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2014年4月

血中中性脂肪にタックルだ!

たまたま見かけた某EPA商品の動画を見ました。別に、このサプリ商品のPRを買って出たわけではありません。

中性脂肪値が下がらないヒトは世の中にたくさんいます。もちろん毎晩の晩酌をかかさず大量に飲むヒトや夜遅くまで仕事して帰ってから大量に食うヒト、あるいは運動大キライなメタボ腹のヒトなどが高いのは、それは自業自得だからしょうがありませんが、日頃から食事や運動に細心の注意を払っていて太ってもいないのに中性脂肪値だけ下がらないで悩んでいるヒトたちです。

血中中性脂肪は単にエネルギーの源で、体内のどこでも駆けつけられるように血液中を回っているわけですから、使ってあげることと要らないなら作らないことしか対処法はないはず。だから中性脂肪値が高いとそれだけで「生活習慣が乱れている」と思われがちです。でも以前、東京で働いていた部署の受付のお嬢さんはとてもスレンダーで、週に3,4回はエアロビに行き、いつもサラダみたいなのしか食ってませんでしたが、中性脂肪値が高くて健診の度に呼び出されていました。「先生、わたし、あと何をしたらいいんですか?」って聞かれたことがありますが、答えようがありませんでした。

彼女のことを思い出しながら、こういうヒトにはこんなサプリも朗報なのかなと思った次第。ただね、どうなんでしょう。EPAもDHAもアンチエイジングのためには素晴らしいものだから良いんですけど、こういう”体質”のヒトにとって、基準値内に収めるために無理やり下げることって意味があるのでしょうか? そこのところがワタシの中でずっと解決できないでいるのです。

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そうじ

わたし、そうじ好きなんですけどね。どちらかというと、皆が気づかないようなところを片付けるのが好きです。この連休の初っ端も、家人がいないのをいいことに簡単にそうじを始めたのですが、今回はピアノの裏側のホコリの山をみつけてココロが躍りました。ホコリたちに気づかれないように、ダスキンモップを10㎝ほどの壁との隙間からそーっと差し込んで、ピアノに張り付いたホコリを遠隔操作で引き摺り出して一網打尽にするこの快感。

食器棚の引き出しの中に何でもかんでも詰め込まれているのを人知れず整理してしまうのも好きですし、知らない間に衣替えしてしまうのも好き。なんか、見た目何も変わってない感じがするけど、実はその向こう側の世界が昨日とはまったく変わってしまている。きっと当分自分しか知らないことだろうけどね・・・とひとりほくそ笑むのが好きなんです。

妻は真逆です。「わたしは褒められて伸びるタイプだからね、覚えておいてね」というのが口癖。そんな誰にも気付いてもらえないようなところをそうじして何か意味があるの?と云い切ります。聞いているとたしかにそうだな、とは思います。そうじは皆が清々しい気分になるためにやるのだから、日頃見もしないところをいじるヒマがあるならもっと目立つところをして!と。でもやっぱりわたしは、わたしの密かな楽しみを止めることはできません(笑)

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カギっ子

ある女性スタッフの方が、土曜日は子どもが学校からお昼に帰ってくるという理由で土曜出勤に難色を示しているがどうしようかという相談を受けました。

小中学校のお子さんをお持ちで仕事をされている女性の方は、家事との両立、ホントに大変だなあと思います。「ひとりがそんなわがままを云い始めると不平等感が出てきて全体の統制が取れなくなる」と文句を云う人もおりましょうが、各々にそれぞれの事情がありますから、何とかできる人間でフォローしていこうと思っております。

ただ、そんな話を聴きながら、わたしは自分の小学校の頃を思い出していました。両親ともに学校教師だったのでわたしは典型的なカギっ子でした。土曜も皆が普通に昼下がりまで働いていた時代でしたから、よほど小さかったころに祖母が同居していた時期を除けば、土曜のお昼ごはんを誰かに準備してもらった記憶はありません。コンビニや弁当屋さんなどなかった時代なので、冷や飯にお茶漬けしたり、漬物か乾物で食ったり、あるいはインスタントラーメンを作ったり、勝手気ままに食っていました。子どものころにそんなカギっ子人生を送ってきたので、「それでいいんじゃないの?」と思うのですけど、これはわたしが子どもを持たない男だからなのでしょうか。最近は何かと物騒な世の中で、小さな子どもがひとりで社会をうろうろしていてはいけないのかもしれません。「子どもたちはひとりで寂しいんです」と教育者が声を上げているのも良く見かけます。でもね、カギっ子のきままな土曜の昼下がりって、意外に楽しいんですよ。少なくともわたしは好きでしたけどね。

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認知症と有酸素運動

「運動はカラダに良いのか、悪いのか?」

そういう目で運動を考えたことはありますか。・・・そんなこと考えなくてもわかりきっているだろう!やりすぎはダメかもしれないけれど、運動はするに越したことはないに決まっているではないか!と思いですか?でも、運動すると過酸化水素が大量に産生されて酸化ストレスがカラダを直接老化させるんだから、「運動はしないに越したことはないに決まっている」という意見もあるのをご存知ですか?

認知症リスクのある高齢女性に有酸素運動が有効
認知症対策としての有酸素運動が、記憶を司る海馬のサイズを大きくさせるというデータはこれまでも散見されます。今回、カナダのTeresa Liu-Ambrose氏から報告された研究(British Journal of Sports Medicine) も、それに類似するものでした。軽度認知障害と診断された70~80歳の女性に早歩きの有酸素運動1時間のプログラムを6か月行わせたところ、筋トレなどを行ったグループでは見られなかった海馬サイズの拡大がみられた、というものです。因果関係ははっきりしないものの、軽度認知障害の予防のためにも有酸素運動は有効であるといえるのでしょう。

でも、早歩きで毎日1時間は結構しんどいです。毎日イヌの散歩を心掛けているわたしですが、1時間も歩くとなんとイヌの方がヘトヘトにへばった顔をしてわたしを見上げます。

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健康

わたしは最近、現代人が日々の生活の中で健康についての心配事を必要以上に多く抱きすぎているのではないか懸念しています。そうなった理由はこの3つ。

・実際、多くなった
・健康意識が高くなった。自分を知るようになった
・脅す人が増えた

「運動しなきゃいけないですよねー」「これ食べたら食べすぎですよね、ダイエットしているのにー」・・・老若男女を問わず、ここかしこで普通にそんなことばかり云っています。「太った」「脂肪肝」「睡眠不足」・・・一般社会が健康に関する話題で溢れているのは、もしや国家の思惑通り、思う壺なのかもしれません。自分に不安を抱かせて自分で管理させるように、あるいは周囲から監視させるように、地道に啓発・啓蒙したのだ、ということ?

だとしたら、なんか負けた感じがしてスッキリしませんね。

人間ドックの結果を見ながら生活習慣病のいろいろを指摘してあげた厄明け男性。「うん。結局まあ大体は問題なしってことだな」とつぶやきながら診察室を出て行きました。それを聞いて、もちろんカチンとくるのですが、”それくらいの方がいいのかもしれないな”とも思ってしまう今日この頃のわたしです。

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軍歌

先日、スナックのカラオケで元気よく軍歌を歌っている若者がおりました。となりで飲んでいたわたしの友人がつぶやきました。

「最近は、意図的に軍歌を歌わせないようにしているけど、それっておかしいよね」

軍歌を懐かしがって歌うということと<戦争を讃えること>とが混同されているからおかしなことになるが、戦時中に青春を迎えていた人たちにとって、軍歌は思い出であり、それを歌うことによって、悲しいことも楽しいことも苦しかったことも、親友や恋人のことも思い出すことができる。わたしの父も若いころからよく軍歌を歌っていましたが、あれは戦争礼賛や戦争肯定などとは全然関係ないことであることは、誰でも分かっていることです。

「軍歌は、れっきとした歴史の一つなんだよ。懐メロや童謡とおなじレベルで語り継がなければならない文化なのに、隣国の戦争責任問題なんかと一緒くたにされて、『戦争を美化している』とか云われないように意図的に抹殺しようとしているんだよ。悲しいことだとは思わない?」

そんな友人のことばを、くだんの青年の凛とした歌声をバックに聞いて、その通りだなと思った次第です。せめて、他のフォークや文部省唱歌と同じように中学校の音楽の教科書にクラシック音楽のひとつとして載る時代が来ることを、密かに祈っております。

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ワイドショー(後)

(つづき)

そもそも世論はどうやってできあがるのか?小保方さんのニュースで云うならば、「あれは、組織を存続させるために個人を切ったらしいよ」とか「彼女はウソつきらしいよ」とか世間の老若男女が話題にしています。でも、それはほとんどの場合、本人の意見ではありません。身近な自分が信頼する人が云ったことをそのまま受け売りしているに過ぎません。最初に誰が自分にその情報の解釈を話して聞かせたかで、その事件のとらえ方がまったく変わるのです。そしてそれは、テレビのニュースキャスターや評論家でも同じです。自分がたまたま見た番組のコメンテーターが云っていたことを聞くうちに刷り込みが起きてしまいます。真実がどうだこうだと云っている間に、真実とはかけ離れた内容になっていく・・・それは週刊誌やワイドショーなら致し方ないですが、毎朝毎晩多くの人が見るニュース番組がそうなってしまっている気がしてなりません。

「あーもーうっとうしい」と独り言を云いながら番組を替えたら、どのチャンネルも同じ内容で、うんざりしてスイッチを切ったりすること、最近とても多くなってきた気がします。

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ワイドショー(前)

わたしは批判がキライです。評論家が出てきて批判番組が始まると番組を変えます。世間ではいろいろな事件が起きていますが、ことあるごとにニュース番組で特集を組むのは止めてもらえないものだろうか。本来、ニュースとは、事実をただ淡々と伝えるだけのものでした。そんなニュース番組がワイドショーのようになったのはニュースキャスターの影響です。

最初にニュースキャスターが世に出始めたとき、それはとても画期的な事件でした。ニュースを伝える人間が自分の意見を織り交ぜて番組を進行している。徐々に各局独自のキャスターを抱えるようになり、番組によって各々のキャスターの意見が異なったりして、なかなか面白いと思って見ていました。ところがいつの間にかニュースキャスターはどこも同じような批判しか云わなくなりました。ほめたり擁護したりしないのは、きっと視聴者がそれを求めていないと判断されているから・・・まさしくワイドショーです。普通のニュース番組でワイドショーを始めるのなら、もはやキャスターは要りません。事件が起きた、トラブルが起きた、不祥事が起きた。そのことは伝えられるべきものですが、後は当事者の問題です。たとえば小保方さんの問題にしても、彼女が云ったこと、彼女の周りが云ったことに対して正しいの正しくないの、どうあるべきだかんだとすったもんだの論議が繰り広げられていますが、それはニュース番組で伝えるべき内容なのでしょうか? (つづく)

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体重調整

「ジムでがんばってたけど数か月で一気に10kg減ってしまったから、体力が落ちるといかんなと思って、それからは体重をあまり減らさないように自分で調整した」

そういう云い方をされる方、割と多いですけど、”調整”って何をしたのでしょう?運動量を減らした?それとも食う量を増やした? なんか、「オレの意志でしてやった」的な表現ですけど、まあ簡単に云えば「ストイックな人生がちょっときつくなった」ということでしょう。きっとそのままストイックなやり方を続けていてもそれ以上は体重は減らなかったでしょうし、むしろ少し戻ると思います。それがたとえ無茶苦茶なダイエット(水しか飲まずに一日中ジムで走るとか)だったとしても、同じペースで続けることができるのならば体重はどこかで安定します。代謝機能は、カラダの力だけでもちゃんと微調整しますから、変な調整を意識しない方が身のためです。そのままガンガンがんばっていったら体重がなくなるはずはないのです。というか、がんばる生活に負けないようにカラダが飢餓にならない準備を始めているところに、突然肩透かしを食らわせるような”調整”をされてもカラダは付いていきません。もはやご主人を信用していませんから。「油断したら太っちゃったんだよね」ということを「自分で少し戻すように調整した」と云い張るのは勝手ですけど、自分のカラダに鼻で笑われませんように。

「いじり始めた体重が上がり下がりを繰り返したら、最終的に軽くても重くても、むしろ最初から体重が重いままよりも短命になる」というのは、もはや予防医学の世界では常識です。カラダをいじり始めた方は意地でもリバウンドさせないようにとことんがんばってください。

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続・お墓の雑草

asuka3hさん

そうなんですよね。悩むんです。いろんなことを悩むんです。切り花は死んだ花。雑草はまさに生きている花。なのに死んだ花を供えるために生きた雑草を抜き去るのが礼儀だと云う。きっと、亡骸を弔うために供えた花は、もともとそんな花ではなくてその周りにたまたま生えていた草花だったに違いありません。

どんな花かとかいうことではなくて、ご先祖のために花を供えて慰めたいというこころこそが大切なのだと云われました。だから形はどうでもいいのだ!と。キレイで華やかな花を供えたいと思ってそんな花を持ってきたのだったら、花の貴賤にかかわらずそれで良いのではないか、とも。でも、それだったら、そこに咲いていたスミレの花を供えても同じ評価になるのでしょうか。

何よりも悩むのは・・・掃除。花に貴賤がない。だから、雑草抜きは止めにして、そにままにしていたら雑草園になりました?・・・それで構わんぞ!と世間にもご先祖様にも認めてもらえるのでしょうか?墓の掃除や手入れすらしないふとどき者ということになるのではないでしょうか。

結局は、ご先祖のためにそんなことで悩んでいる未熟な子孫がいる、ということだけのはなし。

asuka3hさん。わたしがいつも花を買う「有名花屋」とは、破格の安さで元気いっぱいな花を大量に分けてくれる、「花を供えてご先祖さんが喜んでもらえるのなら少しぐらい多すぎても構いません。嬉しい限りです」と云う社長がいる花屋です。

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お墓の雑草

亡き両親に不義理を働いて、久しぶりに墓参りに行ったらそれなりに元気よく墓石の脇に雑草が生えてきていました。うっすらと汗をかきながらそれをひとつひとつ抜いた後に、自宅近くの有名花屋で買って持って行った華やかで立派な花を供えました。

その草取りをしながら、今まで何とも思わなかったことに気づいてからずっと気になっています。わたしが行けない間に元気に生えてきた雑草・・・かわいいスミレの花やタンポポの花といった雑草のスター花もあれば名前も知らない草もありますが・・・今まさに元気に咲き誇っていたこの雑草たちを無碍に引き抜くことは、「墓をきれいに掃除する」という大義名分の元での殺生(植物には使わないことばなのかもしれませんが)ではないのか。金を払って買ってきた艶やかな花を供えることがご先祖の供養にマルな行為であるのは良いとして、地面に健気に咲いていた雑草たちはそのままにせずに抜いてきれいにすることがマルであるというのは、どうなのか。どっちもきれいで健気な植物だ!と自分が思うならば、雑草を抜かずとも良かったのではないか。そこに差を作ってしまった自分は、汚らわしい考えの持ち主ではないのか。

結局は、「世間の常識」とおりの作法で墓参りを終えましたが、いまだにずっと気になっています。

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円形脱毛

円形脱毛症とビタミンDに深い関連あり

あれは何年前になるでしょう。5百円硬貨大の円形脱毛症に罹ったことがあります。皮膚科通いをしました。「半年ぐらい前に大きなストレスがかかっているはずだ」と先生から云われました。仕事上のことでほとんどうつ状態に落ち込んでいたときのことだな、と合点がいきました。

そんな円形脱毛症について、先日配信されてきたCareNetにトルコからの報告として載っていました。「円形脱毛症患者は、ビタミンD値が低いことが判明した。重症度とも関連しているという」というもの。円形脱毛が毛包あたりの自己免疫疾患(T細胞由来)であり、毛包とビタミンDの関係などから検討がなされたようです。

で、どうなのでしょう。発病の原因に関わらず、治療としてのビタミンD補充投与は効果があるのでしょうか。先日も、もう何年も円形脱毛で治療を続けているが一向に治らない、という受診者の方がおられたので、「慢性的に何か大きなストレスがかかっているのでしょうかね。仕事が合わないとか」とか冗談交じりに話したことがありました。わたしの場合は時が解決しましたが、難治性の方や何度も再発を繰り返す方にとって、ビタミンDが治療薬として有効なのだとしたら云うことはありません。でも、日光浴したら円形脱毛症が治る、などという話はあまり聞きませんが・・・。

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『わかっちゃった人たち』

   自分に起こった
   目覚めや悟りと呼ばれるシフトについて、
   普通に生活している7人が
   経験を素直に語った。
   そのとき何がわかり、何が変わるのか?

先日読んだ「わかっちゃった人たち~悟りについて普通の7人が語ったこと」(サリー・ボンジャース編、古閑博丈訳、星雲社)のカバーのことばです。今話題のベストセラーですので興味がある方は直接お読みください。この本の内容は書きませんが、本書の序文にあったジェフ・フォスター氏のことばは印象的だったので抜粋してみます。

「・・・個人には絶対に<源泉>を見いだすことができない。と言うのも、そもそも個人は初めから<源泉>の完璧な現れだからだ。これが、死ぬまでずっと探求を続けるという事態が起こってもおかしくない理由。続けてしまう人が実際にいる理由だ。探しているものがまさに目の前で自分の顔をじっと見つめているのに、それに気づかない。なぜかと言えば、探求するのに忙しすぎて、それどころじゃないのだ!」

今回、話題にしたかったのは実はこの本のタイトルです。「わかちゃった人たち」・・・わたしのこの本を友人が手に取って、「これ日本の本?」と聞きました。「いいや、これはオーストラリア人の本の翻訳本」と答えると、うなづきました。「これ、タイトル考えたヒトが偉いよね。原題が何か知らないけれど、このタイトルだから『おもしろそう』と思って実際に手に取るんだもんね」と。本書の原題は、「Everyday Enlightenment ~Seven Stories of Awakening」これが現地の人にとっては魅力的なのかどうなのかは知りませんが、たしかに、これを元にして作ったタイトルが「わかっちゃった人たち」。内容がどうこう云う前に、読んでもらわないと始まりません。云われてみれば、とても良いセンスだと思いました。

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原因究明(後)

(つづき)

どうして一般の人たちも含めて、皆がそんなに原因究明に躍起になってしまったのでしょう。おそらく西洋医学が全盛になり、医学は科学だと主張するのに必死になりだしたころからでしょう。結果があるなら必ず原因がある。必ずある原因は見つけ出してそのひとつひとつのメカニズムが解明されなければそれは科学ではないのであります。それはそれでいいのです。大正解だと思います。病気を起こすにも治癒するにもそのプロセスにはメカニズムがあり、一対一対応の分子化学的な化学反応があって起きているのでしょう。単体の反応ではなくてそれが複雑に入り混じって起きる集大成が「体調が悪い」なのでしょう。それを究明することは大切なことです。ただ、それは科学者や研究者が一生を費やして究明すればいいこと、いうならば単なる彼らの趣味であり興味です。それを一般市民が要求する意味がない。なぜなら、治癒力さえ身に付ければ大概の不具合は勝手に治ってしまうものだから・・・。なのにその理屈の公表と説明を求めるようになったのは、おそらくマスコミの力なのかもしれません。

メカニズムと原因がわかっても治らない病気はたくさんあります。「そうかそれが原因か、それならしょうがないからあきらめましょう」と割り切れるならいいけれど、多くの場合、難病を目の当たりにして途方に暮れ生きる気力を失ってしまうのでしょう。知らなければそれなりに折り合いをつかせながら、それを自分の「個性」としてうまく付き合った人生を送ったかもしれないのに、効くか効かないかわからない治療法に人生を賭けて立ち向かおうとすることは、本当に美徳なのだろうか?あるいは得策なのだろうか?そんなことまで思うことが最近多くなりました。原因究明することよりもうまく折り合いをつかせる付き合い方を見つけ出すこと・・・その方がずっと建設的で健全な人生の過ごし方のような気がしてなりません。

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原因究明(前)

何度か書いてきたように、わたしは医療の役割は病気の原因究明でも治療でもなく、人間の人生の営みの中でのカラダのトラブルを解決させる際の裏方に徹するべきだと考えています。

体調が悪くなったとき、その原因は、大したことないかとても複雑で解きほぐせないかのどちらかのことが大部分です。だから原因究明されることもなく、自分の中のトラブルとして自分自身で解決させてしまうのがふつう。ところが最近は、だれもが原因にこだわるようになりました。そのメカニズムと理論を求めます。納得いかないと治ったのはたまたまであって、原因がはっきりしないことには完治とは云えないと嘯きます。だから原因究明してもらうために病院に行く、というヒトが多いように思います。まあ、病院の仕事が原因究明の証明書を出すだけであるとしたら、それはそれでもいいのでしょうが。

体調を悪くする場合は、体内からの何らかのSOSであり、カラダが尋常ではないことを訴えているのは事実なのだと思います。だから、その声に耳を貸しSOSの誘因になるものを取り払うことはトラブル解決のために必要なことだと思うのですが、誘因と原因は往々にして別物です。そして原因は意外にわからないことが多いものだと思いますし、その場合はわからなくても別に困らないものだろうと思っています。 (つづく)

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味覚と糖尿病

全国的に名だたるお菓子メーカーや各地方の有名お菓子屋さん、あるいは人気のラーメン屋さんとかの店主や創業者に糖尿病の方がとても多い印象が昔からあります。「そりゃ、甘いものやコッテリしたものばかり食べるのが仕事だからしょうがない」とか「どうせ、そんなものばかり食ってきたから糖尿病になったのだろう」とか自嘲したり卑下したりした云い方をよくしますけど、わたしはちょっとだけ感じ方が違います。

糖尿病になる体質の方は基本的にサバイバル体質の遺伝子を持って生まれてきていますから、当然普通の人よりも高カロリー・高脂肪・高炭水化物に対する反応が強いし、他の人よりそんなものが好きなはず。その体質を持たない方は、たとえお菓子三昧・ラーメン三昧の人生を送っても、メタボにはなるかもしれないけれど、糖尿病にはそう簡単にはならないはず。

でも逆に、そんな体質だからこそ、おいしいお菓子が作れて、おいしいラーメンが作れるのであって、甘いものや脂肪の味に淡白な、わたしみたいな味覚の人間では、とうてい人気の食べ物屋さんにはなれないのではないか、とも思うのです。

神様はとてもイケズだから、そんな才能をもって成功してきた人ほど、最終的に最大の試練を与え給う。「大好きな食材を制限しなさい」と。まさか、「糖尿病患者のために制限しなくてもいくらでもおいしく食べられる料理を研究開発しなさい!」というメッセージではありますまい。

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揚げ物と肥満

揚げ物は肥満遺伝子を活性化する?

今月初めに配信されたCareNet(2014.4.3公開)に出ていた記事です。「肥満遺伝子と肥満の関連は、揚げ物の摂取頻度が増えることで増強されることが判明した」という米国ハーバード公衆衛生大学院からの報告です(BMJオンライン版2014.3.19号掲載)。著者であるQibin Qi氏は「今回の所見は、遺伝的に肥満体質の人は、とくに揚げ物の摂取量を減らすことが重要であることを強調するものである」と云い切っているようです。

消費税増税に加えて食用油の値段が大幅にアップして家計を圧迫している、というニュースが出たばかりです。ちょうどいいタイミングだから、揚げ物をあまり食べなければいい・・・それは単純明快な話なのですが、これはおそらくそう簡単ではありません。揚げ物が好きでもないヒトはもともと大した肥満遺伝子を有していないですが、肥満遺伝子があるヒトは自ずと揚げ物が好き。「肥満遺伝子」自体が「揚げ物をもってこい!」と人体に向かって司令しているわけすから、好きでも簡単に食べられなかった時代と違って、安くておいしい揚げ物が氾濫している現代社会で、そんな研究結果が出ても、どうしようもないのではないかと思います。

どうでもいいことですが、きっとこの先生は太ってないんだろうな、と思いました(何となくですけど)。

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画像別健診判定マニュアル

健診判定の標準化を進めている日本人間ドック学会では、公式ホームページ上に画像診断するときの判定マニュアルを画像別に公表しました。基準ができることは大変ありがたいのですが、わたしが担当する心電図判読マニュアルをながめながら、そっと溜息をついています。

想像していたとおり、判定基準がうちの施設の基準よりかなりきびしいのです。心拍数101の洞性頻脈は要精密検査、高電位も要精密検査、完全右脚ブロックやI度房室ブロックは要経過観察・・・などなど。云っていることはわかるのです。わたしも循環器内科に従事していた人間として、その所見に隠れているかもしれない病気や今後悪化する可能性などが「ないわけではない」わけで、健診やドックはスクリーニングとしてふるいから漏らしてはならないということ。白でも構わないから、念のために精査したり経過を見たりするのが健診の存在意義だということ。確率論で語ってはいけないこともよく分かってはいるのですけど、でも実際的ではないと思うのです。明らかなやせ形だったり、明らかな緊張しいだったり、あるいは貧血だったり甲状腺肥大だったりは、心電図だけで判定しなくても問診や診察や採血検査でひっかけてくれます。網はたくさんあった方が逃さない。分かっています。分かっていますけど、たくさんの網のためにゴミまでたくさん拾いこんでしまうことは現実的ではなく、安心を得るために仕事を休んでもらうにはあまりにデメリットの方が多すぎる気がして、どうしても二の足を踏んでしまうのです。もっと軽い判定から総合的に判断すればいいのではないのかしら、と。

まあ、お上がしろと命令するのならやむを得ず判定基準を替えますけど、臨床現場は無意味に忙しくなり受診者からはクレームの嵐になるか精査受診率の低下につながるかであろうことは想像がつきます。いいのかしら、それで?

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酒の飲み方

「先生はお酒がとてもお強いそうですね」

若いときからそう云われてきました。「はい、遺伝ですかね」とか、若いころには満更でもない顔をして返事をしていたものですが、最近、「それが何か?」という気持ちになっています。

酒が強い=なかなか酔わない、一晩のうちに大量のお酒を飲んでも平気である・・・そうだとして、メリットは何でしょう。一晩でいろいろなおいしお酒を賞味できること?長時間楽しい時間を堪能できること? いやあ、もっと少量で酔っていい気分になれた方が断然いいのじゃないかしら。少量で済んだ方がきっと翌朝も爽快だし、良い眠りもできそうなもの。飲めるのに「いや、今日はこの辺で」と断るのはとってもストレスなんです。基本、嫌いじゃないから・・・。 「最近、酒に弱くなった。むかしは朝まで飲んでも平気だったのに」と口にするおじさんたちを見ていると、「最近セックスが弱くなった」ということばと同等の、まるで男としてダメになったことの象徴のように聞こえますけど、カラダが「もうそんなに飲みたくねえよ」と正直な意見を云い始めただけなのだから、浴びるような飲み方(まったく味なんてどうでもいいような)を卒業して、もっと一献一献、味を噛みしめる飲み方に昇格してみたらいいんじゃないでしょうか。

と、わたし、だれと会話しているのかしら(笑)

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基準値は本当に正常値なのか

健診の診断基準が見直され、各学会の治療ガイドラインも変わっていく中、基準値をはずれている検査項目をなんとか基準値内に収まるようにと保健師さんや栄養士さんたちが躍起になる季節がやってきました(まあ、健診はいつの季節でも同じではありますが、やはり年度初めはみなさん張り切っておられる)。今年も生活習慣病のメカニズムについての講演を頼まれて、これから少しずつ準備を始めることになるのですが、徐々にこの行為(数値の修正行為)は本当に必要なのだろうか?という疑問符から逃れられなくなってきている自分がいることに戸惑いを隠せないでいます。そんなわたしが講義をしてもいいものなのだろうか?と。

基準値は正常者と称する集団の平均値なのであって、それは必ずしも「正常値」とは限らない、ということはむかしここでも書きました。ずっと変化のない高値は、背の高い人に文句をつけいるようなものだ!と。あるいは、がんばって生活改善を尽くしても基準値に達しないのはカラダがそこでいい、と云っているのだからそれでいいのではないか、とも。

それでは、がんばって基準値内に収めることができたヒトはどうなのか?「生活を見直すいいきっかけになった」「自分はやればできるんだ、と自信につながった」「この機会を与えてもらって、あるいはいろいろとアドバイスをいただいてありがとうございます」・・・やった側も勧めた側も賞賛と歓喜の嵐・・・達成感に浸っているのはいいのですが、それが今後ずっと続けられるとして、その値は自分にとって本当に必要な値だったのか?となったら、何とも云えません。基準値より若干高めがそのカラダの落ち着くべき位置、というヒトにとって、基準値以下は本来より低すぎる値になり、それが続くと体調を悪くしたりなんかしないのだろうか?「おかしいなあ、ちゃんと良い値になったのに何か調子が悪いんだけど」なんてヒトは、いないのだろうか? その個体のあるべき位置を、平均点の論理で無理やりずらしてしまっているヒトとか、いないのだろうか?

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何を信じたらいい

先日、友人から相談を受けました。「『虫歯予防のためにヨーグルトで歯みがきするといい』というテレビ番組をやっているが、新谷先生の意見ではヨーグルトが腸の病気を引き起こすと云っていた。どっちが本当なのだろうか?」というもの。

わたしは個人的には日本人のカラダにヨーグルトなんか合わない(遭遇するように設計されていない)と思っていますから、積極的には薦めないことにしていますが、こういう結論の出ないアンチテーゼの対決は医療や健康の世界にはたくさんあります。コレステロールは下げるべきか必要ないか、炭水化物制限は糖尿病治療に有効か無効か、大腸ポリープは切除すべきか必要ないか、そもそも大腸ファイバーは無意味なのか。食べ物に至っては、カラダに良いのか悪いのか・・・テレビや雑誌で専門家の説明がある度に見ている皆さんが右往左往します。医療界のことは専門学会の見解が正解だ!なのかというと、そうとも限りません。学会はどこも超保守派ですからなかなか見解を変えませんが、変わるときには瞬時にして簡単に180度見解をくつがえします。もちろん、お詫びをすることもありません。だってそれぞれにその時点での正解だったわけですから。

どうしたらいいの?何が本当なの?と皆さん、不安がっておられますが、各々にその筋の専門家が云っているのですからどれも本当だと思います。だからあまり右往左往しないことだと思います。自分の都合の良いことだけ信じて実行するもよし、どれも信用しないも良し、全部を少しずつ自分でアレンジするも良し、どれも正解なのですから。日本人は極端に考えすぎ。「あれが良いって云うからそれを毎日使ったのに効果がない、だまされた!」というヒトが多くなると、その商品は偽物だとかその原理を推奨した人は詐欺師だみたいな報道が始まって大騒動になることもあります。

”「カラダに良い」ものばかり集めたら、ただの『偏食』!”がわたしの持論。皆さま、何事もほどほどに。

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数値に一喜一憂してもしょうがない(後)

わたしはもともと結果説明をするときにデジタル的な値の線引きを考慮してないので、基準値が変化しても説明の仕方も判定の仕方も変わりません。たとえばLDL180。同じ数値でもずっと高い人と去年までは低かったのに今年急に上がった人とは違う。食事が野放しの人と節制を繰り返してきた人とは違う。他に危険因子を持っているか否かでも違う。今年急に変化したのだとしたら、「なぜだろう?」とご本人と一緒に考える。閉経したからか、上京していた息子夫婦が帰ってきて一緒に住むようになったからか、夜勤が増えたか、糖尿病が出始めたか。健診判定が「経過観察」や「再検査」の人は生活の見直しをしましょう!ということ。「要精密検査」や「要治療」は努力の成果を評価してアドバイスをくれる信頼できるかかりつけ医を持ちましょう!ということ。ただそれだけのこと。

そのうち学会が正式発表するでしょう。他の学会からの意見も吸収して正式に変更をすべきとなったら施設としての基準値を考えればいい。近年の予防医学は未病の概念で進み、ドック学会自らが”正常高値”の概念を前面に打ち出しておきながら・・・と悪態をつく人もおりましょうが、大局的になんら変化はありません。予防医学に従事する方々は、あまり値に踊らされ過ぎずに信念を貫いてほしいと思います。ずっとがんばっているのに下がらなかった人には福音かもしれません(『がんばっても変わらないのはそのカラダがその数値を求めているから』に他ならないだけだと思います)が、それ以外はあまり違いがありません。デジタル数値にとらわれすぎる純理系人間の方は、考え方を見直すいいきっかけになれたらいいな、と思います。

こういう情報を知っておいてそれに対する自分の意見を持っておくことは大切です。受診者にお話をするときに全然違います。その上で、現時点での自分の意見を貫いたらいい。説明者によって判定が違うのはいかがなものか?と嫌がる人もおりましょうが、それこそが裁量権だと思います。

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数値に一喜一憂してもしょうがない(前)

このたび、人間ドック学会が基準値の見直しをして、「今まで厳しすぎたからもっと値を上げるべきだ」という報告をしたとかで、思いのほか世間が色めき立っている空気です。

健診基準値、厳しすぎる…健康な人でも上限超え

早速昨日もうちの医師から「受診者さんに聞かれたらどう答えたらいいですか?」という質問を受けました。正直、面倒くさー!と思っています。わたし、基本的に数値に興味がないのでニュース記事を読みながらもあまり気にしてなかったのですが、ちょうどこの数値辺りで毎年悩んでいた人やいつも健康指導をしている医療者の方々には重大な事のようです。現場がこうだということは、きっとすぐにマスコミが騒ぎ始めるのでしょう(早速、昨日の夕方のニュースでもやってました)。怪しい医療コメンテータたちがあることないこと云い立てるだろうなと思うと、ちょっと憂鬱です。

そもそも「基準値」というのは「正常と称する人たちの平均値」なのだから今回の指摘はまったくもって当を得たものだと思います。でも、一方で、病気を引き起こした人たちを検討すると、病気にならないために下げるべき基準はこれまでの基準値よりはるかに低いところにあった!ということで「正常高値」なる考え方が出てきたわけです。

”正常者(と称する者)”の線引きと、”異常者(病人)”にならないための線引きと、もともと対象も求めるものもまったく違う項目なのに、もしかして皆さんこれを混同していませんか?これのどっちが正しい、間違っていると論じ合うことは意味がありません。健診の基準値=正常値、異常値=基準値をはずれるもの、と思い込んでいるヒトが多いものだから今回のような騒動があったときに右往左往してしまうことになるのではないでしょうか?

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ビールをやめたから?

健診結果をみて、義母が歓喜の声を上げました。

「ほら、わたしビールを止めたからよ」

今年の健診では糖尿病の値だけでなく、脂肪肝の改善も見られていました。でも、すかさず「ちがうよ、イヌの散歩を続けたから良かったのよ」と娘。

皆さん、こうやって何かと瞬時に理由づけしますけど、ホントかいな?と思うのです。人間のカラダ、そんな単純なものではありますまいで。日頃から晩酌習慣なんかなかったお義母さんがたまに飲む夕飯前のビールを今年の正月からまったく飲んでないくらいで影響でるか?とか、3月4日に愛犬が老衰で亡くなってからはほとんど散歩はできていないでしょうに、とかこっそり分析してしまうわたし。

でも、この思い込みの単純な分析こそがモチベーションには必要なのかもしれないと、思いながら聞いていました。

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全員参加の意義

先日わたしが提案した「健康増進月間」の件、別にまだ何も進んではいませんが、どうしても”全員参加”にこだわりたいのです。

「忙しいんだから、全員なんて絶対ムリです」
「自分は若いから、そんなもの必要ないし」
「自分は日頃から健康に心掛けて頑張っているから、今さらそんなもの要らないし」

大きな組織だと、きっといろいろな抵抗勢力が現れるだろうなと覚悟しています。あるいは、全員に何かを強いるためには明確なアウトカムが必要で、成果が出なかったらどうするんだよ?と云いた気な上司・管理者が必ず居るんだろうな、と思います。

でもね。結果なんてどうでもいいじゃない。人間は、健診結果を良くするために生きているんじゃないでしょ?そうすることが必要あるとかないとか、実はどうでもいいのよ。みんなで、組織全体のイベントとして、いつもと違うことを一生懸命やってみることがモチベーションだし、そんなことしたら、人生を楽しく生きることができるかも、と思いませんか。お祭りだから、みんなでやりたいのです。

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上を向く。

春になりました。庭の草も元気よく伸び上がり、いよいよ草刈りの季節が始まりました。これを日曜の朝にひとりでやっていると、自然と思索と哲学の時間が生まれます。

辺りかまわず我が物顔に伸び放題の草を抜いているとき、ふっと後ろを振り向くと、驚いたことにさっきまで偉そうに上を向きまくっていた草の仲間たちが、まったく目立たないのです。わたしは居ませんよ、と云いたげにうつむいて存在を消しているのです。「あれ、さっきまでそこに居たろ?」と声を出したくなるくらい。植物は、こうやって仲間の断末魔の悲鳴を聞きとって生き延びる手段を講じるのだということを以前聞いたことがあります。

その姿を見ながら、わたしはそれを人間に当てはめてみたりなんかするわけです。上を向くか下を向くかでこうも印象が違うんだなあ。力のない者ほど偉そうにふんぞり返っているとか、実るほどこうべを垂れる稲穂かなとかをすぐに考えるお方もござりましょうが、わたしは全然逆のことを考えておりました。「下向いてたら、誰にも気付いてもらえんぞ!大して実力もない、イケメンでもないなら、せめていつも上向いて歩こうぞ!」と。

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基準の境目

「去年より急に腎機能が悪くなってしまっていてショックです」

診察室に入ってくるなり、受診者さんが神妙な顔つきでそう云い始めました。彼が云っているのは健診特有の数値=eGFR(糸球体濾過量推算値)のことです。結果表を見ると、たしかに昨年までの判定は「軽度異常」で今年は「要再検」です。血相を変えて慌てるのもよくわかります。でも数値をみると、昨年が60.5で今年が59.3・・・おやおやほとんど変化はありません。どっちも正式なGFRを測定すると70以上あるのでないかと推測します。

もちろん、これは判定の境目が60だからです。60のちょっと上が合格でちょっと下が不合格というのも心苦しいのですが、基準値にはどうしても境目が必要なのです。心拍数99は正常範囲内なのに100は洞性頻脈の診断名になるのです。「自分は動悸がする、いつもドキドキするのに心電図は正常と云われるのは不本意だ。99は限りなく100ではないか!」というヒトがむかしいましたが、しょうがないんです。「99はほとんど100だから異常にしましょう」となったら、じゃあ98は異常じゃないのか?となってしまって数値の意味を成しません。これがデジタル数値の宿命です。

もっとも、eGFRの59も60もどっちも高い数値ではないのですから、「ずっと変わらず低い」が正解なことば。日ごろから腎臓をいたわる食事を取るように心がけることをお勧めしました。

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脳の磨きかた(後)

(つづき)

●『解脱』
宗教観としてどうしても読み入ってしまう項目です。ヒマラヤのヨーガ行者に言及した文章の中で、ヨーガ行者の最終目標が解脱であり、解脱というのが悟りの境地に到達ことではなくて、「彼らが目指しているのは、二度とこの世に生まれてこないように、自らの命を自らの意志によって絶つこと」なのです、という下りが心に残りました。<即身成仏>を求めているのです。そして「人間はみな自らの死を望んで死んでいく」のだという考え方も。

●記憶力
「記憶力は入れる側の問題ではなく、出す側の問題であるという点です。記憶力というと、一般的に「脳に記憶として入れること」と捉えられていますが、これは重大な誤解です。」~いや、読んでいてなるほどそうだなと思いました。脳に情報を記憶として入れる能力は誰でもそう変わりはないけれど、記憶力の良し悪しは「記憶を取り出す能力」で決まるのだというのです。バラバラに記録されている情報を一まとめに引っ張り出して統合する能力こそが記憶力だというわけです。

クリティカルエイジや神経ネットワーク、知能、抽象度・・・結果として、著者が薦める若返り法はちょっとストイックで、きっと世間の多くの皆さんは「そりゃムリだろ」と思うのでしょうが、いやいや、それではいかん!のでしょう、きっと。

この調子だとまた長くなるので、このへんで。あとは直接読んでください。

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脳の磨きかた(前)

先日ここに話題にしたのをきっかけにわたしも300万部突破のベストセラーを買って読んでみました。

『15歳若返る脳の磨きかた~苫米地式ブレイン・アンチエイジング(苫米地英人著、フォレスト出版)』

鼻に付く自信満々な表現に時々カチンときながら、書いてある内容はさもありなんと納得するものばかり。ここにわたしが書いた内容も、読み終えてみると見当違いだった感じでちょっと恥ずかしい(笑)。最後に脳の若返りの結論として書かれた3カ条、①なるべく栄養をとらないこと、②酸素をできるだけ消費しない、③激しい運動をしないこと、も「そらそうだな」と素直に納得し、最後の最後にメラトニンと朝の光のはなしが出てきたときには、やっぱり今のわたしが関わるものはすべてがここにたどり着くのか、と感動さえ覚えた次第です。読みやすくてすんなりと読み通せますので、是非ご一読ください。せっかくなので、ココロに残った箇所をいくつか引っ張り出してみます。

●老化の存在理由について
「老化は、生物に世代交代をスムーズに行わせるためのプログラムといえます。」~前の世代がいつまでも実権を握っていると世代の進化が妨げられるから、若い世代に交代できるようにDNAに老化のプログラムが埋め込まれているのだそうです。

●プログラムされた死の理論としての「ヘイフリック限界」ということばは知りませんでしたが、アポトーシス(プログラムされた細胞死)やテロメアについてはそれなりに知っていました。細胞分裂には無限がなく、細胞はプログラムされたように死んでいく、あるいは生活態度が悪いとテロメアはプログラム以上の速さで短くなっていくのだと聞いていました。でもそこにテロメラーゼという酵素がある。細胞はテロメアによって分裂回数を制限されているが、テロメラーゼは細胞分裂のたびに短くなっていくテロメアを修復する作用がある、というのです。残念ながら今のところ人間にはないけれど、テロミラーゼ活性の存在するほとんどの単細胞生物には寿命というものがない、という事実には驚かずにはいられませんでした。     (つづく)

 

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自然淘汰

毎年恒例の職員健診がやっと終わりました。診察をしながら、むかしからの古い看護師さんが増えたなあと実感します。もちろん、独身のままナイチンゲール精神を貫いて模範となってくれている看護師さんもたくさんいますが、それ以上に家庭に入ってから子育てをしながら仕事を続けている方が明らかに増えています。うちの病院の労働環境はとても厳しく、ワークライフバランスがどうこうと云い始め、託児所ができたり、いろいろと職場環境を整える試みに取り組んでいることも奏功しているのでしょうけれど、それだけでもないような気がします。

うちの病院の労働環境は職域を問わずとても過酷ですが、それを経験するとどこでも怖いものなしになれるというのがウリで、就職先の競争率はかなり高かったようです。「辞めるんならさっさと辞めなさい。うちに入りたがっているヒトは山ほど居るのだから」と云われたOBも多かったようで、今でも会うと「おたくは看護師には冷たくて人使いが荒かったもんね」と嫌味を云われます。むかしは寿退職が普通でした。結婚して子どもができたら到底両立はむずかしいだろうと思われていたからでもあり、またこの過酷な環境から堂々と卒業できる唯一の方法だったからでもあります。

そのころに比べると結婚後に残って病院の中枢でがんばってくれる人が多くなったのはすばらしいことだな、と思うのですが、よく考えたら基本的には今もむかしも同じなのではないでしょうか。結局は「自然淘汰」・・・ことばは厳しいですけれど、適材適所というか、「ここはわたしの求めているところと違う」というヒトは若いうちに辞めていって、ここの環境に生きがいを感じられるヒトが残ってきた結果ではないかと。そうすることで、皆が幸せな人生になれるのであれば、それでいい。だから、辞めて行ったみなさん、あまりうちを悪く云わないでね(笑)

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