文化がかわるとき
先日、テレビ番組で「十割そば」を「じゅうわりそば」と云っているのをみて、「とわりそば」だろ!と夫婦でツッコミを入れたのですが、いつまでたっても訂正やお詫びの対処がありません。何やってるんだよ!と不愉快になりながらWebで検索してみたところ、どうもどっちでもいいらしい。「当然、『じゅうわりそば』でしょ」とか「『とわり』では意味が分からないから『じゅうわり』の方が親切である」とか書いているものもあり、この歳になってちょっとショックをうけました。
米は「研(と)ぐ」ものであって「洗う」ものではない! ・・・亡き母がずっと語っていました。「最近の若い子は『米を洗う』とか平気でいう」と嘆きながら。だから「無洗米」という名前が正式に出たときにはわたしが鼻で笑ってやりました。ところが、最近の精米技術はむかしとは比べ物にならないくらい発達したので研がなくても良くなっただけでなく、むしろやりすぎると栄養素が逃げてしまうという意見もあるのだそうです。だから、「米は洗うもの」が常識なのだと。
むかしの常識がいつまでもそのまま存在するとは限らないことを実感しながら、こうやって文化というものはいつの間にか移り変わっていくのだな、と思います。「情けない」「寂しい」ことではなく、これが”進化”なのでしょうかしら。
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コメント
言葉の成り立ちや、意味合いを調べるのが、好きだった記憶があります。
この言葉の意味は何やろか?と調べる。知る、おおーそうだったのかと身に付く、使う、人に伝える。時には、人に教えてもらう。
言葉の進化。
ちゅうか、誰かが勝手に変身させたのかも知れませんね。メタモルフォーゼ。カッコよくスマートで誰にでも分かりやすい、あんまり考えなくてもいい言葉が主流なの、かも。
もしかすると今はもう
はじめっから、『研ぐ』でも『洗う』でもいいじゃないか。そもそもどっちでもいい。考えたこともないし、考えるのウゼー。とか。
言葉は進化するどころか、言葉が思考を退化させた、のかも知れない。
と、いう風潮はあるだろうから
そのまんまだとしたら
辛いことだな、思います。
きっと個人個人は、もっと考えていて、悩みながら生きているはずです。
言葉の意味が何しろウゼーんじゃなくて『教えてくれる人がいない』んじゃないだろうか?そいつの言い訳じゃん!とすればそれで終わり。反対には『そんなの自分で学び取れ』があって、一緒に考える体験にはならない。
本来の意味を掴む。知りたい。まず興味を持つことが重要だろうと。
ウゼー?
メンドクセー?
いやいや本当は知りてーし、知ったらスゲーち言うやろに。
そうだったらいいのにな
そうだったらいいのにな
という童謡
投稿: キノシタです | 2012年11月 4日 (日) 09時50分
キノシタさん
最近は国語辞典とか百科事典とか漢和辞典とかことわざ辞典とか、アナログで引く人はいるのでしょうか。
辞書引き大好きだった私も最近はすぐに<検索>で解決させてしまいます。この文化の変化も何かの終焉を感じさせます。
投稿: ジャイ | 2012年11月 4日 (日) 22時08分