ヒトを思いやる表現
日本語は使い方次第で意味がどっちにもとれる曖昧な表現がたくさんあります。最近韓国語を勉強している妻が、韓国語にはそんな曖昧さがなく、同じ意味でも状況によって違う単語を使わないと通じないのだと云っていましたから、これは日本特有の文化でしょうか。
「そこは、『より』よりも『から』の方が誤解させない表現だから、換えるべきだ」と、遠い昔に先輩から患者向け読本の校正依頼を仰せつかったときに進言したことがあります。でも、「どっちも間違いじゃないのだから、別に換える必要はない」と突っぱねられました。先日、ある文章を読みながら「これは日本語としては悪文だ」と意見したけど結局変更されなかったのを経験したときに、ふと思い出したのです。
文章を書くときに大切なのは、自分の云いたいことがそこにきちんと表現できているか?ではなく、この表現で他人に自分の云いたいことがきちんと伝わるか? ということです。読んだ人が違うように解釈したとしたら、どちらも正しいとしても書いた自分が悪い。それしか表現がないのであればしょうがないが、他に誤解を招かない表現方法があるのに変えないのは、表現の選択としては明らかに間違いだと思います。悪文は、かならず悪文ではない他の表現方法があるのだから、他人に伝えたいと思うなら頭を使う労を惜しんではならないと思います。
ラブレターを書くときに、もしかしたら誤解するかもしれないけれど、自分はこういう気持ちで書いているんだから、誤解したらそれは相手の責任だ!とか考えるだろうか? おそらく、渡す前に気づいてしまったら、かならず自分の気持ちを誤解なく伝えられる表現に変えるはずです。まあ、気づけばのはなし。気づくか気づかないかは、日頃の 観察力と国語の知識、ですがね。
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