« 2016年4月 | トップページ | 2016年6月 »

2016年5月

今日が人生最後の日だと思って生きなさい』(小澤竹俊著、アスコム)を読みました。

本を読む機会はめっぽう減りましたが、facebookやメルマガなどで紹介された本などをついポチッとamazonしてしまう今日このごろ。高いものは買わないことにしているわたしですが、1000円で買えたこの本、するする読みやすくてすぐに読み終えました。昨日紹介したディグニティセラピーを実践しているめぐみ在宅クリニックの院長先生の本だったから、ディグニティセラピーのことがたくさん書かれているのかと思ったら、ほんのちょっとだけでした(笑)

するすると読みやすくて1、2時間で読んでしまえると、なんか1000円がもったいなかった気がしないでもない。買わなくても良かったのじゃないか、みたいな。かといって、難解すぎて半分くらいで断念してしまうことも多々あって、これまた1000円が高すぎた気になる。人間、わがままなものです。

この本、とても淡々と著者の想いがつづられています。ちょっと淡白すぎて、そして朴訥とした言葉選びのために、すごいこと書いているのに妙に陳腐に見えたりするところもあって、そこがまた著者の人となりをうかがわせます。読み進めながら「うんうん」と相槌を打つことばかり。だから、買ったことに後悔はありません。でも、この本を将来読み返すかどうかは、これからの自分の人生次第だと思いました。死ぬ前に後悔することが何もないなら、あるいは人生の岐路で自己解決できるなら、きっとこの本を再読することはないでしょう。

「長い間、『自分は無力である』という思いに苦しんだ果てに、私はようやく『無力でよいのだ』と気づきました」・・・このくだりが、とても好きです。

| | コメント (0)

ディグニティセラピー

NHKテレビで、終末期医療としてディグニティセラピーを行う様子を見ました。ディグニティとは尊厳という意味です。

『ディグニティセラピー(Dignity Therapy)は、終末期の患者のスピリチュアルケアの一つとして患者の尊厳(dignity)を維持することを目的とする精神療法的アプローチの1つです。カナダのマニトバ大学精神科教授チョチノフ博士によって2005年に考案され、終末期の患者がこれまでの人生を振り返り、自分にとって最も大切なことを明らかにしたり、周りの人々に一番憶えておいてほしいものについて話をする機会を提供するものです。』(めぐみ在宅クリニックのホームページから転記)

余命を宣言され自分がどんどん自分でなくなっていく中で、自分の存在意義がわからなくなったり、自分の人生そのものが無意味に感じられたりするようになるのを乗り越える方法として生まれた方法だそうです。9つの質問に答えるやりとりを記録しながら自分の大切な人への手紙を皆で書き上げる作業で、これによって、自分の失いかけていた尊厳を取り戻すことができると云います。

自分のこれからの人生に役立つかもしれない、と思ってメモしました。

 

| | コメント (0)

お弁当

先日、ある有名料理屋の豪華お弁当をいただく機会がありました。なにしろお上品な老舗料理店のお弁当です。細かく分けられたボックスの1つ1つに一品ずつ並べられて、その各々に調味料の容器が添えられていました。おそらく、お店で食べる時には料理にあった醤油や酢みそやが各々に添えて出されるのでしょう。

そんなお弁当をいただきながらふと思ったのですが、この添付の調味料は使うべきか使わなくていいのか? どっちなのだろう。基本的にわたしは調味料を足す習慣がないので、レストランや食事処でいただくときも醤油やドレッシングをつけることなくいただきます。このお弁当も醤油容器の類は最初に避けて食べ始めましたが、さすがに老舗料理屋のお弁当、どれも申し分のないお味でした。でも、この料理を作った料理長さんとしては、料理の味を引き出すためには添えてある調味料は少しでも使って欲しかったのでしょうか? それとも単に「お好みに合わせて、薄ければ足してください」というものなのでしょうか?

「ドレッシングをどうぞ」と云われて「要りません」と答えると「何も味は付いていませんよ」と忠告されることがよくあります。「このままで十分です」と答えると変な目で見られます。「やせ我慢して、後できっと後悔すると思うよ」とでも思っているのかもしれません。こういう類は自分の好みの問題だと割りきって好きに食べていますが、今回のような上品料理は『最後にこの醤油と合わせて完成品』という想いで作られているものも少なくないと思います。料理人の想いを汲んで戴くべき料理だったのか?・・・もっとも、使わなければ絶品だけど醤油かけたら濃すぎて口に合わなくなった、なんてこともあるからあまり深く考えなくてもいいのかもしれません。

| | コメント (0)

コラム

締め切りが間近になったというのにまだ何も準備を始めていません。どうしたものか、まだ悩んでいます。

数年ぶりに引き受けて再開することになった、某組合の季刊誌のコラム。引き受けたときから最初のお題は決めていたんです。ここにも書いた『前向きの予防』・・・ところが、その後に大震災がありました。正直なところ、今のこの時期に『予防医学』とか『生活療法』とかそんなことに意味はあるのか?という思いがアタマの中を占めていきます。生きるか死ぬかの局面で、なんとか手に入ったものを食べるしかない。ダイエットとか運動療法とか重要とは思えずどうでもいい。そんな時期に予防を話題に出してもしょうがないのではないか。

それでは、震災時期のメンタルケアや避難のストレス、罪悪感や絶望感を話題にするのはどうか。これもちょっと考えたけれど、この季刊誌は夏号ですから、読まれるのは7月末か8月です。そんな話題をそこまで引っ張るのはやりすぎで返って引かれてしまうのではないか、と懸念。

さてどうしたものか。〆切は6月3日でございます(こんなこと書いている暇があったら、早く書け!てか)。

| | コメント (0)

リバウンド復旧

先週の金曜日の夜でした。メリメリメリっと音を立てて私の体の中で何かが起き上がりました。今考えると、あれが復活の狼煙だったに違いないと思います。

震災に遭った後にみるみる体重が減って以降、何を食ってもほとんど戻りませんでした。元々、『腹を空かせた挙句にそれでも食えなかったらしょうがないから使うためのエネルギーの在庫が内臓脂肪や脂肪肝なんだから、天変地異でも遭わない限り本領発揮できません』とか豪語していた私。震災直後は尋常じゃない気の張りようで交感神経バリバリだったから特に腹も減らず、食事療法や運動療法なんて考える必要もなかった(というかそんな余裕もなかった)のですが、徐々に落ち着いてきてからも体重が変わらないだけでなく、何本ビールを飲んでも酔わないのをいいことに買いだめしてあったお菓子の消費に余念なく、あちこちから頂いた陣中見舞いの品も片っ端から片付けて、凸凹の道を理由に散歩は最低限、『疲れているのだから』と言い訳してゴロゴロ。

それでも腹は引っ込んだままだし腕時計はゆるゆるだし、ちょっとだけ腰回りが緩くなったくらいで維持されていたので、油断してました。戦闘モードだった交感神経が平常モードにギアダウンしたという事でしょうか。それとも飢餓の1ヶ月間の分析が済んで今後似たような飢餓トラブルが起きても大丈夫なように、蓄積能力をギアアップしたという事でしょうか。学習能力の長けたわたしのカラダをたぶらかすのは、今まで以上に至難の技になった気がします。とりあえず、すべての日常生活を前の状態に・・・『無駄に動け、無駄に食うな、いい睡眠を!』~云うは易し、されど行うは難し~難行でございます。

| | コメント (0)

セルフケア

先日のセミナー『被災した職員へのメンタルケア対応-初期対応-』の仁木先生のスライドから『今の状況を乗りきりやすくするために』というのを転記しておきます(「Copyrightニキハーティーホスピタル」と書いてあるけど、「コピーしてみんなに見せてください」と云っていたから、いいんじゃないかなと勝手に解釈して)。当たり前のことなのに、読みながら不覚にも自ら涙してしまったわたしは、まだまだ”渦中の人”なのでしょうか。

①あなたは、一人ではありません。
②自分のペースでお話をしましょう。
③自分のペースで動きましょう。
④必要な睡眠と休憩をとりましょう。
⑤こころと体をつなぎながら、自分のペースでゆったりとセルフケアしましょう。
⑥回復の早さは人それぞれです。
⑦少し先に小さな楽しいことを置きましょう。
⑧今、周りを見て”いいな”と思うものを見ましょう。
⑨周りの人を”ほめて”ください。
⑩”つながり”を意識してください。
⑪あなたはもう、経験を生かして対処できます。

⑧⑨について、「周りを見る余裕を持ちましょう。脳は名詞を認識できません。周りを見回して周りの人を褒めると自分が褒められた感覚になれます」という仁木先生のことばが好きでした。そして、⑪「今度の大震災を経験するまではみんな未経験でしたが、もう経験者になりましたから、今度同じことがあってもちゃんと対処できます。自信を持ってください」ということばを聞きながら、「たしかにそうだな」と思った次第です。

| | コメント (0)

固まる

よくぞ無事だった、とつくづく思います。今回の震災でわたしたち夫婦が起こした反応は2人とも『固まる』でした。妻は一度起きかけて再びベッドに大の字に横になりましたし、わたしは地面を這いつくばる揺れの中でどうしたものかと途方にくれ、2人がワンと義母を連れて家から出たのは周りの家の人たちが布団や毛布を抱えてゾンビのようにぞろぞろ出てきた後でした。自宅の前の広場に立ち尽くしながら、「停電でシャッターが開かんから車を出せん。車がダメだから遠くには逃げられん」と開き直るのは早かった。「しょうがないわ、なるようになるわ」と、不思議なくらい落ち着いていました。

もっとも、周りの人たちが広場に車を出してきて車中泊を始める中、何もすべがなく佇んでいただけのわたしたちでしたから、友人が『自分は近くの事務所に逃げてきたから、そこまで歩いておいで』『仕事の車があるからそれの中で寝たらいい』と電話で指示してくれなかったら、寒い中、きっと朝まであの場に佇んでいたでしょう。その後も続く大余震の中、『こんなところにいてもラチがあかない。今からみんなで北に逃げるよ!』と行動に移してくれたのも彼女。

生命を守るための反応の1つ『固まる』は、熊に遭遇した時の対処法だし、虫が死んだふりするのと同じです。でも、考えることを拒絶してしまったから、次がない。今、こころからその友人に感謝しています。彼女の『過覚醒』と『逃走』の反応がわたしたちを救ってくれたのだと。「彼女は救世主であり命の恩人だな」と、先日も日々ひび割れがひどくなっていく道路の脇を散歩しながら、夫婦でそう話したところです。まあ、結局はご縁。そうやっていろいろなことが起きる中で生きていけるのは、お互いがお互いで関わりあっているからなのだろうことはよく分かっているのだけれど、わたしは周りに何をしてあげたのだろう?と悩みだすとキリがない。

| | コメント (0)

くまモン

「幸い、私たちには『くまモン』がいます。くまモンが私たちを救ってくれます」
仁木先生がそう云ったとき、不覚にもわたしの目から涙があふれでてきました。そうなんです。私たちにはくまモンがいるんです。

震災の直後、くまモンは意図的に活動を休止しました。「今はそんな時期じゃないと判断したから」と県の関係者が語りました。私も正直そう思いました。「今、◯◯だモン!とか云われても、ちょっと・・・」という感じ。それでも、その後徐々に世間がくまモンを求め始めました。『くまモン頑張れ絵』はその最たるものかもしれません。そして、満を持してくまモンが活動を再開したとき、子どもたちも大人もみんなが弾けました。笑顔が溢れました。そうなんです。くまモンの力は絶大なのです。県外の人には本当の力がわからないかもしれません。やりたい放題やっている感のくまモンですし、「もうくまモンの時代じゃない」と云いたがる人がいますが、くまモンは存在そのものがくまモンなのです。

思えば、くまモンは東日本大震災の翌日にそっと生まれました。予定されていたことではないけれど、くまモンは生まれたときから癒しの使命を帯びました。もしかしたら彼は、あんなやつですけど、実はキリスト様のような仏様のような救世主なのかもしれないと思います。最近、復興の現場で再びたくさんくまモンの絵を見かけるようになりました。『がんばるモン♪』の姿を見ると、なぜか元気が湧き出てきます。

| | コメント (0)

ブレインジムとTFT

先日、急きょ開かれた『被災した職員へのメンタルケア対応-初期対応-』というセミナーを受講してきました。日本EMDR学会理事の仁木啓介先生と日本TFT協会理事長の森川綾女先生のレクチャー。各々1時間ずつ、合計2時間のセミナーはとても有意義な時間でした。

災害時のココロとカラダの反応は4つ。それは誰にでも起こる”生命を守るため”の反応であることをまず仁木先生に教わりました。戦うための<過覚醒>あるいは過活動、逃走するための<回避・感覚麻痺>、それらができずに固まる<解離>、そしてイヤなことを思い出す<再体験>・・・県外に逃げようとした時、自分で希望して墓参りしたのにその行為自体をまったく記憶していない義母、あるいは足の小指を骨折したにもかかわらず何事もなかったように歩いて逃げた義母の行為がこの<解離>という反応だったことを理解しました。

森川先生のTFT(思考場療法)というのは、エネルギー心理学のひとつで、特定の思考や記憶について考える時に起きる不快感に対して、ツボを指でタッピングするとその不快感が改善されていくという心理療法のことで、特に今回は震災後のストレスや不安を取り除くための作法を教わりました。

ここで内容を書きしたためることはできませんが、仁木先生と基本エクササイズPACEを実践練習した『ブレインジム』と森川先生と何度も実際に練習した『TFT(思考場療法)』・・・いまだに余震の不安で夜が眠れない義母に早速教えました。30分ほど熱心に実践していたようですが、翌朝「昨日は一度も目覚めることなく朝まで熟睡できたよ」と嬉しそうに起きてきました。よりにもよってちょっと強い地震が3回もあった夜なのに・・・効果絶大。自分でも、こっそりやってみようと思いました。

| | コメント (0)

普遍性と特殊性(後)

(つづき)

ところが、先日ある自動車部品製造メーカーの特集番組をテレビで見ていたら、そこの製造機械はとても繊細な動きをするのですが、その繊細で正確でソフトな身のこなしはすべて優秀な職人さんの動きを忠実に模して作成されているのだと聞いて、驚きました。一番効率の良い動きというのは、今までのような『機械的な』動きではなくて、経験のある熟練した職人の動きだという結論に達したという。『経験のある熟練した職人』の存在が加速度的になくなって行く現代社会において、個の技術と経験を積み重ねるよりも、匠の世界をプログラミングする方が現実的で確実に後世に引き継げる術(すべ)なのかもしれません。その時、そこに存在するものはデジタルなのかアナログなのか(もちろん正式にはデジタルなのだけれど)、自分はそれでもヒトとしての存在を強調すべきと主張し続けられるか、ちょっと自信がなくなってきました。AI(人工知能)やロボット手術(ロボット手術は厳密にはヒトの技術の遠隔操作ですが)がどんどん発達していく現代社会の中、むかしの概念にしがみついていると時代遅れになってしまうのかも・・・。

でも、このやり方では、結局過去の成功確率を上回ることができません。匠が匠でありうるのは、自分で試行錯誤しながら創意工夫して新しい自分を作り上げたからです。100%の完成品には100%の魅力しかありませんが、匠たちは100%以上のモノを常に作り出そうとしてのた打ち回っています。進化や発展というのは、そういうことだと信じます。それは、「AIが鉄腕アトムになりうるかどうか」というはなしではありません。AIは失敗体験を蓄積しながら失敗しないように学習する力はありますが、失敗や成功という概念以上の世界に昇華する力を持ち得るのか、というはなしです。

| | コメント (0)

普遍性と特殊性(前)

酒飲みの間では有名なプレミア日本酒の酒蔵が岩国の山中にあります。1年ほど前にカーラジオを聞いていたらその酒蔵の社長さんのインタビュー番組がありました。実はこのお酒、ちょっと他のプレミア日本酒と違うところがあります。普通、お酒は酒蔵に腕のいい杜氏(とうじ)が居て杜氏の職人としてのさじ加減でできあがる芸術品なわけですが、この会社の酒はその配合の仕方や細かい作り方まできちんとマニュアル化されているのです。「誰が作っても同じ高品質の酒ができるように」というコンセプト。それによって、世界中どこでも同じおいしい酒が製造できる、というのです。

それはそれでいいことだとはわかっていますが、本当にそれでいいの?という気持ちもどこか払拭できません。職人のさじ加減で1つ1つに微妙な違いがあることも含めて、それはそれでアナログ的魅力の大事なポイントなのではないか、という思い。典型的に理系な発想についていけない文系アタマなわたしなのです。

それはわたしたちの仕事でも云えます。担当する医者によって説明内容が変わるのは良くない、医者によって治療方針が変わるのはおかしい。だからガイドラインを作成しパスに乗っかって標準化するのがよろしい、と云う。よくわかるし、その方が同レベルのサービス提供ができて受ける側のメリットも大きいと思うのだけれど、それでも最後は担当医師のさじ加減になる。同じことを云うにしても、云い方次第で全く違う結末になるのが現実。そんなことにならないようにすべて正確に同じこと云う(同じことしか云わない)機械の方が間違いないと云う意見もありましょう。それが良いか悪いかの議論はありましょうが、その会話が機械相手か人間相手かという違いになると、そこには大きな隔たりがあります。少なくともわたしは、相手がヒトである以上、多少の色つけの違いがあってもヒトとしての会話が不可欠だという考え方を変えることはできません。 (つづく)

 

| | コメント (2)

選択肢

大地震の影響で使えなくなっていた職場のフィットネスジムがやっと復旧しました。「先生、ご迷惑をおかけしましたが来週からまた存分に使ってください」と担当スタッフに云われてすっかりその気になっていたのですが、当日になったら何となく面倒くさくなって、なにもせずに帰ってしまいました。別にだからどうというわけでもないのですが、何か自分に負けた気分。

「運動はしたいけどジムが使えないからしょうがない」と思っていた時には他の方法で身体を動かすことを考えましたから、別に早く帰ることに悩むこともなかった。ところが、「したい時にはいつでもできます」となると、するかしないかの二者択一の選択肢が生じてしまって、さて困った。やらずに帰ることに自分なりの言い訳が必要になる。「今日はいつもより仕事量が多かったから疲れた」とか「昨日の運動で筋肉痛が出たから今日はクールダウンすべき日」とか。そんな、本当は思ってもいない言い訳を考えている自分が何かイヤ。

選択権が自分にある。いいことだけど、これを面倒くさいと感じる時には自分自身があまりありがたくない状態だと思わねばなりますまい。こういうときは、選択しないことだ。「悩むことなく、必ず行く」か「行くことを考えずにさっさと帰る」か、どっちかに徹底する。そうやって行動を決めてしまえば、全然平然としていられるはずだから。

フィットネスジムを引き合いに出しながら、今、自分の生き方への選択肢を考えるわたしであります。

| | コメント (0)

デマ

再び大地震が襲うぞ!という予言に怯え慄いた某月某日は無事に過ぎました。「そんなくだらないデマなんか信用するな」「いや、これはノストラダムスの大予言より信憑性がある」・・・巷の老若男女を巻き込んで大騒動。大事がなくてとりあえず良かった。この話題に対して、気象庁がわざわざ「そんな正確な予測ができる技術はまだない」と発表(いやいや相手は”未来人”だから予測ではなくて過去の歴史だぞとツッコむわたし)したり、「なりすましのイタズラで投稿したようだ」と云われたり。いちいち理屈で対抗したい気持ちはわかるけれど、激しい地響きとともに地面に這いつくばって逃げ惑う地獄絵図のような経験を何度もしたわたしたちには、それがデマであろうとなかろうと関係ない。とにかくその日が無事に過ぎ去ることが大事でした。それがガセネタだったからといって、ちっとも怒りはありません。むしろ、このXデーに対してもう一度あの大地震が来ても対応できるように各人がココロの準備をしたに違いなく、それは未だに余震の続く中、ココロを引き締める意味ではむしろありがたい騒動でした。

それよりも、どことかの有名な地震学者さんたちが嬉しそうな顔をして「初めて活断層を画像で捉えた!」とか「新しい活断層を2つも見つけ出した」とか騒いでいる姿の方がはるかに頭にきます。まるで新しい惑星を発見したのと同じトーンで話しているけれど、それは今発表しなければならないことなのか?「ほら、ここです、ここです!」って指さされた壁の家の持ち主にちゃんと許可得て云ってるのか? そんな発表で土地の資産価値をゼロに引き下げた責任をどう取ってくれる?という下世話な怒りもさることながら、「ここに住む限り一生、いつでも大地震に遭遇する可能性があります」という無責任な発表は、つまり一生もののデマと同じことです。こっちはココロの準備もカラダの準備もしようがない。

どちらも自分が被災した当事者じゃないから平気で云えることなのだろうけれど、被災者の目から見たら、”未来人”より”地震学者”の方がはるかにタチが悪いと思いました。

| | コメント (0)

最近の自分

最近の医局。一生懸命、机上のパソコンに向かって論文書きに精を出すA先生。今の局面を打開するために新しい仕組みを作り出そうと精鋭のスタッフとともに頭を抱えているB先生。次週の勤務スケジュール作りをしているC先生。迫り来る学会のためにスライド作りを始めたD先生。なんか、みんなとっても忙しそうです。

それにひきかえ、特にすることもなく昼休みにはスマホをいじり、終業時刻になったらさっさとタイムカードを切り、早々に帰ってワンの散歩をしたら晩酌、夕飯、お風呂、そして就寝。そんな普通のサラリーマンぽい人生を最近の基本にしているわたしって、これで良いのかしら?やらなければならないこと・・・ありますよ。ありますけど、まだ〆切までには余裕があるし、勉強したいとココロを沸き立たせる話題が特にないし、当面出なければならない会議もないし、老眼になったからあまり本を読みたい気分にもならない。考えること自体が面倒くさい。

こんなんじゃダメじゃないか? 堕落してきてないか? 無駄に生きてないか? 自問してみてはいるのだけれど、自分の出す答えはいつもノー。他人のがんばる姿を眺めながらも焦る気持ちも羨ましがる気持ちもほとんど湧いてこないなんて、甘ちゃんになったもんだ。とか思っていると、「大丈夫だよ、自分。お前はお前なりに毎日がんばっているよ。今は余裕かましていても大丈夫。また何かしたくなる時が必ず来るから、それまでは今のままでいいよ」と別の自分がたっぷり甘やかしエールを送ってくれるわけです。

わたし、またなんか脱皮して変な生き物に変わってきよるごたん。

| | コメント (0)

全勝優勝

「一回だけ負けてしまって土がついたお相撲さんは、どんなことしたら全勝優勝できるようになるの?」

子どもの頃、相撲放送を見ながらわたしは父にそんな質問をしたことがあります。父は苦笑いしながら、「一回負けたらもう全勝優勝はできんわな」と答えてくれたのを覚えていますが、その回答にいまひとつ納得できなかったわたし。だって、たった一回過ちを犯しただけなのにもうそれですべてが否定されるなんて、あまりにかわいそうじゃありませんか。何か名誉挽回のチャンスを与えてもらえないと辛すぎる。当時どうしてそんなことを思ったのか忘れましたが、最近の大相撲やら世間の事件の色々やらを眺めていて、ふっとそんなことを思い出しました。

なんか子どもの頃から変な感性だったんだな、わたし。ま、この出来事でわたしは「全勝優勝は一回負けたら絶対にできない」という理不尽な(?)摂理を小さな頃から知識として持つことができました(笑)

| | コメント (0)

不信

実は先日、ある保険組合を解約することになりました。

組合員全員に書類確認をしなければならない事態が起き、1、2ヶ月前から何度もメールが送られてきていました。まあ、詳細を書いていない唐突なメールなので放置していましたが、そこに今回の熊本大震災。〆切が迫る中、メールの最後に「※熊本地震の被災地域にお住まいの方は、特例措置といたしまして、〇月〇日で組合員資格を失うことはございません」という一文が加えられたのですが、その後もしつこく送られてくるメールの最後の文が一向に変わりません。「今は九州の一部の人間のことに気を遣っている余裕はない」と云わんばかりの形式的な付け足し文に我慢できなかったわたしは「機械的な付け足しではなくて、熊本はどうしろというのかきちんと書け!」と返信。そうしたら、翌日には担当者からわたしだけに宛てて長文の詳細メールが送られてきました。きちんと答えられるのに問い合わせるまでなぜ書かない? 一気にこの組織への不信感が湧いてきて払拭できなくなってしまったのです。

こういうことって世の中では珍しいことではありません。うちの組織でも同じようなことをしているかもしれませんが、「問い合わせさえすれば答えてやるけど一々書いていたらキリがない」という上から目線の仕打ちを受けたみじめな感覚は当事者になってみて初めてわかりました・・・「お手数ですが、該当する方は下記アドレスにお問い合わせください。詳細をご連絡します」という一文さえ加わればすんだことなのに・・・。

だいたい想像はつくのです。解約を申し出たとして、「ま、しょうがないよ。そんな細かいヒトは世の中にはいるものだ。そんな変人は辞めてもらって結構」と書類の向こう側で笑っているのですよ。ちょっとアタマにはきますけど、諦めることにしました。どんなに有利でメリットの多い条件だとしてもその組織に不信感が生じてしまったら、そこに関わることの意義をまったく感じなくなる。わたしは、そんな人間なのでございます。

| | コメント (0)

これから

二度の大地震から一ヶ月が経ちました。まがりなりにも健診業務が再開され、本来の6、7割の数ではありますが、人間ドック受診者の方々が帰ってきました。

総じて健診データに影響はありませんが、避難生活が続く中でまとにモノが食べられなくてやせてしまったがために生活習慣病がかえって正常化した人や、避難所で毎日規則正しい生活リズムと朝昼晩きちんと出してもらえる食事のために思いの外良いデータばかりになった人がいる反面、脱水や過労によると思われる腎機能低下や多血症、筋肉疲労や薬剤の影響と思われる肝機能の著しい低下をきたした人たちも少なくありません。

結局、この大変な時期に人間ドックを受診してくれる心がけに感謝しながらも、正式な病態はもうちょっと生活が落ち着いてからでないと何とも分からないというのが正直なところです。今回の大震災を経験した人の皆が皆、飢餓状態と極度の過ストレス状態にありましたから、本当の勝負はこれからです。まだまだ震度6弱以上の余震が2ヶ月はあるかもしれないと予想されてはいますが、カラダ自体は明らかに慣れてきました。一瞬パニクッたカラダはしっかり反省しています。二度とこんな慌て方はすまいと誓っているはずです。これからの体調に十分注意しながら、異常値が認められた人は夏の頃に今一度内科外来で採血検査をしてもらうことをお勧めします。一時的なモノならすぐに元に戻りますが、かえって進行性に悪化する人も出てくるかもしれないことを懸念しております。

| | コメント (0)

1ヶ月

明るい話題がほしい
楽しい話題がほしい

そんな目で日常を眺めるようにしたいと思ってブログを始めたのが2007年の暮れ。その気になったら、そんな話題の1つくらいは簡単に見つけ出せるはずだから、何とか意識して探そう!とがんばっていました。でも、日頃が安穏としていると忙しい毎日の中ではなかなか大それた幸せは見つけられないもので、徐々にその気持ちも薄れ、むしろよほど気持ちのタガを締めておかないとすぐにグチや批判ばかり思い浮かんでしまいます。

ところが、先般の大震災以来、あちこちに幸せが転がっていることに気づくようになりました。大地が揺らぎ、目の前で大きく軋む我が家の瓦が音を立てて弾き飛ばされた時、正直、家は崩れ落ちると思いました。少なくとも五体満足な形では残らないだろうと。でも、壁にヒビは入ったものの我が家は何とか持ち堪えてくれました。日本中の支援のおかげでライフラインも復旧し、今では曲がりなりにも普通に暮らせています。家族も皆無事で今を迎えられています。幸せなことです。昔通りにランナーたちが行き交うようになった近くの公園では、液状化と地割れの凸凹道路の中に気づけばあたり一面をシロツメグサが覆い尽くしていました。全くいなくなっていた湖面に鳥たちが少しずつ戻ってきました。日常が取り戻され始めている幸せを噛み締めています。

どうしたことでしょう。どんどん進んでいっていた私の腕時計の時刻が急に正確になりました。そういえば、職場のピッチの時刻はずっと5分も早かったのに、いつの間にか正確な時刻に変わりました。不思議です。

我が家のほんのちょっと東側に行けば、修羅場のような別世界が1ヶ月前とほとんど変わらない状態で残されています。そんな中で、明るい話題、楽しい話題ということ自体が不謹慎かもしれませんが、逆に余裕が出てきた者たちから少しでも明るい話題を取り戻していくことが大事なのではないかと思うようになった今日この頃です。とにかく、今日を迎えられている幸せにただただ感謝しております。

| | コメント (0)

トマト

トマトが中性脂肪やコレステロールを低下

被災の後から何かにつけお世話になっている知人夫婦が、朝摘みトマト(プチトマト)をコンテナいっぱいに入れて持ってきてくれました。出荷用ではない安全な家庭用トマトだからいろいろな種類が混在していて赤から緑まで色とりどりですが、それがどれも本当においしい。大量すぎて毎食ごとに大量のトマトが並びますが、数日経っても褪せることなくいつまでもおいしさが消えないのが不思議です。

「ある医療サイトが医師を対象に行ったアンケート調査によると、医師が『健康のため積極的に食べている食品』の1位はトマト、2位はヨーグルト、3位は納豆だった」とありますけど、『健康のために』食べているということは、「食わんでいいなら無理しては食わん(そりゃ、油こってりの肉の方がいいよ)」と云いたいわけでしょうか。そればかり食ってたら飽きる、という理屈は分からないでもないけれど、この記事のように”いかに健康に良いか”を力説し、料理のバリエーションを書き並べたりしなくても、新鮮なトマトなら毎回そのままで食い続けても飽きることないし全然気にならないんだがなあ、とたまたま今回は実体験いたしましたので、ご報告した次第です。

| | コメント (0)

どうして、今頃?

特定健診の基準を見直し 「腹囲が基準未満」でも心血管疾患リスクが2倍に

厚生労働省研究班の発表によると、「メタボリックシンドロームに着目した特定健診で腹囲が基準(男性85cm、女性90cm)に満たなくても、高血糖や高血圧、脂質異常などの危険因子が1つでもあると、脳卒中や心筋梗塞の発症リスクが約2倍になる」という。

こんな当たり前のことを今更になって発表してアタフタしていること自体が理解できません。「内臓脂肪蓄積型の生活習慣病(メタボリックシンドローム)では、積極的に内臓脂肪を減らす努力をしていけば病気そのものが改善する可能性がある。内臓脂肪蓄積が目立たない生活習慣病はより重症な病態だから、生活療法も重要だけどいつまでも生活療法にしがみつかずに早々に薬剤管理を受けた方が良策だ」という切り分けでメタボ健診が始まったんじゃないのですか。少なくともわたしは、従事するスタッフにも受診者や住民の方にもそういう風に説明してきました。

メタボ健診でひっかかる人は総じて軽症、引っかからない人の中に重症の人が隠れているというのと、明らかに内臓脂肪が蓄積しているのに腹回り基準では引っかからないいわゆる”捨てられる人”がいる、というのとは別物ですから、混同してはなりません。

| | コメント (0)

なんか知らんが大変だ。

震災後のゴタゴタで仕事場のメールをほったらかしていましたので、まとめてさらっと流し読み。たくさん届いている健康情報の論文の数々・・・総じて、今の我が身にはどうでもいいや、と思うものばかりなのですが・・・ネタもないのでいくつかつまみ食いしてみます。

リノール酸はヘルシーとは言えない?/BMJ
”リノール酸を多く含む食事は飽和脂肪酸を多く含む食事と比較して、血清コレステロール値を低下させるが、その低下が大きすぎるとむしろ死亡リスクは高まり、これまで飽和脂肪酸を植物性脂肪に置き換える効果が過大評価されてきた可能性がある”という米国立衛生研究所の報告らしいのですがね、一体、どんな食事を重ねるとそんなに血清コレステロール値を下げ過ぎることができるの?とそっちの方が気になります。この結果を踏まえて、植物性脂肪を止めて動物性脂肪を積極的に摂りましょう!という運動になるとも思えませんし。『”カラダに良い”モノばかり摂るのはただの”偏食”』・・・わたしが10年以上云い続けている真理を実証しているだけのような気がしますが、どうでしょう。

これからの季節、安全に庭仕事をするコツ
困った時代ですよね。庭でガーデニングするのは決死の覚悟がいる時代だそうです。日焼け、汚染物質、害虫、熱中症に加えて園芸機械への注意まで、まあ昔が無防備すぎたとは云えますけど、こういう注意もきちんとしておかないといけない時代なんですね。

くわばらくわばら。

 

 

| | コメント (0)

得と損

今回のゴールデンウィークは被災後の個人的な生活の立て直しのためにすべてを費やしました。遊ぶことも、勉強することも、ヒトのためになることも、ほとんどできませんでしたし、いまだに揺れる日々の中で生活しています。

そんな中、いろいろなことを毎日やっていきながら思ったことがあります。自分の人生の中で「損をした」と感じたことがどれほどあっただろうか?ということです。「得をした」と思うことはたくさんあります。今回の震災でも、仲間や仲間の友人などの力添えを得て、とても幸せな1ヶ月間を過ごせましたし、半世紀以上が過ぎたわたしの人生のほとんどがラッキーな順風満帆な日々でした。理不尽な仕打ちに怒りで思わずブチ切れることもありましたし、ずっと引き摺るような悲しい別れもたくさん経験しましたが、「損をした」と感じたことを今、思い出すことができません。

それでは、「勝ったな」と感じた経験はどうか。実はこれもあまり浮かんできません。「勝ち」とか「負け」とかに縁のない人生だったからといえばそうなのかもしれませんし、血気盛んな若いころのことをすっかり忘れているのかもしれませんが・・・「負けたな」と思うことは数多ありましたが「勝った」と感じたことが思い出せないのです。

こんなことだから出世しないのだろうな、と今さらながらに苦笑いしているアラカンおやじの最近なのでございます。

| | コメント (0)

小休止

みなさま、ゴールデンウイークはいかがお過ごしだったでしょうか。

わたくしごとですが、ちょっと今日はブログお休みします。

とりあえず、今日は・・・。

いや、ちょっと疲れちゃって、何も書けないまま、

仕事再開の朝を迎えてしまいました(笑)

| | コメント (2)

これから(後)

(つづき)

「しょうがないさ」「命あってのモノダネさ」の時期から、次のステップに進まなければならない時期がきました。これまでの3週間は、皆が同じ時計の同じ速さの進み方の元で同じ方向に共有するものがありましたから、何をしていてもさほどの差は生じませんでした。でもこれからは違います。人生のベクトルが何方向にも広がっていく。うちのように幸いそのままほぼ社会復帰できそうな者と何もかも失ってしまった者との不公平感がじわじわと現れ始める。それに見合った詳細な差をつけた手助けが行政でできるものでもない上に、自ら動くか動かないか、どれだけの情報を得るか得ないか、その情報に目を向けることができるかできないか、その情報は本物か偽物か・・・それによって、大きく変わっていくのだけれど、何しろ未経験のことばかり・・・おそらく被災者の多くが何もできずにいるのだと思います。

自治体同士でも、お隣同士でも、各々の不公平感が焦りを生み、焦りは妬みを生み、「みんな同じだから」「自分だけじゃないから」と云うコトバに白々しさまで漂い始める。これまでの多くの震災でもそうですが、コミュニティが大きければ大きいほど隅々まで行き届かないことへの不満が溢れだそうとしています。被災時はどうでもいいと思って捨てようとしたもの、思い出よりも、高価だったとか他人のものだとか、そんなものに妙に執着が生まれてきます。物欲が生じるようになることはいいことなのかもしれないけれど、その分、虚しさも増長されてきます。

テレビ報道では「どの経費に何十万円、どの補助に何万円が交付されます」としきりに云っています。でも、当然のことながら自己申告をして自ら手続きに出向かなければ何ももらえない。「詳細は市のホームページで」と云われても・・・。

いよいよ、これからが本当の修羅場なのでしょうね。

| | コメント (0)

これから(前)

「少しずつ前に向かって動き始めています」・・・ご遠方から心配してくださる皆さんにはそうお答えしています。個人的には、(前か後ろかは定かではないけれど)とりあえず何かが変わっている感覚がありますから。

でも、社会はどうかというと、冷静にゴールデンウイークが始まる前と比べても、何が変わったかあまりよくわかりません。我が家のガスを復旧させてくれた大量の大阪ガスの車は姿を消し、ライフラインの普及はかなり進んだと聞きますが、ガス屋の車両もゴミ処理の車両も電気屋の車両も「災害救援車」表示の県外ナンバーが今でもたくさん走っています。路地路地に積まれた災害ゴミはきれいに持って行っても翌日には元のレベルまで増えます。小中学校再開を第一優先にして避難所はまとめられつつありますが、車中泊やテント生活の皆さんの数に大きな変化はありません。もちろん、TVに映る被災地の映像は3週間たっても大して変わりなく、余震の数や程度も変わりなし。遊園地のアトラクション並みに波打っている道路は相変わらずですが、ドライバーが要領を得てきたので大した渋滞にはならなくなりました。そうです。変わったのは、皆がそんな風景に慣れてきていることだけかもしれません。各家に貼られた応急危険度判定の緑紙・黄紙・赤紙が雨風ではがれそうになっているのを眺めながら、それなりの日数が経ったことを実感しています。

3週間前の惨事は夜中だっただけに夢の中の出来事のような錯覚に囚われることすらあります。ただこれは現実です。すべてを捨てて命からがら逃げだしたときから、3週間が経ちました。  (つづく)

| | コメント (0)

社会復帰に向けて

もう長いことまともに働いていません。定年退職後みたいな日々。そう云いながら一日中動き回り忙しい日々です。ただ、ふと気付いたら私の生活リズムが震災前と全く違っています。朝6時に起床するのは変わりません(半分は目覚まし代わりの地震のせいだったり、深刻な首の痛みのせいだったりします)が、その後に必ず食べさせられる朝食(『健康のために朝飯は食わない』がわたしのポリシーだったのに)、毎食食べさせられるコメ飯、そして夜更かし。せっかく『早寝習慣による十分な睡眠時間』が定着しつつあったのに、疲れがたまってついつい痛飲→うたた寝・・・昔の生活に逆戻りしてしまいました。

そろそろ気持ちを切り替えなければなりますまい。特殊な状況だからと自分に言い訳するほど、わたしを取り巻く環境は悪くありません。生活リズムの矯正は意識しないと意外に大変であることを承知しております。社会復帰に向けて、とりあえず飲みすぎないようにして睡眠時間を確保しましょう。第一、本当にもう強い地震が起きないか定かではありません(地震学者たちも予想を放棄している状況です)。勝手に油断してきていますが、夜中に緊急避難しなければならない可能性はまだそう低くはないのですから。

| | コメント (0)

生活リズム

被災後、元の家に住めなくなった義母が我が家の近くの貸家に引っ越すことになりました。まだ畳替えやら荷物の移動やらが終わっていないので、今は我が家に同居しています。

そんな義母と娘と娘婿とワンの新生活。わたしはあまり気にしていないのだけれど、母娘が互いに気を遣いすぎて疲弊しています。それは単なる親子喧嘩ともちと違う。年老いた母のためにできる限りのことをしてあげたいと一日中奔走する娘。「荒神様にはいつ行くの」と云う母に「そんなのもっとずっと先よ」「そんなこと云ってわたしの手が動かなくなったらどうするの?」「まだしなきゃいけない手続きが山ほどあるのよ。仕事だってあるんだから!お母さんが自分でするんなら良いけど何もできないでしょ!」徐々に苛立ちを隠せなくなる娘。疲れてソファに座り込む娘に「旦那にちゃんと夕飯の準備してあげんね」と叱る母親。ほとんど一触即発の空気をほぐすだけの甲斐性がわたしにはないけれど、一応その場に第三者がいることに気づいて我に帰る二人。

ずっと一人暮らししてきた義母とずっと離れて夫と二人暮らししてきた娘。母と一人娘がお互いにお互いを想いながらもプライドもあり、婿さん(わたし)への気遣いもあり、そしてまだ余震の続く震災の環境でのストレスも続く。こんなとき重要なことは、自分の生きてきた生活リズムを変えないように意識することだと思います。お義母さん、たとえわたしが一人早起きしていても、朝から洗濯ものを干していても、飯が出るまで何も云わず待っていても、これは我が家の生活リズムだから気にしないでください。娘に甘えたいときにはわたしを気にせず甘えてください。あなたの娘は口は悪いけれど、いつもたった一人の肉親のことを心配しているのです。そしてわたしが早起きしても無理して起きてこないでください。いつもの起床時刻はずっと後でしょ? ちょっと休みの間にしておきたい仕事があるのですが、今はこの時間しかできないのですよ。

| | コメント (2)

大腸がんとアスピリン

大変不勉強で、アスピリンが大腸がん予防に有効だということをわたしは初めて知りましたが、もはや世間では周知の事実だという。その機序がよくわからないのだけれど、炎症を抑えることが成果をもたらすと思ったらいいのでしょうか。<アスピリンにより大腸がんの前駆病変であるポリープ(腺腫)の再発リスクが約40%減少(非喫煙者では60%以上減少)>という国立がん研究センターのデータはわかるとして、もともと何もないところにがんが生じなくなる効果がアスピリンにある(何もない人の一次予防効果)という外国のデータが、どれくらい一人歩きするのかにちょっと興味があります。

サプリは飲むけど薬なんか飲まない!という人が、サプリ代わりにアスピリンを予防的に服用するようになるのかどうか。それも長期間服用するほど良いそうですが、5年飲んでおけばあとは大丈夫というはなしではないので、胃腸障害やアスピリン喘息を起こさない限りずっと飲み続けるのでしょうか。不思議と、薬の漫然とした服用は抵抗があるけど健康のために飲むサプリは一生飲んでも全然抵抗はない、というひとは多いようなのですが。

| | コメント (0)

診察中に想うこと

人間ドックの内科診察を何十人も粛々とこなす日常。聴診器で五感を澄ませながら心音や肺音を聞き取っていきますが、アタマの中はまったく違うところに飛んでいることがあります。

今日は夕方に憂うつな会議があるなあ、面倒くさいなあ
今日は午後の説明が少ないから、早く帰れるといいなあ
あの書類はいつまでに提出だったっけ
そろそろ山の草刈りに行かなければならない季節になってきたが、今週末は雨なのかしら
あの先生怒っていたけどもう機嫌直ったかな
今週中にあの仕事は仕上げておきたいな

実に不謹慎ですが、わたしはときどきこんなことを考えています。いつもいつもではありませんし、もちろん聴診で変な音が聞こえると途端に我に帰るのですが。いつからこうなったのでしょう。壮年以上の男性の胸の音を聴いているとすぐこうなります(笑)これは条件反射。きっと数年前に茫々に伸びた南阿蘇の土地の草を刈らなければいけないなあ、憂うつだなあと思いながらおじさんの聴診をしたときから、同じようなおじさんの胸を見ると、条件反射で思い始めるのです。くどいようですが、ちゃんと真面目に聴診はしていますから、安心してください。むかしは朝のトイレ中や心電図判読中などに考えていたことがらなのですが。

そんな南阿蘇の土地、例年ならこの連休中に最初の草刈りをするのが常。あの土地、どうなっているのでしょう。今はまだ、行くことができませんが・・・お近くの皆さんともども、無事であってほしい。

| | コメント (0)

炭水化物との関わり方

「野菜を先に食べてご飯を最後にという食べる順番も大切かも知れませんが、私は、ゆっくり食べ、楽しみながら食事をすることが最も大切であると思います。」・・・私が登録しているスローカロリー研究会からの記事を読んでいて、東京女子医大の柴崎千絵里先生のこのコトバにビビッときました。

”健康”というキーワードに対して、”糖質”を総じて敵視する風潮がいつの間にか当たり前になっていますが、わたしはずっと気に入らなかったのです。栄養学者でも代謝内科医でもないわたしの単なる実感だけのことなので、「糖質制限すればすべての臨床データが改善する」と理屈をこねられるといかんともしがたく、唇をかみしめておりました。糖質はエネルギー源であるばかりでなく、心身の落ち着きと潤いをもたらす重要栄養素であることは、おそらく人類みな実感としてわかっているはずです。単純に摂りすぎなだけ。そして、砂糖と糖質と炭水化物を栄養素の観点からいっしょくたにしてしまう風潮もいかがなものかと思っておりました。

「甘いものを否定するのではなく、いかに癒しとして上手に甘いものを取り入れてストレスの緩和に繋げられるかが重要ではないか」「本人が納得してゼロカロリーを摂取している患者さんは上手くいきますが、『ゼロカロリーならとってもいいんでしょ』といったスタンスの患者さんは失敗する」「思春期のやせ症で、母親が食にこだわり過ぎた結果、子供は甘いものを食べたことがないという例」「スイーツを『食べてはいけない』と指導するのではなく、『食べるのであればこのタイミング』という指導をしています。何かを頑張った時のご褒美のスイーツよりもこれから何かを頑張るための活力源のスイーツになれば良いですね」「どのような病気でも、多くの患者さんには食べたいという欲求があります。食べ方を否定するよりは、どのようにおいしく、楽しく食べるかを考えていきます」

こんな語録に興味を持たれた方は、是非この機会にスローカロリー研究会のHPから、連載「エネルギー源としての糖質を考える」を読破してみてはいかがでしょうか。

| | コメント (0)

昼休み

何か作業をしていて、昼休みになっても抜け駆けしてひとり昼食をとるのはご法度というところが多い。「まだ仕事をしている人がいるのだから終わるまで待ってあげないと不公平だ」という理屈。そういうの、わたしには良くわかりませんもので、勝手にさっさと食って、またさっさと仕事場に戻ります。仕事を先に済ます方が区切りの良い人もいるでしょうけど、その分だけ後に回す方が都合の良い人もおりましょう。

先日は昼休み返上で仕事をすることになって、前半に休む組と後半に休む組に分けましょうということになりました。後半に休みたいという人が多かったのでわたしは前半組になりましたが、さてでは何十分の休みで交代しましょうかということを話し合っている風。「いいよ、別に。ぼくはすることもないから昼飯食ったらすぐに上がってくるから、そしたら誰か交代しましょ」と軽い気持ちで云ったのですが、どうもそれではいけないらしい。みんなが平等ではないから。わたしはわたしの勝手だし、その分得した人がいたとしても、それ以外の人が損するわけじゃないのだからいいじゃないかと思うのだけれど、そうではないようだ。「そんなことをすると、『あなただけを働かせる訳にいかないから』となって、結局他の人もゆっくり休めなくなるから、不本意でも皆の決め事に従った方が良いよ」とむかし助言されたことをふと思い出しました。

でもねえ、大きな組織の大人数の話ではないのだから、仲間内の数人の話なのだから、もっとなあなあで良いんじゃないのか? 「その話し合っている時間の方がもったいないわ」と思うオヤジなのであります。

| | コメント (0)

« 2016年4月 | トップページ | 2016年6月 »