原因究明(後)
(つづき)
どうして一般の人たちも含めて、皆がそんなに原因究明に躍起になってしまったのでしょう。おそらく西洋医学が全盛になり、医学は科学だと主張するのに必死になりだしたころからでしょう。結果があるなら必ず原因がある。必ずある原因は見つけ出してそのひとつひとつのメカニズムが解明されなければそれは科学ではないのであります。それはそれでいいのです。大正解だと思います。病気を起こすにも治癒するにもそのプロセスにはメカニズムがあり、一対一対応の分子化学的な化学反応があって起きているのでしょう。単体の反応ではなくてそれが複雑に入り混じって起きる集大成が「体調が悪い」なのでしょう。それを究明することは大切なことです。ただ、それは科学者や研究者が一生を費やして究明すればいいこと、いうならば単なる彼らの趣味であり興味です。それを一般市民が要求する意味がない。なぜなら、治癒力さえ身に付ければ大概の不具合は勝手に治ってしまうものだから・・・。なのにその理屈の公表と説明を求めるようになったのは、おそらくマスコミの力なのかもしれません。
メカニズムと原因がわかっても治らない病気はたくさんあります。「そうかそれが原因か、それならしょうがないからあきらめましょう」と割り切れるならいいけれど、多くの場合、難病を目の当たりにして途方に暮れ生きる気力を失ってしまうのでしょう。知らなければそれなりに折り合いをつかせながら、それを自分の「個性」としてうまく付き合った人生を送ったかもしれないのに、効くか効かないかわからない治療法に人生を賭けて立ち向かおうとすることは、本当に美徳なのだろうか?あるいは得策なのだろうか?そんなことまで思うことが最近多くなりました。原因究明することよりもうまく折り合いをつかせる付き合い方を見つけ出すこと・・・その方がずっと建設的で健全な人生の過ごし方のような気がしてなりません。
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