です。痛い思いをしたり被曝をしたりする侵襲のある検査ではないから、やったらやったでいいのじゃないの?と思っていましたが、これで心筋シンチや心臓CTやあるいは冠動脈造影検査などといった高額な検査を受けさせられる可能性や、無意味に内服治療を継続させられたり、無駄に運動制限してしまう可能性はありましょう。

私たちが「運動禁忌」と判定しなかったときに何かが起きる危険性より、「禁忌」にしたために運動できずに生活習慣病に陥る危険性の方が高い、というのです。管理する側は何も知らないのが一番いいし、検査の必要がないと云うわけだから検査をしないで運動させて何かが起きっても責任はない、とお墨付きをいただくのは至って好都合なのですが・・・いいのかな、それで?

まあ、「健診」という文化のないアメリカの話ですが、健診に心電図がなくなると、わたしは仕事の半分程度をなくします。そうしたら、わたしはお払い箱かしら♪

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泉重千代さん

「先生はお酒を飲みますか?」・・・ある男性受診者から先日そう質問されました。

「飲みますよ」

「実はわたしは毎晩晩酌をするのですが、最近、妻や母親が『健康のために休肝日を作れ』って云うんですよ。やっぱり飲まない日を作った方がいいんですか?」

「どうでしょうね。そりゃ飲まないで済むなら飲まない方がいいのでしょうし、最近わたしも飲まない日を作ってみてますけど、別に飲まないなら飲まないでも何も困らないなと思うようになりましたよ。でも・・・結局、量次第ではないですか?毎晩、どれくらい飲むのですか?」

「缶ビール350cc1本か、あるいは薄ーくした焼酎を2杯くらいです。わたしは仕事から帰ってから飲む酒が楽しみで、今なら8時ころから10時ころまでまったりとオリンピックでも見ながら飲むのが好きなんですよね。」

「2時間かけてそれだけ? それ、飲んでいるうちに入らないんじゃないですか?」・・・最後にそう答えた、ということを家に帰って妻にこっそり話したら叱られました。「その人はあなたに相談したのが間違いだったんだよ。量じゃなくてね、肝臓を完全に休ませる日があるのが大事なんだから、保健師さんに話したら『休肝日を作れ!』って絶対云ってくれるのに」・・・だそうな。

だって、「長寿の秘訣は、毎日欠かさず飲むお酒」って、たしか泉重千代さんが云ってただろうが~! わしの飲み方はアル中かもしれないけれど、彼の場合は明らかな癒しだと確信するよ。

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ファクス

「C病院に『今から患者さんを送る』という連絡をすると、必ず折り返しでC病院の事務方から電話がかかってくるのよ。そして『患者さんの保険証番号や生年月日を○○(電話番号)までファクスしてください』っていうのだけれど、それって大丈夫なの?他人の個人情報を本人に許可もなく勝手に送ったらダメでしょ?」・・・先日、妻がそんなことを云いました。彼女は小さな小児科クリニックにパートで勤務しています。一応、その場にいる親御さんに打診することにしているそうですが、どうせ「ダメ」なんて云いません。今からお世話になる救急病院からの要請なのですから。

うちの施設はファクスで個人情報を送ることを完全に禁止にしました。ファクスは、こちらから送る先の電話番号が間違ってしまえば、まったく赤の他人に個人情報を誤送付することになるからです。人間にはケアレスミスは付き物です。間違うことを大前提にして考えないと取り返しのつかないことになりかねないわけですから。「いまどき、そんな10年以上前のようなことを要請する病院なんてあるの?」とわたしは呆れました。事務方としてはすぐにカルテを作り上げたいから、という理由であることは分かっていますけど・・・。

「それのもっとも問題なのは、相手が本当にC病院の事務方だということをだれも保証していないことなんじゃないの? なりすましができちゃうじゃない?」・・・だよね。いいのか、それ?

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ナッツとコレステロール

Medical Tribune 2012.8.2号を読んでいましたら、

「脂質異常症に対する食事療法~コレステロール低下作用あるもわずか~」という記事が目に留まりました。LDLコレステロール値を下げるには薬剤を除けば食事療法しかない、と信じていますし周りにも云って回っているわたしとしてはスルーできないタイトルでした。

食品により血中コレステロール値が低下する作用機序は、「食品に含まれる物質により腸管でのコレステロール吸収が低減される、あるいは胆汁酸の排泄が促進されることで、肝臓での脂質代謝に影響が生じる」と説明されていました。植物スタノールや植物ステロールの含まれるマーガリンやヨーグルト飲料を取るとLDLコレステロールを6~15%低下させるのだそうな。まあこの物質はまだ何かとアンチテーゼも多いのでわたしはあまり薦めていませんが、飽和脂肪酸を減らすとLDLコレステロールは8~10%低下させるとか、ナッツ類の摂取を増やすと2~19%低下させる(同時にHDLコレステロールを上昇させる)とかいうのは、知っています。カカオを摂取するとLDL5%低下+HDL10%上昇させる。大豆の摂取量を増やせばコレステロールを5%下げる・・・なんだい、良いことばかり書いてあるじゃないか♪

「それには、1日50~100gのナッツを週に最低5日以上摂取しなければならない」・・・その云い方がちょっと後ろ向きっぽいのですが、わたしなら簡単にできます。豆腐とナッツだけ毎日食え!と云われても全然困らないんだけどなあ。

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子育て四訓

心の教育実践交流研究会のfacebookにアップされた四訓。もはやわたしには使う機会がないかもしれませんが、こういう良いことばはできるだけ多くの方の目に触れるようにしてほしいと思います。世のお父さん、お母さん方・・・云うは簡単だけれどなかなかするは難しいことばかり。でも、心の中にしっかり持っておけば、きっとお子さんの心には伝わるものだと思います。

    子育て四訓

  乳児はしっかり肌を離すな

  幼児は肌を離せ 手を離すな

  少年は手を離せ 目を離すな

  青年は目を離せ 心を離すな

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水俣学

水俣病のために人生をささげた原田正純先生の最後の姿を見ました。自ら白血病と闘いながら「自分が水俣病を知ってしまった責任」として最後まで闘われました。

「九州沖縄特集『医師 原田正純 未来への遺産』」(NHKーG)

「医学は中立でなければならない」というのは力関係が同じものに対して言う言葉。圧倒的に一方の力が弱い場合に「中立である」ということは強いものの味方をするということに他ならない。・・・重いことばとしてわたしのココロに響きました。わたしが熊本大学に入学したときから、「水俣病=原田正純」の名を知っていました。「あいつは変わり者だ」「彼は医学者ではない」と批判する先輩たちのことばを何度も聞きながらも、医者のやるべき仕事はむしろ原田先生の姿なのではないかと思ったことと、それを面と向かって口にできなかった弱い自分の姿を思い出します。医学者が医学の観点でのみ「水俣病」を語り、基準を満たすか満たさないかで「水俣病」かどうかを決定する・・・情に左右されず科学の目で厳しく判定する・・・ちゃらんぽらんな医学知識しかないわたしはそのことばに反論できずにいましたが、この番組を見て、急に霧が晴れました。

「水俣病は病気ではない。『病』と名前を付けてしまったことが悲劇。水俣病は犯罪であり殺人行為なのに、それをすべて「医学」に丸投げしてしまったことが最大の過ちだった」。

わたしたちの先輩は、強い信念で圧倒的弱者のために生涯を捧げてきた、偉大で優しいまなざしを最後まで絶やさなかった方でした。何もできない無力な後輩として、その存在を知れたことをただただ誇りに思います。

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甘いものが好き

「最近甘いものがどんどん好きになって、食べずにはおれないんです。甘いものを食べないようにしないといけませんよね」・・・糖代謝異常を指摘されている方、特にまじめそうな女性の方が良くそんな発言をします。

さて、その発言に対して健診スタッフの皆さんはどんな回答とアドバイスをしているのでしょうか?よもや「甘いものをがまんするコツ」とか「甘いものを食べないですむ方法」とか、そんなことを話してはいないでしょうね?

糖代謝異常の体質では甘いものが好きなのは当たり前です。もともとサバイバル系の遺伝子、何も食べなくても生きていける体質があり、目をつぶってそこいらの食材に手を突っ込んでも必ず一番高カロリーの甘いものを手にできる才能があるのです。そうやって生き延びてきた遺伝子系なのです。そんな人たちにアドバイスするわけです。甘いものは食べて当たり前。甘いものを食べないがまんのしかたの提案は意味がないのです。ぜひとも、「大好きな甘いものを美味しく食べるときにどういう形で食べたらうまく食後高血糖にならずにすむのか」という工夫のしかたのポイントを教えてあげてほしいのです。好きなものを禁止するのではなく、好きなものをうまく食べる方法を提案できるのがプロフェッショナルというものでありましょう。

管理栄養士の皆さん、よろしくお願いします。

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背もたれ

うちの施設の診察室に2種類の椅子があります。医者用と受診者用です。何が違うかというと、背もたれの高さです。医者用の方がきちんと背もたれがあり、受診者用は形だけの小さな背もたれ。

初めてそれをみたとき、わたしはちょっと不愉快になりました。この椅子を使うことを決めた事務方が、お医者様用に立派なのを選んだのだと思ったからです。きっと受診者の皆さんもそう思ったでしょう。「自分のには背もたれがないのに、先生のにはある。普通、お客さんの方に良いのを使うのがおもてなしだろうが!」と・・・。

でも、そんな理由ではありません。医者用に「背もたれがある」のではなく、受診者用の背もたれを除けたのです。本来は背もたれのある椅子が標準で、そこから背もたれを除けた・・・なぜかと云えば、座ったままで椅子を回せば、そのまま背中の聴診ができるから。それだけのことです。良く細かいところまで考えているんだな、と感心しました。

こういう、知らないと誤解してしまうけれど真実をしれば「なるほど」と思うことって、世の中にはたくさんあります。なかなか難しいことですが、可能な限り、できる説明はきちんとした方が良いなと思う次第です。ま、この背もたれのくだりは、説明する機会はほとんどありませんけど。

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歳をとるのはタイミング

バス健診の診察をするとき、わたしはこっそり年齢当てクイズをします。大体当たるようになりましたが、30代後半~40代の女性の方は暦年齢より高めに、60歳を過ぎると逆に暦年齢より若く見みてしまうことが多い印象があります(男性はほとんどまちがいません)。

歳をとるタイミングはいつなのでしょう?年齢は連続性のものなのに、きっとどこかのタイミングで加速度的に歳が進むに違いないと思います。たとえば、こどもが生まれたとき、仕事を辞めたとき、仕事で昇進したとき、部下ができたとき、子が結婚したとき、孫ができたとき・・・いつの間にか年齢相応の風貌になり、年齢相応の髪形になり、年齢相応の話し方になり・・・。

おかげさまで、子がなく、出世に縁がなかったわたしは、歳をとる区切りを経験しないままに何となく今にいたってしまいました。ココロの若さの維持がアンチエイジングだ、というと聞こえは良いですが、カラダの老化の割にココロがいつまでも幼稚で分別がないままであるのがちょっと玉に瑕。いつまでも職場の若いスタッフと同じままでいると勘違いしているわたしは、彼らにとっては迷惑千万なことでしょう。

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汗かきの言い分

「こんなに涼しくなったのになんでまだ汗かいてるの?」

炎天下の道を歩いたあとにスーパーの食品売り場に入ったとき、ハンカチで噴き出る汗を必死で拭いているわたしに、妻が苦笑いしながらそう聞きました。

ほとんど汗をかかないあなたにはわからないかもしれないけどね、汗かきのひとの汗というのは涼しいところに入ってから本格的に吹き出すものなのよ。上がってしまった体内の温度を下げるために汗をかくわけですよ。体表面が冷えたら一瞬「涼しい」とは思うけど、その分毛穴が閉まっちゃうから体内の温度が発散できなくなるわけじゃない。反動で一気に毛穴が開いて、どどっと汗が滴るようになりますのよ。さらにガンガン冷やしていただいて、初めて汗は引っこみます。

昼休みに運動を再開させて、一番困るのは汗が引かないこと。自転車通勤をしていたときに一番困ったのも着いてから汗が引かなかったこと。むしろ、外で「暑い暑い」といってたのにスーパーに入った途端に汗が引っ込む妻の体質の方が理解できませんし、夏場はかえって危険なんじゃないかと懸念します。東京に居たころ、クーラーの効いた通勤電車の中で降りるまでずっと汗を拭いていたわたしは、いつも奇異の目で見られていました。

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