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2016年4月

指図はされたくないのよ

突然妻が悲鳴をあげました。右ひじと右手首〜小指側に強い神経痛が生じたようです。神経の痛みなのでなかなか軽くなりません。顔が苦悶様です。もともと胸郭出口症候群を持病に持つ彼女、被災の後何かと重いものを抱えたり腕を上げたりせざるをえなかった影響だということは容易に想像できます。たまたまその場にいた彼女の友人Nが、すかさず「これを当てると良くなるよ」と筋痛症治療用の電磁波治療器を貸してくれました。云われるままに当てはしたけど、もともと信用していない妻は一度使ったら「ありがと」と云いながら返してしまいました。「それは上から来ている痛みだから消炎鎮痛剤飲まないと軽くならないんじゃないの」というわたしの助言にも気が乗らない様子で、結局手首と肘に湿布剤を貼って、「あー軽くなった」と。

友人Nとわたしは各々に苦笑い。 そんな友人Nは慢性的に膝を痛めていて、そのために治療器を当てて対処しているわけですが、彼女もまた他人の助言は聞き流す。消炎鎮痛剤はその場しのぎの対処法でしかないからという理由で手を出さない。「こんな運動をしたら軽くなったよ」「テレビでこんなことすると良いって云ってたよ」と妻が助言するけど、「そんなんじゃこの膝は治らないと思うよ」と反論。自分のやり方を主張します。

かく云うわたしはというと、高血圧。「お酒の量を控えたら良いんじゃないの」「そのお菓子は塩分が多すぎだよ」という妻の苦言は「そうね」と答えながら耳栓状態。「内服はしているし、夜更かししなくなったし、運動はしているし、これでダメなら内服を増やすよ」と云い訳。

ま、結局、この歳になると、みんな『自分のやり方にいちいち指図はされたくないのよ』というのが本心の様です。

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酒は百薬の長にあらず、だそうな

「酒は百薬の長」を否定する解析結果―適度の飲酒でも寿命延びず?

CareNetに掲載されたこの記事はオーストラリア国立薬物研究所のTanya Chikritzhs氏らによるもの。”87件の研究をレビューした結果、全く飲酒をしない人に比べて、適量の飲酒をする人に生存期間の面で利益は認められなかった”というもので、要するに酒はやめない限りは健康面に効果はないぞ!と云うこと。「この人、酒キライないんだろうな」と、酒飲み読者の全員が最初に思ったでしょう。「飲酒を止めた人は、理由として病気になったことを挙げることが多いが、これまでのレビューではその点が見逃されてきた。その結果、こうした人は早期に死亡する比率が高く、飲酒の影響を見誤る原因となっている可能性がある」ので、病気による禁酒を考慮していない研究を除外したら、適量の飲酒による寿命への利益は認められなかったというのです。

それに対して、「科学的データからは、少量から中等量の定期的な飲酒が中高年の健康的なライフスタイルと矛盾しないことが支持され続けている」という反論も述べられていますが、まあこんなことで大事な学術雑誌誌面を埋めるのももったいない気がします。『適量の酒が病気を助長する』とは一言も書かれていないのです。「中高年者の少量から中等量の飲酒は、良好な健康状態であることの指標であって、原因ではない可能性が高い」と云っているだけ。つまり、「適量の酒を飲んだら健康になるから飲酒習慣のない人もできるだけ飲みましょう」と云ってはいけないよ、と云うこと。昔、低HDLコレステロール血症の男性に「酒を飲むと良くなるよ」と助言した医者がいて晩酌習慣のなかったその男性が1年間毎晩ビールを飲んだら見事なメタボになってきたことを思い出します。つまり、そんなことしちゃダメよ!と云う研究結果だと、わたしは読み解きました。

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よろず相談の憂うつ

人間ドックの業界の中に身を置いてもう15年ほどになりますので、循環器内科の知識がほぼ雑学の域になり、人間ドックの専門医/指導医資格も取って、「予防医療が自分の専門分野だ」と公言できるようになってはきました。

でも、健診の専門家は総合診療医(あるいは総合内科医)ではありません。一般クリニックのドクターでもありません。雑学は齧ってはいますが中途半端ですし、自分で治療をするわけでもないのでアドバイスはできてもどこかいい加減で、ほとんど素人さんみたいなものです。

そんなわたしに、健診受診者さんが色々な相談をします。曲がりなりにも医者だから、メモ書きして持ってきます。基本、口先三寸の内科医であるわたしはまことしやかに答える術は持ち合わせていますが、本当にわたしで良いのかしら?と、いつも思うわけです。わたしに整形外科のことや婦人科のことを聞かれても、知識も技術もありません。せいぜい民間療法的なアドバイスをして「やっぱり、餅屋は餅屋だから、ちゃんと専門医に行った方が良いですよ」というのが限界のこともよくあります。

わたしはわたし自身が病気博士だから自分の経験は話せますが、もともとわたしのやり方が標準的ではないことが多いから、それを勧めるのもねえ。

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日常に戻る(後)

一気に日本中に知名度が上がった(たぶん、間違いなく今年の流行語大賞にノミネートされるだろう)『エコノミークラス症候群』もまた、心配のタネ。避難している人もしていない人も、みんながみんな口を揃えて「水? 飲んでますよ。エコノミークラス症候群が怖いですもんね」という。避難所の枕元には何本ものペットボトルのお茶や水が並んでいました。車中泊やあちこちへの避難を経験してみると、たしかに意図的に飲まない限り水分は取りません。喉も乾かないし、水が出ないから小便回数も減らしたい。飲みたくても手元にモノがない場合もあれば、大きなペットボトルがあってもカップがないと「まあ、いいや」と諦める。だから、脱水にならないように「とにかく水分をとりましょう」は一理ある。

ただ、カップ麺や非常食のお菓子ばかりを食いながらの水分補充・・・単に浮腫みを誘発するだけのことになっていないのか。腎臓や心臓に負荷をかけるだけになってはいないのか、実はわたしにもよく分かりません。わたしの場合は、被災の3日後になって急激に浮腫み始めました。そしてその翌日から突如利尿が始まり、昼夜を問わず1〜2時間ごとに小便に行きました。キャパを超えて体内代謝経路に入りきれなかった水分が、やっと処理できるようになった時期だと自己判断しましたが、これは一歩間違えば腎機能障害を誘発しかねません。それでなくてもタンパク質が不足しているのですから・・・エコノミークラス症候群予防のために水分を!は正しいのだけれど、やっぱり「ほどほどに」だし、じゃあいつまで?どの程度の量を?なる問いに答えようと思うと、ハタと困る。

カラダが非常から日常に戻るとき、何しろ脅しまくったのだから一般の方々にそのタイミングをきちんと教えてあげるべきですが、各々の置かれた環境が違いすぎて一概には云えずに躊躇してしまいます。熊本はこれから熱中症の季節です。

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日常に戻る(前)

まだ夜中に突然揺れるので、心身ともに休まりませんが、それでも大筋で日常を取り戻しつつあります。また予防医療の世界に戻ろうとする中で、何かしっくりこないものがあります。メタボ予防、生活習慣病予防、がん予防・・・どれもが、この未曾有の大天災に見舞われた今現在において、本当にどこまで必要なことなのか?ということ。

震度7の2度の大揺れに右往左往し、取るものもとりあえず避難して飲むものも食べるものも確保することに必死という状況では、食事バランスがどうのこうのと考える必要もなければ余裕もないのは当たり前。このときにわかったことは、水と炭水化物だけでは絶対にやせるということ。そしてタンパク質を食わないとみるみる筋肉がなくなり、脂肪を摂らないとエネルギーが足りずに階段を上るのもままならないほどに疲労感が増すということ。日ごろ食べたいとも思わないものが無性に食べたくなって、大好きだったものがそう食べたいとは思わなくなるということ。それはそれで良いのです。

問題は、その後。食料がほどほどに手に入るようになり、生活が動き始めるようになるこの時期、それどころじゃないよと手に入るお菓子やカップ麺を貪り食ってきた生活に区切りをつける日をいつに持っていくべきなのか? 生活は元に戻らないのに社会は動き始め、非日常と日常の混在する状態はまだ何ヶ月も続くでしょう。「それ、今じゃなきゃいけないの?」と拒絶するアタマと「いつまでこんなこと続ける気?」と反発し始めるカラダと・・・私たちが介入する上で、どう指導したら良いものか? 『今は自然にカラダが求めるのに従っておけば良い』ということでいいのかしら? あれだけこだわっていた10000歩なんて、もう10日以上達成できていません。「どうでもいいや」と思う自分自身を説得できないでいます。

これから、粛々と人間ドックが再開される中で、食習慣や運動習慣のアドバイスをいつの頃から元に戻したものか、悩んでおります。

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原状復帰

地震被害から徐々に復旧する中、うちの職場でも、移動させていた医療機器や机、椅子などを日常業務に戻すために並べ直しをしました。「もっと後ろだった」「もう少し間が空いていた」などと喧々囂々。そんな姿を見ながら、ふと思うのです。「どうしてそんなに前の形にこだわるの?」・・・こっちに向いている椅子を全部反対向きにしてみるとか、半分ずつ向かい合わせにしてみるとか・・・模様替えというよりも、今から新しく始めるのだと思えば何でもできるから、それで良いじゃないかしら、と。

わが家のぐちゃぐちゃになった家財の整理をほどほどに済ませましたが、どうせまた大きいのがきたら落ちてしまうからと割り切ってほとんど床に並べています。食器の半分は割れてしまいましたし、壊れた電化製品とか破れた家具とか、家庭によっては住む家もなくなってしまっている。考える余地もなく原状復帰は不可能なわけだから、被災前のことにこだわって後ろ向きになることなく、状況を逆手にとってあえて前向きに新しい生活を始めるきっかけにしようと思うのです。

今だからできること。無理して元に戻そうとすることはやめよう。

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四つ葉のクローバー(3)

2度目の大地震から、まだ一週間しか過ぎていませんが、昼夜を問わず襲いかかってきていた未曾有の数の余震が急に減ってきました。3度目の大地震の前触れではないかと思うと震度2程度に揺れてもビクビクしますが、きっとこれで収束に向かうことだろうと期待しています。

いつ終わるのかというモヤが晴れ始め、支援物資がだぶつき始めた中でやっと安堵の空気に浸れるのかと思いきや、急激に妙な疲労感が襲いかかっています。着の身着のままで命からがら逃げ出して「生きているだけでも儲けもの」と皆で身を寄せ合った時期が通り過ぎて、ふと気づくと頭の中を占めるのはこれからのことばかり。下ばかりは向いてられないよと思いながらも楽観的な気分にはなれない。周りの人に比べたら被害が少なかった私の環境ですらこうなのです。

避難所に通っていると、ぼーっと宙を眺めていたりふさぎ込んで表情がなくなっていく人たちの姿を見つけ始めました。「お元気ですか」と声をかけてみると一様にこれからの不安を語り始めます。そして最後に「まあ、私だけのことじゃないからしょうがない」「私は恵まれている方なので贅沢云ったらいけんと思う」ということばで締めくくられます。怒りや悲しみの感情を押し殺して「しょうがない」「もっと大変な人がいる」と口にすることで自分を納得させようとするのは、これまでの大災害のときと全く同じ。日本人の美徳といえば美徳でしょうが、そんなことばで自分の本当の感情を抑えつけているとメンタルが崩壊するぞ。もっと本心を口にすべきだ!とか思っていました。でも実際にその立場を経験してみてわかりました。この呪文を何度も唱えることで自分の心身のバランスをギリギリで保てていれるのだろうということ。

仕事の行き帰りの運転中や、ワンの散歩中に時折意味もなく溢れ出だす涙もまたそんな類でしょうか。

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四つ葉のクローバー(2)

縁あって、今週は職場近くの小学校と中学校の避難所に保健師さんと一緒に巡回診察に行きました。

最初は互いに遠慮がありました。昼間に行っても居るのは子供たちと動けない高齢者ばかり。若い衆は家の片付けに帰ったり仕事に出たりしています。残った人たちはみんな横になって寝ています。夜の間、ひっきりなしに揺れるので眠れてないのです。そんな人たちに声をかけて無理やり起こすのは迷惑ではないか、そんな思いが先に立って数人にしか声をかけられません。避難しておられる皆さんもまた遠慮がちで、「大丈夫ですか?」と声をかけると「大丈夫です。ご苦労様です」と云って目を伏せる。ちょっとくらい喉が痛くても、忙しいのにそんな軽いことで声をかけては迷惑だろうというココロが働いているように見て取れます。

でも毎日通っているうちに、わかってきました。こんな場では遠慮していてはダメだということ。「こんにちは。変わりありませんか?」「お陰さまで大丈夫です」とここまでは同じ。でも、「ちょっと血圧でも測りませんか」と押し売りをすると「そう?そげぇ云うならちょっと測ってもらおうか」と身を起こしてくれます。隣りに寝ていたご家族も起き上がる。測りながら世間話を始めると、「実はちょっと足が痛い」「地震の晩に慌てて走ってから胸が痛い」「妊娠中だけど薬は飲んでいいのだろうか」とかから始まって、「残してきた家が心配だ」「夜になると色々考えて眠れなくなる」という話に変わっていきます。

私たちは薬の処方ができませんから、話を聞いたり生活のアドバイスをすることしかできません。それでも、このひとときが不安の解消に少しでも貢献できればいいなと思うばかりです。

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四つ葉のクローバー(1)

昨日のfacebookにも写真付きで載せましたが、すごくうれしかったのでそのままここに。ポーカーフェイスで帰ってきたけど、実は、涙が出そうでした。

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今週、毎日巡回診察に通っている職場近くの避難所の小さな女の子たちから声をかけられました。

「こんにちは」
「あら、折り紙してるんだ」
「うん」
「これは何?」
「四つ葉のクローバー」
「あー、幸せの四つ葉のクローバーだね」
「これ、先生にあげる」
「いいの?」
「うん、大丈夫。またすぐに作れるから」

ということで、もろてきた。

皆さんにもいいことがありますように。

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PTSD

「気が滅入ってどうかなりそう。何かこの気分が少しでも晴れることがないかな~」と、昨夜、沸かしたお湯を使って洗面所で髭剃りしている私の横にくっついて妻がつぶやきました。「ダメだ・・・『これからどうなるのだろうか』と思ったら、先が見えな過ぎてさすがに辛くなってきたよ」・・・かなり参っている様です。

ガタンと音がするたびに飛び上がって震える愛犬もまた限界に近づいている気がします。私たちが動く度にずっとくっ付いて回ります。PTSD(心的外傷後ストレス障害)なんて他人事だと思っていましたが、とうとうあの日から一週間。収まることを知らない大地の揺れは、何もかもを変えてしまいました。

「夢の中でも地震に見舞われているなんて、貴方、かなり病んでるね」と妻に言われましたが、あなたほどではないと思いますよ。愛犬とともにいつまでも揺れる家の中で過ごす不安だけでなく、義母の事、義母の家の事、仕事の事、将来の事・・・。

週末にはどこか違う場所に行ってみましょうか。

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ツバメ

ここ1週間、もう一つのブログと同じことを書いてきました。それなら書かなければいいのに、とも思いますが、無事であることを読者の皆さんにお伝えしたくて続けています。来週くらいには日常に戻れると良いなと思います。

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そろそろ落ち着くのかと思いきや、昨夜の群発は堪えました。セイラが落ち着かないので早めに一緒にベッドルームに入りましたが、寝ていても横ゆれ。やっと寝付いたかと思ったら今度は夢の中で縦ゆれ。一回一回は強くないけれど、突然起きるのでなかなか寝付けず、夢かうつつかわからないまま朝を迎えました。震源が南に下りて行っていることよりも、ガンガン揺れているのにYahoo!の地震情報の回数が異常に少なく、かつわが家のある町名の震度が低いか出なくなっているのが心配。あまりに頻度が多すぎて計器が壊れたのではないかと。

テレビで流れる情報はライフラインの復旧見通しや流通の回復のニュースばかりになり、頻回の地震情報は発する側も発せられる側も慣れっこになってきていますが、実は震度5強の緊急地震情報のけたたましい携帯アラームはいまだに1日一回は鳴っています。今や、単なる電話の受信音や強くドアを閉める音だけでもビクッとしてしまう始末です。

昨日の夕方、「ツバメが巣を作りに戻って来ました。地震が収束するのかな」と知人がLINEに書き込んでいたのを読んでほっこりした矢先。まだまだ渦中のままのようです。

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生活を始めます。

久しぶりに昨日は静かな夜だったなと思ったら、スマホに記録された地震履歴はかなり頻発・・・慣れっこになってしまったせいか、それとも疲れが溜まりすぎたせいか・・・。まだまだ避難生活を続けている方々、水も食べ物もない方々の姿を報道で見るにつけ、何か申し訳ない気持ちでいっぱいになります。

最初の大地震が起きたのが先週の木曜日の夜で、次の大地震が起きたのが土曜の未明で・・・まだ4日半しか経ってない。我が家は神のご加護があってとても恵まれている方ですが、それでも眠れたのか眠れていないのか、夢かうつつかよくわからない中、まだそれだけしか経っていないのかと思うと愕然とします。

今から仕事に行きます。皆さま、応援ありがとうございます。これから遅ればせながらわたしも被災の皆さんの手助けに尽力させていただきます。

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ご報告

ご心配ありがとうございます。昨夜の嵐はさらに不安を煽りましたが、それも通り過ぎました。

昨日は何度も地面が立ってられないほどに揺れるので、諦めて玉名にある知人のお宅に泊めてもらいました。途中、義母は福岡に住む叔母夫婦に迎えに来てもらってしばらく預かってもらうことにしました。玉名は平穏で全く別世界。2日ぶりにゆっくりお風呂に浸からせてもらい、10時間ほど熟睡させてもらいました。避難所でご不自由されている皆さん、昼夜を徹して働いている同僚の皆さんには本当に申し訳ない。でも、本当に昨夜はありがたくて涙が止まりませんでした。

今から家に帰ってみます。今から片付けが始まりますが、まずは中に入れる家がまだあるかどうかですが。とりあえず、ワン達を含めてみんな無事ですので、ご報告まで。

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地震

残念ながら今朝の地震はさすがに我が家もやられてしまいました。何とか逃げてきています。とりあえず怪我もなく、家族みな無事です。夜から大雨ですから、今から最低限の整理をして北の方に逃げようと思います。とりあえず、報告まで。

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平成28年熊本大地震

みなさま、ご心配おかけしました。

平成28年熊本大地震の震源地近くに住むわたしですが、家族も含めてみな無事です。家も壊れることなくライフラインも確保されております。

かなり強い余震がまだまだ何度も襲ってくる中、ただいまは後片付けに専念しております。とりあえず、お知らせとお礼まで。

他の九州在住の方も含めて、大きく被害を受けられたみなさま、ココロからお見舞い申し上げます。

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健診の読影力

先日、医学生が実習に来たので、予防医療に対する医師の心得についてレクチャーしました。『予防医療における医師の役割は何か』ということを話しているうちに、自らもう一度再認識させられたことがありました。

予防医療における医師の役割の双璧は『的確な読影力』と『行動変容につながる説明力』です。わたしは特に後者について熱く語りました。「健診結果の説明なんて優秀な臨床医なら誰でもできる」と思ったら大間違いで、臨床現場の幹部たちに説明をお願いしたら受診者からとても顰蹙を買って大変だったというエピソードを話しました。ただ、あまり重視してこなかった(というか、これこそ優秀な臨床医ほど良いと思っていた)前者『読影力』についても、健診の特殊性をしっかり理解しないといけないのだということを、説明しながら悟った次第です。『読影力』というのは、単に見落としをしないというだけでなく、今回本当に受診を勧めるべきなのかという判断力も問われるわけです。「疑わしきは精査すべし!それが健診の基本だ!」と主張するドクターも多いですが、この世界に入って約15年、わたしのココロもだいぶ変わってきました。指摘された受診者がわざわざ仕事を休んで医療機関を受診し、もしかしたらさらに 何度も受診させられたりして、結局”問題なし”となったとき、皆が「何もなくて良かった!」と思うかどうか。有給休暇を取らされ、安くもない医療費まで払ったのに何もなかったということは、初めから受診などしなくても良かったのではないか?という疑問と不満が少なからず湧き上がってくるはずです。わたしならきっとそう思うから。

所見を見落とさないだけではなく、無駄な受診をさせず、それでいて不安や心配を残させない判断をする力というのは、かなり高い知識と経験が必要です。何でも訴えられる時代、自身と施設の保身のために強めに拾い上げる風潮中で、冷静に受診者のそんな社会的なメリットも鑑みてあげられる医者に、この医学生たちもなってほしいものだと思いました。

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検査ドックと生活変容ドック

人間ドックの目的は、検診(特定の臓器の異常の有無を検査する)の意味合いと健診(健康診査=今の健康度を評価して今後の生活の仕方を計画する)の意味合いとの両方がありますが、世の中ではいまだに胃がん検診や結核検診のイメージが強いようで、人間ドックといえば前者のこと(検査をして異常をみつけるもの)だと思い込んでいる人が多いみたいです。

いわゆる”脳ドック”とか”がんドック”とかいうのは『検査ドック』です。検査をして、いま現在どこかに異常があるかどうかを確認するのが主目的のドックです。それに対して、”動脈硬化ドック”とか”生活習慣病ドック”とかいうのは、云うならば『行動変容ドック』。検査して異常があるかどうかを調べるのが目的ではなくて、その結果を出発点にしてこれからの人生をどう生きるかを考えるのが主目的のドックです。その違いをしっかり理解した上でコーディネートして受けていただきたいと思います。

病院を受診して「あの検査とこの検査を受けたい」と云っても聞き入れてはくれません(保険診療ですから不要な検査はいたしません)が、人間ドックは自分の好きなものを選んで注文できます。だからこそ、自己満足に終わらないように是非有意義に利用してください。

 

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脂肪肝

アルコール性の脂肪肝とか自己免疫性の脂肪肝とかは別にして、現代人の大部分占める食べすぎによる脂肪肝は、想像以上に難儀です。そもそもサバイバル系の代謝機構を備えているから起きるわけで、同じ生活をしていても皆が同じように脂肪肝になるとは限りません。脂肪肝は余ったエネルギーの蓄積です。どんなものであれエネルギーが余るとエネルギー効率の一番良い脂肪細胞に形を変え、その脂肪細胞を肝細胞の1つ1つの中に詰め込んでいる状態(つまり”フォアグラ状態”)です。エネルギーを溜めやすいカラダは、一番エコな体質の持ち主のカラダですから、何も食べずに腹が空いた上にそれでも食べられなかったときに止むを得ず使う在庫・・・ちょっと小腹が空いた時点で何かを食っている限り、この在庫を使う気などさらさらございません。食わずとも生きていけるカラダ、そのたくましい体質は、世が世なら最強なのでしょうが・・・。

メタボ系の肝機能障害ならば食べる量を減らしてガンガン動いておけば改善するはずですが、そうでないときの肝障害ではカラダを休めて質の良いタンパク質をたくさん摂ることが大切。つまりそれは、まったく逆の治療法になります。肝心(腎)要の肝障害。その原因は千差万別ですし、物静かな健気な臓器ですから切羽詰まるまでフォーカーフェイスを貫き続ける職人・・・日頃から意識して大事にしてやってください。

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腹いっぱいの作り方(後)

「ヒトは大病を患うと、自他共に”セイのつくもの”を食べさせよう、食べようとする。でも、”セイのつくもの”とは高カロリーの食べ物ではなくビタミンやミネラルのことであり、無理して食べさせようとしても、お腹を壊すか無意味に肥って別の病気を引き起こすのがオチだから気をつけるべきです!」 と、いつも話しています。

でもこれは、逆に誤解されそうですけれど、『食べたいものを我慢してカラダに良いものや消化の良いもの(患った臓器に負担をかけないもの)を選ぶべきだ』と云っているのではありません。素直に、本人が食べたいものを食べたい量だけ食べるのが理想だと云っているのです。胃を患ったヒトに油モノや炭水化物は禁物かといえば必ずしもそうではありません。本人がそれを食べたいと思い、口にして美味しいと思うなら、それは他のどんな薬物よりも有効な良薬です。カラダがその時に一番欲しいものを「食べたい」と欲しますから、それに従えば良い。そこに学問や理屈など無用。イヌネコは本能に従って飲み食いしますから、腹が減っていても食べたくないものは食べませんし、食べてもすぐに吐き出すかお腹を壊します。それが自然の摂理であり、本能なのだと思います。

『もう何でも本人の食べたいものを思う存分食べさせてあげてください』と主治医に云われると、もう医者にも見放された最期のトキなのかな、と思う人も少なくないでしょうが、その選択には一理も二理もあるのです。食事は理屈で摂るべからず。本能に従うべし・・・まさしくイヌネコたちから学ぶべき真理がそこにあると思います。

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腹いっぱいの作り方(前)

「わたしは腹いっぱいにならんと満足できんタイプだから」

むかしから、生活習慣病に対する食事療法の話題になると、必ず返ってくる逃げ口上。この話題もここに何度も書いてきましたが、このコトバはもう聞き飽きたのでわたしのココロを全く揺らせません。もともとこの発想は、「食事は腹八分目が一番いい」が健康キーワードとしてまことしやかに広まってしまったのが大きな間違いだと思います。「腹が減っても腹八分目でガマンしろ!」なんて誰も云ってません。「腹一杯食べると命取りです!」とも云ってません。「食べる量が多すぎるヒトは自分の適正量を知って、その量を摂りましょう」と云いたいわけです。「それは同じことでしょ!」と思うから食い違いが始まる。こういうことは理屈ではなくて感覚なので、慣れてしまえばそれで良い。

例えば、とても少食の人がいますが、それはお腹は空いているけどガマンしているのではなく、彼らは彼らなりに腹いっぱいになったから食べるのをやめるのです。少なかったら腹いっぱいにならないと思い込んでいるけれど、胃袋の中にいつまでも残っていれば腹は空かないわけだから、今食べている量を半分にしても、それを1ヶ月続けていればちゃんと腹いっぱいになる食べ方は身につきます。食べたくもないキャベツで腹を満たしてから食うとか考えるからすぐに飽きてしまう。好きなものが山盛り並んでいるのと半分しか並んでいないのと、どっちが嬉しいか、どっちが美味しいか。まあ、経験してない人にはピンとこないかもしれないけれど、その場で全部食べてしまわなければならないのであれば、明らかに後者に軍配が上がります。それが、わたしが実際に試してみた結論です。

<腹いっぱいの作り方>
      眠くなったら寝る
      食べたくなったら食べる
      食べたくなくなったらやめる
      それが動物の本能であり、本望だから。

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わたしの何が悪いんですか?(後)

『生活習慣病』と銘打ったために、皆が勘違いするのでしょうか?

生活習慣病は、『あんたの生活態度が悪いから病気になった。だから、自業自得だもんね』という概念ではありません。1996年に当時の厚生省が提唱したのは、「生活習慣病の発症要因は、『外部環境要因』と『遺伝要因』と『生活習慣要因』の3つで、これのすべてが合わさって発症するもの。外部環境要因と遺伝要因は自分の力では簡単に変えられないけれど、生活習慣は今すぐから変えられる。生活習慣の改善で予防できるものならやった方が得だろう」というものです。あくまでも遺伝病なのだということを、ここでもなんども云ってきました。

『生活習慣がきちんとしていれば、糖尿病や高血圧にはならない』というものでもなければ、『糖尿病や高血圧症になったのは生活習慣が乱れていたからだ』というのも正しくはありません。もちろん、どこかの山奥で草の根ばっかり食っている人生を送るのならたしかに生活習慣病にはならないかもしれませんが、現代社会の中で真っ当に生きていても生活習慣要因だけの整備ではなかなかうまくいきません。それは外部環境要因や遺伝要因に引っ張られているからなのだから、本人の力だけでは太刀打ちできないと観念した方が建設的で健康的。

こんな窓口のところで行こか戻ろか躊躇しているのは、まさしく人生の無駄遣い。短い人生、他にしなければならないことはいっぱいあります。そんなことに悩んでないで早く前進しましょう。

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わたしの何が悪いんですか?(前)

ずっと糖代謝異常(というよりもすでに完全なる糖尿病)で何年も前から内科受診の指示が出ているのに受診していないアラフィフ男性受診者が、わたしの診察室に連れてこられました。HbA1cが一昨年6.9、昨年7.1でしたが、今年は一気に8.9まで跳ね上がっていましたので、いよいよインスリンが枯渇し始めてきたのではないかと懸念されます。わたしは素直にその旨を説明しました。するとしかめっ面で暗い顔をしていたその男性がやっと重い口を開きました。「わたしはもう1年以上毎日10キロ以上ジョギングしているし、夜は米飯は取らないで野菜をたくさん食べるように注意しているんですよ。わたしの何が悪いんですか?」

「わたしはがんばってないわけじゃない。自分なりにこれだけがんばっている。なのに悪化するのは、わたしのやり方が悪いのか?それともやり方が足りないのか?」・・・こういう思い込みの方はたくさんおられます。間違った情報を流すマスコミも悪いし、きちんと啓蒙啓発してこなかったわたしたちも悪いと思います。

彼らのやっていることに何の問題もないし、これからもしっかりと続けていってほしい、というかそれは基本。ここまでやっているのに血糖値が悪化するのはなぜか? もはやインスリンの反応が生活療法だけでは付いていけなくなっただけ。薬剤系で手助けしてあげないと悪化するレベル。「何が悪いのか? 別に何も悪くないけれど、強いて云うなら『生まれてきた時代が悪い』ということですかね」と、優しくお答えしました。「知人に薦められてサプリを飲み始めたけど、これがいかんかったんじゃないですか?」まだまだ食い下がってこられます。「サプリで悪化したわけではなく、サプリでは効かなかったということですかね。もうやれることはやり尽くしたのだから早めに医療機関でインスリンコントロールをしてもらった方が健康的だと思いますよ。もう早くはないけれど、早く下げないと薬を止められなくなってしまう」と云ったら、「薬は飲み始めたら止められないって本当ですか?」と・・・結局そこに行くのか。うんざりです。

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慣れと諦めは違う

先日、学生時代の同級生から「どうも肩の調子がおかしくて、足先も少ししびれるのだけれど、どこか良い整形外科を知らないか?」と相談を受けました。「そうか、そういうことが気になるのか?そういうのはそのうち慣れるよ」と答えたら、ちょっとイヤな顔をされました。ギックリ腰だと思っていたけれど何ヶ月も続いているからもはやこれは老化だと悟ったという事を先日ここに書きましたが、私たちの世代では、どこかにガタがきても珍しくはなく、それを異常だと思うか思わないかで人生が変わってきます。「もう歳なのだから諦めろよ」と云いたいのではありません。痛いからしたいこともできないと悲観するのか、この程度は痛いとは思わないというのか、これは大きな違い。知覚のコントロールができればそれなりにいい人生が送れるわけです。「肩の痛みはなくなっていませんが、もう慣れました」というと諦めたのだと勘違いされますが、そうではなく、慣れたのです。2年前には毎日が憂うつで何をするのもイヤでしたが、今は何も困っていません。痛いということを忘れている時間が増えています。炎症が落ち着いて、本当に痛くなくなっているのかもしれませんが、よくわかりません。

ペインクリニックはただの一時しのぎの対症療法であって根本が治らないと意味がない、というヒトもおりますが、対症療法で生活に支障がないまま人生を全うできるのならそれでいいではないか。今から若かった頃のカラダを取り戻すために治療を受けてもどうせ五十歩百歩です。むしろ痛みを取り除く治療を続けるうちに炎症が取れて治ったしまったなんてこともよくあるはなしですし、無くなった機能を悲しむ暇があったら、今の機能に磨きをかけましょう。それが、慣れというものだと思っています。

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インシデント

玄関でチャイムが鳴って大急ぎで階段を降りるとき、あるいは遅刻しそうで大慌てで職場の階段を駆け降りるとき、思わず踏み外しそうになることは多々あるけれど、意外に踏み外しはしません。愛犬の散歩中に立ち止まってスマホをいじっていたら突然愛犬が紐を引っ張って落としそうになったり、あるいはバッグから取り出したとき滑らせて落としそうになったことも多々ありますが、これも意外に落とさないものです。こういう、事故が起こりそうで意外に起こらないことを、みんなそれなりに経験しています。

わたしたちの組織では、トラブルが起きそうな”ヒヤリ、ハット”を『インシデント』として極力報告して情報共有することで事故を未然に防ごうという機運が定着しています。とても重要なことだと思います。ただ、未然に防ぐためにその都度いろいろな決め事(ルール)を作り過ぎていくと、かえって予防のためにがんじがらめになってしまいます。 冒頭で書いたような「危なかった~、何も起きなくてよかった~」と思うことの大部分は、心配しなくてもきっと何も起きないまま終わるのだと思います。

こういう自己調整力で制御できる可能性の高いモノは『インシデント』ではないと思うのですが、それでも油断は禁物であることに変わりはありません。インシデントやアクシデントは慢心と過信が引き起こすものです。少なくともそうなるかもしれないことを想定して、そうならないように注意して生きていて損はありません。自信があっても愛犬の散歩中にはスマホをいじらないとか、慌てなくてもいい余裕を持つとか・・・できないわなあ(笑)

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4月の空気

今年も新年度が始まりました。わたしは4月の空気があまり好きではありません。自分の誕生月なのに、そしていよいよ春本番なのに、です。

4月は新しい環境に移る季節。小学校入学、中学入学、高校入学、大学入学、就職、転勤・・・考えてみたら、わたしはそんなときいつも孤独でした。新しいところに行くときに仲良しな友だちと一緒に移っていったことが一度もなく、いつも独りから始まる新生活。だからなのでしょうか。期待と不安、というよりも不安だらけで、しばらくの期間は家でも外でも一人っきり。ほとんど何もしゃべらない日が何日も続いたり・・・引っ込み思案なので、自分から声をかけるタイプではないのです。スーパーのレジのおばちゃんの質問に答えるとか、アパートの大家さんに家賃を払いに行ったときに会話するとかが唯一の会話だったり・・・。

毎年のことではないし、今はそんな生活ではないのに、この季節になると今でもそんなころのうら寂しい空気感につつまれてしまうのです。3月の別れの季節の空気も寂しいけれど、わたしは4月の空気の方が苦手・・・それはこんな理由からです。

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学会活動

わたしが学会発表をしなくなってもう10年くらいになります。

むかしは、最先端の大きな学会のいくつかに毎年演題を出して発表し、それをそのまま論文として学会誌や医学雑誌に投稿することがステイタスだと教わり、忙しい仕事の合間の時間を使って頑張っていました。忙しさにかまけてそれをしなくなったら、その時点で医学者としての進歩はストップしてしまうから、常に問題意識を持って研究のネタになるものを日常診療の中から探し出すつもりで仕事をしなさい、とボスに云われて育ってきました。

ただ、正直云って、イヤでした。研究室で動物実験をしているのではなく、日常診療の中からアカデミックな真理を導き出そうとするわけですが、どこか患者さんを実験台にしているような気がするわけです。その時点までの何百人という患者さんの過去のデータを比較検討して法則を導き出そうとするだけならまだいいのですが、自分で立てた仮説を実証するために、例えば患者さんに診療とは直接関係なさそうな大量の質問や検査をしたり、取らなくてもいい血液を少し余分に採血させてもらったりすることがあります。そういう行為に良心の呵責を感じてしまうわたしのような者には、向かない作業のように思えました。あるいは、導き出したデータ分析結果で「『統計学的な有意差』が出た!これはすごい法則だ!」と喜んでみたところで、臨床現場の診療に用を成すのかといえば必ずしもそんなことはなく、その法則に当てはめてみると見事にはまるのだけれど、それによって患者さんの人生や治療法が大きく変わるわけでもない。それって、ただの自己満足ではないのか?と自問自答した日々。

世の学者さん方が日々研究に明け暮れ、未来のために頑張っておられる姿にはいつも頭がさがる思いです。でも、残念ながらわたしには向かないので、違う形で医療に貢献したいと思っています。

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食事バランスガイド

国立国際医療研究センター(黒谷佳代ら)がBMJ誌オンライン版2016年3月22日号で発表した、8万人を約15年追跡した結果によると、食事バランスガイドを順守できた人ほど全死因死亡リスクや心血管・脳血管疾患死リスクが低かったそうです。まあ、当たり前といえば当たり前ですが、これまたこういう日本人のEBMデータが出てくることによって、予防医療の指導現場スタッフは自信を持って仕事ができるというものです。

農林水産省が作成した「食事バランスガイド」といえば、あの独楽の絵。独楽を回すためのひもの中に、わたしの大事な(?)お酒(嗜好飲料として)が入っているあの絵。一時期、こぞって使っていましたが、最近も管理栄養士の皆さんは使っているのでしょうかね。まあ、食べものは、理屈で食っている間は「食事」ではないので、体感でわかるようにならないといけません(ベテラン主婦の皆さんが計量さじを使わなくても目分量で料理の味付けができるように)から、いつまでもあれに頼る必要はないのでしょうが、目分量の味付けが徐々に偏って思いの外濃い味付けになったなんてことがあるように、たまには原点に戻って、あの独楽の絵に当てはめて確認してみることは大事なのかもしれません。

もっとも、「食事は食べたいときに食べたいだけ食えば、必ず自分のカラダにとってバランスの取れた内容になっているはず」という持論を壊す気のないわたしとしては、その「食べたいときに食べたいだけ食ったところで止める力」を養うことが大事なんだ!と思うております。「それができれば苦労はしない」と突っ込まれそうですがね。

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目の錯覚

レントゲン写真や眼底写真、あるいは心電図など、わたしが日々多数の受診者の検査結果を読影しているときに痛感することがあります。人間の目の錯覚というものがいかにヒドいかということです。そこにあるものが見えない。わたしが『異常なし』と判定したあとで、前回の所見を確認すると『所見あり』と書いてある。「え?」と思ってもう一度見返すと、その異常所見は画像のど真ん中に明確に存在しています。さっき、あれだけ目を凝らして見ても見えなかったのに、まるでこっそり写真をすり替えたのではないかと疑いたくなるくらいしっかりと写っているわけです。逆に、「気になる影が見えるなあ」と思って他に目を動かしたりフォーカスをずらしたりしたあとにもう一度見てみると、今度は何も見えないということもよくあります。さっき、自分は何を見ていたのだろう?と自信を失います。あるものを見落としたときよりも、ないものをあると思ったときの方が、自分の目は大丈夫なのか心配になって落ち込みます。

そんな人間の力の限界を補うために、機械のもつ自動読影機能やキャドなどの読影補助機器があります。受診者の中には機械の方が正確で見落としがないのだから最初から機械に読ませるべきだという人がいますが、それはそれで問題があります。機械もまた、ないものをあると云ったり、あるものを見落としたりすることは茶飯事なのです。かえって、ありえないようなとんでもないウソを読むこともあって人間の目よりも厄介だったりします。

がんを見落としたとか重要な所見を見逃したとかいうことがときどき問題になりますが、人間の目力の限界を考えると各人の努力だけでは如何ともし難く、さらにダブルチェック、トリプルチェックの複数の目で別々に読むことに勝るものはない(どこもマンパワー不足でなかなかそれができないのが実情なのでしょうが)ように思います。

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自褒めケア

わたしの仕事は意外にハードスケジュールです。毎日30分〜1時間単位で緻密なスケジュール表が組まれています。朝一番にその日のスケジュール表を眺めて「うわ、めんどくさい!」と思うときも「楽勝!」と思うときもありますが、問題はその後です。

お昼までぶっ続けのスケジュールにちとため息をつきながら粛々と仕事をこなしていると、アテンダントのお嬢さんが申し訳なさげに診察室のドアを開けることがあります。これは、予定になかった仕事がさらに舞い込んでくることを意味します。こんなとき、むかしはそれだけで腹が立っていました。「なんでオレなの?」「今は他のドクターが担当するはずの時間でしょ? なんで捌けない分のしわ寄せをオレがしなきゃいけないの?」「ムリ!」・・・イライラしている空気はすぐに伝わってそっとドアを閉めるお嬢さん方。本当に申し訳なかったと反省しております。

今はほとんどそんな気分になりません。「オレしかいないの?しょうがねえなあ」というポーズは一応取ってみますが、頼まれ事はとりあえず引き受けます。ムリそうに見えて、なんとかなるんです。だって、なんとかならなかったことなんて今までに一度もないのですから。昼休みを少し削ることもたまにはありますが、大したことではありません。そして、そんなときにはしっかり自褒めすることにしています。「オレってすごいよね!これだけ働いて、みんなの中で一番たくさん働いて、文句ひとつも云わないんだなんて、カッコいいよね! みんな、オレに惚れるなよー」みたいな(笑)このセルフケアはとっても大事です。そのことが最近やっとわかってきました。むかしは夕方になるとため息交じりの疲れ果てた顔をしていましたが、最近は「今日もよう働いた。エライぞ、オレ!」と最後の自褒めケアで締めくくるので、疲れを残しません。

他人に評価してもらおうとすると思うようにいきませんが、自分で自分を褒める分にはどこまででもつけ上がれます。自惚れるって、とても大事な処世術だと思います。

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