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2014年12月

アウトソーシング(後)

(つづき)

わたしたちは自分のプライドをかけて、生活習慣の是正への介入や動脈硬化・がんなどの重要疾患の早期発見に努めています。でも、自分の介入で何人のヒトが改善したとか、がん治療が何人できたとか、そういうことが自分の仕事上の評価に反映することはありません。改善者1人当り幾ばくかのボーナスがでることもありません。

企業であれ個人申込者であれ、あそこは医者が熱心で保健師さんが口うるさいから毎年あそこに行くのを楽しみにしている、なんて変わり者はほとんどいないわけで、どこぞの施設は割安だとか、あそこには最新鋭の検査機器が備わっているとか、あるいはレストランの料理が美味いとか、そういうことで契約先を決めているわけです。ホントは、わたしたちは検査さえきちんとしておけば、あとはいい加減だって構やしないのです(丸投げ契約だから結果説明や保健指導までするわけで)。こちらの助言を無視してその人に何が起きようと自分に責任はありませんし、そういうヒトに限って具合が悪くなれば健康保険使ってすぐに病院受診しますが、それによって医療費が高騰したとしてもそれはわたしたちが悪いのではありませんから。

でもそれができないのは医療者としての良識。だから、予約の段階で「わたしは精査・治療は受けないから健診を申し込むな」と事業主に云ってください(まあ、そんなことしたら辞めさせられるでしょうけれど)。とにかく、予約だけして来ないのも、来てから文句云うのも迷惑千万。アウトソーシングはほんと、とっても大変なのです。

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アウトソーシング(前)

健診や人間ドックで小さな異常を見つけられて、毎年『要精査、要治療』ってうるさいんだよな。第一オレの人生なんだから、イラン世話やろ!

という受診者さんや一般市民の方の意見をたくさん拝聴します。みなさん、毎年の健診を受けるころに思い出して沸々と苛立ちが湧いてくるのでしょう。その気持ち、わかりますけど、それをわたしたち健診機関に向かって云ったってしょうがないです。個人で人間ドックを申し込んでいる方々の場合は別です。もちろんこういう方々からはこの種の苦情は出ません。だって、もともと自分の意思で受けようとしているのですから。問題は、自らの会社の従業員に対する健診をわたしたちにアウトソーシングしている企業の場合です。自分で受けたいわけでもないのに無理矢理受けさせられて、その挙げ句に、どうもないのに毎回赤紙突きつけてきて、「もう行きましたか?」「まだ行ってないんですか?」「早く行ってください!」と追いかけてくる。これにみなさんは怒り心頭なわけですよね。

わたしたちは、もちろん受診者さんそのものの健康を想ってしつこく追いかけていってはいますが、実際は企業との契約だからやむを得ずやるわけで、文句があるなら自らが働く企業の担当者(あるいは企業主)に云っていただきたい。  (つづく)

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質量保存の法則

ちょっと、素人のようなことを云うてもいいですか。

『質量保存の法則』ってあるでしょ? これによると、何を食っても、最終的な体重は同じはずでしょ?排泄物や不感蒸泄を加えたら、質量は同じはずなんでしょ?ということは、同じ重さのキャベツとお肉を食べたとしたら、むしろ熱エネルギーを発生させるお肉の方が、キャベツを丸かじりするより体重が軽くなるはず。

って、この理論どこが間違っているのだろう?

最近、モノを食わないせいか、トイレに座っているとこの思いがわたしをすぐに支配するのだ。

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もう8年目突入!ぞ

毎回そう思う。

そろそろやめて、この時間を他に費やした方が健全ぞ。もういい歳ぞ、他にすることが山ほどあろうぞ!って。

しかも、当初の目的だった広報誌コラムのネタ帳の意義も完全になくなりました(連載コラムが全部終わったから)しね。

でも、したくもない仕事をしていると、なんかウジ虫が湧くようにつまらん内容の話を思いつくわけです。どうしても書かずにおれなくなって、書き始めると「くだらねえ」って思ったり、書いた後で2年前におんなじことを書いたぞとか思い出したりするわけです。

そんなこんなで7年完了。いいさ、書くさ。みんな、付き合っておくれませ。

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オレは若い!

「自分は実年齢より若い」と感じる人は長生き

MTPro2014.12.19号に出ていたイギリスからの報告で、52歳以上の6,489例のデータを解析し自身の年齢に対する自己認識と死亡リスクとの関連について検討したところ、「実年齢よりも老けていると感じている人と比べ、若いと感じている人では死亡リスクが約40%低いことが示唆された」というものです(University College London、Andrew Steptoe氏ら)。

この類いの報告は最近になって後を絶ちません。アンチエイジングはとにかく「自分が若い!」と思うことから始まるのです。先日、facebookに学生時代の同級生が自分のプロフィール写真を出したのを見て、そのあまりに年老いた姿にこれが客観的に見た自分の実年齢なんだな、と落ち込んだばかりでした。そうじゃないんですよね。これを見て思うべきことは、「オレって、これに比べたら全然若いよね!」ですね(友人には申し訳ないが)。自撮りして自分の頭に描く姿じゃなかったら妥協せずに何度でも撮り直す根性は大事なんだな!と思った次第です。昨夜は人生初のラップを披露したことだし、来年はとりあえず3歳若返ることにしよう!

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血液型が医療を斬る?

2型糖尿病リスクが高い血液型とは?

こんな研究が医学雑誌に掲載されるなんて、と思いましたが、意外に血液型の研究は後を絶たないのですね(下記参照)。この話題はMTPro2014.12.19号に掲載されたもので、フランス国立衛生医学研究所(INSERM)のGuy Fagherazzi氏らが、フランスの女性8万2,104人を1990年から2008年まで追跡して、Rh-のO型を基準にした場合にRh+のB型では2型糖尿病を発症するリスクが35%高いことを示したというものです。ABO式だけの解析ではA型とB型でリスクが上がったとも書いてありました(Diabetologia2014年12月18日オンライン版)。

だから何よ?ということになりましょう。A型は神経質で自律神経が失調するからだろうな、B型は炭水化物や脂肪好きが多いからだろうかなとか、自分の周りの知り合いに当てはめて考えていくと非科学的ですが、ちゃんと原因の考察では、ヒトのABO遺伝子座が内皮マーカーや炎症マーカーに影響を与えることやABO式血液型が2型糖尿病に関係すること、あるいはABO式血液型は腸内細菌叢全体を規定する因子でもあることなどを上げています。でも、それを踏まえた上でもやはり、だから何?ですけれど、この論文に書かれているように、逆にO型やAB型に2型糖尿病が少ない理由を探った方が得るものは大きいかもしれません。そこのところに少し期待しましょうか。

<その他の最近の血液型研究(MTProから)>
O型に比べてAB型では認知障害リスクが82%上昇(2014.9.12 アメリカ)
B型男性では前立腺がんが検出されやすい(2014.4.30日本)
O型の男性で前立腺がん再発リスク低下(2014.4.15日本)
O型で最も低い冠動脈疾患発症リスク(2012.10.11アメリカ)

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また減っとった

この週末は有に1キロくらい増えててもおかしくない過ごし方だったから、いろいろな言い訳を独りでつぶやきながら図書室にある体組成計に載りました。一回、前を素通りしてから引き返してそっと載りました。そしたらあなた、増えるどころかまた減ってましたよ。これでちょうど5キロ減ですよ♪

月曜に有休取ったので、週末から4日間仕事もせずに不規則三昧。確かにいっぱい動きはしたけれど(週末はいつもそう)、飲み食いはめちゃくちゃでした。忘年会は体育会系のそれだったしクリスマスイブイブにステーキは食ったし、もちろん家にいると食う。お菓子類をひとつもないようにしておいたのに、禁断症状が出てきた妻がこっそり買いだめしてたから、気づけば手にケーキ。さらに頼んでもいないのに妻がすれ違いざまにアイスをパス(共犯者を作りたいらしい)。もちろんクリスマスイブイブの火曜日はシャンパン1本堂々と空けました。

わたし、意外に不安なんです。ダイエットがどんなに脆いものか知っていますから。しかも何かひたすらがんばっているものがあるならそれにすがって調整できるけれど、ほとんど何もしていないのだから。ダイエット宣言!て口で云っただけだから、この乱降下もそろそろ終わるはずなのよ。毎日体組成計に載るときが一番不安で、つい息を吐いてから載ってしまう。今日こそ横ばいのはず。ほーら、やっぱり横ばい。そう云いながらも不安になるわたし。何もしてないものが横ばいになったら、まもなく急上昇が始まるしかない(おまえは飛梅か?)。そうなったら微調整のしようがないから元の木阿弥。困ったぞ、この1ヶ月は夢の中の白昼夢だったことになるのか?なんてなことになりはしないかと貧乏性が焦り始める。

今回の4日ぶりの体組成計の値はわたしを元気づけました。でも、明日こそは増えるに違いないと、現実にそうなったときのための防衛線をすぐに張ってしまうわたし。

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歳のせいです?

先日、一緒にラウンドしたゴルフ仲間の男性と頚椎症の話題になりました。

「わたし、秋から頚椎症の症状で悩んでいるんですよ」
「あら、ボクも同じ。先日、市民病院のK先生を受診したらその診断をされました。そして、『それは歳のせいですね』と云われましたけど、そんなもんなんですか? しびれが出るようになったらまた受診するように云われています」
「ですよねー。まあ、そんなもんだと云えばそんなもんですけど、ちょっと座ったときの姿勢とか寝るときとか辛いですよねー」
「ですです」

お互いに同じ境遇であることに安堵し意気投合しましたが、最終的には、ため息・・・「歳は取りたくないものですねえ」と。

ドクターに悪気はないのです。「治療をするような大きな病気ではない(そもそも老化は「病気」ではないし)から安心してね」、というメッセージととらえるべきなのでしょう。もちろん、「だから諦めてその症状とつきあってください」という意味も隠れているのでしょうけれど。でも、それは当事者からするととても思いやりのないことば。淡い期待など捨てなさい、と引導を渡されたことになるからです。概して、そういうことばを発する医者は若いヒトが多く、まだ「歳」という単語が自分には一切縁のないものだと自負している世代です。わたしたち世代になると、そのまま自分自身にいうのと同じことだから、もっとことばを選んで使います。「永年使っているとへばってきますから大事に扱ってください」とか。その症状が歳のせいであるならあるで別にかまわないのですが、それを少しでも若返らせる(元気にさせる)方法を知りたいわけですから、専門家たちには何か楽になる方法を1つでも多く伝授してもらいたいものですね。

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医師届出票

職場の人事担当から『医師届出票』なる書類が配られてきました。自分がどういう医者であるかを所在地の都道府県に届ける義務があるのだそうです。記入しようと思いながら、その書類を眺めていて、急にペンが止まりました。

(11)従事する診療科名等・・・病院で勤めるものはリストの中から診療科を選びなさい、というわけですが・・・そこに並ぶ41個の科の中に、わたしの科がない。健診とか人間ドックとかに専従する医者は医者じゃないということか?最後の「42.その他」にでも入れておいて、ということか。

(12)取得している広告可能な医師の専門性に関する資格名・・・要するに専門医資格のことの様なのですが、ここに並ぶ56個の専門医資格の中に、先日取得した「人間ドック健診専門医」がない。何度見直しても、ない。ここには、「その他」の欄すらない。そんな資格は価値がない、ということか?

これからは予防医療の時代だ!とどれだけ息巻いたところで、お上の認識がそんなものなのですから、いかんともしがたい、悲しい現実を思い知りました。「健診?そんなもの誰でもできるよ。ちょっと片手間でもやれるし、臨床に疲れたときなんかに息抜きでもできる」・・・なんて、現場の多くの医者がいまだに平気でそう思っているのはわかるけれど、行政ではもちょっと現実を理解していると思っていたのです。ドック学会のお偉いさん方がなかなか認められないドックの地位向上にがんばっているはなしを学会で力説していたのを思い出しました。我々が市民権を得るのは遠い先のはなしになりそうで、とても重い気持ちになりました。

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栄養飢餓

最近、学会などで当たり前の様に使われていて、したり顔の振りはするけど実はようわからん、という単語がたくさんあります。これもそんな単語のひとつです。

『オートファジー(Autophagy)』

オートメーションの「オート」とマクロファージの「ファジー」だから、自分を食う=「自食」ということくらいは想像つくけれど、自食なんて破滅的でオカルト的なイメージしか湧かないでしょ、普通。細胞に核を持つ生物では、細胞内に生じる異常たんぱくを自浄する力が備わっているのだそうです。あとは、どの文献を検索しても「わざとなんじゃないの」と思わせるような難解な文章しか出てきません。

まあ、簡単に云えば細胞の『新陳代謝』のこと、でしょ?細胞内にできる異常なたんぱくと云えば、侵入してきた病原菌だったり、酸化された変性たんぱくだったり、あるいは勝手に合成し過ぎたたんぱく(がんもこれに入るのかしら)だったりだと思います。そんな中、どの解説文にも出てくる『栄養飢餓』という機能がちょっとわたしの興味をそそりました。個体がこの上ない飢餓状態になったとき、外からアミノ酸が入って来れなくなって重要なたんぱく質合成ができなくなったら命に係わる一大事。そんなときにオートファジーが起きて、細胞内に常在するたんぱく質の一部を一度アミノ酸レベルまで分解させた後に、重要性の高いたんぱく質に再合成させるのだそうです。生き延びるために自分の身体を食って新しい細胞に作り変えるなんて、えらいなあ。もっとも、この一時しのぎの機能には当然限界がありますから、自分を食い尽くしてしまったときが細胞の死=個体の死となるわけですね。

これで『オートファジー』を語り尽くしたと思ったら大間違いだぞ。ほとんど核心は書かれてないぞ!とか云われるかもしれないけれど、これ以上受け売りで知ったかぶりなことを書いているとすぐにメッキがはげるので、これくらいで。

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不定愁訴

『不定愁訴』・・・わたしたちは割と簡単にこの単語を口にします。「本人が何か深刻に訴えているけれども大したことはないんだよね。検査しても問題ないし、治療するものなんか何もないんだけど・・・」というニュアンス。しっかりと訴えに耳を傾けてそれを理解してあげながら、そのひとつひとつに時間をかけてきちんと説明してあげたら、半分以上はそれだけで改善するんだよ・・・そう教わり、それを実践し、たしかに改善する方やあまりかわらなくても喜んでくれる方がたくさんいます。もちろん、何も変わらずにまたどこかに去って行く方も少なくないのでしょうが。ただ、正直に云うと、これはあくまでもハウツーです。どこか”厄介払い”であり、”マニュアル”です。そこのところに、いつも引っかかりがあるのです。

腰痛とか神経痛とかがそうです。自分自身が今それに直面し患っているからこそ、その”不定愁訴”の感覚自体が実感としてわかります。筋骨格系の慢性疼痛の治療を受けているヒトたちの治療満足度は36%で、治療機関の変更も有症状者の半数にみられる、という統計結果があります(筋骨格系の慢性疼痛に関する疫学調査)。

●受ける側=「検査」を受けたがる⇒何か異常が画像に表れてほしい。異常がないと市民権が得られず肩身の狭い思いをする。
●診る側=「検査」に異常がない⇒そのすべてがメンタル異常あるいは”気のせい”だとは思わないが、少なくとも決定的な治療法などないのだからどうしようもない、と思っている。

そんなものなのです。このギャップをどうやったら少しでも埋められるかと考えると、結局、『不定愁訴』という便利ではあるけど嘲笑的な単語自体をなくすことから始めるしかないのだと思います。

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絶対勘違い

生活習慣病のうち、動脈硬化は自分で管理できる病気だから、大したものではないと思っているヒトが多い。一方、そんな輩は、がんは専門家に委ねないといけないので高尚なむずかしい病気だと信じているようだが、それは間違いである、と断言したい。

実際は、まったく逆。がんは、早期に見つけたらただ取り除けばいいだけの話。ヤブ医者でも何とかしてくれるのだが、動脈硬化は自分でいつまでも管理し続けなければならないから、がんよりはるかに難しくて厄介な病気なのである。講演でそんなはなしをすると、必ず小ばかにした顔をして鼻で笑われたりします。バカはお前らじゃ!

だって、考えてみてください。がんの治療法は、日進月歩で最新医療とか先進治療とか画期的な検査法/治療法が次々と出てきますが、動脈硬化関連の治療法は、もう進行しすぎてどうしようもなくなった病態に対してだけであり、その開発もまるで亀の走りのように遅々として進みません。遺伝子検査は旬ですが、それでオーダーメイドの治療をするといっても単に振り分けをするだけで何ら新しい治療法ではありません。これは、がんが重要視されているのではなく、動脈硬化性疾患が科学の力だけでは打ち勝てない難病だということに他なりません。どんな”夢のクスリ”が出てきたとしても、その成果は知れています。”まず怠惰な人生ありき”などという前提を、神が認め賜うはずがないのですから。

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想像する像は同じか?

「先生の説明はとてもわかりやすかったです」という感想を受診者さんによく云われます。とてもうれしく思いますし、自分のちょっと”うざったい”説明姿勢でも良いんだなと、胸を撫で下ろたりします。

結果の説明、あるいは使用方法の説明、日常生活の注意点など、それは医療に限らず普通の商品の使い方の説明などでも同じですが、いかに相手に的確に伝えられるかを伝える側はいつも意識しておかなければなりません。相手が、「いっちょんわからん」と叱ってくれるならいいですが、普通は面倒くさいから聞き流します。「はいはい」と答えながら自分勝手に判断した結果問題が起きたり状況が悪化したりすると、「あの人はヒトの話を何も聞いてない、自分勝手なヒトだ」と評価させることになるのですが、「もともとあんたの説明がヘタだからタイ!」とは云ってくれません。自分の説明はきちんと相手に伝わっているのか、自ら評価するのがプロというものです。

自分を客観的に評価するいちばん良い方法は、云われる側の立場になって、他人はどういう説明をしてるのかを聞いてみることだと思います。デパートや役場や薬局やあるいは病院の診察室で、相手は通り一遍のマニュアル通りの口移しをしていないか、相手の云うことはちゃんと理解できるか、つまり、その話を聞きながら、自分が具体的に行動する姿を思い浮かべられるか、それを想像したときに、「あれ、こんなときどうしたらいいんだろう」という疑問が浮かばないか、そんなことを確認してみましょう。重要なのは、相手がアタマの中に抱いたであろう像が自分の抱いている像と一致しているかどうか、それを確認することだと思います。かく云うわたしも、だから日々、試行錯誤なのであります。

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日本酒2合は多い?

「この受診者さんは、晩酌で毎晩日本酒を2合飲んでいます」という問診を読んで、何も感じないわたしと違って、保健師さんたちが色めき立っています。「このヒト、意外に大酒飲みなんですね」と。

おいおい、日本酒2合は多いのか?アルコールの適量は1単位だそうで、アルコール分15度の日本酒で1合、25度の焼酎で半合、ビールで500だと書いてありますが、本によっては適量=1~2単位というのもあって、それに従うと日本酒2合は大した量ではないことになります。徳利2合瓶なんて居酒屋さんでは普通に一人分でしょ。「2合は大酒だ」というのは、酒をたしなまない御仁の発想か、あるいは保健指導ばかりやっていて数字の感覚が鈍麻したからなんじゃないの?とか、思ってしまいました。

酒飲みの戯言です。冷静に考えたら、日本酒2合に匹敵するのは、ビールで1リットル・・・たしかに、ちと多いかもしれん。あ、いやいや、やっぱり、晩酌における「大酒」といえば合計で3単位(日本酒3合)以上が妥当かな。あ、いやいややっぱり・・・・(笑)

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人間ドックは本当にドックか?

「人間ドック」って、本来何なんだろう。もっと自由にさせろ、酒も飲ませろ、インターネットを使わせろ、という宿泊ドックの受診者さんに対して、「けしからん!ドックをただのホテルの宿泊と勘違いしているのではないか?」と腹を立てるスタッフたち。

「人間ドック」は日本でできた言葉です。政治家が1週間ぐらい雲隠れして休養しながらカラダ全体のチェックをしたい、ちょうど「タンカーのドック入り」みたいにというのが「人間ドック」の語源だと聞いています。そうなると、人間ドックは常にVIP対応されてきたことになります。ドックは、「まずはココロとカラダを休ませるためのもの。そのついでに検査する」が本来の姿のはずなのです。

でも、いつの間にか人間ドックは検査や教育の場になってきたところがあります。その風潮は、「予防医療」の概念が幅を利かせ始めたからのような気がします。うちのように、病院が健診も行う施設が主流になっていることも原因かもしれません。自分の健康度を確認し、これからどんな人生を送るのがいいかを勉強して、帰ってから即実践すべし。その成果は次回受診時に確認するから油断するなよ! まるで、教育入院している糖尿病患者のそれに共通するところがありますね。

わたしは、臨床現場からこちらの世界に移ってきましたから、もちろんそれが人間ドックの当然の姿だと思っていました。でも、日々の生活の乱れを露呈させるために金出して検査してもらい、その挙句に若いスタッフに叱られるために結果説明の順番待ちをしている受診者さんたちの姿をみていると、これでいいのかな?とふと思ったりします。

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精密機械

『人の身体は、理屈でホイホイ動くような安物のコンピュータではない』

『細胞(生命)は、失敗を何度も繰り返す精密機械である』

他の先生が人間ドックの結果説明をするのを部屋の外から聞かせていただく機会がありました。外来診療と同じで、となりがどんなことをしているのか意外に知らないものなので、とても勉強になりました。

じっと聞き耳を立てて聴いていると、受診者のみなさん、自分の身体の微細な変化のひとつひとつに因果関係を求めておられ、各々を理屈としてきちんと説明してもらいたいと思っているみたいです。これはいわば”情報社会の生み出した弊害”なのかもしれません。「自分の身体は緻密で高等な精密機械であるべきだ(それが当たり前だ)」と思っているからそうなるのでしょう。もちろん、ヒトは精密機械の集合した傑作なのだろうけれど、コンピュータとかと決定的に違うのは、いつも試行錯誤して失敗ばかりしているということです。ひとつひとつの変化に対していちいち細胞が反応するわけですが、ひとつのことに反応し改善を促し、それが後手になることもあれば取り越し苦労になることもある。もちろん転ばぬ先の杖になった場合もありましょう。そんなことの度に反省と学習を何度も繰り返しながら次に備える毎日なのです。

何を書きたかったのかというと・・・何だっけ? だから、ヒトの細胞はいつも必ずしもきちんとした一対一対応をするとは限らないのだから、自分はほどほどのいい加減なポンコツロボットだと思っておいた方が気が楽だぞ!ということですね。

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美魔女のはき違え

女性の8人に1人がやせ

平成25年(2013年)「国民健康・栄養調査」の結果が厚生労働省から発表されました。肥満の割合は横ばいで”増加に歯止め”となった一方で、相変わらず女性のやせすぎが多いようで、とても心配です(「女性の「やせ」の割合は12.3%と8人に1人にあたり、1980年以降もっとも多くなった。やせは20歳代が21.5%ともっとも多く、30歳代が17.6%、40歳代が11.0%となった。70歳以上でも11.9%に上っており、女性の痩身志向は年代を超えて続いている」とのこと)。

冬場になって飲み食いが増える季節だからか、テレビでは毎日の様にダイエット特集ばかり。何十キロも減量した女性を紹介しながら「ウワー」と驚嘆の声を入れて煽る趣向は相変わらずですが、勝者の席にいる女性は「明らかにやせ過ぎなんじゃないの?」と感じるヒトも。やせることは、一歩間違うと若い女性にとっては女性ホルモンの分泌バランスをおかしくさせ、高齢者では低栄養(サルコペニア)の原因になりかねません。たしかに太りすぎのお嬢さん方もとても多いので、大好きなお菓子や炭水化物を控えて、何とか動き回る習慣をつけて、夜はしっかり寝て健康的にダイエットしてほしいと思いますが、大事なホルモンを作る脂肪細胞を減らしすぎたり、筋肉になるべきエネルギーまで削除してしまうような状況には陥らないようにご注意ください。

マスコミやテレビ局には、女性のやせすぎが人生に危険を及ぼすのだと云うことをもう少し強調していただきたいと思います。最近、コメントを入れることは入れるのですが、こっそりちょこっと。おそらく番組制作意図の邪魔なんだと思いますが、これからはこっちの方が重要になると思いますので、よろしくお願いしたいです。

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トランス脂肪酸と記憶力

トランス脂肪酸が働き盛り世代の記憶力を低下させる

「マーガリンにトランス脂肪酸が含まれているから食べない方が良い!」という情報を知ったのは、もう10年以上も前のことです。脂肪は動物性より植物性が良いから、バターよりマーガリンが良いと信じられていた頃のことで、その筋の間では騒動になりました。だから、その話題が世に出ないうちにそっと業界も改善をさせて、マーガリンのトランス脂肪酸は当時よりも格段減っていると聞いたことがありますが、むしろここ数年の方が世間でマーガリンのトランス脂肪酸が有名になってしまいました。アンチやアングラ的な情報が好きなわたしは、いつも世間より先を歩くことになり、常に変人呼ばわりされております(笑)。

今回はカリフォルニア大学からの報告でした(米国心臓学会2014.11.18)。「働き盛りの世代の男性がトランス脂肪酸を摂りすぎると、記憶力が低下するおそれがある」という研究結果を、米国心臓学会が主催する科学セッションで発表したそうです。研究の結果、トランス脂肪酸の摂取量が多い人は少ない人に比べ、記憶できる単語の数が減少しており、トランス脂肪酸の摂取量が1日に1g増えると、正確に思い出せる単語は平均で0.76語減っていたというのです。これはトランス脂肪酸の摂取によって酸化ストレスが引き起こされるためではないかという考察でした。

トランス脂肪酸だらけのマーガリンやショートニング、ケーキ、ドーナツ、スナック菓子、冷凍ピザ、ファストフード、焼き菓子・・・どれも大好きなお国柄の報告ですので、これが食べ過ぎの歯止めになるといいですけれど、正直、わたしのココロを揺すぶる食べ物は何もありません。となると、わたしの物忘れの原因は、何かしら。

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シャキーン!

最近、はまっている番組が、NHK Eテレの『シャキーン!

毎朝7時から15分間の番組。あくまでも子ども向けの番組で、番宣のことばを借りると、『子どもたちを”シャキーン!”と目覚めさせて、楽しい一日のスタートを切ってもらう知的エンターテインメント番組』。何しろこの時間帯は、どの局も報道系のバラエティー番組・・・くだらない選挙や政治家の誤発言問題、あるいは意味もなく事件被害者を追いかける三面記事的番組ばかりなのであまり見たくないのです。よほどすっきりすることが起きたとか日本人選手が活躍したとかいうのでなければ、NHK Eテレがわたしの定位置(もっとも、この時間帯は出勤中ですので、車のナビのTVからでほとんど画像を見ることができませんが)。

で、この番組、小さな子どもたちだけに見せるにはあまりに勿体ない。センスも良いけれど、むしろ壮年、初老期以降の方々に見てもらいたいのです。いわゆる脳トレ番組だと思ったらいいのではないでしょうか。NHKには似合わないぶっつけ本番的掛け合いもさることながら、間違い探しや発想の転換など、一緒に考えていると明らかに脳が賦活されてきます。朝の寝ぼけから目を覚ますだけでなく、永遠の眠りに入ろうとする前頭葉機能を揺り起こす効果絶大だと思います。是非、ごらんください。

ついでに、そのまま次の『はなかっぱ』『デザインあ』『ピタゴラスイッチ』も。面白いよ~。

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特保にご褒美を!

わたしが産業医をしている企業の産業保健師さんと、生活習慣病改善のための生活療法について話していました。彼女が行っている特定保健指導が毎年どうしてもうまくいかない、という話。

「生活療法が上手くいくためには、”褒美”が必要ではないかと思うんです」と彼女。たしかに、特定保健指導の取り組みには、取り組むヒトにも取り組ませるヒトにも何のご褒美もありません。できなければペナルティが課せられるだけ・・・これでは当事者のモチベーションなど上がるはずがありません。行動変容の基本は”アメとムチ”のはずなのですが、きちんとやって当たり前、出来なかったら”ダメダメ”のシールを貼られるだけなんて。

「良くできました(ハナマル)!」とみんなで褒め称えてもらえたら、絶対うれしい。賞品や賞金をもらえたらもちろんうれしいけれど、それがなくても、正式にみんなの前でほめてくれるだけでいいのです。そうすればきっと、途中を頑張るだけでなく、医療者の介入が終わった後も続けるに十分な動機づけになると思います。

この親方日の丸的な発想を断ち切らないと、日本人の生活習慣病脱却は、ないな。

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確認(2)

「あしたゴルフに誘われたんだけど、行ってもいいかな」と妻。
「別に良いけど、明日は水道工事屋さんが来るんじゃなかった?あなたがその日を指定したんじゃなかったかい」
「大丈夫。『夕方5時までに終わる』って云ってたから、終わるときにサインをしたらいいのよ。5時までには帰れるから」

先日あった、この夫婦の会話もまたおかしい。

「5時にサインするって云う約束をしているの?普通、『5時までに終わる』と云うときは、『(どんなに遅くても)5時までには』という意味だから、5時より前に終わるつもりだと思うんだけど、その場合は5時まで待っていてくれる、という約束なわけ?」と聞いたら、一気に不機嫌な表情になった妻。お断りメールをゴルフ仲間に打っていました。

約束をする場合のこういう会話では、各々に自分勝手な解釈をします。「5時頃に」とか「5時までに」とか、云う側はそれなりに末尾の接尾語に意味を持たせて云うのですが、聞く側の多くは「5時に」と聞き取ります。だから、云う側はそれが決して5時ちょうどのことではないこと、それよりも早くなるつもりだということをきちんと追加説明し、聞く側もその曖昧な表現の真意をきちんと確認することが大切です。みんなとても面倒くさがりますし、そんなことお互いの感覚で良いのよ、いちいちそんな小さなことを聞くのは鬱陶しいしとか云って小バカにしますが、結局その多くは現場でトラブルを起こすこと必至です。

ちなみに、この水道工事、午後3時過ぎに手際よく終わって何事もなかったかのようにサインを求められました。

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確認

「病院の中で講話するのに、白衣じゃいけないの?」
「ダメです。部長はスーツを着られますから」
「部長はそれでもいいんじゃないの?」
「部長がスーツなのに他の人がネクタイしないのは失礼ですからそんなことはあり得ません」
「白衣は、医者の正装だよ」
「ダメです」

そんな会話を講演日の前日にスタッフとしたのに、当日になってみたら部長は白衣姿でやってきました。みんな苦笑いしているだけ。おいおい、オレは着たくもない窮屈なネクタイ無理矢理させられたんだよ!こういうとき、「あなた方は本当に部長に当日の格好の確認を取ったの?」と聞いてみたいところだが、どうせ聞いてはいますまい。「そんな無礼なことはできません。大のオトナなんだから、それぐらい社会人の常識でわかるだろう、と叱られますから」とかいう返事が想像できます。何しろ、社会人として良く教育されていますからね。”行間を読む”が日本人の美徳だ、という考え方は以前書きました。もちろん、わたしはそんなくだらない気遣いはしません。聞かなきゃわからないでしょ!と思うから。今回は身内の小さな食い違いでしたが、確認せずに行った思い込みのために取り返しのつかない状況になることはあり得ることです。でも良かれと思ってやったことが裏目に出ると、担当者は上司に呼び出されて云われるのです・・・「オトナなんだから、勝手に判断せずに、聞いて確認しろ!」と。部下は大変ですけどね、上に居る人間なんてこんなものなんですよ。だから、無礼だとか気が利かないとか愚弄されてもいいから、ちゃんと確認した方が良いと思いますよ。

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先生

職業柄、「先生」と呼ばれるのが普通です。親戚や学生時代の友人でない限り、全然仕事関係でもない人からも「先生」と呼ばれることに慣れてしまいました。実際、云う側も云われる側もそれが一番楽なのだと思います。部長とか課長とかあるいは社長とかいう個々の会社の役職と違って、「先生」は社会に通用する普遍性がある呼び名・・・別に敬いの意味を込めてとか皮肉の意味を込めてとかいうものを超越した単なる呼称になっているもののように感じます。だから、突然、「~さん」と呼ばれると、「え、わたしのこと?」と驚いて、ついドギマギしてしまったりします。結局、長い間そういう生活環境の中にずっと居た証なのだとも云えます。

隔月で行っているゴルフコンペの仲間でも、「先生」と呼ぶヒトと「~さん」と呼ぶヒトがいます。正直云って、この場合は「先生」の方が違和感がありますが、もう慣れました。少林拳教室ではほぼ全員が「~さん」(妻と行っているので「御主人」とも)ですが、それにもやっと慣れてきたところです。

最近は、「先生」ではなくて「~さん」の仲間が少しずつ増えてきました。これから先、そんな仲間が増えることは大事なこと。「~さん」が増えていかないとしたら自分は社会から孤立する行く末だということになるから。これから徐々に仕事のつきあいは減っていきますし、仕事を辞めたら「医者」の肩書きそのものも全く用をなさなくなるわけです。だからこそ、これからは意図的に「先生」と呼ばれない場を増やしていかなければ、と考える今日この頃です。

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じぶんの声

人間ドックの結果説明を毎日15~20人ぐらいします。診察を20~30人くらいします。その都度声を出して会話をしなければなりません。朝一の声のトーンは大事です。その日一日の調律のキーの高さになるからです。

トーンを下げてみました。厳粛さを出すために、そして検査異常の重要性を知らしめすために。でも、わたしのこのトーンの声は、「念仏のようなモノトーンの不機嫌そうな声」という印象を相手に与えます。何か嫌なことでもあったのかそれとも二日酔いなのか、何が不機嫌な理由かしらんが、朝一からそんな態度されるいわれはないわ!と苦情が来るかもしれません。

トーンを上げてみました。もともとつぶやき声で相手に聞き取れないことの多いわたしの声。耳の遠い方も多いこともあって、わたしが意図的にトーンを上げると単に大声になってしまいます。キンキンうるさくなって、うざい!と思われはしないかと気になります。お前は松岡修造か?とか云われそう。

だれもご存じないとは思いますが、わたし、毎日こんな試行錯誤を繰り返しているんです。これ、ほんと。

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チーム医療(後)

(つづき)

ただ、長い間通院している患者さんは「人間」。それを診ている医者も「人間」。人間と人間との付き合いは共有化された電子カルテやカンファレンス結果に盛り込めないことがたくさんあって、それの方が医療情報より重要だったりします。医者が替わるたびに申し送りがなされますが、申し送られる毎に人間関係は薄くなっていくのが常です。そりゃあ九死に一生を得た恩人だったり、分かりにくい小さながんを見つけてくれた恩人だったり、あるいは初診時に管巻いて大変だった患者さんだったり、最初に生まれたドラマチックな出会いの関係と、もうすっかり元気になって毎回薬をもらいに来ているだけのときに始まった関係が、同じ深さになるとは思えません。ちょうど車屋さんで新車を買ったときの担当者とか、生命保険の担当者とかが担当変更になるたびに連絡回数が減っていって、自分の担当者の名前すら知らなくなる、というのと同じ感じだなと思っています。

これを避ける方法は、やはり信用するかかりつけ医を作ることに尽きると思います。とかく大きな病院、設備が整って腕のいい大先生が揃っている病院、患者教育がしっかりしている医療スタッフが多い病院がベストだと考えがちですが、実際に自分と対峙し、一生のお付き合いするのは目の前のひとりの医者です。何人入れ替わっても常に一対一。一対一対応と一対多対応がシステムの工夫によって同じレベルでできるのは医療情報の内容だけであって、その環境の中に自分とツーカーな人間関係を築かせるのはムリです。「〇〇さんがね」と云ったときに、「あああの○○さんですね」と答えられるスタッフが何人いるか・・・クリニックの先生は違います。何百人居ようとも、印象の程度はあろうとも、いつもスタッフと共通の姿を頭に抱くことができます。わたしは基本的に施設(病院)への紹介はしないことにしています。一回の検査ならそれで良いですが、以降ずっと付き合うなら一人の人間としての医者を紹介します。その医者と信頼関係を得られるかどうかは、それ以降の当事者同士の問題です。

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チーム医療(前)

「申し訳ないが、わたしは〇〇医療センターは信用できないんです。うちの妻の乳がんが誤診でした。親戚や知人も『あそこに行ってひどくなった』というはなしばかり聞くんです。どこか他の病院を紹介してください」

ある健診受診者さんがそう云いました。生活習慣病の日頃の管理をお願いする先生探しをしていたときのことです。その方は熊本市内から離れた遠隔地にお住まいで、その地域の医療センターにわたしが信頼できると思ったN先生が居られるから、ちょっと提案してみたのです。こういうはなしは残念ながらよく聞きます。とても耳の痛いはなしですし、一部のこぼれ話に尾ひれがついてきているところもあるのですが、一方でこれはいかんともしがたいところがあります。かく云ううちの病院も例外ではありませんし、他の地区の公的病院にも同じ理由で受診を拒む方がたくさんいます。遠くても行くから、何とか他の病院を紹介してほしいと懇願されます。基本的に、こういう病院(うちも含めて)は大学医局などからの派遣が多く、医者がどんどん入れ替わるのが常ですから、ヤブ医者が多い、という評判は当てはまらないところがありますし、基幹病院は他で手に追えない重症患者さんや難病の人が紹介されるので自ずと悪い転帰の比率は高くなってしまいます。昔から勤務している常勤医は偉くなって経営側に回るので外来を減らしがちになり、若手の先生は1、2年で入れ替わり、中堅どころの受け持ち数が膨れ上がって待ち時間が多くなる・・・これが現状です。

そんな中から、「うちはチーム医療だから」ということばが生まれてきました。カルテを共有し、スタッフのどの医者が診ても同じ質の医療を提供できる。検査方法はマニュアル化され、医者によってしたりしなかったりすることがないようにする。治療方針は、カンファレンスで皆が一堂に会して協議するから、主治医がベテランでも新人でも差がないようにする。救急で運ばれて主治医が居なくてもカルテをみれば一目瞭然で把握できるように記載方法はフォーマット化されている。うちの病院は、昨年取得したJCI規格によって、さらにこの普遍的医療の提供が確立しています。 (つづく)

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なぜ残すことが出来る?

「勇気を持って料理を2、3割残してみましょう」・・・栄養士さんも保健師さんもこのことばを好んで使うので、皆さんこれを腹八分目と称して、「我慢して残すことこそ美徳」と自分に必死に云って聞かせているように見えます。

でもそれ、ワタシの中では絶対に容認できません。外食とか弁当屋の弁当とかを残すというのならまだ理解できます。でも、家で奥さんや家人が精魂込めてわざわざ作った料理をどうして残しますか?というか、「残すために作る」という虚しい作業をすることが人生に何の意味を成しますか? 仕事から疲れて帰ってきて、お疲れさまと奥さんが愛をこめて作って食卓に並べてくれたのです。夜遅くにたらふく食べるのがメタボの悪の根源だから勇気を持って半分残しなさい、とか平気で云うヤツの神経がわかりません。きっと、家族のために愛を込めて料理を作ったことのないヤツか作られたことのないヤツが発した戯言=机上の空論に違いない!と思います。

だから、「勇気を持って奥さんの作った料理を残す」が美徳ではなく、「勇気を持って料理を作らない」が最高の愛情なのだ!とわたしはいつも主張しているのであります。それを話すと、みんな苦笑いしかしません。これこそが変人オヤジの戯言なのだそうです。はいはい、何とでも云ってください。絶対、わたしの方が正しいのですから。

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なぜ牛乳にこだわる?

「給食に何でもかんでも牛乳つけるの止めてほしいよね。クリームシチューに牛乳って変でしょ?」・・・先日、テレビ番組を見ていて、妻が嘆いたばかりですが、今、給食における牛乳のあり方に異議を唱える意見が増え始めました。

<牛乳なし給食>新潟・三条で試験的スタート

春から話題になっていたようですが、完全米飯給食を行っている三条市で「和食に牛乳は合わない」として始められた試み・・・こんな話題がニュースになること自体が不思議です。わたしは牛乳否定派ですが、そういう問題とは関係なく、”専門家からはカルシウムなどの摂取不足を懸念する声も上がっている。”と横やりを入れることが理解できません。「給食には牛乳ありき」の既成概念をそろそろ排除しないと、日本に戦後はやってこないぞ!三条市の管理栄養士さんが工夫して、『200ミリリットルの牛乳に含まれるたんぱく質やカルシウムは、小魚のふりかけやみそ汁に入れた煮干し粉などで補う』ようにしたのにもかかわらず、”「学校給食での牛乳の飲用は、家庭で不足しているカルシウムなどを補う役割を果たす」から牛乳を飲まなければ始まらない、として反対する声明を出したのはなぜ? 「給食から特定の食材を排除すべきではない」”とか、まことしやかに主張するその”専門家”にもの申したい。牛乳飲めば済む、という理論なら、家で朝に1本飲ませることを義務付ければ簡単に解決するではないか。「まず給食の牛乳は義務です。それ以外の栄養素を他の食材で考えてください」という、牛乳協会の手先みたいな決め事を貫こうとするのは明らかに専門家たちの怠慢である、と声を大にして云いたいです。

この三条市の取り組みが何らかの政治的圧力で潰されないことを祈りつつ、むしろこれが給食=牛乳の戦後教育の遺物概念を葬り去るきっかけ作りになってほしいと、切に祈っています。

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理由付け

幾多の意見をいただいた生活習慣病改善プログラム、毎日粛々と自己目標と戦っております。夕食まで酒を飲まないこととコンビニに寄らないこと以外は大した変化もないのですが見る見るやせています。大した運動もしていないのに体脂肪率も勝手に減少。やっぱり、こんな企画は参加してみるもんだなとほくそ笑んでおりました。

ところが昨日、突然値が逆走しました。それも大幅に。腕時計がゆるゆるになってきて、ベルトの穴も余裕で一番内側を使える様になって、「こりゃまた、一気に減ったかもね」とか密かに期待に胸ふくらませながら体組成計に乗ったので、ショックは倍増。「なんでやねーん!」・・・ふ~ん、と冷静を装いましたが、内心、愕然としました。

前日は運動指導があったから運動量としてはむしろいつもより多めだったぞ。夕食の量はいつもと同じかやや少なめ、小さな小皿に盛られたすき焼きメニューと明太子と豆腐。めずらしく酒も飲まず、いつもより早めに就寝して、よく眠れた・・・どう自己分析しても、いつもより健全な夜を過ごしたはずなのに、なぜ?いやだな。データを毎日チェックしている担当保健師さんから「どうしました?油断して気持ちが緩んだんじゃないですか?今が大事だから、もう一度気持ちを引き締めましょう!」とかいう皮肉混じりの激励メールが届くんじゃないかな。オレ、別に緩んでないし・・・。

分かっています。明太子のために保水したのかもしれません。減ったことも増えたことも微々たる変化。日々の数百グラムの変化に一喜一憂して何になる?体感的に順調に推移しているんだから動揺は不要だということ、よく分かっています。なのに、明らかに動揺します。生活療法は煩悩との戦いで、折れかけたときにすかさず介入するのが成功のカギだからすぐに理由付けと激励に走ろうとするが、しばらく見守るべきときもあるということ。そして、当事者はこんなにココロが揺れ動きながら日々自分と向き合っているんだということ・・・わたしが指導者の立場になったときには、この経験を生かそう!

なんて書きながらも、ココロ安らかではありません。早く、また下降線に向かうグラフを、みたい。

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シネマセラピー

ハマりそうなブログを見つけました。精神科医荒田智史先生の『シネマセラピー』です。

有名な映画やドラマやテレビアニメの登場人物を使って、メンタルヘルスの解説をしたもので、Care Netに紹介されたのは『ドラえもん』でしたが、ドラえもんののび太とジャイアンがどちらも多動児(注意欠如・多動性障害=ADHD)であるという解説から、彼らはどんな特性があり彼らのママはどう接したらいいのかをアドバイスしながら、ADHDの起源~治療法まで一気に書き上げていました。これはまさに精神科の教科書そのもの。でも、あの難解な教科書と違って、とにかく読みやすくてわかりやすい(『ショーシャンクの空に』も紹介されていましたが、こっちは元の映画を知らないので単純にレジリエンスの解説文として読みました。むしろ、これを読んでから映画をレンタルDVDで観るとわかりやすいかも)。本日からわたしのブログの<オススメ>にも追加しておきましたので、試しに覗いてみてください。

こんなことをいうと失礼かもしれませんが、精神科の先生はとかく口が下手、というイメージがあります(テレビに出ている人たちは別です。メッセンジャーとしての発言が仕事ですから)。無口ではなし下手。でも、文章はめっぽううまく、説得力があってとてもわかりやすい文章が書ける。というのが、わたしの持つ精神科医のイメージです。これは、彼らが「おれがおれが」のはなしたがりでなく、この上ない聞き上手であることが影響しているのでしょうか。もっとも、そんな精神科医というものになりたくて、わたしは医学部を選んだのですが(笑)

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味付け

我が家の近くに全国チェーンのお弁当屋さんの店舗が出来たのですが、夫婦ともまだ1回しか行ったことがありません。どうも、行きたい気分にならないのです。「何か、量が多いし、味が濃いのよね」という妻のことばが、妙に腑に落ちました。たしかに味付けがわたしには濃すぎる感じがします。

むかしは関東風と関西風の差が大きかったけれど、徐々に関東風の濃さが標準になってきたのかな。そういえば行きつけだった近くの居酒屋さんの味付けも濃くなってきていたけれど、あれは酒の消費量を増やすための魂胆かもしれないと思っていました(単純に大将の舌が鈍麻したのではないか?とも思いましたが)。もしかして、本当は味付けはむかしとほとんど変わりなくて、単に自分の舌が若いころより薄味になっただけなのかもしれません。どうなのだろう。むかしは、自分もこんなの当たり前に食べてて、若い子たちやカラダを使う男たちにとってはこれくらい必要なのかも。とにかく、その弁当屋さんはいつ見ても繁盛しています。

ま、要するに、あのお弁当屋さんは今の我が家の味ではない。それだけは事実で、弁当買うならその向かい側にむかしからあるコンビニで済ませてしまう夫婦です。

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