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2014年11月

タイピングミス

以前、ここで書いたことのある話題

パソコン入力が、仕事でもプライベートでもほぼ日常茶飯事の作業になり、いつもキーボードを叩いているかスマホの文字をタッチしているかの日々ですが、ここ5年以上、明らかにタイピングミス(キータッチミス)が増えていて、何度も同じところを同じようにミスすることもしょっちゅうです。ちょっとした目標点と着地点のズレなのですが、デジタル世界では曖昧さを許容してもらえません。まったく違う着地点と判定されれば、「ノー!」と突き返されるのはやむを得ないところ。

そんな悩みを妻に話したら、「あなたそれは危ないよ。脳梗塞になっているか、歳を取ってきたか・・・どっちにしても重症だよ!」と云われました。「んなことあるかい!ちょっと老眼が進んで見えにくくなって来ただけバイ!」と反論してがんばってきてはいますが、タイピングミスの回数は増えこそすれ一向に減りはしません。スマホのタッチミスはさらに深刻で、「これは微妙なタッチズレの結果だからしょうがなかろう」と思ってはみるものの、若者はちゃんとやれるのだから言い訳にはなりますまい。

そんな老化現象の産物のタイピングミスによる打ち直しの繰り返し・・・これにいつの間にか慣れてきてしまいました。どうせ間違うのです。どうせ何度も打ち直すのです。良いじゃないか、時間がかかっても最後にきちんとした文章になるのだから・・・そう、開き直っています。だから今はちっともイライラしません。いつものことだから・・・と。これは、いけません。開き直りはイコール諦め、アンチエイジングの敵。一歩も二歩も老化に近づいていきます。「くそったれ-!またまちごーたー!」といつまでも叫んで舌打ちをしているうちが花ですバイ!

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ナビの中のわたし

先日、国東半島にひとり旅をする機会があり、薦められたお寺に行くのに自家用車のナビを使いました。慣れないもので、目的地を設定するのに若干手こずりましたが、優秀なナビの指示に従って迷うことなく目的地にたどり着くことができました。

海岸線からいつの間にか山中ののどかな田園風景の中に入り込み、一直線の道以外に何もないナビの地図を眺めながら、ふと想うに至りました。「今、自分はどこにいるの?」・・・4年半前にナビのことを書いたことがあります。以前は手元の地図を眺めながらあっちだこっちだ、今この町だからどの程度進んだ、今九州全体のどの位置にいてこれからどこに向かう、というオリエンテーションを常にアタマに描きながら運転していました。だから、「自分という存在が地球上のどこにいてどっちに向いている」ということが明快でした(時々それを見失ってパニックになりますが)。ナビになって、それがない。もちろん広域地図まで広げればわかりますが、実際の走行中にそんなことはしません。今でも、前もってネットで地図を眺めながら目的地の位置関係や出発してから帰るまでの行程をシュミレーションするのがわたしの習慣ですが、先日は途中で知人の進言で急遽目的地を変えたもので、最後の最後まで(帰りは「自宅に帰る」で家まで連れて行ってくれます)自分がどこにいたのか正確なことが分からないままでした。

全体の中の自分がどこにいるのかが分からなくても、目の前の指示に従って粛々と作業をしておけば、きちんと目標に達することができる・・・今、ナビのおかげで地図を見ることのできない輩は若い女性だけではありません。そのまま自分の人生にも置き換えられるこの現状に、ふと不安を覚えることは、ありませんか。

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根症状

わたしの頚椎症の症状は相変わらずで、若干小康状態に陥りつつあります。症状は激しいときには激しいので、小康状態というよりも馴れなのかもしれません。わたしの日々うつむきがちな姿を見るに見かねていろいろな方がアドバイスしてくれたり、専門家の勧める体操やくすりを伝授してくれたりします。先日も、友人が白いローションを持って来てくれました。「わたしが通っている先生に話したらこれを試してみたらとおっしゃったのよ。首から肩全体、大胸筋の一体までまんべんなく塗って寝ると軽くなると思う、って。試しにわたしが使ってみたのだけれど、痛くてどうしようもなかった腰が朝にはウソの様に良くなっていたのよ。まあ、だまされたと思って使ってみて」と。ありがたいことですし、悪くなるものでなければわたしは何でも云われるがままに試します。

ただ、気になるのは、みなさん基本は「強い肩こり症状か寝違えと同類」だと思っておられる。「首をあげると肩から腕にかけて痛みやしびれが出る」ということから、結局は首肩から背中にかけての筋肉の緊張が症状悪化の誘因になっているからそれを解除すれば症状が軽くなるはずだ、という発想の様にお見受けします。頚椎症の経験のない方々が自分の人生の中から想像することを考えたらそれはリーズナブルな理論だと思いますが、神経根症状というのはちょっと世界が違います。頸椎の隙間を通って外に出てきている神経線維そのものに出口の骨のトゲが触るために起きる症状、ただそれだけです。確かにその刺激によって炎症は起きるのでしょうからそれを取り除くと軽減する可能性はありますが、それによって周りの筋肉が固くなったり腫れたりする症状ではないので、何もできないくらい痛いかと思ったら次の瞬間何もなかったかのようになります。だから筋肉をほぐしてもあまり変わりません。わたしの行きつけの整骨院さんも首回りの筋肉をだらんだらんになるまでほぐしてくれましたが何ら症状に変化がなくて落胆されていました。

ポピュラーでないようで意外に患者さんが多い頚椎症・・・おかげさまで、その実感を経験することができていますから、同症状の方が相談に来られてもちゃんと当を得たアドバイスができると自負いたします。

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詩人

詩人 谷川俊太郎さんが朝のNHKテレビに出ていました。とても有名な人(のよう)だが、実はよく知りません。

谷川さん、詩をひとつ作ってください』・・・11月15日に公開されているはずの映画(残念ながら九州では上映されません)のPRを兼ねた番組だったのでしょうか。たまたま見ていただけだから、あまり詳しく覚えていません。ただ、彼が語ることばといくつかの詩が何となくココロに残りました。

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「ものすごいインフレーションですね。
実態が伴わない言葉が氾濫している。
ストックにならない。
全部フローになる、言語が。」

“死は その静かなすばやい手で 生のあらゆる細部を払いのけた”

“としが ちがってても ともだちは ともだち”
“おかあさんと おとうさんも ときどき ともだちみたい”

「なかなか言葉は意味で流されたりするから、確固とした実態になれない。
道端に咲いている草花みたいな言葉を机の上に置ければ、それが一番理想。」

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・・・いろいろな意味で、わたしも言葉を自分の武器にしている人間です。このブログも含めて、わたしの発する言葉が、だれかの人生の中に根を生やしてくれるようだといいなと、ふとそんなことを思いました。

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思い込み

今年も年報編集の季節になりました。わたしはメンバーが書いた原稿をチェックする担当。これが、なかなか大変で、毎晩夜中まで赤ペン先生になって悪戦苦闘中。

「なぜ、こんなことを間違っておきながら平然と提出できる?」・・・毎年のことながらブチ切れそうになります。誤字があるとか、文法がおかしいとかいうのはセンスだからあまり気にせず訂正しますが、そんなことではないのです。挿入されたグラフの数値を足しても本文の数値と一致しないとか、単純な割り算が間違っているとか、そういうレベル。 「そんなもの間違うはずないでしょ。だって、エクセルが勝手に計算してくれるのだから」・・・あるスタッフがそうつぶやきました。みんなそう思い込んでいるんです。だから、その表計算ソフトが打ち出した数字を疑うことなくそのまま写しているのでしょう。計算は正確かもしれないけれど、それに数値を打ち込むのは人間です。あるいは膨大なデータをコンピュータから抽出して並べ替えるのは人間です。どうして自分のやった作業を疑わないのでしょう?機械は疑いません。絶対の自信があるから、どんなとんでもない答えを出しても、正確無比な結果を誇示します。その数値が間違っていないかどうかを確認する作業は人間の仕事、それは常識。こういう統計報告の書物は、数字の1つでも間違っていたら、他にも必ず間違いがあるに違いありませんから、一冊全部が信用できないただの読み物になってしまうのです。

声を大にして云いたい。「数値は記号ではありません!」

やむを得ず、いちいち電卓を出してすべてを検算しているわたし。毎年のことだから、そろそろ期待を裏切って「取り越し苦労だった」と云いたいけれど、結局今年も大量の計算間違いを見つけました。わたしがチェックするのは年報全体のごく一部。他のチェッカーが確認済みの原稿をちょこっと覗き見してみたら簡単に間違いを見つけ出しました・・・残念ですけど、きっと他の原稿にも大量の計算ミスが隠れています。編集長には伝えられない、とっても悲しい現実です。

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言い訳はココロを脆くする

ヒトは『言い訳』が入った瞬間からココロが脆くなります。むかし、昼休みに毎日うちのフィットネスジムで運動していたころ、自称「運動中毒」だったわたしは、それが当然の日課でした。何かの理由で行けないと一日気持ちが悪くて、夕方に時間を作ってフィットネスジムに行ったものです。「もはや、中毒だから、ほったらかしておいてもせずにはおれないのだから、日常から当然カラダを動かすに決まっている。もはやこの体質は変わり様がない」と云っていましたし、そう信じていました。

ところが、「皆が昼休み返上で忙しく働いているのに昼休みに遊んでいるヤツがいる」と陰で云われ始めて昼休みのフィットネス通いを自粛し始めたあたりから、運動量が激減しました。「自分はしたいのだけれど、文句云われるし、実際忙しくてそれができないのだ」という言い訳がわたしのサボり生活の大義名分になりました。前に比べて特段忙しくなったわけではありません。動こうと思ったら他の時間でも十分動けるはずです。でも自分に明確な大義名分=「忙しいから運動ができなくてもやむを得ない。もう少し時間ができたらするけれど、今はムリ」が君臨する以上、もともとアスリートでもなく、”運動欲などない”人間であるわたしのココロをかりたたせるほどの力は湧いてきません。「運動中毒だから一生変わらないだろう」と云っていたころがなつかしい。恋愛が一生ものでないのと同じくらい、こんな自信は脆くも消え去りました。

こういうことは多くの皆さんが経験しているでしょう。「言い訳は人間を弱くする」・・・自らの行動のひとつひとつにいちいち意義付けする習慣があるとついいつの間にか言い訳を始めます。だから、自分の行動に言い訳することだけは止めよう!と誓っている今日このごろです。

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学校給食

学校共済組合の先生方がまとまって人間ドックを受診する季節がきました。この時期にいつも思うことがあります。「小学校の先生にとって、給食は最大の敵!」ということです。育ち盛りの子のために管理栄養士さんが計算して作っているのが給食です。そんなもの、大のおとなが食ったら毒になるに決まっています。特にメタボ気味だったり糖代謝異常や脂質異常や高血圧が指摘されている先生方は基本的に食事療法が必須で、むしろ”治療食”を勧められる立場なのに、ほとんど猛毒を毎日食わせられる。教育的立場から給食を残すこともできず、しかも忙しい時間の中でバタバタ飲み込むから食後高血糖にならないような注意なんてしてられたもんじゃない。大変なお仕事でございます。

本来、先生様への給食は子どもたちより多めでした。おとななんだから。しかも偉い立場だから、より多く食べる権利がある・・・ある意味戦後の権力の象徴でもあったところがあります。校長先生や教頭先生も”検食”と称して腹一杯食う権利を与えてもらってきました。「健康のために栄養管理をしている理想食だ」という概念も給食にはありますから、日頃栄養失調気味の皆さんに十分な栄養を与え、しかもバランスよく栄養を補給するように考えられた理想食だから、と謳われていたはずです。

でも「理想食」なのはあくまでも育ち盛りの子どもたちにとってであって、おとなに対してではありません。そろそろ現代の社会環境に合わせて、「給食は生徒たちのもためのものだから、先生は食べてはならない」という決まりを作ってあげてほしいなと思っております。もっとも、生活習慣病に陥るおとなの皆さんは基本的に大食い、早食いですから、食事療法中でも堂々と言い訳ができる給食は最大の権利なのであって、これを剥奪されたら暴動が起きるかもしれませんね。

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暴飲暴食

「やっぱり、暴飲暴食はいけませんかね?」って、時々受診者さんが云うんですけどね。

「そりゃそうでしょ。だって、”暴飲暴食”だもの!」って、答えるんですよね。

『自分は大した量は食ってない』とか『いつも気を付けているのに結果が悪い』というのではなくて、『自分が暴飲暴食をしている』って云っているわけでしょ。

そりゃ、しょうがないですよね。カラダに悪くないことに、”暴”なんて使うはずがないんですもの。

どんな答えを求めて云ったのかはわかりませんが、「いけません」・・・はい。

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トリガー

タニタの『からだカルテ』を使って生活習慣病改善を促すプログラムをうちの職場の職員健康管理室が行っていて、この12月からわたしもエントリーをします。それについて昨日わたしのもうひとつのブログで公表してfacebookにアップしたところ、

【わたしの生活目標】
  1.夕食が食卓に並ぶまで酒に手を出さない
  2.コンビニでお菓子を買わない
  3.フィットネスセンターを週1回以上利用する
  4.毎日10000歩を目安に歩く
の、1.についてクレーム(助言)のコメントが入りました。「結局、毎日酒は飲むのですね?」「酒量を減らす、を追加してください!」・・・気をかけていただいて本当にありがたいことでございます。でも、たぶん心配は要りません。

わたしが酒に手を出すときのトリガーは「手持ち無沙汰」。自分で云うのも何ですが、わたしは別にアル中ではありません。「夕食の準備ができるまでの間、手持ち無沙汰だからビールでも飲むか」がトリガーです。で、そのまま夕食開始と同時に2本目に入るとやめられなくなるわけですが、夕食を終えた後になってから酒を飲みたくなり始めることはありません。風呂上がりのビールが最高!などと思ったことも一度もありません。だから、夕食の準備が出来て、「さあ食べましょ」と妻が云ってから酒の準備をしたら、目の前の料理がなくなる時点で飲み終われます。一緒に飲む客人が居たら別ですが、妻は酒を飲みませんからそれ以上尾を引くことがほとんどないのです。

だから、この目標を守ることが出来ている限り、わたしのトリガーは侵されることがありません。問題は、その目標を遵守し続けることができるかどうか。ひとりで決め事をしてもモチベーションが続かないのでこのプログラムにエントリーしたわけですが、3か月後以降にもこのトリガーを目覚めさせずにいられるか・・・何とかそれまでにガッチリと成果を出して、せっかくできていることを壊したくない!と思えるようになれると良いのですが・・・。

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生活療法は確率論

「糖尿病や高血圧の生活療法についてご本人独自の持論がおありの方です。以前、他の健診施設で激しい口論になったそうですのでご注意ください」

先日、人間ドックを受けたある男性の問診画面には、そういう申し送り事項が書かれていました。一体どんな持論だろう?と興味はありましたが、わたしが説明を担当したわけでもないので詳細はわかりません。わたしもかなり変わり者として生活しているので、あまりそういうことに驚きません。

ただ大事なことは、持論がどれだけしっかりしていても、やったことに成果が伴わない場合は基本的に間違っているわけだから、そこは意固地にならずに素直にやり方の修正をした方が身のためだということです。それは、別にこの方に限ったことではなく、教科書に書かれている王道の食事療法のやり方だったり、どことかの専門家がセミナー開いて教えてくれたノウハウであってもまったく同じです。国や専門家が認めたやり方なのだから成果が出ないのはやり方が悪い、方法論には間違いがないのだから・・・と頑なにさらなる厳格な遂行を求める健診スタッフの方っていますけど、そんな人こそもっと素直に現実を受け入れてほしいと思います。推奨される方法はあくまでも確率論。長い歴史の試行錯誤の中でこの方法が一番はずれが少ない方法だと云っているだけのことであって、まったく効果のない人もいれば逆に悪化する人もいるはずなのです。むしろ独自の方法の方が効果があっても然るべし。「どことか大学の偉い先生が薦めるからやってみたけど全然よくならないじゃないか!」とクレームを云っている人は世にたくさんいるのに、「それはあんたのやり方が悪い」で片付けるのは、失礼だと思います。

だから、自分なりの試行錯誤で、自分なりのやり方を見つけ出した人には心からリスペクトします。それでも、くどいようですが、それが自分で思うほどの効果を得られないときには他の(普遍的な)方法も是非試してもらいたいなと思うております。

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過労死

先日、あるドクターが急逝しました。悪性腫瘍に対する先進的な治療を手がけるために開業し、県内外各地から難治性の疾患を抱える患者さんが集まってきていました。やっと診療も軌道に乗ってきたところでの急死・・・15年ほど前に突然死したわたしの同僚のことをふと思い出しました。あるいは5年ほど前にも、同様に消化器の先進的治療を手がける開業医が40代の若さで突然死したこともありました。

くだんの彼は51歳でした。福岡の出張先での急変で急性心筋梗塞だったのではないかと云われています(詳細は存じませんが)。忙しすぎたんだ、過労死だ、あるいは疲れてうつ気味だったみたいだ・・・いろいろな意見があろうと思うのですが、わたしは違うことを考えました。割と突然死は旅先で起きることが多いように思います。もしや、旅先でいつもと違うリズムになったとき、特に講演会や学会などで日常の張り詰めた緊張状態とは違った自律神経系の緩みがでてきたとき、その神経系のアンバランスが突然のカラダのトラブルを起こすのではないか。ちょっと時間に余裕ができて、ホテルのベッドで久しぶりにふっと意識をなくしたとき、何かが一線を越えてしまって昇天するのではないだろうか。強烈に忙しいストレスの連続の日々を送るヒトにとって、リラックスは命取りになるかもしれない。不謹慎にも、そんなことを思ってしまいました。わたしのようにいつも緩んでいる人間には関係ないおはなしです。

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自分が変わる

「ヒトを変えたいなら、まず自分から変わりなさい」

この普遍的なことばがこの2週間の間に違う方面から2回わたしの耳と目に舞い込んできました。こういうときには、何か大きな力が動いているときか神からの何らかのメッセージがあるとき・・・わたしはそう察しております。もっとも、今現在、わたしが誰かに対して変わってほしいと思うようなエピソードはありませんから、神からの啓示だとしても先取りの現象なのではないかと思います。

むかしはわたしもそう思っていました。ヒトに不満があり、ヒトの行動や考え方を何とか改めさせたいと思うことがあるなら、ヒトに意見するよりも自分が変わってみせれば自ずとヒトの自分に対する態度が変わってくるものだし、その方が簡単である。「ヒトと過去は変えられないが、自分と未来は変えられる」とは、蓋し名言である、と。

でも、最近はあまりそれにも賛同できないわたしがあります。自分が変わりたいときには変わる。自分と未来は変えられる、のだから。ただ、それによって別にヒトが変わってくれなくてもかまわない気がする。自分に納得でき、自分に満足できれば、他人のことなんてどうでもよくなる。彼はまああんなもの。あんな風に生きるのが彼であり、別にそれを認めておけば何ら不満は感じないもの・・・むかしもピンポイントでそんなことを考えたことはありましたが、最近、急激にそういう感覚が広がっていくのがわかります。

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何が新基準だよ

人間ドック学会の「基準範囲」問題で新解釈?

MTProからこんな記事が配信されていて、正直、目を疑いました。医学専門誌なのに、今さら、何云ってるんだ?って。

今年4月に大騒ぎになった人間ドック学会の基準値検討のこと。あの日本人間ドック学会の健診基本検査の基準値と、日本高血圧学会や日本動脈硬化学会が作成している基準値とが乖離していることの意味付けとして、『2つの基準値の差こそが未病の範囲を表しているとの考え方を、第21回日本未病システム学会学術総会(会長=国立循環器病研究センター生活習慣病部門部門長・河野雄平氏)で提示した。』とか、『ドック学会基準は「健康の上限値」,専門学会基準は「疾患の下限値」 』 とか、まるで新し画期的な考え方みたいなことを書いているんです。

今回の人間ドック学会が提示した基準の値は表に異常が出てきていないギリギリの値(見た目が”正常”の人)であり、各臨床学会が提示する基準値はこれ以上になると病気が発現するかもしれないギリギリの値・・・そんなこと、医療関係者なら常識でしょ。わたしたちは10年以上前から受診者さんや講演会に来た方々に当たり前に話してきました。この違いが一般の方に理解できないのはしょうがないかもしれません。基準値と正常値すら混同されているのでしょうから。臨床現場の先生方がわかってないのも分かります。どうせ彼らの認識なんてそんなものです。彼らは治療対象になる人にしか興味がないですし、それで給料もらっているわけですから。でも、この記事は予防医療の現場の医者たちが、新しい考え方として「なるほど」と云わしめた考え方だ!と云って騒いでいるのです。だめだ、こりゃ、と思いました。

おそらく、各臨床学会が提唱する基準値が今まで通り健診現場での基準値であるべきでしょう。人間ドック学会が今年提示した値は、むしろ臨床現場での基準にすべき値だと思います。

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目ぢから

「え? わたし、あなたに何かしましたか?」とたじろいでしまいそうなくらいに、大きく見開いた両目で見つめられると、それが若いお嬢さんであろうと初老の紳士であろうと、わたしはドギマギしてしまいます。

『目ぢから』…相手の目を見て話すのはエチケットであり、目線を合わせないのは相手に失礼だと、あるいは伝えたい想いの強さが目に表れるのだと、そう教わってきました。 でも、それも程度ものです。最近、特別な想いを抱いているような表情と大きな目で、会話の間中相手を見つめる人が、特に女性に多い印象を受けます。普通の話をしているのにグイグイ押してこられると、どんどん気後れしてしまって、「もう勘弁してください」と云いたくなってしまい、それではもはや会話になりません。

きっと自分がそんなに相手を追い込んでいるという意識は本人にはないのでしょう。子どものころからそれが習慣なのかもしれません。でも、会話は相撲の立会いみたいなものです。お互いが合わせないと成立しませんから、強すぎる目ぢからは、自ら抑える努力をした方が得だと思います。そんなお友達が身近にいたら、聞き流さずに是非ともそっとアドバイスしてあげてください。

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ありとあらゆる

「ありとあらゆる検査を受けてきた」と、高名な文化人や政治家が自慢げにマスコミ相手に話しているのを見かけることがあります。「ありとあらゆる検査でカラダ中を徹底的にチェックするために人間ドックを受けてきた」という人も。

でも、それ、ただの本人の思い違いか妄想や誇張です。あまりに自信ありげに話すので訂正してあげられずに、苦笑して聞き流すことにしていますが、「ありとあらゆる」検査を受けることなどあり得ないのです。至れり尽くせりの人間ドックでも、船のドックや時計のオーバーホールみたいなことはできません。各臓器を全部取り出して洗って磨いて傷がないか確認して掃除のぬかりない元の場所に戻すなんてこと、無理です。その代わりを諸検査が担うわけですが、検査には必ず危険が付いて回りますし、検査したことで何もなかった臓器が傷むことは珍しくありません。というか、検査のたびにカラダは傷みます。だから、必要最低限のことしかしないはずです。もしも万が一「ありとあらゆる」検査を受けたとしたら、それをした医者はど素人の犯罪者。どんなに本人が懇願しても、良心のある医者ならしやしません(どこかの常識はずれのことを平気でするお国でも、せんでしょう)。

受ける検査は最低限が良い。最低限で、でも見るべきものを落とさずにきちんとチェックするのが優れたドックであり、優れた臨床医。たくさんの検査を受けたことを自慢するよりも最低限でキチンとカラダの中身を評価してもらえたことを自慢した方がカッコいいと、思うぞ、○○さん。

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朝のコップ一杯の水

先日、宴席で東京勤務時代の旧知の先生から聞いたお話。

ある難治性の心房細動の患者さん。心臓に明らかな原因はないので生活習慣の改善やストレス解除の取り組みなどを行ってみたけれど、どうしても治らない。そこで改めて毎日の生活を細かく聞いてみたところ、コップ一杯の水道水を毎朝飲んでいたことがわかりました。「それだ!」とドクターは合点がいき、直ちに飲むのをやめてもらったら、案の定、1〜2週間後には心房細動は完全に出なくなった、というお話です。

「えっ!」・・・わたしは思わず絶句しました。『水分を取るなら寝る前ではなくて朝一番で飲みなさい。夜に飲むと寝ている間に臓器が休めないから』と、もう20年来指導してきたからです。その考え方は間違いなのか?と質問したところ、「そうではありません。水道水がいけないのです。もっと云うなら水道水に含まれている塩素が犯人です。塩素は強力な毒性を発揮しますから。だから水道水ではなくてミネラルウォーターに替えてもらったのです」との答。その患者さんは東京在住の方でした。

なるほど、それなら理解できます。熊本の水道水は地下水だから東京時代ほど塩素のことを気にしていませんでしたが、それでも最近は熊本でも塩素が増えているようです。水分補給のメリットを語るときにまったく意識していなかったことで、とても勉強になりました。

そういえば、遠いむかしに若くして胃がんで亡くなった母も、毎朝コップ一杯の水道水を飲むのが日課だったなあと、彼の話を聞きながら思い出しました。30年も前の話ではありますが、当時の大分の水も塩素臭かったなあ。

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マルチモダリティ(後)

(つづき)

マルチモダリティ、つまりたくさんの検査方法や治療方法がある中、何を選ぶのが良いのか、という論議はいつの時代にもあります。一つだけ抜きん出た方法はないから、知りたい病態の目的に応じて選ぶべき検査方法は変わり、本当に詳細な検討をするにはたくさんの検査が必要。でもそれは下手をすると医療過誤となり、患者さんの生身のカラダを無意味にキズつけることにもなりかねません。やらなければやらなかったで、何故しなかった?と問い詰められ、事故が起きようものなら訴訟モノです。

たくさんのモダリティが各々に質を向上させ、遜色ないラインナップになればなるほど、検査する側の悩みは耐えません。だから、ガイドライン(この病気にはこの検査をすべき、この検査で異常があったら次にこれをすべき、検査結果がこれだったらこういう治療戦略を選ぶべき、という指針)の整備が求められるわけですが、正直なところケースバイケースで、責任転嫁の免罪符になる懸念すらあります。さらに云うなら、各々の検査結果を読影して判定するのは生身の医者です。目の前にある画像を見ながら、導き出す答えは真反対かもしれません。これまた読影医の責任が重くなればなるほど、読影医は必要以上に細かく判読し(見落としがないことを主張して)責任を被らないように防衛線を張ることになりましょう。

悩ましい話です。昔のように選べる検査法も少なく、やっても明確なことは云えず、治療の選択肢も少なかった時代と比べても、患者さんの人生の予後はほとんど変わらないかむしろ悪化する場合もあるという事実は、医療関係者全員が真摯に受け止めなければなりません。自分を治療するならどんなモダリティやストラテジーを選ぶか? 自分の親ならどうするか?・・・これまでに何度か書いてきましたが、どんな普遍的なガイドラインよりも、結局最後はこの想定だったらエキスパートである自分はどう決めるのか、が究極の選択なのだと思います。

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マルチモダリティ(前)

第54回日本核医学学会総会のランチョンセミナーで、『心臓マルチモダリティ時代における心臓核医学の役割とEBM』(中田智明先生:社会福祉法人函館厚生院 函館五稜郭病院 循環器内科)を拝聴しました。

心臓CT検査などで得た形態的評価だけを基準にすると血行再建術の件数が増えてしまうけれど、結果として予後は決して良くならなかった。狭ければ広げれば良いというものではなく、冠血管予備能が低下していなければ狭くてもほったらかして大丈夫だというデータがたくさんある。だから、今でも20年前と変わりなく、負荷心筋血流シンチの結果が最も重要なのである。と、中田先生は熱く語られました。

20年以上前から云われていたことですが、循環器畑にいたころのわたしは、それは詭弁であり、そこに明らかな有意狭窄があるのに検査で虚血が誘発されないからほったらかすなんてできるか?現実問題として良心の呵責に耐えられるか?単なる確率論なんだから、自分の親だったらできないだろう?と思っていました。でも今、予防医療の現場から眺めると、どれだけ狭くても虚血が出ないならいらんこと(血行再建術)をしない方がいいと心から思います。自分なら受けないでしょう。それは、医療現場のリスク管理の考え方が変わったことや私自身が当事者になりうる歳になったことも影響しているのかもしれません。

そうなると、知らなくてもいいことは知らない方が健康的な人生が送れるのかもしれないと云えましょう。知ってしまうと、検査する側もされる側も、無視したいのにできずにいつまでも消えない残像に悩まされることになりますから。 (つづく)

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早く歩くことにした。

早く歩くことにした。

先日、学会場に行く道すがら、そう決めた。

今までは、セカセカせず、ゆっくり余裕を持って歩くのがカッコいいのではないか、その方が考え方にも生き方にも余裕ができるのではないか、と考えて、意図的にそうしてきた。

でも、ふと自分の姿を客観的に眺めてみたら、年寄りのジイちゃんの動きに思えてきた。生前の父親の老いた姿と重なってしまったのである。

もっと溌剌と生きてみたい。できたら、いつも飛び跳ねて生きていきたい。だから、とりあえず、早く歩くことにした。

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いなかオヤジ返上宣言

学会に参加するために、ジャケットとネクタイ姿で大阪に行きました。どうも最近、鏡や窓ガラスに映るスーツ姿の自分を見るのがイヤで、あえて見ないようにしているところがあります。そこに居る中年オヤジが、冴えない萎れた超いなかオヤジにしか見えないからです。太ったとか痩せたとか、髪を染めたとか染めてないとか、何かそんなものとは関係なさそう。自分のイメージの中では、ホテルのフロントで、あるいは学会場の受付で、手慣れた態度でスマートにカッコ良くこなしている紳士の自分が居るのですが、その直後に乗ったエレベーター内の大鏡に映る現実の自分は、イメージとは全く別人。そのギャップに凹んだわたしは、周りに誰も居ないことを確認して『ハァ』と大きなため息をつきました。

少なくとも、2〜3年前までの自分はもっと自信を持って立ち振る舞っていたし、遠目の鏡の中の自分はとても若々しかったはず。「歳とったんだなあ」と現実に納得してしまうとそのまま一気に歳をとってしまいそうな気がするから、今こそが人生で一番大事な正念場だと合点しました。

そう簡単に、いなかオヤジになってたまるか!絶対に抵抗してやるんだ!と、こっそりココロに誓った立冬の夜でした。

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痛み(後)

(つづき)

わたしがこの度患っている右肩~腕全体の痛みとしびれは、思いのほか重症です。首を後屈すると一気に症状が出てきますから、自ずと日頃の姿勢を変えることを余儀なくされます。仰向けで眠ることができませんし、寝返りを打つととてつもない神経の痛み(骨が軋むような痛みとも表現できます)で飛び起きる夜が続いています。外来受診した結果、診断名もきちんとつけてもらいましたし内服薬ももらいましたが、今のところあまり大きな改善はみられません。

でもあまり焦りません。わたしは、意外に現状をそのまま受け入れていけるタイプ・・・毎日が本当に憂うつなのですが、それにグチは云いません。骨や神経の難治性の痛みが如何に辛いのか、実感としてよく分かる機会をいただきました。そして思うことは、悲観的な思いからは何も得られないだろうということ。どうやってこの状態から日常を楽しいものに変えていくか?もう治らないかもしれない。でも治らなくても、慣れてしまえるレベルに落ち着くならそれでもいいじゃないか・・・視力が落ちて一生メガネをかけるようになることを、いつまでも悲観したりはしないでしょう?

おそらく、原因を求めていろいろ検査することよりも、痛み止めを注射してもらって対症的であってもそれで日々の生活の質が上がって活動範囲を広げられることの方が、残りの人生を楽しいものにするには有効なはずです。「昔は元気だった」と思うよりも、「これからもっと元気に生きてやる」と思うことがいいな、と思っている次第です。一昨日から、違う治療にトライし始めました。 

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痛み(中)

(つづき)

難治性の病気を抱えるヒトが一番辛いのは、その苦しみが周りからはまったく分からないことではないかと思います。わたしも、今年になって、突発性難聴や頸椎症を患いましたが、「わたしは病気です」と云って回らない限り、だれもわたしが病人であることなど知りません。傍から見る限り、当の本人がそんなに苦しんでいるなんて想像すらできないであろう普通の中年オヤジなのです。さすがに、きつそうなしかめ面をしていると、「どうしたんですか?」と聞いてくれます(もっとも、聞いてもらっても軽くはなりませんが)し、「大丈夫ですか?」と気の毒そうに心配顔をしてくれます。でも、きっと同情はされても大して心配はされていないだろうことが想像できます。他人が心配してもどうしようもないことは、聞く側も聞かれる側も分かっていますし、第一、そのきつさがどんなものかを実感できていないのですから、所詮他人事です。

おそらく、痛みや気分の悪さも然ることながら、「どうして自分だけがこんなにきつい思いをしなければならないのか」という不公平感や孤立感が、自らの症状を一層辛いものにさせて、どんどん治りにくいものになっていくのではないかと感じています。 (つづく)

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痛み(前)

頑固な痛みに苦しめられているヒトはたくさんいます。足、膝、ふともも、腰、背中、肩、首、アタマ・・・健診受診者の方の中にも、あるいは友人・知人の中にも、いつも苦悶様の顔をしながら「どこか良い医者を知らないか?」とワラをもすがる表情で聞いてくるヒトがいます。もちろん、どうしてもと云われる方には、ワタシが信じる(わたしが困ったときに何とかしてくれる)ドクターや整骨院を紹介はしますが、行ってみたあとの感想は聞きません。その多くは、受診してもあまり大きな変化はなかったと感じているのではないかと推測されるからです。

彼らはおそらくもっと劇的な改善を期待して医療機関巡りをしている気がします。でも、内臓の病気よりも整形外科的な痛みの方が、長引けば長引くものほどゆっくりと快方に向かうものでしょうし、何よりも彼らが「患う前の元気なカラダ」を思い浮かべる限り、その日は遠い先になるかあるいはやってこない日になるかもしれません。

そして、彼らは根本的な治癒を念頭に置いていますので、きちんとした病名ときちんとした発症原因を理解したがります。そこが納得できないと、たとえある朝に突然症状が無くなったとしても、「それはたまたまだ」と思い、原因が分からないのだからまた突然再発するかもしれない、という呪縛から逃れることが出来ません。痛みをスッキリとるための方法として神経ブロックなどの方法もあるでしょうが、彼らの多くはそれを求めないでしょう。”痛みを抑える治療(対症療法)”は”痛みの原因を取り除く治療(根治療法)”ではないからです。 (つづく)

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誕生日

「お名前と生年月日を教えてください」

JCIの認証を得て、診察や検査前に受診者にフルネームと生年月日を自ら云ってもらうことももはや普通に日常ルーチンの業務になりました。受診者の方も9割方が素直に唱えてくれます。これを云ってもらうのは、目の前に居るヒトが自分の手にしている書類のヒトと同一人物であり、自分が所見を入力しようとしているパソコン画面のそれと間違いなく同じヒトであることを確認するためです。云うならば、個体認証のための単なる2種類の記号に過ぎません。わたし自身、そういう感覚で、機械的に「お名前と生年月日を・・・」と口にしていました。

それが最近、ちょっと違ってきています。大事なことに気づき始めたからです。
「生年月日は昭和〇〇年11月7日です」
「ん?11月7日? って、今日ですよね?」
「は?はい」
「それは、おめでとうございます」

思いがけない会話に、受診者さんは戸惑いながらもにっこりしながら「ありがとうございます」と返事してくれます。「受診者の誕生日」は、JCI的には単なる記号であり個体認証の背番号に過ぎませんが、他でもなく、そのヒトが今、生きている根源のかけがえのないアニバーサリーです。意外に誕生日前後に人間ドックを受けるヒトは少なくありません。今年もそれが良い日でありますように、と思いながら診察をしています。

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若返り

うちのドック会員のYさんは今年83歳になりました。先日、ますますお元気そうな姿で受診されました。最初にお会いした10年ほど前に比べて今の方が足取りも軽く、年々若返る一方だと感じます。この間に、心臓弁膜症の緊急手術や両膝関節の手術を受けました。もちろん、元気に動き回るために受けた手術ですから、今があって当たり前と云えば当たり前な結果ですが、素晴らしいことだと思います。

「最近は週に2回も運動教室に行っているんですよ」と嬉しそうに語る彼女。家の近くで行われているNPO法人の運動教室と病院施設が行っているデイケアの教室と。「”運動”と云っても遊びみたいなものだし、筋力を鍛えるほどの効果はない」と若いスタッフは考えています。でも、実は若返りの理由が他にあることを、今回初めて知りました。「同じ教室には、90歳のおばあさんが毎回来ているんですよ。93歳のヒトもこないだ来てましたし」・・・そうです。齢83歳の彼女は、この教室ではまだまだ”若造”なのです。日頃の生活環境の中に居ると「自分は一番年寄りで、一番老いているから、無理しなくてもいいかな」と思い込みがちですが、この教室の環境の中ではもっと上の元気の良い先輩がいるので、まだまだ83歳ごときで老け込んではいられないのです。

昨年は大量の不整脈に悩まされ、体調も良くなかったのですが、今年は本当に晴れやかな姿でした。 ”83歳の若造”は、「また、来年、元気に来れるように頑張ります!」と云い残して、颯爽と診察室を後にしました。

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炭水化物制限

ここのところ妻のやり方に合わせて、夕食の「ご飯」を食べないでみています(「食べない」ではなく、「炊かない」)。特に何の抵抗もなく、何の不満もありません。もちろん、昼間は彼女の作ってくれる小さなお弁当食べますから、「コメをまったく食わない」なんて徹底のしかたではありません。炭水化物を食わないと脱水になるから体重が減るだけだという理論も然り。でも、低炭水化物はダイエットできるし食後高血糖を起こさない、というのはもはや揺るぎない常識のようですから、まあそれを単に試してみたくなっただけです。わたしのカラダを使ってちょっと試してみたくなる、というのは云わばワタシの病気みたいなものです。

ただ、やってみて困ることは、止めどきがわからない、ということですね。そりゃおかずを作らなければ済むことです(ワタシがいつも講演時に云っています。「ご飯を食べないんだから、おかずだって食べなくても全然困らない」って)が、そこにサラダやら漬物やらが並んでいると、いつまでも食える。ご飯があると、その茶碗一杯が無くなったときが止めどきなわけで、わたしはそれによって計画的に完璧なる三角食いをすることができるのが自慢でした。晩酌していたら、その酒が終わるときが止めどき。でも、それらがないと、目の前に何かが無くなるまでいつまでも食いますねえ。

このダラダラ感は自分的にはちょっとイヤですね。ま、食卓を離れればいいんでしょうけど。

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生活の変化

仕事から帰ってきたら、食卓の椅子に暖かそうなカバーがかけられていました。背もたれまで覆われています。「いいでしょ?ちょっと気分転換でもと思って、安かったから買ってみた」と嬉しそうな妻。

「へえ」と思いながら、いつものように通勤で使っている布バックを椅子に掛けようとしたら、その背もたれの角がカバーに隠れていてひっかけられない。「あらら」とちょっと慌てるわたし。さらに座るために椅子を持ち上げようとしたら、全部がカバーされているのでとっかかりがありません。またまたま、「あらら」です。

別にそれを不便になったとは思いません。何も考えなくても慣れてしまって日常を送っていたことが、こんな些細な変化のためにひとつひとつ意識しないといけなくなる・・・これ、大事な刺激ですからね。通勤用のお気に入りのカバンが破れたり壊れたりして新しいのに替えたときにも、使い勝手が全く違ってアタフタすることはよくありました。「前の方が便利だったな」と感じるのです(だから気に入ってそればかり使っていたのですから)が、新しいものを使い勝手のよいものに試行錯誤するのも意外に面白いものです。

日頃から「何かを変えたい」と思い立ってもなかなか取りかかれないのが常。いやでも変えないと困る状態って、ホントに大事。そう思って、新しい行動パターンを思索中です。

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予防接種ガイドライン

先日、「医療関係者のためのワクチンガイドライン」(第2版)が公表されました(日本環境感染学会)。

B型肝炎ワクチン、風疹/麻疹/水痘/流行性耳下腺炎のワクチン、およびインフルエンザ・ワクチンについての記載があります。それぞれに医療従事者であればきちんと知っておくべきものなのでPDFファイルに落とされたものを読んでみました。

B型肝炎ワクチン接種について「ワクチン接種シリーズ後の抗体検査で免疫獲得と確認された場合は、その後の抗体検査や追加のワクチン接種は必要ではない」という項目について、ひと言。本文によるとこれの根拠は、「免疫獲得者では22年以上にわたって急性肝炎や慢性B型肝炎の発症予防効果が認められている。経年による抗体価低下にかかわらずこの効果は持続するため、米国や欧州からは追加のワクチン接種は不要であるとの勧告が出されている。」というものです。

実は数年前に、わたしは25年ぶりに追加接種をしました。抗体価が3か4くらいになっていたからですが、これが今は不要だと云っているのだと考えて良いのですかね? 22年という年数よりはるかに長い年月の間、医者は第一線で働いています。22年ごときの短いスパンで語られてもなあ、という反発を含めて・・・たとえ抗体価が陰性レベルに落ちたとしても、むしろ日常の標準防御策をきちんと遂行することが重要で、一回若いときに免疫獲得をしたのなら、後は生涯追加免疫獲得のためのワクチン追加接種はすべきでない、という結論だと理解しましたが、そういうことですか?20年以上経ったらそれなりに偉くなって第一線から退いているはずで、いつまでもヒラのままで働いていちゃダメよ!とかいうオチじゃないですよね(笑)

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ムカムカすること

ムカムカすること。イライラすること。

日常の中には、些細なことから本当に許せないぞと思うものまで、たくさんの苛立ちがあります。「おい、約束は守れよ!」「何でそんな自分勝手なの?」そんな思いをしながらも、じっとこらえること。それは職場のスタッフの場合もあれば、妻の場合もあれば、友人の場合もありましょう。

そんなとき、どうするか?親しい友人にグチってみたり、身内にグチってみたり、あるいはこういうブログやSNSなどで叫んでみたり・・・したら気持ちいいかなあと思うことは何度もあるのですが、結局そんなことはしません。冷静に考えると、誰かに話してもしょうがないことですから。「そんなことオレに云われても何もしてやれんやろ」とか「夫婦の痴話話をするなよ」とか、そう云われるのが目に見えています。結局は、自分の中で整理するしかないことなのでしょう。分かってはいるのだけれど、だからこそ、一層アタマに来て、ひとりイラつくことになるのでございます。

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自褒め

健診の心電図異常のために精査依頼の紹介状を出すと、『異常なし』の返事だけではなくて、「これは一見心室性期外収縮に見えるが上室性だ!」とか、「ウエンケバッハ型なのだから精査はいらない」とか、わざわざ上から目線の嘲笑的(これだから素人医者は困るよ的な)コメントを付け加えてくれる先生がおられます。

「わかってるわい、そんなこと!健診の所見だから、それに問題ないことを確認するためにわざわざ意図的に専門医受診を指示したんじゃ!」と、プライドを傷つけられたことに以前はえらく反発していたわたしですが、最近はそれをあまり気にせず、「はいはい、あなたのおっしゃる通りでございます」と、独り言を云いながら、さらっと受け流せるようになりました。「偉いぞ、自分」・・・わたしもかなり立派な健診専門医になってきたな、と自褒めしてあげている今日このごろでございます。あとはこれで、先日受けた専門医試験に合格さえしてしまえば、堂々と胸を張って生きていけることでしょう。

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