お休みします
これから、7:08発の新幹線さくらに乗って、ちょっと学会に出かけてきます。
何日分か書いて行こうかと思いましたが、こういう大義名分でブログを休むのもいいでしょう。
8月いっぱい出張してきます。台風の影響で新幹線が動かなかったら9月1日にも帰れないかもしれません。どっちにしろ、帰ってくるまで思い切って完全休筆してみようと思います。
がまんできずに、その期間にフライングでアップしてたらごめんなさい。
これから、7:08発の新幹線さくらに乗って、ちょっと学会に出かけてきます。
何日分か書いて行こうかと思いましたが、こういう大義名分でブログを休むのもいいでしょう。
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がまんできずに、その期間にフライングでアップしてたらごめんなさい。
現在、消費税引き上げについてのヒアリングが行われています。
一般的に、何かを決めようとするとき、一般有識者や当事者に対して意見や現状の問題点を深く聞くことはよくあることです。でもそういうとき、「これでは、単なる出来レースだ」とか、「既成事実を作るだけのポーズだ」とかいう批判は必ず出てきます。
でもわたしは、それは当たり前だと思っています。何か新しいことをしようとするとき、自分は何をしたい、こういう形にしたい、という明確な希望がきちんと存在していなければはなしが始まりません。中立の立場に立ってみなさんのご意見をお聞きしてからじっくり考えます、などととぼけたことをトップに立つ人間が云うのであれば、それは無責任過ぎます。何も考えることのできないデクノボウです。
だから、「わたしはこうしたいと思う。この思いを打ち壊すだけの意見はありますか?」・・・それを聞くのがヒアリングなのだと思います。それに対して、いくら反対意見を云ってもすでに聴く耳をもってもらえなかったと憤慨するのはお門違いだと思います。それは、自分の想いの表現が相手の堅い意志を看破するに至らなかった、つまり自分の力不足だった、ということに他ならないのですから。
具体的には書きませんが、テレビを見たりラジオを聞いたりなんかしていると、医療関連番組などで「これはこういうことです」と高名な医者が説明しているのを聞いて、「え?ホント?」と耳を疑うことがしばしばあります。特に自分の専門領域の話だと、「ほう、そういう云い方をしますか」と感心することだけでなく、「ウソやろ!」とつい叫んでしまうモノまで千差万別です。でも、その先生がそういう断定の仕方をする以上、その番組はそれをベースにして理論が組み立てられているわけですから、最初から最後まで疑問符だらけという感じになってしまうことが最近ちょっと多くなった気がします。
医者たちは、難しい医学用語を自分なりに噛み砕いて表現します。それがちょっと当を得てない感じがすることもありますが、わたしたちは元の意味を知っているからこそ理解できます。ところが、制作者側はファジーな表現が大嫌いなようで、自分なりに解釈した意味を「これはこれなのです!」という断定文で番組を推し進めていきます。途中で、当該医師がチェックを入れているはずなのに、医者はこれで良いって本当に云ったのだろうか?と思うことも少なくなく、それに対する「対策」というレベルになってしまうと、もうほとんどわたしには理解の域をはるかに超えてしまった不思議な方向に結論づけられたりして・・・。
単に、わたしが無知なだけなのでしょうか。
「甲状腺機能低下症で内服治療を受けています」とか、「甲状腺腫で定期的に受診をしています」とか云うヒトに、「で、実際に甲状腺自体は大きいのですか?」と聞くと、大部分の返事があやふやです。「はい。診察の度に『大きい』と云われています」と答えるヒトもいます。
甲状腺はホルモンを産生する臓器で、のど仏の上に蝶ネクタイの様に乗っかる形で存在しています。普通、診察などでのど仏辺りが大きく膨らんで見えるときに「甲状腺が大きいのではないか?」と判断して精査の指示を出すわけですが、この時点で甲状腺が大きいのかどうかわかりません。単純にのど仏が大きく飛び出ているヒトや、この部分の皮下脂肪が多いヒトでも、同じように見えるからです。また、甲状腺機能亢進や機能低下症の治療中だからといって、必ず甲状腺が腫れているとは限りません。さらに良性腫瘍で一番多い「腺腫様甲状腺腫」は、甲状腺の中にできた良性のこぶですが、これがたくさんできていても別に見た目が大きくなったりはしません。つまり、「甲状腺腫」とは「甲状腺にできたこぶ」のことで、「甲状腺腫大」とは違うのです。
多くの場合、単純に「甲状腺の治療中」とか「甲状腺の経過観察中」とかいうヒトも、のど仏辺りは見た目大きくありません。なのに、診察しながら「実際に甲状腺は大きいのですか?」と聞くと、みんな「はい」と簡単に答えるので困ってしまいます。何もかもが混同されているみたいです。
甲状腺が大きいかどうかは甲状腺の超音波検査などを受けないと分かりません。だから甲状腺云々で指摘を受けたら是非専門医を受診して、超音波検査をしてもらってください。そして自分の甲状腺の見た目はどんなものなのか、ちゃんと説明してもらってほしいと思います。
「わたしゃ素人だけん、見てもわからんです」「聞いてもわかりませんけん、先生の良いようにしてください」と云って、初めから説明されるのをシャットアウトしようとする人が意外にたくさんいます。これは、幼少のころから「先生様の云うことに逆らうな」という教育をきちんと受けて来たか、不幸にしてチンプンカンプンな専門バカの医者の餌食になった経験がある人か、考えるのが面倒くさいという人生を送ってきた人か? これまでにもこのブログでいろいろ紹介してきました。
むかし、”インフォームドコンセント(説明と同意)”の概念が普及し始めたころ、医師会の研修会でこれの説明の場がありました。このとき、ある初老の男性が手を挙げて、「わたしはプロであることに誇りとプライドを持っている。プロであるわたしの処置に文句がある者は、わたしのところに来てもらわなくてもかまわない!」と云い放って、退席されました。一瞬、失笑の空気が流れましたが、こういう先生に若いころから教育を受けてきた人は、考えたり疑問を持ったりする機会はなかったと推測されます。
検査結果の説明を神妙に聞いていた高齢の患者さんに、「先生の説明、わかりましたか?」とナースがこっそり聞いたら、「全然わからんかったけど、先生様がわたしのために一生懸命話しておったから、相槌を適当に打っておいた」と答えた風景・・・これは若い主治医の説明力不足ということになるのでしょう。
方や、「オレはまどろっこしいことは嫌いだ。うだうだ云わずに結論だけバシッと話せ。お前らプロなんだから、オレに考えさせるな!」と啖呵を切る人・・・こういう人も、説明を聞く耳を持たない類の人種です。
まあ、別にいいんですけどね。ただ生活習慣病は自分で考えて自分で行動しないと何も解決しない病気なのです。医者が診断名を告げて、クスリを出したり手術をしたりするのを受け身で構えておけば良い、という形ではどうにもならないのが生活習慣病なのです。仮に、「つべこべ云わずにこれをしろ!」と云ったところで、いろいろ言い訳して結局しやしないくせに。
天気の変わり目に痛みを訴える慢性疼痛患者さんがたくさんいることは医療従事者でなくても周知の事実です。そんなもの医学的ではないからと一笑に付される歴史の中で、それを医学的に研究したレポートが先日配信のCareNet.comに出ており、興味深かったのでご紹介します(名古屋大学 佐藤純先生)。何よりも、愛知医科大学にある「学術的痛みセンター」に「天気痛外来」というのが開設されているということ自体がかなり面白いですが。
天気痛は上半身の痛みとして出ることが多く、日ごろいくつも痛みのある人は偏頭痛や肩こりなど上半身のもののみに天気の影響が出てくるようですし、筋肉や関節深部の痛みは天気の影響を受けるけれど皮膚表面の痛みには関係ない、などの傾向が見られるのだそうです。むかしからよく云われているように、低気圧は天気痛の大きな要因です。低気圧曝露試験というのを行ってみると、たしかに低気圧状態にすると痛みが出てきますが、実は気圧を元に戻すと痛みが取れるヒトと、元に戻しても痛みが続くヒトがいることが分かり、どうも痛みが出る要因は気圧の低さではなくて気圧の変化なのではないかと推測されています。気圧の低下によって慢性疼痛が増悪するメカニズムとして考えられているのが「交感神経依存性疼痛」です。多くの患者さんがストレスが強まると痛みが増すのですが、気圧や気温の変化というストレスで交感神経を興奮させるために痛みが増すのではないかと考えられています。
面白いのは、そのセンサーが内耳にあるようで、だから上半身に発生しやすいのではないか、あるいは交通外傷などで首を痛めた患者さんで偏頭痛やめまいなどがある人は天気痛症状が強い傾向にあるのもそのためではないか、という点です。結局その治療は、自律神経への介入が効果的なのだから、起床や就寝のリズムを整え、昼間に日光を浴び、ストレスをかけない生活をする、などになるわけですから、医者が天気痛の存在を認めることから始める必要があるといえましょう。
10年くらい前のことですが、ある健康セミナーで、ある女性が予防医療のことを熱く語りました。白板に文字を書いたり、手元に持ってきた写真を掲げたりして、経皮毒の危険性と安全な食品の大切さを必死に語っていましたが、結局時間が足りなくて、「もっと聞いていたかったな」と感じたとても素晴らしい講演でした。その女性はその後も精力的に全国を回って、その世界ではカリスマ的な存在になりました。その1年後だったか2年後だったか、また彼女の話を聴ける機会があったので聴きに行きました。手書きだった文字はパワーポイントのスライドのきれいな大きな活字になりましたし、後ろまでよく見えなかった小さな写真もデジカメで取り込んで鮮明できれいな画像になりました。何度も何度も同じ講演を繰り返したことがうかがい知れるほどに、スライドはきちんきちんと進んでいきますし、無駄のないことばの選択により、彼女の有難い講演はきっちりと時間内に終わりました。惜しみない拍手が続く中で、わたしは小さく溜息をつきました。
「ちっとも感動しないのはなぜだろう?」・・・内容もことばの選択も完璧で、時間配分もプレゼンの方法も完璧なのに、最初に聞いたときのほとばしる熱い息吹がちっとも伝わってこないのはなぜだろう?スマートに研ぎ澄まされればされるほどに、きれいに収まれば収まるほどにインパクトが薄れて何も伝わってこなくなるのは、何が足りないからなのだろう?
そんな遠いむかしのことが思い出されました。他人に伝えるということ。気持ちだけでは伝わらず、技術だけでも伝わらない。回数をこなすごとに話し方もことば自体も洗練されていき、無駄が省かれ、新しいしっくりくる表現に入れ替えられ、スライドがスマートに整備されたとき、完璧なはずのそのプレゼンがあまり魅力的ではないものになってしまう。わたし自身も何度も経験したこのジレンマ。もしかしたら、最初のころの荒削りで未熟な講演の方がはるかに意義があるのかもしれない、と悩みます。
「時間が少し過ぎてしまって申し訳ありません。もうすぐ終わります」と云いながら、すでに15分も予定時間を超過している。依頼した講演なので主催者側も文句を云うわけにはいかず、本人はせっかく持ってきたものだからとどんどん早口になり、聴衆はため息混じりで終わるのを聞き流しながら待っている。そういう光景をときどき見かけます。
こうなる原因ははっきりしています。もともと持ってきて話そうとした内容が多すぎるのです。わたしは「時間超過は最悪の罪」だと思っていますので、多すぎる内容とスライドを持って行ったとしても適当に端折って最後を締めることにしています。最後にバタバタとなったことで、「もう少し話の続きを聞きたかった」と云われるとちょっと嬉しくなりますが、まあ、そんなムリな構成にした自分がもともと悪いのだと反省します。
先日の講演は、うまく時間調整ができて、ムリなくスライドを端折りながら云いたいことを時間内におさめることができました。それは良かったのですが、ただ・・・何となく満足感に欠ける感じで会場を後にしました。何かが足りない気がしたのです。
(つづく)
ω3系脂肪酸が前立腺がんのリスクを増加させるのではないか、というショッキングな報告がアメリカから出されました(Journal of National Cancer Instituteオンライン版)。
ω3系脂肪酸はフィッシュオイル(魚油)に多く含まれ、不飽和脂肪酸としてまた抗炎症作用もあるために動脈硬化改善につなげるアンチエイジングの旗頭のような物質であり、サプリメントで摂っているヒトも多いのではないでしょうか。わたしもときどき服用しています。ところが、アメリカ・プエルトリコ・カナダの50歳以上男性のω3脂肪酸血中濃度を調べたところ、これの濃度が最も高かった群では前立腺がん発症リスクが43%高く、より悪性度の高いがん発症リスクは71%高かったのだそうです。つまり、ω3系脂肪酸濃度が高い男性は前立腺がんになりやすい、と云うわけです。
この報告を読みながら思ったことは2つあります。日ごろから青魚を食う習慣などないであろう彼らが非常に高い濃度のω3系脂肪酸を摂取し続けているとすれば、それはサプリメントしかありません。これまでも何度も書いてきたように、結局サプリは補助食品であって、「過ぎたるは及ばざるよりも悪し」ということです。日常生活や食事が乱れているから適量のω3系脂肪酸を摂取するという本末転倒なヒトたちよりも、日ごろも注意しているのにさらに鬼に金棒の意味で過量のサプリを飲んでいる健康オタクのヒトの方が危ない、と云えましょう。
そしてもう一つ。この研究の対象者が欧米人だということ。昔から魚を取って主食にしていた人種ならともかく、むしろ獣などの猟を中心にしてきた民族であるならば、健康にいいと思い込んでいるω3系脂肪酸が「カラダに合わない」ということはないのでしょうか? 欧米人が豆腐ばかり食っているとかえって血管がボロボロになるのではないか、と懸念するわたしだけの発想でしょうか。
まあ、とにかく、この報告が出たからといって青魚を食うのをやめることのないようにしていただきたいものだと思います。ちなみに、紅茶を摂取すると前立腺がんリスクが低下する(コーヒーでは低下しない)、という研究報告も出ていました(Cancer Causes Control オンライン版 2013.2.15)。
最近よく「●●美容外科クリニック」とか「○○法律事務所」とかのPRがテレビで流れます。規制緩和によるものでしょうが、若いイケメンおにいさんやイケイケ姉ちゃん風の医師や弁護士さんが並んで映っています。おそらくCMコーディネートの専門家が「ああせい、こうせい」と云いながらプロデュースしてできあがっているCMなのだろうなと思います。
で、どうなのでしょう。CMの効果はやはり絶大なのでしょうか?少なくとも名前は覚えてもらえるだろうと思うのですが、意外に日本人は”経験値”を重要視する、というか見た印象を大事にする人種です。自分の気になっているところを美容整形してもらいたいと思うとき、あるいは自分が何かを訴えようとするとき、「こんな若造で大丈夫なのだろうか?」「大した経験もなく実験台にされるのではないだろうか?」と二の足を踏むところがあるのではないでしょうか。
むかし、循環器救急に従事していたころ、明け方に広範囲の急性心筋梗塞に罹った中年男性が救急車で運び込まれました。当直をしていたわたしが事の重大性を話し、一刻も早く緊急カテーテル検査と再疎通療法をすべきことを勧めましたが、付き添ってきた奥さんはなかなか「うん」と云ってくれませんでした。朝になって部長が再度説得して、2時間ほど遅れて無事に治療を開始することができましたが、あとで部長がわたしに「『大事な夫の命に関わること、あんな若造のいうことは信用できなかった』だそうだ。きみの説明の仕方が悪かったわけではないからあまり気にするな」と伝えてくれました。「くそったれ!」と思いました。そんなことであなたの大事な旦那さんの心臓は助かるべき多くの部分を腐らせてしまったんだぞ!と。
優男やチャラ男の風貌の若いメンバーだけの彼らのCMを見ながら、世間の意識とのギャップにどう答えていくのかしらと思った次第。
遅れ馳せながら、映画『風立ちぬ』を観てきました。
冒頭からずっと泣いてました。いつものように、他人のツボとはちょっと違うところで感極まるオジサンです。
堀辰雄の「風立ちぬ」を私は読んだこともドラマとして見たこともありませんでしたので、それがモチーフだったということは映画館を出てから妻に教えてもらいました。
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何もかも始まったばかりで、「何物かが生まれて来つつあるかのよう」な希望のひとときに、不意にどこからともなく、風が立ったのである。
風たちぬ、いざ生きめやも
不思議な美しさをもった詩句である。どこか不安な風のざわめきに、心をふるい立たせている繊細な魂、「さあ、何とか生きてみよう」と自分に言いきかせるような、また呼びかけるようなフレーズである。・・・(後略)
*************
篠原暁子さんの解説を読んで、なるほどと納得した次第。この歳になってもいろいろな青春を思い出して胸をきゅんとさせる時間をいただきました。
そしてもうひとつ。主人公、堀越二郎氏の想い。「まだ風は吹いてるかい」「
「それでもまだ、風は吹いている!」・・・切ない純愛ドラマに涙しながら、気付けば自分の人生へ想いを馳せる2時間半になりました。
日本高血圧学会は、来年に高血圧治療ガイドライン2014を発行するにあたって、その原案を公表しました。現在のガイドライン2009から変わったところをMTProにまとめてあったのでご紹介します。
<ついに公開されたJSH2014原案、現行GLとの違いは?>
学術ブログではないので難しいことは書きません(わたしもあまり良く理解していません)が、どうも全体的にGL2009よりも値の基準が緩くなったようです。「若いヒトの血圧は130/85未満であるべきだ」というのが「140/90未満」になっていますし、高齢者の高圧目標も「140/90未満」から「150/90未満」にあげられています。これはどういうことなのでしょう。2009年にメタボ基準と合わせるために厳しく規定したものの実情に合わない(簡単には引き下げられない)と判断されたのか、それともエビデンスとしてそこまで厳しくしなくてもいいことが分かったのか。
「診察室の血圧と家庭血圧が違う場合は家庭血圧を優先する」という記述も時代ですかね。むかしは、素人の測る血圧は当てにならず、自己申告血圧はウソかもしれないから信用できないという空気が医療現場の常識だった気がしますが、今や診察室の血圧の方が日頃を反映しないから当てにならない、というのが常識になりました。「家庭血圧は上腕カフ血圧計を用いて原則2回測定し、平均点を『その機会の血圧値』とする」という但し書きは、ちょっと”要らん世話”という気がしないでもありませんが。
βブロッカーが第一選択薬リストから外されたのも、糖尿病全盛の時代の繁栄でしょうか。話題のディオバンがスキャンダルに巻き込まれて抹殺されたのは残念です。個人的にはとても良い薬だと思うのですが。
まあ、専門家として、というよりも、高血圧患者のひとりとして、正式な発表に注目しようと思います。定義や方針が変わるとそれだけで啓蒙の仕方も変わってしまいますから、できる限り考え方は一貫させてほしいものだと思います。
太っているヒトがやせるために努力するだけでなく、最近はやせているヒトが太ろうと努力する姿もよく見かけます。むかしからやせているヒトよりも、大病を患ったとか、食欲がなくてやせたとかいうヒトが早く元の姿に戻りたくてジタバタします。本人だけでなく周りもできるだけ精の付くものを食わせようとしますし、あちこちからカラダに良さげな滋養強壮の食品をもらったりします。でも、決まってうまくいきません。
要らないことはしないことです。自分の適正体重を決めるのは自分のカラダであって、自分の意志ではありません。体重を調整するために食べたり食べなかったりするのは人間だけで、他の動物たちは自分の体調によって食えたり食えなかったりすることはあっても、やせたから食べたくもないのに必死で高カロリーを食うとか、太ったから断食するとか、絶対しません。そんなことが無意味だということを知っているからです。一旦体重が減ったヒトは、無理しなくても本来の食べ方をしておけばそれでいい。元の体格に戻るのがベストとカラダが判断したら太りますし、今のままが良いと判断したら変わらないはずなのです。必要なのはビタミンやミネラルだけであって、無理に高カロリー食を食ったところで、カラダが持て余して糖尿病や脂肪肝になってしまうか、あるいは下痢をして吐き出すかであることは目に見えています。
残念ながら、わたしのこれまでの人生で「太りたい」と思ったことが一度もないのでその焦る気持ちが分かるようでわからないのですが、きっと、健診結果表に『標準体重』という文字と数値があるからいけないのではないかと思います。
「体重は変わっていないのに、『やせた?』と云われるので心配になってきた。だから最近多めに食べるようにしている」という、70歳の男性が受診されました。
3年前まで3kgほど重かった彼は、特定保健指導の恩恵で生活の見直しをして今の体重と糖代謝異常や脂肪肝の改善を得ました。何一つ問題のない状態だったのに、周りの人たちの印象が不安をもたらしてしまいました。他人の印象は何故だか現実と数年ズレています。わたしも同じようなことをよく経験します。10年近くキープできた体重がここのところ再び増えてきていますが、最近になって「先生、最近またやせましたね?」と云われるようになりました。他人の印象が現実を反映しない理由は、年齢に伴って肌の張りが落ちてくるからかもしれません。「何ら気にすることはありませんから、自信を持って今の生活を続けてください。間違っても、意に反して大目に食おうなどとは思いませんように!」・・・それだけ助言しました。
「春先から食欲が落ちてきてやせてきた。睡眠も気分も問題はないし甲状腺ホルモンも正常だったが食べないとやせるので、ムリに食べている」という40歳の女性も同じ日に受診されました。
まだ更年期とは云えない妙齢の女性です。あまり悲壮感は感じられませんでした。何かホルモン的な異常が隠れている可能性はありますが、食べたくもないのに無理にカロリーを摂取しようとする必要はないことを伝えました。「ムリして食べなくても、体重がなくなってしまうことはありません。体調が良いのであれば、食べたいときに食べ、食べたくないときに食べない、自分の感覚に正直に生きても大丈夫!あなたのカラダが今の状態を求めているのですから」と。
本当に、世の中、こんな悩みも多いのだということを痛感しました。(つづく)
CreNet.comに「ビタミンDが健康に及ぼす影響」という題名でまとめられた記事がありました。タイトルだけ書き写してみますが、意外に旬なのだなということがわかります。ただ、なんじゃそら?当たり前じゃろ!という内容も多く、結局は「過ぎたるは及ばざるがごとし」「サプリは不足している人にしか効果がない」というありふれたことがよく分かっただけのような気もします。
●ビタミンD不足の高齢者は日常の活動に支障
●アルツハイマー病にビタミンD不足が関連
●うつ病治療にビタミンD投与は有用
●ビタミンDの摂取がパーキンソン病の症状を安定化させる
●高用量ビタミンD摂取、65歳以上の骨折リスクを低減
●ビタミンD+カルシウム、高齢者の骨折予防に効果
●女性高齢者への年1回、高用量ビタミンD投与、転倒リスクを増大
●ビタミンDサプリ摂取で膝OA改善せず
●母親の血中ビタミンD値、子どもの骨塩量とは無関係
●ビタミンDサプリ摂取はビタミンD欠乏小児の骨密度を改善する
●肺結核症に高用量ビタミンD補助薬は有効
●ビタミンD服用、上気道感染症の発症・重症度を抑制しない
●ビタミンD投与、左室心筋重量係数に変化なし-左室肥大を伴うCKD患者を対象としたRCTより-
●血清ビタミンD値と小児アトピーの重症度、統計学的に有意な関連は認められない
●ビタミンDサプリ摂取で血圧が低下
●ビタミンDサプリ摂取で、コレステロール値は改善しない
●ビタミンD低値は2型糖尿病の発症リスクを高める
●血中ビタミンD濃度の低い人では虚血性心疾患の発症リスクが増大
●ビタミンD摂取不足が脳梗塞の発症リスクを高める
わたしがまだ尖がっていたころ、『おりあい』などということばは単なる妥協で、堕落の象徴だと信じていました。
「わたしの方が、絶対に正しいのだから、そのことを相手が認めない限り解決などありえない!」と。
『おりあい』をつけるのに絶対に必要なことは、相手をわかろうとすること。相手をわかろうとすると、相手もわたしのことをわかってくれる。でもそれは自分に余裕がないとできないことなの。
『おりあいをつける』というのは、自分のココロにもカラダにも余裕がある証なのだと思うようになりました。むかしのわたしはココロに余裕がなくて尖りまくっていたから、『おりあい』がつかなかったのは当たり前のことだったのかもしれません。今でも時々『おりあい』をつけたくない(自分から折れたくない)と思うことがあります。そんなことを思う機会はかなり減りましたが、まだ時々あります。それはわたしのココロがとても弱っているときです。そのときは、『おりあい』を付けるべきときではないのだから、無理して『おりあい』をつけようとしなくてもいいんだ、と思っています。いつかつけるべきときが来たら勝手に『おりあい』はついてくるものなのだから、そのときを待てばいいのだ、と。
「わたし痩せなきゃいけないのに・・・。これ食べたら太るから、食べちゃダメなんだけど、やめられないのよ!わたしってダメね」っていうヒトがいるが、あれは、何も云わなきゃいいのではないか。「痩せなきゃいけない」とか云うから反省になるのだし、周りの人間にはどうでもいいグチを聞かされてせっかく美味しく食べているのにその場が白けてしまう。どうせできないのだから、開き直って「わたしは食べることに決めたの」って云っておけばいいのだ。あるいは何も云わなければいいのだ。そうすれば、それを聞いている周りのモノも不愉快にならないで済んで、みんなハッピーだ!
そんな趣旨の意見を、先日テレビのバラエティ番組であるタレントさんが話していました。たしかにその通りだなと思います。ただ・・・その言い訳をしている御仁の気持ちももっと良くわかります。「自分はダメな人間だけれど、でもがんばる気はあるのだ」という姿を皆に知らしめしたのです。痩せられる人ができる人間であり、がんばれる人間しか評価されない風潮の現在、それをがんばろう!と思うことさえしない者は、価値のない存在。自分はそんな連中とは違う。がんばらないのではなくて、がんばろうとするけど今は上手くいかないのだ、ということを皆に分かってもらいたいのです。
「食べる」という人類最大の欲求に、こんな無意味な悩み方をしなければならないなんて、悲しい時代です。
循環器内科で働いていたころ、毎年大きな学会に演題を複数題出すのがノルマでした。忙しい診療の後や週末などを利用して、膨大な数のカルテや検査資料をまとめて、学会発表し、論文にするのです。まあよくぞがんばったものだ!と、若き日の自分をほめてあげたいくらいです。
毎年、年度初めに研究テーマをボスと話し合います。前もって自分がやってみたいと思う内容をプレゼンし、それに取り組む価値があるかどうかを討論します。これが終われば、後はただただがんばるだけなのです。この話し合いのときに、ボスがよく云っていたことば、「だから何?」。その研究をやったとして、それで何かの結論が出たとして、それは何の役に立つの?それから普遍的な結論は得られるの?得られるとして、それによって患者さんはどんな恩恵を受ける可能性があるの? 学問的に面白いかもしれないけれど、患者さんや臨床現場に役に立つ結果でなければ、ただの自己満足でしかない・・・それが彼の確固たる持論であり、哲学でした。毎年のことですが、いつもそれを云われてグーの音も出ない状態になっておりました。
先日のCareNet.comで「腎臓結石の女性は冠動脈疾患のリスクが有意に増大する」という記を読んでいて、「だから何?」とつい口走ってしまい、そのときになぜだかむかしのことを思い出した次第です。
「あいさつ」のことはここで何度も書いてきました。一番頻度が多いかもしれません。
毎朝のことなのです。先日の朝にも病院の廊下で若い女性スタッフにすれ違いざまに「おはようございます」と声をかけたらちょっと口ごもった後で「おはようございます」と返事を返してくれました。わたしの前を歩いていた若いドクターとはきっと何もことばを交わさなかったのだと思います。「声をかけてよかった」と思いました。
小学生のころに誰彼かまわず大声であいさつしていたのに、それをしなくなるきっかけは各人各様でしょう。思春期になって恥ずかしくなった。あいさつしても返してもらえなかった。「あんた、誰?」と云う顔で見返された。・・・「いいさ。どうせ知らない人なんだから」と思い始めたころからあいさつは段々と自分の行動パターンの中から消えていき、必要最小限になっていくのでしょう。
わたしは、もちろんTPOはわきまえますが、気が向いたらできるだけこっちからあいさつをすることにしています。職場施設内なら、自分を知っていようがいまいがその多くは仲間のはずです。厚顔無恥になれるのは年齢のせいかもしれません。相手が無反応でも大して気にすることはありません。唐突にあいさつしたときに、相手の顔が一瞬驚いたあと、「にこっ」と笑う嬉しそうな顔が好きです。「お、おはようございます!」その慌てた小さな声が聞こえると、よっしゃ!とココロの中でガッツポーズ!ふと気づくと、わたしの後ろを歩いていた御嬢さんも続いて声をかけています。あいさつなんて最初の閾値がちょっと高いだけだから、きっかけの空気を作ってあげれば、みんなしたくなるものさ。逆に、自分が云いだす前にあいさつされるとショックです。「しまった!こっちから云えばよかった!」とちょっと落胆し、後悔してしまうのです。
そんな小さな葛藤と喜びが、毎朝のわたしの日課です。
縁あって、毎年行われる同じ企画の講師依頼をいくつか受けています。毎年、同じ時期に、同じ年齢層相手に、同じ内容の講演をします。
数年前に初めて依頼を受けたとき、「この題名で、こんな内容で、2時間でお願いします」などという要望を受けて準備をしたわけですが、2年目になり、3年目になりするうちに、少しずつ内容が変わっていきました。1年前に「ああすればよかった」と後悔したこと、この1年で新しく得た知見、「こういう云い回しの方が分かりやすいな」と改良したことなど・・・いつも新しい目で分かりやすく説明してあげたいと思うわけです。2年前の新しい内容はすぐに陳腐になり、あるいは新しい考え方に入れ替わってしまうなどということは、予防医学の世界では珍しいことではありません。だから、毎年同じテーマで同じ持ち時間なのに、ギリギリまで内容をいじりまくってしまうわけです。
ところが、先日の講演の時、スライドを見直していて依頼者にもらった題名を改めて見たら、「え、そんな題名だったっけ?」と思わず叫んでしまいました。初めて依頼を受けたときの内容と中身は大きく変わらないのだけれど、伝えたいポイントがいつの間にか少しずつ変わっていってしまい、気付いたら何か題名がしっくりこなくなった感じなのです。今さら変えられないのでとりあえずごまかしておきましたが、来年はしっかり初心に戻らなけれいけないな、と思った次第(来年もする気かい?)。
新しい特定健診・特定保健指導の世界に入ってきたスタッフの方々への講義を終えました。ホッと一息です。与えられたテーマである、「動脈硬化発症のメカニズム」はまあ理解してくれてもくれなくてもどっちでもいいですが、予防医療への思い入れだけは、参加者の一割だけでいいから分かってもらえたらうれしいなと思います。
自分が関わった方々のひとりひとりのこれからの人生が、「楽しい人生」になるか、「苦しい人生」になるか、それが自分たちにかかっているのだということを肝に銘じておいてほしいのです。「今を頑張らないと病気になって『苦しくて辛い人生』になるから、そうならないように、将来やりたいことがやれて『良い人生だった』と思えるような人生を歩めるように、今頑張りなさい」ということだと勘違いしてはなりません。
『今』を楽しくエンジョイできる人生になるか、それとも節制だらけの苦しい人生になるか、それの介入をするわたしたち次第だということです。同じ「予防医療」としてのゴールがあるとしても、それに到達する方法はたくさんあります。若くてやわらかいアタマで、もっともっと広い視野での提案をしてあげてほしいものです。
くどいようですが、あなた方が学生のころの教科書理論や職場の先輩たちに教わったりどこかのエラい先生が教えてくれた栄養理論や行動変容理論にこだわっていてもしょうがありません。何故なら、日本中の予防医療の精鋭たちがそんな理論を実践しているのに、生活習慣病は増加の一途なのです。遠い昔からある理論が、屁のツッパリにもなっていないことを物語っています。人間は、理屈通りには動きやしないのです。ヒトを動かす有効な手段は、これからあなた方が見つけ出してください。世界中でそれを待っています!
そういえば、暑中見舞いはがき、書かなくなりました。実際、仕事絡みのはがきを除くと、今年の夏にわたしに届いた暑中見舞いはがきは2通だけです。まあ、自分では一枚も書いてないし、返事も書かなくなったのだから来るはずもないのですが。
30歳代まではがんばって書いていました。枚数は少ないけれど手書きのイラストを入れたりなんかして・・・。学校で夏休みになったらすぐに書くことを躾けられ、それは当たり前の日本の風習だと思い込んでいましたのに、いつのころから書かなくなったのでしょう。確かに他のコミュニケーションツールが発達し、はがきや手紙そのものが連絡手段にならなくなりました。年々季節感が薄れ、日々の忙しさに追い立てられて気づけばすでに”残暑”になっているというのが実際です。「年賀状と暑中見舞いは単なる郵政省の策略だ!」とまで揶揄され、そういえばそうだな、そんなもんに無駄に金を使うくらいならビール飲んだ方がマシだな!とすぐに感化されてしまうタイプの人間です、わたしは。
それでも、先日舞い込んだ友人からの暑中見舞い・・・大きな麦わら帽子をかぶせられた子犬が青空のもとでボーっと佇んでいる写真だけのシンプルなもの・・・を眺めながら、「暑中見舞いっていいな」と思った次第。
昨日、何気なく立秋を迎えました。皆さま、残暑お見舞い申し上げます。
先月の横浜の学会はWi-Fi環境下のweb抄録で、紙ベースの製本された本は一切発行されませんでした。7月の仙台の学会もそうだったと聞きます。紙ベースの人生を送ってきたオジサン世代は付いていけませんなあと思いながら、サクサク動くWi-Fi環境が意外に快適で、ふと周りをみるとタブレットを撫で回したりパソコンを叩いたりする輩は決して若いものばかりでないことを考えると、これも時代なのでしょうか。それでもやはりわたしの場合は、モニター上の文字を追っても内容がなかなか頭の中には入ってくれません。その文章が長ければ長いほどその傾向が強くなります。
最近は電子書籍が広まって、あまり「本」が読まれなくなったと云われます。でもそれは本当でしょうか。もはや本は無くなるだろうと云われていますが、そんなことあるのでしょうか。だって、今でも本屋さんに行ったら、どこだって老若男女であふれていますよ。街で時間が余ったらとりあえず本屋に行って時間を潰す習慣、わたしたちの世代だけではなく今どきの若い子たちも、いやむしろ彼らほど、その習慣が強いように思いますがいかがでしょうか。
電子書籍にココロが騒がないので、わたしは今でも気になる本をみつけたら本屋の店頭かあるいはamazonを使ってすぐに購入します。ただ、ほとんど読めません。読もうと思っても、本を広げて5分もしないうちにアタマが違うことを考えてしまうのです。全然違うことを考えてアタマの中では堂々巡り、そして気付けば意識消失。そんな繰り返しです。これは、本か電子書籍かを論じる以前の問題ですね。
高校1年の夏、学年全体の林間学校みたいなのが阿蘇でありました。県内あちこちから集まってきた者たちが一堂に会して一緒に共同生活をする活動です。
夜の国語の授業かなにかで、先生が聞きました。「思いつく形容詞を云ってみなさい」・・・フロアに座る生徒たちに端から順番に当て始めました。「美しい」「楽しい」「悲しい」・・・想定内の回答が並ぶ中で、一人の男が、「よだきい」と叫びました。みんながドッと笑いました。「ああ、『よだきい』ね。大分が誇る代表的な形容詞やね」と先生が引き取りました。そうしたら、となりにいた男が「しちくじい」と云いました。また、みんなが囃し立てました。続いて「せちい」「げさきい」・・・続々と出てくる大分方言を、苦笑いしながら先生が板書していきました。
そんな光景を傍で眺めながら、わたしは唖然としておりました。普通の進学校の授業で、「形容詞を並べろ」と云われたときに、こんな方言が「形容詞だ!」ということに気付いた上でもっと他にも数ある単語の中からあえてこれを選ぶセンスに感動し、自由にそれを口にする勇気に驚いておりました。悪乗りしただけ、と云われればそうかもしれないけれど、ガチガチに固いアタマで物事を「こうあるべき」と一方的に考えてきた自分にショックを与える”事件”でした。
一昨日、久しぶりにゴルフ場の風呂に入りました。いつもは急いで帰ってワンズの散歩をしなければならないので風呂に入らないまま帰っていたのです。
久しぶりに大きな鏡で客観的なハダカを見ました。我が家にも大きな姿見はありますが、一人だけを写して周りとの比較がないので、ちょっと依怙贔屓(えこひいき)しすぎ。
胸板が厚い(太っているともいう)、下腹が発達している(太っているともいう)、腹筋が3つか4つに割れている(太っているともいう)、あばら骨が見える(胸の筋肉が落ちたともいう)などは、我が家の3割増しサービス鏡でも分かっていました。
それはまあ想定の範囲内だったのだけれど・・・ただ、ふっと立った時の自分のお尻を見て愕然!
「じいさん尻」やん!!
この垂れ下がったブヨブヨ尻は・・・イカン! 数年前にもこの尻、見たことある。ショックで必死にヒップアップに努めて美尻(ちょっと云いすぎか)に戻した経験があるのだ、オレには。
ガンバロー!
7月19〜20日に北九州市で第10回日本うつ病学会総会が開催され、このときのシンポジウムで「いわゆる『新型うつ病』に対する学会見解を目指して」というのが行われたという記事をMTPro(2013.7.23号)で読みました。本来医学用語ではない「新型うつ病」という名前が独り歩きし、社会の各所に波紋を投げかけていることに対して、学会としてのコンセンサスを得ようというものです。現状として、「新型うつ病」は排除することなくきちんと鑑別診断し,職場や産業医との連携を強化するなどして対応すべきとの見解で一致した、とありました。以下、MTProに書かれていたことを羅列してみます。難しいことも書かれていますが、興味のある方は是非ご一読ください。まあ、結局なんだかよくわからない、というのが正直な感想ですが。
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●「新型うつ病」の特徴は,「そもそもうつ病に特有なものなのか」と疑問も呈し,「現代の若年者に共通する一般的な特徴ではないか。なんらかの原因で精神的な不調に陥れば,これらが強調されることはありうる」と続けた。「したがって,こうした特徴をもって一くくりにカテゴリー化することの意義は乏しい」と述べた。(九州大学大学院人間環境学研究院実践臨床心理学教授の黒木俊秀氏)
●かつてある種の美意識が認められていた悲哀・喪失感情や抑うつ気分が否定され,外向的で積極的な性格のみが肯定的に捉えられる風潮が生まれた点にも言及。「新型うつ病」は,こうした社会に生きる若年世代の「非特異的な援助希求行動として捉えるべき」と主張し,診断学上の議論は可能としながらも,治療対象から除外する考えには反対の立場を表明した。(筑波大学社会精神保健学教授の斎藤環氏)
●「最近のいわゆる『新型うつ病』は社会的修飾を受け過ぎており,“野生の”あるいは“無垢の”うつ病はほとんど存在しない」として,「ファーストラインから薬物療法を除外し,休養ならびに生活習慣の指導から開始する」と提言する。(同上)
●たとえ精神医学用語ではないからといって,「新型うつ病」と呼ばれる病像を呈する人たちを切り捨てるのではなく,さまざまな精神疾患の可能性を考慮しつつ治療介入していくという姿勢が大事である。(産業医科大学精神医学教授の中村純氏)
何かと文字や響きにナーバスになり過ぎの感のある昨今。先日、何かの本を読んでいて『自死』ということばがひっかかりました。
『自死』・・・いつのころから出てきたことばなのかわかりませんが、イメージ的には『自決』の感じなのでしょうか。『自殺』の『殺』という字が犯罪をイメージさせるとか、自ら死を選ばざるを得なかった、あるいは意思的に死を選んだ者に対して、それが非道徳的・反社会的行為と責めるべきではない、という観念から生まれた造語だと認識しています。インターネットで検索をかけると『自殺』と『自死』はいっしょくたにされていて、そのことに対してまで目くじらを立てるひともたくさんおられるようだけれど、行為そのものに対する考え方やその当事者への思いが、そんな屁理屈的こだわりのために逆にないがしろにされているのではないか。あえて云わせてもらうならば、わたしはそう感じます。自ら死を選ぶことが、自分を殺すことであっても、自分を死の世界に誘うことであっても、どっちにしても決して美化されるべきものではないし、自分をおもんばかってほしいという思いや悔しいという思いがあったとしても(いや、あればあるほどに)、そんな詰まらぬコトバジリを取り沙汰することで無意味に論じてほしくない!と思うにちがいないのです。
「子ども」とか「障がい」とかと同じように、無理に強調するがために返って逆効果になったことばのような気がしてなりません。
<肥満期間が長いと冠動脈心疾患リスクは増大する?>という記事がCareNet.comで配信されました。JAMA2013.7.17号掲載の報告だそうですが、若いころから太っていて肥満期間が長いほど、心筋を栄養する血管(冠動脈)の石灰化が強くなり、中年期以降の冠動脈心疾患リスクの増大につながるというものです(Jared P Reisら、 米国・国立心肺血液研究所)。
この記事を見る限り、その機序についてはあまりくわしく書かれていません。でもわたしはこれを読みながら、先日の第13回日本抗加齢医学会総会のランチョンセミナーで徳島大学の佐田政隆先生が「血管周囲脂肪組織などの異所性脂肪が動脈硬化を助長する因子になるのだ」と話されたことを思い出しました。冠動脈などの血管周囲にある脂肪組織が肥大すると、肥満度(BMI)とは関係なく血管内皮機能を悪化させて動脈硬化を起こすのだそうです。本来、脂肪細胞は動脈硬化を抑えるホルモンを出す臓器ですから、血管の表面の脂肪をはぎ取ると血管は障害を受け、やせた小さな脂肪細胞をその血管に張り付けると機能が改善します。きちんと皮下脂肪がある女性よりもやせすぎて皮下脂肪のない女性の方が危険だと云われる所以です。ところが、血管に肥大した脂肪細胞を張り付けると、何もないときよりも返って機能が悪化した、という実験結果を見せていただきました。
内臓脂肪が蓄積したとかしないとか云うグローバルな世界だけでなく、血管周囲の局所でも余分な脂肪がくっつくと直接炎症反応を引き起こして、その炎症が続くために動脈硬化が徐々に進んでいくという事実が、この記事のおかげでやっと理解できました。糖化ストレスもそうですが、長期間の曝露は必ず将来のツケを残す。だから若いうちからの節制が大切!・・・わかってます。わかってますけど、当事者にそれを実感させる方法は、ありましょうかしら?
「おれ、あんたの年代の人たちって、たいてい苦手。他人に対して、冷たくも暖かくもなくて、それって、当たり障りのない感じの良さだけを求めてるようで、ずるいって思う。仕事でもそう。意欲があるんだかないんだかわかんねえんだよ。争ってまで、自分のやりたいことを通すガッツもないしよお」・・・この本の最後の山田詠美さんの解説文の中に出てくる彼女の年下の男友達のことばに対する彼女の云い訳に、「なるほど」と思った。
・・・「それは、実は、やる気がないのでも争いを避けている訳でもないのだ。実際、どうして良いのか解らず、ただ照れているだけなのだ。・・・(中略)・・・私たちは、がんばりの気恥しさを唯一習得した世代なのだ。」
「きみたちの世代って、妙に、へらへらしてないか?おれたちが若い時って、理由もなく反抗したり投げやりになったり、暗い一時期を通り過ぎて来たもんだが」という年上の男友達のことばに対する弁明には、拍手喝采したくなった。
・・・「私たちだって、暗さを気取った青春時代を通り過ぎて来たのだ。ただ、そんな自分を茶化さずにはいられない、悲しい性ってやつが、私たちには、どうしても、ある。ほれほれ格好つけてんじゃねーよ。というつっ込みを自己保身の手段としてしまった唯一の世代なのである。」
そうなのだよ。しゃかりきにがんばっている姿がカッコ悪いと思われた世代なんだよ。「ニヒル」ってことばがカッコ良かったんだよ。内心、必死で頑張っていても「がんばってませんよ~」「こんなもん、かったるくてやれるかよ」ってポーズを取るのが男の甲斐性ってもんだった世代なんだよ~。
原田宗典氏の20年も前の作品を読みながら、最後は同い年の女性に庇われながら、「そうか、自分はそんな時代の遺品なのか」と妙に総括されたわけであります。
大変長い文章になり、まことに失礼いたしました。
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