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2012年9月

「産まれた理由」

11月に東京の劇団が公演するドキュメンタリーシアター『;産まれた理由』の取材として、劇団員で大学時代からの同僚であるOくんが先日我が家にきました。不妊治療を始めるきっかけから治療をあきらめるまで、そしてこれからのこと・・・約1時間半に渡ってその大部分を妻が語ってくれました。

途中で2回の妊娠と流産や掻把を受けることになったときの誰にも打ち明けられなかった気持ち。産婦人科の待合室や診察室の中でのわたしも知らなかったいろいろな思いを、彼女は淡々と語りました。取材の翌日にOくんがよこしたお礼のメールには、「奥さんの笑顔の奥にどれほどの試練が隠されているか。『女は常に戦ってます』ということばが、ダラダラ人生の私にはイタギツイというか、神々しいというか。」・・・わたしもまた、となりに座って話を聞きながら同じように感じていました。

今世のわたしたち夫婦に与えられた使命が何なのかわかりませんが、今一度当時を思い出しながら、「生きること」自体を考え直す時間になりました。

「主人から聞きました?あ、まだですか?実は最初の子(枯死卵のまま掻把することになった)がダメだった後、家を建ててイヌを飼いました。町田のブリーダーさんのところで、ブリーダーさんが自分で育てるために隠していた子に一目惚れしてその子をもらいました。その子が我が家に飛行機でやってきた後に名義変更した血統書が届いたのですが、それを見てとても驚きました。その子の生まれた日は、私たちの子どもが生まれるはずだった予定日と同じ日だったんです・・・。偶然かもしれませんが、わたしにその子が生まれ変わりとしてわたしたちのところに来てくれた天使のように思えてなりませんでした。」

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いいね!

Facebookは自分が承認した友人知人だけがつながっているからか、2ちゃんねるやブログなどと違って、優しいコメントがほとんどです。わたしがfacebook初心者で、数十人のプライベートのお友達しかつながっていないからかもしれませんが、でも、わたしとつながっている人たちのアップした記事に寄せられる彼らのお友達からのコメントをみても、真っ向から否定したり批判したりしているものは見当たりません。

そんなコメントを読んでいると、2つに大別されることに気づきます。ひとつは、「すごい!」「すばらしい!」「そうだね」「がんばれ!」といった、励ましや褒めことば(肯定のことば)。もう一つは「でもこんな可能性も」「これから注意せよ」「まだまだ」などといった不安や忠告のことばです。どっちも相手を思ってのことなのだろうけれど、見るからにポジティブと見るからにネガティブとまったく逆のことばなのです。

前者には単なる褒め倒しや「いいね!」だけでは失礼だからという心遣いもあるのでしょう。後者は気心知れた仲間内の冗談もあれば単なる心配性も含まれていましょう。でもまあ、2つを比較すると、それがどれだけ白々しい云い回しであっても、やはり「いいね!いいね!」と云ってくれる内容の方がうれしいものです。人生は常にポジティブであるのが良いらしいから、それを考えると、いつも心配性でなんでも「でもね」という、と常日頃から妻に注意されているわたしなんかは、わざと「褒め殺し」文章だけを書き込むようにした方がいいのかもしれません。

ま、また再開してからのはなしですけれど。

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中毒

今、facebookの投稿を止めています。1年前にあれだけ拒否していたfacebookだけれど、自分が承認した人としかつながらず、自分の素性をしっかり知っている人にだけ情報発信するので、不特性多数に発信するブログや不特定多数に近いtwitterに比べると気が楽でとても居心地が良くなってしまいました。思いついたらそのときに発信、という気軽さで、しかも仕事の参考になる情報もリアルタイムにシェアしていただける。至れり尽くせりです。

ところが、ふと気づくと、朝起きたときから床に就くまで、仕事の途中も含めて時間ができるたびにfacebookページにアクセスしている自分がいます。「お知らせ」マークがついていないかチェックするためです。「お知らせ」マークがついていれば誰かが自分の記事を読んだか自分がコメントを書きこんだものに何かリアクションしたことになるのです。最近は、友人がアップした新しい記事よりも自分の記事へのリアクションだけが気になるようになり、気づけば次から次へと新しい記事をアップするのに必死になっていました。「リアクション依存症」とでも云いましょうか。その快感はおそらく麻薬中毒などと同等なのだろうと思います。「最近facebookを開けるといつもおまえの笑い顔の写真だけが延々と並んどる」・・・複数の友人にそう云われてやっと正気に戻った、という感じです。

Facebookを開けても「お知らせ」マークが何もない状態、何度行ってもほとんど記事に変化がない状態・・・わたしの今のお友達数から考えれば、そしてその年齢層や仕事を考えればこれが当たり前なんだと思うものの、強烈な物足りなさを感じています。それでも、やっとそのストレスを乗り越えつつあるところです。

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困ったことに

「太ってきた理由は、春に腰を痛めてから運動しなくなったからです。」
「ここ2週間、宴会が続いたから太ったんですよね。」

・・・思いのほか太ってきたときの理由づけは大体この2つに集約されます。そんな自己解析を聞いたら、イケズなわたしは必ずツッコミを入れます。

「運動しなくなって太る理由ははっきりしています。運動しないのに食べる量が変わらないからです。」
「宴会に行ったからといって飲み食いし過ぎなきゃいけないわけじゃないんですよ。」

・・・云われたひとは皆さん苦笑いします。それがなかなかの快感なわけですが、困ったことに、最近急に太ってきたわたしはその原因をここ2週間ずっと宴会ばかり続いたせいだ、と確信してしまっています。昼休みの運動を毎日続けるようになったのも太りだした原因かもしれません。

いやただ、「宴会に行ったからといって飲み食いし過ぎなきゃいけないわけじゃ・・・」と一人ツッコミできるかと云えば、できはしません。宴会にいって目の前のものを我慢するなんて・・・そんなことするなら最初から行かんわ!と断言してしまうわたし。「宴会でついつい食べ過ぎたら、翌日に修行僧になれば良いんです。食事療法は2日単位で考えましょう」というのを思い出しながら、気付かなかったフリ・・・んなことできるもんか!酒飲んだ翌日は食欲が増すんだい!それが人間のサガなんだい!と、ほとんど暴走気味。

困っもんだ。

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東京ステーションホテル

東京駅丸の内駅舎のリニューアル完成と、中にあるステーションホテルの新装開業のニュースが昨日のテレビで流れていました。

東京駅のステーションホテルか・・・「懐かしいなあ」。私たち夫婦が3年間の東京生活を終えて熊本に荷物を全部送った日、奮発してここに泊まりました。当時から幾ばくかの修理をしていたと思いますが、有名な文人たちが泊まったという古い歴史の込められた感満載のホテルに泊まりながら、東京生活も今日までなんだなと感慨深く思ったことを覚えています。

私は石神井公園から虎ノ門まで電車で1時間かけて通うサラリーマン生活でしたが、当時働いていた職場はその分野の最先端として日本をリードしていた部署でしたので毎日がとても刺激的で、それなりに楽しい東京生活でした。一方妻にとっては、初めて九州を出て、友人もいない話し相手もいない一人ぼっちのアパート生活でパニック障害を起こし(当時はその概念すらなかったから大変でした)、楽しい思い出より苦しい思い出の方が多かった東京生活だったかもしれません。

それも遠い昔。すでに今の東京は私たちの知っている東京ではなくなってしまいましたが、東京ステーションホテルという言葉を聞くだけで、当時の空気感と当時の生活のなにもかもがそのまま思い出されてきました。「懐かしいなあ」・・・昨日は二人でステーションホテルのいろいろを思い出しながら語らいました。もう20年も前のはなしです。それにしてもこんな高級ホテルじゃなかったのになあ・・・なんかちょっと残念。

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信用

先日、熊本でサッカーの試合を観戦しておりました。わたしたちの目の前で両チームの選手たちが競り合っているうちにボールがタッチを割りました。その目の前に立っていた線審がきっぱりと攻め込んでいるチームの方向に旗を上げました。ところが、遠く後方から見ていた主審がその後に笛を吹いて、反対側チームの方向に手を挙げたのです。観客席がざわざわとし始め、覆されたチームのサポーター(わたしたちですが)の大ブーイングの中で試合はそのまま粛々とすすめられました。

最近、Jリーグの試合でよく見かけるようになった光景です。プレイの目の前で見ている線審の判定を真っ向から覆す主審の自信って何なのでしょう?自分からはそう見えたから、という理由だけなら線審は存在価値がありません。自分に自信があるとかないとかそういう問題ではなくて、この行為はつまり自分はお前をまったく信用していないぞという強い意思表示にみえます。そこに信頼関係は存在しませんしその後も生じることはないでしょう。案の定、その後、線審は明白なジャッジでも主審が意思表示するまで旗を動かさなくなりました。まあ当たり前のことです。

日常の社会においてもこういうパターンをよくみかけます(実はうちの職場でも見かけることがあります)。あまりに露骨なので気の毒に感じるのと、それはそれで秩序を持ってことが進むのですが、上司と部下の間に信頼関係のない構造のもとで発展的な仕事ができるとは思えません。サッカーの場合はその試合だけガマンすればいいです(その試合の選手たちとサポーターはたまったもんじゃありませんが)が、日常社会では・・・。傍で見ている人間をなんか暗澹たる気分にさせます。

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ブルーライト

♪街の灯りがとてもきれいねヨコハマ~♪ ブルーライトヨコーハマ~♪

昭和の人間は「ブルーライト」と聞けば必ずこの歌を口ずさみますが、LEDの普及が一気に進んだ昨今、ブルーライトの液晶画面が巷に溢れています。一日中スマホを操り続けているうちの妻も、毎晩寝室の電気を消した後までもベッドの上で青い明かりにうっすらと顔を照らしながら魅せられたように何かを打ち込んでいます。

以前は、部屋の明るさが一定以上ないと目を悪くするというのが常識で、薄暗い中での読書などはご法度でしたが、今は文字側自ら光を発するから周囲が真っ暗でも目の影響は少ない、と云われています。ところが、老若男女を問わずみんながみんな一日中ブルーライトに浸っている現在、その弊害が思いの外大きいことを問題視するようになってきたのです。

ブルーライトは紫外線に近い波長の高いエネルギーを発しています。散乱/屈折をするのでピントのズレや色ボケが生じやすくて瞳孔反射を過剰に誘発するので他の可視光線より眼精疲労が起きやすいのだそうです。パソコン作業する人がブルーライトカット眼鏡をかけるかかけないかで眼精疲労の程度が全く違うというデータが続々と出始めています。単なる眼精疲労だけですむならまだしも、網膜へのダメージの蓄積は黄斑変性症の進行に関係する可能性まで示唆され始めています。またメラトニン分泌には確実に影響を与えますから、体内時計(日内リズム)が狂いやすくてうつ病や睡眠障害をもたらす可能性も懸念されています。

ラインやモバゲーなどでスマホ命のみなさんも、見たくもないのに仕事で一日中パソコンに対峙しなければならない皆さんも、今年発足した『ブルーライト研究会』の発信する情報は注意してみておきましょう。

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「日本ポジティブサイコロジー医学会」

人間の持つ強さやしなやかさの本質を解明し、心身の健康の維持や疾病予防につなげようと、「日本ポジティブサイコロジー医学会」なる学会が発足した、という記事がCare Netで発信されました。

ポジティブ思考で健康に、医師らが学会設立-心身への影響を医療面から考察

記事の中で坪田一男先生(もうわたしの中では超有名になってしまったアンチエイジングの申し子、と申しましょうか、「ごきげん」教祖といいましょうか)が話しているように、「幸せだから健康になる」の発想とその研究データは最近になって次々と発表され始めています。

「健康だから幸せになる」はわかるけれど「幸せだから健康になる」なんてことは”科学的ではない”・・・世の医者や科学者と称するひとたちは必ず口をそろえてそう云いながら眉をひそめます。医学の世界が学問としてそれを認めるかどうかは、科学的なEBMの要素が必須条件なようで、それができるまでは眉唾物のまじない扱いされます。ほんの5年ほど前にはわたしの同僚や先輩方が”いかがわしい学会”扱いしていた『日本抗加齢医学会』にしても、完全に時代を先取りした感のあるこの学会の考え方=予防医学がこれからの医療を担う、が市民権を得てきた理由はやはり会員の先生方の積極的な研究と発表のおかげでしょう(わたしはEBMと称する統計学的な確率論の方がはるかに危ない考え方だと思っているのですがまあそれは追々)。

最近は専門領域を縦に深く掘り下げていくマニアックな学会よりも、他の分野やいろいろな職種のひとたちが横につながって「人間全体の幸せを探る」考え方の学会が増えてきている感じがして、好きです。本学会も良い成果を出すことをとても期待しています。実は、勢いで入会手続きをしてしまいました。

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部下の目

わたしって、自分に自信がないのだろうなとつくづく思います。まあ、「自信がある」と云わせる材料なんて何もないのだから当たり前と云えば当たり前ですけれど・・・。

むかしから、自分の言動や行動を上司がどう受け止めて評価するかということにはほとんど興味がなかったわたしは、わりと平気で上司に食ってかかってきましたし、彼らの顔色を覗き見る感覚は滅多にありません。

なのに、部下に対して極端に自信がなくなります。部下の目が怖くてたまりません。彼らは若いけれど大人だから、敬意を表してくれている顔はしていますが、内心どう考えてるのだろう?「エラそうなこと云ってるけど、大したことないじゃないか」なんて思っているのじゃないか?本当にそんなことが気になってうつむいて仕事をすることが何度もあるのです。思い出すと眠れなくなるときも・・・。

きっと、こうやって人間はうつ病になっていくのだろうなと思う次第です。自信なんて簡単に生まれやしないけれど、まあできる限り気にしないようにがんばってみましょう。ふてぶてしいいい加減さが自分にあったらなあ、と無いものねだりすることしきりです。

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ワンズのアンチエイジング

我が家の14歳になる老犬ベルは、散歩のとき以外はいつも寝てばかりいます。耳も聞こえなくなってきました。歳取ったなあと思います。そんな彼女自身は、自分が歳を取ったと感じるタイミングっていつだったのだろうか?・・・先日、スヤスヤ寝息を立てている彼女を眺めながら、そんなことをふと思ってしまいました。

実は、彼女は4年前までは小娘のように飛び跳ねていました。彼女の父親犬が今の彼女の歳に肝腫瘍で亡くなるまで、父ちゃんに見守られながらいつも好き放題にちょっかいを出して回っていました。

彼女は生まれたときから父親が一緒だったから、「突然ひとりになると一気に歳を取るのではないか?」と心配したわたしたちは、父親が亡くなった5か月後に再び町田からベイビー犬をもらいました。思うに、ベルが一気に歳を取り始めたのはその頃からのような気がします。最初は勢力争いをしていましたが、徐々に表立った争いがなくなり共存が始まりました。その頃から、あんなに小娘だった彼女が急速に分別ある大人に変わったのです。自分より年上と一緒に生活しているといつまでも若くいられるのに、はるかに年下の者と生活すると、若さとはどういうものなのかを思い知り、自分の大きな錯覚に気づいてしまうのだろうか? それはつまり、彼女を歳取らせた張本人はわたしたちなのではないか? 悪いことしたのかなと自責の念に駆られています。

そして、「分別はアンチエイジングの最大の敵」は人間にも云えることだな!と、そう痛感するのであります。

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内因性心臓死

6月に急逝した男性の話をここに書きました。亡くなる数日前に健診を受けているのに悲劇を未然に防ぐためのアドバイスももらえないのなら、健診なんて何の意味もないのではないか!・・・先日、故人の奥さまからそんな疑問を問いかけられ、わたしは初めて奥さまと40分ほど電話でお話をしました。心筋梗塞の半分以上は前触れがなく、節制していても突然起きるものだということは理解していただきましたが、救急車が担ぎ込んだ基幹病院でもらった死亡診断書の直接死因の欄に『急性心筋梗塞』ではなく『内因性心臓死』と書かれたことが納得いかない、と訴えられました。

『内因性心臓死』~脳が原因ではなく、事故や外傷などのはっきりした原因がなさそうな場合に状況証拠的につけられる診断名。直接は急性心筋梗塞や不整脈がその内容の大部分ですが、断定ができないという意味なのでしょう。彼の場合は、おそらく心筋梗塞が起きていたこと(Aiに準ずる検査も受けたそうです)に間違いないでしょう。でも剖検を受けていないのであくまでも推測の域を脱せず、それが直接死因であると断定できないから担当医は『内因性心臓死』を選んだのだと推測します。

わたしたちは「内因性心臓死(内因性急性死)」と「急性心筋梗塞による急死」はほぼ同義語だと認識しています。だからどっちでも大差はないではないかと思っています。ところが、生命保険の世界では、「内因性心臓死」と「急性心筋梗塞」は別物です。三大成人病=ガン、心臓病、脳卒中・・・その中の「心臓病」の中に、「内因性心臓死」のことばが入ってないようです。だから、保険金の額がまったく違うのだそうです。内容が同じなのに、使う用語が合致しなければ保険はおりない・・・だからといって真実を曲げる必要はありませんが、理不尽な現状であることをわれわれ医療者は知っておくべきだと感じました。

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糖負荷試験

健診で「正常高値」の方、あるいは「家系に糖尿病の親戚がいる」方は、糖代謝異常(インスリン分泌不全)の体質をもっている人が多いので、若いうちから健全な食生活をするように心がけましょう!

10年以上に渡ってわたしはあちこちでそう云って回りました。テレビなどでも最近はそんなことを云っているようで、最近、糖負荷試験を受けたがる人や子どもに受けさせたがる人が増えてきたように感じます。特定健診の「正常高値」の導入も、そういう人は機会があれば糖負荷試験を受けることを勧めるというニュアンスがあるようです。

でも、わたしはそのことに疑問を感じています。母親が糖尿病だ、または健診で正常高値だ、とうことは自分も糖代謝異常の因子を持っている可能性がある。「だから検査を!」ではなくて、「だから健全な人生を!」でいいのじゃないのかしら?糖負荷検査を受けてどうしたいのだろう?インスリン分泌能まで評価して自分の体質に白黒つけて、自分が「健康的な人生を送らないと病気になる」宿命なら諦めるけれど、そうでない限りはもっと毒を食い尽くしてゴロゴロして吸えるだけのタバコを吸って一日中酒浸りで居たいんだよ!って思っているヒトならやむをえません(もっとも、そういうヒトは糖代謝異常の体質がなくても糖尿病になるでしょうけど)が、普通にゴキゲンな人生を送りたいと思っているだけのヒトであれば、単に「血糖を跳ね上げない食事の仕方をしよう=味わっておいしく食べよう」と云われていることにトライしておけばいいのではないのですかしら。

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心配しなくても、糖尿病になります。

「母が糖尿病なので、自分も糖尿病になりはしないかと、とても心配だ」と考えているヒトは男女を問わずたくさんいます。最近のテレビの健康番組や健康雑誌のおかげでしょう。

そんな方には、「心配する必要はありません。たぶん糖尿病になりますから」と素直にそう云ってあげることにしています。それがわたしのやり方です。これまでにも何度も書いてきました。糖尿病家系のヒトは普通に過ごせば糖尿病になる。高血圧家系のヒトは普通に過ごせば高血圧になる。たまには例外もありましょうが、大部分はそうなるのですから、「自分は糖尿病になるんだな」と思っておいた方が無難ですし、素直にそう信じた方が人生設計をしやすいと思うのです。

境界型糖尿病(耐糖能異常)→「自分はまだ異常ではない」と思っているからこの”異常値”が気になる。「自分は糖尿病だ」と思ってしまえば、とてもエクセレントな素晴らしいコントロールができている糖尿病だということになるのですから、そりゃ後者の方がポジティブに生きて行けましょう。オドオドせずにもっとゴキゲンな人生を過ごしましょう!

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スマートダイエット(続)

本書の第1話「なぜ減量が必要か」にも、わたしたちのような予防医療に携わる人間たちにとってとても重要なことが書かれていて、ドキッとしました。

「『やせているからよいというわけではないですよ。適度に筋肉がつき、脂肪がついている体こそ健康的なのですよ』なんていっている人がいるかもしれません。でも、自分自身については『二の腕のたるみが・・・、わき腹のお肉が・・・、もっとやせたい!』と心の中では叫んでいるかもしれませんね。・・・」

「私たちは、やせたい願望をもっている標準体重あたりの人に対して、『あなたは現在の肥満基準を上回るほど太ってはいないからやせる必要がありません』とは、極力いわないようにしています。相手が人間である以上、減量(健康・体力づくり)指導を行う前に、まずその人の考え方や希望を共有することが必要だと考えるからです。」

どうでしょう。とても大切なことのように思います。BMIではやせる必要がなくてもそれは「病気になる確率が低いからやせなくてよい」という理屈ですし、徐々に筋肉が落ちて体重が増えている人に「やせなくてよい」というのが本当にいいことか?ということ。運動や食事の改善に取り組んむために行動を起こす目的が、メタボや肥満症といった病気の治療が最優先と考えず、同等の位置に美容のために健康的にスリムになりたいという願望を満たすこともあってもいいのではないでしょうか。

この章の最後に総括されている文章が好きです。

「減量とは、『病気にならないようにする』や『病気を治療する』ためだけに行うものではなく、運動やスポーツを楽しみ、人生を有意義に過ごすための手段(方法)の一つと考えてもよいのではないでしょうか。」

同感です。

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スマートダイエット

「プロの知識・プロの技術シリーズ2『スマートダイエット』~メタボリックシンドローム予防・改善のための減量指導」(田中喜代次他、公益財団法人 健康・体力づくり事業財団)を読んでいます。

スマートダイエットシステムというのは、「減量(適正体重管理)への確かな行動変容を支援する安全で効果的な実践的教育システム」で、筑波大学の研究成果から開発された「スマートダイエット(SD)理論」に基づく減量教育プログラムなのだそうです。3ヶ月間のプログラムで確実な成果をあげているシステムだそうですので、特定保健指導や健診事業に関わる皆さんや当事者の皆さんは是非実践してみてください。

内容については興味のある方が勉強していただくとして、この本の冒頭、「はじめに」に先生方が書いてある『スマートダイエット』の命名の由来の解説が「いいね」と思ったので紹介します。

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”ダイエット(diet)”の意味は、もちろん”やせること””食事を減らすこと”ではなくて、”食事または食行動”です。”スマート(smart)”は”細身(slim, slender)”の意味ではなく、”知的な、賢い、抜け目のない、洗練された、要領のよい”と云う意味。つまり、「『賢くやせましょう』、『知的センスを生かしながら、上手に食べて健康的にやせましょう』といった意味を込めて”Smart Diet”と命名したわけです。」と。
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ところで、インターネットで探していて見つけた、これって、同じモノなんですかね?

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イシによる

「はい、それでは次は先生の診察を受けてください。」

健診の流れの中で、あるいは病院で、むかしから良く耳にする病院スタッフの云い方ですが、この「先生」という用語を身内の人間に付けるのはおかしい(尊敬語の誤用)ということで、最近は意図的に使わない施設が増えてきました。わたしたちも学生の臨床実習のころから「先生」と呼ばれなれているから名前の一部的な感覚だとは云え、まあ使わないことに越したことはないな、と思っています。

ただそれを、「次は医師による診察です」ということばに替わったことに、まだまだ違和感があります。その他のいろいろな説明がきわめて平易な云い方に替わっている中での妙に堅い呼び方がとても浮いて聞こえるのはわたしだけでしょうか?特に熊本弁はイントネーションの概念がないので、「医師による」が「石による」に聞こえたりして・・・。受診者の皆さんはそれなりに使い分け、聞き分けをしてどうってことなく受け入れているのでしょうから、これをまた「医者による」が良いか「ドクターによる」がいいかなどと考える必要はないのでしょうけれど。

診察室の中から診察室前の会話を盗み聞きしながら、何となくちょっと気になったので書いてみました。

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ウインカー

右左折や車線変更をするときに、ハンドルを切り始めてからウインカーを点けるドライバーがいます。傍から見ていてイラッとします。知り合いや職場スタッフの運転で助手席や後部座席に座っているときにそれをされると、「そんなの点けてないのと同じだし!」と突っ込みを入れたい衝動に駆られます。ほとんど”クセ”なのだと思いますし、おそらく本人は余裕をもって点けている感覚なのでしょう。以前は注意していましたが、それは単なるうるさいオヤジでしかなく、「乗せてもらっているのに文句を云う」というのは如何なものかという思いもあって、今は云いません。やむを得ない場合を除いて、二度と乗せてもらいませんけど・・・。

これが、仕事もテキパキとこなして細かいことにも気配りのできる優秀なスタッフがこういう運転をするものだから、「あれ?」と思いちょっと慌てます。でも、だからといって仕事の評価を落とすことはまずありません。ところが逆に、最初にこういう運転を目の当たりして「二度と乗らん」と思ったスタッフが、後に一緒に仕事をしてみるととても優秀な仕事ぶりだったとしても、どこか信用できない感覚を残すもので、彼を見直すためには大きなハードルがあることに気づきます。

部下に対する評価がこれではいけないのでしょうが、人間が最初の印象で作り上げてしまったその人の評価を変えるのはなかなか難しいものです。わたしが若かったころ、ある上司をみて「この人は第一印象で仕事ができるできないを決めつけてしまったら、もう評価を変えない人だ!」と批判していましたが、自分がそんな歳になるとココロの柔軟性がなくなっていくのが実感としてわかります。アタマではわかっているのに、感覚(棲みついたココロの中のメモリー)がリセットや上書きを頑なに拒むのです。

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PIPC

2か月前から日経メディカルオンラインで連載している「内科医だからできるこころの診療」(井出広幸先生)を読んでいます。2012.7.19の「患者の長い話を聞かないための技術」、2012.8.2の「今日はどうなさいましたか、と聞いてはいけない」・・・やっぱり、インパクトありますね、この題名。

PIPCというと何か抗生剤を思い出してしまいますが、Psychiatry In Primary Careの略らしく、これは内科医が精神科領域の対応をするためのプログラムなのだそうです。それにしても、患者さんの話をいかに聞かないようにするか?なんてこと、言語道断だろう!と、冒頭で井出先生が書いてある通りの反応をしたわたしです。そうではなくて、「患者の長い話を聞かない技術」とは、相手の話を聞いた時間は短いのに「今日はよく話を聞いてもらった」と患者さんに納得してもらえる技術なのだそうです。

1)患者との「つながり」をつくることが目標
2)「在り方」は「やり方」よりも重要
3)システムとチームを活用する
4)一歩踏みこんで話を聞く
5)長い話が始まったら、すぐに止める

これが根幹らしいですが、特に1)と2)は、精神科診療以外でも一番重要なことだと思います。診療中に患者さんと「つながった」と感じる瞬間がありますか?・・・僭越ながら、わたしも感じることがあります(なかなか全員で感じられないのが残念です)。この「つながり」を作るのが「在り方(being)」~これはつまりどうやったらいいかというマニュアルではなく、人柄や価値観や考え方といったものですから、本人からにじみ出てくるものなのでしょうか。なかなか難しいですが、「在り方のやり方」と呼ばれる技法が書かれていました。それが、

『女性には愛を、男性にはリスペクトで接する』~女性にはあたかもそのひとを愛しているかのように本気でふるまい、男性にはあたかもそのひとを尊敬しているかのように本気でふるまうということ~これ、何となく分かる気がします。

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食欲

どうしたもんでしょう?

最近何か食欲がありません。夏バテというのでもありませんし、目の前に並んでいるものを残すことも絶対ありませんが・・・友人たちが毎日のようにアップするfacebookの食べ物の写真にもどうも食指が動きません。

空腹感がないんです。腹が減ってないわけでもないのに空腹感がない、というのはどういうことなのでしょうか?腹が減ってないわけではないので、食べれば普通に食べるのだけれど・・・きっと「満腹中枢」と同じように「空腹中枢」の調子がおかしくなっているのだろうなと思います。

もしかしたら、こういうときは腹がトコトン減り尽くすまでなにも食べない方が良いのではないでしょうか。なかなか周りがそれをヨシとは認めてくれませんが。

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天気予報

「あなたは、よく天気予報を見るよね。1週間も先の天気予報見ながら『雨だ、曇りだ』って騒いでるけど、なるようにしかならないんだから、見てもしょうがないでしょ!」

いつも妻にそう小ばかにされます。わたしは、ゴルフなどのイベントが決まると、もう天気が気になってしょうがありません。毎日のように天気予報を眺め、ちょっと変化するだけで嘆いたり喜んだりします。だから何も動じない妻はすごいな!といつも感心しています。

その代り、当日が本当に雨になってしまうと、「どうして雨なの? せっかくわたしが何かしようとしてるのに雨なんて不愉快だわ~!」と云って騒ぎながら機嫌がとても悪くなるのが妻の常です。わたしはというと、前もって覚悟してるのでそんなに落ち込みません。「そんなこと1週間も前からわかっていたことでしょ?今になって騒いでもしょうがないじゃない!」と逆に妻を非難してしまうことになります。

ストレスのかわし方は人間それぞれだな、と思います。妻は当日にグチることでストレスを乗り越えます。わたしは、前もってココロの準備をすることでストレスを消化しています。ま、どっちもどっちですね。 ・・・とはいえ、今週末はゴルフの予定、来週初めはサッカー観戦の予定なのに、どうして選んだようにこれらがすでに雨予報なのかしら?「最後の最後に晴れに変われ!」と、この一週間は毎日天気予報を確認しながら念ずることになりましょう。

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ソーシャルキャピタル

第53回日本人間ドック学会の特別企画『多接』のレクチャーは、東北大学公衆衛生学の辻一郎先生の、「多接と絆、ソーシャルキャピタル」というタイトルのお話しでした。

「生きがいのある人は長生きする」~脳血管疾患による死亡率も肺炎による死亡率も2倍違うのだというデータを提示されました。元気で長生きするためには、「心の動揺をカラダに伝えない」こと。細胞分裂のたびに1塩基ずつ消えていく”テロメア”はもともと1万塩基くらいあるが、ストレスや肥満やタバコによって細胞分裂回数を多く繰り返すうちにどんどん短くなっていくのだけれど、さらにこれが悲観主義の人ほど短くなるようだ、などのお話は、最近他の講演でお聴きしてすでに知っておりました。

さてここで「ソーシャルキャピタル」(社会関係資本)です。人間が人間的に元気で長生きするために、豊かな人間関係を保つことが重要であることを辻先生は強調されていました。大事なことは日本古来からある「互酬性」・・・「おたがいさま」「もちつもたれつ」「なさけは他人のためならず」・・・つまりは「ご近所の底力」というやつでしょうか。豊かな人間関係があるほど、地域活動が活発なほど、高齢者就業率が高く、犯罪率が低く、失業率が低く、うつ病が少ないことが分かっています。

知縁型社会になることこそが健康への道なのである・・・それが結論でした。それを聞きながら、わたしは徐々に重い気持ちになってきました。正直なところ、わたしやわたしの家庭が一番苦手なこと~日本の文化は子供がいない家庭がコミュニティに入り込むのは大きなエネルギーが必要~なのです。職場の付き合い以外のご近所との関わりが深くない我が家は、ソーシャルキャピタルを上手く活かせていない典型的な家庭であり、健康的な長生きに赤信号が灯るパターンなのだよなあ。

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プレアルコホリズム

今月初めに東京で開催された第53回日本人間ドック学会に行ってきました。

特別企画「一無・二少・三多」の6つの健康習慣(無煙・少食・少酒・多動・多休・多接)の講演を聴くことにしましたが、仕事の都合ですべての講演を聴講することはできませんでした。

『少酒』の項目から、「飲酒量を減らす指導テクニック」というタイトルで久里浜医療センターの樋口進先生のレクチャーがありました。アルコール依存治療をされている先生らしい淡々とした口調がその生真面目さを物語っていました。アルコール依存者はウソをつく。「酒はやめた」とか「あまり飲んでない」とか。でもそれは”アルコール依存”という病気がさせていることであって決して本人の性格ではない。本当のことを云ったら酒をやめなければならなくなるから、本人は「やめたい」と思っているのに、脳に棲みついたアルコール依存という化け物がウソをつかせているのだ、という話を聞きながら、わたしは「なるほど。『エクソシスト』みたいなもんやな」とつぶやきながらメモしました。エクソシスト、エクソシスト・・・酒だけではなく、生活習慣病のすべてがエクソシストのなせる業(わざ)・・・こりゃまたわたしの語録が増えましたな♪

自称プレアルコホリストのわたしはつぶやきます。「まず食事から」とアドバイスしたら、「いやわたしは食べる前に飲むタイプだから」「わたしの酒は●●だから」「わたしは△△するタイプだから、ダメ」と云われて、「そんなこと云ってたら酒なんて止められませんよ!」と切れてしまうみなさん、どうか理解してやってください。それは当たり前なんです。飲みたいんですから。それがアルコホリズムなんですから・・・。日記書き、目標つくりなど<飲酒量を減らす方法>が示されましたが、やはり理屈でやる減酒はわたしは好きになれません。アルコール依存の方はやむをえませんが、プレアルコホリズムであれば、実感として楽しい酒呑みになれる方法が必ずあると思うのです。

それにしてもあの口調からして、樋口先生はあまりお酒を飲まれない人なのか。あれで「実はわたしはひどいアル中でした」なんてオチだったら面白いんだけどなあ。

アルコールトラブルでお悩みの方は久里浜医療センター(久里浜アルコール症センター)のHPもご参照ください。

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最後は保健指導の力(後)

(つづき)

●理屈

こういうときはあれを食え、あれは食うな、こうやると食欲をごまかせる、運動を続けるコツ、いつ運動するのが効果的・・・食べること、運動することに関しては、それはもうみなさん持ちネタだらけでしょう。「無駄に動け、無駄に食うな」「満腹は満杯にあらず満足なり」「腹八分目はがまんの強要ではない」・・・わたしも負けないぐらいの数のうんちくを語ってきましたが、最近大きな結論に達しました。それは、『理屈で食うとため息しか出ない。理屈で動くと長続きしない』というシンプルな真理です。何も聞いていないのに、誰もが口を揃えて「運動不足なんですよね」「食べ過ぎんようにせなんとですよね」と反省ばかりする社会って異常だと思います。健康になるためにはがまんしなければならないという大前提でモノが語られていますが、ため息をつきながら食べているようでは何のために生きているのか分かりません。どうか、理屈抜きでおいしく楽しく食べられる方法を提案してください。運動の継続はもっと大変です。食事と運動は日常生活の基本ですから、行動変容を理屈で強要してもラチはあきません。焦らずにモチベーションを保てる人生の目標を見つけ出せますように。

●運動すると太る

「運動を続けているのにやせない。むしろ太ってきた」・・・よくある不満です。あるいは、やせて血糖やコレステロールは改善したのに、中性脂肪が増加して脂肪肝は悪化した・・・なぜ? そんな質問にどう答えますか?人間のからだはそんなに単純ではありません。長年親しんできた生活を突然変えられて、急に災難が降りかかってきたのです。ご主人様の突然のご乱心に戸惑いながらも、何とか今までの平穏を取り戻すべく自主的に動くのが優秀な部下たちの取るべき行動。せっかくの蓄えを取り除かれたら飢餓に瀕すること必至ですから少しの収入から今まで以上に蓄える切り盛りをしましょうし、突然浪費するようになってしまったご主人が困らないようにもっと蓄えようと必死になる・・・それは自然の摂理です。それを「やり方が悪い」「まだ生ぬるい」と、さらに厳しく叱咤激励されるとつらいです。一時的に慌てた部下たちもその状態が続くうちにご主人の意図をくみ取ってきますから、さらなる修行僧の道に向かおうとせず、焦らずに今を続けることを勧めていただきたいと思います。

●「話す」「伝える」「伝わる」「理解される」

最近は行動変容を促す手法やエンパワーメントの手法などが浸透してきたおかげで一方的に話す保健指導スタッフは少なくなりましたし、みなさんプロの受け答えをされます。特定保健指導に限らず、健診スタッフと受診者の間にはまず確固たる良好な人間関係ができなければなりません。相手は間違いなく構えてやってきます。意見され試練を強要されることを覚悟してそれなりのシミュレーションをしながらやってきます。“絶対聞く耳を持たないぞ”か“とりあえず聞き流そう”か。ですから、初対面の相手に“自分が敵ではない”ことを感じてもらわなければ事が始まりません。その上で、自分の説明を理解してもらう作業・・・わたしも自分の説明で相手はわかってもらえているのだろうかといつも自問自答しています。“話す”ということと“伝える”ということは違います。“伝える”と“伝わる”も違います。そして“伝わる”と“理解される”もまた別物です。相手に分かってもらい、それを理解して自らが行動を起こす気になってもらうというのは、考えてみれば本当に気の遠くなるような作業です。とりあえずわたしが確認していることは、“この説明で、自分なら理解できるか”“自分がこの説明を受けたときに、まず何をすべきか具体的に想像できるか”です。これ、意外にむずかしいです。

もっともっと伝えたいことがたくさんありますが、ただの屁理屈説教オヤジになってしまうのでこのへんにしておきます。今年も特定保健指導の旬の時期を迎えました。保健指導する皆さんも保健指導をされる皆さんも、がんばってください。

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最後は保健指導の力(前)

連載機関誌コラムも今回で特保シリーズを終わります。長いので意味もなく2つに分けてアップします。

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 最後は保健指導の力

メタボリックシンドロームの構成要素(糖代謝異常、高血圧、脂質異常、内臓脂肪)のメカニズムやそれらの相互関係について1年半に渡って解説してきましたが、これらを理解できたらもうメタボは克服できたも同然か?というと、そうはいきません。この(屁)理屈を元に、何か行動を起こさせなければ何も変わりません。ここからが保健指導スタッフの皆さんの力の見せ所です。日々、特定保健指導でがんばっている皆さんにエールを送りながら、最後に日頃わたしが感じていることを徒然に書かせていただきます。

●熱意vsお節介

「がんばりましたね。でもあともう少しがんばればもっと良くなれそうです。もう一息がんばってみましょう」・・・そういう言い方を耳にします。でもわたしは、ほどほどのところで合格点を出すことにしています。生活改善のために自分で決めたことを始めると効果が出ますが、必ず頭打ちになります。続けても良くも悪くもならない平衡状態・・・きっとそこが身体の求める理想点なのだと思います。本人は目標値に届かないのを不本意に思っているので、さらにストイックな試練を課してもできないわけではありません。“やればできる自信”がついている時だから。でもそれをずっと継続しない限り効果は維持できないし最初ほどの変化は期待できません。せっかく生活改善をするのが楽しくなったのにそれが責め苦に変わったら本末転倒。「言うほど簡単にはやせませんよ。今でもしっかりがんばっているのでしょ?やせなくて良いから、その代りまた太らないようにしましょう。毎日体重計に乗って1kg増えたらその日のうちに根性で元に戻してください」・・・その言葉にみなさんニコッとされます。そしてこれがさらに改善するきっかけになることをよく経験します。相手は必ずしも熱心すぎる指導を受けたいとは思っていません。“自分の親兄弟ならどうさせたいか?”ではなく、“自分ならどうしてもらいたいか”・・・わたしは常にそういう姿勢で臨んでいます。

●「やせる」vs「しぼむ」

世の中が皆やせることに必死です。若者よりも壮年期以降のご年配ほどやせることに熱心に取り組みます。健康番組も健康食品も「ムリせずやせられる」がキャッチフレーズです。そのことが気になってなりません。特定健診は腹囲と体重だけ評価しますし、「とにかくやせなさい。やせればデータは必ず良くなります」と指導している方も少なくないと聞きます。でも、筋肉がなくなっても体重は減ります。食欲がなくなっても体重は減ります。やせていっているようでただ“しぼんでいる”だけの人が増えてきていませんか?体重が減って採血データが良くなったとしても、筋肉が減れ老化します。見るからに老けてしまったシワシワ顔に魅力はありません。転んで骨折したまま寝たきりになったら意味がありません。「これからはアンチエイジングの時代です。体重なんかそう減らなくていいから日ごろからしっかり動いて若さを保ちましょう」・・・これが最近のわたしの口癖です。

                                           (つづく)

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嫉妬

先日、健診の診察をしていて、その28歳の男性に出会いました。彼はごく普通の風貌でしたが、ただ肌がとてもきれいで、シミひとつありませんでした。「すげえ、この歳でこの肌か」~不謹慎ながらつい心の中でそう呟いてしまいました。むかし同じようにきめ細かい白くてシミひとつない肌のおじいさんを診察したことがあります。後にも先にも、男性であんな肌に出会ったのはあのときだけでしたが、今回はそれ以上の感動を覚えました。

なぜなら、わたしは不覚にも彼に嫉妬してしまったのです。くだんのおじいさんのときは嫉妬なんかしませんでした(憧れと感動だけでした)が、今回は明らかに嫉妬しました。今でこそシミとホクロだらけのボクにもこんなときはあったんだぜ。キミは肌にシミができるなんて考えてもいないだろうけど、いつかはボクみたいになるんだぜ。意味もなくそんな対抗意識が生まれてしまったのです。

その後、どうだ!と云わんばかりのみごとなマッチョのお兄さんや精悍な褐色の肌の若者もいましたが、「カッコいいね」「自慢なんだろうね」と賞賛の感情が生まれただけでそれ以上は何も感じません。今回の思いがけない感情の変化は、間違いなく「失ってしまった若さ」への嫉妬ですね。うんうん・・・アンチエイジングのためにはこの嫉妬は絶対大事なことだと思うことにしました。

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ものづくり

よく、「ひざを突き合わせて夢を語り合う」といいます。「おれはこんなことしたいんですよね」「これを使ってもっと何かできないだろうか」・・・ビールを飲みながら熱く夢を語り合い、それを夢ではなく現実のものとしていく姿。くだんのANAグループ機内誌『翼の王国』9月号にそんな記事のページもありました。

普段なら普通にスルーするそんな記事が今回の旅では妙にココロにひっかかりました。そういえばここ6,7年、自分にはこんな風景がない。こうやりたいんだよね。こんなものを作り出したらどうだろうか?・・・若いスタッフたちと語り合っていたころ、もっと自信に満ちていたような気がします。”ひざを突き合わせて語り合う”ためには、自分にもそれなりの深いビジョンや思い入れがないといけませんが、どうも最近の自分にはそれがないのだ。知識も思い入れもどんどん浅いものになってきているから自分に自信が持てないのだ。この記事をみながらそのことに気づいてハッとしたのです。

「わたしはスイーパーで、妻のようなクリエイティブなことが一番苦手です。ものを創りだす(造りだす)才能がありません」と何度も自分に云い聞かせるかのようにアピールしてきました。クリエイターかスイーパーかと問われれば典型的なスイーパーだと思いますが、手先も生き方も不器用ですが、でも、もしかしたら自分が一番興味があるのが「ものづくり」なのかもしれない。本当はそれが自分の今世の最大の使命なのかもしれない。「亡きお母さんがね、『もうそろそろあなたのやりたいことをしてもいいんじゃないかな』って云ってるよ」と、何年も前に、ある霊感の強いユタの女性に云われたことを思い出しています。創りだす(造りだす)ということ。ちょっとワクワクする単語ですが、まだまだ自分が何を創りだし(造りだし)たいのかは何も見えてきません。

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ひむかの森

「あの山は誰も耕さん。誰も肥料をやらん。けれど、何千、何万と実をつける。すごいもんじゃ。」

ANAの機内誌『翼の王国』9月号を何となく読んでいて、ふっと目が止まりました。宮崎の森<ひむかフォレスト>の特集。世界に誇る照葉樹林の町、宮崎県綾町の元町長郷田實さんが娘さんに云ったことばです。「森では、すべてが土に還り、微生物が最高の土を作る。森の営みに、あるべき農業の姿を見出していたのでしょう。」

人間もきっと、無理に耕さなくても、無理に肥料をやらなくても、自然の力で生きていけるはずだ。神様が創り賜た生きとし生けるものは、そこに効率や学問といった人工の理屈の介入をもともと想定してはいないはずなのだから・・・。でもおそらく現代社会はその理屈だけでは病気になる。手を入れても病気になり、手を入れなくても病気になる。難儀なまでに複雑に入り組んでしまったものだ。一度リセットさせないと、元には戻れないものなのだろうか。

わたしが終(つい)の棲家として憧れていた高千穂にほど近い椎葉は焼き畑農業。「木を伐採して、土地を10か月ほど乾燥させた後、8月に火入れ。直後にソバをまき、翌年にはヒエやアワ、3年目にはアズキ、4年目にダイズを育てる。その後20年ほど休耕し、地力の回復を図る。同時に森も元の姿に戻るという」~なんという悠然とした農業だろう。山に生きる者は心から山をレスペクトし、ゆったりと生きていく。きっとそこには精霊がおり、木霊がおり、ずっと見守ってくれているのだろう。

お江戸からの帰り、積乱雲の氾濫で揺れまくる機内で、わたしはそんな森の魅力に想いを馳せておりました。

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下北沢

大学時代の芝居仲間が、有名俳優Kさんの芝居に客演するというので、学会で上京したついでに観に行きました。

下北沢駅に降りたのは20年以上ぶり。たぶん当時とは全く違う町並みになっているのだろうけれど、少なくとも駅を出てすぐの空気は当時と何ら変わることなく、「久しぶり」と云ってくれた気がしました。この街に来ると緊張します。東京に住んでいた頃から、”演劇の聖地”下北沢に来るときはいつもココロが余所者でした。片思いの女性の住む町を歩いてドキドキする感じ。本当にここの常連になって、「やあ」「元気か」とか云える立場になりたかったけれど、結局あこがれはあこがれのままに終わりました。

小奇麗な店や整備された道路になっても、目的の小劇場「ザ・スズナリ」には迷うことなく辿り着けました。小汚い外階段を上ったところにある小さな小屋・・・昔ながらの”芝居小屋”に入ると、雨上がりの蒸し暑い晩夏の空気とは全く違う空間がそこにはありました。立錐の余地なくキツキツに詰まった客席に身を縮めて始まりのベルをじっと待つ。この時間がたまりません。舞台と客席の間に間仕切りがなく、小屋全体が同じ空気に包まれてしまうこの空気感・・・久しぶりにワクワクする2時間の空間に完全に身をゆだねました。相変わらず別格の上手さの主役のKさんの重厚な低い声が小屋中に響き、観客みんなで大笑いし・・・芝居はやっぱりいいなあ。

芝居の後、ちょっとだけ友人に会いました。メールで時々交流のある大学時代の同僚。バタバタとした喧騒の中で、「おう」と手を挙げ、目をみながら無言で握手し、「おつかれさん・・・また、今度改めて・・・今からホテルにチェックインだから」・・・まるで、元カノに会った時のようなチグハグな会話で別れて、足早に小田急線に飛び乗る。やっぱり今でも下北沢は、すべて合わせて”甘酸っぱい失恋の思い出”のような、そんなところ・・・かな。

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惰性

どうも最近ココロが騒ぎません。

潜在性のうつかもしれません。

文章を書くのも、仕事をするのも、酒を飲むのも、何か億劫。億劫だけど書かない理由もないので惰性でブログを書いて、飲む権利があるからビールを開けてみたりなんかしているけれど、何かどれも、ないならないでもいいかな、みたいなそんな感じ。

・・・目に移る風景が、どれもどこか平板に見えます。

ま、そんなときもありましょう。

今日は東京で学会の後に研修会にも参加してきます。

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肥満パラドックス

最近、シカゴのノースウエスタン大学から「糖尿病に”肥満パラドックス”が存在する」という報告があり、今あちこちの生活習慣病に関するメルマガをにぎわせています。つまり、「糖尿病発症時の体重が正常の患者さんの方が過体重や肥満の患者さんより死亡率が高い」という事実です。

”肥満パラドックス”は以前から知られています。心不全や腎不全の場合もそうですし、健診の現場でも「ちょっと小太りの方が長生き」は常識です。MTProで北里研究所の山田悟先生が解説しているように、心不全患者や腎不全患者がやせているほど死亡率が高いのはすでにエネルギー消耗が激しくなって太れなくなっている状態(太る余裕がなくなっている状態)だからだ、とわたしも考えていました。健診現場のそれは、喫煙者にやせが多いとか、やせているひとに筋肉(除脂肪体重)が少ないひとが多いとか、諸般の理由付けがあることも知っています。この大学のメタ解析を行った先生方も、「標準体重のひとは筋肉が少なくて脂肪の占める量が多い傾向があったから、それが原因であろう」と結論付けています。つまり糖代謝に一番重要な『筋肉量』が少ないためにやせているのだろう、というわけです。わからないわけではないけど、なんかちょっと乱暴な論理のような気がします。

現象は現象として受け止めておくとして、これは、「だから糖尿病治療は太っていた方が良いのだ(やせる努力はしない方がいいのだ)」と考えるかどうかの議論ではなく、「だからやせているから大丈夫、などと考えてはいけないぞ」と云うこと・・・ですよね。

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