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生死観の違和感

先日、facebookに「15歳若返る脳の磨きかた」(苫米地英人フォレスト出版)の紹介とともにこんな内容が書かれていました。

●その人は「私は十分生きた。もう死のう」と思い「私に明日は必要ない」という諦念と覚悟が、その人の死期を決めたのです。じつは「生きたい」「生きよう」という考えを失うと、人間は死んでしまいます。
●逆に「私にはやりたいことがある。だから、明日が来るのが待ち遠しい」と思う人は、簡単には死にません。
●未来を信じることのできる人は生き抜き、信じられなくなった人はたやすく死ぬ、ということです。
●だから、「先は長くないだろう」と自分の死期を受け入れると、そのとおりのことが実現するのです。

何を云いたいのかというと、おそらく希望を捨てずに「もっと生きたい」「もっとやりたい」と考えることが若返りの秘訣で長く健康に生きることの秘訣だということだろうと思いました。

書かれていることのすべては良く理解できるのに、これを読み終えてもわたしは「いいね」を押すことができませんでした。「今が辛いから死にたい」というのはもちろん論外ですが、「もう自分はやり尽くした」とか「特に後悔することもなくなったな」と思うようになるのは、むしろわたしの理想とするところです。これは諦観・諦念ではないと思います。もうこの世でやりたいことは終わったな、と思うから死んで次の世の世界に導かれる、あるいは生まれ変わって次の試練を経験してみる。その考え方の何が悪いのだろう。「そんなこと云ってると早死にするからもっと『生きたい』と思うべきだ!」というのは、残されてしまう傍観者自身のココロの満足を得たいがための戯言である!と思うのであります。

「もうやり尽くしたからいつ死んでもいいぞ」と思ったからと云って、そう都合よく神様は連れて行ってはくれません。まあ、試験の合格発表のようなものです。本当にやり尽くしていると認めてもらえたらポックリ亡くなるのでしょう。「いつでも死んでいい」と云っているのに一向に死なないのは、まだ自分が思っているほどちゃんとした人生を歩んでないからやり直せ!ということです。 と、わたしは生死の考え方をそうとらえています。

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