満身創痍に対する慣れと老化
夏に突発性難聴を患ったあたりから、老化に向かって一段階ギアが上がった気がします。梅雨の頃にBLS(一次救命処置)の講習会の小児心臓マッサージ実習で痛めた右手首。安静にさせていたらすぐ治るよと云われながらかれこれ4,5ヶ月、ちっとも治りませんし、夏の暑気払いのボーリング大会で痛めた右中指の関節の痛みや腫れも一向に治りません。そして今、一番の悩みは右腕全体のしびれ感ですが、姿勢を正したり上向きにまっすぐ寝ると数秒後にはしびれ始めますので、間違いなく頸椎レベルの神経圧迫でしょう。これが気持ち悪い。突発性難聴の治療をしている頃から出始めていたからもう2ヶ月くらいかしら。素人ではないので、徐々に症状が進んで行っているのがわかります。
そんな満身創痍感に苛(さいな)まれ続ける毎日で、何しろ夜寝ていてもしびれる訳だから熟睡できない日もたまにはありまして、心身ともに休まらないことになるわけですが、不思議なもので、そんな不自由さや憂鬱さ、あるいは大げさに云えば「将来への絶望感」みたいなものが、最近急に何となくふわーっと萎(しぼ)んでいく感じがしています。症状なんて何ら変わりありませんけど、何か気にならない。ビンビン響く右腕の振り回しながら、まあこれ以上ひどくならなかったら困らないかな、などとココロに云い聞かせている、そんな感じです。これが人間に備わった自然麻酔(麻薬)機能なのかもしれませんし、これを受け入れることがすなわち、一歩一歩老化への階段を自ら上っていることなのかもしれません。それが、良いことなのか悪いこと(そのために手遅れになる)なのかは存じませんが、とりあえず一時期に比べてわたしの自律神経が落ち着きを取り戻しつつあることは確かです。
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