« 2013年8月 | トップページ | 2013年10月 »

2013年9月

忙しがり屋

いつも何かに追われて生きてきた気がします。いつも、何をしなければならないか、まだ残っている仕事は何か、毎日何度も確認しながら生きてきた気がします。

それがいまだに沁みついていて、休みの日に朝から何もすることがないと、何か大事なことをし忘れているのではないかと不安になります。最近は、依頼される講演の数も減りましたし、抱えていた連載コラムも1つになり、職場で任せられている企画も特にないし、きっとのほほーんとして生きていても大丈夫だと思うのに、何かせずにはおれずにいます。変えなくても大丈夫なスライドをあえて変えてみたり、することがないと掃除を始めてみたり、facebookにちょっかいを出してみたり・・・わかっているんです。何もしないで前進が止まった時点で人間は堕落が始まる、医者としても人間としてもそれでは生存の価値はない、とわたしに厳しく教え諭していただいたのは今は亡き職場のボスですが、きっと何もしなくての何も変わらないということ。単なる貧乏性で小市民で心配性なだけだということも。かと云って、今のうちに読んでおきたい本やDVDを見たり、行きたかった研修会に参加したりするいい機会だとは思いながら、三の足も四の足も踏んでいることの方が、本当は問題なのかも知れません。

こうやって反省も学習もするんですが、行動に移せないはがゆさ、なう。

| | コメント (0)

心配ない?

・・・去年の人間ドックで糖負荷検査を受けたら「境界型糖尿病」の診断を受けました。それが物凄くショックだったので、半年後にかかりつけ医でもう一度糖負荷検査とインスリン測定をしてもらったら、全然問題なかったんです。「心配ありませんよ」と先生に云われました。・・・先日の人間ドックで、そう胸を張って主張する女性がおられました。良い結果だったことはまあ良かったとして、これを「心配ありません」と云ってあげてもいいのだろうか?・・・あまりに自信を持ってそう云う彼女を見ていてちょっと気になりました。

たしかに小柄な痩せ型の女性だから、負荷用の75gの糖が多すぎたのかもしれず、インスリンの異常がないのに負荷試験で食後高血糖になったとしてもおかしくはないと思います。でも、同じシテュエーションでも、ならない人はならないのです。大好きな甘いものをガツガツ食ったら、食後高血糖が起こる。あるいは食後低血糖発作を起こす危険性がある、ということを負荷試験の結果が示しているわけですから、何が「心配ありません」なのか?

世間では「糖尿病」の診断名に異常な反応を示します。糖尿病か糖尿病でないか?「境界型」であろうとなかろうと、糖代謝異常の「異常」を打ち消すのに必死になり、インシュリン反応が正常か異常か?が気になってしょうがないようです。だから「違う」ということばをもらうまでいろいろな検査を受けたりします。これから生命保険に入ろうとしているのならともかく、そんなことに必死になっても何の意味もないと思います。負荷試験が示していることはただ一つ!ドカ食いしたり血糖を跳ね上げるような食べ方をしたらあなたは動脈硬化になったり細胞が老化したりする危険性がありますから、日頃から味わい方に注意しましょうね、ということだけです。逆に云うなら、それをしなければ、糖尿病にならなくても心筋梗塞になるかもしれないよ、ということ。とてもシンプルな忠告だと理解してもらいたいものです。

| | コメント (0)

ちょこちょこっと?

「先生、校正をお願いしていた記事の修正が出来上がったのですが、ちょこちょこっと読んでみてくれませんか?」と、うちの若いスタッフが原稿を持ってきました。

「先生、お忙しいと思いますが、原稿の案を書いたので、これでいいか、ちょこちょこっと読んで確認してくれませんか?」と、別のスタッフが別の原稿を持ってきました。

でも、どちらも即座にお断りしました。

「ちょこちょこ」っと文章校正なんかできるもんか! 皆さんは、文章校正を頼まれた時に、ちょこちょこっとやるから全く校正ができてないのですよ。「先生が最終確認です」と回ってきた原稿を真っ赤っかに修正して差し戻したことは何度もあります。コーヒーでも飲みながら、足など組んで、内容が間違ってないか?書いてあることが理解できるか?読んでそんな感想を述べるのが校正であり文章チェックだと思っているからそんなことになるのですよ。「に」の方がいいか「へ」の方がいいか、あるいは「より」と「から」とどっちがここにそぐう助詞か、「だから」はどの単語の前に入れるのが一番分かりやすい構成になるか、日本語を考えるときにはそういうことに気を配らないとせっかくの文章が死んでしまって勿体ないのです。

Facebookやブログやメールの文章と、正式にパブリッシュされる文章とを同じ次元で考えていてはいけませんよ、皆さん。

| | コメント (0)

意気

「A先生。実はわたしの都合で明日は休みをいただきます。明日は先生には申し訳ないけれど、わたしの分まで頑張ってもらえんね!」

先日、ある検査の責任者が休みを取り、しかもその日に応援の医者が確保できなかったために日ごろ4~5人でやっている検査を2人でしなければならないことになりました。だから責任者代行をA先生に指名することになった、と報告を受けました。そのときに、お願いしたのです。冒頭のことばをA先生にかけてあげてほしい、と。

「だって、2人しか居ないのだからしょうがないじゃないですか」と予定を組むヒトは云います。その通りでどうしようもありません。でも、そこで「あなたを見込んで折り入ってお願い」と云われるのと、「あなたしかいないんだからしょうがない」と云われるのとでは、まったく違います。「先生に頼む」と云われればそれを意気に感じて、ちょっときついけど頑張ろうか!という気持ちになれますが、「しょうがない」となるとどうして自分が貧乏くじをひかなきゃならないわけ?と不満が湧き出てくるのが人情です。

同じことなら、何とか皆が意気を感じて頑張れる方が良いに決まっています。

| | コメント (0)

忙しい

先日の午後、とても忙しかったんです。もともと午後に有休とっていた先生に加えて、お子さんが熱発して急きょ帰宅を余儀なくされた女医さん、前日簡単な手術を受けて当日に出勤予定だったのに来れなくなった先生、とアクシデントが重なって、午後の医師が異常に少なくなったわけです。

まあ、そんなことはしょうがないんじゃないの?と思うのですが、予定をアレンジメントする担当の方にとっては気が気ではないみたいで、得てしてその矛先がもともと午後だけ有休をとっていた先生に向けられたりします。「これだけ職場が大変なので、1時間だけでも働いてもらえませんか?とお願いするのに、ダメの一点張りなんですよ。信じられない!」と。

でも、それってお門違いですよね。きついからちょっとこの日は家でサボりたいという休みの取り方ならともかく、おそらく家庭の都合かお子さんや誰かとの約束があっての有休なのですから。1日休んでもいいのに、職場のことを考えて午前中だけは働きに来てくれたわけでしょ。大変なのはわかるけどそこは慮ってあげて、残った人間で頑張りましょうよ。受診者さんにはちょっとご迷惑をおかけするかもしれないけど、説明が夜にまでずれ込むことはないのだから。

・・・なんて殊勝なことを云ってみてますが、わたしの魂胆ははっきりしています。わたしは「休む」と決めた日はどんなアクシデントがあっても休みます。だから、逆の立場のときには文句なんか云う気はまったくありません。人生、ケ・セラ・セラで意外になんとかなるものですよ。

この文章を前もって書いておいたのでアップしましたが、実はくだんの先生はちゃんと2時間延長して働いてくれました。エライなあ・・・それでもわたしは休みますよ、どんなことがあっても。

| | コメント (0)

遺影

中学同級の内科医。何度も重複がんや転移を起こしては手術を受けて闘ってきた友人が亡くなりました。「亡くなる直前まで診療をしていたい、という夫の希望はかなえられたのではないかと思います」と気丈な奥さまは云いました。「緩和ケアでの最後の3週間で健やかな表情になって逝きました」とも。

仕事を早退させてもらって、3時間かけて通夜に駆けつけました。長いこと会うこともなかった関係なのに、何かがわたしを駆り立てました。一番前の椅子に座り、お経が上がっている間中、わたしは大きな遺影を見つめていました。「いい写真だな」・・・そう口にしながらも、中学時代の彼の顔と写真の顔を重ね合せようとしてもなかなか一致させられません。それでもずっと彼の目を見つめていたら、3D画像のごとく突然彼の顔が浮き出て動き始めました。「あれ?」と驚いて眺めていたら、彼が笑いました。その顔は、そうだ、中学のときの彼の笑い顔だ! 「おつかれさん」とココロの中で声をかけました。

でも、そのままボーっと眺めていたら、今度は急に顔が険しいシワだらけの顔に変わりました。そのまま目元から壊れていきそうになったので、わたしは慌てて目を逸らしました。しばらくして恐る恐る目を上げてみたら、最初に見たときの穏やかな写真に戻っていてホッとしましたが・・・本当は無念だったのだろうか?こんな運命の自分を嘆きはしなかっただろう。残る家族や患者さんや職員さんのことを慮る気持ちが残ったまま逝ってしまったのだろうか。若くして逝ってしまった友人とというより、彼を思うわたし自身のココロと束の間の会話をして、思いきり泣いたあと、最後にもう一度大きな遺影をしっかり眺め返してから斎場を後にしました。

棺に横になった彼の顔はとても穏やかでした。最期に会えて良かったです。 合掌。

| | コメント (0)

送られてきました。

ココログ出版から、これまでのアップ文章を5冊にまとめた本が送られてきました。

想像していたのよりはるかに小さな冊子でした。2007年12月28日の「やっと」から始まって、2013年8月1日の「十七歳だった!」(3)が最後になりました。注文の都合でこの日までが限界だったのです。

ココログ出版がなくなるので、慌てて注文しましたが、いざ小さな印刷物になって来てみると、なんかちょっと寂しいですね。8月2日以降も毎日アップは続けているわけですが、どこか<番外編>の感覚になっているのがわかります。たしかに書き始めた頃の方が毎日の文章に力がありましたね。たまたま読んでいただいたヒトがいたときに、当たり外れがないようにしたいというのがコンセプトでしたから。今後も惰性にならないようにがんばりますので、よろしくお願いします。

| | コメント (0)

白衣のクリーニング

職場の白衣はベンケーシー型ではありますが、ちょっとおしゃれなファスナー式(レンタル品)に替わりました。クリーニングは各自が家でしてくるのではなく、指定業者がやってくれます。

ただ、気になっていることがあります。クリーニングで返ってくる白衣のファスナーのところの布がめくれ上がっているのです。みんながみんなそうなって返ってくるので、きっと布質や構造的な問題でやむを得ないのだろうなと思っていました。ところが、先日返ってきた白衣はめくれあがりがなくて新品のようにきれいに整っていました。あ、何かやり方を変えたのかな、と思ったけれど、その次に返ってきたのはやはりむかしと同じめくれ上がり方でした。あの1回はただの偶然?

機械がやる作業ではなくて、最後にたたむのは人間がやる作業。きっと普通のマニュアル通りにやるとめくれるのでしょうね。それが基本。だからめくれるのはしょうがない。でも、めくれないように気を遣ってやればきっとめくれなくなる。それは、そこに気を遣うかどうか、だけのはなしなんだろうな。そう思いました。そこに気を遣っても遣わなくても自分の給料には変わりがないし、誰がしたかが分かるわけではない。そこに気を遣ったって相手がそれに気づいてくれるかどうかも分からない。そこに気を遣うことで処理できる量が減ってしまったら、かえって怒られるかもしれない。

でも、ちょっと気を遣ってくれたことで、ものすごく気分が良くなったオヤジがいるよ。気を遣ってくれたヒト、誰だか知らないけれど、ありがとね。

| | コメント (0)

ニュースキャスター(後)

別に、番組やF氏の批判をしたくてこれを書いたのではありません。むかしは好きだったF氏の口調がイヤになった。することすべてが大好きだった恋人のしぐさの小さなことがイヤになり始めると何もかもがイヤになって、「会うのもイヤ!」となるのが恋の破局のきっかけだったりしますが、そういうことを書きたいのでもありません。

わたしたちも、ことばの表現で相手を動かす仕事をしているわけで、自分の話し方はどうだろう?と考えるわけです。行動変容に対する生活指導・・・この仕事を始めたころ、抱え込んでいる危険性をとことん冷たい口調で脅して不安を煽るのが一番効果的だと思っていました。「今の状態を甘く考えているようですが、この状態は今日の帰りに心筋梗塞で倒れたとしても誰も驚かないよ!という意味ですよ」という云い方がわたしの殺し文句でした。顔色が変わるほどの大きなショックを受けて診察室を後にした受診者さんが、保健師の部屋で慰められ、一大決心をする!という流れが、保健指導の王道だと思ってやっていました。だからいまだにわたしは「結果説明が厳しい!」と思われており、「先生にガツンと云ってもらいたいからこの人の説明を願いします」という依頼をよく受けます。

でも、今のわたしはそんな云い方はしていません。事実は事実として説明しますが、とっても優しい口調です。うちの医師の中で一番辛辣なことを云っている割には一番優しいかもしれません。やろうとしているけどできないのです。それは「考えが甘い!」のではないことを知っています。だから、うまくいかない理由を考え、どうやっていくといいだろうかと本人と一緒に考えることにしています。あれ?叱られなかった・・・と肩透かしを食らわされるとこれが返って不安になったりしますが、そんな効果を期待しているからそんな云い方になったのではありません。かつての自分の云い方を、もし自分が聞いたらどうか?と考えたとき、とてもイヤな気がするだろうな!と思ったのです。それは自業自得だからしょうがないのかもしれない。でもそんなことはわかっているけれど、わかっているからこそ他人にそんな云い方で云われなくてもいいじゃないか!と思ったのです。自分がイヤな云われ方はもちろん他人もイヤなはずだから・・・そう思って試行錯誤している日々なのですが、まだ一番良い方法が見つかりません。

| | コメント (0)

ニュースキャスター(前)

某TV局で毎晩放送される報道番組があります。今メインのニュースキャスターをしているF氏の前任者であるK氏が初めて日本の報道番組にニュースキャスターの概念を定着させたのだと認識しています。それまで、ニュース報道は常に中立が基本であり、如何に事実を忠実に伝えられるか、というのがニュース番組の命でしたから、そこに歯に衣着せぬ切れ味の良い口調で事実に対する自分の意見を加えるニュースキャスターの出現というのは日本では画期的なことでした。

そんな番組だったので若いころから好きだったのですが、最近はこの番組が始まると他の局にチャンネルを替えることが多くなりました。キャスターのF氏が、何かまるで、批判をすることが自分の存在意義であるかのような口調で、何でもかんでも文句をつけるのがとてもイヤな気持ちになるようになったからです。批判のための批判はまるで万年野党の某政党の論調と同じで、次のステップへのビジョンが何も感じられないのです。政治家さんたちの詭弁は世にたくさんあります。詭弁だけで成立しているといっても云い過ぎではないかもしれません。だからそれを暴いて白日の下に曝すこの手のキャスターさんに拍手を送ったのですが、今、どこもかしこもニュースキャスター時代。局アナでも自分の意見を発する時代になると、同じことを云うにしてもいろいろな云い方があることを知りました。そうすると、F氏のようなただバカの一つ覚えのような皮肉交じりの嘲笑型の批評口調が、聴く側の気持ちを暗くさせるだけだということに気づいてしまいます。同じことなのに、もっと優しい口調でしっかりと前向きな意見を発しながら現状批判をできる人たちが他の局にたくさん出てきているから、同じニュースを聴くなら他で、となるのは必定。朝のワイドショーや報道番組も同様で、むかしから有名な人気キャスターを各番組が揃えていますが、どうも朝から小言や批判しか云わないオトコの話なんか聞きたくないわ!とチャンネルを替えまくり、結局最近は某国営局の普通のニュースに落ち着くこともしばしばです。

| | コメント (0)

血圧はいつ測る?

ある会社の営業の仕事をしている42歳の男性。血圧が高いのでそれに言及しようとしたら、「心得ています」とばかりにわたしのことばを遮って、「血圧はこんなところでは高くなりますけど家では120とか70とかの値です。すぐに緊張してしまうんです」と誇らし気な顔をして云いました。これまでの人生で育まれた処世術でしょうか。保健師さんやお医者さんにこう云えば逃れらえることを経験値として学習してきたのでしょう。

甘いです。わたしを甘く見ては困ります。「それが、何か? 云うことはそれだけですか?」という空気を漂わせながらゆっくり口を開きます。

あなたのようなパターンをむかしから「白衣高血圧」と呼んできました。緊張すると上がるけれど日ごろは正常血圧だというヒトのことです。ただ、日ごろが正常なのかどうかは24時間血圧計でもつけてみない限りわかりません。「緊張すると上がる」だけど「症状がない」ということは、仕事中に上がっているかもしれません。あなたは日中の大半を働いていますから、仕事中に上がっているなら、ずっと高血圧に曝されているのに気付いていないことになります。別に、10分間くらい安静にして深呼吸した後の血圧で成績発表をしたいわけではありませんから、「日ごろ」という限りは、昼休みや朝起きてすぐや外回りから帰ってきたときなどの血圧を測って、もっと日常を知ってください。むかしは「白衣高血圧」という単語が免罪符になっていましたが、白衣高血圧の方の約1割が10年以内に持続性高血圧に移行することが分かってきたので、白衣高血圧も高血圧治療の対象として日常管理をすべきだと云われています。

そして、もうひとつ。あなたは厄明けしました。あなたが高血圧体質を持っているとしたらこれから発現します。30台までの人生のことは忘れてください。「日ごろは低いんです」と云っているけれど、あなた、最近測ってないでしょ?過去の栄光なんか忘れてください。

ご多分に漏れず、わたしに出会ったがために彼は「高血圧症」の奥深さに打ちひしがれて診察室を出ていくことになりました。がんばってくださいませ。

| | コメント (0)

睡眠を語る

「ショートスリーパーは早死にします!」「短時間睡眠で健康になれる、は勘違いです!」

先日のブラッシュアップ研修会で一番の目玉だった、睡眠博士=東京医大の井上雄一先生はそう強調されました。どうも、最近、『睡眠』と『サーカディアンリズム(体内時計)』の情報が集中的にわたしのところに集まって参ります。もしやこれは、わたしにこれを勉強をしろ!という天の声なのかもしれないと思わないでもありません。

睡眠には「疲れたから眠るしくみ(恒常性維持機構)」と「夜だから眠るしくみ(体内時計機構)」があるのだそうですが、たしかに最近は後者の機構が明らかに乱れています。これは先日書いたばかりのブルーライトハザードの問題も含めて、重要な社会問題になっていくだろうという気がします。

睡眠時間の乱れがメタボを起こす。睡眠リズムと質の乱れもメタボを起こす。都市部ほど睡眠時間が短く、夜に寝ない。高齢者は睡眠の振幅が浅くなりリズムが前にずれていく。不眠(入眠障害も中途覚醒も)は高血圧を発症し、睡眠時間が短くても長すぎても心疾患リスクと体重がアップする。睡眠不足はインスリン感受性を落とし糖代謝異常をもたらす。光照度が増すと突然メラトニン分泌量を抑えるようになり睡眠を妨げる。体内時計が乱れて起きる現代型不眠はうつ病を招き、インスリン分泌低下をもたらし、血圧も上昇させる。睡眠不足は客観的に心身の疲れをもたらすが自覚的な眠気をさほど引き起こさないことが多く、「自分はできる」と勘違いするから事故が起きる。寝酒は、寝付きがよくて目覚めが良いと勘違いするが、実は中途覚醒が多くて翌日の昼に眠気をもたらす。

いつまで書いても書き足りないほど、井上先生のお話は面白く、おかげで先生の著書をいくつか買いました。ただ、かく云うわたしの日頃の睡眠時間は4時間(下手をすると3時間の日も)。まずは、自分の睡眠不全を正すのが先ですな。

| | コメント (0)

医療の定義

新しい特定健診・特定保健指導の研修会に出席していたときに、明快な説明をしていただいた東海大学の高橋英孝先生のお話の中で、最後に気に懸ったのは、「医療の定義」のことでした。

第一期特定健診・特定保健指導の結果、健診受診率は徐々に増えており、一方で支援(積極的・動機づけ)対象者の数(割合)も実施率も徐々に減ってきていますから、一見この特定健診の制度は功を奏したかに見えます。でも、メタボリックシンドロームやその予備群の割合は26~27%で、ほとんど変わっていません。つまり、保健指導の成果で内服治療を開始したことによって特定保健指導の対象者リストから外れた人が増えただけだということです。高橋先生はしきりにそれを気にしており、メタボ自体を減らせないと医療費削減にはつながらない!と強調されました。

まあそれはそうですけど、腹囲でメタボに入れられていても本当はメタボではない人(内臓脂肪蓄積ではない人)は少なからずいるわけで、そういう人がきちんと治療を受け始めてくれたことはすばらしいことなんじゃないのかなとも思います。「太っている人はとにかくやせないと解決しない」という大元の考え方が本当にそれでいいのか?という疑問がわたしにはあります。

また、最近幅を利かせている健康食品や特保食品がどの程度把握できているか(健康食品は薬ではないと皆が思っています)、あるいはもっと深刻な問題として薬剤のOTC化・・・生活習慣病に関連する薬剤の多くがOTC化して行こうとしています。OTCは病院の保険診療で飲む薬でないので服用の有無を客観的にまったく把握できません。本人がそれを申告しない限り薬剤治療中なのかどうかすらわからない中で統計学的な意味はあるのかどうか。「医療」の定義にかかわる根本の問題です。

| | コメント (0)

噛むということ

先日のブラッシュアップ研修会の際、ワークショップで同じグループに2人ほど若い管理栄養士さんがおられたので、素直に質問しました。
「どうやったら、きちんと噛むことができますか?」
そうしたら「数を数えることです!」とひとりの管理栄養士さんが即答しました。
「でも、数を数えていたら味が分からなくなって、おいしくないって云われませんか?」
これまた、わたし自身の素直な感想をぶつけてみました。
「いやそんなことはありません! だって現にわたしは数を数えることを自分でやって、噛む習慣がきちんとできましたから。やはりこれに優る方法はないと思います」・・・くだんの女性がそう答えてくれました。もうひとりの方にも聞いたら、「やはりそうですね」との返事。一応、わたしの持論(量を作らないことと飲み込む前に反芻すること)の提案はしたけど、首を捻ってたから賛同は得られなかったようです。

そうかー。噛むことに対する王道はやっぱり「数を数えること」なのかー。でも、数えていたら味が分からないし、自分の場合はそのうち面倒くさくなって数えなくなったんだよなー。それを結果説明のときに云うと、どの受診者さんも口を揃えて「そうですよね」てわが意を得たり!の顔をして頷いてくれるんだよなー。若い栄養士さんの前で、ただ「自分が頑張らなければしょうがないから味のことより実践だよな!」と自分を鼓舞させているだけなんじゃないのかなあ、みなさん。

どんな方法でもいいけれど、食事は絶対においしく食べましょうね!

| | コメント (2)

70%のつかみ方

知人が若いころに試験勉強をしていたとき、彼の勉強指導をしてくれた友人が云っていたそうです。

「満点を求めて全力を尽くしておけば本番で少し取りこぼしても7割くらい行けるだろう」という思いで勉強をしてないか? それでは、結局合格点に届かない。わからないものやできないものがあるなら潔く捨てて、確実に7割をとれる努力をしろ。すると時々できないはずのものもできたりして、意外に余裕で合格するものだ、と。

単なる「合格のための技術」のようで、これは実生活でもとても重要なことのような気がします。何事もまんべんなく勉強する方が良いことのように見えて、あまり好きでもないことだと結局何もかもがいい加減であやふやになったりしますが、限られた内容であっても興味と自信を持って覚えたことは確実に実力につながります。ゴルフで、遮二無二2オンを狙うよりも3オン2パットのボギーを狙った方が確実だし、たまにはパーも取れたりなんかするわけです。

あれ? 勉強のはなしがいつの間にかゴルフのはなしになった?すみません。くだんの「知人」は、実はわたしのゴルフコーチなもので(笑)

| | コメント (0)

医者は暇人?

中学校時代の同級生が東京の有名大学医学部の教授をしています。彼は毎年、地元のマラソン大会に出場するために帰ってきます。

先日、中学の友人たちと飲んでいるときにそのはなしになり、「お医者さんてそんなにヒマなのかな?」と誰かが云っていました。たしかに、医者で走っているひとは意外に多い。最近さらに増えてきた気がします。大学教授さんも救急病院の先生も開業の先生も、わたしの知っている先生たちは、国内国外を問わず、学会先や講演先にも必ずシューズとウエアを持って行って現地で走るのが常のようです。気持ち良さ気に写真を撮ってフェイスブックなどにアップしています。

でも、これはヒマなどではないことを知っています。むしろ忙しいひとたちばかり。彼らは、ヒマだから走るのではなく、走るためにその時間を作るのです。走る時間をまず確保して、それ以外の時間に仕事や日常の用事を詰め込むのです。これは走るヒトだけのことではありません。他に自分の趣味を持つヒトも、それをすることを最優先に考えて時間配分をするヒトが多い。だから、自分の趣味をきっちりこなすヒトほど、社会的にデキるヒトが多い、というのも分かる気がします。わたしのようにどれもこれも中途半端で、結局十分にこなしきれないのが一番ダメなパターンかしら。

結局は、メリハリですかね。

| | コメント (0)

男子トイレ

新幹線の駅の男子トイレに入るとたくさんの小便器が並んでいました。

大学時代に、男性トイレの小便器のどこを選ぶかについて考察したことがありました。誰もいないトイレで5つ並んだ便器があったらどこを選ぶか?一人なら真ん中?どちらかの端? 次の人が来た時のことを考えて端から二番目?なんて、どうでもいいことですが、真面目に考察したものです。当時のわたしは基本的に端が多かった。次に何人やって来ても迷惑を一番かけにくい場所だと思うし、一番自分を主張しない場所だと思うから。

それがいつの間にか真ん中に立つことが多くなり(シンメトリーなので一番こころが落ち着く感じだからではないかと自己分析)、そして最近また端の方に立つようになったことに気づきました。それも一番端ではなくて、端から二番目。何個ならんでいても端から二番目。一番端はね、なんか寂しいんです。自分が社会から置いて行かれるような気がして。でも真ん中で存在を主張すると、まるで裸の王様みたいに陰で笑われているのではないかと感じることもあって・・・。

わたし、絶対に病気ですよね。

| | コメント (4)

卒業

人気アイドルグループで初期メンバーの”卒業”セレモニーが続いています。人知れず辞めて行った少女たちと違い、多くのファンの惜しみない拍手と涙の中で辞めていく彼女たちは、みな揃って清々しい顔をしています。

ほんの数年前、社会現象を引き起こすほどの存在になり、少女たちはその大きなうねりに巻き込まれて翻弄されているように見えましたが、それを乗り越えて逞しく成熟していきました。どの世界でもそうですが、成熟した組織は、次の進化のために変化します。それができなければ衰退し消滅するのが自然の摂理です。たしかにメンバーの入れ替わりが始まったころから人気は他のグループに移っていくのも必定。そんな中、グループを卒業していく人間に華々しいスポットライトが当てられますが、そのときに重要なのは、じっと残って組織を守る立場を選んだ人たちの存在なのだろうなと思うのです。人気競争に勝ち残ったという思いよりも、一人取り残されたとか自分にだけ重荷がかかって大変だとかの思いの方が大きいと思いますが、煙たがられながらじっと残って組織の骨組みを守ってくれる彼らが居るから、組織は伝統を守りながら次のステップに進むことができます。「そんな無責任な」とグチりながら、それでも自分は次のステップの足場がきちんと出来上がるまではここに残らなければならない運命だということを、きっと自らが悟っているように思えます。

そんなアイドルグループの若い娘たちの輝く姿を眺めながら、一般社会の大組織の姿もまた同じようなものなのだろうと思う次第です。

| | コメント (0)

虚礼廃止

うちの職場で「虚礼廃止」が叫ばれ始めてもう久しいです。お中元・お歳暮だけでなく、職員同士の年賀状も止めましょう!と前の事務長の時期に全職人にメール配信で何度も何度も指示されてきました。それでも慣習だからと続けているヒトが当初は多かったですが、さすがにしつこく配信されますし、職員ミーティングでも何度も云われることによって、最近はほとんど年賀状の交換は無くなりました。もちろん、わたしもほとんど出しません。

お中元やお歳暮はまあ良いとして、年賀状はどうなのだろう?本当に年賀状は虚礼なのでしょうか? たしかに年賀状を1月元旦に読んで、その3日後にはもう仕事始めですし、下手をすると直接会った後に年賀状が届くことも少なくありませんから、職員同士の年賀状は意味がない、という意見も分からないではありません。

でも、年賀状は形式ではありません。今はメールやSNSで簡単にメッセージを送り合えますが、年賀状は単なる伝達手段でもありません。新しい区切りを前に、今年もお願いしますというあいさつであり、今年はこれをしようと決心しましたという意思表明もあったりします。直接会って話すと気恥ずかしい決意表明やお礼なのだから、すぐに会うからという理由でそれを「虚礼」と云い切るのはちょっと寂しい気もします。

まあ、印刷会社に頼んで印刷した年賀状、何を書いてあるのかも知らないままにプリンターが宛名を一枚ずつ印字する紙切れの山・・・きっと、「虚礼廃止」を叫ぶ人はそんな紙切れを年賀状だと思い込んでいるヒトなのでしょう。

なんてなことを、季節外れのこんな時期に思ってみたりなんかして。

| | コメント (0)

走れば良いのだ!(後)

(つづき)

●<加齢にともなって低下する筋肉群>加齢とともに筋力が落ちるので、介護予防・ロコモ予防のためにまんべんなく筋肉トレーニングすることが奨励されているが、実は加齢とともに低下する筋群は限られています。上肢の筋肉や太ももの後ろ(ハムストリングス)などは低下せず、大腿四頭筋(太ももの前の筋肉)・腸腰筋・大臀筋などで著明に低下します。大腿四頭筋は膝の伸展、腸腰筋は腰関節の屈曲、大臀筋は股関節の伸展に関与する筋群です。これらは、実は走る動作をするときの主働筋であり、歩くときにはあまり使わない筋群なのだそうです。

筋量が低下し、基礎代謝が低下した結果、高齢者のメタボが増えているそうです。わたしはこれまで、メタボは若い人の話であって、高齢者のお達者な方には関係ない話!と云ってきたのですが、どうもそうではないみたいですね。そして、この筋量低下はウォーキングだけでは解決できず、やりたくもない筋トレでもあまり効果が期待できないけれど、「走れば良いのだ!」と先生は簡単に云います。速度など関係なく走ればよい。あるいは坂道を登ればよい。つまり有酸素運動レベルのジョギングで解決できる!ということをデータが物語っている、と強調されました。

以前にも書きました。スロージョギングとスローステップのすすめ、そしてBorn to Run。いま一度再確認させていただきました。

| | コメント (0)

走れば良いのだ!(前)

第7回九州心臓リハビリテーション研究会のイブニングセミナーで久しぶりに福岡大学の田中宏暁先生のお話を聴きました。

ニコニコペース(最大酸素摂取量の50%で歩く)・スロージョギング(1分間180歩の早歩きジョギング)・スローステップ(20cmの踏み台ステップ運動)・そしてインターミッティング運動(180歩/分と120歩/分の繰り返し)など、むかしから強い信念で独自の運動理論を編み出しながら、今や知る人ぞ知る健康運動のカリスマ教授です。もうすでに一通り知っているからなーと、お弁当目当てで出席したのですが、今回も意外におもしろいお話をいくつかメモしてきました(きっとすでに聞いたことがあるのかも)。

●<健康遺伝子PGC1α>健康遺伝子PGC1αは運動によって賦活される。どんな遺伝子かは知らなくても「健康遺伝子」といわれるくらいだから多い方が健康なんだろうことはわかる。それが運動で賦活されるわけだ。ところがLT値(乳酸性作業閾値)以下では賦活されず、それ以上の運動強度が必要(LT値とかAT値とかいうのは有酸素運動と無酸素運動の境目あたりの数値です。この値くらいの運動ならいつまでの続けられて燃焼効率が一番いい)。つまり、普通のウォーキングだけでは効果が少なく、少し走ること(スロージョギング)が重要なのだということです。

●<小学校区面積と通学距離の変化>田中先生が示した明治時代からある福岡市内の小学校のデータでは、1975~1980年ころを境にして急激に通学距離が減っていました。むかしは6~7km離れたところに家がある子も居たようです(わたしの子どものころはさすがに6~7kmはないが、それでもかなり遠い子は居た)。ところが、子どもたちの不公平是正や安全の観点から校区が小さく分けられたために、今の子たちは歩かない・走らない。中学校などでは車の送り迎えもアリのところがあったりする。

(つづく)

| | コメント (0)

職人のプライド

遠いむかしのことをふと思い出しました。たしか、ここにもむかし書いたことがあります。25年も前のことなのに、よほど印象に残っているのでしょう。

東京の病院で働くために熊本のアパートの荷物を運ぶのに大手Y引越し屋さんのらくらくパックを頼みました。書棚に並ぶ専門書や雑誌を順番に箱詰めして、引っ越した先で前と同じように順番に並べてくれるので、間取りの違いで移動場所の指定はしますが、ほぼ前と同じ状況を作ってくれるのがウリです。

さすがはプロ。段取り良く荷物を搬入していきます。そのグループのチーフは山形なまりの残る若い男性でした。彼が書棚に本を並べ始めたのですが、明らかに左右が逆なのです。右から順に並んでいたものが左から順に並べられていくのをみて、「それ、間違ってます。反対です!」と声をかけました。そしたら、「いいえ、こっちからのはずです。そういう順に指示されているのですから」と、予想だにしない返答。「いやいや、間違っているから」と云うのに、「前にあった通りにするのがわたしたちの仕事ですから」とまるでわたしの勘違いだと云いた気。一触即発の空気の中、オロオロする妻が「あなたの記憶違いかもしれないし、それはそれでいいじゃない?」なとと火に油を注ぐようなことを云うものだからさあ大変。「何云ってんだよ。自分が長年使ってきた書棚の本なんだから自分が一番わかっているさ。明らかに熊本で詰めたヒトが間違って逆入れしたんだから逆にしなさいよ!」とわたしは語気を荒げました。でもそのチーフさん、まったく意に介さずに作業を続けています。「わたしたちも仕事のプロとしてのプライドがあります。決められた通りに仕事をしないと後で叱られますから」・・・彼もこれまでにいろいろ経験した挙句の解決策が、自分の決められた仕事をただ黙々と遂行することだったのかもしれません。

今はそんなことはないと思いますが、これでは間違いなくトラブルが起きます。そして、せっかくあの業者を頼んだのに、と後味の悪い思い出になってしまいます。本人のいる前でこれ見よがしに並べる端から除けて行って逆に並べ直したわたしも大人気なかったけれど、後のアンケートに書いても何も返答がなかったところをみると、むかしはそれ(現場はマニュアル以外のことはできるだけしない)が当たり前だったのかもしれません。

| | コメント (0)

写真

ときどき、自分の写真を撮ります。最近は、スマホの自分撮り機能を使うと、いつでも簡単に撮ることができます。

で、そうやって撮った自分の顔。鏡で確認する自分の顔や、誰かに写してもらったスナップ写真に写っているわたしと全く違う顔がそこには映し出されているので、愕然とします。鏡を見ながら表情を作ったときとスマホで自分撮りしたときで何が違うのだろうと思うのですが、スーパーの横で撮る自動の証明書写真も、あるいは運転免許証の写真も、こぞって後者にそっくりなのを考えると、こっちが本当の自分なのでしょうか?

ほっぺのシミが妙にデカくなったな。瞼の二重が一層大きくなってきた(30歳代までは”くっきりとした”一重だったのに)。目じりが一気に落ちてきたな。そして、疲れた顔をしているな。いつも寝起きみたいだ・・・。

それでは、朝の洗顔時やトイレに行ったときなどに確認する鏡に映る自分の顔は何なんでしょう?他人の目にはどちらの表情で映っているのだろう。せめて朝鏡で見る表情豊かな自分が本当の自分でありたいのだけれど、どうしたらいいのだろう?そんな想いから、ときどき自分撮りをして研究を続けているのですが、いまだに解決しないどころか、最近さらに差が大きくなっていく気がします。そういえば、若いころはどっちも同じ顔だったような気がします。だからむかしは気付かなかったのでしょう。

もしや、相手が機械だから表情が死んでいて、相手がヒトだと表情が生きているということかしら。相手にヒトがいるときにいい顔しているというのなら、それで問題ないのだが。

| | コメント (0)

ブルーライトハザード

昨年の抗加齢医学会あたりからブルーライト症候群として、青色可視光の視力障害の問題が叫ばれ始めてきました。今回の第54回日本人間ドック学会総会(浜松)のランチョンセミナーでこの”ブルーライトハザード”のお話しを聴く機会を得て、かなりアタマの中を整理することができました(「生活改善で加齢黄斑変性を阻止しよう」聖隷浜松病院 尾花明先生)。

●青い光は細胞を破壊する。
●黄色は青色を吸収する。

この2つの事実を知ったことが最大の収穫でした。加齢黄斑変性症はCMで頻回に警告されるようになったことでも分かるように、生活習慣病として一気に増加しています。夏の日差しが洗濯物を色褪せさせたり、カーテンを黄色く変色させるのは何故かといえば、それは可視光線の中の青い光が化学反応を起こして活性酸素を作り出す(青色光障害)からなのですが、これが目に入ると視細胞を静かに殺していくのだそうです。この酸化ストレスによる障害を防ぐために黄斑細胞がある・・・黄斑部の黄色い色素細胞が青を吸収し、活性酸素を除去する働きがあるから、人間の目はブルーライトハザードを避けて通れる構造なのです。

そんな防御機構が備わっているのに、今、黄斑変性症が増加しているのはなぜか?それは明白です。紫外線も赤外線も関係ありません。明かりの進歩に人類の進化が追いつかなくなったからです。朝夕に狩りをして獣に襲われないように昼は岩陰に隠れていた狩猟生活から昼間日光の下で働く農耕生活に変わっても、日が沈めば闇であり夜の間に視細胞は十分回復できました。ろうそくが生まれ、ランプや裸電球が発明され、蛍光灯になって・・・そして気付けば今、24時間ぶっ続けで青い光だらけの生活です。それもここ数年に一気に・・・LED、スマホ、パソコン液晶画面・・・。

調子に乗って長く書きすぎました。対処法は決まっています。いかに防御能を高めるか、です。緑黄色野菜と魚を食い、もちろん喫煙は論外で、サングラスで直射日光を避ける。そしてもうひとつがサーカディアンリズム・・・人間は青い光を目に浴びてから14時間後にメラトニンを出して眠くなる。つまり、夜の青い光はメラトニンを抑制して深い眠りを得られなくなるのです。
  ●午前中は青い光を浴びてもOK。でも、青い光を浴び過ぎては本末転倒。
  ●夜はできる限り青い光を避けましょう。
・・・パソコンのフィルターや青の少ない自然光LEDを使いましょう。寝る前のスマホなんか、言語道断です、だそうです。

| | コメント (0)

研修会

早く行ってもすることがないから、開始時間ギリギリに会場に着くヒト。
部屋でゆっくりしていてもすることがないから、受付開始時間よりはるか前に出かけるヒト。

どっちが得なのだろう?・・・先日の研修会のときに受付開始の1時間も前にホテルを出たわたしは駅まで歩きながらそんなことをふと考えました。

わたしは間違いなく後者です。うちの妻は前者。夫婦でどこかに出かけようとするとまったくチグハグになりますが、そこは結婚生活25年、お互いに折り合いを付けて互いに自らのストレスを最低限にする術を心得ていますから何とかなっています。もっとも、こういう場合は基本的に早いヒトが遅いヒトのペースに近付ける学習で成り立っているように思いますが(笑)

『せっかちは寿命を縮める』と云われますが、『早起きは三文の得』とも申します。まあ、結局どこかにできるムダをどういう形で埋めるのか、ということでしょうか。心安らかになれるならどちらでもいいのでしょうかね。

開始まで1時間半もある研修会会場で、この原稿を書きました。

| | コメント (0)

腹が出てきた

たしかに引っ込まなくなった腹なんですけどね。

レッグマジックサークルに続いて今度はダイエットハーブコーヒーをマジメに試してみようと思うのですが・・・旅先のホテルで大きな姿見に映る自分を見ながら、何となくココロが躍らないのは、「この腹、本当に引っ込まなきゃいけないのかな?」という想いが生まれてきたから。

予防医療の世界に入って、ちょっとしたきっかけでスリムで締まったカラダになって、一旦断念していたバスケットボールを再びプレイできる体力も付きました。その頃の姿を思い浮かべれば、たしかにほんの数年前の我が身に戻れたらカッコいいだろうなとは思うのですが、一方で「今の状態で維持できたらそれでも十分なんじゃない?」とも思うわけですよ。健診のデータが特段悪いわけでもなければメタボの内臓脂肪肥満でもない。「わースゴイ! 先生の年齢でそのカラダはスゴイですよ!」と云われてみたい気がしないでもないし、ほんの数年前のストイックな生活に戻ればそんなことすぐできるんではないかなとも思うのですけれども、そんなに堕落した人生を送っているわけでもないのだし・・・このままでもいいんじゃないかなあ。

ヒトは、こうやって歳を取るものなのかもしれませんね。

| | コメント (2)

健康行動理論

浜松で行われた第54回日本人間ドック学会総会に行ってきました。

教育講演「やる気を引き出す保健指導」・・・題名に惹かれて、カリスマ講師の松本千明先生(北海道立旭川高等看護学院)のお話しを聴きに行きました。やる気を引き出すには「やる気の条件」を満たすように働きかければ良い。それには「健康行動理論」が役立つ。ということで、保健指導の実践にどう使ったらいいか具体的な解説が展開されました。

それを聴きながら必死にメモをしていたのですが、ふっとメモを取るのを止めてしまいました。何か虚しくなってきて・・・申し訳ないけれど、何か面白くない。次の聴きたいセッションが重なっていてそれを断念させるほどの魅力を感じなかったので中座してしまいました。仕事だからしょうがないけれど、大のオトナの生き方を変えさせるためのノウハウを学ぶ・・・「ヒトはこういうことをさせるとやる気になります」という理論を淡々と語られるの聴いていたらちょっと耐えられなくなってきたのです。

一度そういう気持ちになってしまったからなのかもしれませんが、今回の学会ではあちこちで疑問と虚しさが何度もわたしに襲いかかってきました。フロアに並べられた出店本屋さんの本の題名も、ポスター発表の題名も、みんな同じ。「こうやったらやせさせるのに成功する」「行動変容が成功した症例」・・・”成功”とは、やせること?日常生活が健康にふさわしい形に変えられること?・・・一度の人生、そんなにがんばって節制しなきゃいけないのだろうか?という疑問。

やっぱり、「予防医療」は「がまん」にあらず、「いかに楽しい人生が送れるか」であるということを確信するに至った学会でした。

| | コメント (0)

ニッポンのシニア(後)

(つづき)

むかしわたしが肥満児だったころ、お店にはわたしの着れる服がありませんでした。中学生・高校生にして中年オヤジが着るような茶色の千鳥模様などの地味な色合いのダボダボズボンしか売っていませんでしたから、私服というのが一番キライで、いつも制服のズボンを穿いていました。そのうち、デパートや専門店ではビッグサイズコーナーができましたが、そこはまたまるで見世物小屋のような隔離空間な上に極端にデカくて・・・だから、わたしは”おしゃれ”をする権利はないものと諦めていました。服を買いに行けば、デザインや色を吟味する前に、「サイズがあるのはどれとどれ?」という限定選択肢でした。

そんな当時、わかったことがあります。ビッグサイズコーナーで、細いヒトのと同じデザインの服を見つけたとしても、それが似合うとは限らないということです。もともとデザイナーは細いヒトが映えるようにという想いでそれを作ったのですから、デカくなったらデザインがカッコ悪くなることは容易に想像できます。

現代のシニアのファッションも、自分の若かったころのファッションをモチーフにしても決して似合わないでしょう。でも、今の年齢の自分が映えるデザインは必ずある・・・企業がそんな方面に目を向け始めたことはとてもすばらしいことだと思いました。昨日、前半の文章をアップしたらいろいろ意見をいただきました。少なくとも、わたしのブログやfacebookに呼応していただいている皆さん、あるいは同窓会にいつも万難を排してやってくる同級生の皆さんを見ていると、自分の歳なんて気にもしてない方々ばかり。素晴らしいことです♪ わたしも付いて行きたいと思いますので、よろしくお願いします。

| | コメント (0)

ニッポンのシニア(前)

ゴルフの予定が大雨で中止になり、昨日は家でボーっとテレビをみておりました。

「ガイアの夜明け~常識を覆す・・・ニッポンのシニア」

~2013.8.13に放送されたものらしいですが、ナビゲーターの江口洋介のことばについ頷きました。「今のシニアは、わたしたちが思い描いてきた昔の”シニア”とは違います」・・・そうなんです。今のシニア層が若かったころ、ビートルズがやってきて洋楽にココロ躍らせたんです。70歳のおばあちゃんが若かったころ、ツイッギーがやってきてみんながミニスカートを穿いたんです。こんなオシャレの先駆者たちの世代が、「もうわたしゃ歳だから」と云ってシワシワの地味な服を着て縁側で隠居生活を送るべく追いやられることはどう考えてもおかしいのです。

オシャレには興味はあるけれど、自分を生かしてくれる服がない、それがシニア世代の悩みなのだとか。やはり歳は取ります。肌のハリやシワは20代のようにはいきませんから、それを踏まえたファッションということを考えると、今の若い子たちのファッションは合わないし、むかしながらのシニアファッションも合わないし・・・・でもしょうがないかな、とジジババファッションを着ることになって、そのままジジババになるのかもしれません。

                                          (つづく)

| | コメント (0)

無事帰還

心配していた台風はかなりの被害をもたらしたようですが、結局わたし的には完全なる杞憂に終わりまして、昨日の夜に、予定通り無事に浜松の学会と研修会から帰って参りました。とても収穫の多い学会でした。

「あれ?ホントに休んだんだ!」「大丈夫かな?」とかいう反応もほとんどみられない中、粛々と2日間休ませていただきました(笑) それでも、毎朝このブログにおこしいただいた皆さま、ありがとうございました。そして、大変申し訳ありませんでした。

やっぱ、書き続けないと、いかんわ。と痛感いたしました。

また、明日から頑張ります。

| | コメント (0)

« 2013年8月 | トップページ | 2013年10月 »